大相撲

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大相撲(おおずもう)は、

  1. 日本古来の奉納相撲を起源とし、江戸時代から続く職業的な最高位の力士たちによって行われる神事武道、または興行としての相撲である。加えてその母体となる力士・関係者の集団社会を指す。
  2. 日本相撲協会が主催する相撲興行。本項で詳述する。
  3. がっぷりと四つに組んだ力士同士の力が拮抗して、なかなか決着がつかない相撲の取組。大相撲実況中継では、おおよそ1分を超える取り組みで用いる。おおよそ4分を超えると「水入り」になる場合がある。

日本相撲協会が主催する大相撲(おおずもう)は、日本国内外における相撲興行のなかで最も有名な競技興行である。東京での開催場所は国技館である(詳しくは国技館国技#日本の国技を参照)。

相撲絵歌川国貞、1860年代)
相撲競技場全体図
大相撲の力士を応援する幟

歴史[編集]

現在の日本相撲協会の前身として、人的・組織的につながる相撲興行組織は、江戸時代の江戸および大坂における相撲の組織である。大坂の相撲組織に関しては、大坂相撲の項目を参照のこと。ここでは、江戸時代以来の江戸相撲の歴史について記述する。

大小のを佩刀し武士と同じ待遇であった力士[1]

江戸時代[編集]

興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)とされる。浪人集団との結びつきが強いという理由から、1648年には幕府によって江戸での辻相撲禁止令が出されたが、1684年には、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立を条件として相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。この時の興行は江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。興行が寺社奉行の管轄となったことで、江戸時代の間、興行は江戸市中の神社や寺院の境内で行われた。本所の回向院での開催が定着したのは、1833年のことである。

『相撲傳書』によると、この頃は土俵はなく「人方屋」という見物人が直径7 - 9m(4 - 5)の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。17世紀半ばには格闘技のリングのように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に1670年頃に土俵の四隅に四神を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m(13)の丸い土俵が設けられた。18世紀始めに俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」とも言う)となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。

江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。

しかし江戸相撲は、1789年11月、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに征夷大将軍徳川家斉観戦の1791年上覧相撲を成功させる[2]雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。

各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。

1827年、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の吉田司家に認めた。

幕末に「相撲VSレスリング」や「相撲VSボクシング」の異種試合が行われた事がある。また、アメリカ合衆国海軍マシュー・ペリー提督が黒船で来航した1853年6月11日)に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。

1863年6月3日、大阪北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こした。大阪相撲の力士で死亡したのは中頭の熊川熊次郎肥後出身)であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の志士となった者もいた。

明治・大正[編集]

明治中頃
訪米中の常陸山

明治維新文明開化に伴い、1871年東京府のいわゆる「裸体禁止令」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処された。また、「相撲禁止論」が浮上した事もある。このような事態に対し、自らも相撲をとることの多かった明治天皇 および その意を受けた伊藤博文らの尽力により、1884年天覧相撲が実現され、大相撲が社会的に公認されることにより危機を乗り越えることができた。この天覧相撲の力士は58連勝(史上3位)を記録した15代横綱初代・梅ヶ谷藤太郎であった。

東京相撲協会と大阪相撲協会ができ、組織としての形態が確立した。1890年に入幕から39連勝で大関に駆け上がった初代・小錦八十吉と横綱免許を受けた大関初代・西ノ海嘉治郎のねじれ現象の解決のため、番付に初めて〈横綱〉の表記が登場する。これはなかば偶然の産物ではあったが、これをきっかけに横綱・大関が実質的な地位として確立していくようになる。

この頃から映像が映され出し、小錦大砲が映された貴重な映像(1900年撮影)が現存している。

20世紀の変わり目の頃には、横綱常陸山谷右エ門1896年に名古屋相撲から大阪相撲へ、後広島相撲から東京相撲へ)と二代目・梅ヶ谷藤太郎の「梅常陸時代」による東京相撲の隆盛が生じ、東京が相撲の中心という意識が広がっていく。

1907年、常陸山が渡米した。この渡米は日本国外に相撲を本格的に紹介する最初の出来事であった。

1909年6月2日、初の常設相撲場となる両国国技館の落成。これに並行して投げ祝儀の禁止、力士の羽織袴での場所入り、行司の烏帽子直垂着用、幟・積樽の廃止、東西対抗制導入などの制度や規則が導入されて相撲の近代スポーツ化がすすめられ、相撲が国技とされるようになった。[3]土俵入りは、東の横綱、常陸山と西の横綱、梅ヶ谷により行われた。この時、東西制(後述)と呼ばれる団体優勝制度が生まれ、優勝旗が授与された。時事新報社(現在は毎日新聞社)の優勝額贈呈により、現在の優勝制度が始まる。この時から、今までは幕内力士の出場がなかった千秋楽にも、幕内全力士が出場するようになり、名実共に10日間興行の体裁が整った。興行日数は、1923年5月から11日間に増加した。

1910年5月の夏場所に行司の衣装がそれまでのから烏帽子直垂となった。

1917年11月29日に両国国技館が火災で焼失し、一時期靖国神社境内で本場所が行われたこともあった。

興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようになった。大阪相撲においては、1922年竜神事件と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下する。東京相撲でも、1923年三河島事件と呼ばれる力士待遇の改善を求めるストライキが発生し、その処理を巡って横綱大錦卯一郎が廃業する事件が起こる。1923年9月1日の関東大震災により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。1924年1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催された。それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかった。

1925年皇太子裕仁親王・後の昭和天皇)の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の天皇賜杯が作られる。これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれる。また、1926年1月場所から、今までは優勝掲額のみであった個人優勝者に賜杯が授与されることになり、個人優勝制度が確立する。

昭和[編集]

1927年、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月(両国)、3月(関西)、5月(両国)、10月(関西)の計4回:11日間で開催(1929年は10月でなく9月)されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。(この時期の番付編成については能代潟錦作の項目参照)

