ザ・デストロイヤー
| ザ・デストロイヤー | |
|---|---|
| プロフィール | |
| リングネーム | ザ・デストロイヤー ディック・ベイヤー ドクターX |
| 本名 | リチャード・ベイヤー(ディック・ベイヤー) |
| ニックネーム | 白覆面の魔王 |
| 身長 | 183cm(公称) |
| 体重 | 110kg |
| 誕生日 | 1930年7月11日(82歳)[1] |
| 出身地 | ニューヨーク州バッファロー |
| スポーツ歴 | アメリカンフットボール レスリング |
| トレーナー | ディック・ハットン |
| デビュー | 1954年 |
| 引退 | 1993年 |
ザ・デストロイヤー(The Destroyer、1930年7月11日 -)は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ニューヨーク州バッファロー出身のドイツ系アメリカ人。本名はリチャード・ベイヤー(Richard Beyer)、愛称ディック・ベイヤー。アメリカではジ・インテリジェント・センセーショナル・デストロイヤー(The Intelligent Sensational Destroyer)、ディック・ザ・デストロイヤー・ベイヤー(Dick "The Destroyer" Beyer)などのリングネームで知られる。
日本では「白覆面の魔王」の異名を持つ覆面レスラーとして、足4の字固めを武器に力道山、ジャイアント馬場などと戦った他、テレビタレントとしても活躍した。大の親日家としても知られる。
目次 |
プロフィール [編集]
デビュー [編集]
シラキュース大学大学院教育学部卒業。在学時からアメリカンフットボールの選手として活躍し、卒業後も母校のコーチを務めていたが、レスリングでも実績を残していたため、1954年にアメリカのプロレス団体からのオファーを受けてプロレスラーも並行して始める。
WWA世界ヘビー級チャンピオン [編集]
当初は本名・素顔で試合を重ねてきたが、1962年に覆面レスラーに転向。白地に赤や青の縁取りを付け目と鼻、口の部分を開けたマスクを着用して試合に臨み、WWA世界ヘビー級王座を獲得。通算3度WWA世界ヘビー級チャンピオンとなる。
日本での活躍 [編集]
その後1963年に初来日して力道山と対戦、足4の字固めをめぐる壮絶な攻防は全国に一大センセーションを巻き起こした。同年5月24日に東京体育館で行われたWWA世界選手権は平均視聴率64%を記録、これは今日においても歴代視聴率4位にランクされている。力道山とのシングルマッチは通算1勝1敗2分。力道山の死後も、豊登とWWA世界選手権を巡る激闘を繰り広げ、さらにジャイアント馬場を新たなライバルとして日本プロレスの人気外国人レスラーの地位を確保するようになる。アントニオ猪木とも好勝負を残しており、シングルマッチは通算1勝1敗2分であった。
初対戦の頃は「馬場を血だるまにしてKOした(このような公式記録はない)」と言われる大ヒールのデストロイヤーであったが、全日本プロレス旗揚げ後の1972年に来日の際、「馬場に負けたら助っ人として日本に残る」と宣言(日本陣営が手薄だったことから馬場が引っ張り込んだという説が今では支配的)、敗れたデストロイヤーはその後6年余りの間全日所属選手として参戦し、その間アブドーラ・ザ・ブッチャー、ミル・マスカラスなどと名勝負を残した。全日本では若手選手のコーチ役も担当し、ジャンボ鶴田や大仁田厚、渕正信らが教えを受けている。
覆面世界一決定十番勝負 [編集]
「NWA本部を差し置いて『覆面世界一』を名乗ることは出来ない。世界の強豪マスクマン10人を破って初めて世界一を名乗れる」というアングルに端を発する『覆面十番勝負』は、1974年7月25日のミル・マスカラス戦を皮切りに、1976年8月28日のスーパー・デストロイヤー戦まで2年間に渡って行われた。キラー・カール・コックスが変身したザ・スピリット、ディック・マードックが変身したザ・トルネードなどの急造マスクマンも多く含まれていたとはいえ、「刺客」として送り込まれるミスター・レスリング、ジ・アベンジャー、ザ・バラクーダ、カリプス・ハリケーン、スーパー・デストロイヤーら実力者相手の連戦で『タイガーマスク』のストーリーにも似た興奮を醸し出した。なお覆面を模したオリジナルチャンピオンベルトも存在する。
金曜10時!うわさのチャンネル!! [編集]
そのユニークなキャラクターから、日本テレビ系で放送されたバラエティー番組『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(司会:和田アキ子、せんだみつおら)にレギュラー出演し、和田に「おいデストロイヤー、こっちこい」などぞんざいに扱われて戸惑うなどコメディアン(ボケキャラ)としてのセンスを見せリングの外でも人気を博した。番組中徳光和夫に足4の字固めを仕掛け、徳光が「俺はギャラがないんだぞ!」「数日後には父親参観なんだよ俺」と叫びながら悶絶する姿が見られた。
