リック・フレアー

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リック・フレアー
リック・フレアーの画像
プロフィール
リングネーム リック・フレアー
ブラック・スコーピオン
本名 リチャード・モーガン・フレイアー
ニックネーム ネイチャー・ボーイ
狂乱の貴公子
身長 183cm - 185cm
体重 100kg - 110kg
誕生日 1949年2月25日(65歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
テネシー州メンフィス
スポーツ歴 レスリング
アメリカンフットボール
トレーナー バーン・ガニア
ビル・ロビンソン
デビュー 1972年12月10日
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リック・フレアーRic Flair1949年2月25日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラーテネシー州メンフィス出身。本名はリチャード・モーガン・フレイアーRichard Morgan Fliehr)。ニックネームはネイチャー・ボーイNature Boy)、略して「ネイチ」と愛称で呼ばれることもある。

その試合巧者ぶりから「業界一卑劣な男Dirtiest Player in the Game)」の異名を取った。日本でのニックネームは「狂乱の貴公子」。息子のデビッド・フレアーリード・フレアー、娘のアシュリー・フレアーもプロレスラー。

人物[編集]

タイプ的には対極のハルク・ホーガンと双璧をなすアメリカン・プロレスの象徴。幾度となくNWAWCW、WWEの世界ヘビー級王座のベルトを巻き、16回の世界王者16-time World Champion)とも呼ばれる。

歴代のNWA王者がそうであったように、正攻法で攻めるよりもずるがしこい戦法を得意とした。これは元々NWA王者が巡業の行く先々で地元の英雄を相手にする必要があったところから生じたものであり、対戦相手を引き立てつつ、数々のムーブ(試合中の動作)で観客を沸かせる術に長け、「箒相手でもプロレスができる」と形容された。跪いて相手に攻撃を躊躇させるムーブやフラフラ歩き前方に倒れるムーブは大きな見せ場となっている。そのスタイルは数々のレスラーに賞賛され、武藤敬司は「自身のプロレスのベース」と語っている。

なお、彼の地髪は元々赤っぽいブラウンで、ブロンドヘアーは貴公子ムードを出すのとラフファイトの際に流血が映えるよう、自ら染めたものである。

来歴[編集]

初期[編集]

1950年に発覚し全米を騒がせたテネシー児童福祉協会による養子縁組用の乳幼児売買事件の被害者の1人。生後1か月ほどで当時デトロイトで産婦人科医を開業していた養父母の元に引き取られ、ミネソタ州ミネアポリスで少年時代を過ごす。

少年時代からプロレスファンで、特にクラッシャー・リソワスキーが好きだったと語っている。学生時代はレスリングおよびアメリカンフットボールの選手であった。ミネソタ大学を退学後、保険外交員の職に就いていたが、バーン・ガニアのレスリング・キャンプに参加しプロレスラーとなるための訓練を受ける。このキャンプの同期にはケン・パテラコシロ・バジリグレッグ・ガニアジム・ブランゼルらがいる。1972年12月10日、師匠・ガニアが主宰し、ミネアポリスに拠点を置くAWAにてデビュー戦を行った。

NWA[編集]

1974年ジム・クロケット・ジュニアが運営するNWAミッドアトランティック地区(本拠地はノースカロライナ州シャーロット)に活動の場を移す。金髪ヒールの先達であるベテランのリップ・ホークのパートナーに起用され、同年7月4日にミッドアトランティック・タッグ王座を獲得、プロ入りして初のタイトル戴冠を果たした[1][2]1975年2月8日にはポール・ジョーンズからミッドアトランティックTV王座を奪取し、シングルタイトルを初めて獲得している[3]。同年下期からは、AWA時代の先輩でもあるワフー・マクダニエルを相手にミッドアトランティック・ヘビー級王座を争った[4]

