オレイ・アンダーソン
| オレイ・アンダーソン | |
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右がオレイ、左はJ・J・ディロン(2011年)
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| プロフィール | |
| リングネーム | オレイ・アンダーソン ロック・ロゴウスキー アラン "ザ・ロック" ロゴウスキー |
| 本名 | アラン・ロバート・ロゴウスキー |
| 身長 | 183cm - 185cm |
| 体重 | 116kg - 120kg |
| 誕生日 | 1942年9月22日(70歳) |
| 出身地 | ミネソタ州ミネアポリス |
| スポーツ歴 | レスリング |
| トレーナー | バーン・ガニア |
| デビュー | 1967年 |
| 引退 | 1993年 |
オレイ・アンダーソン(Ole Anderson)のリングネームで知られるアラン・ロゴウスキー(Alan Robert Rogowski、1942年9月22日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、ブッカー。ミネソタ州ミネアポリス出身のポーランド系アメリカ人。
目次 |
来歴 [編集]
ミネソタ州立大学でレスリングの選手として活躍後、1967年8月に地元ミネアポリスのAWAにて、ロック・ロゴウスキー(Rock Rogowski)のリングネームでデビュー。レスリングの下地を持つ若手ヒールとして頭角を現し、AWAの新人賞を獲得した[1]。1960年代末よりNWA圏のミッドアトランティック地区に転出し、オレイ・アンダーソンと改名。ジン・アンダーソン&ラーズ・アンダーソンのミネソタ・レッキング・クルー(The Minnesota Wrecking Crew)に加入する。
以降、ラーズ脱退後のジンのパートナーとなり、1970年代全般にかけてミッドアトランティックやジョージア州のGCW(Georgia Championship Wrestling)など、NWAの南部テリトリーを席巻。ミッドアトランティックではリック・フレアー&グレッグ・バレンタインやダスティ・ローデス&ディック・スレーターなどの強豪チームを破り、NWA世界タッグ王座を再三獲得した[2]。GCWではラーズともコンビを組み、1978年3月にミスター・レスリング2号&トニー・アトラス、1980年6月にイワン・コロフ&アレックス・スミルノフを下しジョージア・タッグ王座を奪取している[3]。
ジンとのコンビ解消後はGCWを本拠地とし、ワフー・マクダニエル、ジャック・ブリスコ、トミー・リッチ、マスクド・スーパースター、スタン・ハンセンらと激闘を展開。ハンセンとはタッグも組んでおり、1982年2月28日にアトランタで行われたミッドアトランティック版NWA世界タッグ王座の争奪トーナメントでは、ハンセンとのチームで優勝を飾っている(このトーナメントには日本からジャンボ鶴田と天龍源一郎の鶴龍コンビも出場しており、両チームは準決勝で対戦した)[4]。
GCWではプロモーターのジム・バーネットの懐刀となりブッカーも兼任していたが、1984年4月9日、GCWがビンス・マクマホンのWWFに買収されたために失脚(「ブラック・サタデー」の項も参照)。以降は新組織のCWG(Championship Wrestling from Georgia)に参画し、1985年4月にミッドアトランティックのジム・クロケット・プロモーションズがCWGを吸収合併すると同団体に移籍。CWGでのパートナーだったミネソタ・レッキング・クルーの「四男」アーン・アンダーソンとのタッグチームで活動し、1986年からはアーン、リック・フレアー、タリー・ブランチャードらとフォー・ホースメン(The Four Horsemen)を結成した。
クロケット・プロがテッド・ターナーに買収されてWCWに移行してからはセミリタイアし、ジョージア時代と同様にブッキング業務を担当。1990年よりヘッド・ブッカーに就任し、1994年5月にはPPV "Slamboree 1994" にてWCW殿堂に迎えられた。しかし、息子のブライアン・ロゴウスキー(ブライアント・アンダーソン)を売り込むためにジム・コルネットのスモーキー・マウンテン・レスリングと接触したことが原因で、同年にエリック・ビショフによってWCWを解雇された[5]。その後はプロレスリング・ビジネスとの関わりを絶っていたが、WCW崩壊後の2003年に自伝 "Inside Out" を編集者との共著で発表している[5]。
ブッカー兼務で多忙だったこともあり、来日回数は通算3回と少なく、初来日は1970年1月の日本プロレス、再来日は1973年10月の国際プロレスで、それぞれジン・アンダーソンとのコンビで参戦した(日プロではアントニオ猪木&吉村道明のアジアタッグ王座に、国プロではラッシャー木村&グレート草津のIWA世界タッグ王座に挑戦している)。3度目は1986年3月、旧友スタン・ハンセンの仲介で全日本プロレスに来日し、久々の日本マット登場を果たした。このときはレスラーとしてよりも、当時のアメリカにおけるNWAとWWFのレスリング・ウォーの内情を知る人物として関係者の注目を集めた。
エピソード [編集]
- 毒舌家として知られ、ブッカー時代はブラックジャック・マリガンをはじめ選手との衝突も少なくなかった。しかし、スタン・ハンセンは彼の口の悪さをジョークとして受け流し、時には悪口で切り返すことで親友になったと自著で述懐している。ハンセンはオレイのことを、アメリカン・プロレス全盛時におけるベスト・ブッカーだったと高く評価している。[6]
- GCWがWWFに買収された翌日、TBSのスタジオに入ろうとしたビンス・マクマホンとゴリラ・モンスーンに対し「ここから消え失せろ」などと毒づいた。その際、ビンスは和解案として協働を持ちかけたものの、オレイは嫌悪感を露わにしながらそれを拒絶したという。オレイはGCWの株式を10%保有していたが、主要株主のブリスコ兄弟(ジャック&ジェリー)と不仲だったこともあり、WWFとGCWの株取引はオレイ不在の状態で進められていた。[7]
獲得タイトル [編集]
- AWAミッドウエスト・ヘビー級王座:1回
- AWAミッドウエスト・タッグ王座:2回(w / オックス・ベーカー、ザ・クロウ)
- NWAフロリダ・タッグ王座:1回(w / ロン・ガービン)
- NWAフロリダTV王座:1回
- NWAコロンバス・ヘビー級王座:1回
- NWAジョージア・タッグ王座:17回(w / ジン・アンダーソン×7、イワン・コロフ×5、ラーズ・アンダーソン×2、レネ・グレイ、アーニー・ラッド、ジェリー・ブリスコ)
- NWAジョージアTV王座:2回
- NWAメイコン・ヘビー級王座:1回
- NWAメイコン・タッグ王座:1回(w / ジン・アンダーソン)
- NWAナショナル・タッグ王座:1回(w / サンダーボルト・パターソン)
- NWAサウスイースタン・タッグ王座(ジョージア版):1回(w / ジン・アンダーソン)
- NWAアトランティック・コースト・タッグ王座:4回(w / ジン・アンダーソン)
- NWAイースタン・ステーツ・ヘビー級王座:1回
- NWAミッドアトランティック・タッグ王座:3回(w / ジン・アンダーソン)
- NWAナショナル・タッグ王座:1回(w / アーン・アンダーソン)
- NWA世界タッグ王座(ミッドアトランティック版):8回(w / ジン・アンダーソン×7、スタン・ハンセン)
- WCW Hall of Fame(1994年)
- NWAサウスイースタン・ヘビー級王座(北部版):1回
脚注 [編集]
- ^ 『全日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P63(2002年、日本スポーツ出版社)
- ^ “NWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2009年10月22日閲覧。
- ^ “NWA Georgia Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年6月14日閲覧。
- ^ 『デラックス・プロレス 1982年5月号』P34-P36(1982年、ベースボール・マガジン社)
- ^ a b “Ole lets loose in new book”. SLAM! Wrestling: December 22, 2003. 2011年12月22日閲覧。
- ^ スタン・ハンセン著『魂のラリアット』P168-P172(2000年、双葉社、ISBN 4575291080)
- ^ ショーン・アセール、マイク・ムーニハム著『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実 』P67(2004年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583037880)