日本プロレス
日本プロレス協会(にほんプロレスきょうかい Japan Pro Wrestling Aliance 略称:JWA)は、日本のプロレス団体。
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概要[編集]
大相撲関脇からプロレスラーに転向した力道山が1953年に、興行師で興行界のドンと呼ばれた永田貞雄と、関東屈指の顔役である新田新作(生井一家貸元で関東国粋会副幹事長の子分、「新田組」組長。新田建設経営。明治座の社長で経済事件の調停にも活躍)の物心双方の援助・後見によって設立した。この際、スポンサーとして経済界からは萩原吉太郎ら、右翼の黒幕・児玉誉士夫と親しい企業人グループが後援をしている。1973年に興行団体としては機能停止。
力道山が1963年に亡くなった後の協会役員の構成は、会長・児玉誉士夫、副会長・田岡一雄(三代目山口組組長)、町井久之(東声会会長)となっている[注釈 1]。このため浜松より西の興行は田岡、関東は町井、東北以北は児玉の盟友である岡村吾一の影響下にあったとされる。
「日本プロレス協会」及び「日本プロレス興業株式会社」の上に戴いていた「日本プロレスリングコミッショナー」には、自民党副総裁の大野伴睦・川島正次郎らがいた[1][注釈 2]。このコミッショナーは「日本プロレス界全体の」コミッショナーで、東京プロレスなどからも認可申請が出されているが、実際に認可団体とされたのは日本プロレスだけであった。なお、のちに首相となる中曽根康弘とは、力道山が持つリキアパートの一室を事務所とするほどの関係だった[2]。
一時期は日本で唯一とも言えるプロレス団体であり、プロレス界に与えた影響は計り知れない。力道山以後のプロレス界において双璧をなすことになるジャイアント馬場(後に全日本プロレスを創立)とアントニオ猪木(後に新日本プロレスを創立)も、1960年9月30日に日本プロレスで同時デビューしている。また、後に国際プロレスを創立した吉原功も日本プロレスの元レスラーだった。平成になってからの多くのインディー団体も全日本・新日本の元所属レスラーが主体となって興した団体が多く、人脈的にたどれば日本のほとんどの団体が日本プロレスに行き着くことになる。[注釈 3]
略歴[編集]
1953年7月30日、東京日本橋浪花町に設立された「日本プロレス協会」が母体となる。
力道山の時代[編集]
相撲を廃業後、力道山はアメリカへ渡り、帰国後プロレス興行を始める。木村政彦と組みシャープ兄弟と対戦した試合はテレビを通じて全国に中継され話題を呼ぶ。当時の日本には木村政彦の「国際プロレス団」や山口利夫の「全日本プロレス協会」などが存在したが、この2名を直接対決で下した力道山が著名となると、競合団体は相次いで消滅。日本プロレスがほぼ唯一と言っていいプロレス団体となった。
1957年には世界ヘビー級チャンピオンであった“鉄人”ルー・テーズの招聘に成功。その翌年に力道山は渡米してテーズとの再戦に挑み、インターナショナル・ヘビー級王座を獲得。日本プロレスにおける看板タイトルとして、防衛戦を行った。
テーズの招聘後、一時期人気が下火になるものの、1959年にワールド・リーグ戦を開催。グレート東郷をブッカーとして迎え、世界からチャンピオンクラスの大物選手を招聘して興行は成功、崩壊前年まで『春の看板イベント』として14回行われた。1961年には常設会場であるリキ・スポーツパレスが完成している。
豊登の時代[編集]
