越中詩郎
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| 越中詩郎 | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム | 越中詩郎 サムライ・シロー |
| 本名 | 越中詩郎 |
| ニックネーム | サムライ戦士 ド演歌ファイター 孤高の侍 エッチュー |
| 身長 | 185cm |
| 体重 | 105kg |
| 誕生日 | 1958年9月4日(50歳) |
| 出身地 | 東京都江東区 |
| 所属 | Office K2 |
| スポーツ歴 | 野球 バレーボール |
| トレーナー | ジャイアント馬場 ハル薗田 |
| デビュー | 1979年3月4日 |
越中 詩郎(こしなか しろう、男性、1958年9月4日 - )は、日本のプロレスラーである。東京都江東区出身。血液型はB型。フリーランス。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] デビューから新日本移籍まで
1978年に全日本プロレス入門。1979年に園田一治(後のハル薗田)戦でデビュー。若手のころはジャイアント馬場の付き人を務めた。1983年にはルー・テーズ杯争奪リーグ戦で三沢光晴を破り優勝し、翌年ともにメキシコに遠征。サムライ・シローの名で活躍した。しかし三沢がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱き、1985年全日本プロレスを離脱。新日本プロレスに押し掛け同然で移籍して帰国(異説については後述)[1]。
[編集] 高田との抗争
1986年、IWGPジュニア王座決定リーグ戦に出場し、初代IWGPジュニアヘビー級王座を獲得。その後、旧UWFから戻ってきた高田伸彦とジュニアベルトを争う。高田のキックを愚直にも正面から受けるファイトスタイルはUWFびいきのファンからも支持を集め、一躍人気レスラーとなる。そのキックや関節技を主体とした攻めの高田と、「耐える美学」「人間サンドバッグ」とまでいわれた受けの越中のシングルマッチは「ジュニア版名勝負数え唄」と形容され、当時のプロレスファンの圧倒的な支持を得た。その後武藤敬司とのコンビでIWGPタッグ王座も獲得。
[編集] ヘビー級転向と反選手会同盟結成
獣神サンダー・ライガーらの台頭や自身のウェイトアップによりヘビー級に戦いの場を移す。ドラゴンボンバーズへ入るも誠心会館との抗争に関して新日本プロレス選手会と対立しヒールに転向。頭を剃り上げて反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成し、一躍中堅からトップ戦線へ踊り出る。この時期、1995年のG1 CLIMAX初戦でIWGP王者(当時)武藤敬司を破るという実績も挙げている。
[編集] 平成維震軍解散から新日本離脱へ
1999年に平成維震軍を解散し新日本本隊に復帰。その後佐々木健介と組みIWGPタッグ王座に返り咲いた。また2000年には全日本プロレスに参戦し、三冠王者決定トーナメントに出場している。
2003年1月、新日本プロレスを契約満了により退団し、WJプロレスに入団。当初は盟主である長州力の片腕的存在であったが、金銭面で揉め、大森隆男らと共にレイバーユニオンを結成。同年10月31日付でフリーとなる。
[編集] フリーランスとしての活動
2004年2月、大森隆男とともに、炎武連夢(大谷晋二郎・田中将斗組)からNWAインターコンチネンタルタッグ王座を奪取。さらに、プロレスリング・ノアにも参戦し、平成維震軍の仲間だった齋藤彰俊と共闘。ZERO1-MAXやキングスロードへも参戦。
2007年には、アメトーーク!でケンドーコバヤシによる越中のネタから「越中ブーム」が発生。それも背景に同年5月2日、11年ぶりにIWGPヘビー級選手権試合に臨んだ。試合は敗北したものの、王者永田裕志に対しヒップアタックや侍ドライバー'84、ジャパニーズ・レッグロール・クラッチといった、平成維震軍当時からの大技を如何なく発揮した。一時期は天山広吉、真壁刀義らと組み、G・B・Hで活躍したものの、2007年8月に離脱、長州力、蝶野らとともに「レジェンド」を結成した。
[編集] 人物像
