安田忠夫

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安田 忠夫
プロフィール
リングネーム 安田 忠夫
本名 安田 忠夫
ニックネーム 借金王[1]
戦う人生劇場
身長 195cm[1]
体重 130kg[1]
誕生日 1963年10月9日(48歳)
出身地 東京都大田区
所属 FOS預かり
スポーツ歴 大相撲
トレーナー 馳浩
佐々木健介
アントニオ猪木
天龍源一郎
デビュー 1994年2月24日
引退 2011年2月4日
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安田 忠夫(やすだ ただお、男性、1963年10月9日 - )は、日本の元プロレスラー、元大相撲力士東京都大田区出身。実娘AYAMIレースクイーンをしている。

目次

[編集] プロフィール

[編集] 大相撲時代

九重部屋に所属し、安田として1979年3月初土俵。孝乃富士 忠雄(たかのふじ ただお)に改名し、1986年5月に新入幕。懐が深く、胸を合わせての左四つが得意であったが立会いを苦手としていた。若手の頃は同部屋同期入門の北勝海信芳や、双羽黒(北尾光司)、寺尾常史琴ヶ梅剛史小錦八十吉らとともに「花のサンパチ組」と称された。1986年、入幕3場所目に双羽黒から金星を挙げ、更に1987年にも双羽黒から金星を取った。1990年5月に東前頭9枚目で11勝を挙げ敢闘賞を受賞し、翌7月場所に小結に昇進するが、2勝しか出来ず、三役経験は1場所のみに終わった。1992年5月場所を最後に28歳で力士を廃業。幕内通算成績は212勝281敗2休。なお引退相撲断髪式では、当時の師匠の九重親方(元横綱千代の富士)では無く、前師匠だった陣幕親方(元横綱・北の富士、現NHK相撲解説者)に止め鋏が入れられていた。

[編集] プロレスラー・総合格闘家時代

[編集] プロレス時代

力士を廃業した後、プロレスラーに転向。1993年6月、新日本プロレスに入門。日本武道館での馳浩戦でデビュー。恵まれた体格と格闘センスでポスト坂口征二(坂口から赤いコスチュームと入場曲「燃えよ荒鷲」を受け継いでいる)として期待されたものの、根っからのギャンブル好きで借金苦に陥っていたこともあり精彩を欠き、私生活では家族とも離縁した。穏やかな人柄で橋本真也らからはヤスティの愛称で呼ばれ可愛がられたものの、大きなチャンスを与えられることもなく、結果を出せない中堅レスラーとしての日々が長く続いた。

[編集] 総合格闘家としての絶頂期

のちにアントニオ猪木によって再生され、2001年に総合格闘技デビュー、3月25日のPRIDE.13佐竹雅昭に判定勝ちを収めて白星デビューを飾る。12月31日の「INOKI BOM-BA-YE 2001」ではメインイベントに大抜擢され、生中継でジェロム・レ・バンナから大金星を挙げた。2002年2月にはIWGPヘビー級王座も獲得した。その後悪役に転向し魔界倶楽部のリーダーとなるが素行不良が再発、2004年に精神修行の旅に出て、正統派に戻るはずだった。しかし復帰から間もない9月15日、新日本プロレスから無期限出場停止処分を受け、当時社長の草間政一より2005年1月18日に解雇された。

[編集] 新日本プロレス解雇後

その後はIWA・JAPAN、フーテンプロモーション、ZERO1-MAXハッスルに参戦。出場停止から丁度1年にあたる2005年9月15日、ZERO1-MAXを運営するファーストオンステージ社長・中村が新日本プロレス社長・サイモン猪木と会談し、新日本に置きっぱなし状態になっていた安田忠夫の契約書を譲渡してもらい、中村が一切のマネージメントを受け持つこととなり、現在はファーストオンステージ所属(預かり)となっている。事実上のZERO1-MAX所属であるが、ヒールレスラーであること、素行面の心配が解消されないこと、最初に参戦していたIWA・JAPANの興行を優先することなどの理由により、正式所属とはならなかった。

2005年12月、予定されていたIWA・JAPANの興行を諸事情により取りやめ、IWA・JAPAN社長の浅野起州はトラブルを否定しながらも今後の参戦が無いことを示唆した。ちなみにZERO1-MAXの大森隆男とは一度はタッグ結成も、その後電撃的に裏切ったことがある。

アントニオ猪木主催のIGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)旗揚げ戦(6月)でジョシュ・バーネット、9月の興行第2戦でマーク・コールマンと対戦するも共に負けを喫した。

