両国国技館

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両国国技館
The Ryogoku Kokugikan
Sumo Arena
Ryogoku Great Sumo Hall.jpg
施設情報
用途 大相撲興行・イベントホール
収容人数 11,098人(B1Fアリーナ1,300席・1F桝2,600席・2Fイス2,600席)
管理運営 (公財)日本相撲協会
延床面積 35,700m2(メインアリーナ)
階数 地上2階・地下1階
高さ 39.6m
竣工 1984年11月
総工費 150億円
所在地 130-0015
東京都墨田区横網一丁目3番28号
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両国国技館(りょうごくこくぎかん)は、東京都墨田区横網(よこあみ)一丁目にある大相撲の興行のための施設。また、ボクシングなどの格闘技の試合に使われることもある。なお、番付では旧字体で國技館と表記している。

旧国技館は大鉄傘(だいてっさん)の通称で知られるドーム型屋根の建物であった。また、1958年から1982年までは日本大学講堂(日大講堂)として使用された(下記詳述)。

1950年から1984年にかけて存在した国技館については蔵前国技館を参照のこと。

“両国国技館”とは一般向け通称であり、正式名称は『國技館』である。

概要[編集]

旧両国国技館[編集]

先代は現在の国技館とは異なり、京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。

1906年6月着工、3年後の1909年5月に竣工し、6月2日に開館式が行われ、6月場所より使用された(それまでは小屋掛け(臨時に設備を設けて行なうこと)による「回向院場所」が行なわれていた)。しかし6月場所の番付上は「常設館」とだけあって、まだ国技館の名は無かった。

設計は日本銀行本店東京駅浜寺公園駅の設計者として知られる辰野金吾とその教え子葛西萬司で、「大鉄傘」の愛称は当時のデザインに由来する。工事費用は27万円。枡席約1,000席を含む13,000人が収容可能で、小屋掛け時代の3倍以上の収容能力となった。建物の内径は62m、中央の高さは25mあった。

「國技舘」の名称は、明治42年5月29日に板垣伯爵(板垣退助)を委員長とする常設館委員会で話し合われるも決まらず、開館式の前日明治42年6月2日に了承される。よって、開館当所は「両国元町常設館」と書かれていた。作家の江見水蔭が執筆した開館式の案内文(「相撲は日本の国技なり」という内容)にヒントを得て、当時年寄で検査役でもあった尾車(元:大関大戸平)が提案した。

1917年11月29日午前1時30分、1階売店 福井軒にあった火消壷からの出火による火災が発生、放駒などの消火により2時40分に鎮火するも回向院花売場、本堂も含め全焼した。損害額120万円、(回向院12万円)火災保険は約13万円だった。使用不能の間は靖国神社境内に仮小屋を建てて興行を行なった。

『帝都大震災の惨状 両国国技館』
(墨田区立図書館収蔵 原文は正字)
旧両国国技館の土俵(1936年

新国技館は葛西博士により屋根は亜鉛製にて設計され、1918年(大正7年)7月に地鎮祭・起工式、1919年4月3日に鉄柱崩壊事故があるも、1920年1月15日に完成・開館式を行なった。1920年9月1日に再建興業したが、1923年9月1日の関東大震災で屋根・柱など外観を残して再度焼失。再建の結果、翌年の夏場所から興行を再開した。再建中、1924年1月に名古屋市で本場所が行われたこともある。

太平洋戦争中の1944年、1月の春場所を最後として2月に大日本帝国陸軍に接収され、風船爆弾の工場として使用された。このため5月(夏)場所は後楽園球場(番付には小石川後楽園球場と表記)で開催されることになり、球場の中央に協会員の手で土俵作りが行われた。野外での晴天10日間の興行は前述の1924年1月場所以来のことであった。この場所7日目には日曜日で晴天とあって、大観衆8万人以上という空前絶後の記録でスタンドまでギッシリ埋まった。

なお同年11月にも同球場で秋場所が開催された(十両以上。幕下以下は神宮外苑相撲場(現神宮第二球場)にて開催)。翌年1月が厳寒期に当たり、野外の興行が困難なため2か月繰り上げて11月5日より晴天10日間開催された。ちなみに東京で11月に本場所が行われるのは1872年以来72年ぶりであった。

1945年3月10日東京大空襲によりまたも焼失。そのため同年5月23日からの本場所は神宮外苑で晴天7日間の開催予定だったが宮中喪や空襲で延期され6月に国技館で傷痍将兵の招待以外は非公開で行われた。日本相撲協会の興行史上唯一の本場所非公開開催である。大鉄傘が空襲で破損したため、晴天7日間の興行であった。

