橋本真也

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橋本 真也
橋本 真也の画像
2004年1月、後楽園ホールにて
プロフィール
リングネーム 橋本 真也
SHOGUN
ハシフ・カーン
本名 橋本 真也
ニックネーム 破壊王
爆殺シューター
闘魂伝承
ハッスル・キング
ブッチャー
身長 183cm
体重 135kg
誕生日 1965年7月3日
死亡日 2005年7月11日(満40歳没)
出身地 日本の旗 日本岐阜県土岐市
スポーツ歴 柔道三段
空手
トレーナー アントニオ猪木
坂口征二
山本小鉄
デビュー 1984年9月1日
引退 2005年(現役中に死亡)
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橋本 真也(はしもと しんや、1965年(昭和40年)7月3日 - 2005年(平成17年)7月11日)は、日本プロレスラー俳優声優としても活動。闘魂三銃士の1人。岐阜県土岐市出身。

来歴[編集]

新日本プロレス入団[編集]

中学時代に父が失踪し、母子家庭で育つが高校(中京商業高等学校)時代に母を亡くした。学生時代に柔道を始め、アントニオ猪木に憧れるようになり、1984年(昭和59年)4月に新日本プロレス(以下「新日本」)に入門。入門初日に後のライバル、蝶野正洋と洗濯機の順番を巡って乱闘を起こした(その頃はお互い打ち解けていない間柄だったので「僕が先に使っていた」「いや君の前に僕が使っていた」という口調で争っていたと著書に記されている)。1984年(昭和59年)9月1日に後藤達俊戦でデビューした。

1987年(昭和62年)、第3回ヤングライオン杯での準優勝後に海外修行に出た[1]カナダカルガリー地区を中心にモンゴルギミックの『ハシフ・カーンHashif Khan)』のリングネームで試合を行ったが、対戦相手を負傷させたりしたために試合を干されることもあった。完全に干されたきっかけとなったのは、ファンの女の子にサインを求められた時に女性器を描き、それを見た親が泣いて激怒しプロモーターに訴えられたためだと言われている[2][要出典]

1988年暮れのワンマッチ帰国後、1989年(平成元年)1月からはテネシー州メンフィスCWAに参戦[1]トージョー・ヤマモトマネージャーに、サムライ・シンジこと笹崎伸司と『ショーグン&サムライThe Shogun & The Samurai)』のタッグチームを結成、エースのジェリー・ローラービル・ダンディーをはじめ、ブレイク以前のスコット・スタイナージェフ・ジャレットロード・ヒューマンガスらと対戦した[3][4]

闘魂三銃士[編集]

海外修行の後、帰国し闘魂三銃士として、武藤敬司蝶野正洋と共に売り出されることになり、対戦相手をリング上で叩き潰す姿から『破壊王』の異名を持つこととなった。また古舘伊知郎からは「戦う渡辺徹」の異名を貰っている[5]。「破壊王」ほど定着しなかったが、橋本はこのニックネームを気に入っていたという。

ビッグバン・ベイダースコット・ノートントニー・ホームといった巨漢外人レスラーの得意技を正面で受け、好勝負を展開した。橋本自身は日本人レスラーとしては稀なスーパーヘビー級であるが、この階級のレスラーが得意技にすることが多いラリアットパワーボムをほとんど使用せず[6]あんこ型でありながらキック主体というスタイルだった。

1993年(平成5年)、橋本は前年にグレート・ムタとしてIWGPヘビー級王座を獲得した武藤や、G1 CLIMAX2連覇を果たした蝶野と比べ、停滞気味であったが、WAR天龍源一郎と2度のシングルマッチを経て勢いを付け、9月20日、ムタを破り、第14代IWGPヘビー級王者となった。その後、藤波辰爾に敗れて王座を一度手放すものの、直後の5月1日福岡ドームのメインイベントで藤波を破って王者に返り咲き(1年後の1995年(平成7年)5月3日福岡ドームで武藤に敗れたものの、9度の当時連続防衛記録を達成)、その年の活躍が認められ、「プロレス大賞MVP」を獲得した。

Mr.IWGPとして君臨[編集]