力道山の死後、当初は力道山未亡人であった百田(田中)敬子が社長となるも、1年後には豊登・遠藤幸吉・吉村道明、芳の里の4人による合議制となり[注釈 4]、社長となった豊登は1964年から1965年にかけてエースとなる。大の博打好きの豊登は、公金を横領し競馬・競輪などギャンブルへ流用するなど放漫経営などにより、1966年1月に尿管結石の悪化を名目に退職(事実上の追放処分)となる(リング上で凱旋帰国した馬場が豊登に迫る人気を得ていたことも大きかった)。豊登は猪木を引き抜いて東京プロレスを設立するも、興行不振に加え、そこでも公金を私的に流用するなど経営が立ち行かず短期間で崩壊。また当時取締役営業部長だった吉原功も、経営路線の対立[注釈 5]が元で同社を退社、国際プロレスを設立している。国際プロレスは二番手団体として日本プロレスと競合するが、日プロ崩壊の9年後1981年に倒産する。
BIの時代[編集]
1966年には、かねてから力道山の後継者と目された馬場が、復活したインターナショナル王座を連続防衛し、エースとなる。
1967年、東京プロレスから復帰した猪木とタッグを組むようになる。同期デビュー同士のタッグは「BI砲」と呼ばれ、力道山死去で一時低迷した人気は、また黄金期の人気を取り戻すようになる。
また、当時東京プロレスへ移っていた猪木の穴を埋めるべく、世界柔道選手権大会日本代表であった坂口征二を獲得。大木金太郎(キム・イル)、吉村道明、山本小鉄、星野勘太郎らが脇を固める充実した選手層を誇った。
日本プロレスは長らく日本テレビが中継していたが、NET(現:テレビ朝日)が参入を希望した。経営陣は収入面から歓迎したが、先行の日本テレビに配慮して「馬場及び坂口の試合を放映しない」「ワールド大リーグ戦の試合を放映しない」ことを条件にして参入を認め、1969年より2局放送体制となる。人気No.1の馬場の試合を中継できないNETは『ワールドプロレスリング』の番組名で、No.2である猪木、大木らを中心とした番組を組んだ。週2回TVのゴールデンタイムに登場するコブラツイストの若獅子猪木の人気が上がり、大スターは馬場だけではなくなった。このことは、馬場・猪木それぞれに派閥を作り、2人の間を裂くきっかけともなった。
崩壊[編集]
2局放送体制となって、経営は引き続き好調を維持していたが、一部幹部に横領などの疑いがもたれ始める。1971年に、これを憂えた馬場・猪木ら選手は、幹部に経営改善要求を突きつける。しかしその結果、会社乗っ取りを図ったとして猪木が除名された(詳しい経緯は上田馬之助の項を参照のこと)。猪木は1972年3月に新日本プロレスを創立する。
これに困ったのがNETである。その放送の中心であった猪木が除名されたため、目玉選手が日本プロレス側の都合で居なくなったことを盾にNETは必然的に馬場の試合中継を要求する。日本プロレス幹部は、NET中継をつなぎ止めるためにこれに応じたが、これに日本テレビ側が激怒、1972年5月にはついに放送を打ち切った(当時のプロレス中継は視聴率も高かったため幹部達は「馬場の試合をNETで放送しても、日本テレビ自体での視聴率も高かったので放送を打ち切ることはないだろう」と目論んでいたらしい)。その結果、日本プロレス中継は以降NETのみの放送となってしまった。日本テレビと関係の深かった馬場は、日本テレビと話を持ち、これを後ろ盾にして独立して8月に全日本プロレスを創立し、同時に日本テレビの中継も『全日本プロレス中継』に移行する。
興行の二枚看板を失った日本プロレスは一気に弱体化することになり、猪木と坂口の会談を契機に、新日本プロレスと日本プロレスを合併する方向で交渉が進められた[注釈 6]。坂口によれば、NETが「猪木・新日本プロレスとの合併を認めなければ中継を打ち切る」と強硬姿勢に出たため合併交渉が急速に進展し、日本プロレスの選手会もグレート小鹿が窓口となりこれに同意したという[3]。その結果、1973年2月6日には両社による新団体設立の記者会見を京王プラザホテルで行なったほどである。
