全日本プロレス中継

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索

全日本プロレス中継』(ぜんにほんプロレスちゅうけい)は1972年10月7日から2000年6月21日まで日本テレビで放映されたプロレスの実況中継番組。全日本プロレスの試合を中継していた。

番組の放送時間が1時間から30分間に縮小されたのに伴い、タイトル表記が『全日本プロレス中継30』となった時期もあったが、後に放送時間は30分間のままで、従前の『全日本プロレス中継』に戻った。

テーマ曲は『日本テレビスポーツのテーマ』。

目次

[編集] 前史

元々日本テレビでは開局(1953年)以来、力道山ジャイアント馬場アントニオ猪木らを中心とした日本プロレスの試合を、『三菱ダイヤモンドアワー・日本プロレス中継』などのタイトルで放送していた。だが、1972年4月に日本教育テレビ(現・テレビ朝日)が担当していた中継の試合に馬場を出場させたことに激怒したため、番組を打ち切った(『ワールドプロレスリング』を参照)。しかし、プロレス中継の視聴率自体は高かったため、日本テレビでは馬場に日本プロレスからの独立と新団体設立、そしてその新団体の日本テレビでの中継を持ちかけ、もともと日本教育テレビへの自分の登場に反対していた馬場も日プロ経営陣への不満もあってこれに同意。馬場をエース兼社長として全日本プロレスが創立されることとなった。

[編集] 放送開始 - 1980年代

1972年10月、馬場が新たに創設した全日本プロレスと日本テレビが中継権を締結し、新番組『全日本プロレス中継』が毎週土曜日の20:00 - 20:55(1975年10月より20:00 - 20:54)に放送されることとなった。第1回(10月7日[1])は「海外遠征第一戦『G・馬場対ザ・シーク』」、第2回(10月14日)は「G・馬場アメリカ転戦記」と題し、団体旗揚げ前の馬場が、アメリカ遠征で行った試合の模様(一部、馬場以外の所属選手も含む)を放映。第3回目となる10月21日の「ジャイアントシリーズ前夜祭」(東京町田市体育館)の生中継から、正式に新団体の中継放送に入った。

創立初期は、馬場の人脈を利して一流外国人を常時招へいする一方、日本陣営にサンダー杉山ザ・デストロイヤーを参加させるなど、選手の拡充を図った。さらに、鶴田友美(ジャンボ鶴田)、アントン・ヘーシンク天龍源一郎、1980年代には輪島大士などといった、話題性のある大型新人を、積極的にデビューさせていった。

1970年代から1980年代にかけては「プロレスの本場」としてのアメリカや、NWAの権威や地位などがまだまだ保たれていた時代であり、それはそのまま実質的に日本で唯一のNWA加盟団体であった全日本の強味となっていた。とかく大味になりがちだった試合内容はともかくとして、NWAなど数々のメジャーなタイトル戦の開催や、NWA公認の数多くのタイトルの新設(もしくは復活)、そしてNWAvsAWAの世界ヘビー級ダブルタイトル戦などアメリカでも実現不可能といわれた豪華な企画やマッチメイクが出来たのは、まさに当時の「馬場・全日本」だからこそ成し得たものだった(そんな馬場も1990年代に入ると「プロレスは日本の方がレベルが上」「今さらNWAでもないでしょう」と公言するようになる)。

無論、こうした豪華でグローバルなイメージは、テレビマッチのラインナップにも強く反映された。その流れで、海外の試合(主に所属選手の海外遠征時の試合。NWAエリアが多かった)も数多く放映された。

なお土曜20時台放送の時、プロ野球ナイター中継(1973年は20:00 - 21:25。それ以降は19:30 - 20:55→20:54)が編成された際は、同日の23:45 - (日曜未明)0:39枠でで録画放送を行い、その際は同枠で放送されてる海外ドラマは休止となった。

1979年4月からはそれまでの土曜20時台から土曜17:30 - 18:24のローカルセールス枠に変更された。 新日本プロレスが台頭した1980年代初期には正月や『土曜トップスペシャル』の枠において、日本武道館等の大規模大会においてゴールデンタイムの特番が数回組まれたことがあった。その一方、1980年代中期には全日本とジャパンプロレスとの業務提携によって、日本人同士の抗争という新機軸も盛り込んだ。番組が1985年10月から土曜19:00 - 19:54枠で6年半ぶりにゴールデンタイムへの復帰が決定した際、その発表記者会見には、全日本勢だけでなく長州力を始めとしたジャパン勢も共に出席。日本人抗争をゴールデン復帰の切り札や売り物にしようとした思惑が窺えた。