常にコンディションが良いことで知られる。技術面では受け身の巧さ、切れの良いスープレックス、高角度のパワーボムが特徴である。また、近年はヒップアタック等の尻(ケツ)を利用した攻撃が高い会場人気を集めており、「ケツだけで試合を組み立てられる」職人レスラーと評価されている。地方大会でも常に全力ファイトを見せる。
[編集] 新日本への移籍を巡る諸説
全日離脱・新日移籍の経緯には、いくつか説が流れた。一つは三沢光晴がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱いたため、自ら新日本と接触したとする説。この行動にジャイアント馬場が激怒したが、越中は最終的に会場まで出向き、馬場に詫びを入れたと伝えられる。また、複数のプロレスラーやターザン山本などの当時のプロレスマスコミが紙面に書いた(タイガーマスクと自分の処遇についての不満を書いた越中直筆の手紙が週刊プロレスに掲載されたこともある)こととして、「馬場が越中と三沢に2代目タイガーマスクになることをすすめると、越中は海外修業継続を望んで拒否、三沢は受け入れた。その後、馬場に無断で、影のプロモーターだった馬場元子が越中との契約を解除してしまった。」という説。行き場のなくなった越中は困惑し、新日本プロレスに移籍を考えた。馬場はその後、この事実を知り、プロレスマスコミを通じて越中に謝意を示し、越中はその御礼として馬場と会った、とされる。また、別の関係者が当時の雑誌で明かしていた話[要出典]としては「当初越中はAWA地区に、三沢はメキシコに遠征と発表されていたのに、内部事情から三沢の付き添いとして一緒にメキシコに行かされる形になった事に加え、三沢の帰国後に来た全日本からの連絡が『タイガーマスク2号になれ』と、また三沢のお守り役の立場を要求された事に反発して拒否したため、帰国命令が凍結された。その件を、全日本にも上がった事のある某選手に相談したところ、新日本が日本人選手獲得に動いていると聞き、移籍の意志有り、とその選手経由で新日本に伝えてもらい、接触した。」
事件の真相について越中自身の口から真相が語られることは長らくなかったが、2007年に刊行された著書『やってやるって!!』での自身の説明は前者に近い。馬場に詫びを入れに行ったのは帰国後すぐとのこと(それが馬場との最後の接触となった)。また、あくまで移籍を認めない馬場と引き下がらない越中の間をとりなしたのは、天龍源一郎だった、ということも語られている。
[編集] 得意技
- ヒップアタック
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- 相手をロープに振りつつ追いかけるようにして走り、ロープの跳ね返り際を狙いひねりながらジャンプして尻を相手の顔面に叩き込む。怪我をしにくい臀部を使用するため自分にダメージは少ないが、相手に対して後ろを向くという危険な技のため、実は難易度が高い。
- 一見して「効いていないのでは?」と言われる事もあるが、実際には尾骶骨がまともに相手の顔面に入るため、衝撃度は見た目以上である。テレビの実況では「軽い脳震盪を起こす威力」と紹介されるほか、打たれ強い天龍もこの技を喰らった際には顔を歪めている。佐藤耕平の歯を折った事で、その威力が証明された。
- 派生として、座っている(または四つん這い状態の)相手の頭めがけてケツ(ヒップバット)、トップロープやエプロンを走って場外へのケツ(ダイビングヒップ)、コーナーポストからダイブしてケツ(ミサイルヒップ)などがある。
- 時には相手にヒップアタック攻撃を読まれ、バックドロップやジャーマン・スープレックスで切り返され、振り向いた際に尾骶骨を蹴られるというカウンター攻撃も何度も食らっている。
- 旧UWF勢は、ロープに振ってもリバウンドを拒否していたが、なぜかコーナーポストに振ると返ってくることを見抜いた越中が繰り出した飛んでくるケツの衝撃に前田日明も場外に逃げるしかなかったという。
- パワーボム
- 持ち上げてから数秒タメを作る滞空式パワーボムは侍パワーボムと呼ばれ、天龍との抗争以後多用するようになる。両拳を突き上げながらフォールを奪う。
- なお、この超高角度パワーボムは越中が元祖と言われている。
- 侍ドライバー'84
- 変形フィッシャーマンドライバー。通常のフィッシャーマンとは逆の足を抱えて持ち上げる。'84は三沢と共に海外修行をしていた年に由来している。ノア参戦時に対三沢用の技として開発した。使用頻度は多くなく、ここぞというときに敢行する。
