ボブ・バックランド

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ボブ・バックランド
ボブ・バックランドの画像
プロフィール
リングネーム ボブ・バックランド
ミスター・ボブ・バックランド
本名 ロバート・リー・バックランド
身長 190cm
体重 115kg(全盛時)
誕生日 1949年8月14日(64歳)
出身地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
ミネソタ州プリンストン
スポーツ歴 レスリング
トレーナー エディ・シャーキー
ドリー・ファンク・ジュニア
デビュー 1973年
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ボブ・バックランドBob Backlund1949年8月14日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラーミネソタ州プリンストン出身。本名はロバート・リー・バックランドRobert Lee Backlund)。日本でのニックネームは「ニューヨークの帝王」または「超新星」。

来歴[編集]

ノースダコタ州立大学在学時の1971年NCAAレスリング選手権で優勝。卒業後プロレスラーを目指しミネアポリスでトレーニングを積み、1973年テキサス州アマリロに転じデビュー。そこではドリー・ファンク・ジュニアのコーチのもと、ジャンボ鶴田スタン・ハンセンとともに練習に励んだ。その縁あって1974年7月全日本プロレスに参戦。これがバックランドの初来日であり、同時参加した外国人選手にはシューターとして知られるダニー・ホッジボブ・ループもいた。

以降もNWAの主要テリトリーを転戦し、1975年10月にはジム・バーネットの主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングにて、ジェリー・ブリスコと組んでトール・タナカ&ミスター・フジからジョージア・タッグ王座を奪取[1]1976年4月23日にはNWAの総本山ミズーリ州セントルイスにて、ハーリー・レイスを下しミズーリ・ヘビー級王座を獲得した[2]

その後フロリダ地区を経て、1977年よりWWF(現・WWE)に参戦。ビンス・マクマホン・シニアは、かつてのジャック・ブリスコを髣髴とさせるアスリート・タイプのバックランドを、怪力ブルーノ・サンマルチノ時代との差別化を図る上で絶好の選手と判断し、バックランドは瞬く間にWWFのトップに駆け上がる。1978年2月20日、スーパースター・ビリー・グラハムを破りWWFヘビー級王座を獲得[3]。以降、ニューヨークの帝王として幾多のチャレンジャーを迎え撃った。

新日本プロレスにも王者として来日し、たびたび防衛戦を行っている。1979年11月30日に徳島市立体育館アントニオ猪木に敗れ一時王座を失っているが、一週間後、猪木が初防衛戦となったバックランドとのリターンマッチの内容を不満として王座を返上したため、マディソン・スクエア・ガーデンでのボビー・ダンカンとの王者決定戦を経てバックランドは再びWWFヘビー級王座に返り咲いた。

WWF王者時代には、AWA王者ニック・ボックウィンクル(1979年3月25日、トロント)、NWA王者ハーリー・レイス(1980年9月22日、ニューヨーク / 同年11月7日、セントルイス)、NWA王者リック・フレアー1982年7月4日、アトランタ)との王座統一戦も行っている(すべて引き分け)。

1980年5月の新日本『第3回MSGシリーズ』への特別参加では、ダスティ・ローデスを相手にWWF王座を防衛。同年の12月には猪木とのコンビで『第1回MSGタッグリーグ戦』に出場、決勝でスタン・ハンセン&ハルク・ホーガンを破り優勝を果たした。このリーグ戦にはアンドレ・ザ・ジャイアントも参加しており(パートナーはザ・ハングマン)、5月のローデス戦に続き、アメリカでは見られないベビーフェイスのトップ同士の対戦がタッグマッチながら実現している。

その後、WWFはビンス・マクマホン・ジュニアの支配下となり、各地の有力選手を次々と引き抜き全米侵攻を開始するが、派手さに欠けるバックランドは全米制覇のトップには不適格と判断され、次期王者にはハルク・ホーガンを据えることが決まり、1983年12月26日、アイアン・シークに敗れ王座転落。5年10か月間に渡って君臨していた「ニューヨークの帝王」の座を降りることになった[4]