両国メモリアルホール[編集]

敗戦後の同年10月26日には連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により再度接収され、メモリアルホールとして改称・改装された。改装は1946年9月24日完成。改装前の1945年11月中旬には焼け爛れたままの国技館で戦後初の本(秋)場所が行なわれた。晴天10日間と露天並みの興行だった。

占領軍から本場所開催許可の一つの条件として「土俵を広げよ」という要請で、1場所限り土俵の直径を15尺(4.55m)から16尺(4.8m)に広げさせられた(ただし1場所で15尺に戻る)。改装後の1946年11月にはこけら落としとして大相撲秋場所が開催されたが、その後は接収解除まで大相撲でのメモリアルホールの使用は許可されることはなく、1946年11月場所と、11月場所終了後の第35代横綱双葉山引退披露が旧国技館での最後の興行となった。

以降はプロボクシングやプロレスリングなどの会場として使用された。ちなみに日本初の公開プロレスは1951年9月30日にメモリアルホールで開催されており、大相撲を廃業したばかりの力道山がリングサイドで観戦、約1ヵ月後の10月28日にエキシビションながら同じメモリアルホールのリングに上がりこれがプロレスデビューとなった。また、全日本柔道選手権大会の会場にも使用された。

国際スタジアム[編集]

1952年4月1日の接収解除後、日本相撲協会が再び国技館としての使用を検討したものの、すでに蔵前国技館の建築が始まっており、また自動車用の駐車場などを設置する場所的な余裕が無いことから使用を断念、国際スタジアムに売却した。国際スタジアムでは、ローラースケートリンクとして、またプロボクシングやプロレスリングなどの会場としても利用された。

日大講堂時代[編集]

1958年6月、日本大学に譲渡され「日大講堂」となる。

この日大講堂は、日本大学のイベントなどよりはプロボクシングプロレスリングコンサートなど多くの興行に使用されていた。プロレスでは主に全日本プロレスが東京でのビッグマッチに使用しており、1974年12月には日本人で初めてNWA世界ヘビー級王座を獲得したジャイアント馬場ジャック・ブリスコとの初防衛戦が日大講堂で行われた。ボクシングでは、大場政夫が出場したWBA世界フライ級タイトルマッチ、他にも輪島功一小熊正二の世界戦が行われた。

1968年から1969年にかけて全国で起こった全共闘運動のなかで、日大における闘争の舞台(対大学当局全学大衆交渉)としても使用された。

老朽化のため1982年をもって使用中止となり、翌1983年に解体された。幾度かの再建や改修を経つつも解体されるまで「大鉄傘」の姿を堅持したままであり、相撲協会理事長を務めた武藏川博物館明治村への移築も考えたようだが、あまりにも大きい建物であり、運ぶのは無理であったという。

解体後の跡地には複合ビル施設の「両国シティコア」が建設された。キーテナントは劇場シアターΧ(シアターカイ。Χラテン文字の「エックス」ではなくギリシア文字の「カイ」)であり、その他オフィス・住宅・レストランなどからなる。その中庭には先代の国技館があった当時の土俵の位置がタイルの色で示されている。

なお、敗戦後の大相撲の興行場所は、神宮外苑相撲場などでの野外興行を経て、1949年1月に日本橋浜町仮設国技館で行なわれた後、翌1950年1月に蔵前仮設国技館へ移り、その後1954年の完成以後1984年の9月秋場所まで蔵前国技館を使用していた。また日大の入学式・卒業式は1983年以降、日本武道館で挙行されてる。

現在[編集]

両国国技館の吊り屋根と土俵
横綱白鵬の土俵入り
横綱日馬富士の土俵入り
人気力士だった高見盛関

1985年1月場所より使用されている現在の建物(新国技館)は二代目。国鉄バス駐泊場(旧両国貨物駅跡地)に建設された。新国技館は地上2階、地下1階。総工費150億円(全てを借金なしでまかなった)。建設計画発表から3年の歳月で1984年11月30日に完成。翌年1月9日、盛大に落成式が催され、千代の富士北の湖の両横綱による三段構えが披露された。その場所で千代の富士は「全勝優勝」、怪我を押して強行出場した北の湖は1勝も出来ずに「引退」と、明暗分かれる世代交代の場所となった。

現在では大相撲の本場所引退相撲NHK福祉大相撲などで相撲協会自らが使用するほか、新日本プロレスG1 CLIMAX決勝戦(2014年を除く)に使用され、1991年から毎年11月に高専ロボコンの全国大会、1992年からは毎年全日本ロボット相撲大会が開催されるほか、毎年2月には国技館5000人の第九コンサートが行なわれている。 2020年東京オリンピック構想ではボクシング競技会場になる予定。

