後楽園球場
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| 後楽園球場 Kôrakuen Stadium |
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|---|---|
| 施設データ | |
| 所在地 | 東京都文京区 |
| 開場 | 1937年9月11日 |
| 閉場 | 1987年11月9日 |
| 所有者 | |
| グラウンド | 人工芝(1976年~閉場)、 天然芝(~1975年) |
| 設計者 | 古橋柳太郎 |
| 使用チーム • 開催試合 | |
| 読売ジャイアンツ(開場~閉場) 大和軍(1937年~1943年) 大映ユニオンズ(1946年~1957年) 日本ハムファイターズ (1948年~1953年、1964年~閉場) 中日ドラゴンズ(1948年) 国鉄スワローズ(1950年~1963年) 大毎オリオンズ(1950年~1962年) |
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| 収容能力 | |
| 30,000人(開場時) | |
| グラウンドデータ | |
| 球場規模 | 両翼 - 公称:90 m(約295.3 ft) 実測:87.8 m(約288.1 ft) 中堅 - 公称:120 m(約393.7 ft) 実測:120.8 m(約396.3 ft) |
| フェンス | 不明 |
後楽園球場(こうらくえんきゅうじょう、英語:Korakuen Stadium)は、日本の東京都文京区にかつてあった野球場。正式名称は「後楽園スタヂアム」。株式会社後楽園スタヂアム(現社名・株式会社東京ドーム)が管理していた。
目次 |
[編集] 歴史
「日本初の職業野球」日本運動協会(芝浦協会)の創始者で、かねてからフランチャイズ制を提唱していた河野安通志や押川清は、職業野球専用の新球場を建設しようと計画。東京砲兵工廠が移転したため空き地になっていた国有地を払い下げで取得し、東京巨人軍の正力松太郎や阪急電鉄の小林一三らの出資を仰いで、球場直属の野球部である後楽園イーグルスの本拠地として、また日本初の内野二階建てスタンドを持つ野球場として建設された。しかし正力が最大の出資者となったため、東京巨人軍が優先使用権を獲得し、イーグルスは二番手に甘んじた。程なくして球場とイーグルスの不和によりフランチャイズは解消され、1940年頃からは完全に東京巨人軍のホームグラウンドとなる。
第二次世界大戦末期には球場は軍に接収され、グラウンドではジャガイモやトウモロコシが栽培され、二階席には高射砲が設置された。終戦後には兵器集積場になり、その後アメリカ軍に接収された。それでも1945年には早くも早慶戦が開催されるなど、野球はすぐに再開された。
1950年にはナイター設備を設置。1958年には両翼を78mから90mに拡張するなど施設の整備に努めた。ただし実測はもっと狭く、外野に向かって下向きに傾斜している[1]こともあって打者に有利な球場だった。そのため両翼・センターの距離表示が消去されたという経緯もある。
1950年代は読売ジャイアンツ、国鉄スワローズ、東急フライヤーズ、毎日オリオンズ[2]、大映ユニオンズの5球団が本拠地として構えるなど日本一の球場の名を縦にした。1960年代には国鉄が明治神宮野球場、大毎が東京スタジアムへと移転するものの巨人戦の大きな観客動員数に支えられ、日本野球のメッカとしての不変の地位を得た。
特に、日本最多のホームラン数を誇る王貞治は節目となるホームランの多くをこの球場で放った。特にハンク・アーロンが保持する大リーグ記録を超える756号(1977年)と世界初の800号達成(1978年)の時には、達成直後や試合終了後にセレモニーが催された。
王が当球場で達成した節目のホームラン
- 1959年 - 公式戦第1号(国鉄戦)、長嶋茂雄とのONアベックホームラン第1号(阪神戦・天覧試合)
- 1974年 - 最後のONアベックホームラン(106回目 中日戦・長嶋引退試合)
- 1976年 - ベーブ・ルースの持つ全米2位の記録に並ぶ714号と、それを超える715号(2本とも阪神戦)
- 1977年 - ハンク・アーロンの持つ全米1位の記録に並ぶ755号(大洋戦)と、それを超える756号(ヤクルト戦)