[編集] 番組の終焉とその後

1988年4月からは日曜22:30 - 23:24に放送時間が変更され、その後は 日曜深夜 → 土曜深夜 → 日曜深夜 → 水曜深夜と放送日が流動的に変化された。これと同時にローカル枠での放送となった。しかしながら馬場をはじめ、三沢光晴川田利明田上明小橋健太プロレス四天王秋山準高山善廣といった、後年団体を牽引する選手たちをこの番組から育て上げた。

馬場自身は、第一線を退くとともに、解説者として放送席に座ることが多くなった。その馬場も1999年1月に結腸のため永眠し、番組は次第に衰退の一途をたどることになった。

放送時間は長らく1時間枠だったが、1994年4月をもってついに30分枠に短縮された。馬場が亡くなる直前の「'98世界最強タッグ決定リーグ戦」の優勝戦から、日本武道館等でのビッグマッチは通常の30分枠を15分拡大し、45分枠での放送形態をとった(馬場追悼特集や東京ドーム大会は60分枠)。また番組内容も、タイトルマッチへの流れ・闘いの状況等をまとめたVTRを多用したり、画面右上にテロップが表示されたりと工夫が見られてきた。若林健治竹内宏介等、かつての実況・解説者も復帰し始め、レギュラー45分枠の噂も飛び始めたが、2000年6月21日、全日本プロレスの大量退団騒動を端に放送打ち切り。最後の試合中継は大量退団騒動直前の同年6月9日に行われた「2000スーパーパワーシリーズ」の最終戦である日本武道館からの録画中継であった。日本テレビはその後退団選手達が設立したプロレスリング・ノア側に付き、ノアが軌道に乗るまでの約9か月間は『コロッセオ』をつなぎ番組とした後、『プロレスリング・ノア中継』に移行した。

なお45分枠で放送された最終回では、番組名は当然『全日本プロレス中継』でありながらも、放送内容は三沢をはじめとする退団選手達の新団体旗揚げ記者会見がメインという前代未聞の放送であり、『全日本プロレス緊急拡大スペシャル』のサブタイトルを加えて放送された[2]。ノアには、元日本テレビの大八木賢一も専務取締役として在籍しており、この事からもノアと日本テレビが当時から密接な関係だったことが窺い知れる。

その後日本テレビは打ち切り後も全日本プロレスの試合を『コロッセオ』内でダイジェストの形で放送しようと計画したが、馬場元子渕正信などの残留派から猛反発を買い、「ジャイアント馬場3回忌興行」まで全日本プロレスから取材拒否を受けることになる。

[編集] プロレスニュース

福澤朗が実況を担当した1990年代前半には、中継を行わなかった試合の結果や関連情報を伝える「プロレスニュース」というコーナーがあった。『ニュースプラス1』、『NNN昼のニュース』、『NNNきょうの出来事』などで使われていた報道スタジオから伝えていたが、その後、番組専用の報道セットが完成。後に「プロレスニュースプラス1」とコーナー名を変更し、主に試合会場周辺の屋外で、福澤が自分でデスク(=画板)を持って内容を伝えるロケ方式に変更されている。福澤が事情で担当できない場合は、臨時で若林健治や金子茂など、他のプロレス実況担当アナウンサーが代わりに担当した。デスクにはネームプレートが付いていたが、福澤や金子などは漢字表記だったのに対し、野口敦史だけは平仮名表記となっていた。

「プロレスニュース」は「プ・プ・プ、プロレスにゅ~す」という福澤のタイトルコールで始まり、選手のコメントを福澤がものまねで代読したり、あまり注目を集めていない外国人選手を面白おかしくプッシュするなど、くだけた感じの進行だった。福澤自身は、「プロレスニュース」のことを「前衛的ミニコーナー」と表現していた(「週刊プロレス」リレーコラムより)。

「プロレスニュース」に対し、馳浩(当時新日本プロレス)が「プロレスを馬鹿にしている。許せない」「ぶん殴ってやる。あのアナウンサーあまりにもふざけすぎだよ」と息巻いていた(後に和解したもよう。馳が後年全日本に入団した際、その入団後第1戦を実況したのは、他でもない福澤である)。

1994年最初の「プロレスニュースプラス1」では、冒頭部分のみ本家のキャスター(桜田順子真山勇一)と共演した。

「プロレスニュースプラス1」は、1994年の放送時間短縮時に終了する。その最終回は福澤アナが「『プロレスニュース』に否定的な熱烈的プロレスファン」に刺され、「いつか、こんな日が来ると思ってたぁ…」と言うシーンで終了という、前述のような状況を茶化した(当然スタッフとの寸劇で、演技もわざと下手に行っていた)、いかにもプロレスニュース的な幕引きであった。