1996年(平成8年)4月29日東京ドーム、この年の1月4日に武藤に勝利してIWGP王座を奪取したUWFインターナショナル(Uインター)の総大将である高田延彦と対戦し、垂直落下式DDTからの三角絞めで勝利した。また、前年から勃発していたUインターのリングにも参戦した。

1997年(平成9年)8月31日、この年のG1 CLIMAX優勝者である佐々木健介に敗れIWGP王座を奪われて以降、橋本がIWGP王座につくことはなかったが、通算20度の防衛を果たした。

新日本プロレス時代の橋本は、後述するように数々のタイトルを獲得したものの、その一方で、G1のタイトルだけはなかなか手中に収めることができず、いつしか鬼門といわれるようになった。しかし、1998年(平成10年)に、藤波、健介、蝶野といった歴代のG1ホルダーを撃破して勝ち上がってきた山崎一夫を破り念願のG1優勝を果たした。

vs. 小川直也[編集]

小川直也と何度も抗争を繰り広げ、1997年(平成9年)4月の初戦(※小川のプロデビュー戦)は敗れたが翌月には小川を失神KOで下しリベンジを果たした。1999年(平成11年)1月4日、東京ドーム大会における3度目の戦いでは、橋本は小川にほとんど手も足も出ず事実上の敗北を喫した(結果は無効試合)。試合後に両選手のセコンド同士による乱闘騒ぎも発生した。当時全日本プロレス三沢光晴全日本プロレス中継で「あれじゃいくら何でもプロレスラーが弱くみられる。もっとプロレスラーは強いんだぞってところを見せてもらわないと困る」とコメントし、小川のセコンドについていた佐山聡は「セメントマッチ」であったと語っている[7]

同年10月にも小川に敗れ、2000年(平成12年)4月7日東京ドームで行われた5戦目は、「負けたら引退」を公約し試合に臨んだ。STOをDDTで返し小川の腕を脱臼させるなど追い込んだものの、直後に仕掛けた腕への関節技が脱臼させた部分を戻してしまう不運や、防御面での対策は十分だったものの攻撃面の弱さもあり大敗を喫し、公約どおり新日本に辞表を提出した。

新日解雇〜ZERO-ONE旗揚げ[編集]

2000年(平成12年)8月23日、熱心なファンの折り鶴兄弟から送られた復帰を願う百万羽の折り鶴をきっかけに引退撤回を表明。これについてはテレビ朝日のスポーツ番組「スポコン!」が特集を組んだ。10月9日東京ドームで藤波辰爾と復帰戦を行い、その直後に新日本内に別組織「新日本プロレスリングZERO」を作ろうとしたが、長州力らの反対にあった。その結果、11月13日付で新日本を解雇をされたため、直後にZERO-ONEを設立し完全独立した。12月23日にはプロレスリング・ノアに参戦(対戦相手は大森隆男)、同年の大晦日にはINOKI BOM-BA-YE 2000に参戦(対戦相手はゲーリー・グッドリッジ)。その後ZERO-ONEには橋本の理想に賛同した新日時代の後輩・大谷晋二郎高岩竜一が合流した。

2001年(平成13年)3月2日、両国国技館にて「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ!」との理念を掲げ旗揚げの挨拶を行い、試合では新日本の永田裕志と組み、ノアの三沢光晴・秋山準組と対戦してフォール負けした。この後、小川直也とは和解してZERO-ONEにて共闘、「OH砲」として人気を得た。

三冠奪取、長州との決戦〜ハッスル・キング[編集]

2003年(平成15年)にはZERO-ONE勢を率いて武藤率いる全日本プロレスに乗り込み、全面抗争が勃発、頂上決戦となったグレート・ムタとの三冠戦に勝利した。5月2日には後楽園ホールでは最多記録となる2,300人の観衆を集めて、小川と組み、武藤・小島聡組と対戦し、勝利したが、試合後に川田利明が乱入。そして7月、橋本・小川組VS武藤・川田組の試合で、試合中に川田のキックをチョップで迎撃した時に右肩を脱臼し、勝利したもののこの時の脱臼がきっかけで三冠ベルトを返上した。

