アニマル浜口

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アニマル浜口
Hamaguchi Heigo, Japanese professional wrestler.jpg
2011年の大船観音寺節分豆まきにて
プロフィール
リングネーム アニマル浜口
ヒゴ・ハマグチ
本名 濱口 平吾
ニックネーム 闘将
気合
浜さん
身長 178cm
体重 103kg
誕生日 1947年8月31日(64歳)
出身地 島根県浜田市
スポーツ歴 ボディビル
トレーナー 吉原功
ラッシャー木村
カール・ゴッチ
デビュー 1969年9月20日
引退 1995年
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アニマル浜口(アニマルはまぐち、1947年8月31日 - )は、日本の元プロレスラーボディビル指導者。本名は濱口 平吾(はまぐち へいご)。ボディビルダー出身で国際プロレス新日本プロレスで活躍し、闘将のニックネームで呼ばれた。武蔵野学院大学日本総合研究所客員教授。アニマル浜口トレーニングジム主宰。女子レスリング選手の浜口京子は長女。

目次

[編集] 来歴・人物

[編集] 生い立ち

島根県浜田市出身。父親が事業に失敗したため、小学5年生の時(1958年)、母親と妹と一緒に親戚の住む大阪府堺市へ移る。中学卒業後は家計を助けるため、高校進学を断念。工事現場を転々とする毎日だった。

[編集] 国際プロレス時代

1964年に、17歳でボディビルを始め、1969年にミスター兵庫コンテスト準優勝を受賞。その後、ボディビル界との繋がりが強かった国際プロレスに入団、プロレスラーに転向する。

浜口には格闘技の経験がなく、身長も180cm未満でレスラーとしてはけっして恵まれた体格とは言えなかった。だが当時の国際プロレスにはカール・ゴッチビル・ロビンソンといった、後に名コーチとしても名を馳せるレスラーが出入りしており、彼らから基礎を教わることでレスラーとしての礎を築く。またテクニシャンで知られる同僚の寺西勇マイティ井上の動きを見習い、頭脳的(ときに狡猾)なプレーを自らのものとする。

1972年にはディック・ザ・ブルーザーが主宰するアメリカインディアナポリスのWWAへ遠征、ブルーザーとの抗争を展開しヒールのトップスターとなった。

1973年の帰国後は、国際プロレスのメインイベンターのひとりとなった。しばらくタイトルには恵まれなかったが、1977年3月、グレート草津とのタッグでビッグ・ジョン・クイン&クルト・フォン・ヘスを破りIWA世界タッグ王座を獲得。以降、末期国際プロレスの中心選手として活躍した。1979年新日本プロレスのヤマハ・ブラザーズ(山本小鉄&星野勘太郎)に王座を奪われるが、同郷のマイティ井上とのコンビで奪回した。井上とのチームではこれ以前に全日本プロレスとの交流戦でアジアタッグ王座も獲得しており、和製ハイフライヤーズ(オリジナルのハイフライヤーズはAWAグレッグ・ガニアジム・ブランゼル)、浪速ブラザーズなどと呼ばれた名コンビだった。このコンビではザ・サモアンズ上田馬之助&マサ斎藤大木金太郎&上田、ジプシー・ジョー&キラー・ブルックスマイク・ジョージ&ボブ・スウィータンら強豪チームを退けて王座を防衛している。

1979年プロレス夢のオールスター戦では後の盟友長州力とコンビを結成し全日本プロレスの「極道コンビ」グレート小鹿&大熊元司と対戦した。この活躍の一方で怪我や病気に襲われることも多く、1980年春に試合中の怪我のために王座を返上。その後奪回するが、翌1981年4月には肝臓疾患のため欠場して王座を再度返上、国際プロレスが活動を停止した同年8月も欠場中のまま迎えた。

[編集] 新国際軍団時代

1981年9月23日、新日本プロレス田園コロシアム大会に国際プロレスのエースだったラッシャー木村とともに来場。このときメインイベント前のリング上で新日本に宣戦布告するはずのところ木村がいきなり「こんばんは」と挨拶し、しらけた雰囲気になりかけた状況を救ったのが浜口のマイクアピールであった。