1997年に「プロレスニュースリターンズ」という形で一時復活したが、数回のみで自然消滅した。

[編集] その他エピソード

  • 番組の制作は一貫してバラエティ部署ではなく、原章運動部長(後に日本テレビ取締役、現・福岡放送会長)率いる日本テレビ運動部(スポーツ部)が担当した。
  • 番組開始当初から十数年程度、CM入り前に「日本テレビの全日本プロレス中継。この放送は(会場名)より全国のプロレスファンの皆さんにお送りしております」(ごく初期「全国のプロレスファンの皆さんに」という件を「全国31局を結んでお送りしております」としたことがあった)というコメントが必ず放送されていた。
  • 試合後の選手のコメントも字幕で語られており、天龍革命時代の天龍源一郎の「何も言う事はない」(実際はノーコメントと言うだけ)、対超世代軍時代の三沢光晴戦後のジャンボ鶴田の「あいつはもっと良い奴だと思った」など数々の名言語録を残している。
  • 1990年代に入ってから、高速度撮影を活用した「スーパースロー」を番組のひとつの目玉としていた。
  • 1992年頃までのオープニングタイトルは、『(日本テレビ または NTV)全日本プロレス中継』となっていたが、その後は、星マークと一緒に「ALL JAPAN PRO WRESTLING」の文字に加え、中央で「プロレス」という文字が回転されるデザインになっていた。
  • 1990年代前半の番組内ではSWSに移籍した選手やジャパンプロレス絡みの映像を封印していた。そのため長州力や天龍源一郎の映像はオンエアはおろかソフト化もされなかった。しかし特例としてタイガーマスクがマスクを脱いだ試合での谷津嘉章冬木弘道の映像は何度となく流れている。また、第1回あすなろ杯の冬木や高野俊二の映像は顔隠しで「プロレスニュース」内で放送されたが、顔隠しだけでなく、テロップの冬木や高野の名前の部分を禁マークで隠していた他、実況の部分でも効果音で伏せていた。1998年、番組内コーナー「王道リスペクト」(過去の名勝負紹介)で鶴田vs長州の映像を解禁した事を皮切りに、天龍、ザ・グレート・カブキ小林邦昭等の映像を次々と解禁した。
  • 現在は、かつて全日本プロレス中継で放送されたNWA戦などのビッグマッチを、CS放送の日テレG+にて『プロレスクラシック』として放送している。2009年3月まで1か月1回更新だったが、諸事情により、4月からしばらくは更新を途絶えていた。しかし、7月から原則として奇数月に最新作、偶数月に過去放送の番組のアンコールを行うことになった。
  • 2000年6月に番組打ち切りが決定した際、『ニュースプラス1』や『ズームイン!朝』で番組打ち切り決定のニュースを伝えた。その際実況も担当し、なおかつ当時『ズームイン!!』を担当していた福澤朗は、『ズームイン!!』で番組打ち切り決定のニュースを自ら伝えた直後に、この件に関するコメントを寄せた他、後に同じく実況も担当した徳光和夫も番組打ち切り決定に関するコメントを寄せている。この件はプロレスファンばかりでなく、日本プロレス中継からプロレス中継を放送してきた番組関係者や日本テレビ関係者にも衝撃を与えたことが窺い知れる。

[編集] 主な実況アナウンサー

ローカル局アナウンサーは、主としてその地域で行われた大会の実況を担当する。ただし、山本純也・佐藤啓は、関東地区や札幌など、他地区の試合でも実況を担当した。
※川尻(現・益子なお美)は、日本武道館大会で同番組初めての女性実況アナウンサーとして参加した。

[編集] 主な解説者

[編集] 登場ゲスト

 等

[編集] スタッフ

  • プロデューサー:石尾栄二、森田貴之、今泉富夫ほか
  • 制作:原章
  • ディレクター:梅垣進、桜井純一、長尾泰希、村上和彦岩崎泰治ほか
  • 制作協力:NTV映像センター(地方大会の場合、札幌テレビ、中京テレビ、読売テレビ、テレビ新潟、福岡放送など、番組を放送するネット局(独立UHF以外の番組販売ネットを含む)も協力としてクレジットされていた)
  • 製作著作:日本テレビ

[編集] ネット局

この他にも、1990年代の30分短縮以後に、テレビ埼玉千葉テレビといった、関東の独立UHF局が時差ネットをしていたこともある。

[編集] ネット局に変更などがあった地域

[編集] ネット局について

  • 土曜20時台や土曜19時台に放送されていた頃はほとんどの日本テレビ系列局が同時ネットで放送していたが、土曜17:30 - の時代やゴールデンタイムを再度外された1988年4月以降は同時ネット局が減少した。
  • また日本テレビ系列局がある地域でも、放送枠の関係で同一地域の他系列局で放送されるケースもあった。
  • 当番組を放送していたNNS非マストバイ局やクロスネット局、そして他系列局の中には、当番組の他にもテレビ朝日系『ワールドプロレスリング』も放送していた放送局もあったため、1局だけがプロレス中継を放送していた地域もあった。
  • 当番組の打ち切り後の後枠は『コロッセオ』だが、ミヤギテレビでは2000年7月2日に当番組の最終回を放送し、最終回放送直後に『コロッセオ』の初回を放送した(同年7月9日以降は当番組が放送されていた時間に移動)。

