ウィリアム・アフィルス

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ディック・ザ・ブルーザー
プロフィール
リングネーム ディック・ザ・ブルーザー
ザ・ブルーザー
ブルーザー・アフィルス
ディック・アフィルス
本名 ウィリアム・リチャード・アフィルス
ニックネーム 生傷男
身長 185cm
体重 120kg(全盛時)
誕生日 1929年6月27日
死亡日 1991年11月10日(満62歳没)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
インディアナ州インディアナポリス
スポーツ歴 アメリカンフットボール
デビュー 1955年
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ウィリアム・リチャード・アフィルスWilliam Richard Afflis1929年6月27日 - 1991年11月10日)は、アメリカ合衆国プロレスラーインディアナ州インディアナポリス出身。

そのプロレスラーとしてのキャリアにおいて、ディック・ザ・ブルーザーDick The Bruiser)のリングネーム、および「生傷男」の異名で知られた。

主戦場としていたAWAとの提携のもと、本拠地のインディアナポリスにてWWAWorld Wrestling Association)を主宰するなど、プロモーターとしても活躍した。

来歴[編集]

アメリカンフットボールの名選手として活躍し、7つの大学から声がかかったが、すべて喧嘩による放校処分で棒に振った。1951年NFLグリーンベイ・パッカーズに入団(酒場やカジノの用心棒をしていたという説あり)した後、1955年プロレス転向。その年にルー・テーズNWA世界ヘビー級王座に挑戦している。

経歴そのままに殴る蹴るの喧嘩ファイトを押し通し、1957年ウイルバー・スナイダーを破りUSヘビー級王座を獲得したのをはじめ、1963年にはクラッシャー・リソワスキーとのコンビでAWA世界タッグ王座を獲得。1964年にはフレッド・ブラッシーを破ってWWA世界ヘビー級王座を、1966年にはマッドドッグ・バションを破ってAWA世界ヘビー級王座を奪取している。WWAのベルトはそのまま故郷のインディアナポリスに持ち帰り、それを元にして自らの団体インディアナポリスWWAを設立。プロモーター業にも携わるようになる。

日本には1965年に初登場し、ジャイアント馬場と第3代インターナショナル・ヘビー級王座決定戦を戦う。その後も日本プロレス、そして全日本プロレス国際プロレスに登場。1969年にはリソワスキーとのコンビでジャイアント馬場&アントニオ猪木BI砲からインターナショナル・タッグ王座を奪取している。1972年11月には国際プロレスで、リソワスキーと組んでのストロング小林&グレート草津戦で日本初のタッグでの金網デスマッチを実現している。もっともこの時には、アメリカでは一般的な「先に金網から脱出したほうが勝ち」というルールだと誤解していたブルーザー&クラッシャーが小林&草津を完全KOして場外脱出したのが元で暴動騒ぎになった。1975年4月には全日本プロレスに登場して馬場のPWFヘビー級王座に挑戦。1976年1月にはリソワスキーとのコンビで馬場&ジャンボ鶴田のインター・タッグに2度挑戦している。1980年3月の国際への参戦が最後の来日となった。

なお、彼が主宰していたWWAは創設以来、盟友クラッシャー・リソワスキーやウイルバー・スナイダーをはじめ、ザ・シークジン・キニスキーボボ・ブラジルカウボーイ・ボブ・エリスセーラー・アート・トーマスムース・ショーラックハーリー・レイスアーニー・ラッドザ・ブラックジャックスオックス・ベーカーイワン・コロフバロン・フォン・ラシクキラー・カール・クラップバリアント・ブラザーズブルーザー・ブロディといったメンバーが参戦し、AWAWWWFからブルーノ・サンマルチノアンドレ・ザ・ジャイアントニック・ボックウィンクルなども出場。AWAとの共催でシカゴのインターナショナル・アンフィシアターやコミスキー・パークで定期的に興行を打つなど、1980年代初頭まで活況を呈していたが、1984年に始まったWWFビンス・マクマホン・ジュニアによる全米侵攻により、1980年代後半に活動を停止した[1]

1991年11月10日心臓発作動脈瘤破裂とも伝えられている)で死去。62歳没。

逸話[編集]