1975年10月4日、セスナ機の事故に遭い背骨を骨折、医師から引退勧告を受けるも奇跡的にレスラーとして復帰した(この事故ではパイロットは死亡、同乗していたジョニー・バレンタインなどは半身不随となり引退している)[5]。復帰後の1976年12月26日にはグレッグ・バレンタインと組んでミッドアトランティック版のNWA世界タッグ王座を奪取[6]。以降もミッドアトランティックを主戦場に、USヘビー級王座をはじめ同地区認定のタイトルを立て続けに獲得[1][7]。「ネイチャー・ボーイ」の異名が定着したのも、生涯のライバルにして親友でもあるロディ・パイパーリッキー・スティムボートらとの邂逅もこの時期である。

1981年9月17日、ダスティ・ローデスを破りNWA世界ヘビー級王座に初戴冠[8]。後に同王座を8回(7〜10回と諸説有)獲得して一時代を築く。1986年には、オレイ・アンダーソンアーン・アンダーソンタリー・ブランチャード、およびマネージャーJ・J・ディロンと共に、今や伝説と化したチーム、フォー・ホースメンを結成した。

NWAからWCWへの移行期となる1980年代末から1990年代初頭にかけては、若手として台頭してきたスティンググレート・ムタレックス・ルガーらとの戦いを繰り広げ、初期WCWの目玉カードとなった。

WWF[編集]

1991年9月、ジム・ハード副社長との確執から、それまで所属していたNWAの流れを汲むWCWを離脱、WWFへ電撃移籍した。WCW首脳部にとってはフレアーは「すでに全盛期の過ぎた時代遅れの選手」でしかなく、ハードからは思い付きで「古代の剣闘士」スパルタカスなるキャラにギミック変更を要求されるなどの扱いを受けていた。なお離脱前の一時期にトレードマークだったロングヘアーが短くカットされたのは、このキャラチェンジ命令を完全には拒否することができずに妥協したためである。

トップ・ヒールとして迎えられたWWFではボビー・ヒーナンカート・ヘニングと組むこととなり、かつての宿敵で親友でもあったロディ・パイパーとの抗争、その後はハルク・ホーガンとの頂上対決が組まれた。引退を考えていたホーガンとの抗争は今一つ盛り上がらなかったが、1992年1月にロイヤルランブルで優勝、およびこの試合に懸けられていたWWF世界ヘビー級王座を獲得した。

レッスルマニア8ではランディ・サベージを相手に王座防衛戦を戦い、敗れたもののサベージの愛妻エリザベスの唇を奪った。同年のサマースラムでタイトル奪回にも成功するが、アルティメット・ウォリアーとの試合で三半規管を損傷。欠場の必要に迫られ、ブレット・ハートに王座を明け渡した。

WCW[編集]

1993年2月にWWFを離脱、WCWへ復帰しフォー・ホースメンを再結成した。また、インタビューコーナー "A Flair for the Gold" のホストも担当している。1998年に、エリック・ビショフとの対立からWCW離脱寸前までいくも、アーン・アンダーソンの働きにより残留。その後WCWには消滅まで所属していたが、ビショフら首脳陣やホーガン、ナッシュを筆頭とする主流派グループとの確執は激しく、脇役扱いも多くかつての輝きを取り戻すことはなかった。脚本家のビンス・ルッソーがWWFから移籍してからはその傾向がさらに顕著になり、精神的・肉体的な理由から一時期はセミリタイヤ状態であった。

2001年3月26日のマンデー・ナイトロ最終回ではメインイベントでスティングと戦っているが、この時もコンディションは非常に悪く、体型を隠すためにTシャツを着たまま試合を行った。

WWE[編集]

レッスルマニア24での入場シーン
WWE離脱後の2009年豪州で行われたハルカマニアツアーに参加

WCW消滅後、2001年末よりWWEに所属する。50%の株式を保有するビンス・マクマホンとのWWE共同経営者というギミックを与えられ、ベビーフェイスとして活躍した。2002年レッスルマニア18ではジ・アンダーテイカーと対戦、同年WWEがブランド分けを行った際にはRAWのオーナーとなってアンダーテイカーをドラフト1位指名し抗争を継続した。2003年には、トリプルHバティスタランディ・オートンと共にヒールのユニット、エボリューションを結成した。