WWFを離れた後は、AWAのバーン・ガニアやNWAのジム・クロケット・ジュニアらが共同で立ち上げたWWFの対抗勢力 "Pro Wrestling USA" に主力選手として参加。1980年代末から1990年代初頭にかけてはセミリタイア状態となり、日本には第2次UWFUWFインターナショナルに参戦したが、高田延彦に3連敗を喫するなどして精彩を欠いた。

1992年末、WWFに復帰。当初は王者時代と同じくベビーフェイスとして活躍し、1993年ロイヤルランブルでは60分以上も闘い抜いたが、1994年に突如ヒールに転向。敬称を冠した「ミスター・ボブ・バックランド」を正式なリングネームにして自分への敬意をファンに強要するなど、後のカート・アングルウィリアム・リーガルを足して割ったような嫌味で口うるさい紳士ギミックへのキャラクターチェンジを果たした。荒廃したアメリカ文化の矯正を図るべく、アングルとして大統領選挙への出馬を表明したこともある。

同年11月23日、ブレット・ハートを破り11年ぶりにWWF王者に返り咲く[3]。しかし11月26日のMSGにおけるハウス・ショーディーゼルにわずか8秒で敗れ、文字通りの三日天下に終わった。

1994年には当時WWFと提携していたWARに参戦し世界6人タッグ王座を獲得。1995年はブレット・ハートと抗争を展開し、レッスルマニアXIではアイ・クイット・マッチを行う。同年下期から1996年にかけてはプレイング・マネージャーとしてディーン・ダグラスザ・サルタンのセコンドも務めた。

WWF離脱後はバトラーツや新日本プロレスに単発参戦。近年はコネチカット州で建設資材を扱う会社を経営している。2007年にはTNAに登場したが、WWEのバックステージにも時折、顔を出すことがある。2012年7月9日のRAWでは久々にリングに上がり、ヒース・スレイター十八番チキンウィングフェイスロックタップアウトさせた。2013年4月にはWWE殿堂に迎えられている。

人物[編集]

  • レスリングの技術は高く、マークス(腕自慢の素人を抑え込む役)が出来ることでプロモーターから信頼されていた。
  • スタン・ハンセン曰く、非常に純朴で愛すべき人物とのこと。グリーンボーイ時代にローカルベルトを奪取した際、「そのベルトを獲得した者は肌身離さず装備しなければならない」という先輩レスラーの冗談を真に受けて、ベルトを腰に巻いたままレストランで食事をしていたという。

得意技[編集]

獲得タイトル[編集]

NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ
  • NWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座:3回
セントルイス・レスリング・クラブ
  • NWAミズーリ・ヘビー級王座:1回
ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
チャンピオンシップ・レスリング・フロム・フロリダ
WWF / WWE
新日本プロレス
WAR

WWF王者時代の主な挑戦者[編集]

王座統一戦(ダブル・タイトルマッチ)での対戦相手やWWF圏以外の他地区遠征時の挑戦者も含む[5][6][7][8][9][10]


脚注[編集]

  1. ^ NWA Georgia Tag Team Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年2月20日閲覧。
  2. ^ NWA Missouri Heavyweight Title History”. Wrestling-Titles.com. 2010年2月20日閲覧。
  3. ^ a b History of the WWE Championship”. WWE.com. 2010年4月9日閲覧。
  4. ^ ショーン・アセール、マイク・ムーニハム共著『WWEの独裁者-ビンス・マクマホンとアメリカン・プロレスの真実』P50-53(2004年、ベースボール・マガジン社 / ISBN 4583037880
  5. ^ WWE Yearly Results 1978”. The History of WWE. 2011年2月20日閲覧。
  6. ^ WWE Yearly Results 1979”. The History of WWE. 2011年2月20日閲覧。
  7. ^ WWE Yearly Results 1980”. The History of WWE. 2011年2月20日閲覧。
  8. ^ WWE Yearly Results 1981”. The History of WWE. 2011年2月20日閲覧。
  9. ^ WWE Yearly Results 1982”. The History of WWE. 2011年2月20日閲覧。
  10. ^ WWE Yearly Results 1983”. The History of WWE. 2011年2月20日閲覧。

外部リンク[編集]