[編集] 番組スポンサーに関する特筆事項

日本プロレス時代のプロレス中継(定期番組)は「三菱ダイヤモンド・アワー」の放送枠(当初はディズニーランドとの隔週)で放送されており、長らく三菱電機一社提供だった。元々三菱電機は力道山のスポンサーであり、日本プロレス自体のスポンサーでもあった。テレビマッチのメインイベントの前に、三菱電機製の掃除機(「風神」など)でリング上を掃き清めるというスタイルの生コマーシャルが見られたり、実況の合間に「この放送は、皆様ご覧のテレビジョンを始め、数々の電化(家電)製品でおなじみの三菱電機が、全国の皆様にお送りしています」といった旨のアナウンスが入ったのは、この頃の事である。しかし番組の末期には、三菱電機を筆頭スポンサーとしながら、鈴木自動車、さらに久保田鉄工も提供スポンサーに加わっていた。

馬場は日本プロレスからの独立にあたり、日本テレビだけでなく、中継の提供スポンサーで日本プロレスのスポンサーだった三菱電機との縁も強く主張したが、新たに始まった『全日本プロレス中継』では、三菱電機が提供に付くことはなかった(金曜8時の三菱アワー枠に残り、後継番組である『太陽にほえろ!』のメインスポンサーとなった)。ただし馬場との個人的な縁、全日本プロレスとの縁は継続され、リング上で渡される花束の提供元が三菱電機だったことも多かった(同じ三菱グループに属する三菱自動車工業は、後年、番組提供スポンサーに付いている)。番組は日鐵サッシをはじめとする複数社による提供となり、それも時代の推移と共に目まぐるしく入れ替わった。

主に1970年代の全日本プロレスでは、「オロナミンC」(大塚製薬)、「黄桜酒造」など番組スポンサーをあしらった横幕がリングに張られていた。また、初期のころはダイヤモンドアワーからの名残でメインイベントやオープン選手権(現・チャンピオンカーニバル相当)、世界オープンタッグ選手権(現・世界最強タッグ決定リーグ戦相当)の開会式における選手への花束贈呈の協賛もしており、リングアナウンサーや実況席の解説者・アナウンサーが「この番組の提供スポンサー(1社ずつ読み上げ)より花束が贈呈されます」とアナウンスしていた。スポンサー付き横幕は1979年3月まで張られていたが、同年4月の土曜17:30枠移動と同時に横幕は「ALL JAPAN PRO WRESTLING 日本テレビ」に変更された(2000年6月の当番組終了まで)。

余談だが、三菱電機・鈴木・久保田(金8)・三菱自工・大塚(土8)とも、プロレス撤退以後の後継番組でも協賛を続けていた。

[編集] 備考

  1. ^ 中京広域圏での第1回の放映は中京テレビ放送が2日遅れ(10月9日)の19:00から行った(第2回以降は日本テレビと同時ネット)。理由については名古屋テレビ放送の沿革の項を参照のこと。
  2. ^ 旗揚げ戦よりも先に発進した全日本プロレス中継東京スポーツ 2010年6月16日
日本テレビ 土曜20時枠
前番組 番組名 次番組
全日本プロレス中継
(1972年10月 - 1979年3月)
土曜スペシャル
(19:30 - 20:54)
日本テレビ系 土曜20:54-20:55枠
黒帯風雲録 柔
(20:00 - 20:56)
全日本プロレス中継
(1972年10月 - 1975年9月)
【1分縮小して継続】
NNNニューススポット
(20:54 - 21:00)
【1分拡大して継続】
日本テレビ系 土曜17:30-18:24枠
時間だヨ!アイドル登場
(17:30 - 18:00)
ヒット'79
(18:00 - 18:30)
全日本プロレス中継
(1979年4月 - 1985年9月)
日本テレビ系 土曜19時枠
ルパン三世 PartIII
(19:00 - 19:30)
※ここまで読売テレビ制作枠
土曜トップスペシャル
(19:30 - 20:54)
全日本プロレス中継
(1985年10月 - 1988年3月)
日本テレビ系 日曜22:30 - 23:26枠
全日本プロレス中継
(1988年4月 - 1990年3月)
V・宇宙からの侵略者
(海外ドラマ再開)
日本テレビ プロレス番組
日本プロレス選手権特集
(約3か月の空きあり)
全日本プロレス中継
個人用ツール
名前空間

変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス