上田馬之助 (プロレスラー)

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上田 馬之助(うえだ うまのすけ)は、プロレスラーリングネーム。同名を名乗ったプロレスラーは過去に2人存在する。


上田馬之助
上田馬之助の画像
プロフィール
リングネーム 上田馬之助
ミスター・イトー
プロフェッサー・イトー
テング
本名 上田裕司
ニックネーム まだら狼
金狼
身長 190cm
体重 118kg(全盛時)
誕生日 1940年6月20日
死亡日 2011年12月21日(満71歳没)
出身地 愛知県弥富市
スポーツ歴 大相撲
トレーナー 吉原功
大坪清隆
デビュー 1961年4月
引退 1998年4月16日
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上田 馬之助うえだ うまのすけ1940年6月20日 - 2011年12月21日、本名上田 裕司(うえだ ひろし))は、愛知県海部郡(現在の弥富市)出身のプロレスラー大相撲力士。大相撲時代は追手風部屋に所属し海部錦(あまにしき)の四股名で最高位は序二段12枚目。プロレスラーとしては、長年ヒールとして活躍し、頭髪をまだらに金髪に染めた姿は「まだら狼」「金狼」の異名をとった。全盛期は身長190cm、体重118kg。

来歴[編集]

1958年大同工業高校を中退して追手風部屋に入門、1958年5月場所に初土俵を踏み、同年9月には部屋付き親方の間垣親方が分家独立するのに伴って間垣部屋に移る。当時の四股名は上田山(うえだやま)であったが、のちに海部錦に改名した。

1960年、追手風部屋に同期入門した林幸一(のちのミスター林)の誘いで力士を廃業して日本プロレスに入門、1961年4月に名古屋市金山体育館における平井光明戦でプロデビュー。若手時代は実力はありながらも、ほぼ同時期に入門したジャイアント馬場アントニオ猪木の影に隠れ地味な存在だった。だがダブル・リストロックを得意技とし、道場内での関節技スパーリング(上田いわく「極めっこ」)や真剣勝負(同「冷たい試合」 通称「ガチンコ」)には自信があったと本人は語っている。しかし、当時の上田の試合には派手さがなかったため、観客が眠ってしまうことがしばしばあったらしく、そのために眠狂四郎というあだ名をつけられていた。

1966年アメリカに渡り、テネシーテキサスジョージアなどの南部を主戦場に、プロフェッサー・イトーまたはミスター・イトーリングネーム悪役レスラーとして活躍した。1968年12月12日にはアマリロにてシャチ横内と組み、ザ・ファンクスからテキサス西部版のNWA世界タッグ王座を奪取[1]1970年1月23日にはオクラホマ地区でダニー・ホッジを破り、NWA世界ジュニアヘビー級王座を獲得したとされている[2]。1970年3月に帰国したが、ここでも馬場、猪木、坂口征二らの影に隠れ、大きな活躍はできなかった。1971年末の猪木追放騒動では、猪木の計画を日プロ幹部に密告したといわれる(後述)。馬場に次いで坂口も日プロ離脱を表明した直後の1973年3月6日、大木金太郎とのタッグでインターナショナル・タッグ王座を獲得、念願の国内初戴冠を果たしたが、4月18日のフリッツ・フォン・エリック&キラー・カール・クラップとの防衛戦に敗れ王座陥落。その2日後に日プロは崩壊した。

その後、大木らとともに全日本プロレスへ移籍したが(正式には日本テレビとの3年契約の上、全日本プロレスへ派遣されていた)、前座扱いだったため(異説あり)日本テレビとの契約のまま事実上のフリーランスとなる。日本テレビとの契約には日本テレビの許可なく国内他団体への参戦を禁止する条項が含まれていたため新日本プロレス国際プロレスにフリーランスで参戦できず、活路を求め渡米し、南部地区を中心に転戦した。

1976年元日、アメリカから馬場、猪木、ラッシャー木村への挑戦を表明。馬場、猪木は拒否したが、木村は国際プロレス代表である吉原功との協議の上応じたため、同年5月に国際プロレスに参戦した。上田は3人への挑戦時期を1976年4月1日以降としていた。これは、上田の日本テレビとの契約が同年3月31日まで残っていたためである。この時から前髪を金色に染め竹刀を振り回す「まだら狼」へと変身(のちに髪全体を染め、「金髪の狼」「金狼」と呼ばれるようになる)、ヒールとして凶悪ファイトに徹するようになった。木村と金網デスマッチなどで激闘を繰り広げ同年6月11日にはIWA世界ヘビー級王座を獲得したが、同年7月28日の木村との金網デスマッチでの防衛戦が没収試合となり、IWA世界ヘビー級王座を一度も防衛しないままタイトルも没収された。日本マットでは初の本格日本人ヒールとして注目を集めた。

1977年1月に新日本プロレスへ参戦、タイガー・ジェット・シンと凶悪タッグを結成してNWA北米タッグ王座を獲得し、一躍トップヒールとなった。その後、シンとは仲間割れもあったが、長く悪の名コンビとして日本マットを血で染め続けることになる。1978年2月8日には因縁深い猪木と釘板デスマッチを実現(11分2秒 上田のTKO負け)。シンと仲間割れした決着戦では、猪木がレフェリーを務めるも、上田・シンとも猪木を急襲、試合は無効試合になるが、対猪木の共闘戦線としてシンと和解する。同年暮れにはヒロ・マツダマサ斎藤サンダー杉山らフリーの日本人レスラーたちと狼軍団を結成、新日勢と抗争を展開した。斎藤とのコンビでは国際プロレスにも参戦した。その後も主にシンとのコンビで新日本プロレスに参加したが、1979年以降はやや戦績を落とし、坂口との北米ヘビー級王座をめぐる抗争がメインとなった。アメリカでの活動も続け、1980年ロサンゼルス地区でオックス・ベーカー&ジ・エンフォーサーマネージャー役を務めていたこともある[3]

1981年に再び全日本プロレスへ、先に移籍したタイガー・ジェット・シンを追うように参戦した。ここでも馬場&ジャンボ鶴田を破りインターナショナル・タッグ王座を獲得するなど、ヒールとして大いに暴れた。その後1985年、新日本プロレスの試合会場に突如スーツ姿で現れ、猪木に花束を渡すなどをして新日に再参戦。一時期はマシーン軍団ヒロ斎藤と共闘していたが仲間割れし、カルガリーハリケーンズの離脱後に新日正規軍入り、1986年3月26日のUWF軍との5対5のエリミネーション・マッチでは、前田日明と心中して場外に飛び降り引き分けるという活躍をした。そのファイトでは前田のミドルキックの連発どころか側頭部へのハイキックさえも平然と受けて見せ倒れず、勢いをつけたフライング・ニールキックでようやく倒れた。当時は上田のシュートでの強さはさほど認知されておらず、その上田が当時最強といわれた前田の蹴りを平然と受けきって見せたことで観客席からは大きなどよめきが起こった。前田から側頭部へのハイキックを受けたことについて、「40年近いレスラー生活で唯一の油断だった」とシューターとして失態を後年の著書で反省している。なお、当時の上田の入場テーマは、のちに三沢光晴も使った『スパルタンX』である。また、上田は全日本プロレスでも1984年6月14日に全日正規軍(馬場、鶴田、天龍源一郎プリンス・トンガ)対シン軍団(シン、上田、鶴見五郎バズ・タイラー)の4対4で行なわれた日本初のエリミネーション・マッチに出場している。

その後はNOWIWAジャパンといったインディー団体を転戦した。

1996年3月、IWAジャパンのシリーズ最終戦が行われた仙台市から東京への帰京中、東北自動車道で、交通事故に遭遇。助手席の上田はフロントガラスを突き破り、車外に投げ出され[4]アスファルトに叩きつけられる大事故だったが一命を取り留めた。上田本人は車が衝突した瞬間以降のことは記憶に残っていなかったと云う。その事故により頸椎損傷の大怪我を負い、胸下不随となり車椅子での生活を余儀なくされた。