11月、長州力東京スポーツ紙上で口撃を行い、その後コラコラ問答を経て長州軍との抗争に突入。同年12月団体戦、2004年(平成16年)2月にはシングルで長州と激突、勝利した。

2004年(平成16年)2月、3冠王者になった川田から3度目の防衛相手に指名され挑戦するも、前年の肩の怪我がきっかけで敗れる(セコンドからタオル投入)。橋本のいわゆるプロレス四天王とのシングルマッチはこの川田戦のみであった。その直後、2人はハッスル軍としてタッグを組んだ。

2004年(平成16年)からハッスルに参戦。小川から「ハッスル・キング」と命名され、高田総統から「ポーク」と揶揄された。

団体崩壊、闘病〜最期[編集]

しかし同年、団体の経営方針等、諸問題の積み重ねから団体内部との確執が生まれ、11月25日にZERO-ONE崩壊を宣言し、負債は全て自ら被ることで決着。1人でフリーの道を歩むことになる。その後、長い間治療せず放置していた右肩を手術し、リハビリをしながらリングへの復帰を目指していたが、2005年(平成17年)7月11日午前8時頃、滞在先において脳幹出血で倒れ、午前10時36分、搬送先の病院で死亡が確認された。40歳没。睡眠時無呼吸症候群も遠因であったと推測されている。

7月16日に行われた葬儀には、武藤・蝶野・小川ら団体の垣根を越えて、大勢のレスラー、各界著名人、一般ファン等1万人以上が参列した。特に闘魂三銃士の絆を持つ武藤、蝶野の受けた衝撃は大きく、武藤が葬儀場の階段に座り込んだまま立ち上がれなくなったり、蝶野が人目をはばからず涙に暮れるなどした。友人でもある高島宗一郎KBCアナウンサー(当時。現:第35代福岡市長)の涙声の絶叫に続き、出棺時に橋本選手の入場曲である『爆勝宣言』が流され、参列者から投げられた数千本もの赤い紙テープと「ハッシモト」コールの大声援に包まれて送り出され、遺体は久保山斎場で荼毘に付された。また旧ZERO-ONEで苦楽を共にした大谷晋二郎は、棺桶を担ぐ役から外されていたことを無念に感じ、葬儀場の出入り口付近で悔しさを噛み殺していたという。戒名「天武真優居士(てんぶしんゆうこじ)」。

2008年(平成20年)3月2日、橋本の功績を称え、2代目IWGPヘビー級ベルトが中邑真輔から橋本家に贈呈された。

バラエティ番組『ロンドンハーツ』が、生涯最後のテレビ番組出演だった(後述のエピソードを参照)。

2011年(平成23年)7月11日、七回忌という節目を機に、公式の七回忌追悼オリジナル写真集が発売された。『永遠の破壊王』

得意技[編集]

打撃技[編集]

キック
スーパーヘビー級のウェイトを乗せて繰り出されるキックは非常に強烈で、「爆殺シューター」との異名を取るほどの威力を誇った。佐藤塾での空手の経験も手伝い、キックは若手時代からの得意技で、レガースを着けないため、さらに威力が増し武藤や蝶野に嫌がられていた。
ミドルキック
橋本が最も多用するキック。相手の胸板へ数発叩き込んで仰け反らせ、タメを作ってさらに強力なキックで相手を吹き飛ばす一連の流れはプロレス的な説得力に溢れている。
ローキック
ミドルと同様に威力が高く、相手の足にダメージを与え試合のペースを握る。アントニオ猪木はそのローキックを受けた衝撃で体ごと1回転してしまい、「相当効いていた」と後に語っている。
フライング・ニールキック (爆殺ニールレッグラリァット)
胴回し回転蹴りの一種。前田日明がUWFスタイルを標榜して使用しなくなったことから、橋本の代名詞の一つとなった技。主に自らロープに飛んで勢いをつけ、相手の首や顔面めがけて繰り出される。初のテレビマッチ(6人タッグ)でも披露したが、パートナーが抱え上げた相手に仕掛けようとして、その頭上を越えてしまったこともある。ハシフ・カーン時代のフィニッシュ技。
水面蹴り
身体を沈み込ませ地を這うように回転しながら相手に脚払いをかける。相手が技を仕掛けてきたのをかわしてカウンターで見舞うことも多く、この技でたびたび形勢を逆転してきた。ボクサートニー・ホームに敗戦した後、リベンジマッチのために習得。中国での修行で会得したと橋本は語っている。この時の様子は闘魂三銃士自叙伝集「烈闘生」に記述がある。
袈裟斬りチョップ
キックに次いで使用頻度の高い技で、相手の胸から肩口にめがけて繰り出され非常に強力。実況ではよく「ナタを振り下ろすような」と形容された。
燕返し
バックハンドブローの要領で繰り出す、横回転式逆水平チョップ。小川直也との2度目の対戦に備えて開発された。
地獄突き
若手時代からのあだ名がブッチャーだったが、それを意識して使っていたかは不明。
ジャンピング・エルボー・ドロップ
雄叫びを上げながら大きくジャンプして繰り出す。コーナー上からうつ伏せに倒れる長州の後頭部に決め3カウントを奪ったこともある。
(一時的な)引退試合となった小川戦でもうつ伏せの状態の小川に決め、衝撃で小川の腕を脱臼させている。
なお、新日本出身の選手はエルボー・ドロップの名手が多いが、対して全日本の選手はスタンド式のエルボースマッシュを得意とする選手が多いのも特筆すべき点。
ダイビングフットスタンプ
主にタッグマッチで使用。

組み技[編集]

DDT
相手の首を抱え込んで固定し、後方へ倒れこみながら脳天をマットに突き刺す技。橋本の代名詞と言える技である。武藤は橋本のDDTについて「首をガッチリと抱え込まれ最後までロックを外さないので、ダメージが大きい」と語っている。
ジャンピングDDT
首を抱えたまま飛び上がってマットに突き刺す、スピードと落差の大きいDDT。さらに、自らロープに飛んで勢いをつけ、そのまま相手に飛びつきながらDDTに移行することで更なる落差と破壊力を生み出す入り方もある。新日本時代前期の橋本は、この“飛びつき式”をフィニッシュ技として使用していたが、後に垂直落下式DDTを開発してからは使用頻度が減っていった。
垂直落下式DDT
ブレーンバスターのような体勢で繰り出すDDT。垂直落下式ブレーンバスターと混同されやすいが、橋本のこの技は、ゆっくりと持ち上げて頭からリングに叩きつける技でありステップもブレーンバスターではなくDDTのステップである。それは、自然重力落下よりも(ブレーンバスターの中にも、下方に加速を付加するバリエーションもあるが、先のステップも含め)、技をかける側が意図的にマット上(下方)へ加速する着地に近いことでわかる。橋本自身の体重・低重心もあいまって、数あるプロレス技の中でも指折りの強力な技となっている。それを食らう選手、見ている観客に与えるインパクトも大きい。山崎一夫にいたっては危険な角度で頭から落ちていった。
フィッシャーマンDDT
垂直落下式のフィッシャーマン・バスター。同時期に獣神サンダー・ライガーが、フィッシャーマン・バスターを使用し始めたためか、橋本は使用しなくなった幻の技といえる。
リバースDDT
バックを取った状態からDDTを仕掛ける技。通常のDDTとは違い、相手は首を固定されたまま後頭部をマットに叩きつけられることになるため、受け身が取りにくくダメージも大きい。

関節技[編集]

橋本には代名詞といえる関節技がほとんどないが、マサ斎藤は「橋本は関節技も上手い」と評しており、十字固めやアキレス腱固めなど、一般的な関節技をほぼマスターしている。

三角絞め
相手の肩と首を両足で挟み込んで絞め上げる技。橋本の場合は技の入り方がやや独特である。UWFインターとの対抗戦でよく使われた技。
肩固め
柔道技の応用。
腹固め
うつ伏せになった相手の背中に乗り両足で腕を極める技。相手がタックルに来た時にそれを切って繰り出していた。橋本のグラウンドテクニックがよくわかる技である。主に試合序盤に出していたが、スコット・ノートンとのIWGP戦でこの技でキブアップを奪ったこともある(当時は逆肩固めと表記された)。
裏十字固め
腕ひしぎ逆十字固めの逆バージョン(かけられている側がうつぶせ)。1994年、G1クライマックス・スペシャルのタイトルマッチ(IWGPヘビー級)においてヒール転向してまもない挑戦者・蝶野正洋からギブアップを奪い王座防衛に成功した。

