関本大介

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関本 大介
関本 大介の画像
プロフィール
リングネーム 関本 大介
本名 同じ
ニックネーム マッスルモンスター
肉体凶器
怪力無双
身長 175cm
体重 120kg
誕生日 1981年2月9日(33歳)
出身地 大阪府大阪市鶴見区
所属 大日本プロレス
スポーツ歴 野球
デビュー 1999年8月10日
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関本 大介(せきもと だいすけ、男性、1981年2月9日 - )は、日本プロレスラー大阪府大阪市鶴見区出身。血液型O型。大日本プロレス所属。

鍛え上げられた肉体が特徴で、その肉体自体が「凶器」と自称する。大日本プロレスの代名詞であるデスマッチはあまり行わないが、メジャー団体の選手とも頻繁に試合を行っている。

来歴[編集]

幼い頃からプロレスへの憧れはあったものの、野球好きだった父親の影響で中学・高校と明徳義塾に通い、野球部に所属。「大介」の名も荒木大輔にちなむ。ポジションは一塁手[1]、中学時代には4番も打った[2]

中学時代の終わりに小橋建太の試合を見て、はっきりとプロレスラーを志すようになる。高校進学すると全国から有望な選手が集まり(同級生に寺本四郎高橋一正がいる)、本人曰く「四軍まである中で文句無しの四軍」になってしまう。しかし、控えゆえ監督・コーチの目が届きにくいことを逆手に、野球の練習ではなく筋トレに終始。3年間プロレスラーとしての素養を磨く。当時監督の馬淵史郎によれば、「打球の速さは寺本より上」だったという[2]

同級生の高橋がヤクルトスワローズから声をかけられていた繋がりから、ヤクルトのスカウト部長であった片岡宏雄のつてでグレート小鹿と面談[2]。高校を卒業した1999年、大日本プロレスに入団。8月10日、地元大阪での対伊東竜二戦でプロレスデビュー。

2004年[編集]

2004年10月22日後楽園ホールにおいてマッドマン・ポンドを相手に蛍光灯100本デスマッチを敢行(事実上のデスマッチデビュー戦)。蛍光灯ホッチキスノコギリ攻撃などで額及び背中から大流血の洗礼を浴びたが、蛍光灯への原爆固めを決めて逆転勝ちを収める(19分32秒)。これ以降、2005年までデスマッチ路線を中心に流血の抗争を繰り広げた。

2005年[編集]

2005年アブドーラ小林とのタッグチーム『マッスル&ファットです。』で、2006年には友人でもある佐々木義人とのタッグでBJW認定タッグ王座にも就いている。

2006年[編集]

2006年1月、大日本道場を利用したジム運営を行うと発表し、5月11日にスポーツジム『横浜マッスルファクトリー』を正式にオープンする一方、自ら目標とする田中将斗マンモス佐々木との、力と力の勝負を繰り広げる。

5月5日の大会にて、DDT柿本大地とのタッグで、佐々木健介中嶋勝彦と対戦。

2007年[編集]

1月31日の大会では、小島聡金村キンタローとタッグを組み、川田利明と初対決した。そして3月8日の大会で崔領二の持つNWA認定UNヘビー級王座に挑戦し、大熱戦の末、18分00秒ジャーマン・スープレックス・ホールドでベルトを奪取。第7代王者となった。

4月29日の大日本プロレスの大会で、新日本プロレス中西学との対戦熱望を表明。関本・井上勝正vs中西・平澤光秀戦が予定されていたが、試合3日前から頭痛を訴え、大会当日に診察した結果、脳浮腫と診断され、大日本統括部長・登坂栄児から、対中西戦の中止は勿論、改善が見られるまで全ての大会を欠場させると発表。

5月の大会から復帰すると、5月27日、ZERO1-MAXシングルマッチ 火祭り出場者決定戦 時間無制限1本勝負 NWA UNヘビー級選手権で対神風戦に勝利。

7月には念願の関本vs中西のシングルマッチが行われたが、敗戦。それから間もなくの大日本後楽園大会では、LOCK UP狭山大会のメンバーに、裕次郎(中西側)・マンモス佐々木(関本側)を加えた6人タッグマッチが行われ、平澤をジャーマン・スープレックスでフォールし勝利。中西に対し8月20日・大日本後楽園大会でのシングルでの再戦を要求、受理された。

8月20日、大日本・後楽園大会で中西との二度目のシングルが行われたが敗戦。その後、LOCK UPで中西とタッグを組み、中西のプロレス理論を学ぶ。

11月、ZERO1-MAXのNWA認定UNヘビー級選手権試合で、パートナーでもある佐々木義人に敗れ、ベルトを失う。

12月11日プロレス大賞技能賞を受賞。

2008年[編集]

10月のプロレス・エキスポではライバル田中将斗とタッグを結成し、大陸別タッグトーナメントで優勝を果たした(準優勝はモーターシティ・マシンガンズ)。

2009年[編集]