- 1978年 - 世界初の800号(大洋戦)
- 1980年 - 世界初の850号(広島戦)、最後のホームラン(868号 ヤクルト戦)
施設整備も進み、1966年には内野に天然芝を敷設し、1970年にはスコアボードを電光掲示化。1976年には人工芝を敷設した(後ろの二つは日本の野球場としては初)。しかしセントラル・リーグの巨人戦の動員力の大きさとは対照的に、パシフィック・リーグに所属していた東映→日拓→日本ハムの観客動員数は振るわなかった。オーロラビジョンが完成した1981年の日本シリーズは巨人 - 日本ハムの顔合わせとなり、史上初めて日本シリーズが同一球場で開催された。
1980年、巨人軍そして日本プロ野球を支えたONこと王貞治と長嶋茂雄がそれぞれ現役引退そして監督辞任したことによりON時代が終焉を迎えた。しかし二人の功績を讃え、1981年から閉場の1987年まで1番ゲートは「王ゲート」、3番ゲートは「長嶋ゲート」と称された。また閉場の際に1塁ベースは王に、3塁ベースは長嶋に寄贈されている。なおゲートの名称は閉場とともに一旦消えるが、後継の東京ドームの開場10周年記念として1998年より1・3番ゲートにそれぞれ復活した。
また、社会人野球でも、都市対抗野球大会の開催地として、1938年から1987年まで使用された。
プロ野球球場として興行を行う一方でボウリング場、場外馬券売場、遊園地、屋内運動場などの施設も建設された。1949年11月には、球場に隣接する後楽園競輪場にて東京都主催による競輪が開催された。競輪は戦後復興期の都財政を支えたが美濃部亮吉東京都知事の公営競技廃止方針に伴い、1972年3月に休止。跡地は夏季にはプール、それ以外のシーズンにはゴルフ練習場として活用され、その後、同地に東京ドームが建設された。
コンサートでも数多く利用され、日本初のスタジアムライブとなった1968年8月12日のザ・タイガース公演を端緒として、西城秀樹、矢沢永吉、アリス、キャンディーズ、ピンク・レディーなどの国内アーティストの他、エマーソン・レイク・アンド・パーマー、フリー、グランド・ファンク・レイルロード、サイモン&ガーファンクル、マイケル・ジャクソン、マドンナ、スティーヴィー・ワンダー、デュラン・デュラン、ライオネル・リッチー、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースなどの欧米のスーパースターが大規模コンサートを行ない、コンサート以外でもアメリカ横断ウルトラクイズなどの巨大なイベントで使用された。
競輪場跡に東京ドームが建設されたことで球場としての役割をドームに譲り、1987年11月8日に開催された巨人ファン感謝デーのイベントを最後に閉鎖・解体された。このイベント終了後、スタンドの椅子などを取り外して持ち帰ったファンもいたと言われている。跡地は駐車場として用いられた後、プリズムホールや東京ドームホテルが建設された。最後のパ・リーグ公式戦は1987年10月13日の日本ハム-近鉄戦で、近鉄の吉井理人が初完投勝利を挙げている。最後のセ・リーグ公式戦は10月19日の巨人-広島戦で吉村禎章がボールカウント2-4からのホームランを記録している。最後のNPB主催試合は10月30日の日本シリーズの巨人-西武第5戦で、最後の投手は西武の工藤公康、最後の打者は篠塚利夫である(結果は三振)。
後楽園球場でプレーした(プロ野球一軍公式戦に限る)ことのあるNPBに籍を置く現役選手は現時点で工藤公康(当時西武、現:横浜)と山本昌広(中日)のふたりのみとなっている。
日本プロ野球(日本野球連盟・日本野球機構)史上、後楽園球場での開催試合数7172試合、本塁打10416本は現在でも一番の数である。
[編集] 球場設備の歴史
- 1937年9月11日 - 開場。日本初の内野二階建てスタンドを持つ野球場として注目を浴びた。完成時の両翼は85m。中堅は114mとされている。同時に初代のスコアボード完成。
- 1945年 - 東京大空襲により初代スコアボードの一部が焼失。
- 1949年 - スタンドの盛り土部分を改築し2代目スコアボード完成。
- 1950年 - ナイター設備完成(照明塔の数は内野4・外野4)。
- 1953年 - 外野のポール付近に「アンラッキーネット」設置される(1957年に撤去)。関根潤三によれば大リーグとの親善試合で、本塁打を打たれないようにするため。