その後、ランディ・オートン、バティスタらが単独でファンを沸かすことができるキャラクターに成長して次々と抜けていき(アングル上はエボリューションと抗争するための脱退)、トリプルHも休養に入ったためにエボリューションはフェードアウト。2005年8月に、ショーン・マイケルズと組んでフェイスターンカリートクリス・マスターズと抗争後10月のWWE・ホームカミングからは旧友のトリプルHとの抗争に入った。

トリプルHとの抗争はサバイバー・シリーズまで続いた。サバイバー・シリーズ後はプライベートで起こした交通トラブルネタをエッジがあげつらったことをきっかけに抗争開始した。

2006年11月5日のサイバー・サンデーでは、抗争中だったスピリット・スクワッドケニー&マイキー)の持つ世界タッグ王座に、ファン投票で選ばれたパートナーのロディ・パイパーと組んで挑戦。足4の字固めでギブアップを奪い王座奪取を果たした。

2007年6月11日、RAWで行われたドラフトにより、RAWからスマックダウンに移籍。約2年ぶりにバティスタと同じブランドでの再会を果たす(リックの移籍を決めた試合を行ったのもバティスタである)。

移籍後、3か月の欠場を経て11月26日にRAWで復帰し、「私は引退しない」と宣言した[9]。この時、ビンス・マクマホンから「もし1試合でも負けたら強制的に引退とする」と通告されたため、以後の試合は日本遠征(2008年2月11日の有明コロシアム大会・2月12日の日本武道館大会)を含めてすべて「負けたら引退」マッチとなった(レッスルマニア前最後のRAWでの対戦相手はビンスだった)。

2008年は現役レスラーでは初めてWWE殿堂に迎えられたが、3月30日、フロリダ州オーランドにて開催されたレッスルマニア24にてショーン・マイケルズに敗れ、引退決定。翌日のRAWの放送で引退セレモニーが行われた。

引退後はWWEのエージェントとしてイベントや授賞式などに登場していたが、8月3日をもってWWEを退団。その後はWWE、ROH、インディー団体などにゲストで登場(試合はしない。ただし乱入はする)。2009年に入り、クリス・ジェリコによる映画『レスラー』の主演ミッキー・ロークへのアングル上での批判に端を発したジェリコ対レジェンド(フレアー、パイパー、リッキー・スティムボートジミー・スヌーカ)の抗争ストーリーが組まれ、レッスルマニア25ではレジェンド軍のセコンドについた。また、大会前日のWWE殿堂式典では、殿堂入りを果たしたスティムボートのプレゼンターを務めた。

ジャッジメント・デイ以降はランディ・オートンとバティスタの抗争に関わる。これはオートンがエボリューション時代からの遺恨だとしてトリプルHやマクマホン家との抗争を経たもので、フレアーはオートンに再三自身と(引退したため正式な試合ではないが)闘うよう要求した。結局オートンはエクストリーム・ルールズ直前のRAWでのパーキング・ロット戦に同意、待ち伏せしたフレアーはオートンを叩きのめし未だ衰えない存在感を見せ付けるが、オートン率いるレガシーの介入により形勢逆転し、最後にはRKOを喰らった。

WWE以降[編集]

2010年TNAに登場

再度WWEを離れた後はROHやインディー団体へのゲスト出場を経て、2009年11月にはハルク・ホーガンオーストラリアでプロデュースした "Hulkamania Tour" に参加、約1年8カ月ぶりにリングに復帰し、メルボルンパースブリスベンシドニーにてホーガンとの連戦が行われた[1]

2010年1月よりTNAに登場し、A・J・スタイルズの指南役となって活動。4月18日のロックダウンではスティングデズモンド・ウルフらをメンバーにチーム・フレアーを組織し、ホーガン率いるチーム・ホーガン(アビスジェフ・ジャレットロブ・ヴァン・ダムジェフ・ハーディー)との対戦を指揮した[1]。同年下期からはスタイルズ、ウルフ、ビアマネー・インクらによるTNA版フォー・ホースメンフォーチュンFortune)を結成、ユニットの総帥として活動した。