しかし当時、韓国に滞在していて不在だった大木金太郎(当時日本プロレスの選手会長)が反発し、日本に戻り大々的に反対の意向を示したために、一度は合併に承諾した選手会の総意を大半の選手とフロント勢が覆して大木の意見に賛同したため、合併は破談となる。坂口は「裏切り者」扱いされた形で、木村聖裔(後の木村健悟)、小沢正志(後のキラー・カーン)、大城勤(後の大城大五郎)とレフェリーの田中米太郎(桂浜)とともに日本プロレスを離脱し、新日本プロレスへ合流した。この坂口らの移籍に併せた形でNETが日本プロレス中継を3月30日をもって打ち切り、新たに4月6日から新日本プロレスの中継へ移行した。看板選手とテレビ中継を失い、大木や高千穂明久(後のザ・グレート・カブキ)をエースに起用するも、テレビ中継による放映権料の喪失や観客動員も激減したことによる入場料の減収により会社経営も立ち行かなくなり、シリーズ開幕前に長谷川淳三社長は興行活動を断念する意向を示すも、大木ら選手会は「アイアン・クロー・シリーズ」を選手会主催興行として強行。しかし、開幕戦の大阪府立体育会館大会(1973年4月13日、メインは大木vsフリッツ・フォン・エリックのインターナショナル・ヘビー級選手権試合)が記録的な不入りに終わり、翌4月14日に池上本門寺で百田家同席のもと解散記者会見を行い、4月20日の群馬県吉井町大会(「アイアン・クロー・シリーズ」最終戦)をもって興行活動を停止した。
最後まで残った大木ら9選手は、身柄を預けた形の力道山家(百田家)をクッションにして、全日本プロレスに移籍(合流)[注釈 7]。また、興行休止で一旦途絶えた形となった管理タイトル(ユナイテッド・ナショナル選手権(UNヘビー級選手権)、アジアヘビー級選手権、アジアタッグ選手権)も、暫くの空白期間を経て、「復活」という形で全日本プロレスへ継承された。
海外に流出していたインターナショナル・タッグ選手権は、2年後の1975年、馬場・ジャンボ鶴田組が奪還して日本に定着。また、大木が保持して母国・韓国や国際プロレスのリング上でも独自に防衛活動を行ってきたインターナショナル選手権(インターナショナル・ヘビー級選手権)は、1981年、大木の返上により全日本のタイトルとして「復活」した。
興行を失った後も日本プロレスは会社組織として数年間存続し、長谷川社長はNWA会員名簿にそれまで残されていた。
タイトル[編集]
- NWA
- アジア選手権
- 日本選手権
- 日本ヘビー級王座
- 日本ジュニアヘビー級王座
- 日本ライトヘビー級王座
- 日本タッグ王座[注釈 8]
選手権ルール[編集]
NWAルールに則った3本勝負で争われた。力道山時代は「61分3本勝負」であったが、なぜ「61分」だったかは諸説あり。力道山の死後は「60分」に変更。
また、挑戦者が選手権者から2フォール奪った場合のみ選手権奪取となるが、それ以外の結果は選手権防衛となっていた(挑戦者が2本取っても反則が含まれていたり、1本取った後に時間切れとなったり選手権者が棄権するなどして2本目が取れなかった場合も防衛)。
主な所属選手[編集]
- 最終所属選手
- 大木金太郎(金一)
- 高千穂明久(のちのザ・グレート・カブキ)
- 上田馬之助(上田裕司、グレート・イトー)
- グレート小鹿(小鹿信也、小鹿雷三)
- 松岡巌鉄(正剛山、ミスター松岡)
- ミツ・ヒライ(シンガポール遠征時は「フジ・シンタロー」を名乗る。平井伸和の実父)
- 桜田一男(のちのケンドー・ナガサキ、ランボー・サクラダ)
- 羽田光男(のちのロッキー羽田)
- 伊藤正男
- 過去に所属した選手
- 力道山
- 東富士
- 駿河海
- 遠藤幸吉
- 豊登
- 芳の里
- 吉村道明
- 大同山又道
- 大坪清隆(大坪飛車角)
- 吉原功(のち国際プロレス代表)
- ユセフ・トルコ(のちにレフェリー)
- 長沢秀幸(長沢日一)
- 金子武雄
- 土佐の花(竹村正明)
- 玉の川