この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。1928年からラジオ中継が始まったために、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、不戦勝・不戦敗制度の全面施行、物言いのついた相撲での預かりの廃止と取り直し制度の導入、二番後取り直しによる引き分けの縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。

1931年4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円を無くし径4.55m(15尺)の一重土俵にした。またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた勝負検査役を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人とした。

1932年1月に起こった春秋園事件で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催(1月、5月)となった。

69連勝を記録した双葉山の影響で興行日数は1937年5月場所より13日間となり、1939年5月場所より15日間と移り変わる。

第二次世界大戦の影響が次第に相撲界にも及び、1944年に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。1945年5月場所は晴天7日間、神宮外苑相撲場(現明治神宮第二球場)で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で傷痍将兵のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は春日野部屋で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。東京大空襲で両国国技館や相撲部屋を焼失。

戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年9月に土俵を16尺(約4.84m)と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所(11月:10日間)が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55m(15尺)に戻された。1946年に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所(13日間)が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、1947年には明治神宮外苑相撲場にて行うこととなる。青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は1948年の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年の秋場所(10月:11日間)には、戦後初の大阪場所が大阪市福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、優勝決定戦三賞制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。

1949年になり日本橋の浜町公園内に仮設国技館(木造)を建設し、ようやく1月場所(13日間)を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館(蔵前国技館)も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となった。その為、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。

1950年から1952年は、本場所(1月、5月、9月)各15日間行われた(ただし1952年には大阪場所が行われず、全て東京での開催であった)。大阪場所は、1950年の秋場所より開催地を阿倍野区に、1951年の秋場所からは大阪市難波(現在の大阪府立体育会館のある場所)にそれぞれ変更し、仮設国技館が建築されたが、最終的には1953年に仮設国技館を立替て、大阪灘波府立体育会館(旧大阪府立体育館:現在の府立体育館と同じ場所)を完成させた。同年3月に大阪場所を行い、以後3月場所は大阪場所を行うようになる。

横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる横綱審議委員会が発足した。1957年には理事長に重要事項の建議を行える「運営審議会」も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。

栃錦初代・若乃花の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。1957年には11月場所(九州場所、福岡スポーツセンター)、1958年には7月場所(名古屋場所、名古屋市金山体育館)を行うようになり、現在のような6場所(1月、3月、5月、7月、9月、11月)、15日間という体系になった。また、1965年1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ現在に至っている。

国会で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと(1957年4月、衆議院文教委員会)を受けて、相撲茶屋制度の改革、月給制の導入、相撲教習所の設立などの改革がこの当時行われた。横綱審議委員会の内規もこの時期に充実した。また、1961年には年寄の停年制が実施された(「停年」の表記については後述)。1968年には役員選挙の制度を導入、また前頭・十両の枚数削減も実施した。 全国的にテレビが普及するに従い、NHKの相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。

1971年に中学在学中の入門が禁止され、当時在籍していた中学生力士は、卒業まで東京場所の日曜日のみの出場となった。

1972年1月場所からは、公傷制度が導入された(2003年11月場所まで)。

1965年にはソ連、1973年には中国、1981年にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。

1985年1月、現在の国技館が完成し、再び両国に相撲が戻った。

平成[編集]

若貴兄弟(貴乃花光司若乃花勝)の活躍により、一時相撲ブームが起こった(二人の名を取って若貴ブームとも呼ばれた)。伯父が名横綱・初代若乃花、父が名大関・初代貴ノ花という血統が、オールドファンを呼び戻すとともに、貴乃花の精悍な風貌、若乃花の人好きのする童顔は、それまで相撲に興味のなかった層の女性ファンも獲得した。

一方、千代の富士貢の引退が呼び水になったように生じた横綱不在、群雄割拠の中、まず小錦が抜け出した。彼は膝の故障をついに克服しきれず、史上初の外国出身横綱を逸したが、ハワイ出身の後輩、武蔵丸が共にこれを果たし、優勝も二桁10回以上を重ねた。1993年から2000年頃にかけては、若貴兄弟らの二子山部屋勢対曙・武蔵丸のハワイ勢の様相を呈した。

貴乃花は曙らを抑えて優勝22回を数え日本人力士の体面を保ったが、その引退と入れ違いのように外国出身力士の主流はモンゴル勢に移った。2006年3月場所では、優勝と三賞をすべてモンゴル勢で占めることになった。ブルガリア出身の琴欧洲エストニア出身の把瑠都が大関に昇進するなど、旧東欧圏出身力士も目立ち始めた。2006年1月場所の栃東以降、2014年5月現在に至るまで、日本出身力士による幕内最高優勝は達成されていない。(外国出身の日本国籍取得者による幕内最高優勝は、2012年5月場所に旭天鵬が達成)

2011年2月に八百長問題が発覚し、3月場所が休止[4]となったが5月場所が技量審査場所として開催され、7月場所から本格再開された。

2014年1月30日 - 公益財団法人の登記を行い、新法人としてスタートした。財団法人となった1925年以来89年ぶりの衣替えで、引き続き税制の優遇を受ける。[5]

土俵と各配置(行司・力士・勝負審判・控え力士・力水・塩)

本場所と地方巡業[編集]

プロ興行としての大相撲では、公式戦(技量を査定し、待遇(地位と給与)を決める性質がある)である本場所は年間6回行われる。

本場所のない時期には、地方巡業を行う。本場所の回数の少なかった時代には、各部屋や一門別に巡業をしていたが、年間6場所制が確立した以後は、協会が管理して行われるようになった。この巡業での収入が、協会や各部屋にとっても大きな位置を占めていたので、明治から大正・昭和初期にかけての力士の待遇改善の要求には、巡業収入の配分の明朗化がスローガンとして掲げられることが多かった。