イベント会場としての利用[編集]

プロレス興行でのこけら落としは1985年3月9日全日本プロレス(当日のメインイベントはジャンボ鶴田天龍源一郎ロード・ウォリアーズインターナショナル・タッグ選手権試合)であった。しかし、輪島大士ら力士出身者の全日本プロレス入りが相次いだことなどから、全日本は日本武道館を主に使用するようになり、両国国技館は新日本プロレスの会場として定着していく。

新日本の初使用は1985年4月18日(当日のメインイベントはアントニオ猪木ブルーザー・ブロディ戦)である。だが、前年のIWGP優勝戦蔵前国技館大会の暴動事件から日本相撲協会に気を使った新日本がトップレスラーのブルーザー・ブロディに「入場コスチュームのチェーンの持ち込み禁止」を通達、激怒したブロディが猪木を試合前に襲撃するという一幕があった(ブロディは結局チェーンを持ってリング入りしている。またブロディは3月の全日本両国大会にもチェーン持参で参戦している)。なお1991年の第1回G1 CLIMAX決勝戦において蝶野正洋が優勝した際、リング上に大量の座布団が投げられたため、以後座布団の使用が禁止されている。

一方の全日本は武藤敬司体制となってから武道館が使用できなくなったのもあり、「プロレスLOVE in 両国」と題したPPV興行としてビッグマッチを再び両国で開いている。

全日本から分かれる形で旗揚げされたプロレスリング・ノアは長らくビッグマッチを武道館で開いていたため両国を使用することがなかったが、2011年限りで武道館から撤退したため、2012年7月22日に初の両国大会を開催した。この大会では力士出身である力皇猛の引退セレモニーも執り行われた。

1986年4月5日に、全日本女子プロレス(当日のメインイベントはデビル雅美ライオネス飛鳥WWWA世界シングル選手権試合)が女子格闘技として初進出。女子プロレスでは全女の他、JWPLLPWがビッグマッチを開いていた。2007年2月のLLPWを最後に女子プロレス興行は行われなくなったが、2012年4月29日にスターダムが初進出。

2009年にはインディ団体のDDTプロレスリングも進出し、「両国ピーターパン」と題したビッグイベントを夏に開催している(2012年は武道館を使用したが、2013年は再び両国に戻し2日間に渡り開催)他、関西を拠点とするDRAGON GATEも東京におけるビッグマッチの会場として使用した時期がある。現在は解散している格闘探偵団バトラーツFFFも使用したことがある。2010年には世界最大のプロレス団体WWEの日本公演「WWE RAW Presents SUMMER SLAM TOUR 2010」も開かれ、2012年も「WWE Presents SMACK DOWN WORLD TOUR 2012」が開かれる。

2010年からIGFが、12月のビックマッチ「INOKI BOM-BA-YE」開催し、2012年・2013年は大晦日の31日に行われた。

プロボクシングでは、浜田剛史帝拳)が出場した世界戦(WBC世界スーパーライト級タイトルマッチ)3試合を全て両国国技館で開催。また、世界戦のみならず日本プロボクシング協会主催のチャンピオンカーニバルで、1998年スーパーフェザー級王者・コウジ有沢草加有沢) vs 挑戦者・畑山隆則横浜光)の史上最大の日本タイトルマッチ2000年フライ級王者・セレス小林国際) vs 挑戦者・浅井勇登)、スーパーライト級王者・小野淳一新日本木村) vs 挑戦者・前田宏行角海老宝石)、王者・コウジ vs 挑戦者・玉置厚司(守口東郷)の5階級日本タイトルマッチ同時開催興行等も実施された。

その他格闘技では、高田延彦1991年12月にUWFインターナショナル格闘技世界一決定戦」と銘打って元WBC世界ヘビー級王者トレバー・バービックに圧勝。その後もパンクラスSRCTHE OUTSIDERシュートボクシングなどで開催実績がある。

他のスポーツ競技では、1985年の新・両国国技館開場の年に、日本女子代表チームが出場したバレーボールの国際試合が開催されたことがある。2011年にはFIG体操ワールドカップ東京大会の会場となった。