- ドラゴン・スープレックス
- ジュニア時代のフィニッシュ・ホールド。ヘビー転向後は投げ放し式も併用する。
- パイルドライバー
- タッグ時では場外でのハイジャック・パイルドライバーを敢行する。
- 若手時代はツームストーン・パイルドライバーを使っていたが、現在では全く見られない。
- ドロップキック
- ロープに振ってから仰向けになりながらマットと平行になるように飛ぶ(正面飛び)。
- ジャパニーズ・レッグロール・クラッチ
- ジュニア時代から使用しており、ヘビーに転向してからも使用している。
- ジャンピングアームブリーカー
- 越中式と言われ、相手の片腕をロックして絞め上げながら後方に倒れ込む。
- 痙攣
- DDT等を食らった後、下肢を痙攣させる。鶴田直伝とも言われる。
- 河津落とし
- 相手の左足に自分の右足を絡ませながら相手の右肩に自分の右腕を乗せて、一緒に後方へ倒れこみ相手の後頭部から叩きつける。馬場直伝とも言われる。
- 腰骨攻撃
- 主に片ひざをついている相手の髪を掴み、顔面に腰骨をぶつけていく。
- 太鼓の乱れ打ち
- 反選手会同盟、平成維震軍時代からの得意技。
- タッグマッチの時、相手を自軍のコーナーに押しやり、四つんばい状態(またはかがませて)味方全員で相手の背中を叩きつける。
[編集] タイトル履歴
- IWGPタッグ王座
- NWAインターコンチネンタルタッグ選手権
- WAR認定世界6人タッグ
- IWGPジュニアヘビー級王座
- '88トップ・オブ・ザ・スーパージュニア優勝
[編集] 入場曲
- SAMURAI (現在)
- FORTUNE
- バイオレンス・サタデーのテーマ(ラロ・シフリン)
[編集] 著書
- 『やってやるって!!』(ケンドーコバヤシとの共著・扶桑社)(ISBN 9784594054038)
[編集] ゲーム
- 『越中詩郎の完全無ケツだって!』
[編集] その他
- 高校卒業後、東京電力に入社。全日本プロレス入門まで1年間働いていた。
- 中学生時代は野球部に所属。捕手を経験していたと言う。高校時代は野球部がなかったのでバレーボール部に所属(新日本プロレス25周年名鑑より)。
- ビートルズと阪神タイガースの大ファン。ポール・マッカートニーの幻のコンサートでは、最前列の席を入手していたという。また長州力と、甲子園球場に阪神の激励に駆けつけたこともある。
- コメントの語尾に「〜してやるって!〜ってことですよ!」などと「やるって!」をつける癖があり、一部から「やるって節」とネーミングされたことがある。
- 趣味はゴルフ、鉄道、「男はつらいよ」、好きなテレビ番組は時代劇(暴れん坊将軍・水戸黄門・大河ドラマなど)。
- 経歴欄にある、反選手会同盟結成時に頭を剃り上げてファイトしたが、越中としては初めてではない。メキシコ遠征時代の1984年7月13日、抗争していたエル・サタニコとのカベジェラ・コントラ・カベジェラで敗れ、丸坊主にされている(月刊ゴング1984年10月号より)。
- 1987年、仲村トオル主演映画「新宿純愛物語」に木村健吾と共にヤクザ役で出演予定だったが直前に怪我をした為に出演出来なかった(代役は大矢健一(現・剛功))。
- 越中は30代半ばまで独身を通したため、同じく独身の渕正信とともに『週刊プロレス』・『週刊ゴング』両誌読者コーナー独身ネタの標的にされていたが、結婚相手は新日本プロレスの事務方の年下の美人で、日本プロレス界初の職場結婚でもあった。平成維震軍解散後敵対関係となった後藤達俊にも「あんなきれいな嫁さん貰いやがって!」と逆恨みされていた。なお、後藤自身も、美人記者と評判だったスポーツ紙プロレス担当記者と結婚し、周囲を驚かせている。
- ケンドーコバヤシが、アメトーーク!で越中詩郎(大好き)芸人をプレゼンしたことを契機に反響を呼び、越中公式サイトは、一時期アクセスが集中して閲覧しにくくなった。
- 以前天山にマイクパフォーマンスで「おい、えっちゅう!(越中)」と呼ばれ切れた事がある。
[編集] 外部リンク
[編集] 脚注
- ^ ただし、すぐに新日本プロレスに移籍せず、まず当時設立したばかりのプロモーションだったアジア・プロレスに移籍し、そこから新日に上がるという形を取っていた。