地方巡業は、各地の興行を希望する〈勧進元〉と呼ばれる人たちが協会に巡業開催の契約金を支払い、興行権を譲り受ける形(売り興行)で長年行われてきた。しかし1995年の巡業改革により、当時の境川理事長の下で勧進元主催から協会の自主興行に変更された。ところが地方巡業は1992年の年間94日間をピークに減少を続け、ついに2005年には1958年以降最小の15日間までに落ち込んだ。そのため、北の湖理事長の下で再び勧進元形態に戻すことになった。2006年に再開された海外巡業についても、地方巡業の増加対策と並ぶ巡業改革の一環となっている。

地方巡業における各地の相撲ファンとの接触は、相撲の全国の普及に力を発揮している。かつては巡業で現地の有望な青年を入門させ、そのまま巡業に帯同させて、帰京して初土俵をふませたケースも多くあり、夏休み終了後の9月場所の初土俵力士にはそういうケースが目立っていた。

本場所一覧[編集]

2013年現在

開催月 正式名称 通称 開催場所
1月 一月場所 初場所 両国国技館
3月 三月場所 春場所 大阪府立体育会館
(BODYMAKER コロシアム)
5月 五月場所 夏場所 両国国技館
7月 七月場所 名古屋場所 愛知県体育館
9月 九月場所 秋場所 両国国技館
11月 十一月場所 九州場所 福岡国際センター

花相撲[編集]

海外公演[編集]

海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は「裸の親善大使」などと呼ばれ、これまでに13回開催している。

回数 開催年月 名 称 都 市 備 考
第1回 1965年7月-8月 ソビエト連邦の旗ソ連公演 モスクワハバロフスク 日ソ復交調印10周年記念
第2回 1973年4月 中華人民共和国の旗中国公演 北京上海 日中国交正常化記念
第3回 1981年6月 メキシコの旗メキシコ公演 メキシコシティ
第4回 1985年6月 アメリカ合衆国の旗アメリカ公演 ニューヨーク 東京ニューヨーク姉妹都市25周年記念
第5回 1986年10月 フランスの旗 パリ公演 パリ 東京パリ友好都市提携5周年記念
第6回 1990年6月 ブラジルの旗ブラジル公演 サンパウロ
第7回 1991年10月 イギリスの旗 ロンドン公演 ロンドン 日英協会設立100周年記念
第8回 1995年10月 オーストリアの旗 フランスの旗 ヨーロッパ公演 ウィーン、パリ
第9回 1997年6月 オーストラリアの旗オーストラリア公演 メルボルンシドニー 日豪外交100周年記念
第10回 1998年6月 カナダの旗カナダ公演 バンクーバー
第11回 2004年2月 韓国の旗韓国公演 ソウル釜山 日韓共同未来プロジェクト
第12回 2004年6月 中華人民共和国の旗中国公演 北京、上海 日中定期航空路線開設30周年記念
第13回 2005年10月 アメリカ合衆国の旗 ラスベガス公演 ラスベガス ラスベガス市制100周年記念
第14回 2009年10月(中止) イギリスの旗 ロンドン公演 ロンドン 世界的な不況により中止
第15回 2013年6月(延期) ロシアの旗 モスクワ公演 モスクワ

海外巡業[編集]

協会とは別に主催者となる地元の興行主(勧進元)がいて、日本国外の大相撲ファン拡大と収益を目的にしている。ただし、力士が土俵で取組を披露したり、国際文化交流を図ったりするなどの形態は海外公演と変わらない。海外公演より歴史は古く、これまでに11回開催している。

国威発揚のために大相撲が利用された昭和戦前期には、満州をはじめとする大陸巡業が恒例となっており、国際連盟委任統治領であった南洋群島に巡業したこともある。しかし、これらの巡業は各部屋・一門による海外巡業であり協会全体での巡業ではなかった。戦後はハワイ巡業がしばしば行われ、そこでスカウトされたジェシー・ジェームス・ワラニ・クハウルア青年が高見山大五郎の四股名で関脇にまで昇進した。

回数 開催年月 名称 都市 備考
第1回 1962年6月 アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業 ホノルル
第2回 1964年2月 アメリカ合衆国の旗 ハワイ、ロサンゼルス巡業 ホノルル、ロサンゼルス 角界拳銃密輸事件が起こる
第3回 1966年 アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業 ホノルル
第4回 1970年6月 アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業 ホノルル
第5回 1972年2月 アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業 ホノルル
第6回 1974年6月 アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業 ホノルル
第7回 1976年6月 アメリカ合衆国の旗 ハワイ、ロサンゼルス巡業 ホノルル、ロサンゼルス
第8回 1981年6月 アメリカ合衆国の旗 アメリカ巡業 サンノゼ、ロサンゼルス
第9回 1992年6月 スペインの旗 スペインドイツの旗 ドイツ巡業 マドリードデュッセルドルフ
第10回 1993年2月 香港の旗 香港巡業 香港
第11回 1993年6月 アメリカ合衆国の旗 アメリカ巡業 ホノルル、サンノゼ
第12回 2006年8月 中華民国の旗 台湾巡業 台北 13年ぶりに海外巡業が復活
第13回 2007年6月 アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業 ホノルル 14年ぶりのハワイ巡業
第14回 2008年6月 アメリカ合衆国の旗 ロサンゼルス巡業 ロサンゼルス
第15回 2008年8月 モンゴル国の旗 モンゴル巡業 ウランバートル
第16回 2013年8月 インドネシアの旗 ジャカルタ巡業 ジャカルタ

番付[編集]

大相撲では、成績などを考慮して大きく2つ、小さくは6つのクラスに分けられ、このクラス内で対戦をするのが基本である。クラス内の地位は「番付」と呼ばれる順位表で示される。

上位リーグは幕内十両(十枚目)からなり、いわゆる関取と呼ばれるクラスの力士で構成される。その中でも最上位リーグに位置するのが幕内であり、番付上位から横綱大関関脇小結前頭の順位となる。三役とは大関・関脇・小結を指し、前頭は「平幕」と呼ぶことが多い。番付は基本的に勝ち越せば上がり、負け越せば下がる。