2007年10月5日、東京都内の自宅で倒れているところを田山正雄に発見され、救急車で病院に運ばれていたことが判明した。警視庁田園調布警察署によると、練炭を使って自殺を図った模様。発見が早かったため一命は取り留めた[2]。その後、東京スポーツによると、意識が戻った安田は自殺説を否定し「焼肉をしようと思ったが、ガスが止められていたので七輪を買った。そうしたら今度は肉を買う金がなくなってしまい、独り空しく“エア焼肉”を楽しんでいたら、不覚にも眠ってしまって…」と語った。10月14日には翌週に退院できるほどに回復した姿が報道された[3]。退院後は12月20日に行われるIGF有明コロシアム大会で小川直也と対戦するも敗北。暫く音沙汰が無かったが、2008年5月にZERO1-MAXへ参戦する蝶野正洋のタッグパートナーとして出場することが明らかとなった。2008年7月には東海プロレスに参戦し、小仲=ペールワンとシングルマッチを行い勝利した。

[編集] 現役としての晩年

2008年11月4日付東京スポーツに2008年10月より岩手県八幡平市にある石澤常光(ケンドー・カシン)の実兄が経営する養鶏・養豚場で働いていると掲載されたが、2010年7月27日発売の週刊アサヒ芸能に、2010年7月でその養鶏・養豚場をクビになったことが報じられた。また、同記事では自身が力士時代の大相撲の賭博に関しても暴露している。

その後同年9月にはの自主興行に参戦し約1年ぶりにプロレスに復帰したものの、10月には東京スポーツで2011年初めに自身の引退興行を行うと発表。

2011年2月4日、有志による引退興行実行委員会の助力で安田忠夫引退記念興行「日本とプロレスにおさらばします。」を後楽園ホールで開催。オープニングマッチでと、第4試合でのタッグマッチで大谷晋二郎とタッグを組んで高山善廣鈴木みのる組と、メインイベントでは天龍源一郎と3試合を戦った。試合終了後には引退式が行なわれ、娘・AYAMIが手紙を読み上げ、10カウントゴングが鳴らされた[1]。引退後はブラジルに渡り、農場での労働という定職を得、同時に相撲を教えるという待遇を斡旋されていたが、引退興行実行委員会との金銭トラブルを理由に、渡航予定日に空港に姿を現すことはなかった[4]

その後、カンボジアの国際的カジノ企業「ゴールデン・パームグループ」に就職が決まったと報じられたが[5]、10月末には同社を辞職し帰国していたことが発覚した[6]

[編集] 得意技

タイガードライバー(ヤスティドライバー)
ヤスティドライバーとも言われる。ダブルアームの体勢で持ち上げ、パワーボムの体勢で落とす。安田の場合、ほとんどダブルアームから上に放り投げるように引っこ抜き、最終的にはパワーボムのような形で落とす。技の技術は拙い方だが、逆にそれが影響して相手が不完全な体制のまま脳天からマットに落下する危険技と化すこともある。
突っ張り
安田はこの技を下記の定番の流れに組み込んでいる。
ダブルアーム・スープレックス
相手の両腕を閂状に固定した状態で投げ飛ばす技。突っ張りで相手レスラーをコーナーに追い詰め、コーナー串刺しボディスプラッシュからのダブルアーム・スープレックスは安田の定番ムーブである。
ワンハンド・チョーク
バンナを倒した必殺技。相手の喉に前腕を押し付け、体重を掛ける。プロレスにおいては喉笛攻撃は反則だが、安田は反則が宣告されるぎりぎりまで絞め上げる。
肩固め
上記同様、総合格闘技で学んだ技術。2003年のG1では、当時のIWGPNWF二冠王者高山善廣相手に、ギロチンチョークからの肩固めで締め上げ、失神KOに追い込み勝利を挙げた。