2012年アーン・アンダーソンタリー・ブランチャードバリー・ウインダム、マネージャーのJ・J・ディロンと共に、フォー・ホースメンとしてWWE殿堂入り[10]。2008年に続き、2回に渡って殿堂に迎えられた初の人物となった[11]

日本との関わり[編集]

日本および日本人レスラーとの関わりも深い。初来日は1973年6月、国際プロレスの『ビッグ・サマー・シリーズ』である。来日前に雑誌やパンフレットなどに掲載されていた写真は、汚らしい赤毛に下品な口髭、ポッコリと出た腹、とかなり冴えないスタイルだったが、実際に日本に来た時には精悍な顔に口髭はきれいに剃り落とされ、髪型もダイナマイト・キッドを彷彿とさせるショート・ヘア、腹もシェイプアップされ関係者を驚かせた[12]。初来日の国際プロレスのリングでは、6月26日に大館ラッシャー木村との金網デスマッチも行われている(フレアーは、金網マッチへの出場はもとより、試合での流血もこのときが初めてであったと自著で述懐している[13])。また、同シリーズには後にNWA世界王座を巡るライバルとなるダスティ・ローデスディック・マードックジ・アウトローズがエース格として参加しており、トリオを組んでメインイベントの6人タッグマッチにも時折出場し、マイティ井上戦と寺西勇戦はTBSTWWAプロレス中継』で放送された[14]

二度目の来日となる1978年4月、NWAルートにより全日本プロレスに初参戦(『エキサイト・シリーズ』前半戦への特別参加)。当時のフレアーはすでにミッドアトランティック地区のトップスターであり、次期NWA世界王者候補として5年前の初来日時とは比較にならないほどの注目を集め、ジャンボ鶴田UNヘビー級王座に挑戦した。なお、同シリーズには初来日時に遥かに格上だったディック・マードックも参戦していたが、このシリーズでのフレアーはマードックと同等以上の大物扱いを受けた。

その後、NWA世界王者となった1981年10月、全日本プロレスへの再来日が実現(『ジャイアント・シリーズ』序盤戦への特別参加)。シリーズ中は天龍源一郎テリー・ファンク、ジャンボ鶴田の3者の挑戦を受けている[15]。以降もNWA世界王者として全日本プロレスに何度となく来日し、1982年から1987年にかけて、鶴田、天龍、リッキー・スティムボートブルーザー・ブロディテッド・デビアスザ・グレート・カブキハーリー・レイス長州力谷津嘉章タイガーマスク輪島大士らを挑戦者に迎え、防衛戦を行った。

その間、1984年5月7日にテキサス州フォートワースケリー・フォン・エリックにNWA世界王座を奪われるも、同月24日に横須賀にてケリーを破り、日本でタイトルを奪還[16]1985年10月21日には両国国技館にて当時のAWA世界王者リック・マーテルと、史上初になるNWAAWAの世界ダブル・タイトルマッチを闘っている(結果は両者リングアウト)[17]

1991年3月21日、WCWとの提携ルートで新日本プロレスに初参戦、東京ドームにてIWGP王者藤波辰爾とのダブル・タイトル戦が実現した。1995年4月29日には、新日本が主催した北朝鮮でのプロレス興行『平和のための平壌国際体育・文化祝典』に出場、綾羅島メーデー・スタジアムにてアントニオ猪木とシングルマッチで対戦している。また、武藤敬司がWCWでグレート・ムタとして活躍していた1989年から1990年にかけては、ムタはテリー・ファンク、フレアーはスティングをパートナーに抗争を展開し、連日のように対戦していた。

