高山善廣

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高山 善廣
プロフィール
リングネーム 高山 善廣
本名 高山 善廣
ニックネーム プロレス界の帝王
アパッチ・タワー
和製ブルーザー・ブロディ
身長 196cm
体重 125kg
誕生日 1966年9月19日(45歳)
出身地 東京都墨田区
所属 高山堂
スポーツ歴 ライフセービング
ラグビー
トレーナー 高田延彦
大江慎
ジャイアント馬場(全日本移籍後)
デビュー 1992年6月28日
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高山 善廣(たかやま よしひろ、男性、1966年9月19日 - )は、日本プロレスラー東京都墨田区出身。東海大学付属相模高等学校東海大学文学部文明学科卒業。高山堂(個人事務所)所属。ダイナミックなレスラーであり、数少ない現役「長身日本人レスラー」の一人。

試合に対する分析力と笑いの要素も含めた会話の能力も優れているため、プロレスリング・ノア中継のレギュラー解説者であり、またワールドプロレスリングなどでもゲスト解説を務めることがある。また、2006年からは、UFCを中継する日テレG+の番組(現在は放送終了)にも解説者として出演していた。

学生時代にはラグビーをしていた。また、湘南でライフガードのアルバイトをしていた、元ライフセイバーでもある。

目次

[編集] 来歴

[編集] Uインター時代

大学卒業後、フジサンケイグループでサラリーマン生活を送っていたが、プロレスラーの夢を捨てられずUWFインターナショナルに入門。練習の厳しさに耐えかねて一旦は夜逃げするも、ライフガードのアルバイト中にUインターの先輩・宮戸優光と再会し、再入門を果たす(なお、第2次UWFの入団試験に合格した経験も持っている)。1992年6月、金原弘光戦でデビュー。

1995年10月9日に始まったUインターvs新日本プロレスの対抗戦の流れから、安生洋二、山本健一(現:山本喧一)と「ゴールデン・カップス」を結成。

8月17日、Uインター神宮球場大会で行われたバーリトゥード戦でキモと対戦し、チョークスリーパーで一本負け[1]

9月11日、Uインター神宮球場大会で全日本プロレス川田利明との対戦が実現するも、ジャンピング・ハイキックで敗れる。

12月のUインター解散後、Uインター関係者が立ち上げた受け皿団体・キングダムに移籍する。

[編集] 全日本時代

1997年3月、前年に敗れた川田利明を追い、フリーランスとして全日本プロレスに参戦。ゲーリー・オブライトと組んで、メインイベントで川田、田上明組の世界タッグに挑戦するも敗れる。

1999年5月、後追いで参戦していた垣原賢人と共に、全日本プロレスの正式所属選手となる。大森隆男浅子覚と「ノーフィアー(NO FEAR)」結成(当初は大森・高山のみで、浅子は後に合流)。史上初となる世界タッグとアジアタッグの同時制覇を成し遂げる。

[編集] ノア・フリー時代

2000年三沢光晴らと共に全日本プロレスを脱退し、プロレスリング・ノア旗揚げに参加。

2001年、PRIDE参戦を機に再びフリーランスとなる[2]。以後、ノアを中心に、新日本プロレスやその他の様々な団体、PRIDEなど総合格闘技にも参戦。

6月23日、PRIDE.21ドン・フライとの顔が変形するほどの凄惨な殴り合いにより、格闘技ファンにも知られるようになった。ちなみにこの後ギャラが大幅にアップしたという。

同じ頃、浅子の怪我による引退や大森との喧嘩別れもあって、NO FEARを解散。以後、同ユニットの合言葉だった「いくぞ、ノーフィアー!!」を、解散後も高山が使用したため彼の代名詞となる。

2002年9月7日、小川良成を破りGHCヘビー級王座を奪取。高山自身初のシングルタイトルとなった。

新日本プロレスにおいて、2003年IWGPヘビー級王座(永年空位だったNWFの二冠を制覇した時期もしばらくあった)を獲得。その後鈴木みのると「外敵タッグ」を結成。鈴木とのタッグチームは2008年の健介オフィスでの秋山準佐々木健介組に敗れるまで無敗であった(試合は健介が高山をピンフォール)。

2004年2月1日、北海道立総合体育センターで鈴木と組み、天山広吉西村修組からIWGPタッグ王座を奪取する。3大メジャー団体のタッグ王座を制覇したのは、この時点でベイダーに続き2人目。

