橋本真也

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橋本 真也
プロフィール
リングネーム 橋本 真也
SHOGUN
ハシフ・カーン
本名 橋本 真也
ニックネーム 破壊王
爆殺シューター
ハッスル・キング
ブッチャー
身長 183cm
体重 135kg
誕生日 1965年7月3日
死亡日 2005年7月11日(満40歳没)
出身地 日本岐阜県土岐市
スポーツ歴 柔道
空手
トレーナー アントニオ猪木
坂口征二
山本小鉄
デビュー 1984年9月1日
引退 2005年(現役中に死亡)
  

橋本 真也(はしもと しんや、男性、1965年7月3日 - 2005年7月11日)は、日本プロレスラー俳優声優としても活動。闘魂三銃士の1人。岐阜県土岐市出身。身長183cm、体重118kg。全盛期は135kg。血液型AB型。入場テーマ曲は『爆勝宣言』。リングへは鉢巻きを付けてを結んで上がるスタイルであった。

目次

[編集] 来歴

[編集] 新日入団

中学時代に父が失踪し、母子家庭で育つが高校(中京商業高等学校)時代に母を亡くした。学生時代に柔道を始め、アントニオ猪木に憧れるようになり、1984年4月に新日本プロレス(以下「新日本」)に入門。入門初日に後のライバル、蝶野正洋と洗濯機の順番を巡って乱闘を起こした。1984年9月1日後藤達俊戦でデビューした。その後海外修行に出た。カナダカルガリー地区を中心にモンゴルギミックの『ハシフ・カーン』のリングネームで試合を行ったが、対戦相手を負傷させたりしたために試合を干される事もあった。完全に干されたきっかけとなったのは、ファンの女の子にサインを求められた時にそこに女性器を書き、それを見た親が泣いて激怒しプロモーターに訴えられたことによると言われている。[1]

[編集] 闘魂三銃士の絆

海外修行の後、帰国し闘魂三銃士として、武藤敬司蝶野正洋と共に売り出されることになり、対戦相手をリング上で叩き潰す姿から『破壊王』の異名を持つこととなった(古舘伊知郎からは「戦う渡辺徹[2]」の名を貰う。「破壊王」ほど定着しなかったが、橋本はこのニックネームを気に入っていたという)。その一方で、ベイダースコット・ノートン、トニー・ホームといった巨漢外人レスラーの得意技を正面で受け、好勝負を展開した。橋本自身は日本人レスラーとしては稀なスーパーヘビー級であるが、この階級のレスラーがとかく得意技としがちであるラリアットパワーボムをほとんど使用せず(武藤、蝶野にも似た傾向が見られる)、アンコ型でありながらキック主体というスタイルであった。

1993年、橋本は前年にグレート・ムタとしてIWGPヘビー級王座を獲得した武藤や、G1 CLIMAX2連覇を果たした蝶野と比べ、停滞気味であったが、WAR天龍源一郎と2度のシングルマッチを経て勢いを付け、9月20日、ムタを破り、第14代IWGPヘビー級王者となった。その後、藤波辰爾に敗れて王座を手放すものの、直後の5月1日福岡ドームのメインイベントで藤波を破って王者になり(1年後の1995年5月3日福岡ドームで武藤に敗れたものの、9度の当時連続防衛記録を達成)、その年の活躍した評価が認められ、「プロレス大賞MVP」を獲得した。

[編集] Mr.IWGPとして君臨

1996年4月29日東京ドーム、この年の1月4日に武藤に勝利してIWGP王座を奪取したUWFインターナショナル(Uインター)の総大将である高田延彦と対戦し、垂直落下式DDTからの三角絞めで勝利した。また、前年から勃発していたUインターのリングにも参戦した。

1997年8月31日、この年のG1 CLIMAX優勝者である佐々木健介に敗れIWGP王座を奪われて以降、橋本がIWGP王座につくことはなかったが、通算20度の防衛記録は2008年現在も破られていない。

新日本プロレス時代の橋本は、後述するように数々のタイトルを獲得したものの、その一方で、G1のタイトルだけはなかなか手中に収めることができず、いつしか鬼門といわれるようになった。しかし、1998年に、藤波、健介、蝶野といった歴代のG1ホルダーを撃破して勝ち上がってきた山崎一夫を破り念願のG1優勝を果たした。