- 田中米太郎(桂浜のリングネームもある、のち新日本プロレスのレフェリー)
- 阿部修(のち国際プロレスのメインレフェリー、大映映画の専属俳優でもあった)
- 羅生門綱五郎(映画『用心棒』に出演している)
- 吉田川
- 宮島富男
- 藤田山
- 渡辺貞三(のちにメキシコシティで、デビュー前のミル・マスカラスに柔道を指南している[4])
- 比嘉敏一
- 大山博
- 樋口寛治(のち全日本プロレスのメインレフェリー)
- 緑岩
- 長谷川丹治
- 竹下民夫(のち国際プロレスのリングアナウンサー)
- 平野惣一(平野岩吉)
- 本間和夫
- 木戸時夫(木戸修の実兄)
- 輝昇(デビューせず)
- 金栄珠(ジャイアント馬場に勝る身長210cm)
- 萬奇煥
- ミスター珍(出口一)
- ヒロ・マツダ(退団、海外フリー→帰国参戦後に国際プロレスを創設→海外フリー)
- マティ鈴木
- ジャイアント馬場
- 藤井誠之
- 大里巌
- 飯田敏光(のちプロ野球大洋へ入団)
- 駒厚秀(駒角太郎)
- 杉山恒治(のちのサンダー杉山)
- マンモス鈴木(のち国際プロレスのレフェリー)
- 大熊元司(デビュー時は大熊熊五郎)
- 木村政雄(のちのラッシャー木村)
- 山本小鉄(山本勝)
- 田中忠治
- 坂口征二
- 草津正武(草津清正)
- 北沢幹之(のちの魁勝司、デビュー時は高崎山猿吉、ほかに新海弘勝など)
- ミスター・ヒト(安達勝治)
- 林牛之助(ミスター林、のち全日本プロレスのレフェリー)
- 斎藤昌典(マサ斎藤)
- アントニオ猪木(猪木完至)
- 柴田勝久(柴田勝頼の実父)
- 星野勘太郎(星野赳夫)
- 永源遙(永源勝)
- 轡田友継(のちのサムソン・クツワダ)
- 戸口正徳(のちのタイガー戸口、キム・ドク)
- 百田光雄
- 木戸修
- 佐藤昭雄
- 藤波辰巳(のちの藤波辰爾)
- 木村聖裔(のちの木村健悟)
- レフェリー・リングアナ
- メイン・レフェリー:沖識名
- レフェリー:九州山
- レフェリー:ハロルド登喜(ハワイ出身の元レスラー、日本名は登喜輝房。日本ヘビー級王座決定戦・力道山vs木村政彦戦を務める)
- レフェリー:ユセフ・トルコ(前述)
- リングアナウンサー:阿久津直義(第1回ワールド大リーグ戦決勝戦・力道山vsジェス・オルテガ戦を務める。のちプロボクシングのリングアナウンサーとなり、藤猛や柴田国明の世界タイトルマッチ=藤猛の世界ジュニアウエルター級タイトルマッチなど=を務める)
- リングアナウンサー:小松敏男(力道山最後のテレビ中継となった1963年12月2日のインターナショナルヘビー級選手権試合・力道山vsザ・デストロイヤー戦=実況は日本テレビ・清水一郎アナウンサー=を務める。のち東京プロレスへ移籍)
- リングアナウンサー:篠原長昭(立教大学在学中は応援団の団員だった)
日本プロレス中継[編集]
| 日本プロレス中継 | |
|---|---|
| ジャンル | プロレス実況中継番組 |
| 放送国 | |
| 制作局 | 日本テレビ |
| オープニング | 「日本テレビスポーツのテーマ」 |
| プロレス・ファイトメン・アワー | |
| 放送時間 | 土曜17:00 - 18:00(60分) |
| 放送期間 | 1957年6月15日 - 1958年3月8日 |
| テレビ中継・プロレス国際大試合 →プロレスリング中継 |
|
| 放送時間 | 隔週金曜20:00 - 21:00→20:56 |
| 放送期間 | 1958年9月5日 - 1968年2月9日 |
| プロレスリング中継 | |
| 放送時間 | 隔週金曜23:00 - 23:45 →22:30 - 23:15 →22:20 - 23:15(45分→55分) |
| 放送期間 | 1961年8月25日 - 1968年2月16日 |