不透明な昇進基準[編集]

同じ地位で同じ成績をあげても、他の力士の成績との兼ね合いによる運不運が生じ、特に十両や幕内、三役への昇進のかかるケースでの不公平感は問題視されることが多い。横綱や大関への昇進には特に優秀な成績が求められるが、その基準が定常的な基準となっていないため、昇進にあたり都度昇進条件が検討されることとなっている[6]。また、その基準や条件が客観性の明らかな数値基準ではないため、毎度のように物議を醸し問題となっている。背景には、出身地や人種による人気の格差や看板である横綱・大関の人数を確保したい興行上の理由があると考えられる[7]

取組[編集]

本場所取組は、日曜日から翌々週の日曜日までの1場所15日間で行われる。最初の日を「初日(しょにち)」、8日目を「中日(なかび)」、最終日を「千秋楽(せんしゅうらく)」と呼ぶ。幕内の取組は、幕内力士土俵入り横綱土俵入りの後、16:15頃(以下日本時間)から行われ、千秋楽を除き大体18:00前後に全取組が終了する(大相撲中継に合わせるため)。

一日の取組のうち、幕内以後を「中入り後」と呼び(ニュースのスポーツコーナーで報じられる結果は全てここから)、最後の取組を「結び(の一番)」と呼ぶ。また、全取組終了後に弓取式が行われ、これが終わった時点で「打出し」としてその日の日程は終了する。また、千秋楽に限り、残り3番となったところで、取組を控えた6人の力士が東西それぞれ3人ずつ土俵に上がり揃い踏みを行う。これを「これより三役」と呼ぶ。

幕内に続く上位リーグが十両で、15:00頃から15:50頃にかけて取組が行われる。下位リーグは、上位から幕下三段目序二段序ノ口となっており、序ノ口には新規入門力士が多く登場する。関取を目指そうと、9:00頃から始まり15:00頃まで取組が行われる。さらに序ノ口の取組前には、番付にも載らない入門したての力士たちによる前相撲が行われる。

部屋別総当たり制[編集]

幕内と十両では1場所で1人15番、幕下以下は1人7番の取組を行い、勝利数で優勝者を決める。勝利数が同じ場合は優勝決定戦を行う。リーグは総当たり制ではなく、本割(ほんわり、正規の対戦)では同じ部屋に所属する力士同士は対戦しない。これは部屋別総当たり制と呼ばれる。部屋が違っても実の兄弟同士のおよび実の叔父甥の関係の取組は組まれないのが不文律であったが、2009年1月29日の理事会において4親等以内の力士同士での本割取組を行わないことを決定し、取組編成要領に明文化されることになった。なお優勝決定戦においては現行通り、4親等以内でも対戦させる。場所中の取組で白星(勝利)を多く重ねてくると、下位であっても終盤の対戦相手に上位の力士を割り当てられる。

力士が本場所の取組で過半数(十両以上は8日、幕下以下は4日)勝つことを「勝ち越し」、これに満たないことを「負け越し」という。次の場所では勝ち越した力士の番付が上がり、負け越した力士の番付が下がる。ただし、横綱・大関は最上位の番付であるため昇進には厳しい条件がつけられているほか、横綱に降格はなく、大関の降格も2場所連続負け越しの場合に限られる(大関が負け越して翌場所陥落の可能性があることを角番という)。

十両と幕下以下では力士の待遇で示すとおり大きく待遇が異なるため、幕下上位の取組や十両下位力士と幕下との取組では熾烈なものとなる。好角家にはこれらの取組を楽しみにしているものも多い。

取組の歴史[編集]

東西制

番付には、東と西という区別がある。江戸時代から明治時代にかけては、東と西に分けられており、番付の昇降も東西それぞれで行われ、東西の同じ側同士の対戦はなかった。江戸時代においては各地方の相撲集団やお抱え大名が実質的な所属先となっており相撲部屋に所属することは興業に出場するための形式的な条件に過ぎず、それ故お抱えが異なれば系統や部屋に関係なく割が組まれる場合もあった。[8]また、東と西との2枚の番付を作っていた大坂相撲とは違って、東西を1枚にまとめた江戸相撲では、東が右側に配置されていたが、最初は東西の間に優劣はなかった。1890年5月に、横綱免許を受けていた大関・初代西ノ海嘉治郎張出大関にさせられることに抗議した結果、番付上に初めて〈横綱〉が明記されたとき、東に張り出されたことから、横綱を東方におくようになったことで、東が優位という印象が明確になっていった。

1909年の夏場所に、国技館が開館したときに、幕内に団体優勝制度ができた。番付の東と西とで対抗戦をして、勝ち星の多いほうに優勝旗を授与し、翌場所の番付を東に配置することにしたのである。これを東西制と呼んだ。優勝旗は勝った側の関脇以下の幕内力士のうち最優秀の成績をあげた者が優勝旗手の栄誉を得ることと決められた。これは好評を呼び、当時の好角家の間でも、〈出羽海びいき〉〈連合(非出羽方)びいき〉という区別もできた。ただし、東西の戦力バランスの関係や、横綱が片方に偏らないように、ときどき東西の組み替えも行われた。なお、このシステムは幕内だけで、十両以下に関しては下記に述べる系統別総当たり制で東西の区別もなかった。

系統別総当たり制の導入

1932年春秋園事件の結果、脱退者が多く、幕内力士の人数が少なくなったために、春場所から東西制を中止し、一門による系統別総当たり制を幕内でも実施するようになった。

東西制への回帰

しかし、出羽海部屋の幕内力士が増加し、公平な取組をつくることが難しくなったので、1940年1月場所から、ふたたび東西制にもどし、団体優勝と旗手の制度を復活させた。しかし、それでも東西のバランスをとることはむずかしく、配置換えも何度もおこなわれ、伊勢ヶ濱部屋朝日山部屋の力士が東西に振り分けられることさえあった。(もちろん同部屋の力士同士の対戦はなかった)