2002年3月1日、WWF横浜アリーナ大会『スマックダウン・ツアー・ジャパン』で久々に来日。リング上で挨拶を行った際、過去に日本で対戦したレスラーの名前を挙げた。順番に「ジャンボ鶴田」「天龍源一郎」「ブルーザー・ブロディ」「スタン・ハンセン」「テリー・ファンク」「ハーリー・レイス」「アントニオ猪木」「長州力」「蝶野正洋」「藤波辰爾」「ジャイアント馬場」「グレート・ムタ」の12選手である。なお、この時ゲストとして実況席にいた武藤には、フレアーが自ら手を差し向けて敬意を示した。また、2005年2月4日WWEテレビショーさいたまスーパーアリーナ大会『ROAD TO WRESTLEMANIA 21 JAPAN TOUR』ではショーン・マイケルズとシングルで対戦している。

2008年WWE有明コロシアム大会(2月11日)・日本武道館(2月12日)大会のPRのため、クリス・ジェリコキャンディス・ミシェルとともに来日。司会を務めた草野仁からチョップを貰った。お返しはサイン入りのベルトだった。

2013年1月26日全日本プロレスに息子のリード・フレアーと共に参戦した。急病で試合には出られずセコンドでの応援となった。

得意技[編集]

ハルク・ホーガン足4の字固めをかけるリック・フレアー
ショーン・マイケルズと共にバックハンド・チョップを放つリック・フレアー

フレアーは限られたムーブで客を沸かすことができるという点で、極めて高い技術を持ったプロレスラーであると目されている。

足4の字固め
フィニッシュで使う場合は相手の片足を掴んだ状態からフレアー・ムーヴ(アピール)を行い、技をかける(実際には試合の流れを変える場面でよく使われる)。ロックを手で外されるのを防ぐのとダメージを増すために自ら体を捻るのがフレアー式足4の字の特徴。
バックハンド・チョップ
一発浴びせる毎に観客がフレアーの決め台詞「Wooooo!!」と叫ぶのが通例。近年ではフレアーに敬意を表し、どのレスラーが放っても観客が「Wooooo!!」と叫ぶことが多い。
ブレーンバスター
滞空時間が長いことで有名。
反則攻撃
サミングローブロー、噛みつき、ロープやタイツを掴んでのフォールなど。

全盛期の得意技[編集]

ダブルアーム・スープレックス
史上初のNWA・AWAダブルタイトル戦となった1985年リック・マーテルとの試合でマーテルをこの技で投げた。レスラーとしては中量級のフレアーだったが、マーテル、スティムボート、ザ・グレート・カブキのような、自分と体格があまり変わらない対戦相手には時折繰り出していた。
スリーパーホールド
バーン・ガニア直伝で、全盛期時のフレアーの隠れた必殺技。この技でダスティ・ローデスイワン・コロフなどを絞め落としている。
ニー・クラッシャー
足4の字固めをフィニッシュにする場合、相手の足へのエルボーやこの技で徹底した足殺しを行ってから移行することが多い。この足殺しから足4の字固めの一連のムーブは武藤敬司に受け継がれている。
パイルドライバー
ドリル・ア・ホール式。時々リバースで返されるのもお約束のムーブである。
抱え式バックドロップ
ルー・テーズ型のものとよく対比される。
ダイビング・クロス・ボディ
この技でハーリー・レイスからNWA世界ヘビー級王座を奪取。フレアー自身が「ライバルでもあり、親友でもあるリッキー(・スティムボート)が切り札に使ってて『格好いいなあ』と思っていた」(月刊デラックス・プロレスでのインタビューより)という、全盛期時のフレアーのお気に入りの技であった。
ニー・ドロップ
ショートレンジでゆっくりとしたモーションから相手の額や顔面に膝を落とす。ハーリー・レイスが同じようなニー・ドロップを得意としており、NWA世界王座を巡るレイスとの幾度の戦いから学んだものと思われる。足4の字固めをフィニッシュにする際は、このニー・ドロップを相手の膝関節、脛に落とすこともあった。

やられ技[編集]

