安田忠夫

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安田 忠夫
プロフィール
リングネーム 安田 忠夫
本名 安田 忠夫
ニックネーム 戦う人生劇場
借金王
身長 193cm
体重 130kg
誕生日 1963年10月9日(45歳)
出身地 東京都大田区
所属 FOS預かり
スポーツ歴 大相撲
トレーナー 馳浩
佐々木健介
アントニオ猪木
天龍源一郎
デビュー 1994年2月24日
  

安田 忠夫(やすだ ただお、男性、1963年10月9日 - )は、日本プロレスラー、元大相撲力士東京都大田区出身。実娘AYAMIレースクイーンをしている。

目次

[編集] プロフィール

大相撲出身(元小結孝乃富士 忠雄(たかのふじ ただお)、九重部屋所属、幕内通算成績212勝281敗2休)。1979年3月初土俵。1986年5月に新入幕。懐が深く、胸を合わせての左四つ得意。若手の頃は同部屋同期入門の北勝海信芳や、北尾光司(双羽黒)、寺尾常史琴ヶ梅剛史小錦八十吉らとともに「花のサンパチ組」と称された。入幕3場所に双羽黒から金星を挙げ、更にその1年後にも双羽黒から金星を取っている。しかし、立合いが甘く、腰高で脇も甘い為に上位ではほとんど勝ちこせなかった。1990年5月に東前頭9枚目で11勝を挙げ敢闘賞を受賞し、翌7月場所に小結に昇進するが、案の定2勝しか出来ず、三役経験は1場所のみに終わり、周囲の期待には応えられなかった。

1992年5月場所を最後に28歳の若さで力士を廃業した後、プロレスラーに転向。1993年6月、新日本プロレスに入門。日本武道館での馳浩戦でデビュー。恵まれた体格と格闘センスでポスト坂口征二(坂口から赤いコスチュームと入場曲「燃えよ荒鷲」を受け継いでいる)として期待されたものの、根っからのギャンブル好きで借金地獄に陥っていたことから試合は精彩を欠き、私生活では家族とも離縁。本来は穏やかな人柄で橋本真也らからはヤスティの愛称で呼ばれ可愛がられた。この自分にも他人にも甘い性格が安田の出世を妨げていたといえる。

のちにアントニオ猪木によって再生され、2001年に総合格闘技デビュー、佐竹雅昭に判定勝ちを収めて白星デビューを飾る。12月31日の「INOKI BOM-BA-YE 2001」ではK-1ジェロム・レ・バンナに劇的な勝利を収め一躍ヒーローとなる。2002年2月にはIWGPヘビー級王座も獲得した。その後悪役に転向し魔界倶楽部のリーダーとなるが素行不良が再発、2004年に精神修行の旅に出て、正統派に戻るはずだった。しかし復帰から間もない9月15日、新日本プロレスから無期限出場停止処分を受け、当時社長の草間政一より2005年1月18日解雇された。従って、この時点で、新日本プロレスとの契約は切れた。

その後はIWA・JAPAN、フーテンプロモーション、ZERO1-MAXハッスルに参戦。出場停止から丁度1年にあたる2005年9月15日、ZERO1-MAXを運営するファーストオンステージ社長・中村が新日本プロレス社長・サイモン猪木と会談し、新日本に置きっぱなし状態になっていた安田忠夫の契約書を譲渡してもらい、中村が一切のマネージメントを受け持つ事となり、現在はファーストオンステージ所属(預かり)となっている。事実上のZERO1-MAX所属であるが、ヒールレスラーである事、素行面の心配が解消されない事、最初に参戦していたIWA・JAPANの興行を優先する事などの理由により、正式所属とはなっていない。それでも、天龍源一郎大谷晋二郎など、立ち直りを期待するレスラー仲間もいる。

2005年12月、予定されていたIWA・JAPANの興行を諸事情により取りやめ、IWA・JAPAN社長の浅野起州はトラブルを否定しながらも今後の参戦が無い事を示唆した。 ちなみにZERO1-MAXの大森隆男とは一度はタッグ結成も、その後電撃的に裏切った経緯があり、現在もリング上では犬猿の仲。

アントニオ猪木主催のIGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)旗揚げ戦(6月)でジョシュ・バーネット、9月の興行第2戦でマーク・コールマンと対戦するも共に負けを喫する。

