全日本プロレス中継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

全日本プロレス中継』(ぜんにほんプロレスちゅうけい)は1972年から2000年まで日本テレビで放映されたプロレスの実況中継番組。全日本プロレスの試合を中継していた。

番組の放送時間が1時間から30分間に縮小されたのに伴い、タイトル表記が『全日本プロレス中継30』となった時期もあったが、後に放送時間は30分間のままで、従前の『全日本プロレス中継』に戻った。

テーマ曲は『日本テレビスポーツのテーマ』。

目次

[編集] 前史

元々日本テレビでは開局(1953年)以来、力道山ジャイアント馬場アントニオ猪木らを中心とした日本プロレスの試合を、『三菱ダイヤモンドアワー・日本プロレス中継』などのタイトルで放送していた。しかし、1972年4月に日本教育テレビ(現・テレビ朝日)が担当していた中継の試合に馬場を出場させたことに激怒したため、番組を打ち切った(ワールドプロレスリングを参照)。

[編集] 放送開始 - 1980年代

1972年10月、馬場が新たに創設した全日本プロレスと日本テレビが中継権を締結し、新番組『全日本プロレス中継』が毎週土曜日の20:00-20:54に放送されることとなった。第1回(10月7日[1])は「海外遠征第一戦『G・馬場対ザ・シーク』」、第2回(10月14日)は「G・馬場アメリカ転戦記」と題し、団体旗揚げ前の馬場が、アメリカ遠征で行った試合の模様(一部、馬場以外の所属選手も含む)を放映。第3回目となる10月21日の「ジャイアントシリーズ前夜祭」(東京町田市体育館)の生中継から、正式に新団体の中継放送に入った。

創立初期は、馬場の人脈を利して一流外国人を常時招へいする一方、日本陣営にサンダー杉山ザ・デストロイヤーを参加させるなど、選手の拡充を図った。さらに、鶴田友美(ジャンボ鶴田)、アントン・ヘーシンク天龍源一郎、1980年代には輪島大士などといった、話題性のある大型新人を、積極的にデビューさせていった。

1970年代から1980年代にかけては「プロレスの本場」としてのアメリカや、NWAの権威や地位などがまだまだ保たれていた時代であり、それはそのまま実質的に日本で唯一のNWA加盟団体であった全日本の強味となっていた。とかく大味になりがちだった試合内容はともかくとして、NWAなど数々のメジャーなタイトル戦の開催や、NWA公認の数多くのタイトルの新設(もしくは復活)、そしてアメリカでも実現不可能といわれた豪華な企画やマッチメイクが出来たのは、まさに当時の「馬場・全日本」だからこそ成し得たものだった(そんな馬場も1990年代に入ると「プロレスは日本の方がレベルが上」「今さらNWAでもないでしょう」と公言するようになる)。

無論、こうした豪華でグローバルなイメージは、テレビマッチのラインナップにも強く反映された。その流れで、海外の試合(主に所属選手の海外遠征時の試合。NWAエリアが多かった)も数多く放映された。

新日本プロレスが台頭した1980年代初期、定期中継は既にゴールデンタイムを外れていたが、正月や『土曜トップスペシャル』の枠において、ゴールデンタイムの特番が数回組まれたことがあった。その一方、1980年代中期には全日本とジャパンプロレスとの業務提携によって、日本人同士の抗争という新機軸も盛り込んだ。番組のゴールデンタイムへの復帰が決定した際、その発表記者会見には、全日本勢だけでなく長州力を始めとしたジャパン勢も共に出席。日本人抗争をゴールデン復帰の切り札や売り物にしようとした思惑が窺えた(後述及び「前後番組の移り変わり」参照)。

[編集] 番組の終焉

その後は土曜夕方(17:30-18:24)→土曜19:00-19:54→日曜22:30-23:24(以降はローカルセールス扱い)→日曜深夜→土曜深夜→日曜深夜→水曜深夜と放送日が流動的に変化された。しかしながら馬場をはじめ、三沢光晴川田利明田上明小橋健太プロレス四天王秋山準高山善廣といった、後年団体を牽引する選手たちをこの番組から育て上げた(一時期、日本武道館等で行われる大規模大会があった時、特番枠で90分の放送をした事もあった)。

馬場自身は、第一線を退くとともに、解説者として放送席に座ることが多くなった。時折歯に衣着せぬ意見をはさむこともあったが、その的確な「16文解説」は、ファンから好評を得た。その馬場も1999年1月に結腸のため永眠し、番組は次第に衰退の一途をたどることになった。