| プロレスリング中継 →日本プロレス中継 →日本プロレス選手権特集 |
|
| 放送時間 | 金曜20:00 - 20:56(56分) |
| 放送期間 | 1968年2月23日 - 1972年7月14日 |
日本テレビによるテレビ中継 (概史)[編集]
創成期[編集]
- 1954年2月19日、この日より3日間にわたって蔵前国技館で行われた、日本プロレス協会の旗揚げ戦を 『力道山・木村政彦対シャープ兄弟プロレス実況』として放送。
- これが日本テレビの初の中継となった。以後、不定期にプロレス中継を放送する。
- 当初は定期的な中継枠は作らず、主要な試合のみを、特別に枠を設けて生中継を行うスタイルだった。提供スポンサーもその都度変わっていた。
- (上記に先駆けて、1954年2月16日の19:45 - 20:15には、『プロ・レスリングの見どころ』という番組を放送した。当時のテレビ欄には「解説・伊集院浩、実演・木村政彦、力道山」〔原文まま〕とあり、「プロレス映画を上映し、力道山、木村選手らによる解説を行った」と社史にはある)
- 1957年6月15日、日本テレビのみで『プロレス・ファイトメン・アワー』のタイトルで、週1回の定期番組を開始。
- 土曜日17時台からの1時間枠で、若手選手の育成と、スポーツとしてのプロレスの人気の高揚をはかることを目的とした。従って主に放映されたのは、東京・日本橋浪花町の日本プロレス・センターで行われる、若手選手の試合や、力道山の「練習試合」などであった。
- この『ファイトメン・アワー』は当初、諸般の事情で提供なしで始まったが、同年7月第3週から三菱電機がスポンサーに付いた。
- ただし、タイトル戦などの主要な試合は相変わらず、特別枠を設けての放映という形をとった。折から各地に民放テレビが開局し始め、この特別枠の中継を同時ネットする地方局も出始めた。
- (なお、大阪の初の民放テレビ「大阪テレビ放送」でも、1957年末に自社製作による独自のプロレス番組「プロレスアワー」が開始されている。月1回の生番組だった)
『三菱ダイヤモンド・アワー』へ内包・「金8枠」定着[編集]
- 1958年8月29日、外国テレビ映画『ディズニーランド』の第1回より、三菱電機提供による金曜20時台枠『三菱ダイヤモンド・アワー』が開始される。
- 翌週の9月5日、これと同じ枠で、蔵前国技館で行われた、力道山出場の「国際試合第1日」を中継。
- これが第1回となり、以降、『プロレスリング中継』のタイトル(ただし初期は『テレビ中継・プロレス国際大試合』)で、隔週でテレビ中継を行っていく。
- ここに本格的に、定期中継番組の体制が整う。
- 当初は外国テレビ映画『ディズニーランド』(前述)との1週交代での放映。またネットを含めた放映局は、日本テレビ・読売テレビ ・西日本放送 ・テレビ西日本のわずかに4局のみだった。
- 1959年か1960年には、プロレスのカラーでの中継放送を開始する。
- 1961年8月25日、前述の 『ディズニーランド』を放映する週において、金曜22時台の枠を新設した。
- (初回は23:00 - 23:45、以後は22:30 - 23:15→22:20 - 23:15)
- これで毎週『プロレスリング中継』が放映される形となった。
- この枠は、開場したばかりのリキ・スポーツパレスでの試合を中心にした、録画中継が主体。
- 録画中継ということからか、この枠の新設を機に、『プロレスリング中継』の時差ネットを始めた地方局もあった。
- 1962年、カラー放送が実施されていた初期のころ、フレッド・ブラッシーの試合中に対戦相手が流血する事故があり、それを見ていた老人若干名(2人とする説や4人とする説など諸説ある)がショック死する痛ましい事故があった。この影響でカラー放送は一時自粛することになる。
