ニック・ボックウィンクル

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ニック・ボックウィンクル
プロフィール
リングネーム ニック・ボックウィンクル
本名 ニコラス・ウォーレン・フランシス・ボックウィンクル
ニックネーム 金髪狼
身長 188cm
体重 120kg(全盛時)
誕生日 1934年12月6日(79歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ミネソタ州セントポール
トレーナー ウォーレン・ボックウィンクル
ルー・テーズ
デビュー 1955年
引退 1987年
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ニック・ボックウィンクルNick Bockwinkel、本名:Nicholas Warren Francis Bockwinkel1934年12月6日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーミネソタ州セントポール出身。生年は、1936年1938年とされる場合もある。

来歴[編集]

父のウォーレン・ボックウィンクル1930年代から1950年代にかけて活躍した名ヒールであり、少年時代のニックは父の巡業に同行し、バディ・ロジャースなどの今では伝説となったレスラーたちの試合を間近で見る機会に恵まれた。この経験が後のレスラー人生で大きな財産となった。

15歳のとき、ルー・テーズ相手にデビュー。陸軍オクラホマ大学に在籍しながらプロレスを続け、28歳でフルタイムのプロレスラーとなり、ハワイカリフォルニア州などのアメリカ各地を転戦。ローカル・タイトルを数多く獲得している。各地を転戦していく生活はニックの希望していたことであり、のちに「プロレスラーはスーツケースひとつで旅ができる仕事」と述懐している。

天才と言われるほどの実力派レスラーだったがタイトル挑戦に恵まれず、30代中頃からミネソタ州ミネアポリスの団体AWAに定着。ボビー・ヒーナンマネージャーに付けレイ・スティーブンスとのタッグでAWA世界タッグ王座を獲得した後、1975年11月18日、ミネソタ州セントポールにおいてバーン・ガニアを下し、AWA世界ヘビー級王座を獲得。以後1987年5月2日にカート・ヘニングに敗れタイトル戦線から退くまでの13年間で同王座を合計4回獲得し延べ7年以上保持、北部の帝王として君臨した。1979年3月25日には、AWA世界王者として当時のWWF王者ボブ・バックランドとダブルタイトルマッチも行っている。

日本にも日本プロレス国際プロレス全日本プロレスへの参戦で度々登場。1984年2月23日には蔵前国技館ジャンボ鶴田に敗れ、AWA世界ヘビー級王座を明け渡した。全日本の年末恒例世界最強タッグ決定リーグ戦では1978年から1985年にかけてブラックジャック・ランザジム・ブランゼルなどをパートナーに4回出場、1984年にはハーリー・レイスとの「夢の世界王者コンビ」も実現させた。

1987年8月の全日本プロレスへの参戦を最後にリングを降り、WWF(現・WWE)のロード・エージェントやWCWコミッショナーなどを務めた。また、UWFインターナショナルのリングでビル・ロビンソンエキシビション・マッチを行ったこともある。

近年はラスベガスに在住。2006年1月、ZERO1-MAXにおける大谷晋二郎スティーブ・コリノのAWA世界ヘビー級選手権試合の立会人として久々の来日を果たした。このときはただ試合を見守るだけでなく、「興奮して」大谷にイス攻撃を見舞うという特別出演もしている。

2007年にはWWE殿堂に迎えられた(インダクターはボビー・ヒーナン)。

評価[編集]

リック・フレアーに先駆け、バディ・ロジャースの流れを汲むヒールの「ダーティー・チャンプ」のスタイルを貫いた。劣勢になるとわざと凶器攻撃を見舞ったり、セコンドを乱入させるなどして反則負けを選び、AWA世界ヘビー級王座を防衛することがことがほとんどだった(AWAではピンフォール勝ち、ノックアウト勝ちもしくはギブアップ勝ちでないと王座は移動しなかった)。1980年代前半にAWAで頭角を現していたハルク・ホーガンを相手にしても、この戦術で寄せ付けなかった。

日本でのジャンボ鶴田との防衛戦も多くはこのパターンで逃げ切ったため「反則でも王座移動なら鶴田絶対有利」という声も日本のファンやマスコミにはあったが(王座転落した試合の実況など)、「反則負け、リングアウト負けなどあらゆる負けでも王座が移動する」というPWFルールで行われた1984年2月23日の鶴田とのAWA世界・インターナショナルダブル選手権や、鶴田にAWA世界王座を奪われてからの同年2月26日、3月24日のAWA世界選手権では打って変わって本格派の実力を示し、それまでの「ルールに守られている単なるダーティー・チャンプ」という見方が過小評価であることを示した。

ホーガン同様に鶴田もこの試合まではニックを「ルールのおかげで王者を続けられているレスラー」という厳しい評価をしていたが、この連戦以降はニックを見下すような発言はピタリと止めている(もっとも、ファンに王者の実力を過小評価させ「次にやれば地元のヒ-ローが勝つ」と思わせるのもダーティー・チャンプの在り方である)。ジャイアント馬場はニックのことを「ダーティ王者と言われながらも根はオーソドックスなテクニシャン」と語っている[1]

また、非常に理詰めのレスリングをし、投げ技は上手いがほとんど使わなかった。

トリプルHは雑誌のインタビューで彼のスタイルをモチーフにしていることを公言している。ヒールのお手本的存在としても語られることの多いレスラーである。

「相手がワルツを踊れば私もワルツを踊り、ジルバを踊れば私もジルバを踊る」(相手のスタイルに合わせてレスリングをする、つまり相手の持ち味を十分に引き出すのが私の役目、という意)というニックの言葉は、プロレスの本質を余すところなく表現した名言とされている(もともとは父親ウォーレンから教えられた言葉である)。

得意技[編集]

獲得タイトル[編集]

その他多数

エピソード[編集]

  • 子供時代、ルー・テーズにお守りをしてもらったことが自慢だった。父ウォーレンとテーズはジョー・トラゴスのジムで一緒に練習した親友同士だった。
  • 入場時に常に右手に持っていた白タオルは、バディ・ロジャースから受け継がれ、後にカート・ヘニングが受け継いだ。
  • 1970年9月、日本プロレスの第1回NWAタッグ・リーグ戦ジョニー・クインと組んで参戦。アントニオ猪木&星野勘太郎との決勝戦は延長戦となり、72分の死闘を展開した。そのため、AWA世界ヘビー級王座防衛戦のため全日本プロレスに来日した際のインタビューで、「闘いたい相手は?」と聞かれ「イノキ&ホシノ」と答え、記者を困惑させる一幕もあった。なお、後にグレーテスト18クラブなどで新日本プロレスとの関係が築かれた際に猪木との対戦を表明したが、猪木の拒否(「現役選手じゃない」との理由)により実現しなかった。
  • 「悪役は善人でないと務まらない」「悪役レスラーほどリングを降りると一変して立派な紳士な場合が多い」の通説通り、リングを降りると常に紳士的に振る舞い、アメリカ、日本でもマスコミの評判は非常に良かった[2]菊池孝は「彼(ニック)と知り合えた事は、プロレス・マスコミをやっていて良かったと思ったことの一つ」とまで語っている。
  • 趣味はカメラ、写真撮影で本人曰く「プロ級の腕前だよ」だそうである。その言葉通り、月刊デラックス・プロレスの1981年2月号では、見事な撮影の腕前を披露した。

脚注[編集]

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  1. ^ ジャイアント馬場著「王道十六文」
  2. ^ 月刊デラックス・プロレス 1982年11月号『歴代王者ではニックが一番の功労者』

外部リンク[編集]