UWFインターナショナル

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索

UWFインターナショナル(ユー・ダブリュー・エフ・インターナショナル)は、かつて存在した日本プロレス団体。正式名称はユニオン・オブ・プロフェッショナル・レスリング・フォース・インターナショナルUnion of Professional Wrestling Force International)。略称はUインター。

概要[編集]

第2次UWFの解散に伴い、1991年5月10日高田延彦が旗揚げ。

第2次UWFでは前田日明に次ぐポジションであった高田を絶対エースに据え「プロレスこそ最強」を標榜し、プロボクシングWBCヘビー級の元王者、トレバー・バービックとの異種格闘技戦ゲーリー・オブライト[1]の発掘と躍進、スーパー・ベイダー(現:ビッグバン・ベイダー)や元横綱北尾光司の参戦、そして「日本プロレス史上最大の対抗戦」となった新日本プロレスとの全面戦争など、様々な仕掛けで人気を博した。

しかし後述するように、他団体に対して常に挑発的なスタンスを取っていたため、他団体の選手からの批判やそれに伴ってファンが抱くマイナスイメージなども少なくはなく、良くも悪くも多くの話題を提供した団体でもあった。

特色[編集]

第2次UWFから分かれた他の2派(プロフェッショナルレスリング藤原組リングス)と比較すると、Uインターはプロレス回帰の姿勢を打ち出した。その代表的な例として、ルー・テーズの最高顧問就任[2]U系の団体としては実質初めての王座となる「プロレスリング世界ヘビー級王座」の設定、タッグマッチ(「ダブルバウト」と呼称)の採用が挙げられる。

しかしながら後述のルールでもわかるように試合内容は従来のUWFスタイルを踏襲し、「プロレスこそ最強の格闘技である」、「プロレスラーは現実に強くあらねばならない」との理念の元、本場タイからムエタイの選手を招聘したり、レスリングのコーチも雇うなど、練習環境は格闘技を実践するためのものだった。それを裏付けるように、団体消滅後は所属していた多くの選手が総合格闘技のリングに上がった。

この理念は、昭和の新日本プロレスと共通する部分が大きい。実際、団体の舵を取っていた宮戸成夫(現:宮戸優光)はアントニオ猪木の大ファンであり、高田に往年の猪木と同様の絶対エースのポジションを与え、数々のマッチメイクを行った。以下のようなアングル展開は新日本プロレスの常套手段であった。

  • WBC世界ヘビー級王者、トレバー・バービック
    アントニオ猪木対モハメド・アリ戦と同様のプロレスラー対プロボクサー戦。ローキック攻撃に耐えかねたバービックが1ラウンドで試合放棄。一説には、バービックには「ローキック無し」のルールを提示しておいて、本番でいきなりこれを反故にしたとも言われる。
  • デニス・カズラスキー、佐野友飛(現:佐野巧真)のダブルヘッダー
    高田との対戦を表明した両者であったが、話題性や集客力には乏しかった。そこで同日2連戦という方式で注目を集めた。
  • 横綱北尾光司
    当時、プロレス団体を渡り歩き、空拳道所属であった北尾との対戦。前哨戦として山崎一夫が北尾に敗北し、危機感を煽った。高田は後に北尾側が負けブックをどうしても飲まなかったため、本番で反故にして無警戒の北尾にハイキックを叩き込んだ。[3]

そして、昭和新日と同様に、常に他団体や他の格闘技に対して挑戦的な姿勢を取った。

  • 高田延彦対蝶野正洋戦実現に向けたフロントとルー・テーズの新日本プロレス事務所訪問
    これに対し新日本は、「どんな試合条件でも受ける」というUインター側の発言を言質に取り、数億円の支払いと巌流島決戦を提示。交渉は決裂したが、Uインター側がこの水面下での交渉内容をマスコミに公表したため、新日から絶縁を表明される。
  • 安生洋二ヒクソン・グレイシー道場破り事件
  • メジャー5団体のエースに参加を呼びかけた「1億円トーナメント」事件
    1994年、現金1億円と当時の主要5団体のエース(橋本真也三沢光晴天龍源一郎前田日明船木誠勝)への招待状を用意して記者会見を開き「プロレスリング・ワールドトーナメント」の開催を突如発表。記者会見を行う当日に金融機関から1億円を借り、記者団の前でうず高く積まれた現金を見せ付け、その日のうちに返済。金利もきちんと支払ったという。余談だが、鈴木が現在経営している飲食店の名は「市屋苑(いちおくえん)」という。
  • リングス前田日明との舌戦
    上述の「1億円トーナメント」に唯一前向きな反応を示した前田がリングス対Uインターの対抗戦を逆提案したが、これに対し宮戸がリングスの参戦外国人選手を指して「どこの馬の骨ともわからない選手を参加させるわけにいかない」や「出てほしいのは前田のみ」といった反論を展開。前田も「お前(宮戸)こそどこの馬の骨だって話」などとやり返し、マスコミを通じた舌戦に発展。さらには取締役の1人であった安生も前田に対し「UWFで終わった人間」「200%勝てる」などと発言し、最終的に前田に対し法的手段を執るまでに発展した。

