サージェント・スローター

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サージェント・スローター
サージェント・スローターの画像
プロフィール
リングネーム サージェント・スローター
スーパー・デストロイヤー・マークII
"ビューティフル" ボビー・リーマス
ボビー・スローター
ジ・エクスキューショナー
本名 ロバート・ルドルフ・リーマス
ニックネーム 鬼軍曹
身長 196cm
体重 136kg(全盛時)
誕生日 1948年8月27日(65歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
コネチカット州ウィルマー
スポーツ歴 レスリング
トレーナー バーン・ガニア
デビュー 1972年
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サージェント・スローターSgt. Slaughter / Sergeant Slaughter1948年8月27日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラーコネチカット州ウィルマー出身。本名はロバート・リーマスRobert Remus)。『鬼軍曹』と呼ばれる軍人ギミック1970年代から1990年代後期まで活躍した。

WWF世界ヘビー級チャンピオンWWE殿堂者。愛称は『サージ』。

来歴[編集]

大学を卒業後、1年間バージニア州の海軍に在籍。1972年バーン・ガニアのコーチを受けAWAでデビュー。デビュー当時は "ビューティフル" ボビー・リーマスというキャラクターであった。その後、各地を転々としながらボブ・リーマス(日本での表記はボブ・レムス)、ボビー・スローター等のリングネームを名乗り、大型のヒールとして活動する。

初来日は1975年1月の国際プロレス。同年7月には全日本プロレスに登場。1978年、AWAに戻りボビー・ヒーナンマネージャー覆面レスラースーパー・デストロイヤー・マークIIに変身。これが最初のブレイクとなった(パートナーのマークIIIはネイル・グアイ)。1980年6月には、ミネソタ州ミネアポリスジャイアント馬場PWFヘビー級王座にも挑戦している。

同年9月、ビンス・マクマホン・シニアに招かれてニューヨークWWF(現・WWE)に移籍、軍人としてのキャリアをもとに、以後10年以上に渡って米プロレス界で一時代を築くことになる「鬼軍曹 サージェント・スローター」に変身する。グラン・ウィザードをマネージャーに、ブルーノ・サンマルチノペドロ・モラレスパット・パターソンなどの大物選手と対戦[1][2]1981年3月16日のマディソン・スクエア・ガーデンにおける定期戦では、アンドレ・ザ・ジャイアントとのスーパーヘビー級対決も行われた[3]。同年下期からはジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッド・アトランティック地区に参戦、ここでもリッキー・スティムボートワフー・マクダニエルをはじめトップスターと抗争するなど、変わらずの活躍を見せた。

鬼軍曹としてのキャラクター設定は徹底しており、プロモーション用のインタビューでは新兵を罵倒する下士官そのままに、口汚い言葉を抗争相手のベビーフェイスとそのファン達に浴びせていた(タズは少年時代、スローターのマイクパフォーマンスを見てスラングを学んだと述懐している)。また、ミッド・アトランティック地区ではドン・カヌードルジム・ネルソンらを二等兵ギミックの部下に仕立て「コブラ・コープス」なる小隊を指揮。彼らをパートナーにタッグ戦線にも進出したが、部下達が試合中にミスを起こすと殴りつけ、まだ試合が続いているにもかかわらず罰則としてリング上で腕立て伏せを命じるなどした[4]

1981年5月と1982年8月の2度に渡って新日本プロレスにも登場し、アントニオ猪木ともシングルマッチを行っている(2戦して2度共フォール負け。1981年の来日は第4回MSGシリーズへの参加で、スタン・ハンセンタイガー・ジェット・シンとも公式戦で対戦している)。

1983年には主戦場をWWFに戻し、当時のWWF王者だったボブ・バックランドに挑戦[5]チキンウィング(バックランド)対コブラクラッチ(スローター)のサブミッション対決で話題を呼ぶ。翌1984年にWWFが全米侵攻サーキットを開始すると、反米ギミックのアイアン・シークとの抗争でベビーフェイスに転向し、ハルク・ホーガンに次ぐエース選手となった[6]。その後もニコライ・ボルコフやノース・サウス・コネクション(ディック・マードック&アドリアン・アドニス)などと抗争するが、「プロレスラーの労働組合」を組織しようとしたことが原因で同年末にWWFを解雇された。