[編集] vs. 小川直也

プロレスデビューした小川直也と何度も抗争を繰り広げ、1997年4月の初戦は敗れたが翌月には小川を失神KOで下しリベンジを果たした。1999年1月4日、東京ドーム大会における3度目の戦いではいきなりほぼ完全なセメントを仕掛けられ、橋本は手も足も全く出ず事実上の敗北を喫した(結果は無効試合)。この時の乱闘騒ぎはプロレス史上最大級のガチンコの乱闘であった。当時全日本プロレス三沢光晴全日本プロレス中継で「あれじゃいくら何でもプロレスラーが弱くみられる。もっとプロレスラーは強いんだぞってところを見せてもらわないと困る」とコメントした。同年10月にも小川に敗れ、2000年4月7日東京ドームで行われた5戦目は、「負けたら引退」を公約し試合に臨んだ。STOをDDTで返し小川の腕を脱臼させるなど追い込んだものの、直後に仕掛けた腕への関節技が脱臼させた部分を戻してしまう不運や、防御面での対策は十分だったものの攻撃面の弱さもあり大敗を喫し、公約どおり新日本に辞表を提出した。

[編集] 新日解雇〜ZERO-ONE旗揚げ

2000年8月23日、熱心なファンの子供から送られた復帰を願う百万羽の折り鶴をきっかけに引退撤回を表明。これについてはテレビ朝日のスポーツ番組『スポコン!』が特集を組んだ。10月9日東京ドームで藤波辰爾と復帰戦を行い、その直後に新日本内に別組織「新日本プロレスリングZERO」を作ろうとしたが、長州力らの反対にあった。その結果、11月13日付で新日本より解雇を言い渡されたため、直後にZERO-ONEを設立し完全独立した。12月23日にはプロレスリング・ノアに参戦(対戦相手は大森隆男)、同年の大晦日にはINOKI BOM-BA-YE 2000に参戦(対戦相手はゲーリー・グッドリッジ)。その後ZERO-ONEには橋本の理想に賛同した新日時代の後輩・大谷晋二郎高岩竜一が合流した。

2001年3月2日両国国技館にて「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ!」との理念を掲げ旗揚げの挨拶を行い、試合では新日本の永田裕志と組み、ノアの三沢光晴・秋山準組と対戦してフォール負けした。この後、小川直也とは和解してZERO-ONEにて共闘、「OH砲」として人気を得た。

[編集] 三冠奪取、長州との決戦〜ハッスル・キング

2003年にはZERO-ONE勢を率いて武藤率いる全日本プロレスに乗り込み、全面抗争が勃発、頂上決戦となったグレート・ムタとの三冠戦に勝利した。5月2日には後楽園ホールでは最多記録となる2,300人の観衆を集めて、小川と組み、武藤・小島聡組と対戦し、勝利したが、試合後に川田利明が乱入。そして7月、橋本・小川組VS武藤・川田組の試合で、試合中に右肩を脱臼し、勝利したもののこの時の脱臼がきっかけで三冠ベルトを返上した。 11月、長州力東京スポーツ紙上で口撃を行い、その後コラコラ問答を経て長州軍との抗争に突入。同年12月団体戦、2004年2月にはシングルで長州と激突、勝利した。 2004年2月、3冠王者になった川田から3度目の防衛相手に指名され挑戦するも、前年の肩の怪我がきっかけで敗れる(セコンドからタオル投入)。橋本のいわゆるプロレス四天王とのシングルマッチはこの川田戦のみであった。その直後、2人はハッスル軍としてタッグを組んだ。 2004年からハッスルに参戦。小川から「ハッスル・キング」と命名され、高田総統から「ポーク」と揶揄された。

[編集] 団体崩壊、闘病〜最期

しかし同年、新日本に接近したことで大谷晋二郎との確執が生まれ、11月25日にZERO-ONE崩壊を宣言し、負債は全て自ら被ることで決着。1人でフリーの道を歩むことになる。

その後、長い間治療せず放置していた右肩を手術し、リハビリをしながらリングへの復帰を目指していたが、2005年7月11日午前8時頃、滞在先において脳幹出血で倒れ、午前10時36分、搬送先の病院で死亡が確認された。満40歳没。

橋本の早すぎる死は、睡眠時無呼吸症候群も遠因であったと推測されている。7月16日に行われた葬儀には、武藤・蝶野・小川ら団体の垣根を越えて、大勢のレスラー、各界著名人、一般ファン等1万人以上が参列した。