- 1958年 - グラウンド拡張工事が完成し両翼90m、中堅120mに。同時に外野フェンスに距離表示の数字が書かれるがこの時点ではヤード・ポンド法によるものだった。
- 1959年 - 外野フェンスの距離表示がメートル法に変更される。
- 1961年 - 外野グラウンドの芝生を張り替える。マウンド下にスプリンクラー埋設。
- 1962年 - バックスクリーン裏に噴水が設けられる(1970年に撤去)。
- 1965年 - 内野グラウンドに芝生を貼る(いわゆるダイヤモンドターフ。初期は一部が土だが後に全面芝となる)。同時に内野ファウルゾーンの一部とバックネット裏にも芝を貼ることとなる。
- 1967年 - フェンスに危険防止のため金網を張る。
- 1968年 - 記者席を拡張し屋根を取り付ける。内野席をプラスチック椅子式に変更。
- 1969年 - 内野二階部分のスタンド外壁塗装を白色に変更。
- 1970年 - 内野二階席が拡張され新設部分は旧来のものより席数が多くなり(いわゆるジャンボスタンド)、照明塔も小さいものが2つ×2基に変更される。同時に日本初の全電光式スコアボードが完成。基本コンセプトは手書きだった2代目がベース。
- 1971年 - フェンスがラバーフェンスとなる。バックスクリーン裏に可動式のスクリーンが設置される。
- 1973年 - 風向表示塔(通称エキサイティングタワー)がスコアボード脇に二機設置される。
- 1974年 - 外野スタンド照明が大きいもの2基に改築され同時に内野の2基も改築される。人工芝設置のテストのため内野ファウルゾーンの土部分を人工芝に張り替える。
- 1976年3月1日 - 日本初の全面人工芝グラウンド完成。
- 1979年 - オーロラビジョン設置のテストのため全電光式スコアボードの自由文字表示部分をモノクロ映像表示可能のものに改良。
- 1981年 - オーロラビジョン設置。
- 1984年 - 人工芝を透水性のものに張り替える。
- 1987年11月8日 - この日を以て閉場。球場解体後の跡地は駐車場になり、現在は東京ドームホテル、東京ドームシティが建つ。
[編集] スコアボードの歴史
初代は1937年~1948年の12年間に渡って使用された。この当時は現在の球場でいうバックスクリーン付近全体を利用したもので、メインのスコアボードは15回まで記入でき、その下に第1、2試合目のスコアが記入できるスペース(各試合につき9回まで)があった。
選手名の表示は得点表示の上に横スクロールで記載された。その後空襲被害を受けたため1946年のシーズン開始時に作り直したが前試合のスコア表示はできなくなった。1942年の名古屋軍-大洋軍の試合が延長28回という日本プロ野球最長延長試合になった時には15回までの表示では間に合わず、16回から後のイニングは下段に表示した。
2代目は1949年~1969年の21年間に渡って使用された。スタンドの土盛り工事を行ったことにより、スコアボードの位置も高くした。スコア表示は12回までで、最大2試合分のスコアが表示できたほか、選手表記もスコアボードを挟む形で縦スクロールになった。
また、スコアボードの両端はライオン(当時はライオン歯磨とライオン油脂)の商品(初期はライオン歯磨・ライオン歯刷子)が書かれていた。スコアボードの真ん中下は大正製薬のワイパア(現在は白元)だったが、後期はリポビタンDの広告が表示されるようになった。この間、スコア表示の下段部を他球場のスコアの表示に変更、得点の数字の字体、およびスコア表示部のチーム名表記(ローマ字)の文字色の変更(白→黄色)といったマイナーチェンジが行われた。[1]
3代目は1970年~1987年の18年間に渡って使用された。この3代目からスコアボードは電光掲示式に変更され、コンセプトは2代目のスコアボードがベースとなった。スコア表示は1試合のみ最大10回まで。合計スコア・ヒット・エラーの表示が可能となる。パ・リーグの指名打者制度導入(1975年)以後、パ・リーグの試合のみ投手の表示はチーム名の部分に掲載し、指名打者の選手の守備番号部分は無表示であった。[2] スコアボード上部はフリーボードで、1981年からオーロラビジョンが採用される。選手名表示などのドットは粗く、画数の多い文字を表示することができなかったため、広島の高橋慶彦は「高橋ょ」(のちに表示可能に)、審判の鷲谷亘は「ワシ谷」と表記されていた。なお供用開始の1970年4月に行なわれた金田正一の引退試合を兼ねたオープン戦では選手表示をせず、審判名は手書きの白地ボードを貼り付けて試合を行なっていたことが当時の映像に残っている。