解雇後には古巣であったAWAに戻り、ミスター・サイトーカマラロード・ウォリアーズ、スタン・ハンセンらと抗争を展開した。1986年には、彼をモデルにしたG.I.ジョーが製造元ハズブロ社より発売され、TVアニメにもチームメンバーを鍛え上げる超人的教官として出演した。彼は自身のキャラクターグッズの版権などのロイヤリティーをAWA代表のバーン・ガニアに求めたため、ガニアからは疎まれたという。

湾岸戦争が勃発した1990年、突如WWFに復帰。「フセインに魂を売った男」として再び大ヒールに転向する。セコンドにはかつての宿敵カーネル・ムスタファ(アイアン・シーク)、末期AWA時代の抗争相手でもあったジェネラル・アドナン(シーク・アドナン・アル=ケイシー)を従えていた。年が明けての1991年1月19日に行われたロイヤルランブルでは、アルティメット・ウォリアーを破り、WWF世界ヘビー級王座を獲得した[7]。しかしこの「WWF版湾岸戦争」は米国の一部メディア・国民から大きなバッシングを受け、実際の湾岸戦争が終結した直後の1991年3月24日、規模を縮小して行われたレッスルマニアVII(当初は屋外のスタジアム会場で行われる予定だった)にてハルク・ホーガンに敗退、王座陥落と共にこのストーリーも終了した。その後は再度ベビーフェイスに転向し、ジム・ドゥガンとの愛国者コンビで約1年間活躍した後、セミリタイアして裏方のロード・エージェントに転身。

2009年3月28日、ペンシルベニア州のインディー団体にて。

D-Xが結成された当初は、「会社側の良心派」として彼らと抗争。「悪ガキに軍人精神を叩き込む」というアングルのもと、1997年12月7日のPPV "D-Generation X" ではハンター・ハースト・ヘルムスリーを相手に、コンバットスタイルのハードコア・マッチであるブート・キャンプ・マッチを行っている[8]2000年2月29日にはカート・アングルと対戦。敗れたものの、現役時代を彷彿とさせるコブラクラッチ等を披露した。2001年4月1日に開催されたレッスルマニアX-Sevenのギミック・バトルロイヤルでは、旧敵アイアン・シークと決勝を争っている。

2004年WWE殿堂入り。その後もエージェントとしてWWEをサポートする一方、年に何度かは試合にも出場し、2006年11月26日に行われたサバイバー・シリーズ2006では、リック・フレアーダスティ・ローデスロン・シモンズタッグチームを結成。スピリット・スクワッドイリミネーション・マッチで対戦し、勝利を収めた。

2009年1月にエージェント職を解任されたが、アンバサダー(親善大使)として会社には留まっており、イベント等への出演を続けている。同年8月10日にはRAWのホストを務めた。開催地がカナダであり、観客をたびたび挑発したため会場はブーイングの嵐となった。2010年11月15日に "Old School edition" と銘打って放送されたスペシャル版のRAWでは久々にリングに復帰し、アルベルト・デル・リオとシングルマッチで対戦するも敗退した[9]

得意技[編集]

入場曲[編集]

  • Hard Corps

獲得タイトル[編集]

ボビー・スローター
ジ・エクスキューショナー
サージェント・スローター

脚注[編集]

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  1. ^ WWE Yearly Results 1980”. The History of WWE. 2011年5月17日閲覧。
  2. ^ WWE Yearly Results 1981”. The History of WWE. 2011年5月17日閲覧。
  3. ^ Madison Square Garden 1980-1989”. The History of WWE. 2011年5月17日閲覧。
  4. ^ Mid-Atlantic Wrestling Gateway Interview - Jim Nelson”. The Mid-Atlantic Gateway. 2011年5月17日閲覧。
  5. ^ WWE Yearly Results 1983”. The History of WWE. 2011年5月17日閲覧。
  6. ^ WWE Yearly Results 1984”. The History of WWE. 2011年5月17日閲覧。
  7. ^ History of the WWE Championship”. WWE.com. 2011年5月17日閲覧。
  8. ^ WWF In Your House 19: Degeneration X”. pWw-Everything Wrestling. 2011年5月17日閲覧。
  9. ^ Old School RAW: November 15, 2010”. Online World of Wrestling. 2011年5月17日閲覧。

外部リンク[編集]