6月、ハッスル・ハウスにて高田総統から「恐れを知らないモンスター」として紹介され、会場に姿を見せた。この興行の前のハッスル3では「高田延彦の遺伝子を継ぐ男」として紹介されている。

8月8日、G1 CLIMAXリーグ戦・大阪府立体育会館での佐々木健介戦後、脳梗塞(当初の発表は脳血栓)で倒れ長期戦線離脱となった。

リハビリやタレント活動を経て、2006年7月16日、ノア日本武道館大会で復帰。佐々木健介と組んで、三沢光晴・秋山準組と対戦し、秋山のリストクラッチ式エクスプロイダーに敗れた。10月8日の新日本両国大会では鈴木みのるとタッグを組み、永田裕志山本尚史組と対戦。

2006年12月26日、ハッスル・ハウスに、鈴木みのると組み電撃参戦。12月27日ZERO1-MAXに登場し、かつての盟友・大森を襲撃。

2007年12月2日、ノア日本武道館大会で小橋建太と初タッグを結成。なお、この日は腎臓癌摘出手術によって長期欠場していた小橋の復帰初戦であり、自身の復帰戦で予定されていたカードであった。

2008年10月、プロレス・エキスポ初日に参戦。因縁のドン・フライと初タッグを結成した。なお翌日はプロレスリング・ノア武道館大会に参戦。

2009年3月14日、全日本プロレス両国国技館大会でグレート・ムタから三冠ヘビー級王座を奪取し、日本国内3大メジャー団体(新日本・全日本・ノア)のヘビー級シングル&タッグタイトルを奪取した[3]

2010年1月4日、6年前に対戦した中邑真輔のIWGPヘビー級王座に挑戦、ボマイェで敗れるもバックステージではすっきりした顔で「本当にスゲェチャンピオンになったんだな」と中邑を讃えた。 7月10日、GHCヘビー級王者の杉浦貴のGHCベルトに挑戦、頭から血を出しながら奮戦するもオリンピック予選スラムで轟沈する。 9月18日、佐野巧真とタッグを組み、バイソン・スミス齋藤彰俊組のGHCタッグチャンピオン王座に挑戦し、ベルト奪取に成功する。12月23日、かつて小物扱いしていた岡田かずちかに襲撃を受け、翌1月4日の東京ドームでの対戦表明を受けた。

2011年1月4日、杉浦とタッグを組んで岡田・後藤洋央紀組と対戦。エベレストジャーマンで岡田からフォールを奪った。

6月18日、新日本プロレスのBAD INTENTIONSを相手として、IWGPタッグ・GHCタッグを賭けたダブルタイトル戦に敗れ、GHC王座から陥落した。

同月26日、試合中にパートナーの佐野を裏切り、NO MERCY加入を表明。7月10日の有明コロシアム大会から、黒を基調としたロングタイツと黒いグローブの新しいリングコスチュームを変更した。

8月、脳梗塞の途中リタイアしてから7年振りに新日本のG1クライマックスに出場したが決勝進出は果たせなかった。因みにブロック予選で虫取り少年の姿で現れたヒデオ・サイトーに試合開始前に虫取り網で頭をズッポリと被されるという珍事が起きている(直後に怒りを露にして虫取り網をへし折った)。この珍事に対して高山はバックステージインタビューで「変質者に襲われた感じ、通り魔だよ、恐ろしいね」と述べた。

10月10日、「鈴木軍」の頭領の鈴木みのると、G1で邂逅を果たしたかつてのパートナーの真壁刀義によるシングルマッチを観客席で見守る。試合終了後、鈴木に敗れた真壁をエベレストジャーマンで襲撃、バックステージで鈴木と握手を交わし鈴木軍のサポートメンバーになる。 同月31日、NOAHのリングで2度目のGHCタッグ防衛に成功したBAD INTENTIONSにNO MERCYのKENTAと共に挑戦表明をする。