合体技[編集]

オレごと刈れ
小川直也との合体技。橋本が後ろから相手をつかんでジャーマン・スープレックス、あるいはバックドロップを仕掛けると同時に、小川が橋本ごとSTOを仕掛ける、橋本自身にもダメージを与える『両刃の剣』。初めて披露された際の、橋本が小川を呼び込む叫びがそのまま技の名前として定着した。
刈龍怒(かりゅうど)
小川直也との合体技。橋本が水面蹴りを、小川がSTOを仕掛ける。2人の得意技を使った強力な技。

エピソード[編集]

師・猪木、小川直也との抗争[編集]

中学時代に猪木VSウィリー・ウィリアムス戦を見て猪木の魅力にひかれ[8]、卒業文集には「尊敬する人・アントニオ猪木」と書くほど猪木に心酔した。やがて新日本に入門した橋本は猪木の闘魂哲学を徹底的に叩き込まれ、試合用ガウンには「闘魂伝承」の文言を入れるほど猪木イズムの伝承者として活躍。IWGP王座を通算20回防衛するなど1990年代の新日本を名実共に引っ張る大スターへと成長した。

しかし1997年(平成9年)、元柔道世界王者・バルセロナオリンピック銀メダリストの小川直也がプロ格闘家として猪木に弟子入りしたことで、2人の師弟関係に亀裂が入った。小川のデビュー戦の相手を務めた橋本だったが裸絞めでKO負けを喫すると言う番狂わせが起きた。1か月後に橋本はリベンジを果たしたが、1999年(平成11年)1月4日の3度目の対戦では、プロレスルールを無視した小川の突然の暴走ファイトに橋本はなす術なく敗北した。試合は無効試合となったが、試合後の会見で橋本は「絶対許さない」「何がアントニオ猪木だ」と黒幕・猪木への怒りを表した。同年10月、4度目の対戦が行われるがここでも小川に橋本は敗れた。

2000年(平成12年)4月の5度目の対戦でも小川は橋本を破った[9]。しかしこの試合に引退を賭け、男の生き様を見せ付けた橋本に、猪木は「引退は早い」と歩み寄りを見せるようになった。橋本はファンの後押しを受け同年10月に引退を撤回して復帰。翌2001年(平成13年)にZERO-ONEを旗揚げした橋本に猪木は「馬鹿になれ!」のメッセージを送り、最大の理解者として橋本の行動を陰で支え、合わせるように小川も橋本と和解し、以降2人で「OH砲」としてタッグを組むようになった。

しかし2000年(平成12年)6月、当時PRIDEに参戦していたマーク・ケアーの「ZERO-ONE真撃」への参戦問題[10]に端を発し、橋本と猪木は再び袂を分かった。

この小川直也との一連の抗争引退劇があったためこの年母校の中京高等学校が甲子園出場を決めたが、出場校紹介のOB欄に橋本の名前が記載された[11]

2005年(平成17年)、橋本は死去。猪木は橋本を赤シャツで追悼し、一部に物議をかもした。

なお、橋本は2005年(平成17年)のプロレスゲームのインタビューで「尊敬するレスラーは?」との質問に「アントニオ猪木」と即答している。

対四天王[編集]

橋本が新日本在籍時代、夢のカードとして全日本プロレス・三沢光晴との「ミスターIWGP vs ミスター三冠」対決や、川田利明との「キック対決」を望んでいた。しかし橋本自身は全日本で一番戦いたい相手として、雑誌やトークショーで常々小橋健太(現・建太)の名を挙げていた。橋本がZERO-ONE設立後、三沢とはタッグで対戦し、川田とはシングル、タッグでの対戦、ハッスルではタッグを組むほど絡んでいたが、小橋、田上との対戦は叶わなかった。

人物[編集]