また、年に数回程度、コンサート・ライブの会場として使われることがある。ライヴ会場としてのこけら落としは1985年3月31日に開催された、ロックバンド甲斐バンドの「BEATNIK TOUR in 両国国技館」。上記の「国技館5000人の第九コンサート」などのほか、1988年秋にはアメリカのアイドル歌手ティファニーのコンサートが催されたり、2007年11月22日に両国国技館では初のオールナイト音楽イベント「Connect '07」[1]が開催され、石野卓球大沢伸一らが出演した。また同年12月24日には堀江由衣声優としては初めて単独コンサートを行なった。年末年始は通常大相撲初場所の準備のため会場貸しは行われないが、2009年の大晦日から2010年の元旦にかけてさだまさしが国技館初のカウントダウンコンサートを行い[2]、幟のほかに角界関係者をはじめとする企業・個人などから150枚を超える懸賞幕が出された。

2010年には演芸コンテスト「M-1グランプリ」の準決勝会場としても使用された。

記録[編集]

  • 旧国技館での最多優勝は双葉山定次の12回、新国技館では貴乃花光司の15回。
  • 旧国技館での最多連続優勝は太刀山峯右エ門と双葉山定次の5場所連続で、ともに地方場所のなかった年2場所制時代でのものである。同じく年2場所時代に5連覇を達成している栃木山守也は、国技館延焼事件の影響もあって仮設国技館での優勝を含み、両国国技館での5連覇は達成していない。
  • 新国技館での連続優勝の最多は千代の富士貢の7連覇(1985年1月の開館場所から1987年1月場所まで)。常設国技館での最多連覇記録でもある。丸2年新国技館で他の力士は優勝出来なかった。

施設[編集]

電光掲示板(2007年初場所)
1F売店付近(大相撲夏場所時)
  • 電光掲示板に、その取組の決まり手が表示出来るようになっている。
  • 吊り屋根は伊勢神宮の御神木で造られている。
  • やぐらと土俵はエレベーター式の昇降型、枡席は一部が可動型となっており、相撲以外のイベントにも対応出来るようになっている(やぐらは天井近くまで上がり、土俵は地下に沈む)。このため女子プロレスや女子格闘技大会やリング上に花束嬢などの女性が中央(土俵が格納された状態で)に立つことが可能となった。ただし、近年は減少している。
  • 地下には国技館サービスの統括する焼き鳥工場があり、お土産用の焼き鳥を調理・製造している[3]。相撲の興行中のみ稼動しているため従業員の大半は別に職があり、興行中はアルバイトとして働いている[3]。焼き鳥である理由は、材料であるが「二本足で立ち、手を着かない」ことから、相撲界で縁起物とされているため[3]。使われているは岩手県産[4]。この験はちゃんこ鍋でも担がれている。
  • 大相撲興行中、枡席において伝統的に喫煙が認められていたが、2005年の1月場所から全面禁煙となった。
  • わんぱく相撲などアマチュア相撲の全国大会も行われるが、地方予選を男性選手にまじって勝ち抜いた女性選手の出場が制限されることもある。各主催団体が自主的に相撲協会に配慮してのもので、協会から各団体への申し入れの類は一切ない。
  • 本場所が行われていないときも、館内巡回ツアーが行われたり、構内の売店は開くようになった。
  • 構内には相撲博物館相撲診療所があり、博物館は本場所やイベントなどの行われていないときには入館無料である。また、診療所は一般の患者も受け付けている。
  • 本場所開催期間中はミニFM「どすこいFM」が83.4MHzで運用される他、NHK-BS大相撲中継・日本語放送、英語放送を2003年から配信している。
  • 2005年5月場所より、館内で、無線LANを利用してノートパソコンに大相撲や国技館の情報を配信するサービスである「Sumo Live TV powered by Intel」を開始した。
  • 新両国国技館の屋根上の金色の部分の側面は、8分割で開閉可能である。
  • 正面は西北西の方角を向いており、東方は北北東、西方は南南西、向正面は東南東と実際の方角とは一致していない。

交通の便[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 史上初! 国技館でのオールナイトクラブイベント[リンク切れ]
  2. ^ コンサート終了後、引き続き『今夜も生でさだまさし』の元日特番の公開生放送もNHK総合テレビジョンを通じて行われた。
  3. ^ a b c フジテレビトリビア普及員会編 『トリビアの泉 〜へぇの本〜 素晴らしきムダ知識』III、講談社、2003年 8頁 ISBN 9784063527049
  4. ^ 『国技館名物の焼き鳥が復活「消費で被災地応援できれば」』産経新聞2011年5月14日。東日本大震災により食材の入荷が止まり一時販売出来なかった

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度41分48.9秒 東経139度47分36.7秒 / 北緯35.696917度 東経139.793528度 / 35.696917; 139.793528

執筆の途中です この「両国国技館」は、相撲に関連した書きかけ項目です。記事を加筆・訂正してくださる協力者を求めていますPJ相撲)。