小林邦昭

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小林 邦昭
プロフィール
リングネーム

小林 邦昭[1]
キッド・コビー

チン・コビアシ
本名 小林邦昭
ニックネーム 虎ハンター
飛燕戦士
身長 183cm
体重 105kg
誕生日 1956年1月11日(58歳)
出身地 長野県小諸市
所属 新日本プロレス
スポーツ歴 砲丸投
トレーナー 山本小鉄
マサ斎藤
デビュー 1973年2月1日
引退 2000年4月21日
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小林 邦昭(こばやし くにあき、1956年1月11日 - )は、日本の元プロレスラー長野県小諸市出身。関係者の間では「サンペイちゃん」の愛称で親しまれる。

来歴[編集]

長野県丸子実業高等学校を中退して1972年新日本プロレスに入門。1973年栗栖正伸戦でプロデビュー。

1980年メキシコに遠征。1982年アメリカに渡り、「キッド・コビー」のリングネームで活躍した。

1982年10月に帰国。パンタロンマーシャルアーツスタイル(試合内容にマーシャルアーツスタイルを求められない時には、左半分が白、右半分が黒というユニークなショートタイツだった)で戦う姿は当時の日本のプロレス界では珍しかった。初代タイガーマスクと抗争劇を展開し、一気にブレイク、「虎ハンター」と呼ばれた。タイガーマスクのマスクを剥ぎにかかる悪役ファイトスタイルは、タイガーマスクの日本人ライバルとしてアンチ・ヒーローを求めるプロレスファンに支持された。しかし、私生活ではタイガー=佐山とはとても仲が良く「無名の自分をゴールデンタイムでスターに引き上げてくれた」と佐山には感謝の念を表明している。

維新軍の前身である革命軍結成直前にニューヨークWWF地区へ長州と遠征し、マサ斎藤と合体。現地でのリングネームはチン・コビアシ(Chin Kobiashi)。その後は新日本プロレスの中でも反体制の維新軍団として(長州力マサ斎藤キラー・カーンアニマル浜口谷津嘉章寺西勇)らと行動を共にし、中でも寺西とはジュニアヘビー同士ということで多くタッグを組む。

1984年9月に維新軍団のメンバーらと新日本を離脱し「ジャパンプロレス」に参加し、全日本プロレスに参戦した。全日参戦中も二代目タイガーマスクを相手に虎ハンターとして活躍した。1985年NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座を、1986年には世界ジュニアヘビー級王座を獲得。

その後新日マットに出戻り、1987年8月にIWGPジュニアヘビー級王座を獲得。1989年4月24日の新日本プロレス東京ドーム大会では獣神ライガーのデビュー戦の対戦相手を務めた。ヘビー級へ転向すると、新日選手会と対立し越中詩郎らと「反選手会同盟(後の平成維震軍)」を結成。昭和時代の維新軍団と平成維震軍の2つの維新軍団に所属したのは小林のみである。

負けたら坊主という「カベジェラ・コントラ・カベジェラ」を新日の正規軍の野上彰(現・AKIRA)と行ない敗戦、坊主頭になる。しかし勝者の野上はその対戦にいたく感銘を受けたということで後日自分も坊主になり平成維震軍入りする。

1999年に平成維震軍は解散、小林は2000年4月21日に行われた獣神サンダー・ライガー戦を最後に現役を引退した。現役末期、胃がんに見舞われて3度の手術を経験し、後年、この癌が引退の原因であったことを自ら明かしている。前田日明が佐山聡との対談内で語ったところによれば、今も抗ガン剤治療を続けているとのことである。腹部は70cmにも及ぶ大きな手術痕があり、ライガーとの引退試合においても、手術痕を隠すため、上半身はタンクトップを着用しての試合であった。試合後の引退セレモニーには佐山が花束を持って駆けつけ、三沢も祝電を寄せた。

引退以降は主に裏方を担い、現在は新日本プロレスでIWGP実行委員、スカウト部長、新日本道場の管理人として勤務している。2006年7月27日に後楽園ホールで行われたWAR最終興行では、平成維震軍の旗持ち(セコンド)として久々に表舞台に顔を出した。維震軍の胴着を着用し、旗で相手選手を攻撃したりと、元気な姿を見せている。

また、2007年9月21日には、リアルジャパンプロレスの後楽園大会で、佐山聡を相手に1試合限定の復帰戦を行った。これは「佐山選手の中の『野生の虎』を復活させるため」であった。その後は実行委員として参加していたが、「タイガーが覆面五番勝負をブチ上げて、オレの名前が出てこないことに憤慨した」として対戦を要求し2011年5月7日に試合が行われリングアウト負けとなった為、完全決着がつかず、9月23日「最後の一騎打ち」と銘打ってレジェンド・ザ・プロレスリングで再戦した。

現在J SPORTSでの新日本プロレス中継の解説を担当している[2]

エピソード[編集]