系統別総当たり制の復活

戦後、大相撲の人気回復のために、優勝決定戦三賞制度を導入すると同時に、取組の多様化を進めるために、1947年11月場所から、系統別総当たり制に戻した。

部屋別総当たり制の導入

しかし、立浪部屋時津風部屋が一門としては別なのに、師匠同士が兄弟弟子(羽黒山政司双葉山)というだけの関係で対戦がないことや、二所ノ関一門が次々と分離独立していったことから、再び取組が硬直化して不公平感が生じてきたので、1965年1月場所から、完全な部屋別総当たり制を実施し、現在に至っている。

優勝制度[編集]

幕内最高優勝1909年6月場所、新聞社による最高成績者への優勝額贈呈によって事実上始まった。当初は物言いがついた相撲であえて決着をつけない預りや、取り組み編成後に一方の力士が休場した場合、相手力士も休場扱いとなる制度などあって、これらが優勝争いを左右することも少なくなかった。その後、預りの廃止や不戦勝制度、同点の場合の優勝決定戦の導入などがありつつ、勝ち越し点(勝ち-負け)で優勝を争う大筋は変わらぬまま現在に至っている。

優勝制度の不公平[編集]

同じ幕内に属して(2014年現在の定員は42名)幕内最高優勝を争う立場であっても、上位と下位で15日間の対戦相手がまったく違うことなどへの批判もあり[9]、過去に横綱大関とまったく対戦せずに全勝した時津山仁一や十両力士への敗戦があった佐田の山晋松の優勝が物議をかもした例がある。

所属部屋ごとの対戦相手の不公平もしばしば問題視される。平成時代初期に、二子山部屋武蔵川部屋の幕内力士が上位に集中したことから、個人別総当たり制が話題になった。養成員(幕下以下の力士)時代は大部屋で共同生活を送るという相撲部屋のしきたりが、個人別総当たり制の実現を妨げる要因となっている。

力士の条件と待遇[編集]

力士の条件[編集]

力士の報酬[編集]

大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する力士褒賞金(給金)と、いわゆる2階建てになっている。

(2006年1月現在、単位:円)

項目 横綱 大関 三役(関脇・小結) 平幕(前頭) 十両
月額給与 2,820,000 2,347,000 1,690,000 1,309,000 1,036,000
年額給与 33,840,000 28,164,000 20,280,000 15,708,000 12,432,000
年額賞与 5,640,000 4,694,000 3,380,000 2,618,000 2,072,000
特別手当 1,200,000 900,000 300,000    
出張手当 1,155,000 997,000 850,000 745,000 682,000
力士補助金 75,000 75,000 75,000 75,000 75,000
力士褒賞金 600,000 400,000 240,000 240,000 160,000
年額報酬 45,510,000 37,230,000 26,325,000 20,586,000 16,221,000
  • 力士褒賞金は、本場所ごとの最低支給金額(年額報酬では6場所分で計算)。

給与[編集]

十両以上の力士には、次の通りの金額が月額給与として支給される。支給単位は本場所ごとになっているため、11月場所で十両で負け越し、1月場所で幕下に陥落した場合でも12月分の給与は支給される。このため、幕下陥落が確実になり引退の意思を表明した力士が、翌月分の給与確保のため引退届提出を番付編成会議後まで遅らせ、番付に名を残すケースも多い。

  • 横綱:2,820,000円
  • 大関:2,347,000円
  • 三役:1,693,000円
  • 平幕:1,309,000円
  • 十両:1,036,000円

賞与[編集]

賞与は、9月と12月にそれぞれ月額給与の1カ月分が支給される。したがって、年額賞与は月額給与の2カ月分である。賞与の支給月が世間一般の6月と12月と違っているのは、以前に支給されていた巡業手当が賞与に変わったためである。

本場所特別手当[編集]

本場所特別手当は、三役以上の力士に対して本場所ごとに年6回支給される。11日間以上出場した場合は全額、6日 - 10日間出場した場合は3分の2、5日間以下の出場の場合は3分の1が支給され、全休(不戦敗も含む)の場合は支給されない。

  • 横綱:200,000円
  • 大関:150,000円
  • 三役: 50,000円

出張手当[編集]

出張手当は、3月場所、7月場所、11月場所の年3回、各場所ごとに次の通りの1日分支給金額を35日分支給される。

  • 横綱:宿泊費8,000円、日当3,000円
  • 大関:宿泊費7,500円、日当2,000円
  • 三役:宿泊費6,500円、日当1,600円
  • 平幕:宿泊費5,700円、日当1,400円
  • 十両:宿泊費5,300円、日当1,200円

力士補助金[編集]

力士補助金は、1月場所、5月場所、9月場所の年3回、髪結の補助金として支給される。

  • 横綱から十枚目(十両)まで:一律25,000円

力士褒賞金[編集]

力士養成員の報酬[編集]

幕下以下は「力士養成員」と呼ばれ、給与と力士褒賞金は支給されない。次の通りの金額が場所手当として本場所ごとに年6回支給される。

  • 幕下:150,000円
  • 三段目:100,000円
  • 序二段:80,000円
  • 序ノ口:70,000円

(2006年1月現在、単位:円)

項目 幕下 三段目 序二段 序ノ口
場所手当 150,000 100,000 80,000 70,000
年額報酬 900,000 600,000 480,000 420,000

また本場所の成績により、次の通りの奨励金が支給される。 (2006年1月現在、単位:円)

項目 幕下 三段目 序二段 序ノ口
勝星奨励金 2,500 2,000 1,500 1,500
勝越金 6,000 4,500 3,500 3,500

このほか、本場所における電車賃が乗車券で支給される。

力士養成員でも、寝食は各々相撲部屋で出来る(費用は協会から部屋持ち親方に対して、力士養成員1人につき月額70,000円、年額840,000円が支給されている)うえに、共同の食事「ちゃんこ」もあるので、幕下以下の生活が続いても食いはぐれることはない。ただし慣習としての部屋への上納つまり「持ち出し」もあるので必ずしも全額が可処分所得になるわけではない。特に親方、部屋の看板である十両以上の力士はかなりの額を「持ち出し」せねばならないが、逆に部屋に十両以上力士がいるかいないかで部屋の生活水準、ひいては本場所成績が大きく異なってくる。