2007年10月5日、東京都内の自宅アパートで安田が倒れているのを訪れた知人に発見され、救急車で病院に運ばれていたことが判明した。警視庁田園調布警察署によると、練炭を使って自殺を図った模様。発見が早かったため一命は取り留めた[1]。その後、東京スポーツによると、意識が戻った安田は自殺説を否定し「焼肉をしようと思ったが、ガスが止められていたので七輪を買った。そうしたら今度は肉を買う金がなくなってしまい、独り空しく“エア焼肉”を楽しんでいたら、不覚にも眠ってしまって・・・」と語っていたらしい。10月14日には翌週に退院できるほどに回復した姿が報道された[2]。退院後は12月20日に行われるIGF有明コロシアム大会で小川直也と対戦するも敗北。暫く音沙汰が無かったが、2008年5月にZERO1-MAXへ参戦する蝶野正洋のタッグパートナーとして出場することが明らかとなった。2008年7月には東海プロレスに参戦し、小仲=ペールワンとシングルマッチを行い勝利した。

2008年10月には石澤常光(ケンドー・カシン)の実兄が経営する養鶏場に就職を志願、とりあえずアルバイトとして仮採用が決定。11月4日付東京スポーツによると、カシンの実家が経営する養豚場(岩手県八幡平市)で働いている。

[編集] 得意技

タイガードライバー(ヤスティドライバー)
ヤスティドライバーとも言われる。ダブルアームの体勢で持ち上げ、パワーボムの体勢で落とす。安田の場合、ほとんどダブルアームから上に放り投げるように引っこ抜き、最終的にはパワーボムのような形で落とす。技の技術は拙い方だが、逆にそれが影響して相手が不完全な体制のまま脳天からマットに落下する危険技と化すこともある。
突っ張り
角界出身のレスラーは突っ張りを多用する傾向にあるが、安田はこの技を下記の定番の流れに組み込んでいる。
ダブルアーム・スープレックス
相手の両腕を閂状に固定した状態で投げ飛ばす技。突っ張りで相手レスラーをコーナーに追い詰め、コーナー串刺しボディスプラッシュからのダブルアーム・スープレックスは安田の定番ムーブである。
ワンハンド・チョーク
バンナを倒した必殺技。相手の喉に前腕を押し付け、体重を掛ける。プロレスにおいては喉笛攻撃は反則だが、安田は反則が宣告されるぎりぎりまで絞め上げる。
肩固め
上記同様、総合格闘技で学んだ技術。2003年のG1では、時のIWGPNWF二冠王者高山善廣相手に、ギロチンチョークからの肩固めで締め上げ、失神KOに追い込んだ。

[編集] 戦績

総合格闘技 戦績
6 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
2 0 1 1 0 0 0
4 3 1 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× レネ・ローゼ 1R 0:52 TKO(マウントパンチ INOKI BOM-BA-YE 2003 2003年12月31日
× ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤ 2R 0:57 TKO(タオル投入) INOKI BOM-BA-YE 2002 2002年12月31日
× 藤田和之 1R 2:46 肩固め UFO LEGEND 2002年8月8日
ジェロム・レ・バンナ 2R 2:50 前腕チョーク INOKI BOM-BA-YE 2001 2001年12月31日
× レネ・ローゼ 3R 0:09 KO(左ハイキック) K-1 ANDY MEMORIAL 2001 〜JAPAN GP 決勝戦〜
【K-1 MMAオフィシャルルール】
2001年8月19日
佐竹雅昭 3R(10分/5分/5分)終了 判定2-1 PRIDE.13 2001年3月25日

[編集] タイトル履歴

新日本プロレス
ハッスル
  • HHH: 1回
  • ハッスル・スーパータッグ: 1回(&天龍源一郎

[編集] エピソード

  • 2001年、猪木軍vsK-1軍の対抗戦でレネ・ローゼにKO負けして担架で運ばれ、救命士の「ここが何処だかわかりますか?」という質問に意識朦朧とする中、「両国国技館」と答えた(なお、対抗戦が行われた会場はさいたまスーパーアリーナである)。
  • 上記の通り元来のギャンブル好きで、相撲時代は九重部屋に極道まがいの借金取りが度々取り立てに訪れていたといわれている(廃業の一因も借金問題があったと指摘するライターもいる)。
  • ギャンブル好き・無気力・ドタキャンなど性格面の問題をいろいろ取り沙汰されているが、一方で時間の約束は必ず守る・旅の準備を出発前日にすべて済ませる、など几帳面な一面があることも伝えられている。
  • INOKI BOM-BA-YE 2001でバンナに勝利した後、リング上で愛娘を肩車しお互い勝利を祝った。なお、その娘は現在AYAMIという名前でレースクイーンをしており、イノキ・ゲノム・フェデレーション旗揚げ興行「闘今 BOM-BA-YE」(2007年6月29日)ではAYAMIが初めて父のセコンドについている。(安田は時折AYAMIのブログ[1]に登場している)
  • プロレス界では北尾光司のプロレス転向失敗もあり、北尾の新日本プロレス離脱の後に入門した安田に対しては特別扱いせず、他の新弟子と同じように1からしごき始める方針を採った。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

先代:
藤田和之
IWGPヘビー級王者
30代目
次代:
永田裕志
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