- 1963年5月24日に放送された「WWA世界選手権・ザ・デストロイヤー対力道山」は、関東地区で視聴率64.0%(ビデオリサーチ調べ)を記録し、これは現在に至るまで日本テレビの史上最高視聴率となっている。
- 1963年10月より20時56分 - 21時00分枠(日曜は90分番組『日曜ロードショー』のため21時26分 - 21時30分)に『NNNニューススポット』が設置されたため、『ディズニーランド』と共に放送時間が4分短縮。
毎週「金8枠」放送へ[編集]
- 1968年2月16日、「ディズニーランド」がこの日を最後に、『三菱ダイヤモンドアワー』枠(金曜20時台枠)から離脱。
- これにより翌週2月23日から、毎週金曜日20時にプロレス中継が定着。
- (これに伴い同2月16日を最後に、隔週金曜22時台の45分枠が廃止)
- 1969年7月2日、NETテレビ(現・テレビ朝日)において、『ワールドプロレスリング』が月曜21:00 - 21:56(後に月曜20:00 - 20:56に移動)の時間帯で開始。前述の通り日本テレビはNETテレビとの2局間協定で、ジャイアント馬場と坂口征二の試合や、ワールドリーグ戦などのビッグマッチの放映権は維持した一方で、アントニオ猪木と大木金太郎の試合は前述のビッグマッチ以外は、原則NETテレビに移行されることになった(ワールドプロレスリング#日本プロレス中継時代も参照)。
- 1969年途中(正式年月日不詳)、『プロレスリング中継』から『日本プロレス中継』に番組タイトルを変更。
番組終了[編集]
- 1972年4月1日、日本テレビが東京地裁に、ジャイアント馬場のNETテレビ中継試合への出場を禁ずる仮処分申請を提出。
- その前に日本プロレスの取締役会にて、同年4月1日以降の馬場のNET中継試合出場が、賛成10・反対1で可決されていた(馬場も取締役だったが、唯一反対票を投じた=「BIの時代」「崩壊」の項を参照のこと)。一方NETテレビは、4月3日放送の『ワールドプロレスリング』にて「ジャイアント馬場初登場」と銘打ち、馬場の出場した試合を放送してしまった。
- その後の日本テレビと日本プロレスとの話し合いも、馬場の日本テレビ独占契約の解釈をめぐり、「継続中」とする日本テレビと、「終了」とする日本プロレスとで、平行線をたどった。いよいよ日本テレビは、強硬手段をとるに至る。
- 1972年5月12日、第14回ワールド大リーグ戦決勝戦(馬場対ゴリラ・モンスーン戦ほか、東京体育館)を生中継。
- この3日後(5月15日)に日本テレビは記者会見で、定期中継の打ち切りを正式発表したため、これが最後の「日本プロレス中継」となる。
- 最終的には全国31局ネット、また番組スポンサーも、三菱電機だけでなく、鈴木自動車、久保田鉄工が付いていた。
- 1972年5月19日、この日より過去の名勝負を振り返る『日本プロレス選手権特集』と銘打った番組を開始。
- 1972年7月14日、『日本プロレス選手権特集』が、この日をもって全9回の放送を終了(これで一旦、日本テレビからプロレス番組が消滅)。
- なお日本プロレスの実況生中継は、日本テレビの『日本プロレス』打ち切り発表当日である1972年5月15日からNETテレビの独占放送となり、同年7月28日からは『日本プロレス中継』亡き跡の「金8枠」に『NET日本プロレスリング中継』という日本プロレスの中継枠を新設し、同年9月まで月・金曜の週2回放送を続け、同年10月からは「金8枠」に統合のうえ『NET日本プロレスリング中継』にタイトルを一本化し、1973年3月30日まで放送した。
主な実況アナウンサー[編集]
- 佐土一正(1954年 - 1963年?)
- 越智正典(1954年 - ?)
- 江本三千年(1954年 - ?)
- 大平和夫(1957年 - ?)