  • 型破りな人柄で、風変わりな言動も少なからずあった。橋本の関係者が彼を語る際には、常識外れのハチャメチャな言動をする人間を指すプロレス用語「トンパチ」(トンボハチマキの意味)が用いられることが多い。(新日のトンパチ伝説は「荒川真」→「前田明」→「橋本真也」へと受け継がれていく)
  • 坂口征二の付き人時代、坂口の持つ高価な水虫の薬の瓶を割る、坂口が自分用に購入した高価な栄養剤を飲んでしまう、興行収益の入ったアタッシュケースを旅館に忘れる、それを外で開いて札束を風でばらまいてしまう等、大きなミスを連発したため野上彰が「付き人の付き人」として橋本に付いた。
  • 若手時代、アントニオ猪木アブドーラ・ザ・ブッチャーのシングルマッチのセコンドについていた際、ブッチャーの度重なる反則攻撃に激怒し、猪木を救うべく、場外に出たブッチャーにキックを見舞ったことがある(勝俣州和に語ったエピソードより)。「エース級レスラーの試合に格下の新人が加わる」という重大なタブーを犯したため、橋本はしばらく試合から干されてしまった[12]
  • ジャパンプロレス分裂後の長州軍団新日Uターンの際、出戻りを快く思っていなかった橋本は地方巡業で対戦相手のヒロ斎藤に激しい攻撃を加え負傷させたため、試合後に控室で長州力マサ斎藤らから「制裁」を受けた[13]
  • バットマンの大ファン。「橋本が自分用のバットマンのコスチュームを特注し、それを着たまま外をねり歩いた」という噂の真相を雑誌のインタビューで尋ねられた際、それが事実であることを橋本本人が認めている。なお着用したバットスーツは「少しきつくてピチピチだった」とのこと。
  • 海外遠征時、テネシー州にあるエルヴィス・プレスリーの記念館に行ったことをきっかけにプレスリーのファンになり、その後しばらくプレスリーの様な服を着ていたという。米国出身のレスラーからは「ファット・エルヴィス」というあだ名で呼ばれていた。それ以来、エルヴィス風にもみ上げを伸ばし始めるようになった。
  • 小島聡が虫が苦手ということを知り、公園でセミを大量に捕まえて小島の部屋に放った。
  • 空気銃で撃ったスズメを付き人時代の天山広吉に食べさせた。天山はその後保健所に電話し「伝染病とかは大丈夫なんでしょうか」と聞いたという。その他にも、もう一人の付き人である西村修ら、若手レスラーを引き連れて起こした「遊び」は数々の逸話を残し、天山はそれらのイタズラの最大の被害者であった。
  • 1990年(平成2年)2月、東京ドーム大会でアントニオ猪木坂口征二組とのタッグ対決の直前、控え室でピリピリしたムードの中、テレビ朝日の佐々木正洋アナウンサー(当時)が橋本にインタビューを行った。このとき橋本が「時は来た!」とやや芝居がかった口調で大真面目に言って、横目で蝶野にアイコンタクトを取った。しかし蝶野がノーリアクションであったので「それだけだ……」とボソッと付け加えたため、横にいたタッグパートナーの蝶野が思わず吹き出しそうになり、顔を手で押さえごまかした。蝶野は「俺は笑ってない!」と釈明したが、後日「でも控え室は爆笑だったんじゃない?」と、この発言の面白さを認めている。この発言は、橋本が大の時代劇好きでそこから引用したものらしい。この映像は2012年にPlayStation 3のCMに使用された(問いかけのセリフはCM用に変更されている)。また同じ試合の際には猪木が「出る前に負けること考えるバカいるかよ」というセリフを発しているが、こちらは同時期にPlayStation VitaのCMに使用された。こちらはCM用に猪木のセリフも変更されている。