特に闘魂三銃士の絆を持つ武藤、蝶野の受けた衝撃は大きく、武藤が葬儀場の階段に座り込んだまま立ち上がれなくなったり、普段クールなイメージの蝶野が人目をはばからず涙に暮れるなどした。

友人でもある高島宗一郎KBCアナウンサーの涙声の絶叫に続き、出棺時に橋本選手の入場曲である『爆勝宣言』が流され、参列者から投げられた数千本もの赤い紙テープと「ハッシモト」コールの大声援に包まれて送り出された。戒名「天武真優居士(てんぶしんゆうこじ)」。

2008年3月2日、橋本の功績を称え、2代目IWGPヘビー級ベルトが中邑真輔から橋本家に贈呈された。

バラエティ番組『ロンドンハーツ』が、生涯最後のテレビ番組出演だった(後述のエピソードを参照)。

[編集] ファイトスタイル

[編集] 打撃技

各種キック
佐藤塾での空手の経験も手伝い、キックは若手時代からの得意技で、当時から威力のあるキックを使用していた。気合を入れ、十分にタメを作って放つキックはプロレス的な説得力に溢れ、それだけでフォールをとれる技である。アントニオ猪木はそのローキックを受け、「相当効いていた」と話している。橋本はレガースを着けないため、キックが痛く武藤や蝶野に嫌がられていた。
フライングニールキック
胴回し回転蹴りの一種。前田日明がUWFスタイルを標榜して使用しなくなった事から、橋本の代名詞の一つとなった技。初のテレビマッチ(6人タッグ)でも披露したが、パートナーが抱え上げた相手に仕掛けようとして、その頭上を越えてしまった事もある。
袈裟斬りチョップ
使用頻度の高い技で、キックと共に橋本が試合を作る上で非常に重要な技である。
燕返し
右回転しての水平チョップ。
地獄突き
水面蹴り
地を這うように回転しながら相手に脚払いをかける。ボクサートニー・ホームに敗戦した後、リベンジマッチのために習得。中国での修行で会得したと橋本は語っている。この時の様子は闘魂三銃士自叙伝集「烈闘生」に記述がある。
ジャンピング・エルボー・ドロップ
長州戦ではフィニッシュとなった。なお、新日本出身の選手はエルボー・ドロップの名手が多いが、対して全日本の選手はスタンド式のエルボースマッシュを得意とする選手が多いのも特筆すべき点。
ダイビングフットスタンプ
主にタッグマッチで使用。

[編集] 組み技

DDT
相手の首を抱え込んで固定し、後方へ倒れこみながら脳天をマットに突き刺す技。橋本の代名詞と言える技である。武藤は橋本のDDTについて「首をガッチリと抱え込まれ最後までロックを外さないので、ダメージが大きい」と語っている。
ジャンピングDDT
首を抱えたまま飛び上がってマットに突き刺す、スピードと落差の大きいDDT。さらに、自らロープに飛んで勢いをつけ、そのまま相手に飛びつきながらDDTに移行することで更なる落差と破壊力を生み出す入り方もある。新日本時代前期の橋本は、この“飛びつき式”をフィニッシュ技として使用していたが、後に垂直落下式DDTを開発してからは使用頻度が減っていった。
垂直落下式DDT
ブレーンバスターのような体勢で繰り出すDDT。垂直落下式ブレーンバスターと混同されやすいが、橋本のこの技は、ゆっくりと持ち上げて頭からリングに叩きつける技でありステップもブレーンバスターではなくDDTのステップである。それは、自然重力落下よりも(ブレーンバスターの中にも、下方に加速を付加するバリエーションもあるが、先のステップも含め)、技をかける側が意図的にマット上(下方)へ加速する着地に近いことでわかる。橋本自身の体重・低重心もあいまって、数あるプロレス技の中でも指折りの強力な技となっている。それを食らう選手、見ている観客に与えるインパクトも大きい。山崎一夫にいたっては危険な角度で頭から落ちていった。この技を受けて返したレスラーはロード・スティーヴン・リーガル(現:ウィリアム・リーガル)のみである。
フィッシャーマンDDT
先述の垂直落下式DDTを身に付けるまでの必殺技。垂直落下式のフィッシャーマンズ・スープレックス
リバースDDT
バックを取った状態からDDTを仕掛ける技。通常のDDTとは違い、相手は首を固定されたまま後頭部をマットに叩きつけられることになるため、受け身が取りにくくダメージも大きい。
ブレーンバスタースラム
ジャンピングアームブリーカー