懸賞金[編集]

懸賞 (相撲)を参照。

力士の退職金[編集]

十両以上の力士には、現役引退時に退職金に相当する養老金および勤続加算金(いわゆる一般功労金)が支給される。資格者は幕内連続20場所以上または幕内通算25場所以上の者で、それに満たない者は非資格者となる。ただし、現役中に協会から除名処分を受けた者には支給されない。解雇処分された者については理事会の付帯決議で一部または全部の支給が見送られることがある。

養老金[編集]

(2006年1月現在、単位:円)

横綱 大関 三役 平幕 十両
資格者 15,000,000 10,000,000 7,630,000 7,630,000 4,750,000
非資格者 -- -- 7,630,000 4,750,000+(勤続場所数-1)×120,000 1,150,000+(勤続場所数-1)×150,000

勤続加算金[編集]

番付の各地位における勤続場所数を乗じて、それぞれを加算した金額が勤続加算金の合計となる。下表の( )内の数字は、非資格者。

(2006年1月現在、単位:円)

横綱 大関 三役 平幕 十両
横綱 500,000 400,000 250,000 200,000 150,000
大関 -- 400,000 250,000 200,000 150,000
三役 -- -- 250,000 200,000 (150,000) 150,000
平幕 -- -- -- 200,000 (150,000) 150,000
十両 -- -- -- -- 150,000

特別功労金[編集]

横綱大関には、現役引退時に理事会の決議により養老金および勤続加算金とは別に特別功労金が支給される。

かつては、支給額は公表されていたが、2005年4月1日から個人情報保護法が施行されたことにより、同年5月場所から支給額は非公表となった。この措置に対しては公益法人たる財団法人日本相撲協会の方針として不適切であるとの意見もある。

力士の待遇[編集]

力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。

地位 幕内(横綱 - 前頭) 十両 幕下 三段目 序二段 序ノ口
大銀杏 丁髷弓取式、巡業中の初切出演・相撲甚句歌唱、引退時の断髪式の際は大銀杏容認)
紋付羽織袴 着物・羽織(外套・襟巻も着用可) 着物・羽織 着物(浴衣もしくはウール)
博多帯 ベンベルグ
履物 足袋に雪駄 足袋に雪駄(エナメル製) 素足に雪駄(エナメル製) 素足に下駄
稽古廻し 白色・木綿 黒色・木綿
取り廻し 博多織繻子 黒色・木綿
下がり 取り廻しの共布
足袋の色
控えの敷物 私物の座布団(色は自由) 共用の座布団(紫) 共用(畳)

このほかにも以下のような違いがある。

三役以上の力士
  • 初日と千秋楽に行われる協会挨拶で理事長と共に土俵に上がる。
幕内以上の力士
  • 横綱土俵入りで露払いや太刀持ちを務めることができる。
十両以上の力士
  • 一人前の力士の敬称である「関取」「**関」と呼ばれる。力士会に参加できる。
  • 幕下以下の力士が付け人として付く(地位が上がるほど人数も増える)。ちゃんこ作り、掃除、買出しなどの部屋の雑用も原則免除。
  • 相撲部屋において個室が与えられるか、別居が許される(幕下以下の力士は、共同の部屋で寝起きする)。
  • 起床時間など生活の自由度が飛躍的に増す。
  • 巡業・本場所などの興行で自分の名前が入ったを立てることができる(一般に後援会から寄贈される事が多い)。
  • 化粧回しを締めて土俵入りを行う(十両と幕内は別に行われる)。
  • 支度部屋に明荷を持ち込むことができる(横綱は3個、横綱以外は1個)。
  • 取組では、力水、力紙、塩を使用する(幕下上位の取組の場合で、進行が早い場合は塩を使用することがある)。
  • 優勝力士に頼まれて優勝旗を持ち、優勝力士と一緒にオープンカーに乗って優勝行進できる。

なお、幕下以下の力士養成員でも本場所で十両力士と対する場合や弓取り式を行う者、初っ切り、甚句、断髪式の時は大銀杏が結える。

待遇の歴史[編集]

歴史的に見て、力士は永く薄給で酷使されてきた。江戸時代には本場所の興行収入は一部の年寄たち(江戸相撲会所。現在の日本相撲協会の先祖)によって山分けされ、看板となるような人気力士、花形力士は別として、大半の力士への給与はなけなしのものだった。

三役力士ともなれば、大名家からお抱えとされ、藩士としての報償を受け取り、また贔屓客からの祝儀もあった。こうした力士は地方巡業へ出掛ければ各地の興行主(勧進元)から引く手あまたであって、むしろ懐は他の武士階級より潤っていた。一方、そうでない大半の力士は、細々と自主興行による「手相撲」で地方巡業を行い食いつないでいた。但し、いわゆる「力人信仰」から来る善意の喜捨も多く、本当に食うに困るまで困窮する力士は少なかった。

本場所で「星を売る」、いわゆる八百長行為も横行していたと見られており、現在でも度々、八百長行為の存在が指摘されている。但し、その真相解明は八百長行為を名指しされた者が八百長行為を認めることはないため 事情聴取も内輪の狎れ合いで済まされ、尻すぼみに終わる。

明治に入って以降も、大名家が藩閥政治の有力者となった以外、こうした状況は変わらなかった。そのため力士による待遇改善要求は度々おこり、昭和における春秋園事件はその最後にして最大のものだった。相撲取りが相撲を取ることによって生計が立つようになったのは、昭和に入ってからと言って良い。