1998年4月16日に上田がリハビリ中の熊本県で「力道山OB会」主催による、上田馬之助現役引退記念大会が開かれ[5]、車椅子姿でファンの前に現れ喜ばせた。

その後、妻の故郷の大分県臼杵市へ移り、「リサイクルショップ上田屋」を経営。地元でプロレス興行が行われると夫婦で会場に激励に行ったり障害児施設を訪問するなど、妻と二人三脚の生活を送っていた。2008年には近年のリハビリ生活がドキュメンタリー番組生きる×2」で放映された。

2009年には、大分のローカルプロレス団体であるプロレスリングFTO所属のプロレスラーであるVINNIが、初代の同意の下「上田馬之助」の名前を襲名することを発表。同年7月5日に大分市内で襲名式が開かれ、上田本人は体調不良のため姿を見せなかったものの、立会人を真樹日佐夫が務めたほか、夫人より上田が現役当時使用していた竹刀とガウンが手渡された[6]

2011年12月21日誤嚥による窒息で死去[7][8]。71歳没。

人物[編集]

常に竹刀を片手にし、レスラー人生の大半を悪役で貫いたが、素顔は以下のエピソードにも見られるように非常に真面目で、周囲の人間を大事にする人物であった。

  • 相撲時代に毛筆相撲字)の訓練を受けたために、能筆としても知られていた。
  • サインの筆跡を似せるほど力道山に傾倒し、日本プロレス時代に交付されたプロレスラーのライセンス証を、後年になっても肌身離さず持ち歩いていたという。「力道山先生の頃の本格的なプロレスを復活させるのが夢」「統一コミッショナーの下、プロレスにライセンス制度を復活させるべきだ」というような発言もしている。
  • 全日本プロレスを離脱してフリーとして渡米した理由を「前座扱い」としていたが、親しいプロレス関係者には、プロレス草創期からの日本プロレスレフェリーだった沖識名ハワイへ帰国する際に、全日本プロレスが沖識名の「ありがとう興行」を実施したのに、全日本サイドが売上から餞別を沖識名に一切渡さなかったため(上田と松岡巌鉄が自分のファイトマネーの中から沖識名に餞別を渡した)、「馬場は沖さんに昔からあれだけ世話になったのに…… 恩知らずじゃないか」と激怒したことがきっかけだったと語り、後にその逸話はプロレス雑誌に紹介された。
  • アナウンサー徳光和夫とはお互いの若手時代から親しい関係にあり、徳光は上田のことを「馬さん」と呼んでいた。上田が大事故による障害を負った後に日本テレビの『24時間テレビ』に出演した際、徳光が「馬さんもこんな辛いことになってしまって…」と語りかけると、上田も眼を潤ませながら「徳光さん、私は大丈夫です。元気ですよ」と応じた。
  • プロとして見られることを常に意識し、ライバルを問われた際は「お客さん」と答えた。
  • 「プロレスを経験したことのない人間は裏方に徹するべき、出しゃばるべきではない」が持論であり、インタビューで馬場元子新間寿を「出しゃばり過ぎるし、何か勘違いをしている」と公然と批判したこともあった[9]
  • 場外乱闘時に逃げ遅れた観客の老女を見て乱闘をやめたり、タイガー・ジェット・シンが暴れている時に周囲の(無関係の)一般人が近づくのを必死になって制止したことがある。
  • 徹底したヒールのキャラクターを通していたため、親類の幼い子供から「おじちゃんは家に来ないで!」と言われたことがあるらしい。プロとしてヒールを演じていた上田は後に「あれが精神的に一番辛かった」と述べたという。しかし、施設慰問を続け「上田のおじちゃんが来た!」と子供たちに大喜びで迎えられていたという。施設慰問のことを取材したマスコミが「このことを記事にしてもいいか?」と聞いたら上田は「そんなことしたら俺の悪役のイメージが壊れるからやめてくれ」と断った。
  • 甥は漫画家のくぼやすひと(漫画家ユニット:久保マシンの男性「くぽりん」)である(上田の実姉の息子がくぼやすひと)[10]
  • また茅ヶ崎ダウン症の子供たち向けに焼き物を作ることを通して、コミュニケーション能力を教えている施設の遠足会には「荷物持ちのおじちゃん」として参加。川原でのバーベキュー等でも活躍。
