後藤洋央紀

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後藤 洋央紀
後藤 洋央紀の画像
2014年
プロフィール
リングネーム 後藤 洋央紀
本名 後藤 洋央紀
ニックネーム 荒武者
FIERCE WARRIOR
春男
野武士
復刻ストロングスタイル
身長 182cm[1]
体重 103kg
誕生日 1979年6月25日(35歳)
出身地 三重県桑名市
所属 新日本プロレス
スポーツ歴 レスリング
トレーナー 天山広吉
デビュー 2003年7月6日
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後藤 洋央紀(ごとう ひろおき、男性、1979年6月25日 - )は、日本プロレスラー新日本プロレス所属。三重県桑名市出身。

来歴[編集]

三重県立桑名工業高等学校出身。柴田勝頼と同級生であり、共にレスリング部を立ち上げた。

国士舘大学へ進学後、レスリングで上位入賞。大学時代の後輩にプロレスリング・ノア伊藤旭彦、先輩にプロレス同期入門の山本尚史(現WWE ヨシ・タツ)がいる。大学卒業後、2002年に新日本プロレスに入団するが、肩を脱臼し、一旦新日本を退団。柴田の家に居候して病院に通い、リハビリにつとめ、新日本が経営する闘魂ショップ名古屋店併設の道場でトレーニングを重ねた後に、2002年11月、新日本に再入団を果たした。2003年7月6日の岐阜産業会館における田口隆祐戦でデビュー。

同年にはデビュー戦で対戦した田口と組み、邪道外道IWGPジュニアタッグ王座決定戦を争うなどタッグで活躍。2004年ヤングライオン杯ではその田口に敗れ、涙を飲んだ。

2005年ヤングライオン杯で、前年の雪辱を果たし、優勝。4月にC.T.Uに加入すると、天然ボケキャラを見出され、先輩の獣神サンダー・ライガー、邪道、外道らを差し置いてリーダーとして(形の上だけ)活動。5月には田中稔 (プロレスラー)と組んで金本浩二 & 井上亘組からIWGPジュニアタッグ王座を獲得。エル・サムライ & 田口組に敗れるまで3度の防衛を果たした。12月の「夢☆勝ちます」では棚橋弘至の持つIWGP U-30無差別級に挑戦するも、敗北。

2006年の4月と5月にそれぞれTNAへ遠征。8月にはメキシコへ無期限海外遠征に出発する。

2007年(ヘビー級転向後)[編集]

2007年に髪を伸ばし今の容姿に変貌。同年3月4日にはウルティモ・ドラゴンTAJIRIらが参戦した闘龍門MEXICO自主興行で行われた8人参加トーナメント「〜YAMAHAカップ NWAインターナショナルJrチャンピオンシップトーナメント〜」でショッカーを破り、22年ぶりに復活したNWAインターナショナルジュニア王座に載冠した[2]。それまで91kgだった体重を同年の6月に103kgまで増量。8月26日「LAST OF C.T.U」興行で凱旋帰国予定だったが、棚橋弘至の欠場を受け日程が前倒しとなり、8月25日の大会で凱旋試合を行う。

10月8日、付き人を勤めた天山広吉と対戦。大流血の末、必殺の昇天で勝利。この試合で後藤が繰り出した変形バックブリーカー(後に牛殺しと命名)で天山は頸椎負傷し、長期欠場に追い込んだ。11月11日、DESTRUCTION'07にて、棚橋が保持するIWGPヘビー級王座に初挑戦するが、敗北。

2008年[編集]

1月4日、レッスルキングダムIIにて、7年8か月ぶりに新日本へ降臨したグレート・ムタと初遭遇を果たすが、ムーンサルトプレスであえなく敗戦。3月に行われたNEW JAPAN CUP(以降NJC)では、1回戦から棚橋弘至と対戦するが、敗北。

8月、G1 CLIMAX(以降G1)に初出場。開幕前に「初出場・初優勝を狙う」と発言し注目を集める。初戦の川田利明戦は敗北するも、その後は白星を重ね見事決勝進出を果たし、17日の決勝戦では真壁刀義と対戦。G・B・Hメンバーの介入やイス攻撃などにより流血を負いながらも、最後は昇天・改で勝利。史上最短キャリアでの優勝という新記録を打ち立てた。8月31日、IWGPベルトの奪還を目標に敵地のリングにおもむき、全日本プロレスでは史上2度目[3]となるIWGPヘビー級王座戦が行われ、王者武藤敬司に挑戦。しかし、ムーンサルトプレスで敗退し、奪還に失敗した。