その年の10月に新日本プロレスとの全軍対抗戦に出場、そのまま木村・寺西と共に「はぐれ国際軍団」を組み新日に参戦する。国際時代とは一転、ヒールとして新日ファンからの憎悪を買った。なかでもアントニオ猪木1人と旧国際軍団3人(ラッシャー木村寺西勇・アニマル浜口)の変則マッチは今でも当時を知るプロレスファンの語り草になっている。この試合では中堅をつとめ、フォール負けを喫するが アントニオ猪木のエネルギーを消耗させ、五分で渡り合った。そして主将であるラッシャー木村の勝ち(エプロンアウトでの勝利)に貢献した。

その後、1983年には国際軍団から離脱、長州力を中心とする維新軍団に合流して新日正規軍と対戦、同軍団の副将格、そして長州の参謀として大活躍した。なおこのときに始まる長州との交流は立場を違えてからも続き、浜口の引退時、長州は陰で声を上げて泣いたという。

[編集] ジャパンプロレス時代

1984年に突如、長州力・マサ斎藤らとジャパンプロレスを結成し全日本プロレスに参戦する。浜口自体に無類の強さという感じは無かったが、タッグとして主役級の相棒(タッグパートナー)を引き立てる“助演”が上手く、ジャイアント馬場からも評価されていた。これは浜口とタッグを組んだグレート草津マイティ井上ラッシャー木村寺西勇長州力キラー・カーン谷津嘉章らが異口同音に浜口を評する言葉である。(なお馬場は、鶴田vs浜口シングル戦のTV解説時、最初に「全日本のエース鶴田、負ける要素は何もありません」と言った実況アナウンサーの倉持隆夫に「あなたの言うようだと浜口には勝つ要素は何もないみたいだけど、浜口はそう軽い相手じゃありませんよ」とたしなめたことがあり、試合終了後も浜口のファイトを絶賛していた。)

1987年にジャパンプロレス分裂→長州らの新日復帰に合わせ、現役を引退。浜口の引退は新日からジャパンプロレスに移籍する際に交わした、「トラブルを起こした場合は引退する」という約束を貫くため(キラー・カーンも同様)、また体調を崩しシリーズ欠場中でもギャラを支払ってくれたジャイアント馬場への恩義が影響していると思われる。引退セレモニーで「私はこの四角(リング)の中に魂があったんですよ。ありがとうプロレス。さよならプロレス」という浜口節と10カウントで締めた。

[編集] 浜口道場設立後

引退後は アニマル浜口トレーニングジム東京都浅草に開設。同ジムには、主にアマレスや柔道といった格闘技の(経験者で)基盤がある人間はもちろんであるが、特に基盤が無い人間でも将来プロレスラーとしてデビューをしたいと志す人を対象に開設した、日本有数のプロレスラー(としての)養成施設である。指導者となる傍ら、自らも一から体を作りあげて、ボディビルの大会(シニア部門)に出場し優勝した(大会に出場するにあたり、100kg以上の体重を70kgまで落としている)。

1990年、長州力が昔とは別人のような、精彩を欠いた試合を続けていた頃、浜口は引退後初めて新日の会場に現れる。長州がその日も不甲斐ない試合をしたのを見届けた浜口は、突如、その試合後のリングに乱入する。「おいっ長州、お前何やってるんだよ。こんな試合をして恥ずかしくないのか。」と、涙ながらに叫んで長州を張り倒し、馬乗りになってなおも張り手を見舞っていった。その後「昔のようなギラギラとした奴に戻ってほしい」と、長州の景気付けのつもりで、長州とのタッグマッチの対戦限定で現役復帰をし、暫くの間ビッグバン・ベイダー等と共闘し、長州と対戦する。後年にキャッチフレーズとなる「燃えろー!!」、「気合だー!!」は、このころに初めて発したものである(その後、長州とは一騎打ちを経て和解し、ジャパンプロレス時代以来のタッグを復活させたりした)。

1994年、セミリタイヤ状態を経て、WARに舞台を移して再度現役復帰。1995年には天龍源一郎北原光騎と組んでWAR6人タッグ王座を獲得した。王座陥落後はリングからは遠ざかっているが、正式な引退表明はしていない(もっとも前述のように1987年に一度引退セレモニーは行っており、公式サイトではそれを正式引退として扱っている)。

その一方、このころからは名伯楽としてもクローズアップされ始めた。ジムからは小島聡大谷晋二郎大森隆男小原道由SUWA本間朋晃らを送り出した。また、長女の浜口京子レスリングの世界チャンピオンに育て上げる名コーチとして注目を集めた。