  • 以上のことから家族にアンチファンからの危害が及ぶことを懸念して、アメリカ合衆国フロリダ州ペンサコーラに移住していた時期があると言われていたが、実際は全日本プロレス退団後アメリカで一匹狼としてやっていかざるを得ない状況となったため、1974年6月に家族を呼び寄せた。
  • 入場時には、スポンサーであるキャピタルエース合同商事)のジャージを永年着用していた。
  • 1980年代前半、アメリカでは顔に「天」の字をペイントした「テング」なるペイントレスラーに変身して活動していた[11]。全日本プロレスでもザ・グレート・カブキとのシングルマッチにおいて、このギミックで試合をしたことがある。
  • NOW参戦時、アメリカから前妻との息子が大学の長期休暇を使って日本に来ていた際、プロレスラーとして限定参戦させていた(リングネームは「ヒロ上田」最初だけ「上田馬之助Jr.」だった)、なお幼少の頃から父の手ほどきを受けていたのと、大学ではアマレスアメフトの選手でレスラー並の体格だった。
  • 引退のきっかけとなった交通事故で、運転していたIWAジャパンの営業部員は死亡した。その話を聞き「俺が死ねばよかった。なんで人生まだこれからの若い奴が死ななきゃならないんだ」と号泣したという。
  • 交通事故の直後は首から下が動かない状態であったが、リハビリを経て、プロレス会場に車イスで来場できるほどまで回復した。また、往年のファンのために来場時にはトレードマークの金髪に染めていた。
  • 外国人レスラーのギャラが日本人レスラーより極端に偏っていたことに警鐘を鳴らしていたことでも有名で、上田のギャラは相方のタイガー・ジェット・シンと比べ物にならないくらい安かったという。
  • 上田馬之助はSWSが失敗した原因について、「(SWS移籍前の天龍の全日本最後の試合で)最後に鶴田ピンフォール負けを喰らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。
  • 5歳のときに手品師のまねをしようとして左耳に大豆を入れたのが原因で鼓膜を失い、それ以降左耳は全く聞こえない状態だったという。また右耳もその後中耳炎を患ったため聴力が低下しており、聴力にかなりのハンデがあったが、現役時代はそのことを伏せて戦っていた。
  • 深夜、出待ちの中学生に隠し撮りをされたことがあった。気付いた上田は「こら!」と叱ったが、少年の自宅に「必ず息子さんをお返しします」と電話した上で、「写真を撮りたいときはな、まず相手の人にお願いするんだぞ」と優しく諭し、その場で書いたサインを持たせて家まで送り届けたという。
  • 筆まめという一面もあった。日本プロレス時代に長期海外遠征を行った際には、親しい記者などに丁寧な文体で書かれた近況の手紙を定期的に送っていたという。その内容は現地のリアルタイムなプロレス事情を知るネタ元として、プロレス担当記者から重宝された。
  • 上田が新日正規軍から離れ(前述)セミリタイヤ状態となった後、新日本は「ニューリーダー対ナウリーダー」という世代闘争に入ったが、ある時上田が突如会場に現われ「何がニューリーダーだ、お前らの立場を考えろ」というマイクアピールを行った。この模様は「言いたいことだけ言って上田は去っていった…」という見出し付きで、当時の週刊プロレスの表紙を飾った。後日の同誌のインタビューでは「団体に育ててもらい、今も世話になっている身で、それに刃向かうべきではない」とニューリーダーの姿勢を批判、さらに「そんな人間を勘違いさせる、おたくらマスコミも悪い」とも語っていた。
  • 1990年頃の週刊プロレスのインタビューで、初代タイガーマスクのことを「お子様ランチ」と言い、初代タイガーの登場以降プロレスを好きになる世代が広がり、それに合わせるようにプロレス自体が空中技や派手な技に片寄りつつある中、プロレスの凄味はもっと違うところに有ると警鐘を鳴らしていた。
  • 落語家・立川談ノ助に名前を使われ、「高座で俺の名を騙(かた)っている奴がいる」とクレームを付けたことがあったという。