これらの事件は、支持を得ると同時にUインターへの反感も高め、一連の出来事は1995年9月から始まった新日本プロレスとの全面対抗戦の起点となった。

BUSHIDO "The Way of the Warrior"(ブシドー)の名で海外でテレビ放映され、ジェフ・トンプソンMBEが実況、テディ・ペルクが解説を務めた。イスラエルのプロモーターから招聘されて興行を行い、リトアニアではブシドーの名を冠したリングス系の格闘技イベントが現在も開かれている。

国内ではTBSで中継された。

ルール[編集]

第2次UWFで制定された所謂「UWFルール」を、以下の様にマイナーチェンジした。減点制、ブリッジの高いスープレックスがポイント対象になるなどが最大の特徴である。

  • KO、ギブアップ、レフェリーストップなど以外にも持ち点がゼロになるとTKO負け。持ち点は以下の通り。
    • シングルバウト : 15ポイント
    • ダブルバウト : 21ポイント
    • スペシャルシックスメンバウト : 30ポイント(設立当初は設定されず、末期に実施された6人タッグマッチで採用)
  • 減点数
    • ダウン : 3ポイント
    • ロープエスケープ : 1ポイント(ダブルバウトで相手に技をかけられているときにコーナーの味方にタッチするとエスケープと同等とみなされる)
    • スープレックス(ハイブリッジに限る) : 1ポイント(団体崩壊直前に廃止)
    • フォール : 5ポイント(団体崩壊直前に新たに採用されたルール)
    • 反則 : レフェリー裁量
    • ダブルバウト、シックスメンバウトの際は、通常のプロレスと異なり試合権を持つ者以外はリングに入ることが出来ない。

エピソード[編集]

それまでのUWF系の象徴であったカール・ゴッチとは一線を引き、ルー・テーズビル・ロビンソンダニー・ホッジを顧問とした。1992年、テーズがNWAより功績を讃えられて永久保持する旧NWA世界ヘビー級王座(通称「テーズベルト」)をプロレスリング世界ヘビー級王座の名称で復活させ、高田が王者となった。しかし、このベルトは1990年3月、テーズが米バージニア州ノーフォークでインターナショナルワールドヘビー級王座の名称で復活させ、トーナメント決勝でブラックジャック・マリガンを破ったマーク・フレミングが新王者となり、その後約2年間保持していた。フレミングのUインター初戦は1992年2月のノンタイトル戦での高田戦であるが、その後、高田がチャンピオンとなり、フレミングはUインターの常連外人選手となる。そこには複雑なビジネス、人間関係があった。これらの経緯はその後、フレミングが1995年にUNWに来日した際にトークショーで話しており、UNWのパンフレットにはテーズベルトを巻いた姿が掲載されている。ビッグバン・ベイダーボブ・バックランドバッドニュース・アレンアイアン・シークが参戦した。

解散[編集]

1996年12月27日の大会をもってUWFインターナショナルは解散。その後、選手のほとんどが参加してキングダムが旗揚げされた。解散に至るまでにはさまざまな悪材料が積み重なっていた。

タイトル[編集]

所属選手[編集]

スタッフ[編集]

レフェリー[編集]

リングアナウンサー[編集]

役員[編集]

代表取締役社長[編集]

取締役[編集]

高田伸彦のファンクラブを運営していた。会社経営者でもあったことから経営面をサポート。
帰国子女で英語が堪能なことから外国人選手の招聘の責任を負っていた。
団体のコンセプトを打ち出して団体の舵を握っていた。

来日外国人選手[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 初来日は新日本プロレスだが広くファンに認知されるようになったのはUインター参戦後。
  2. ^ UWFと言えばカール・ゴッチが定説であった。
  3. ^ 「泣き虫」(金子達仁・著)による。