[編集] 関節技

橋本には代名詞といえる関節技がほとんどないが、マサ斎藤は「橋本は関節技も上手い」と評しており、十字固めやアキレス腱固めなど、一般的な関節技をほぼマスターしている。

三角絞め
相手の肩と首を両足で挟み込んで絞め上げる技。橋本の場合は技の入り方がやや独特である。UWFインターとの対抗戦でよく使われた技。
肩固め
腹固め
うつ伏せになった相手の背中に乗り両足で腕を極める技。相手がタックルに来た時にそれを切って繰り出していた。橋本のグラウンドテクニックがよくわかる技である。主に試合序盤に出していたが、スコット・ノートンとのIWGP戦でこの技でキブアップを奪ったこともある(当時は逆肩固めと表記された)。

[編集] 合体技

オレごと刈れ
小川直也との合体技。橋本が後ろから相手をつかんでジャーマン・スープレックス、あるいはバックドロップを仕掛けると同時に、小川が橋本ごとSTOを仕掛ける。
刈龍怒(かりゅうど)
小川直也との合体技。橋本が水面蹴りを、小川がSTOを仕掛ける。2人の得意技を使った強力な技。

[編集] エピソード

[編集] 師・猪木、小川直也との抗争

師匠・猪木との関係は、愛憎入り乱れた壮絶な師弟関係であった。

中学時代に猪木VSウィリー・ウィリアムス戦を見て猪木の魅力にひかれ(金澤克彦によると次の日学校にウィリーが入場時に頭に巻いていたバンダナを真似して登校したところ、タイガー・ジェット・シンが頭に巻いているターバンと勘違いされたらしい)、卒業文集には「尊敬する人・アントニオ猪木」と書くほど猪木に心酔した。やがて新日本に入門した橋本は猪木の闘魂哲学を徹底的に叩き込まれ、試合用ガウンには「闘魂伝承」の文言を入れるほど猪木イズムの伝承者として活躍。IWGP王座を通算20回防衛するなど1990年代の新日本を名実共に引っ張る大スターへと成長した。

しかし1997年、元柔道世界王者・バルセロナオリンピック銀メダリストの小川直也がプロ格闘家として猪木に弟子入りした事で、2人の師弟関係に亀裂が入った。小川のデビュー戦の相手を務めた橋本だったが裸絞めでKO負けを喫すると言う番狂わせが起きた。1か月後に橋本はリベンジを果たしたが、1999年1月4日の3度目の対戦では、プロレスルールを無視した小川の突然の暴走ファイトに橋本はなす術なく敗北した。試合は無効試合となったが、試合後の会見で橋本は「絶対許さない」と黒幕・猪木への怒りを表した。同年10月、4度目の対戦が行われるがここでも小川に橋本は敗れた。

2000年4月の5度目の対戦でも「橋本を殺せ」との猪木のメッセージを受けた小川は、橋本を破った。しかしこの試合に引退を賭け、男の生き様を見せ付けた橋本に、猪木は「引退は早い」と歩み寄りを見せるようになった。橋本はファンの後押しを受け同年10月に引退を撤回して復帰。翌2001年にZERO-ONEを旗揚げした橋本に猪木は「馬鹿になれ!」のメッセージを送り、最大の理解者として橋本の行動を陰で支え、合わせるように小川も橋本と和解し、以降2人で「OH砲」としてタッグを組むようになった。

しかし同年6月、当時PRIDE戦士だったマーク・ケアーの「ZERO-ONE真撃」への参戦問題(DSE側のコメントによると「PRIDEのためにDSEの費用で来日したケアーに、橋本が許可無く会って、ZERO-ONE参戦の交渉をした」というもの)に端を発し、2人は再び袂を分かった。しかし月日がたったのもあってか2005年のプロレスゲームのインタビューで尊敬するレスラーは?との質問に「アントニオ猪木」と即答している。そしてその後、橋本は逝去。猪木は最愛の弟子の赤シャツで追悼し、一部に物議をかもした。