デッドリー・ドライブで投げられる
コーナーに登りダイビング攻撃を狙ったところを対戦相手に察知されて派手に投げつけられ、リングの中央付近まで跳躍しサマーソルト・ドロップのような体勢で着地するという定番ムーブ。ハーリー・レイスジャイアント馬場との試合でよく見せていた。
投げられる前に相手に許しを請う(恐れおののいた表情で首や手を振る)のが基本。何の技を繰り出そうとしてコーナーに登ったのかは誰も知らないとさえいわれている。投げられる際タイツをつかまれて尻が丸出しになったまま飛んでいくことも度々だが、本人いわく「ハウス・ショー(テレビ中継がない大会)でしかやらない」とのこと。
2005年にフェイスターンした頃、コーナーダイビングはやられ技では無く確実に成功する技となったことがある。レッスルマニア24での引退試合では、投げられずにダイビング・クロス・ボディを決めた。
前のめり受身(フェイス・ファースト・バンプ)
相手の連続攻撃を食らったあとに、フラフラ歩いて前方に倒れる。「顔面受け身」とも呼ばれ、倒れるモーションで観客を沸かせてしまうというフレアーならではのれっきとした「見せ場作りの技」である。
コーナーに投げられ、そのまま1回転して場外転落
現在はショーン・マイケルズなども行っている、1回転してエプロンサイドに立ち、そのままコーナーに登ることもあった。
フレアー・ウォーク(ネイチ・ウォーク)
"元祖ネイチ" バディ・ロジャースの「ロジャース・ウォーク」を受け継いだ、伊達男のようにかっこつけながら大げさに歩くムーブ。この後に「Woooo」と続けたり、起き上がった相手に反撃されたりする。
Oh, No!
不利になったときに両膝をついて相手に許しを乞う。または後ずさりをする。体勢としては両手の平を顔の前に出し、首を振る。この直後にサミング・急所攻撃をすることもしばしば。

獲得タイトル[編集]

2009年WWE殿堂入りが実現
NWA
WCW
WWF / WWE

入場曲[編集]

その他[編集]

  • 1980年代のNWA王者時代、フレアーはジム・クロケット・プロモーションズと専属契約を結んだ。これによってクロケット・プロがNWA内での発言力を高めたために連盟のパワーバランスが崩れ、NWA崩壊の一因となったといわれる。
  • セスナ機墜落事故の恐怖により、背中から受身を取ることができなくなった。近年でもデッドリー・ドライブショルダースルーなど落下系の技を受ける際は肩を下にして斜めに受身を取っていた。
  • 若手の頃から金遣いの荒さは有名で(『財布やポケットに現金があると使わないと気が済まない性格』だそうである)、NWA王者として全日本プロレスに来日した際、試合後同僚の外人レスラー、全日の若手レスラー、さらにはジョー樋口などのレフェリー、リングアナ、居残っていた営業や裏方までを引き連れて、赤坂の高級クラブに飲みに出かけた。すべてフレアーの奢りということで全員遠慮なく飲み食いしまくったが、翌日クラブから全日にきた請求額はなんと300万円以上だったそうで(もちろんギャラからは引かれたであろうが)流石にジャイアント馬場にたしなめられたという[18]
  • ただ、上記のようなエピソードに関しては、フレアー自身の金遣いの荒い浪費家の部分ももちろんだが、「自分はトップ、世界王者なのだから自分より稼ぎの少ないレスラーや裏方達に酒や食事くらい奢るくらいは当然」という気持ちもあったらしい。天龍源一郎はインタビューで「彼の試合展開は正直好きじゃなかったけど」と前置きしながらも「誰に対しても同業者のレスラーに対しては常に敬意を払うことを忘れなかったし、トップだから稼げないレスラーにご馳走するというのが徹底している人だった」と自身がアメリカ修行時代にフレアーに世話になったことを交えて「フレアーには『プロとは…』というのを身を持って教えられた。それから『トップは優しくあれ』というのをね」と語っている[19]
  • 1983年、ハーリー・レイスにNWA世界王座を奪われ無冠となったフレアーは年末の全日プロの世界最強タッグに一週間だけ来日し、ジャンボ鶴田インターナショナル・ヘビー級王座に挑戦の予定だった。ところが来日直前にレイスからNWA王座の奪回に成功し、「NWAの『世界』王者がワンランク下であるインターナショナル王者に挑戦するのはナンセンスだ」というNWA本部の勧告により、試合は急遽30分一本勝負の「世界王者フレアー対インターナショナル王者鶴田」のNWAエキシビジョンマッチとしてノンタイトル戦で行われた。結果は30分時間切れ引き分けだったがフレアーは試合内容には満足できたようで、週刊プロレス誌において「俺だってジャンボと互角のファイトが出来るレスラーだってこと、これで日本のファンにも分かってもらえただろ?」とコメントしていた。
  • 「16回の世界王者」と呼ばれるが、NWA王座からWCW王座の過渡期は系譜が非常に曖昧なため、実際には19回とカウントすることもできる。またWCW所属時にはWWF王座歴をカウントせずに「14回の世界王者」と名乗っていた。
  • 数々の「やられ芸」を持つフレアーだが、「Oh, No!」のポーズは初代ネイチャーボーイのバディ・ロジャース、「前のめり受身」「コーナー上からのデッドリードライブ」はレイ・スティーブンス、そして「尻出し」はディック・マードックがそれぞれ得意としていたものを受け継いだものである。
  • 定番アピールの「Wooooo!」は元々ジェリー・リー・ルイスが『火の玉ロック』の曲中でやっていたものを真似し、自分流にアレンジしたものである。
  • フレアーはニーパッドを膝からやや下にずらして着用しているが、これは得意技の足4の字固めのグリップを高めるための工夫である。
  • 2003年、3枚組のトリビュートDVD『The Ultimate Ric Flair Collection』が発売された。
  • 2004年、自伝『Ric Flair: To Be The Man』を発表。
  • 2004年にハーリー・レイス、2005年にはロディ・パイパーWWE殿堂入り式典において、彼らを紹介し盾を授与するインダクターを担当。