[編集] 現在

2004年アテネオリンピックにおける「気合だー!!」という言葉の連呼(同年流行語大賞トップテンに選出)と、場合によっては周囲の迷惑を顧みないと非難された派手な応援(とくに掲示板の得点表示ミスに関する抗議)は海外のメディアからも一定の注目を集めた。同オリンピックを国民的に盛り上げた功労者との見方もある。娘に向かって「気合だー!! オィッ!! オィッ!! オィッ!!」と叫ぶ姿でプロレスファン以外の世間にも顔を知られる存在となった。

2008年に行われた北京オリンピックではアテネ同様に家族総出で現地に応援に駆けつけ、娘の連続メダル獲得に大声で喜ぶ姿が世界各国のテレビで放映されただけでなく、地元の新聞の紙面をも飾った。ただ、浜口の言動に対し中華人民共和国の公安当局から「要注意人物」としてマークされ、自由な行動や発言は出来なかったとの報道もあった。

[編集] プロレスラー・アニマル浜口

現役時代のトレードマークはターザン風のワンショルダー、赤・青ツートンカラーのタイツ。得意技はダイビング・エルボー・ドロップジャンピング・ネックブリーカー・ドロップエアプレーン・スピン。ネックブリーカーは本家のジャイアント馬場からも褒められた。エアプレーン・スピンはアンドレ・ザ・ジャイアントを回すのが現役当時の夢であった。また長州力と維新軍団としてタッグとしての試合においては、長州とのツープラトンので行うパイルドライバーが秀逸であり(長州がリング上で相手の首元を股に挟み、浜口がコーナーポストで相手の足首を持って相手を落とすが、行う前に浜口がいつも上を向き絶叫するのが得意のポーズだった)特にハイジャックパイルドライバーとも言われ相手に恐れられていた。

入場テーマは『マタドール』(曲:日野皓正)。国際プロレスおよび新日本プロレス参戦時には『フリーライド・サーファー(ZERO TO SIXTY IN FIVE)』という曲もテーマ曲にしていた。

[編集] 獲得タイトル

[編集] 入場テーマ曲

  • ZERO TO SIXTY IN FIVE(PABLO CRUISE)
  • MATADOR(日野皓正
  • バック・オン・トラック(マッド・スリック)

[編集] 弟子

プロレスラー養成所であるアニマル浜口レスリング道場からは数多くの門下生が輩出され、プロレス業界で活躍している。⇒詳細は、アニマル浜口レスリング道場を参照。

[編集] エピソード

  • 見た目は強面だが(好きな俳優チャールズ・ブロンソンを意識し、髭を蓄えていた)、優しく涙もろい性格である。その人柄を慕う者は多い(愛弟子・小島聡プロレス大賞MVPを獲得した時のインタビューでは泣きながら喜んで語っていた。また、張本勲サンデーモーニングの「週刊御意見番」でいつも褒め称えている)。
  • ジャパンプロレス時代に明石家さんまの番組に所属選手全員で出演した際、当時オールバックヘアーに口髭の強面だった為「この人は恐そう」と言われさんまを怒鳴りつけた事がある、逆に終始にこやかだった新倉史祐は「アンタは優しそうな顔やね」と言われた。
  • 熱狂的なジャイアンツファンでもある。
  • 国際プロレス時代にラッシャー木村とふたりで小料理屋に酒を飲みに行った時に、その店の娘に一目惚れし、後に結婚した[1]
  • 1995年5月、『リングの魂』(テレビ朝日系)の企画で、「憧れの人に会いたい」という企画で浜口の憧れの女優の沢たまきと一日デートが実現した。いつもの気合は何処へやら、終始デレデレした意外な浜口が見られた。
  • アテネオリンピックで有名になってからテレビ出演が多くなったが、その際に叫ぶ言葉は定期的に新しくなっており今では「気合だー!!」以外にも多くの種類がある。
  • 前述の全日本プロレスでの鶴田戦(1986年日本武道館での全日本プロレス軍VSジャパンプロレス軍の7対7対抗戦)の直後、リング上で「負けたぁ〜!!」と絶叫し、その潔さを馬場をはじめとした多くの関係者から賞賛された。

[編集] 著書

[編集] 出演

[編集] CM

ほか

[編集] 映画

[編集] ミュージック・ビデオ

[編集] 脚注

[編集] 外部リンク

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