スコット・ホール
| スコット・ホール | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム | スコット・ホール レイザー・ラモン ビッグ・スコット・ホール ダイヤモンド・スタッド テキサス・スコット スターシップ・コヨーテ |
| 本名 | スコット・オリバー・ホール |
| ニックネーム | バッド・ガイ ローンウルフ ザ・カウボーイ |
| 身長 | 198cm |
| 体重 | 127kg |
| 誕生日 | 1958年10月20日(54歳) |
| 出身地 | フロリダ州タンパ |
| トレーナー | ヒロ・マツダ バリー・ウインダム マイク・ロトンド |
| デビュー | 1984年10月 |
スコット・ホール(Scott Oliver Hall、1958年10月20日 - )は、アメリカ合衆国のプロレスラー。フロリダ州タンパ出身。1990年代後半に一世を風靡したnWoのオリジナルメンバーであり、WWFではレイザー・ラモン(Razor Ramon)のリングネームでも活躍した。
息子のコーディ・ホールもプロレスラーであり、現在はインディー団体で活動している。
目次 |
来歴 [編集]
初期 [編集]
バリー・ウインダムのもとでプロレスラーとしての基礎を学んだ後、1984年10月にフロリダ地区でデビュー。デビュー当初は "スターシップ" コヨーテを名乗り、"スターシップ" イーグル(ダニー・スパイビー)とのタッグチーム、アメリカン・スターシップとして活動、ミッドアトランティック地区やセントラル・ステーツ地区など、NWAの加盟テリトリーを主戦場としていた。
1985年から本名のスコット・ホール名義でAWAに参戦し、カート・ヘニングとタッグを結成。1986年1月18日、ジミー・ガービン&スティーブ・リーガルからAWA世界タッグ王座を奪取した[1]。1987年5月、当時AWAとの招聘ルートを持っていたマサ斎藤のブッキングで新日本プロレスに初来日を果たす。以降も新日本の常連外国人として、1990年まで7回に渡って来日。1990年3月19日にはパニッシャー・ダイス・モーガン(後のジ・アンダーテイカー)とのコンビでマサ斎藤&橋本真也のIWGPタッグ王座に挑戦した。
1990年、オットー・ワンツの主宰するヨーロッパのCWAに "西部の荒くれ者" テキサス・スコットを名乗り参戦。その後プエルトリコなどを転戦し、1991年よりWCWにホール自身の発案による "世界一セクシーな男" ダイヤモンド・スタッドとして登場する(リングネームは、ダイヤモンド・ダラス・ペイジがマネージャーを務めたことに由来)。1992年にポール・E・デンジャラスリー率いるデンジャラス・アライアンスに加入するが、タイトル戦線に絡むことはできず、同年にWCWを離脱した。
WWF [編集]
1992年下期、WWF(現・WWE)へ移籍。キューバからの密入国者で、マイアミのビーチでドラッグを密売しているというギミックの "バッド・ガイ" レイザー・ラモンへとリングネームを改める。当初はバッド・ガイの異名通りヒールとしてリック・フレアーともタッグを組んでいたが、1993年5月17日のマンデー・ナイト・ロウでジョバーのショーン・ウォルトマンに3カウントを奪われたことを機に、ウォルトマンとの友情アングルが組まれベビーフェイスに転向。同年9月27日にはリック・マーテルとの王者決定戦に勝利してインターコンチネンタル王座を獲得[2]。翌1994年3月20日、レッスルマニア10において前IC王者ショーン・マイケルズと繰り広げたラダー・マッチは、WWE史に残る名勝負として知られている。
その後もIC王座を巡り、マイケルズのボディーガード役を務めていたディーゼルをはじめ、ジェフ・ジャレット、ゴールダスト、ディーン・ダグラスらと抗争を展開した。また、当時WWFと提携していたテネシー州メンフィスのUSWAにも出場し、1995年4月3日にビル・ダンディーからUSWA統一世界ヘビー級王座を奪取、5月1日にジェリー・ローラーに敗れるまでタイトルを保持した[3]。
1996年頃から契約などに関する不満を公然と口にするようになり、またリング外でトラブルを起こすようにもなり、遂には試合に出場できなくなってしまう。そしてWCWからオファーを受けると、契約がまだ残っているにもかかわらず移籍を決めてしまう。さらにその1週間後、盟友のディーゼルことケビン・ナッシュも同様に契約が残っていながら移籍を決意。これに対しWWFは、スコット・ホールおよびケビン・ナッシュはまだWWFの契約下にあり、WCWとの契約は無効だとの訴えを起こすが、裁判所が判断を回避したため、当初の予定からは幾分遅れることにはなったものの、WCWへの移籍を果たす。
WCW [編集]
レイザー・ラモンのリングネームはWWFが商標登録していたため、WCWには本名のスコット・ホールとして1996年5月より参戦。実際はWWFから引き抜かれたにすぎなかったものの、移籍当初はケビン・ナッシュと共に、ビンス・マクマホンの指示を受けてWCWを潰しにアトランタにやって来たと称していた。これはエリック・ビショフが日本の『新日本プロレス対UWFインターナショナル』の対抗戦をヒントに考え出した[4]、『WWF対WCW』という団体間の抗争アングルに基づいたストーリーだった。