  • 猪木以外にもタイガーマスクこと佐山聡にも憧れており、若手時代はタイガーの四次元プロレスの真似ばかりしていたという。元々はジュニアヘビー級のトップを目指していたとのこと。
  • とても料理上手であった。天山に雀を食べさせたエピソードも、水に付けて羽根を取り、自ら包丁で捌き、茹で、調理してから天山を騙して食べさせたという。同じ寮生で仲が良かった獣神サンダー・ライガーの証言によると、寮でもその料理は凝っており、ある日「豆腐を作る」と言い出し、苦汁や大豆を買い出しに行き、自ら豆腐を作ったが、食材に拘りすぎるあまり、豆腐一丁に1万円ほどかかってしまった。またラーメンなども、自分で出汁をとる本格派であったという。
  • 勝俣州和とはテレビ番組での共演をきっかけに知り合い、自ら「バカ兄弟」と名乗るほどの親友であった。年齢は勝俣のほうが上であるが、勝俣曰く「ドラえもんのジャイアンとスネ夫のようなもので、精神的には橋本のほうが兄だった」という[14]
  • 生涯最後のバラエティ出演となったロンドンハーツでは、長州小力を懲らしめるため橋本に扮した田村淳ロンドンブーツ1号2号)の呼び込みにより、テーマソング『爆勝宣言』にのって西口プロレスのリングにあがった。放送前に橋本が急逝したため当初番組スタッフは放送中止を検討したが、橋本の遺族と関係者から「(橋本本人が)本日の放送を楽しみにしていた」ということを聞き、本人の供養も兼ねてそのまま放送された。番組中橋本から小力に「自分の物真似もやってくれるか?」と問いかけたところ快く応じていたが、橋本の急逝の影響もあってか今日まで公開されておらず、また「橋本を捜すネタ」も封印している。
  • 1990年(平成2年)の闘魂三銃士で売り出しかけの頃に中国へ渡り、自らのファイトスタイルであるキックを中心とした武術の修行に行く。その後はその時の影響か、試合前の控え室を出る瞬間やリングに上がる直前に必ずを結び、気合を入れるポーズを見せていた。
  • よくZERO-ONEの時代にマイクで言い放った「こんなので辛いなんてまだ序ノ口だ。“地獄の一丁目”だぞ」は口癖である。
息子の橋本大地
  • 離婚歴があり、前夫人との間に一男二女がいる。その後の交際相手がプロレスラーの故・冬木弘道夫人であった。前妻との息子の橋本大地は、2008年(平成20年)7月13日に開催されたZERO1-MAXの追悼興業で父親の後を継ぎ、プロレスラーを志していることを明かした[15]。2011年(平成23年)3月のZERO1両国大会で、蝶野正洋を相手にデビューを果たした。
  • 2000年(平成12年)4月に試合中の事故で死亡した福田雅一の最期を巡業中だった新日本のレスラーの中で唯一看取った。「最後は脳死状態になっちゃって…。右脳が潰れ、左脳が潰れ、延髄まで至って…。でも脈は動いてて。あいつは血の一滴になるまで戦った」と語り、号泣した。
  • 蝶野の後を継いで選手会長になったが、杜撰な資金管理により使い果たしてしまった。このことが、新日本追放の一因となった。