また、バックスクリーンには長年フコク生命の広告がかけられていた。初期のころは電光掲示(ホームランが出た場合は「HOMERUN」の文字も)だったが、その後回転広告のものになり、その上にホームランが出た場合「おめでとう ホームラン」の電光掲示が出ていた(この表示は東京ドームに引き継がれる。ただし、「おめでとうホームラン フコク生命」に変更された)。
サブスコアボード(得点盤のみ)もあった。当初は手書きパネルでネット裏2階席最上段にあったが、その後3塁側1階席に電光掲示されたものに変更された。
[編集] 広告表示の歴史
- ※レフトフェンスからライトフェンスの広告のみ取り上げる。
- 1950年~1954年 トリスウイスキー、ラジオはナショナル、サロメチール、東邦生命、富国生命、森永ミルクキャラメル、さくらフィルム、胃腸にわかもと、富士フイルム、日本火災海上、東京芝浦電気、大和證券
- 1955年~1959年 トリスウイスキー、ナショナル冷蔵庫、サロメチール、東邦生命、富国生命、森永キャラメル、さくらフィルム、胃腸にわかもと、富士フイルム、日本火災海上、東芝洗濯機、大和證券
- 1960年~1962年 トリスウイスキー、テレビはナショナル、サロメチール、東邦生命、富国生命、森永チョコレート、さくらフィルム、胃腸にわかもと、富士フイルム、日本火災海上、東芝掃除機、大和證券
- 1963年~1966年 サントリービール、ナショナル電気冷蔵庫、サロメチール、東邦生命、富国生命、森永チョコレート、さくらフィルム、強力わかもと、富士フイルム、日本火災海上、東芝冷蔵庫、大和證券
- 1967年~1969年 サントリービール、ナショナルパナカラー、サロメチール、東邦生命、富国生命、森永エールチョコレート、さくらカラー、わかもと製薬、フジカラー、日本火災海上、東芝カラーテレビ、大和證券
- 1970年~1972年 サントリービール、ナショナルパナカラー、サロメチール、東邦生命、フコク生命、森永ハイクラウンチョコレート、さくらカラー、YOKOHAMA、フジカラー、日本火災海上、XEROX、大和證券
- 1973年~1975年 サントリービール純生、Technics、サロメチール、東邦生命、フコク生命、森永ハイクラウンチョコレート、サクラカラー、YOKOHAMA、フジカラー、日本火災海上、XEROX、大和證券
- 1976年~1977年 サントリービール、Technics、サロメチール、東邦生命、フコク生命、森永ネクター、サクラカラー、YOKOHAMA、フジカラー、日本火災海上、XEROX、大和證券
- 1978年~1980年 サントリービール純生、ナショナルホームビデオ、サロメチール、東邦生命、フコク生命、森永ネクター、サクラカラー、YOKOHAMA、フジカラー、日本火災海上、XEROX、大和證券
- 1981年~1983年 サントリービール純生、ビデオはナショナル、サロメチール、東邦生命、フコク生命、森永ハイクラウンチョコレート、サクラカラー、YOKOHAMA、フジカラー、日本火災海上、FUJI XEROX、大和證券
- 1984年~1986年 サントリー生ビール、ビデオはNational、サロメチール、リョービ、東邦生命、フコク生命、富士通パソコンFMシリーズ、サクラカラー、日本航空、フジカラー、クボタ、日本火災、FUJI XEROX、大和證券
- 1987年 サントリー生ビール、ビデオはNational、ワールド、リョービ、東邦生命、フコク生命、パソコンは富士通、コニカカラー、日本航空、フジカラー、クボタ、日本火災、FUJI XEROX、大和證券
- ※2008年現在、東京ドームのフェンス広告のスポンサーで後楽園時代から出しているのはサントリー、パナソニック、フコク生命、コニカミノルタ、クボタ、日本興亜損保、大和証券の7社である。
[編集] ベンチ広告の歴史
- ※ミズノ、森永製菓は東京ドーム完成後もベンチスポンサーを長く務めていたが、1997年限りで降板し後楽園時代からのスポンサーは2009年現在、キーコーヒーのみである。また、資生堂は東京ドームの完成後はバックネット広告に専念している(1996年限りで降板)。
[編集] 放送席