1979年6月、日本でのレギュラー出場に一旦終止符を打ちアメリカの再び主戦場を移したが、その「日本陣営引退記念試合」として組まれた馬場との特別試合で、親日家であるデストロイヤーらしく、入場式ののち後楽園ホールの放送席に駆けつけ、「視聴者プレゼントに」とマスク(試合実用2枚、未使用多数)や試合に使われたガウンなどをサイン入りで寄贈した。また花束の贈呈にはうわさのチャンネル!!で競演した和田、せんだらも出席した。
アメリカでのレスリングスタイル [編集]
日本ではベビーフェイスとして活躍したが、アメリカではもっぱらヒール役に徹していた。1968年には、かつての全米3大メジャー団体の1つであるAWAで黒覆面の「ドクターX」を名乗り、バーン・ガニアを倒し第23代AWA世界ヘビー級チャンピオンとなった。
引退 [編集]
アメリカに戻ってからは年1回、全日本プロレスの「サマーアクションシリーズ」での特別参戦を続け、1993年に引退。その後アメリカ・アクロンの高等学校で体育教師、水泳教室のインストラクターも務めた。
その後もたびたび来日し、日本のプロレス界やマスコミに登場を続けている。2007年には「レッスルキングダム2」の宣伝のためにブッチャーと共に登場した。同年12月20日に有明コロシアムで行われた、アントニオ猪木が主催するIGF(イノキ・ゲノム・フェデレーション)プロレスリング「GENOME2~猪木 Fighting Xmas~」に特別立会人として来日。カート・アングルとケンドー・カシンの一戦では、場外でイスを振るおうとしたカシンを制止し、会場のファンから大歓声を浴びた。
2011年8月27日、『ALL TOGETHER 東日本大震災復興支援チャリティープロレス』に登場。「デストロイヤー杯争奪 ALL TOGETHER スペシャルバトルロイヤル」の立会人をつとめた。
得意技 [編集]
- 足4の字固め
- デストロイヤーの代名詞的な技。バディ・ロジャースがほぼ同じ技をスピニングレッグロックとして使っていたが、フィギュアフォーレッグロックと呼び自身の看板技として広めたのは彼である。
- ドロップキック
- 若い頃のドロップキックは「誰よりも高く飛ぶ」と言われた。
- ヘッドバット
- マスクに凶器を仕込んで頭突きを打つ場合もあった。
- エアプレーン・スピン
- アルゼンチン・バックブリーカー
- フライング・ボディシザース・ドロップ
- モンキーフリップ(巴投げに近い技)
- 倒立式ダブルニードロップ
- 足4の字固めへの布石として、しばしば用いられた。
エピソード [編集]
- プロレスの歴史上初めて、マスクマンとしてヘビー級のトップ戦線で活躍したプロレスラーである。覆面をかぶったのは、当時プロレスラーのライセンスを取得していなかったため、大きな団体で試合をするには正体を隠す必要があったことと、さまざまなスポーツ(アメフトだけでなく、野球、レスリングでも活躍していた)をやっていたせいで前歯が折れていた事から、素顔をさらすのに躊躇したためといわれる。また、素顔は優しい顔立ちの人物である事から、マスクで隠す事でより迫力を出すためであったともされる。空港でもマスクを外さず、「ボク、デストロイヤー」と言って搭乗口を出ようとしたこともあるほど素顔を露出しなかったといわれているが、その一方で、ゴルフ練習場では暑かったのかマスクをその場で脱いでクラブを振るなど、よく分からない面もあった。
- 第5回ワールド大リーグ戦の決勝戦前、リング上の力道山とキラー・コワルスキーの前にWWA世界チャンピオンとして来日したデストロイヤーは、次期シリーズに力道山相手に防衛戦を戦う旨のあいさつに訪れた。コワルスキーに手を差し出し握手するかに見えたデストロイヤーは、そのままつかつかっとコワルスキーに近づくと、平手でぴしゃっとコワルスキーの頬を張った。コワルスキーは顔色を変えたが、大事な試合の前とあって乱闘にもならず試合が始まった。この時のことについて、後にデストロイヤーは、自著「4の字固めのひとりごと」内で、握手を求めたデストロイヤーに対し、コワルスキーが横を向いて「ローカルチャンピオンが・・・」とつぶやいたため、と説明していたが、コワルスキー死後、デストロイヤーの格上げをはかるために、コワルスキーがリング上で咄嗟に提案したアイデアであると言を翻している。