[編集] 対四天王

橋本が新日本在籍時代、夢のカードとして全日本プロレス・三沢光晴との「ミスターIWGP vs ミスター三冠」対決や、川田利明との「キック対決」を望んでいた。しかし橋本自身は全日本で一番戦いたい相手として、雑誌やトークショーで常々小橋健太(現・建太)の名を挙げていた。橋本がZERO-ONE設立後、三沢とはタッグで対戦し、川田とはシングル、タッグでの対戦、ハッスルではタッグを組むほど絡んでいたが、小橋、田上との対戦は叶わなかった。

[編集] 人物

  • 破天荒な人柄で、風変わりな言動も少なからずあった。橋本の関係者が彼を語る際には、常識・既成概念があてはまらない思考・行動をする人間を指すプロレス用語「トンパチ」(トンボハチマキの意味)が用いられることが多い。
  • 坂口征二の付き人時代、坂口の持つ高価な水虫の薬の瓶を割って紛失する、興行収益の入ったアタッシェケースを旅館に忘れる、それを外で開いて札束を風でばらまいてしまう等、大きなミスを連発したため野上彰が「付き人の付き人」として橋本に付いた。
  • バットマンの大ファン。「橋本が自分用のバットマンのコスチュームを特注し、それを着たまま外をねり歩いた」という噂の真相を雑誌のインタビューで尋ねられた際、それが事実である事を橋本本人が認めている。なお着用したバットスーツは「少しきつくてピチピチだった」との事。
  • 海外遠征時、テネシー州にあるエルヴィス・プレスリーの記念館に行った事をきっかけにプレスリーのファンになり、その後しばらくプレスリーの様な服を着ていたという。米国出身のレスラーからは「ファット・エルヴィス」というあだ名で呼ばれていた。
  • 小島聡が苦手ということを知り、公園セミを大量に捕まえて小島の部屋に放った。
  • 空気銃で撃ったを付き人時代の天山広吉に食べさせた。天山はその後保健所に電話し「伝染病とかは大丈夫なんでしょうか」と聞いたという。その他にも、もう一人の付き人である西村修ら、若手レスラーを引き連れて起こした「遊び」は数々の逸話を残し、天山はそれらのイタズラの最大の被害者であった。
  • 1990年2月、東京ドーム大会でアントニオ猪木坂口征二とタッグ対決をする際、控え室でピリピリしたムードの中、アナウンサー(テレビ朝日「ワイドスクランブル」で有名な佐々木正洋アナウンサー)が橋本にインタビューした。このとき橋本が「時は来た!それだけだ」と大真面目に言ったところ、横にいたタッグパートナーの蝶野が思わず吹き出しそうになり、顔を手で押さえごまかした。蝶野は「俺は笑ってない!」と釈明するが、後日「でも控え室は爆笑だったんじゃない?」と、この発言の面白さを認めている。この発言は、橋本が大の時代劇好きでそこから引用したものらしい。
  • 猪木以外にもタイガーマスクこと佐山聡にも憧れており、若手時代はタイガーの四次元プロレスの真似ばかりしていたという。
  • とても料理上手であった。天山に雀を食べさせたエピソードも、水に付けて羽根を取り、自ら包丁で捌き、茹で、調理してから天山を騙して食べさせたと言う。同じ寮生で仲が良かった獣神サンダー・ライガーの証言によると、寮でもその料理は凝っており、ある日「豆腐を作る」と言い出し、苦汁や大豆を買い出しに行き、自ら豆腐を作った。またラーメンなども、自分で出汁をとる本格派であったという。ただし、食材に拘りすぎるあまり、豆腐一丁に一万円ほどかかってしまった。
  • アントニオ・ホドリゴ・ノゲイラとの対談で、同じブラジル人というだけで「マルシアを知ってるか」と訊いた。
  • 生涯最後のバラエティ出演となったロンドンハーツでは、西口プロレスにおいて長州小力がマイクパフォーマンスとして「橋本、出て来い!」と言ったところ、テーマソング『爆勝宣言』とともに本人が出てきて小力を懲らしめるという、番組のお仕置きを行った。放送前に橋本が急逝したため当初番組スタッフは放送中止を検討したが、橋本の遺族と関係者から「(橋本本人が)本日の放送を楽しみにしていた」という事を聞き、本人の供養も兼ねてそのまま放送された。番組中橋本から小力に「自分の物真似もやってくれるか?」と問いかけたところ快く応じていたが、橋本の急逝の影響もあってか今日まで公開されておらず、また「橋本を捜すネタ」も封印している。
  • 橋本真也を象徴するテーマ曲「爆勝宣言」だが、1997年前後にアントニオ猪木の闘魂を受け継ぐ意識が強かった頃に「闘魂伝承」というテーマ曲に切り替えた。対小川直也第一戦はこの「闘魂伝承」で入場シーンを飾ったが、闘魂を注入された小川直也に負けてしまったためリベンジマッチでは「爆勝宣言」を復活させてこの曲を愛用し続けた。出棺の際にも流されている。大舞台での試合では「爆勝宣言」の本テーマの前に「福岡ドームのテーマ[3]」を付けたバージョンが流される。
  • 1990年の闘魂三銃士で売り出しかけの頃に中国へ渡り、自らのファイトスタイルであるキックを中心とした武術の修行に行く。その後はその時の影響か、試合前の控え室を出る瞬間やリングに上がる直前に必ずを結び、気合を入れるポーズを見せていた。
  • よくZERO-ONEの時代にマイクで言い放った「こんなので辛いなんてまだ序ノ口だ。“地獄の一丁目”だぞ」は口癖であり、橋本の名言である。
  • 2000年にテレビ朝日で放送された「仮面ライダークウガ」の主人公五代雄介役として当時新日本プロレスの若手のホープであった棚橋弘至にオファーが来た[要出典]が、結局撮影日程とプロレスの試合を両立させる事が困難で話が流れた際に「なぜ断ったんだ。会社(新日本プロレス)は何を考えているんだ。」と自分のことのように怒っていたというエピソードが関係者の証言で残っている[要出典]
  • 離婚歴があり、前夫人との間に一男二女がいる。その後の交際相手がプロレスラーの冬木弘道夫人であった。
  • 若手時代、アントニオ猪木アブドーラ・ザ・ブッチャーのシングルマッチのセコンドについていた際、ブッチャーの度重なる反則攻撃に激怒し、猪木を救うべく、場外に出たブッチャーにキックを見舞ったことがある(勝俣州和に語ったエピソードより)。「エースが新人の助けを得た」という印象を与えかねないこういった行為は絶対にしてはいけないことであり、直後に長州力マサ斎藤から、控え室で厳しい「お仕置き」を受けた。心から猪木を救おうと思っていた橋本にとっては納得できない「お仕置き」であったため、これが橋本と長州の確執の発端となった。なお、ジャパンプロレス分裂後の長州軍団新日Uターンの際にも、対戦相手のヒロ斎藤を怪我させたため、控え室で長州らに「お仕置き」を受けている。
  • 2000年4月に試合中の事故で死亡した福田雅一の最期を巡業中だった新日本のレスラーの中で唯一看取った。「最後は脳死状態になっちゃって…。右脳が潰れ、左脳が潰れ、延髄まで至って…。でも脈は動いてて。あいつは血の一滴になるまで戦った」と語り、号泣した。