バックネット裏には、1957年頃に設置された放送席(いわゆるゴンドラ席)があり在京の各放送局が所有。席下には所有している局のロゴマークが書いてあった。席順は、設置当初~1966年頃は一塁側からRKB毎日放送、毎日放送、朝日放送、中部日本放送、貴賓席を挟んでTBS、日本放送協会(NHK)、日本テレビ、ニッポン放送、文化放送、日本短波放送(NSB)、北海道放送、ラジオ関東。1967年頃~閉場までは前述の中部日本放送までの4席が空白となり(空白のゴンドラ席は後に、日本短波放送→ラジオたんぱやテレビ東京、テレ玉、tvk、チバテレビ、中京テレビ(副音声における中日応援実況)、よみうりテレビ(副音声における阪神応援実況)などが使用)、一塁側からTBS、NHK、日本テレビ、ニッポン放送、文化放送、ラジオ日本、テレビ朝日、フジテレビ。
[編集] 後楽園球場と日本シリーズ
後楽園において、日本シリーズは1950年の第1回から、1987年までの間で、巨人軍主管試合を中心に28回にわたって開催されてきた。これは歴代の日本シリーズ開催の球場の中で最多の開催回数である。(1981年は巨人と日本ハムの2チームがともに後楽園を本拠としていたため史上唯一の1球場単独開催だった。次の項と、1981年の日本シリーズ参照。1950年、1962年、1974年、1978年は特殊例外により、巨人など本来の本拠チーム以外のチームが主催した試合を開催)
[編集] 幻の後楽園シリーズ
1981年、当時後楽園を本拠地球場としていた巨人と日本ハムが揃ってリーグ優勝を決め、日本シリーズは後楽園だけで開かれた「後楽園シリーズ」となった。これは史上唯一の出来事である。
だが、これ以前にも3回「幻の後楽園シリーズ」が実現する可能性があった。1961年の巨人 - 東映、1974年と1977年の巨人 - ロッテ、1978年のヤクルト - 日本ハムが仮に実現した場合、以下の取り決めで後楽園のみを使う可能性があった。
- 1961年:東映は当時駒沢球場を本拠地としていたが、駒沢球場は1964年東京オリンピック開催に備えてスポーツ公園(駒沢オリンピック公園)の整備を実施するため閉鎖されることが決まっており、東映主催の第1戦は駒沢で開くも、それ以後は後楽園で開催される予定になっていた。
- 1974年、1977年:ロッテは当時実質的な本拠地球場を県営宮城球場としていたが、施設やキャパシティー上の問題が生じたため、ロッテ主催ゲームは後楽園で開催される取り決めとなった。
- 1978年:ヤクルトの本来の専用球場である神宮球場が、東京六大学野球連盟との日程調整が付かず、やむを得ずヤクルト主催の4試合が後楽園で開催されることになっていた。
しかし、1961年は南海が、1977年と1978年は阪急がそれぞれパ・リーグを制し、1974年は中日がセ・リーグを制したため、後楽園シリーズは幻となった。
[編集] 日本シリーズ退場事件
1969年には日本シリーズ初の退場事件がおきた。巨人2勝1敗で迎えた10月30日、第4戦が後楽園球場で開催された。阪急3点リードの4回裏、巨人は無死一・三塁のチャンスを作った。ここで長嶋茂雄は三振に倒れたが、王貞治と土井正三がダブルスチールを敢行。阪急捕手の岡村浩二は二塁へ送球し、二塁手の山口富士雄が受け取る。土井が本塁へ突入してきたのを見て、山口はすばやく岡村に返球してきた。岡村は土井を完璧にブロックしており、完全にアウトと思われたが、岡田功球審の判定は「セーフ」。この判定に激怒した岡村は岡田球審の顔面を殴打。シリーズ初の退場処分を受けた。
このトラブルの後、流れが変わり最終的に9 - 4で巨人が勝った。試合後、岡田球審は周囲から大いなる非難を浴びせられる。岡田球審自身も「もしかしたらミスジャッジだったかもしれない」と考え、一時は辞表を提出することも考えた。しかし、翌日のスポーツ紙に土井の左足が岡村に跳ね飛ばされる前にしっかりとホームを踏んでいたシーンの写真が掲載されたことで、「誤審」と思われた岡田球審の問題の判定は正しかったことが証明され、周囲からの非難は沈静化。岡田球審の的確なジャッジが高く評価されるようになった。
「1969年の日本シリーズ」も参照
[編集] 大相撲本場所の開催