  • 16歳で新日本プロレス入りしており、藤原喜明(入団時24歳)よりも1週間、長州力(入団時22歳)よりも1年先輩にあたる。
  • 若手時代、新大阪駅 - 東京駅を移動中の新幹線で、山本小鉄の「俺が奢るから、何でも好きなだけ食え」との言葉に、「本当に何でも食っていいんですね?」と答えて、ビュッフェにあるメニュー全種類を食べたという大食いエピソードを持つ。新日本に入ったのも、あまりの大食いにあきれた母親から「そんなに食べたいならプロレスラーにでもなれ!」と言われたことがきっかけであると言う(小林の大食いエピソードは枚挙に暇がない)。食への拘りは相当のもので、道場で料理の腕をふるっている。道場の台所の壁に描かれてある野菜や花・動物のイラストは小林が描いたものであり、ハードな練習に明け暮れている若手を和ませている。
  • 大阪毎日放送のバラエティ番組のモーレツ!!しごき教室では、藤波辰爾前田日明らとともに出演していた。
  • 虎ハンターとしてのアンチ・ヒーロー(悪役レスラー)ゆえに、タイガーマスクファンから多くのカミソリ入りの手紙や脅迫状が届いて困惑していたが、現役時代はずっと佐山に黙っていた(現役引退後、佐山に告白した)。余談だがその当時カミソリ入りの手紙で掌をケガをしたが、その傷が今も残っている。[3]
  • 革命軍・維新軍以前から長州力との仲の良さは有名であり、「力ちゃんが結婚するまで俺も結婚しない」と約束したエピソードが何度もプロレス雑誌で紹介されている。
  • 優しい人柄ではあるが試合前の控え室では厳格であり、新日に留学生としてきていたチャールズ・スキャッグス(スコーピオ)が音楽に興じて踊っているのをたしなめたり、青柳政司の世話に来ていた誠心会館の門下生の非礼な態度に制裁を加えたことがある(この行為が齋藤彰俊および誠心会館との抗争→反選手会同盟への結成へと繋がっていく)。
  • 後輩に対しての面倒見も良く、飲み屋に行っても自ら運転手を買って出て自分は酒を飲まず、後輩に好きなだけ飲ませ後の介抱もしてやったと言う。
  • 引退しても数年後に復帰するプロレスラーが多いことに憤りを感じており、自らの引退の際にプロレス記者から「復帰はいつ頃ですか?」と言われ、温厚な小林が本当に怒ったエピソードが週刊プロレスに掲載された。
  • スーパースター・ビリー・グラハムの肉体に憧れており、引退後もトレーニングを欠かさず、締まった肉体と逞しい上腕二頭筋を維持している。増量してしまった佐山聡に対しは度々、苦言を呈している。
  • 2000年での引退に際し「日本プロレス界の発展に貢献してくれた」として財団法人・日本プロスポーツが主催する2000年度日本プロスポーツ大賞スタン・ハンセンとともに功労者賞を受賞する為に招かれたが、会場内で小林を見た松井秀喜が「あ、タイガーマスクのマスク剥ぎしていた人だ!」と大喜びし、一緒に写真に納まった姿が当時の各スポーツ新聞に掲載された。
  • 2012年現在56歳だが、引退後インターネットを趣味としており、ブログSNSを活用しているという[4]

タイトル歴[編集]

得意技[編集]

マーシャルアーツ殺法と呼ばれた見栄えのするプロレス的な蹴り技と、切れ味鋭いスープレックスを得意とした。

フィッシャーマンズ・スープレックス
和名:網打ち式原爆固め投網式原爆固め。自身が開発した代名詞とも言える技。
長州の“かませ犬”発言があった日の凱旋帰国第一戦における、木戸修と組んでのジョニー・ロンドス&シルバー・ハリケーン戦で日本初公開するも、フックが強すぎて肩が上がってしまい、フォールではなくギブアップ勝利であった。
現在では女子レスラーや若手レスラーを含めて多くのレスラーが使用するが、葛西純が「小林邦昭!!」と叫びながらこの技を仕掛ける場面も見受けられたように、元祖は小林であり絶対的なフィニッシュ・ホールドとして使用し続けた。
メキシコ修業時代にメキシカンレスラーが使っていた技を取り入れたと語っており、二代目・三沢タイガーとの対戦用にフィッシャーマンズ・スープレックス'84と言う技を開発しているがあまり使われていない。
MVPがこの技を繰り出したさいに「あれじゃダメですね。持ち上げて叩きつけないと効かない」と苦言を呈している。
ソバット
ロープカウンターからの一撃を得意としており、上記フィッシャーマンズ・スープレックスへの繋ぎ技として多用された。
フライングニールキック
形勢逆転への布石としてカウンター技としてよく使用された。
スピンキック
こちらもロープカウンターで使用された一つ。
トラースキック
串刺し攻撃を狙った相手へのカウンターとして用いられることが多かった。
スライディング・キック
ハル薗田が元祖の技で、全日参戦時の抗争でよく食らったこともあり、新日復帰後もタッグマッチでよく使用していた。

入場テーマ曲[編集]

  • THE ROOM (BRAINWASH) PART ONE(邦題:洗脳された部屋・パート1) / リック・ウェイクマンのアルバム「1984」の4曲目。小林が使い始めて数か月後、凱旋帰国した前田日明の入場テーマとしても使用された。
  • HOT POINT - ジャパンプロレス時代に使用。小林に限らず長州以外のジャパンプロレス所属の選手はこの曲で入場することが多かった。

脚注[編集]

  1. ^ 1980年代の新日本プロレスのマッチデーパンフレットの当日のカード欄では『小林邦明』と印字されていたこともあった。
  2. ^ 2010年までは、山本小鉄が解説を務めていた。
  3. ^ この傷について小林は「ブッチャーテリーのように額に名誉の負傷があるレスラーはいるけど、手に名誉の負傷があるレスラーは僕ぐらいじゃないの(笑)」と語っている。
  4. ^ 柴田惣一 (2012年9月25日). “虎ハンター「ネットで会いましょう」”. 東スポWeb. 2012年9月26日閲覧。

外部リンク[編集]