[編集] 戦績

[編集] 大相撲

孝乃富士 忠雄
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1986年
(昭和61年)
十両

 
十両

 
東 前頭 #14
8–7
 
東 前頭 #10
8–7
 
西 前頭 #3
4–11
西 前頭 #9
8–7
 
1987年
(昭和62年)
西 前頭 #5
6–9
 
東 前頭 #9
8–7
 
東 前頭 #5
5–10
 
西 前頭 #9
9–6
 
西 前頭 #1
3–12
東 前頭 #9
8–7
 
1988年
(昭和63年)
西 前頭 #2
3–12
 
西 前頭 #9
8–5–2
 
東 前頭 #5
7–8
 
西 前頭 #6
8–7
 
西 前頭 #1
2–13
 
西 前頭 #12
9–6
 
1989年
(平成元年)
東 前頭 #6
8–7
 
東 前頭 #3
3–12
 
東 前頭 #10
8–7
 
西 前頭 #7
6–9
 
東 前頭 #11
9–6
 
西 前頭 #4
7–8
 
1990年
(平成2年)
東 前頭 #5
9–6
 
東 前頭 #1
2–13
 
東 前頭 #9
11–4
東 小結 #1
2–13
 
西 前頭 #9
8–7
 
東 前頭 #4
6–9
 
1991年
(平成3年)
東 前頭 #7
8–7
 
西 前頭 #4
1–14
 
東 前頭 #15
8–7
 
東 前頭 #11
5–10
 
東 前頭 #15
7–8
 
十両

 
1992年
(平成4年)
十両

 
十両

 

引退
0–0–0
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

[編集] 総合格闘技

総合格闘技 戦績
6 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
2 0 1 1 0 0 0
4 3 1 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× レネ・ローゼ 1R 0:52 TKO(マウントパンチ) INOKI BOM-BA-YE 2003 2003年12月31日
× ヤン・"ザ・ジャイアント"・ノルキヤ 2R 0:57 TKO(タオル投入) INOKI BOM-BA-YE 2002 2002年12月31日
× 藤田和之 1R 2:46 肩固め UFO LEGEND 2002年8月8日
ジェロム・レ・バンナ 2R 2:50 前腕チョーク INOKI BOM-BA-YE 2001 2001年12月31日
× レネ・ローゼ 3R 0:09 KO(左ハイキック) K-1 ANDY MEMORIAL 2001 〜JAPAN GP 決勝戦〜
【K-1 MMAオフィシャルルール】
2001年8月19日
佐竹雅昭 3R(10分/5分/5分)終了 判定2-1 PRIDE.13 2001年3月25日

[編集] タイトル歴

新日本プロレス
ハッスル
  • HHH: 1回
  • ハッスル・スーパータッグ: 1回(&天龍源一郎

[編集] エピソード

  • 「孝乃富士」の四股名は姓名判断者に「あなたは全然親孝行していないですね」と指摘され、その通りだと思ったことに由来する。
  • 上記の通り元来のギャンブル好きで、相撲時代は九重部屋に極道まがいの借金取りが度々取り立てに訪れていたといわれている(廃業の一因も借金問題があったと指摘するライターもいる)。
  • ギャンブル好き・無気力・ドタキャンなど性格面の問題をいろいろ取り沙汰されているが、一方で時間の約束は必ず守る・旅の準備を出発前日にすべて済ませる、など几帳面な一面があることも伝えられている。
  • INOKI BOM-BA-YE 2001でバンナに勝利した後、リング上で愛娘を肩車しお互い勝利を祝った。なお、その娘は現在AYAMIという名前でレースクイーンをしており、イノキ・ゲノム・フェデレーション旗揚げ興行「闘今 BOM-BA-YE」(2007年6月29日)ではAYAMIが初めて父のセコンドについている。
  • プロレス界では北尾光司のプロレス転向失敗もあり、北尾の新日本プロレス離脱の後に入門した安田に対しては特別扱いせず、他の新弟子と同じように1からしごき始める方針を採った。
  • さいたまスーパーアリーナで行われた、レネ・ローゼとの最初の対戦では、ハイキックを受け失神KO負けを喫した。目を覚ました安田に、医師が状態を確認するため「ここがどこだかわかりますか?」と問いかけると、混濁状態にあった安田は「両国国技館」と答えた。

[編集] 脚注

  1. ^ a b c d 安田忠夫引退記念興行「日本とプロレスにおさらばします。」 引退式 スポーツナビ 2011年2月4日
  2. ^ “借金王”安田忠夫練炭で自殺未遂”. デイリースポーツ. 2007年10月5日閲覧。[リンク切れ]
  3. ^ “自殺未遂の安田「死ぬ気で頑張る」”. 日刊スポーツ. 2007年10月14日閲覧。[リンク切れ]
  4. ^ 【お詫び及びご報告】安田忠夫引退興行その後について 安田忠夫引退興行実行委員会のブログ 2011年3月1日 2011年3月1日閲覧[リンク切れ]
  5. ^ 東京スポーツ 2011年3月2日
  6. ^ 東京スポーツ 2011年10月29日

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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