密告事件[編集]

力道山が亡くなった後の日本プロレス末期に、不透明な経理に不満を抱いていた馬場・猪木ら選手会一同は、一部幹部の退陣を要求しようと密かに画策していた。もし要求が受け入れられない場合は、選手一同が退団するという嘆願書に全員がサインをしていたという。

ところが、仲間だと思っていた上田が「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている」と幹部に密告したため、慌てた幹部連中の懐柔工作によって選手達は次々と寝返り、猪木のみが孤立し選手会を除名され、日本プロレスから永久追放される事件が起きた。

一方で、猪木と腹心の仲でありサイドビジネスの手伝いもしていた経理担当の某氏が、不透明な小切手を切ったり、猪木を社長に祭り上げて日本プロレスの経営権を握ろうと画策しているかのような動きを見せたため、このことに気付き危機感を持った上田が馬場に相談したのが発端であったともいわれている。

当時の日本プロレスは暴力団との関係が取り沙汰されたり(ただし当時の「興行」はプロレスに限らず良くも悪くも現在の価値観で言う暴力団の影響を免れることは有り得なかった)、ドンブリ勘定の資金管理など闇の部分が存在したのは間違いない。猪木自身は自著である『アントニオ猪木自伝』の中でこの件について触れ「経営陣の不正を正したかったことに嘘はない」としている。また、馬場の自伝においては、猪木の行動は日本プロレス経営改善の名を借りた乗っ取り計画だったとされ、これに関係していた上田を馬場が詰問したら「上田が全部しゃべったんです」との記述がある。雑誌ゴングの元編集長竹内宏介(馬場の側近としても有名だった)も「馬場が上田を詰問・上田が真相を告白・馬場が幹部に報告」という経緯で著書を書いている。

ユセフ・トルコも自著での猪木の弟、猪木啓介との対談で「いや、あれを上層部にいったのは間違いなく上田」と語っており、元日本プロレスの経理部長である三澤正和も「実際の会議で猪木さんが『馬之助、テメェ、よくもばらしやがったな』と言っていた」と証言している[12]

ただ2007年1月から5月にかけて東京スポーツにて連載されていた「上田馬之助 金狼の遺言」において、上田は「実はあの事件で最初に裏切り首脳陣に密告を行ったのは馬場であるが、当時の社内の状況ではとてもそのことを言える状態ではなく、自分が罪を被らざるを得なかった」「証拠となるメモも残っている」と語っている。(但しそのメモが公開されることはついになかった)

いずれにせよ、この事件が発端となり馬場と猪木の決裂は決定的なものとなり、「新日本プロレス」を旗揚げした猪木、「全日本プロレス」を起こした馬場が日本プロレスから離脱、客の呼べる両エースを失った日本プロレスは崩壊した。慎重派といわれた馬場は、この事件についてその後一切語らず、以降信頼関係を第一に考えるようになった。「裏切り者」の汚名をきせられた猪木は、以降攻撃的な策士の面をみせる一方でその行動にはスキャンダルが付きまとった。元来お人好しで馬場より猪木と気が合ったといわれる上田は、以降孤独の身となりフリーとして悪役レスラーを貫き通した。

上田は引退興行の際「猪木さんにお詫びしたい」と語ったといわれ、後に和解したものの、猪木は「追放された事実よりも仲間だと思っていた上田の裏切りに深く傷ついた」と語っている。