その後、真壁 & 矢野通が所持するIWGPタッグ王座に的を絞り、9月5日に中邑真輔とタッグを組み挑戦。ところが、試合終盤、同じRISEメンバーだったはずのジャイアント・バーナードリック・フーラーが乱入し、G・B・Hと結託。最後は真壁のキングコングニー・ドロップを受け、惨敗。試合後、G・B・H勢とバーナード、フーラーに袋叩きされるも、救出に駆けつけた棚橋と握手を交わし、本隊と共に打倒G・B・Hをアピールする。10月13日、DESTRUCTION'08にて、バーナードと一騎打ちを行うが、敗北を喫する。

2009年[編集]

1月4日、レッスルキングダムIIIにて、中邑と共にプロレスリング・ノア(NOAH)対抗戦に出陣。三沢光晴 & 杉浦貴組と対戦。最後は中邑が杉浦を飛びつき式腕ひしぎ逆十字固めで捕獲し、タップを奪った。

3月に行われたNJCでは、カール・アンダーソン、中邑、永田裕志に勝利し、決勝戦でジャイアント・バーナードを変型腕固め(昇龍結界)でギブアップ勝ちを収め、昨年のG1優勝に続き、春夏連覇を果たした。

5月3日、レスリングどんたくと冠が付けられ、3年ぶりに開催した福岡国際センターで、NJC覇者として棚橋弘至IWGPヘビー級王座を賭けて対戦したが、ピンフォール負けを喫する。5日には岡田かずちかと組み、NOAHの杉浦 & 青木篤志組との対抗戦を行う。最後は岡田が杉浦のオリンピック予選スラムで轟沈。その後、6月20日の「DOMINION6.20」で杉浦とのシングルマッチが組まれたが、敗北。8月のG1公式戦で再び対決するも、惨敗。また、この敗戦で予選リーグ落ちとなり、G1二連覇の夢が潰えた。

その後、ZERO1田中将斗と抗争を展開。11月8日、DESTRUCTION'09にて、田中とのシングルマッチを行うも、スライディングDでピンフォール負けを喫する。12月5日愛知大会で、再び田中とシングルで対戦。勝利を収め、対戦成績を五分に戻した。

2010年[編集]

1月4日、レッスルキングダムIVで杉浦とGHCヘビー級王座を賭けて対戦するも、足首固めで敗退。3連敗を喫した。2月にはハードコアルールで再び田中将斗と対戦。エルボーパッドに鉄パイプを仕込んだスライディングDを喰らい、敗北。3月のNJCでは前年度優勝者だったことからシード権を獲得し出場。初戦は高橋裕二郎、準決勝で田中を撃破し、決勝戦で真壁刀義と対戦。これに勝利し、NJC2連覇を達成した。

4月4日、中邑真輔の保持するIWGPヘビー級王座に挑戦するも敗北。その試合終了後、バックステージでコメントを発表しているところに田中が現れ、再戦を要求される。5月3日、レスリングどんたく田中と4度目の対戦を敢行するもラリアットの相打ちで両者K.O.という結末で終わる。6月19日、DOMINION6.19にて再度、田中とのシングルマッチが行われ、ピンフォール勝ちを収めて抗争に終止符を打つ。

10月11日、DESTRUCTION'10で、中邑に勝利し、IWGP王座挑戦へ名乗りを上げるが、IWGP王者の小島聡は中邑を逆指名。菅林直樹社長は後藤を次期挑戦者に推するも、小島は拒否し続け、結局会社側が小島指名を呑み込み、中邑が次期挑戦者に決定。一方で後藤は同じく同王座へ挑戦を表明した棚橋弘至との次期挑戦者決定戦に臨んだが、ハイフライフローで敗退。

2011年[編集]