11月上旬、都内に焼き鳥料飯店「ストマックホールド」を開店する。

[編集] 人物

  • 1997年3月、全日に初参戦。前年に敗れた川田を追い、オブライトと組み、川田、田上の世界タッグに挑戦。当初は非常に痩せた身体で、キック以外はあまり見所のない選手のように評されていたが、ジャイアント馬場は「こいつは磨けば光る」と目を付けた。当時の全日本で、初参戦でいきなりタイトルマッチが組まれたのは異例中の異例である。またトップロープをまたいで入場するようになったのは、デビュー当時は普通にロープをくぐってリングインしていたが、新日本プロレス初参戦時にロープの高さがUWFのものよりも低かったため、跨げるのではと思い跨いでみたところ、本当に跨げたためそれ以降の定番になったと本人の著書の中で述べている。その後、浅子覚、大森隆男とのユニット・NO FEARでの活躍あたりから体重も増え、技術の向上もあってプロレス界で頭角を現すようになる。
  • 体重の増加は、持病である重い気管支喘息の薬の副作用、もしくは下腹部の古傷の保護のためとも言われる。元々重い喘息持ちであり、控え室では吸入を欠かさないなど、あまり身体が強いほうではない。2006年1月14日、日本製薬工業協会の提供番組「希望へのメッセージ・くすり物語」(日本テレビ)に、脳梗塞で欠場中の高山が出演。番組進行役の吉田栄作と公園でのインタビューに応じていた。内容としては持病の喘息についてのことで、脳梗塞の点には触れていない。
  • 1996年から「スー族の血を引くクォーター」と称していたが[4]、これは安生洋二のアイデアによるギミックであり、事実ではない[5]。異名のアパッチタワーはこのギミックに由来する[6]。PRIDEに参戦する頃にネタであることが明かされた。
  • 2006年のNHK大河ドラマ功名が辻」に蜂須賀小六役で出演していたが、本人は自身の日記で「あまりの大根役者ぶりに自分でもびっくりしている」とコメントしている。番宣で「スタジオパークからこんにちは」にも出演した。NHKでは珍しくプロレスの映像が放送された(永田からIWGPを取った試合)。
  • 仮面のメイドガイとのタイアップでメイドコスプレも行ったことがある。キャッチコピーは「こんなメイドに萌えてみろ」
  • プロレス界の二大巨頭、馬場・猪木が認めるレスラーである。馬場は当時他団体の選手である高山に「昔だったら海外に(当時の全日は選手を海外修行に出させていなかったため)参戦させてやりたかった」とか色々とアドバイスをしたり、食事に連れてったりと、高山を一レスラー・人間として非常に気に入っていた。猪木は新日本(会長をしていた当時)の選手を差し置いて「プロレス界で一番もっともらしいプロレスラー」と評価している、気に入った者しか連れて行かない「イノキアイランド」にも招待している。
  • 公式サイトの日記にて、「大学を卒業して田宮模型に入社していたら今の自分はなかっただろう」と語るほどのプラモデル好き。玩具フィギュアなどの収集が趣味で、公式サイトにはコレクションしている玩具の写真が掲載されている。最近、田宮最初のラジコンカーをYahoo!オークションで、「妻に言えないような値段で」競り落とした。[7]
  • 聖闘士星矢の声優を演じたことがある。この時、高山は自身が乙女座ということもあり「乙女座のシャカ」のTシャツを着てスタジオに現れた。
  • 団体の枠を越えた活躍ぶりから週刊ゴングの金澤克彦が「プロレス界の帝王」と名付け、それがキャッチフレーズとなる。
  • 2007年1月31日、第1子(男児)が誕生した。奇しくもこの日は全日本プロレス時代の師であるジャイアント馬場の命日でもある。
  • 満足のいく試合が出来なかった日など、ファンに冷たい一面を持ち合わせているが、普段は公式ホームページ等でファンとの交流を図っている。
  • 古いアメ車に乗っている。
  • マシン軍団のメンバーである、ダイナミック・マシン2号の正体と言われているが詳細は不明。

[編集] 交友関係

幕内力士北勝力を「英樹」と呼び、弟分のように可愛がっている。また、同年代であるノア所属の杉浦貴と大変仲が良く、杉浦を「スギ」「スギ様」「おすぎ」などと呼んでいる。それぞれライバルに「試合以外での杉浦貴」「夜の高山善廣」を挙げている。

強面で、基本的にはヒールな立ち位置であるが、たとえ自分より年下でも、大森、垣原賢人、鈴木みのるなどの先輩選手には「さん」付けで呼ぶ常識人でもある。ただし、大森との喧嘩別れ以後は「あんな奴」とか「隆男ちゃん」と言ったこともある。また、三沢光晴は「社長(もしくはエロ社長)」、田上明は「田上のおっさん」、武藤敬司は「タコ社長」と呼ぶ。同年齢でキャリアは上の小橋建太は「小橋建太」、年下でキャリアは同じ位の秋山準は「準」、永田裕志は「裕志」、などと呼び、さん付けをしないが、「〜選手」と敬称を付けることが多い。また、最近は鈴木に対して「みのるちゃん」と呼んでおり、同年齢の佐々木健介にも40歳になった記念として「健ちゃん」と呼ぶようになった。健介はその後咄嗟に高山を「高ちゃん」と呼び、鈴木からは、ノア中継放送内や自身のブログなどで「金髪の大男」と呼ばれることが多い。