山本小鉄は「こんなことあろうがなかろうが、馬場と猪木は遅かれ早かれ決別していた」と語っている。また1992年大熊元司が没した際、上田に不信感を抱く馬場は大熊の訃報すら伝えなかったため、「祝儀不祝儀の付き合いも断つのか」と涙ながらに激怒した。

得意技[編集]

  • 凶器(竹刀、パイプ椅子等)を使用したあらゆる反則攻撃
  • コブラクロー
  • クロスチョップ フィニッシュで多用
  • ダブル・リストロック(逆腕固め) ヒールスタイルになってからは全く見せていなかったが、前座時代の得意技。
  • 脇固め1978年のアントニオ猪木とのネールデスマッチで、上田が猪木に仕掛けた技。前座時代の上田をうかがわせた技である。

獲得タイトル[編集]

NWAトライステート
NWAミッドアメリカ
NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ
NWAミッドサウス・スポーツ
  • NWAジョージア・タッグ王座:1回(w / シャチ横内)
NWAハリウッド・レスリング
国際プロレス
日本プロレス / 全日本プロレス
新日本プロレス
ワールド・オーガニゼーション・レスリング
  • WOW世界ヘビー級王座
WOW世界ヘビー級選手権は、当時の上田の地元だったフロリダ州ペンサコーラを拠点としたローカル団体WOW(World Organization Wrestling)のベルトで、新日本の常連外国人だったハクソー・ヒギンズを破って獲得したものである(ベルト獲得のニュースは東京スポーツでも大きく報じられた)。後日、上田はそのWOWのベルトを携えて日本に現れ「外人のことで困っているなら我がWOWが相談に乗る」というメッセージを残した。上田の真意は「WOWのタイトル戦を日本で行いたい」、そして「WOWを団体ごと日本に呼んで、大会を行いたい」という点にあった。
上田は週刊プロレスのインタビューに応じ「このベルトは世界王座だから、日本で防衛戦を行っても構わない」としたうえで、「馬場や猪木が悩み苦しんでいるのは、外人のギャラが高過ぎるからだよ。WOWを呼ぶとしたら、外人にアメリカと同等のギャラで、日本でも試合をさせる」と語っていた。また、当時第2次UWFが大都市中心の興行形態を導入して成功し、新日本プロレスもこれに倣ったことを「地方軽視」と非難したうえで、「ウチ(WOW)は大都市ではやらない。地方でやるよ」とも語っていた。結局この時語った構想は実現こそしなかったが、これは今でも「WOW構想」と呼ばれ、後年日本に数多く生まれたインディペンデント(独立団体)の形態に先駆けたものとして、語り草となっている。
なお、WOWは国際プロレスや全日本プロレスでも共闘したことのある上田の親友リップ・タイラー1987年から1988年にかけて主宰し、ボブ・スウィータンジェリー・スタッブスなどが主軸選手となった。後にWWEで活躍するボブ・ホーリーもWOWでデビューしており、上田とも対戦している[13]
WOWのタイトルマッチは、日本で行われることは無かったが、NOWのプレ旗揚げに上田が乱入した際、当時のエースだった高野拳磁(当時:高野俊二)が、この時点で団体自体は消滅していたが、ベルトは上田が持っていたため、「(WOWの)ベルトを賭けて(試合を)やってもいい」と発言したことがあった。だが、拳磁自身がプレ旗揚げ戦のみでNOWを離脱したため、両者の対戦は無くなり、それ以降、WOWの名前は聞かれなくなった。

大相撲時代の成績[編集]

  • 通算成績:49勝61敗14休(17場所)

                                                          

海部錦[14]
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1958年
(昭和33年)
x x (前相撲) 東 序ノ口 #9
4–4
 