2011年

2月20日、The New Beginningで、「(後藤がIWGPヘビー級ベルトを逮冠していない事実に対して)あんたは新日の四天王にふさわしくない」と発言し、真っ向から後藤を全否定した内藤哲也と対戦。昇天・改でピンフォールを奪い実力を示した。その後、3連覇達成を目指しNJCに出場するも、中邑真輔に敗れ、初戦で敗退。3連覇実現は失敗に終わる。3月20日に棚橋とのタッグで組まれた試合(対戦相手は小島聡MVP組)でラリアットが棚橋に誤爆。口論になった末、棚橋に対してヘッドバッドを見舞い、試合を放棄した。23日よりCMLLに遠征。現地でウルティモ・ゲレーロの保持するCMLL世界ヘビー級王座に挑戦し、ベストバウト級の試合を見せる。

5月3日のレスリングどんたくに合わせて帰国。黒袴姿に身を纏い、新・入場曲に乗りタマ・トンガをパートナーに、NOAH杉浦貴 & 橋誠組と対戦。昇天・改で橋から3カウントを奪う。さらに全試合終了後、IWGPヘビー級王座を所持する棚橋に対してヘッドバッドを見舞い、挑戦を表明。

6月18日、DOMINION6.18にて棚橋とのIWGPヘビー級選手権試合に挑むが、敗北。この試合終了後にジャイアント・バーナードが、棚橋のIWGP王座へ挑戦を表明。一方で棚橋が「交換条件」としてBAD INTENTIONS(バーナード & カール・アンダーソン)が保持するIWGPタッグ王座に挑戦表明。すると、アンダーソンが「Who is your partner?(お前のパートナーは誰だ?)」と質問を投げかけ、棚橋は会場の「後藤」コールに乗っかる形でパートナーを後藤に指名。互いの遺恨を清算し、棚橋とタッグチームを結成した。7月3日、棚橋とのタッグでIWGPタッグ王座に挑戦するが、奪取には至らなかった。

11月12日、POWER STRUGGLEで、田中将斗が保持するIWGPインターコンチネンタル王座に挑戦するも、スライディングDで敗れた。試合終了後、NOAHの杉浦に対して「アイツに借りを返す」というコメントを残し一年越しのリベンジを誓った。

2012年[編集]

1月4日、レッスルキングダムVIにおいて杉浦と一騎打ちを行う。昇天・改でピンフォール勝ちを収め、ついに杉浦から初勝利を収めた。2月12日、THE NEW BEGINNINGにて、田中の所持するインターコンチネンタル王座に再度挑戦。勝利を収め、ヘビー級に転向してから初の王座奪取となり第3代IWGPインターコンチネンタル王者に戴冠した。

4月、NJCでは、高橋裕二郎ラ・ソンブラ真壁刀義を破り、迎えた棚橋弘至との優勝決定戦。昇天・改で初めて棚橋から勝利を収め、3度目の優勝を遂げた。5月3日、レスリングどんたくで、NJC優勝で得たIWGP王座挑戦権を行使し、IWGP王者のオカダ・カズチカと対戦するも、敗戦。

7月22日山形大会で中邑真輔に敗れ、インターコンチネンタル王座から陥落。しかし、8月のG1で中邑と再戦し、この試合に勝利。10月8日、KING OF PRO-WRESTLINGで同王座を賭けたリターンマッチを敢行するも、ボマイェで敗北を喫した。

11月20日より開催されたWORLD TAG LEAGUEではカール・アンダーソンとのタッグ「SWORD&GUNS」で出場。4勝2敗で決勝トーナメントを通過し、12月2日愛知大会の準決勝でテンコジ天山広吉 & 小島聡組)を下し、決勝でK.E.S.ランス・アーチャー & デイビーボーイ・スミスJr.組)と対決。アンダーソンがスミスからピンフォール勝ちを収めて優勝を果たした。

2013年[編集]

2月3日、昨年8月よりフリーランスとして新日本にスポット参戦している柴田勝頼に対戦を要求。その後、幾度かタッグマッチで柴田と交戦。5月3日、レスリングどんたくで初めてシングルマッチで激突する。試合は両者による張り手の相打ちでダブルノックダウンとなり、引き分けとなる。6月16日、DOMINION6.22で再びシングルで対戦したが、柴田のP.Kを喰らい、ピンフォール負けを喫した。