- 清水一郎(1957年 - 1972年、「日本プロレス中継」終了後、「全日本プロレス中継」の実況を1978年まで務める)
- 徳光和夫(1964年 - 1972年、「日本プロレス中継」終了後、「全日本プロレス中継」の実況も務める)
主な解説者[編集]
日本テレビによる中継番組ネット局[編集]
- 地方において民放テレビが続々と開局した、1950年代後半から1960年代前半にかけては、日本テレビとラジオ東京テレビ(現 TBSテレビ)の両局が、今でいうネットワークを形成し始めた時期でもあり、各地方の民放テレビの先発局の多くは、日本テレビとラジオ東京テレビとの、どちらと番組ネット関係を組むのかという選択を迫られた。
- そんななかで日本テレビとのネット関係を選択した局は、その多くが、プロ野球やプロレスなど、人気の高いスポーツ中継に強いという点が決め手のひとつになった、と社史に記している(既にラジオ東京テレビとのネットワークを組んでいた局でも、「プロレスリング中継」を同時ネットしたところもあった)。「プロレスリング中継」は、日本の民放のネットワークの形成にまで、貢献したコンテンツだったとも言える。
◎は『全日本プロレス中継』→『プロレスリング・ノア中継』も日本テレビ系プロレス中継のネットを継続した局。○は『全日本プロレス中継』も日本テレビ系プロレス中継のネットを継続した局。
| 放送対象地域 | 放送局 | 備考 |
|---|---|---|
| 関東広域圏 | 日本テレビ | 制作局 |
| 北海道 | 北海道放送 | |
| 札幌テレビ | ◎ | |
| 青森県 | 青森放送 | |
| 岩手県 | テレビ岩手 | ◎1969年11月7日のサービス放送から |
| 宮城県 | 東北放送 | |
| 仙台放送 | ||
| ミヤギテレビ | ◎ | |
| 秋田県 | 秋田放送 | |
| 山形県 | 山形放送 | |
| 福島県 | 福島テレビ | 1971年9月24日まで |
| 福島中央テレビ | ◎1971年10月3日から | |
| 山梨県 | 山梨放送 | ○ |
| 新潟県 | 新潟放送 | 1962年10月より約1年間放送 |
| 新潟総合テレビ | ○1968年11月29日のサービス放送から - 番組終了まで | |
| 長野県 | 信越放送 | ○ |
| 静岡県 | 静岡放送 | 1962年10月12日より開始。 |
| 中京広域圏 | 中部日本放送 | 1959年10月16日 - 1960年4月29日 |
| 東海テレビ | 1961年8月27日 - 1962年3月25日 | |
| 名古屋放送 | 1962年3月30日のサービス放送から | |
| 富山県 | 北日本放送 | ◎ |
| 石川県 | 北陸放送 | ○ |
| 福井県 | 福井放送 | |
| 京阪神大都市圏 | 大阪テレビ放送 | 現:朝日放送 放送エリアは京阪神大都市圏のみ |
| 近畿広域圏 | 読売テレビ | ◎ |
| 鳥取県 | 日本海テレビ | ◎当時の放送エリアは鳥取県のみ |
| 広島県 | 中国放送 | 広島テレビの開局後も1969年9月26日まで継続 |
| 広島テレビ | ◎1969年10月3日から | |
| 山口県 | 山口放送 | ◎ |
| 香川県 | 西日本放送 | ◎当時の放送エリアは香川県のみ |
| 徳島県 | 四国放送 | ○ |
| 愛媛県 | 南海放送 | ◎ |
| 高知県 | 高知放送 | |
| 福岡県 | RKB毎日放送 | |
| テレビ西日本 | 1964年9月にネットチェンジにより打ち切り | |
| 福岡放送 | ◎1969年4月開局から | |
| 長崎県 | 長崎放送 | ○ |
| 熊本県 | 熊本放送 | |
| 大分県 | テレビ大分 | |
| 宮崎県 | 宮崎放送 | |
| 鹿児島県 | 南日本放送 | |
| 琉球政府 | 琉球放送 | ○当時は米国の施政下[注釈 9] |
備考[編集]
金曜20時枠の中継に関しては、1970年代以降の「ワールドプロレスリング」「全日本プロレス中継」などにみられるような、地方局での時差ネットがなく、「全国同一放送」だった。ただし、以下のような例外もあった。
- 1960年代前期は、火曜20時からの放送だった(放映方法不明)。後年、金曜20時に移動。
関連する放送番組[編集]
- 全日本プロレス中継→プロレスリング・ノア中継(後継番組)
- ワールドプロレスリング(テレビ朝日・現在も放送中)
- ディズニーランド - 「三菱ダイヤモンド・アワー」時代に交代で放送された番組
- ファイティングパンチ→金曜夜席 - 金曜22時台の時代に交代で放送された番組
| 日本テレビ系 金曜20時枠(1958.9-1972.7) | ||
|---|---|---|
| 前番組 | 番組名 | 次番組 |
|
太陽にほえろ!