2009年4月のZERO1の大会で崔領二の持つ世界ヘビー級王座に初挑戦したが敗戦した。やがて7月の大会にて岡林裕二とともに木高イサミ&竹田誠志の持つBJW認定タッグ王座に挑戦し勝利。第27代王者となった。

2010年[編集]

2010年1月のZERO1の大会にて、川田利明の持つ世界ヘビー級王座に挑戦したが敗戦。2月のユニオンプロレスの大会で石川修司の持つKO-D無差別級王座に挑戦し勝利。第31代王者に。7月25日、DDT両国大会にてHARASHIMAの挑戦を受け敗退しKO-D無差別級のタイトルを失う。9月9日にはバンビキラーの持つZERO1世界ヘビー級王座に再挑戦し勝利、第9代王者となった。

2011年[編集]

3月21日全日本プロレス両国国技館大会にて、征矢学真田聖也の持つアジアタッグ王座岡林裕二と共に挑戦し勝利、第85代王者となる。そのまま夜の大日本後楽園大会に凱旋。

4月28日・大日本後楽園大会、征矢学浜亮太を相手に初防衛。

5月5日・大日本横浜文体佐々木義人石川晋也を相手に二度目の防衛に成功。

6月19日・全日本・両国大会、征矢学・真田聖也に敗れ、アジアタッグ王座を失う。

7月24日・DDT両国大会、マサ高梨とともにKO-Dタッグ第38代王者となる。

8月7日・ZERO1後楽園大会、第11回火祭り決勝で佐藤耕平を下して初優勝を飾り、NWAプレミアムヘビー級王座の初代王者に認定される。

10月23日・全日本・両国大会、征矢学・真田聖也に再挑戦し勝利。第87代アジアタッグ王者となる。

12月18日・大日本横浜文体諏訪魔征矢匠を相手に初防衛。

2012年[編集]

1月3日・全日本・後楽園大会、浜亮太(SMOP)を相手に2度目の防衛に成功。

7月1日・サマーナイトフィーバーin両国へ参戦。全日本と新日本の共催大会ではあったが、大日本の選手として7年ぶりに新日本のリングへ登場した。

2013年[編集]

3月1日・大日本・後楽園大会、征矢学に勝利し第3代BJW認定世界ストロングヘビー級王座を獲得。

9月8日WRESTLE-1旗揚げ戦に岡林裕二とタッグで参加。

10月19日プロレスリング・ノアグローバル・リーグ戦でのKENTA戦でNOAH初参戦。3勝2敗の成績でリーグの敢闘賞を獲得。

12月9日、プロレス大賞の敢闘賞を受賞。2013年は選考日まで全17団体186試合に参戦し広範囲に活躍したことが評価された。

2014年[編集]

2013年12月29日の佐藤耕平の防衛戦で右膝を負傷し、一度復帰するものの1月に記者会見を行い、手術による休養と世界ストロングヘビー級王座の返上を表明。4月13日の青森大会で復帰。

得意技[編集]

ぶっこ抜きジャーマンスープレックス
強靭な背筋力と安定したブリッジから繰り出される多様なジャーマンは破壊力、芸術性共に天下一品である。「ジャーマン・スープレックスをかけたまま死にたい」と言うほど、ジャーマンにこだわりを持っている。
ラリアット
デッドリー・ドライブ
マッスル・スプラッシュ
以前は「フロッグ・スプラッシュ」と呼んでいた
スピアー
パワースラム
アルゼンチン・バックブリーカー
岡林裕二と同じタイミングで繰り出すこともある。
ブレーンバスター
主に垂直落下式を使用する。
オーバーヘッドキック
バックを取られた際によく使用する。

タイトル歴[編集]

大日本プロレス
DDTプロレスリング
KAIENTAI-DOJO
ZERO1
天龍プロジェクト
wXw
全日本プロレス
プロレス大賞
  • 技能賞(2007年)
  • 最優秀タッグチーム賞(2011年/パートナーは岡林裕二)
  • 敢闘賞(2013年)
日本インディー大賞
  • MVP・ベストバウト(2010年)

テーマ曲[編集]

  • CROWN OF WINNER(大日本プロレステーマ曲コレクションに収録)

エピソード[編集]

出典[編集]

  1. ^ 【本誌連載の拡大版】関本大介選手インタビュー(1)|ニュースウォーカー”. 横浜ウォーカー (2009年1月22日). 2013年12月27日閲覧。
  2. ^ a b c d 杉浦泰介 (2013年10月14日). “SPORTS COMMUNICATIONS - 関本大介(プロレスラー/高知・明徳義塾高校出身)第2回「架空のヒーローが現実の目標へ」”. SPORTS COMMUNICATIONS. 2013年12月27日閲覧。
  3. ^ 月刊少年チャンピオン2009年9月号インタビュー

外部リンク[編集]