[編集] コスチューム

カルガリーでの海外武者修行以降基本的には赤の帯とラインの入った黒のパンタロンを使用していたが、1988年の「88ジャパンカップリーグ戦」では当時の蝶野のような膝までの白のタイツを使用し、1992年1月4日ビル・カズマイヤー戦ではそれまでとは逆に黒の帯とラインの入った赤のパンタロンを使用した。パンタロンの赤のラインは1995年と1996年にマイナーチェンジが施されている。

[編集] 獲得タイトル

[編集] 受賞

[編集] 出演

[編集] テレビドラマ

[編集] アニメ

[編集] 映画

[編集] 脚注

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  1. ^ FIGHTING TV サムライの番組「Versus」武藤敬司 vs 蝶野正洋より
  2. ^ いきなり!フライデーナイト藤波辰巳がゲストで出演した際、当時「戦う渡辺徹」と呼ばれていた若手レスラーだった橋本が付いて来ていた。この番組で渡辺と橋本の2ショット写真が撮られ、それがプロレス雑誌に記載された。ちなみに当時は橋本より渡辺徹の方が巨漢であった
  3. ^ Frankie Goes To HollywoodWelcome To The Pleasuredome(Into Battle Mix)』(映画『トイズ』サウンドトラック収録、トレヴァー・ホーンによるリミックス)

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
グレート・ムタ
藤波辰爾
高田延彦
IWGPヘビー級王者
14代目
16代目
19代目
次代:
藤波辰爾
武藤敬司
佐々木健介
先代:
グレート・ムタ
三冠ヘビー級王者
31代目
次代:
川田利明