8月、G1に出場するも、7日の仙台大会における棚橋弘至戦で張り手を喰らった際に、アゴの骨を骨折し、休場することとなった。8月12日に手術を受け、18日に退院。その後、リハビリ生活を経て、12月8日愛知大会のリングに上がり、復帰を発表。復帰戦の相手として、柴田を指名した。

2014年[編集]

1月4日、レッスルキングダム8の舞台で、柴田勝頼を相手に復帰戦を行う。試合は昇天・改でピンフォール勝ちを収め、柴田から勝利をもぎ取った。試合後、グロッキー状態に陥った後藤の許に柴田が駆け寄り、二人は肩を組んで退場していった。その後意気投合しタッグを結成。

人物[編集]

  • 前述の柴田勝頼に加え、中邑真輔とも同い年で、大学のレスリング部時代から面識があった。新日本プロレスの入団テストを受けた後藤に、中邑が「新日本ってどうやったら入れるの?」と尋ねたこともある(お互い新日本プロレスには同期で入門しているが、入団テストを受けたのは後藤のほうが少し早かった)。
  • 2009年春に養神館合気道本部道場に入門し、以来暇を見つけては稽古に励んでいる[4]
  • 週刊プロレス」で邪道が執筆する「CTU珍遊日記」では笑いを提供するキャラとして毎回登場し、「アホの後藤」呼ばわりされている。
  • 趣味は『pop'n music』をすることと「週刊プロレス」で発言している(海外遠征前)。
  • 2009年10月15日に結婚・入籍していたことが、翌2010年1月の契約更改の際に明らかになった。2010年中に結婚式を挙げたいとの意向を示している[5]
  • 2011年11月22日放送の「ライオンのごきげんよう」を、テレビ局にハガキを出して一般客として観覧。ゲスト出演していたプロレスファンの博多大吉が、「観覧席に後藤選手がいる」と指摘したことで、後藤もテレビに写った。

得意技[編集]

フィニッシュムーブ[編集]

昇天・改
現在のフィニッシュ・ホールド
ブレーンバスターの要領で垂直に担ぎ上げ、振り子のように前に落としつつ、自らは尻餅をついて倒れこみながら胸板にエルボー・ドロップを突き刺す。2006年のメキシコ遠征中に開発した昇天の改良版で、日本に凱旋帰国した2007年9月7日の飯塚高史戦で初披露となった[6]
昇天
正調である昇天は、マット・モーガンが使用するマウント・モーガン・ドロップと同型で、振り子のように前に落下させた相手をロック・ボトムの様にマットに叩き付ける。こちらは凱旋帰国当時のフィニッシャーとして用いられたが、いつしか使用頻度が減少し、改良版が主流と化した。

打撃技[編集]

ラリアット
ロープに走る相手を追いかけるように後をつけてから放つ追走式を得意としている。
また、相手のアゴをかちあげるように放つショートレンジ式は特攻(ブッコミ)ラリアットと称され、フィニッシャーとしても用いられる。
村正
フライングニールキック。走り込んできた相手へのカウンター時や、対角線コーナーや場外のフェンスにもたれかかる相手に走り込んで放ったり、選手(タッグ戦等、パートナーを踏み台にする場合も)やレフェリーを踏み台にしながら放つなど、バリエーションも多彩。
PK
盟友・柴田勝頼の得意技。尻餅をついた相手に放つランニング・サッカーボールキック
ノーモーション・ヘッドバット
相手に試合の主導権を握られている時や打撃合戦の際、不意に相手の顎または喉元へと突き刺す。

投げ技[編集]