(本番組よりドラマ枠) |
||
| 日本テレビ系 金曜20:56 - 21:00枠(1958.9-1963.9) | ||
|
ビクター歌のパレード
(20:30 - 21:00) |
〃
【4分短縮して継続】 |
|
| 日本テレビ系 プロレス番組枠 | ||
|
なし
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日本プロレス中継
(1958.9 - 1972.5) ↓ 日本プロレス選手権特集 (1972.5 - 1972.7) |
全日本プロレス中継
(1972.10 - 2000.6) |
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ しかし、この陣容に対して、警察勢力は日本プロレス協会の解体を迫ることとなり、後にこの3名は退陣し、協会長には元衆議院議員の平井義一が就任する。これとほぼ同じ時期に、日本プロレスリングコミッション事務局長だった工藤雷介からの要請で、同コミッション事務局次長となったのが門茂男である。
- ^ 門茂男の著書によれば、門がコミッション事務局次長に就いた時点で「ライセンス発行が主たる業務であるはずのコミッション事務局には、ライセンス用の台紙や公印も何一つなかった」と既にコミッションの形骸化が始まっていたとしている。また、1979年に新日本プロレスと国際プロレスが「日本プロレスリングコミッショナー」として二階堂進を推戴した際、日本プロレスにおいて最後のコミッショナーとなっていた椎名悦三郎の秘書が、「コミッションの事務所も残してあるのに、こちらに断りがない」と激怒した、という話も門は著書で記している。
- ^ 徳光康之は「最狂超(スーパー)プロレスファン烈伝」で「力道山が木村政彦に完敗した世界」というパラレルワールドについて、「(現実における木村の団体同様)日本プロレスが消滅し日プロを源流とする諸団体もすべて消滅、女子プロレスも力道山人気無しではやっていけないから消滅、すなわち日本からプロレスがなくなる」と描いている(その世界ではプロ柔道が現実のプロレスのような地位を占めている)。
- ^ 経営権を奪われた敬子は、当時赤坂にあったリキ・アパートに拠点を移したが、豊登・芳の里らも名義を変更しなかったために『日本プロレスリング興業株式会社』の名義が2箇所存在する事態となった。このため、豊登・芳の里らの日本プロレスは当時の所在地から『渋谷の日プロ』とも呼ばれる。
- ^ 経理担当取締役であった遠藤幸吉らとの対立に加え、リキ・スポーツパレスの売却問題がきっかけとなり他の幹部と衝突、退職に至った。
- ^ 猪木は新日本プロレスを発展解消し、坂口ら日本プロレスと対等合併。代表取締役には持ち株60%を所有する形で猪木が、副社長には持ち株40%を所有する形で坂口が就任する予定だったと言われる。
- ^ 馬場は大木らの受け入れについては難色を示したと言われているが、仲介役を果たした日本テレビや全日本プロレスの取締役を兼ねていた百田敬子ら力道山(百田)家の意向、馬場は日本プロレスの取締役であったことなどもあり、受け入れることとなった。ただし、マッチメイクなどで子飼いの選手達と差別を行ったとされる。
- ^ 1960年1月23日、名古屋市金山体育館にて、力道山と遠藤幸吉によるコンビが、日本タッグ王座の“防衛戦”を行っている(対ジム・ライト、アレックス・ヤコビデス組。61分3本勝負)。結果は2-0で力道山・遠藤組が勝利し、力道山組は大会後援の中部日本新聞社から、「中日賞」として“優勝トロフィー”を贈られた。
- ^ 日本プロレス中継の正式打ち切り発表日は沖縄県の本土復帰と同日であり、沖縄県の本土復帰後は『日本プロレス選手権特集』のみ放送。
出典[編集]
参考書籍[編集]
- 『日本プロレス40年史』日本スポーツ出版社
- 竹内宏介『プロレス醜聞100連発!!』日本スポーツ出版社 ISBN 4-930943-10-8