放送時間は長らく1時間枠だったが、1994年4月をもってついに30分枠に短縮された。馬場が亡くなる直前の「'98世界最強タッグ決定リーグ戦」の優勝戦から、日本武道館等でのビッグマッチは通常の30分枠を15分拡大し、45分枠での放送形態をとった(馬場追悼特集や東京ドーム大会は60分枠)。また番組内容も、タイトルマッチへの流れ・闘いの状況等をまとめたVTRを多用したり、画面右上にテロップが表示されたりと工夫が見られてきた。若林健治竹内宏介等、かつての実況・解説者も復帰し始め、レギュラー45分枠の噂も飛び始めたが、2000年6月、全日本プロレスの大量退団騒動を端に放送打ち切り。日本テレビはその後退団選手達が設立したプロレスリング・ノア側に付き、ノアが軌道に乗るまでの約9か月間はコロッセオでつないでプロレスリング・ノア中継に移行した。

なお最終回では、番組名は当然『全日本プロレス中継』でありながらも、放送内容は三沢をはじめとする退団選手達の新団体旗揚げ記者会見がメインという前代未聞の放送であった。ノアには元日本テレビの大八木賢一も専務取締役として在籍しており、この事からもノアと日本テレビが当時から密接な関係だった事が窺い知れる。

[編集] その他エピソード

  • 番組の制作は一貫してバラエティ部署ではなく、原章運動部長(後に日本テレビ取締役、現・福岡放送社長)率いる日本テレビ運動部(スポーツ部)が担当した。
  • 番組開始当初から十数年程度、CM入り前に「日本テレビの全日本プロレス中継。この放送は(会場名)より全国のプロレスファンの皆さんにお送りしております」というコメントが必ず放送されていた。
  • 試合後の選手のコメントも字幕で語られており、天龍革命時代の天龍源一郎の「何も言う事はない」(実際はノーコメントと言うだけ)、対超世代軍時代の三沢光晴戦後のジャンボ鶴田の「あいつはもっと良い奴だと思った」など数々の名言語録を残している。
  • 1990年代に入ってから、高速度撮影を活用した「スーパースロー」を番組のひとつの目玉としていた。
  • 1992年頃までのオープニングタイトルは、「(日本テレビ または NTV)全日本プロレス中継」となっていたが、その後は、星マークと一緒に「All JAPAN PRO WRESTLING」の文字に加え、中央で「プロレス」という文字が回転されるデザインになっていた。
  • 1990年代前半の番組内ではSWSに移籍した選手やジャパンプロレス絡みの映像を封印していた。そのため長州力や天龍源一郎の映像はオンエアはおろかソフト化もされなかった。しかし特例としてタイガーマスクがマスクを脱いだ試合での谷津嘉章冬木弘道の映像は何度となく流れている。また、第1回あすなろ杯の冬木や高野俊二の映像は顔隠しで放送された。1998年、番組内コーナー「王道リスペクト」(過去の名勝負紹介)で鶴田vs長州の映像を解禁した事を皮切りに、天龍、ザ・グレート・カブキ小林邦昭等の映像を次々と解禁した。
  • 現在は、かつて全日本プロレス中継で放送されたNWA戦などのビッグマッチを、CS放送の日テレG+にてプロレスクラシックとして放送している。2009年3月まで1か月1回更新だったが諸事情により4月からしばらくは更新を途絶えていた。しかし、7月から原則として奇数月に最新作、偶数月に過去放送の番組のアンコールを行うことになった。

[編集] プロレスニュース

福澤朗が実況を担当した1990年代前半には、中継を行わなかった試合の結果や関連情報を伝える「プロレスニュース」というコーナーがあった。ニュースプラス1NNN昼のニュースNNNきょうの出来事などで使われていた報道スタジオから伝えていたが、その後、番組専用の報道セットが完成。後に「プロレスニュースプラス1」とコーナー名を変更し、主に試合会場周辺の屋外で、福澤が自分でデスクを持って内容を伝えるロケ方式に変更されている。福澤アナが事情で担当できない場合は、臨時で若林健治や金子茂など、他のプロレス実況担当アナウンサーが代わりに担当した。

「プロレスニュース」は「プ・プ・プ、プロレスにゅ〜す」という福澤アナのタイトルコールで始まり、くだけた感じの進行だったため、馳浩(当時新日本プロレス)が「プロレスを馬鹿にしている。許せない」「ぶん殴ってやる。あのアナウンサーあまりにもふざけすぎだよ」と息巻いていた(後に和解したもよう。馳が後年全日本に入団した際、その入団後第1戦を実況したのは、他でもない福澤である)。また、ファンの間でも特にコーナー発足時には賛否両論分かれており、狂信的なプロレスファンから「ふざけるな福澤! 今度のXX大会がお前の最期だ」という脅迫状が届き、警備員を付ける羽目になったこともあったという。