1958年(昭和33年)、こうした相撲界の体質は国会で問題視され、それ以降は月給制等による力士の待遇改善の試みが進んだ。それでも、年6場所および地方巡業により一年間のほとんどを拘束される力士たちに対しては、「時給で見れば世界でもっとも可哀想なプロスポーツ選手」という声がある。他のプロスポーツ選手と力士との間では労働条件を異にする部分があるため一律には比較できないものの、横綱でも他のプロスポーツ選手のトップクラスと比べると相当に安い。実際に小錦は自身の大関在位時代(1987年7月場所から1993年11月場所)の月給について「100万円くらい。僕たちは着物を着るけど、安くても一つ30万円」と証言しており、地位に見合った着物など必需品を自費で購入することを考えれば安いとする主張をしたことがある。同時に「僕の時代は、どんな幕内力士でも(懸賞は)必ずあった」とも話しており、さらに「僕も200万近く貰っていた。一番いいときに」と自身の全盛期には場所の懸賞金が1ヶ月分の給料を上回っていた事実も明かした。[10][11]この時代に及んでも尚、協会から支給される月給だけでは関取個人の生活にも不足が生じる前提が生じていたのである。2001年(平成13年)に力士・年寄の給料増額が記録されたことを最後に平成26年(2014年、同年分は2013年11月場所8日目理事会で決定)まで13年連続で給料据え置きとなっている。2008年には当時の力士会会長の朝青龍が「せめて場所入り用の交通費ぐらい何とかしてくれ」と相撲協会に賃上げを要求したが首脳陣に相手にされなかったという報告もあり、概して昨今の協会は財政状況が潤沢でない[12]。一方で、税金対策や引退時の退職金制度等の表面に表れにくい部分では、他のプロスポーツより充実しているという見方もある。例えば、国技館内には力士のみならず一般の診察も受け付ける診療所があること、健康保険組合を独自に運営していること、厚生年金制度を導入していること等である。福利厚生についてはむしろ一般企業に近いとも言える。

金銭面に関しては、後援者(タニマチ)からの祝儀が大きな収入源の一つになっている。各力士によってタニマチの大小はあるが、横綱・大関などへ有力な人物がタニマチになった場合、優勝時には1,000万円以上の祝儀が集められるという。特に千代の富士の全盛時は一晩で5,000万円集まったという。これは角界では後援者からの祝儀は給与より大きな比重を占めているという現実がある。年寄株の取得資金、部屋経営の資金、有力学生相撲選手の獲得資金等も含めて、角界はタニマチなしでは成り立たない構造となっている。

大相撲の力士がテレビのCMに出演することを全面禁止していた時代があった。これは1985年からで、大相撲の力士は本業の相撲でPRすることに専念するようにしてほしいという春日野理事長(当時)の方針に沿ったものであった。ただしCM禁止中の時代でも、巡業を支援するスポンサーと公共の広告に限って出演することはあった。ナショナル(現・パナソニック)乾電池小錦日本航空の大相撲ブラジル公演PR、国民年金貴乃花若乃花などがある。2002年2月に一般企業のCM出演は解禁されており、その第1号は日立マクセルDVDメディアの栃東である。

力士が引退後協会に残らない時や年寄が停年を待たずに退職する場合などには廃業という言葉を用いてきたが、現役幕内力士であった旭道山和泰衆議院議員選挙に出馬し当選したことがきっかけとなり、語感もあまり良くないことから1996年11月17日から次のように表現を改めた。

区分 改称前 改称後
力士 廃業 引退
引退
年寄 廃業 退職
停年、退職 

満65歳(誕生日の前日)を以って年寄は定年退職となるが、日本相撲協会では停年の表現を用いる。年を取ることをやめ、余生を楽しんでもらいたいという意をこめてのことである。

伝統とそれによる問題点[編集]

閉鎖性[編集]

横綱審議委員会と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士(年寄)によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、年寄株もむしろ余り気味なことが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き(額面は9桁、億単位に達している)、1998年5月には「準年寄」制度の導入などで対応したが(2006年末廃止)、それでも数々のトラブルが発生している。小錦、若乃花(花田虎上)、といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、芸能界格闘技プロレスなど他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。

またその閉鎖性のため旧態依然の封建的体質が色濃く残り、一部の部屋では、俗に「かわいがり」と言われる(稽古名目での)私刑が横行している状況であり、下位力士を竹刀で叩くなどの厳しい指導を行うことに対する批判がある。2007年には時津風部屋力士暴行死事件が発覚。愛知県警が双津竜順一らを立件する事態にまで至り、日本相撲協会北の湖敏満理事長が文部科学省より呼び出され事情を説明する騒ぎとなっている。また、時津風部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。2010年9月にも、元十両・大勇武龍泉が芝田山親方(大乃国康)から暴行を受けたとして被害届を警視庁に提出。親方は書類送検されたが2011年1月起訴猶予となった。

また、力士養成員への手当金の親方による着服疑惑とそれによるトラブルも繰り返し指摘され続けているが、関取になったときに力士として認められるという慣習ゆえに、対応が取られた様子は当然ない。

出身地による参加機会の不均等[編集]

理事会の申し合わせにより各部屋の外国出身者(日本国籍取得者も含む)の採用は1人までとされており、個人の出身地により参加機会が不均等になっている。また年寄になるためには、日本国籍が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が文部科学省所轄の公益財団法人であることが大きい。外国出身で役力士を務める者ももう珍しくはないが、元高見山の12代東関や元武蔵丸の当代武蔵川など日本国籍を取得(帰化)して相撲協会に残る者もいる一方、元朝青龍や元把瑠都のように横綱大関まで登り詰めながら引退時に帰化しておらず、その特権を利用できずに退職を選択する力士も現れている。

男尊女卑の陋習[編集]