東 序二段 #118
4–4
 
東 序二段 #102
3–5
 
1959年
(昭和34年)
東 序二段 #105
4–4
 
東 序二段 #93
5–3
 
西 序二段 #73
4–4
 
東 序二段 #66
4–4
 
東 序二段 #62
5–3
 
西 序二段 #19
3–5
 
1960年
(昭和35年)
東 序二段 #31
3–5
 
東 序二段 #29
2–6
 
西 序二段 #40
3–5
 
東 序二段 #51
3–4
 
東 序二段 #57
2–5
 
東 序二段 #88
0–0–7
 
1961年
(昭和36年)
西 序ノ口 #1
引退
0–0–7
x x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

出演[編集]

映画[編集]

テレビ番組[編集]

CM[編集]

泉谷しげる美保純らと共演。以下の複数バージョンが存在する。いずれも台詞は棒読み。ガムのロゴ入りTシャツを着て興行に出ていた時期もある。
  • 「歯を大切にしましょうね」という美保に対して「歯なんかどうでもいいでしょう」と発言し、天罰のを浴びて黒焦げになる。
  • 小学生に扮し「私は歯を大切にしてるので、ガムはトライデント・シュガーレスガムに決めてます。馬之助くんは?」と尋ねる美保に対して、同じく小学生の扮装をした上田が「僕は特に決めたりしません」というと、「トリャーッ!!」と美保に後頭部を思い切り叩かれ「歯に失礼でしょ!」と怒鳴られる。次のカットでは美保の半分くらいの背丈になっていて「いろんなガムが好きじゃいけませんか」と返すと「いけません」と言われる。
  • リングでキックボクサーと戦い、顔に攻撃が入ったことに対して「トライデントで大切にしている歯になんてことをするんだ」と怒る。攻撃自体は全く効いていない。
  • 眼鏡をかけた怪しげな風体で現われ、「ガムあげるからついておいで」と小学生の女の子に扮した美保に声をかける。「歯を大切にしてるからガムはトライデントしか食べないの!」と言う美保に「そんなのどこでも同じだよ!」と返すが、逆に美保に指を噛まれ「歯を馬鹿にしないで!!」と一喝されてしまう。
  • 「ガムなんか何だっていいじゃねえか」と美保に噛み付いた泉谷に「泉谷、お前黙れ。お前の歯なんかどうなったっていいんだ」と一喝する。
  • 後ろからブロック塀を破壊して、「もっと真面目にやれ!この野郎!」と言って泉谷に土下座をさせる。

脚注[編集]

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  1. ^ NWA World Tag Team Title History: West Texas version”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月29日閲覧。
  2. ^ NWA World Junior Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2011年12月29日閲覧。
  3. ^ 『別冊ゴング 1980年11月号』P132-134(日本スポーツ出版社
  4. ^ 上田馬之助さん、追突事故で重傷 - 毎日jp 1996年3月16日
  5. ^ 上田馬之助さんが引退試合 - 毎日jp 1998年4月17日
  6. ^ 42歳レスラー、2代目・上田馬之助襲名 「今以上のヒールに」 - 毎日jp・2009年7月10日
  7. ^ 訃報 - プロレスリングFTO オフィシャルサイトトップページ告知 2011年12月21日付
  8. ^ スポニチAnnex「昭和の名悪役・上田馬之助さん急死 果物のどに詰まらせ」(2011年12月22日6:00配信)2013年3月1日閲覧)
  9. ^ 月刊ビッグレスラー 1982年10月号P114-119 『まだら狼上田馬之助のレスラーぶった斬り』(立風書房
  10. ^ 今日、叔父さん 上田馬之助が亡くなった くぽりんブログ 2011年12月21日付
  11. ^ 『プロレスアルバム51 これぞプロレス ワンダーランド!!』P9(1984年、ベースボール・マガジン社
  12. ^ 『プロレスへの遺言状』ユセフ・トルコ著(河出書房新社
  13. ^ World Organization Wrestling”. Classic Wrestlings Online. 2012年1月10日閲覧。
  14. ^ 海部錦 力士情報 - sumodb

関連項目[編集]

外部リンク[編集]