脚注[編集]

  1. ^ a b c d Wrestler Profiles: "Nature Boy" Ric Flair”. Online World of Wrestling. 2010年6月4日閲覧。
  2. ^ NWA Mid-Atlantic Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年6月4日閲覧。
  3. ^ NWA Mid-Atlantic Television Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年6月4日閲覧。
  4. ^ NWA Mid-Atlantic Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年6月4日閲覧。
  5. ^ The plane crash that changed wrestling”. SLAM! Sports (December 28, 2000). 2010年6月4日閲覧。
  6. ^ NWA World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年6月4日閲覧。
  7. ^ NWA United States Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年6月4日閲覧。
  8. ^ NWA World Heavyweight Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年6月4日閲覧。
  9. ^ [1] Robinson, Bryan(2007-11-26). Win or go home - for good. WWE
  10. ^ WWE Hall of Fame: The Four Horsemen”. WWE.com. 2012年4月2日閲覧。
  11. ^ Ric Flair to appear at WWE Hall of Fame ceremony”. WWE.com. 2012年3月27日閲覧。
  12. ^ 『THE WRESTLER BEST 100』P160(1981年、日本スポーツ出版社
  13. ^ リック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』P44(2004年、エンターブレインISBN 4757721536
  14. ^ 「忘れじの国際プロレス」P96 ベースボール・マガジン社2014年
  15. ^ The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1981”. Wrestling-Titles.com. 2012年9月16日閲覧。
  16. ^ The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1984”. Wrestling-Titles.com. 2012年9月16日閲覧。
  17. ^ The Records of NWA World Heavyweight Championship Matches 1985”. Wrestling-Titles.com. 2012年9月16日閲覧。
  18. ^ 月刊ビッグレスラー 1982年10月号 『石川敬士インタビュー』より (立風書房
  19. ^ Gスピリッツ No.17『追憶の昭和・全日本』(辰巳出版)の天龍源一郎インタビューより

関連項目[編集]

外部リンク[編集]