2004年9月26日に「ウチくる!?」にゲスト出演。その際に馬場猪木(猪木はVTR出演)とのエピソード・湘南での思い出を披露し、ライフセイバー時代の友人、宮戸、後輩の桜庭和志らが友情出演した。2006年12月、「ウチくる!?」に安藤和津がゲスト出演した回に、友人として登場。

[編集] 脳梗塞との闘い

2004年8月8日、大阪府立体育会館で行われた新日本G1 CLIMAXリーグ戦・佐々木健介戦後のバックステージで、突然右手の自由が利かなくなり、リング上で受け取った勝利者賞の目録を落とした。その後、控え室に戻ろうとしたが、今度はドアノブを扱えず、立ち眩みで倒れてしまう。周りにいたレスラーや関係者が異変に気付き、救急車を呼び、高山は富永病院へ搬送された。富永病院は大阪府立体育会館のすぐ近くにあり、脳神経治療では国内トップレベルで知られていた。病院に運ばれた高山に、即カテーテル手術が施された。

発症してから手術までの時間が3時間以内であれば、後々の後遺症も最小限で済む可能性が高いと言われている脳梗塞であるが、病院まで救急車で10分以内の距離で発症し、2時間で全ての手術を終えることができたため、主治医は「高山さんはかなり強運の持ち主だった」と語っている(外部リンク参照)。

本人は手術後、喋ることが出来たり、動かなかった手足が動くようになっていたことで、「これはすぐに復帰出来る」と思っていたそうだが、しばらく経つと、思ったように言葉が出なかったり、今まで出来ていた動きが出来なくなっていることに気付いたことから、不安視するようになった(本人は「思考回路すら麻痺していた」と話している)。以後、大好きだったコーヒーをやめて、水を一日6リットル飲むように心がけたり、肉を食べることをやめて魚と野菜中心の食生活にしたりと、日常生活を改善。リハビリも開始した。また、飲酒も止めた(煙草はもともと吸わないとのこと)。

医師からは「自分で体力が戻ったと思ったら、いつでも復帰していいが、その前に診断を受けるように」と言われていた。本人は復帰に向けてトレーニングを続け、2005年の末には、壊死していて以前のような動きができなくなったものに対しては、他の器官で欠場前と同じような動きをできるようにするトレーニングや、少しずつ頭部に負荷をかけるトレーニングをはじめていることを明かした。また、欠場中は先述のゲスト解説に加えて、ラジオ番組やテレビドラマにゲスト出演するなど、タレント活動に専念していた。

復帰までの間、高山は宮戸優光のジム「U.W.F.スネークピットジャパン」にて復帰に向けたトレーニングを積んでいたほか、解説者としてノアの会場を訪れた際も、試合前に受け身などの練習をしていた。2006年3月5日のノア武道館大会に解説者として来場した際、試合前の選手練習中に、病気離脱後初めて後ろ受け身の練習を行った。

約2年間の休養後、2006年7月16日のノア武道館大会にて復帰することが決定し、佐々木健介とタッグを組んで、秋山準・三沢光晴組との対戦という最高のカードが用意された。プロスポーツ選手で脳梗塞から復帰した前例はないとされている(当初は高山のパートナーは小橋であったが、腎腫瘍摘出手術による欠場のため、変更になった)。試合は半分以上高山が捕まる展開となり、その時点で持っている力を出し尽くし、欠場中の小橋へのエールをこめてマシンガンチョップを放ったりしたが、結局三沢のエメラルド・フロウジョンと秋山のリストクラッチ式エクスプロイダーを連続して食らって敗れた。この日は高山の復帰を待望していたかのように、日本武道館には超満員となった。

試合では、散々三沢のエルボーや秋山のジャンピング・ニー・バットを食らい続けたが、10分程控え室で休んだ後元気そうにプレスルームに現れ、健介と肩を組んで元気に記者会見に応じていた。