- 1963年5月23日、静岡県駿府会館において、力道山との世界戦前日にジャイアント馬場と時間無制限1本勝負を行ったが、デストロイヤーはこの試合いつもの白覆面ではなく、“デビルマスク”と呼ばれる黒覆面を被ってリング上に登場した。“白覆面の魔王”ザ・デストロイヤーとして日本で行われた試合で黒覆面を被ったのはこの試合だけである。のち「ドクターX」のリングネームで黒覆面を被った(来歴・人物の項参照)。
- 翌5月24日、東京・千駄ヶ谷の東京体育館で行われた力道山とのWWA世界タイトルマッチは、日本プロレス史上に残る名勝負となった。力道山の空手チョップで前歯をへし折られながらも、ついに必殺の4の字固めに捉えたデストロイヤー。ところが力道山はギブアップせず、体を反転させて裏返しになり4の字固めをかけられたまま上から逆にデストロイヤーの足を責めつけた。そのまま二人は二転三転、どちらもギブアップしない。ついにレフェリーはこれ以上やったら二人とも死ぬ、と叫んで引き分けを宣した。試合後も両者の足は複雑に絡み合いなかなか外れなかったという。
- 愛妻家として知られ、マスクも夫人の手作りのものであった。
- マスクをしたまま、自動車を運転していたことが目撃されている。
- 1974年にはビクター音楽産業(RCAレーベル)から、『デストロイヤーの楽しいクリスマス』と題されたクリスマス向けのLPを日本で発表している。「ジングル・ベル」や「きよしこの夜」などといったクリスマス・ソングを日本語で歌ったもので、作品には夫人も参加している。
- 親日家であり、現在でも毎年最低一回は日本を訪れている。麻布十番納涼まつりで毎年チャリティサイン会を行なっているほか、自らのレスリングの少年チームを率いての来日もある。十番祭りでは毎年様々なグッズを持って来日し、サイン会場となっている携帯電話ショップの前はいつも大渋滞である。このことから現在の日本においても非常に有名な選手であることが伺える。
- かつて日本に住んでいたのは麻布十番にも程近い港区の三ノ橋近辺である。
- 日本のプロ野球界に来る助っ人外国人選手との交流も有名で、約8年間の滞日経験を生かし、多くの外国人選手の良きアドバイザーとなった。ランディ・バースやレロン・リー、レオン・リー兄弟、同郷のマット・ウインタースなどは彼への感謝をいまだに忘れないと言う。
- ジャイアント馬場と全日本プロレスに対する信頼はかなりのもので、新日本プロレスから移籍して来たスタン・ハンセンに対して「スタン、君の移籍は大正解だ。私は全日本立ち上げから馬場と共にしてるが、一度も嫌な思いをさせられた事はない」と声をかけ、ハンセンを安心させた。なお、デストロイヤーは1975年の初来日時のハンセンの対戦相手も務めた。さらに1999年5月2日東京ドーム、馬場没後の「引退記念試合」に際し、最後の「タッグ・パートナー」に指名され、ブルーノ・サンマルチノ、ジン・キニスキー組と「対戦」。挨拶では日本語で「社長、ほんとうにお疲れさまでした」と声をかけ、会場中の涙を誘った。
- ザ・デストロイヤーのマスクは、女性用のガードルから作られている。マスクマンになる時、妻と一緒に女性用下着売り場に行き、変な目で見られたそうである。購入したガードルを使用して、妻が加工し直した物をマスクとして使用していた。
獲得タイトル [編集]
- WWA世界ヘビー級王座:3回(覆面レスラーの世界王者は初めて)
- WWA世界タッグ王座:2回(w / ハードボイルド・ハガティ)
- アジアタッグ王座:1回(w / ビリー・レッド・ライオン)
- AWA世界ヘビー級王座:1回(ドクターXとして)
- PWF・USヘビー級王座:4回
- インターナショナル・ヘビー級王座:1回(モントリオール版)
入場テーマ曲 [編集]
その他 [編集]
著書 [編集]
- 「4の字固め」のひとりごと―力道山と最後に闘った男(1984年1月 ベースボール・マガジン社 ISBN 4583024282)
- マスクを脱いだデストロイヤー(2005年2月 ベースボール・マガジン社 ISBN 4583038410)
テレビ [編集]
- 金曜10時!うわさのチャンネル!!(日本テレビ)
- 家族そろって三つの歌(日本テレビ、家族で出演)
- 新・底ぬけ脱線ゲーム(日本テレビ、不定期出演)
映画 [編集]
- お姐ちゃんお手やわらかに(1975年、東宝)
音楽 [編集]
CM [編集]
家族 [編集]
息子のカート・ベイヤー、娘婿のダニー・スパイビーもプロレスラーである。
脚注 [編集]
- ^ “ザ・デストロイヤー80歳誕生日パーティー”. フィギアフォークラブ(F・F・C). 2012年9月25日閲覧。
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
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