裏昇天
リバースのボディスラムの要領で相手を肩口に担ぎ上げ、半時計周りで旋回させるように勢いを付けつつ、振り子の要領でホイップし、自身の左腕側でフェース・クラッシャーの形でマットに叩きつける。以前から常々「既に開発済」と本人が述べていたり、試合でも何度かトライしていたものの(現行型と違いリバースブレーンバスターの要領で持ち上げようとしていた)防御され未遂に終わっていたが、2011年6月7日のタッグマッチで初披露となった。また、この技を食らった棚橋弘至は「初物」技の受けを上手く行えず、失神している。
牛殺し
ファイヤーマンズキャリーで持ち上げた(もしくはフィッシャーマンの体制で相手を持ち上げた後、移行した)相手の頸椎のあたりが自分の片膝に当たるようにファイヤーマンズキャリーの要領で前方、もしくは側方に投げ落とす変型のネックブリーカー。凱旋帰国後から使用し、この技で天山を欠場に追いやったことから天山のニックネームの牛が付いた。原型は欧州に古くからある技でこちらは単にネックブリーカーとも呼ばれる。この技に行くと見せかけて、ストマックブロックに移行する戦法も時折使用する。大一番の際には雪崩式も敢行する。
リバース牛殺し
カナディアン・バックブリーカーもしくはリバースボディスラムで担ぎ、前方に投げ落とし自分の片膝に相手の顔面から落とす。2014年1月4日の柴田勝頼戦で初公開。
地獄車
リストクラッチ式アングル・スラム
ヘビー級に転向を機に封印していたが、近年ではフィニッシュ前の布石として時折使用。過去にゴー・トゥー・ヘブンという名称としても使用されていた。
雪崩式ネック・ブリーカードロップ
リングに背を向けるような体勢にしてコーナー最上段に乗せた後、相手の首を捕らえ自らの右肩に叩きつける。

締め技・関節技[編集]

昇龍結界
うつ伏せの相手の片腕を自分の足を利用してハンマーロックに極め、もう片方の相手の腕に腕固めを決める。後藤の数少ない関節技でフィニッシュ・ホールドまで昇華されつつあったが、現在は繋ぎ技として時折使用している。
ゴトウスペシャルシリーズ
I
相手の上半身をチキンウィングフェイスロックに捕らえ、体を反転させ胴体を両足で締め上げる。
II
うつ伏せになった相手の両足を交差させるように固めながら体を仰向けに反転させる変形足4の字固め。
III
上記の通りに足を交差させ、自らはマットに背中を付き相手の両足を吊り上げた状態からダメージを蓄積させる。
野武士固め
尻餅状態の相手にコブラツイストヘッドロックの複合技の様なストレッチ。
ビクトル式腕ひしぎ十字固め
相手の後方から肩の上に飛び乗って腕を取り、そのまま前方回転して相手を寝かせ、腕ひしぎ十字固めを決める。地獄車開発以前のフィニッシュ・ホールド。

丸め込み技・フォール技[編集]

後藤式
足極めエビ固め。ゴトウスペシャルIIの要領で体を仰向けにし、相手の頭部に周りこみながら足を上から押さえつけるフォール技。
回天
アマチュアレスリングの「がぶり」の体制から相手の背中に乗り、反動をつけてから前転し相手の股間をすり抜けてエビ固めの要領で丸め込むラナ。ルチャリブレのスペル・ラナという技と同型。スペル・シーサーの考案によるもので、シーサー自身はヨシタニックとして使用している。
雪崩式回天
ヘビー級転身後から使い始めた技。主に大一番で使用してる。こちらはスペル・ラナの形よりも純粋な前方回転エビ固めの形を雪崩式で仕掛けている印象が強い。

タイトル歴[編集]

新日本プロレス
NWA
  • NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座

入場テーマ曲[編集]

2011年のCMLL遠征中に「全てをリセットする」という意味合いを込めて入場テーマ曲を変更。2011年5月 - 現在まで使用。
  • Rock Me Wild
凱旋帰国時のテーマ曲。2007年8月 - 2011年3月まで使用。
ヤングライオン時代は1972年 - 1979年の新日本プロレスのオフィシャルテーマ曲であった。

テレビ出演[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 新人募集入門テストでは180cmだった。
  2. ^ ただし、同王座は元々管理していた全日本プロレスは全く関わっていないため、完全な復活とは微妙に異なる。
  3. ^ 史上初は、2005年3月の小島聡(王者)VS 中邑真輔(挑戦者)
  4. ^ http://www.njpw.co.jp/news/detail.php?nid=2213
  5. ^ 東京スポーツ・2010年1月15日付 最終面
  6. ^ 新日本プロレス創立35周年TOUR Circuit 2007 NEW JAPAN GENERATION 第5試合”. 新日本プロレス公式サイト. 2007年9月7日閲覧。

外部リンク[編集]