コスチューム[編集]

  • カルガリーでの海外武者修行以降基本的には赤の帯とラインの入った黒のパンタロンを使用していたが、1988年(昭和63年)の「88ジャパンカップリーグ戦」では当時の蝶野のような膝までの白のタイツを使用し、1992年(平成4年)1月4日のビル・カズマイヤー戦ではそれまでとは逆に黒の帯とラインの入った赤のパンタロンを使用した。パンタロンの赤のラインは1995年と1996年にマイナーチェンジが施されている。
  • 入場時に巻いていた鉢巻は1989年(平成元年)4月24日の東京ドームでのベイダーとのIWGP王座決定トーナメント決勝で初めて使用(マジックで手書きで「神風」と書いてあった)。また、1998年(平成10年)のG1以降短期間独特のマークの入った鉢巻を使用した。鉢巻は付き人に結んでもらっていたらしく、歴代の付き人で一番結ぶのが上手かったのは藤田和之だったという。
  • リングへは鉢巻きを付けてを結んで上がるというスタイルをとった。

入場テーマ曲[編集]

爆勝宣言
橋本を象徴する入場テーマ曲。東京ドームなどでの入場時には必ずと言っていいほど「はっしもと!はっしもと!」と大コールが起こる。
  • 爆勝宣言(前奏付きバージョン)
    • ビッグマッチで使用。爆勝宣言の本テーマの前に「福岡ドームのテーマ[16]」を付けたバージョンが流される。出棺の際にも使われた。
  • 爆勝宣言(ZERO-ONEバージョン)
    • 前述の前奏付き爆勝宣言の前にARBの「HARD-BOILED CITY」のサビの部分が流れる。
闘魂伝承
1997年(平成9年)1月から短期間使用。対小川直也第一戦はこの闘魂伝承で入場シーンを飾ったが、闘魂を注入された小川直也に負けてしまったためリベンジマッチでは闘魂を捨てて挑む意味を込めて爆勝宣言を復活させた。

獲得タイトル[編集]

新日本プロレス
闘魂三銃士の中でもダントツの防衛回数を誇り、橋本の戦績を語る上で欠かすことの出来ないものである。第16代王者時代に作った9回の防衛記録は後に永田裕志に破られるまで最多防衛記録であった。
防衛回数は3回→6回
パートナーは順に長州力スコット・ノートン
全日本プロレス
NWA
ZERO-ONE
(防衛回数は1回→3回)また、橋本の生前最後の試合が大谷晋二郎大森隆男組の挑戦を受けたこの王座の防衛戦だった(結果は敗北)。

受賞[編集]

出演作品[編集]

テレビドラマ[編集]

映画[編集]

テレビアニメ[編集]

吹き替え[編集]

バラエティ[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ a b 『THE WRESTLER BEST 1000』P147(1996年、日本スポーツ出版社
  2. ^ FIGHTING TV サムライの番組「Versus」武藤敬司 vs 蝶野正洋より[出典無効]
  3. ^ Memphis Wrestling History 1989”. Memphis Wrestling History. 2010年8月23日閲覧。
  4. ^ The History of Wrestling at the Mid-South Coliseum”. Pro Wrestling History.com. 2010年8月23日閲覧。
  5. ^ いきなり!フライデーナイト藤波辰巳がゲストで出演した際、当時「戦う渡辺徹」と呼ばれていた若手時代の橋本が同行しており、渡辺と橋本の2ショット写真が撮られ、それがプロレス雑誌に記載された。ちなみに当時は橋本より渡辺徹の方が肥満体の巨漢だった
  6. ^ 同期でライバルの武藤や蝶野にも似た傾向が見られる[要出典]
  7. ^ 佐山聡が明かす橋本vs小川、セメントマッチの真実 スポーツナビ、2008年(平成20年)1月11日
  8. ^ 金澤克彦によると次の日学校にウィリーが入場時に頭に巻いていたバンダナを真似して登校したところ、タイガー・ジェット・シンが頭に巻いているターバンと勘違いされたらしい
  9. ^ 小川は猪木から「橋本を殺せ」とのメッセージを受けていたという
  10. ^ DSE側のコメントによると「PRIDEのためにDSEの費用で来日したケアーに、橋本が許可無く会って、ZERO-ONE参戦の交渉をした」というもの
  11. ^ 日刊スポーツ2000年8月1日号
  12. ^ 当時レフェリー兼マッチメイク担当(レスラーの対戦予定などを決める)で、橋本を干した本人だったミスター高橋によれば、橋本は大先輩の星野勘太郎に相談し二人で詫びを入れに来たという
  13. ^ これが橋本と長州の確執の発端となった
  14. ^ 2005年8月20日深夜放送「リングの魂 橋本真也スペシャル」より。追悼番組であるが橋本の人柄を鑑み、明るく楽しく橋本を偲ぶ構成となっていた。
  15. ^ 笑い満載の橋本真也追悼興行 橋本ファミリー、千羽鶴兄弟ら来場=ZERO1-MAX スポーツナビ 2008年(平成20年)7月13日
  16. ^ Frankie Goes To HollywoodWelcome To The Pleasuredome (Into Battle Mix)』(映画『トイズ』サウンドトラック収録、トレヴァー・ホーンによるリミックス)

関連項目[編集]

  • 橋本大地 - 橋本の長男。2011年にプロレスラーとしてデビュー。
  • 渡辺えりか - JWP時代に橋本からもじった「橋本真弥」をリングネームとしていた時期があった。
  • サークルKサンクス - 「破壊王弁当」2001年販売。

外部リンク[編集]