太平洋戦争(大東亜戦争)中の2度、大相撲の本場所の会場となったことがある。両国国技館(初代)を軍に接収された相撲協会の苦肉の策で、当然「晴天10日間」の興行だった。マウンドに急ごしらえの土俵をつくったと当時の関係者の証言が残る。ただし、後楽園での開催は幕内・十両の取組だけで、幕下以下は、5月は両国国技館、11月は神宮外苑相撲場で、日程を前倒しして非公開で開催された。
- 昭和19年5月場所
- 双葉山定次と羽黒山政司の立浪部屋の両横綱が優勝を争った。双葉山が9日目に照國万藏に破れ、決定戦制度のなかった時代、番付上位者優勝の制度だったために、羽黒山の2度目の優勝が決まった。千秋楽も勝って10戦全勝。
- 昭和19年11月場所
- 野外での興行であるため、力士の体調管理に配慮し、翌年1月場所を前倒しして開催したもの。大関前田山英五郎と関脇東富士欽壹の高砂一門の兄弟弟子が優勝を争い、9勝1敗の同点、番付上位の前田山の優勝。若瀬川泰二も幕内下位ながら最後まで全勝をつづけたが、三根山隆司に敗れ優勝を逃した。
- 双葉山は6日目に東富士に敗れ、翌日から休場。引退を決意したと言われているが、関係者の説得でこの時は翻意した。しかし、結局この後楽園球場での東富士戦が、双葉山の実際に土俵に上がっての最後の敗戦になった。
- 備考
- 後楽園で横綱をつとめた力士は、双葉山定次、羽黒山政司、安藝ノ海節男、照國万藏の4人。後楽園で幕内をつとめて後に横綱に昇進した力士には、前田山英五郎と東富士欽壹がいる。
- 後楽園で大関をつとめたのは前田山と佐賀ノ花勝巳。佐賀ノ花は5月場所の7勝3敗で大関昇進。後楽園場所で誕生した唯一の新大関である。ただ新大関場所となる11月場所では初日から連敗の後3日目から休場、後楽園球場で大関としては1勝もあげられなかった。
- 後楽園球場で最多勝をあげた力士は、羽黒山(10戦全勝+7勝3敗)と前田山(8勝2敗+9勝1敗)でともに17勝である。
[編集] 同球場で開催されたその他のスポーツ大会
[編集] プロボクシング
- 1952年5月19日 - 世界フライ級選手権 ダド・マリノ【
アメリカ合衆国】-白井義男(15回戦) - 1954年11月26日 - 世界フライ級選手権 白井義男-パスカル・ペレス【
アルゼンチン】(15回戦)
[編集] プロレス
[編集] スキー
[編集] モータースポーツ
- 1982年11月23日 - ジャパンスーパークロス
- 1986年11月30日 - ジャパンスーパークロス
[編集] 関連項目
- 東京ドーム
- 東京ドームシティ
- ミーツポート
- 東京ドームホテル
- 日本の野球場一覧
- スーパー戦隊シリーズ(同番組に協賛し、キャラクターショー開催。また大戦隊ゴーグルファイブでは、番組内に後楽園球場が登場した)
- セイコーホールディングス(タイマー表示)
[編集] 脚注
- ^ 江本孟紀の著書「プロ野球を10番楽しく見る方法」([ISBN 4584004676])でもこのことについて言及されている。
- ^ ロッテに球団名が変わった1973年-1977年も、本拠地球場が都内近郊になかった(名目上の本拠は宮城球場)ための特殊例として、巨人と日拓→日本ハムの主催試合が組まれていない空き日程を利用して10試合前後の主催試合を開催した。ジプシー・ロッテ参照
[編集] 外部リンク
| 前本拠地: n/a - |
読売ジャイアンツの本拠地 1937 - 1987 |
次本拠地: 東京ドーム 1988 - 現在 |
| 前本拠地: n/a - |
大和軍の本拠地 1937 - 1943 |
次本拠地: n/a - |
| 前本拠地: n/a - |
大映ユニオンズの本拠地 1946 - 1957 |
次本拠地: n/a - |
| 前本拠地: n/a - |
東急フライヤーズの本拠地 1948 - 1953 |
次本拠地: 駒澤野球場 1953 - 1961 |
| 前本拠地: 明治神宮野球場 1962 - 1963 |
日本ハムファイターズの本拠地 1964 - 1987 |
次本拠地: 東京ドーム 1988 - 2003 |
| 前本拠地: n/a - |
中日ドラゴンズの本拠地 1948 - (1シーズン限り) |
次本拠地: ナゴヤ球場 1949 - 1996 |
| 前本拠地: n/a - |
国鉄スワローズの本拠地 1950 - 1963 |
次本拠地: 明治神宮野球場 1964 - 現在 |
| 前本拠地: n/a - |
大毎オリオンズの本拠地 1950 - 1962 |
次本拠地: 東京スタジアム 1962 - 1972 |