しかし、この『WWF対WCW』はすぐに頓挫。そのため急遽アングルが変更され、ハルク・ホーガンを加えた3人でnWoを結成する。その後シックスらを加えて一大勢力となり、プロレス界の枠を越えた一大ブームを巻き起こした。しかし、マンネリ化によりnWoのストーリーが終結した2000年、度重なるアルコール依存症による無断欠場と、暴力事件での逮捕がきっかけとなりWCWを解雇された。
2000年 - 現在 [編集]
WCW解雇後の2000年11月10日、11月11日、12月24日の3日間のみECWに登場。2001年3月には、TEAM 2000のメンバーとして新日本プロレスに参戦し、武藤敬司の持つ三冠ヘビー級王座にも挑戦している。
2002年2月、ホーガンやナッシュと共にWWFと再契約、オリジナルメンバーでnWoを再結成する。同年3月17日のレッスルマニア18ではストーン・コールド・スティーブ・オースチンと対戦したが、nWoのストーリーが進行中の同年5月、遠征先のイギリスでのトラブルによってWWFを解雇された。
WWF解雇後は散発的な活動を続け、2004年はケビン・ナッシュと共にハッスルに来日、アメリカではTNAに登場した。しばらくリングから離れた後、2007年7月13日にプエルトリコのWWCに参戦。当時WWEに所属していたカリートと対戦し、翌日にはWWCユニバーサル・ヘビー級王座を獲得した[5]。2009年3月には五大湖地区のインディー団体であるGLCW(Great Lakes Championship Wrestling)にナッシュとのコンビで出場し、ニュー・エイジ・アウトローズと対戦。nWoとDXの初対決を実現させている。
2010年、TNAと再契約し、ナッシュ、ウォルトマンとTNA版nWoとも言えるザ・バンド(the BAND)を結成。しかし、ウォルトマンの退団に伴いユニットは迷走し始め、遂にはホール自身も6月にTNAからリリースされたため短期間でthe BANDは終焉を迎えた。
一時は長年にわたる多量の飲酒、コカインや鎮痛剤などの過剰摂取の影響で、日によっては一人で歩くことすらままならなくなっていたが徐々に回復。2011年7月17日には地元フロリダのインディー団体アイ・ビリーブ・イン・レスリング(I Believe in Wrestling)に、息子のコーディ・ホールと共に登場。女子レスラーのサンタナ・ギャレットのセコンドとして親子共演が実現した。
得意技 [編集]
- ハイジャック・バックブリーカーの体勢で頭の上まで相手を担ぎ上げ、前方に投げ捨てるタイプのパワーボム。
- ブロックバスター
獲得タイトル [編集]
- WWFインターコンチネンタル王座 : 4回
- WCW USヘビー級王座 : 2回
- WCW世界タッグ王座 : 7回(w / ケビン・ナッシュ×6、ザ・ジャイアント)
- WCW TV王座 : 1回
- AWA世界タッグ王座 : 1回(w / カート・ヘニング)
- USWAユニファイド世界ヘビー級王座 : 1回
- WWCカリビアン・ヘビー王座 : 1回
- WWCユニバーサル・ヘビー王座 : 1回
その他 [編集]
- 入場時やインタビュー中は常に爪楊枝をくわえており、相手に投げつけるのがお約束。
- タイツにプリントされている「KLIQ」(クリック)は、ニュー・ジェネレーション期のWWFにおけるディーゼル、ショーン・マイケルズ、ハンター・ハースト・ヘルムスリー、1-2-3キッドとのユニット(バックステージで行動を共にする親友同士のユニットであり、リング上での活動は行わない)の名前で、排他的な徒党の意味。レックス・ルガーが名付けた。
- 1980年代後半の新日本プロレス参戦時は、第2のハルク・ホーガンとして期待を寄せられていた。来日中は船木誠勝と共に骨法の道場に通っていたこともある。
- 2011年にESPNにて放送されたE60シリーズにレスラーとして、そして薬物依存症に陥ってからの人生を特集された。
脚注 [編集]
- ^ “AWA World Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2011年6月1日閲覧。
- ^ “History of the WWE Intercontinental Championship”. WWE.com. 2011年6月1日閲覧。
- ^ “USWA Unified World Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月8日閲覧。
- ^ ハルク・ホーガン自伝『Hollywood Hulk Hogan』(ISBN 4757714483)によると、「かつて日本では以前数人のレスラーが他団体に移籍して殴り込みをかけたことがあった。ビショフがそれを参考にしたかどうかはわからない」(大意)とあり、ジャパンプロレスもそのモデルの一つと推定される。
- ^ “WWC Universal Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2012年4月8日閲覧。