大相撲は、力士が大銀杏などまげ(髷)を結うなどの日本伝統的・古風な文化の他、土俵上への女性の立ち入りを認めない(春場所は2000年以降、時の大阪府知事太田房江による知事賞の直接授与が認められなかった)など、男尊女卑の陋習も強く保たれている。そのため、一部のフェミニストからは異論の声があがっている。ただし、横綱審議委員も経験した内館牧子は著書『女はなぜ土俵にあがれないのか』の中で、相撲が宗教的儀式としての歴史と伝統を検討し、この文化論争を抜きにして男女共同参画の観点を安易に持ち込む風潮に疑問を呈している。

志願者の減少と意識の変容[編集]

近年の日本では力士になりたいと思う少年の数は減少しており、2007年の名古屋場所にて行われた新弟子検査での受検者数はゼロであった。それと併せて、大学相撲出身者および外国人による力士数の増加により、「宗教色を帯びた伝統的な儀式」よりも「一般スポーツ競技の一種」と捉えている力士数が増えている。

その他[編集]

相撲茶屋問題

本場所の観戦チケットの販売は相撲茶屋を前身とする国技館サービス株式会社が行っているが、一部の常連客への優遇が根強く、一般の観客の枡席券入手は困難な状況が続いている。

観客席での喫煙

大相撲の公演中、升席では喫煙が認められていたが、健康増進法の施行に伴い、2005年(平成17年)1月場所から全館禁煙となった(室内スポーツの観覧席で唯一タバコが吸えた場所が大相撲の升席であったが、以前から他の観客や力士の健康や防災面からも異常との指摘も多く、ようやく重い腰を上げた形である)。そのため、升席で使用していた灰皿が相撲博物館に寄贈された。灰皿は陶製の物であるが、木枠に入っているなど特殊な形状をしている。

座布団投げ

金星などの番狂わせがあったとき、観客が座布団を投げる光景が見られることがある。2008年11月の大相撲九州場所からは、座布団投げ自体を危険行為とみなして厳しく取り締まることになり、マス席の座布団は、これまでの1人用の正方形4枚から2人用(縦1メートル25、横50センチ)の座布団2枚に変更し、さらに2枚をひもで結んでつなげた形に変わった。これにより、1人でも座布団に座っていれば座布団を投げられない仕組みになった。しかし、重さが2枚計4.8キロとなって投げられた場合の危険性が増したということで、同場所以降は、座布団投げが確認された場合は警察に通報するという厳罰化がなされた(詳細は「座布団の舞」の項を参照)。

他国からの表彰[編集]

1961年から1991年まで、パンアメリカン航空賞が優勝力士に送られていた。この贈呈にはパンアメリカン航空極東支配人のデビッド・ジョーンズが、「ヒョー、ショー、ジョォー」という独特の言い回しで始まる、方言なども取り入れた、ウィットに富んだ表彰状の読み上げを行い、好評を博していた。ジョーンズの注目度が非常に高かったため、多くの国々から友好杯などの賞が増えるきっかけともなった。しかし、1991年5月場所を最後に同賞は廃され(パンナム自体その約半年後に倒産)、ジョーンズも2005年2月2日に逝去している。

「フランス共和国大統領杯」は、知日派で大の大相撲ファンを自他ともに認めていた第五共和国第五代大統領・ジャック・シラクが設けた優勝力士に対する大統領顕彰だったが、2007年5月にニコラ・サルコジが第六代大統領に就任すると、これをあっさりと廃止してしまった。シラクとの対比を自己の選挙戦の推進力としていたサルコジは、「坊主憎けりゃ袈裟まで」の方便をあらゆる分野で繰り広げた。その結果、シラクが幕内力士の名を諳んじるほどの相撲通だったものとは正反対に、サルコジは「あんなのは長い髪を結った太った男たちがやる、決して美しいとは言えないスポーツにすぎません」と大相撲を一方的にこき下ろすこととなり、これが事実上の選挙公約の一つにまでなってしまったためである。

大相撲を主題とした作品[編集]

テレビゲーム[編集]

モバイルゲーム[編集]

  • みんなで大相撲(Japan Internet Technologies、2011年)
  • 財団法人日本相撲協会公認 大相撲カード決戦(GREE、2013年)

落語[編集]

雑誌[編集]

現在刊行中[編集]

かつて刊行していた雑誌[編集]

漫画作品[編集]

映画作品[編集]

テレビドラマ[編集]

大相撲ファンの著名人[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 歌川国貞画:大判錦絵:杣ヶ花 渕右エ門(そまがはな・ふちえもん)
  2. ^ *「寛政の上覧相撲」(1791年)の開催経緯について : 19代目吉田善左衛門の登用をめぐって
  3. ^ 風見明『相撲、国技となる』(大修館書店)
  4. ^ [ニッカンスポーツ2/7 3面]
  5. ^ 新相撲協会スタート 北の湖理事長「公益法人の責務果たす」Sponichi Annex 2014年1月30日 18:50
  6. ^ [http://www.jiji.com/jc/zc?k=201311/2013112500795 条件は「13勝以上の優勝」=稀勢の里の綱とり-大相撲横審 |2013/11/25-19:41|時事ドットコム]
  7. ^ [http://www.tokyo-sports.co.jp/sports/sumou/160594/ 稀勢綱取りに外国人力士猛反発 |2013年07月08日 16時00分|東スポWeb]
  8. ^ 『相撲』2012年3月号95頁
  9. ^ 幕内は、白鵬ら上位総当たりとそれ以外とで相撲の質が異なる。歪な構造が生み出す、大相撲の魅力|2013年10月07日|Sportsnavi
  10. ^ 『解禁!暴露ナイト』2013年1月24日放送分
  11. ^ KONISHIKI、相撲界の驚くべき金銭事情を明かす Sports Watch 2013年01月25日11時30分
  12. ^ 『相撲』2013年12月号57頁

関連書[編集]

  • 風見明『相撲、国技となる』2002年9月 大修館書店 ISBN 4-469-26502-0 競技場が「国技館」と名付けられた経緯などが詳しく述べられている。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]