この復帰戦直前に、元々タッグパートナーとして共闘することになっていた小橋建太が腎臓癌により離脱・手術を行うことになり、復帰戦についてのコメントをノア中継内求められた際、ファンと小橋に向けて「みんながジメジメしたら小橋建太が戦えなくなるから、明るく希望を持って、彼の帰りを待とう。小橋建太のために戦うとか、そういう大それたことは言えないけど、俺は全力で戦って、武道館後もリングに生き残るから、小橋建太、必ず戻って来い」という暖かいメッセージを送った。また別のインタビューでは「俺は脳梗塞を克服して戻ってきた。ここでお前が癌に負けるようなことがあれば、プロレスラーとしてお前は俺に負けたことになるぞ。それが嫌だったら、何年かかっても絶対に戻って来い」と高山ならではの励ましのコメントを送った。

2007年12月2日の小橋建太の腎臓癌からの復帰戦前には、タッグパートナーを務めることに関して「彼の(病気の)ことは俺が一番分かるつもりだから」と話している。

[編集] 得意技

UWFの流れを汲むUインターからレスラー人生を出発させた彼だが、細かいグラウンドテクニックは余り使用しない。元々から細かいテクニックよりもハードキックで試合を組み立てるタイプであったが、全日本プロレス登場当初は腕ひしぎ逆十字固め等の極め技も使っていた。現在は恵まれた体躯を活かした豪快な打撃で小細工なしのハードヒットなプロレスを展開している。

エベレスト・ジャーマン・スープレックス・ホールド
彼の繰り出すジャーマン・スープレックスは、その角度の高さから、世界一の巨山であるエベレストにたとえて、こう称される。
ダルマ式ジャーマン・スープレックス・ホールド
通常のジャーマン・スープレックスとは異なり、相手の両腕を一緒に抱え込んで投げる(類似技にクロスアーム式があるが、これは相手の両手を交差してクラッチする。一方ダルマ式は相手の腕を体側に揃えた状態で、自分の両腕で相手の腕ごと胴を抱え込む。)。腕がロックされているので受身が取れず、首のみでマットに叩きつけられる危険な技。2000年、小橋の持つ三冠ヘビー級に挑戦するために身に付けた。高山曰く「人を人とも思わない技」。
高角度バックドロップ
2008年8月30日両国国技館大会の諏訪魔戦で使用した危険技。通常のバックドロップよりも脳天から落ちる危険角度で落とす。大一番の試合で使う。持ち上げ形は「抱え式」。
ドラゴン・スープレックス
大一番での試合終盤や、エベレスト・ジャーマン・スープレックス・ホールドが返されたときに使用する。190cm以上の身長を持つため、相手は、2メートルほどの落差から真っ逆さまに落ちる。彼の場合は、投げっぱなしを使う(投げっぱなしで使用する理由は、かつてのパートナーのゲーリー・オブライトを意識しているからである)。
ニーリフト
膝を使って胴体を蹴り上げる技。ダッシュしてから繰り出すランニング・ニーリフトは強力で、ヘビー級の相手でもその威力で体が浮き上がる。この他にも、相手の胴を掴んだ状態で、腹部に思いっきりニーリフトを繰り出すタイプなど、使用法の応用範囲は広い。総合格闘技ではこのニーリフトを主要打撃技として使用する。
ミドルキック
形態はミドルキックだが、長身のため打撃された相手にとってはハイキックと同じ打撃ポジションとなる。
サッカーボールキック
リング中央・花道上等の助走が大きく取れる場所に相手をしりもち状態にしておいて、走りこんで背中に思いっきりキックを入れる。選手権試合等では背中ではなく正面から蹴り上げることもあり、第1回GHCヘビー級王者決定トーナメント・決勝にて三沢光晴にこれを放ち、顎の下に数針縫う裂傷を負わせた。
ギロチン・ドロップ
ジャンプしてマットに倒れている相手ののど下に大腿部裏を叩き落す。全日本移籍初期に純プロレスにシフトチェンジを図るため多用し、そのフォームがブルーザー・ブロディのものを彷彿とさせたため、当時「和製ブルーザー・ブロディ」の異名が付けられた。NO FEARとしての初めての大金星となった川田利明&田上明組には、この技を決め技として使用した。その後、荒々しいファイトを全面に押し出すスタイルとなってからは使用頻度は徐々に減っていった。
ビッグ・ブーツ
ブルーザー・ブロディのキングコング・キックの様に助走をつけて放つことが多い。ギロチン・ドロップ同様、前述の高山のニックネーム「和製ブルーザー・ブロディ」の由来のひとつである。
裏片羽絞め
全日本移籍後、最も使用頻度が高かったサブミッション。通常は、仰向けの相手に掛ける片羽絞めを、高山はうつ伏せの相手に繰り出す。若手や中堅選手相手では、この技を極め技にすることも多かった。ゲーリー・オブライトにこの技で勝利したこともある。最近はあまり使用していない。
ドロップキック
全日本移籍後、試合中よく繰り出していた。長身の体で、打点・威力ともに見ごたえのある技のキレを誇っていた。
罵詈雑言
プロレス技でないが、自著に記載されているプロフィールに「本当の得意技 罵詈雑言」と書かれている。試合前後のマイクパフォーマンスではキレのあるコメントをする。