「プロレスニュースプラス1」は、1994年の放送時間短縮時に終了するが、その最終回は福澤アナが「『プロレスニュース』に否定的な熱烈的プロレスファン」に刺され、「いつか、こんな日が来ると思ってたぁ…」と言うシーンで終了という、前述のような状況を茶化した(当然スタッフとの寸劇で、演技もわざと下手に行っていた)、いかにもプロレスニュース的な幕引きであった。

1997年に「プロレスニュースリターンズ」という形で一時復活したが、数回のみで自然消滅した。

[編集] 主な実況アナウンサー

ローカル局アナウンサーは主としてその地域で行われた大会の実況を担当するが、山本純也・佐藤啓は、関東地区や札幌など、他地区の試合でも実況を担当した。川尻(現・益子なお美)は、日本武道館大会で同番組初めての女性実況アナウンサーとして参加した。

[編集] 主な解説者

[編集] 登場ゲスト

「旗揚げ20周年記念・'92ジャイアントシリーズ」に毎週登場した副音声ゲスト。大阪大会ゲストのハイヒールはスタン・ハンセンの「半ケツ」を目撃した。

[編集] スタッフ

  • プロデューサー:石尾栄二、安藤正臣、今泉富夫ほか
  • 制作:原章
  • 制作協力:NTV映像センター(地方大会の場合、札幌テレビ、中京テレビ、よみうりテレビ、テレビ新潟、福岡放送など、番組を放送するネット局(独立UHF以外の番組販売ネットを含む)も協力としてクレジットされていた)
  • 製作著作:日本テレビ

[編集] ネット局

この他にも、1990年代の30分短縮以後に、テレビ埼玉千葉テレビといった、関東の独立UHF局が時差ネットをしていたこともある。

[編集] ネット局に変更などがあった地域

[編集] 番組スポンサーに関する特筆事項

日本プロレス時代のプロレス中継(定期番組)は「三菱ダイヤモンドアワー」の放送枠で放送されており、長らく三菱電機の単独提供だった。元々三菱電機は力道山のスポンサーであり、日本プロレス自体のスポンサーでもあったため、テレビマッチのメインイベントの前に、三菱電機製の掃除機(「風神」など)でリング上を掃き清めるというスタイルの生コマーシャルが見られたり、実況の合間に「この放送は、皆様ご覧のテレビジョンを始め、数々の電化(家電)製品でおなじみの三菱電機が、全国の皆様にお送りしています」といった旨のアナウンスが入ったのは、この頃の事である。しかし番組の末期には、三菱電機をメインスポンサーとしながらも、鈴木自動車、さらに久保田鉄工が提供スポンサーに加わっていた。

馬場は日本プロレスからの独立にあたり、日本テレビだけでなく、中継の提供スポンサーで日本プロレスのスポンサーだった三菱電機との縁も強く主張したが、新たに始まった『全日本プロレス中継』では、三菱電機が提供に付くことはなかった(金曜8時の三菱アワー枠に残り、後継番組である『太陽にほえろ!』のメインスポンサーとなった)。ただし馬場との個人的な縁、全日本プロレスとの縁は継続され、リング上で渡される花束の提供元が三菱電機だったことも多かった(同じ三菱グループに属する三菱自動車工業は、後年、番組提供スポンサーに付いている)。番組は日鐵サッシを始めとする複数社による提供となり、それも時代の推移と共に目まぐるしく入れ替わった。

主に1970年代の全日本プロレスでは、「オロナミンC」(大塚製薬)、「黄桜酒造」など番組スポンサーをあしらった横幕がリングに張られていた。

余談だが、三菱電機・鈴木・久保田(金8)・三菱自工・大塚(土8)ともプロレス撤退以後の後継番組でも協賛を続けていた。

[編集] 備考

  1. ^ 中京広域圏での第1回の放映は中京テレビ放送が2日遅れ(10月9日)の19:00から行った(第2回以降は日本テレビと同時ネット)。理由については名古屋テレビ放送の沿革の項を参照のこと。

[編集] 関連項目

[編集] 前後番組の移り変わり

日本テレビ 土曜20時枠(1972年10月-1979年3月)
前番組 番組名 次番組
全日本プロレス中継
土曜スペシャル
※19:30から
日本テレビ 土曜17:30-18:30枠(1979年4月-1985年9月)
全日本プロレス中継
日本テレビ 土曜19時枠(1985年10月19日-1988年3月)
全日本プロレス中継
日本テレビ プロレス番組
日本プロレス選手権特集
(約3か月の空きあり)
全日本プロレス中継