生傷男の異名は伊達ではなく、数多くの武勇伝がある。

  • 上記の馬場との選手権へ向けた調印式で、ブルーザーは馬場に対し「おい小僧! とうとうお前とやることになったな!」と凄んで見せ、電話帳を破ったり、ビール瓶の栓を指で抜いて見せるなどのパフォーマンスを敢行。あまりの迫力に馬場は本気でビビッてしまったという。
  • なお、1980年代にアメリカで馬場と再会した時にも、当時NWA屈指の大プロモーターになりNWA世界王者も経験していた馬場に「よう、小僧」と呼ばわって馬場を苦笑させた。また、ブルーザー・ブロディも彼からは常に「小僧(キッド)」と呼ばれており、親交がある年下の人物への一種の愛情表現だったものと思われる。
  • インター王座決定第一戦で、ブルーザーのあまりのタフさにあきれ果てた馬場が、師匠力道山から「相手が死んでしまうぞ」と止められていた脳天チョップを「まあブルーザーなら死なんだろう」と解禁したという逸話がある。
  • 1957年11月19日、マディソン・スクエア・ガーデン(以下MSG)での試合中、場外乱闘中に複数の観客や警察官を殴り倒して負傷させ、傷害罪で告訴された。その後も何度か同様の罪状で裁判沙汰になっている。しかしこの振る舞いには、ヒールとしての「役作り」の要素があることは否定できない[誰によって?]
  • 1958年2月24日、MSGに再登場するが、今度はパワーボムで相手レスラーを危篤状態に追い込んでしまう。度重なるニューヨークでの不祥事に、ビンス・マクマホン・シニアは二度とブルーザーを呼ぼうとはしなかった。もっともこの事件はブルーザーにとってもまったくのアクシデントであり、「レスラー人生最大の失敗だった」と語っている。
  • プロモーターになってからも、ブルーザー・ブロディ相手にバックステージで大喧嘩をするなど、血気盛んなところは変わらなかった。
  • 葉巻をくわえつつビールをラッパ飲みし、低い声でがなりたてるパフォーマンスがトレードマークだった。それがたたったのか、晩年のブルーザーは喉が潰れ、話し声が聞き取りづらくなってしまった。

得意技[編集]

パンチキック
ブルーザーの基本戦法であり、同時に彼独特のキャラクター性を最大限に引き出すムーブでもあった。レスラー仲間の間でも「タフガイ」「化け物」と呼ばれ恐れられた打たれ強さを活かし、相手からの反撃を受けても構わずひたすら殴り、蹴るという豪快な喧嘩ファイトがブルーザー最大の見せ場といえる。
ストンピング
相手の腹部などを大袈裟に振り上げた足に体重をかけて踏みつけ、更に大声で怒鳴りつけながら相手を踏みにじるスタイルを愛用していた。
ダイビング・ニー・ドロップ
当時のプロレス界におけるトップロープからの攻撃の定番ともいえる技。下記のアトミック・ボムズ・アウェイの布石として使われることも多かった。
アトミック・ボムズ・アウェイ(ダイビング・フットスタンプ)
トップロープから跳躍し、倒れた相手の腹部などを踏みつける。ブルーザー最大の必殺技である。本人もこの技には一際こだわりがあったようで、跳躍した瞬間の空中姿勢は非常に美しく、更に強烈な殺気と迫力を観客に与えるものだった。なお両足で踏みつけるものと片足で踏みつけるものの二種類があり、試合展開などから判断して使い分けていたようである。和名は「原爆落とし」だが、現在この呼称で呼ばれることは少ない。
凶器攻撃
ゴングロープ、解説席にある電話など、ありとあらゆるものを凶器として利用したことで知られる。来日時に馬場と対戦した際、場外乱闘の中で体育館の床板を蹴破り、その床板の破片を手に殴りかかってきたというエピソードが非常に有名。また、メリケンサックを隠し持っていたこともあった。

獲得タイトル[編集]

NWA
AWA
WWA
日本プロレス

脚注[編集]

  1. ^ World Wrestling Association”. Wrestling-Titles.com. 2013年8月26日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]