[編集] 戦績

[編集] 総合格闘技

総合格闘技 戦績
5 試合 (T)KO 一本 判定 その他 引き分け 無効試合
0 0 0 0 0 0 0
5 2 3 0 0
勝敗 対戦相手 試合結果 イベント名 開催年月日
× ボブ・サップ 1R 2:16 腕ひしぎ十字固め INOKI BOM-BA-YE 2002 2002年12月31日
× ドン・フライ 1R 6:10 TKO(マウントパンチ) PRIDE.21 2002年6月23日
× セーム・シュルト 1R 3:09 KO(左ストレート) PRIDE.18 2001年12月23日
× 藤田和之 2R 2:18 肩固め PRIDE.14 2001年5月27日
× キモ[1] 1:16 チョークスリーパー UWFインターナショナル
『5th ANNIVERSARY '96』
1996年8月17日

[編集] タイトル歴

[編集] プロレスリング・ノア

[編集] 全日本プロレス

史上初の世界・アジア同時保持となった。

[編集] 新日本プロレス

中邑真輔(IWGP王者)との統一戦に破れ、同ベルトは再び封印された。

[編集] WAR

[編集] ZERO1-MAX

[編集] 天龍プロジェクト

  • 天龍プロジェクト認定世界6人タッグ - 初代 パートナーは、関本大介・後藤達俊

[編集] プロレス大賞

  • 2002年度 殊勲賞、年間最高試合賞 (高山vs永田裕志)
  • 2003年度 最優秀選手賞
  • 2004年度 最優秀タッグチーム賞(鈴木みのるとのタッグ)
  • 2006年度 カムバック賞
  • 2007年度 年間最高試合賞(三沢光晴・秋山準vs小橋建太・高山)

[編集] 出演

[編集] テレビ

ドラマ
バラエティ

など

[編集] OVA

[編集] 映画

[編集] CM

[編集] その他

[編集] 入場テーマ曲

『DESTRUCTIVE POWER』
(現在はニューアレンジバージョンを使用)
もとはNO FEARのテーマ曲として使用されていたものである。コンビ解消前には『Sympathy for the Devil』(ガンズ・アンド・ローゼズによるヴァージョン)を使用したこともあった。

[編集] 出典

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  1. ^ a b UWFインターナショナル取締役だった鈴木健は、この試合が結末が決まっており、シュートマッチ、真剣勝負ではなかったことを後に明かしている(『kamipro』No.130、エンターブレイン。鈴木健インタビュー)
  2. ^ 日本テレビで放送されていたノア所属のままだと、PRIDEを放送するフジテレビのPRIDE中継番組に登場できないという権利上の理由による。PRIDE出場もフリーになることもノア社長の三沢は快諾したという、当初三沢はノア所属のままでPRIDE出場しても構わないと言ったが、一応ケジメとしてフリーとなった(『kamipro』No.128、エンターブレイン。高山インタビュー)。
  3. ^ シングルタイトルでは佐々木健介に次いで史上2人目
  4. ^ 板橋雅弘「INTERVIEW高山善廣 自分はスー族とのクォーターなんです。うちのおじいちゃんが道楽者で……」『別冊宝島274 プロレス謎読本 リングのタブーを解き明かせ!』宝島社、1996年、p88-94。
  5. ^ 自叙伝によると「インディアン」の風貌をした親戚が居たからもしかすると?!とも語っている。
  6. ^ フジテレビプレゼンタイガー」で命名されたもの
  7. ^ タモリ倶楽部2010年7月9日放送分にて

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク


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