グレッグ・ガニア

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グレッグ・ガニア
プロフィール
リングネーム グレッグ・ガニア
本名 グレゴリー・アラン・ガニア
身長 183cm
体重 100kg(全盛時)
誕生日 1948年7月27日(66歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ミネソタ州ロビンズデール
トレーナー バーン・ガニア
デビュー 1972年
引退 1989年
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グレッグ・ガニアGreg Gagne、本名:Gregory Alan Gagne1948年7月27日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーミネソタ州ロビンズデール出身。

AWAの帝王」と呼ばれたバーン・ガニアの息子であり、AWAのブッカーとしても活動した。

来歴[編集]

キャリア初期[編集]

父親であるバーン・ガニアのトレーニングを受け、1972年に父が運営するAWAにてデビュー。トレーニング・キャンプの同期には、リック・フレアーケン・パテラコシロ・バジリらがいた(デビュー後はフレアーとの試合が頻繁に組まれ、両者は親友の間柄になったという[1])。

1973年9月には当時AWAと提携していた国際プロレスに初来日。『第5回IWAワールド・シリーズ』に出場したものの、キャリア不足のために白星配給係に甘んじた(リーグ戦の決勝はラッシャー木村ブラックジャック・マリガンで争われ、木村がマリガンを下し優勝している)。

ハイ・フライヤーズ[編集]

1976年、同期のジム・ブランゼルハイ・フライヤーズThe High Flyers)を結成。1977年7月7日にブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンからAWA世界タッグ王座を奪取したが、翌1978年9月にブランゼルが負傷し防衛戦を行えなくなったことにより王座を剥奪された[2]

以降はシングルプレイヤーとしての活動を続け、ニック・ボックウィンクルAWA世界ヘビー級王座に再三挑戦。また、当時バーン・ガニアと良好な提携関係を結んでいたビンス・マクマホン・シニアWWFにもゲスト参戦し、1980年8月9日にニューヨークシェイ・スタジアムで行われたビッグ・イベント "Showdown at Shea" にも出場している[3]

1981年からはAWAに復帰したブランゼルとハイ・フライヤーズを再結成。同年6月14日、イースト・ウエスト・コネクション(ジェシー・ベンチュラ&アドリアン・アドニス)を破りAWA世界タッグ王座に返り咲く。以降1983年6月26日にザ・シークス(シーク・アヤトーラ・ブラックウェル&ロレンス・オブ・アラビア)に敗れるまで、2年間に渡ってタイトルを保持した[2]

この間の1982年5月、AWA世界タッグ王者チームとしてブランゼルと共に全日本プロレスに参戦。6月8日の蔵前国技館大会ではリッキー・スティムボート&大仁田厚を相手に防衛戦を行っている。王座陥落後の1984年4月にもブランゼルとのハイ・フライヤーズで全日本に再来日し、PWF世界タッグ王座の決定リーグ戦に出場した。このときの来日では、ジャンボ鶴田(同年2月にニック・ボックウィンクルを破り載冠)のAWA世界ヘビー級王座にも挑戦している[4]

AWA末期[編集]

ブランゼルのWWF移籍後は1985年ブルーザー・ブロディと単発抗争。サージェント・スローターのパートナーとなりコンバット・スタイルに変身したこともあった。また、ブッカーとしてオフィス業務も兼任、1986年にはミッドナイト・ロッカーズ(マーティ・ジャネッティ&ショーン・マイケルズ)をブッキングし、ベテラン中心だったAWAの選手層を若返らせ、女性ファンや子供ファンの動員を図った。

しかし当時のAWAは、全米侵攻を進めるWWFとのレスリング・ウォーで苦戦を強いられ、観客数が年々激減。興行の規模も選手の顔ぶれも最盛期と比べ大幅にスケールダウンしていく中、グレッグはブッカー兼務の主力ベビーフェイスとしてカート・ヘニングラリー・ズビスコら新AWA世界王者との抗争を続けた。1987年12月には旧敵アドリアン・アドニスを破り、ESPNでの放送用に新設されたAWAインターナショナルTV王座の初代チャンピオンとなっている[5]

1989年10月1日、空位となっていたAWA世界タッグ王座の争奪トーナメントにポール・ダイヤモンドと組んで出場、デストラクション・クルー(ウェイン・ブルーム&マイク・イーノス)との決勝戦に臨んだが、試合に乱入してきたコキーナ・マキシマスの攻撃により足を負傷して引退。以降はオフィス業務に専念しつつ、放送席でのカラー・コメンテーターも担当したが、AWAは1991年に活動を停止した[6]

AWA以降[編集]

AWA崩壊後、1990年代半ばにAWA時代の部下でもあったエリック・ビショフの仲介でWCWのブッキング・コミッティに参画していたが、ビショフとの間に軋轢が生じて解雇されている[7][8]

アトランタからミネソタに戻ると、ブルーミントンにて友人の経営する三菱自動車の販売代理店に勤務。AWAでのブッカー時代に培ったマーケティング・ノウハウを活かし、売上拡大に貢献したという[7]。以後、しばらくプロレスリング・ビジネスから離れることとなった。

2006年、父バーン・ガニアのWWE殿堂入りが決定し、4月1日にイリノイ州ローズモントで行われた顕彰セレモニーにてインダクター(プレゼンター)を担当[9]。バーン共々、公の場に久々に姿を見せた。以降はフルタイムのロード・エージェントとしてWWEと契約、6月からはOVWDSWなど当時の下部団体にてブッカーやトレーナーも務めたが、9月にWWEを解雇された[7][10]

近年は自動車販売代理店に復職してマネージャーを務める一方、旧友のジム・ブランゼルらと共にプロレスリング・スクール "Gagne Wrestling Association" を運営、後進の指導・育成にあたっている[7]

得意技[編集]

獲得タイトル[編集]

脚注[編集]

  1. ^ リック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』P40(2004年、エンターブレインISBN 4757721536
  2. ^ a b c AWA World Tag Team Title”. Wrestling-Titles.com. 2010年5月7日閲覧。
  3. ^ Showdown at Shea 1980”. Pro Wrestling History.com. 2010年5月7日閲覧。
  4. ^ 『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P43(2002年、日本スポーツ出版社
  5. ^ a b AWA International Television Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年5月7日閲覧。
  6. ^ American Wrestling Association”. Wrestling-Titles.com. 2010年5月7日閲覧。
  7. ^ a b c d New Gagne school blends now and then”. SLAM! Sports: January 13, 2009. 2010年5月4日閲覧。
  8. ^ 『Gスピリッツ Vol.15』P83「AWA概史 後編 ニック・ボックウィンクルの時代」(2010年、辰巳出版ISBN 477780772X
  9. ^ Greg Gagne on his father's upcoming induction into the WWE Hall of Fame”. WWE.com: March 15, 2006. 2010年5月7日閲覧。
  10. ^ Wrestler Profiles: Greg Gagne”. Online World of Wrestling. 2010年1月28日閲覧。

外部リンク[編集]