把瑠都凱斗

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把瑠都凱斗 Sumo pictogram.svg
Baruto Kaito 2008 May.jpg
二字口に戻る把瑠都
基礎情報
四股名 把瑠都 凱斗
本名 カイド・ホーヴェルソン
Kaido Höövelson
愛称 カイド
生年月日 1984年11月5日(30歳)
出身 旧・ソビエト連邦の旗 ソビエト連邦エストニア・ソビエト社会主義共和国(現在の エストニアの旗 エストニアレーネ=ヴィル県ラクヴェレ(ラエクヴェレ)郡ロフ村(現在のラクヴェレ市、出生地はヴァイケ・マーリヤ郡)
身長 198cm
体重 189kg
BMI 48.21
所属部屋 三保ヶ関部屋尾上部屋
得意技 右四つ・左四つ・寄り・投げ・吊り
成績
現在の番付 引退
最高位 大関
生涯戦歴 431勝213敗102休(55場所)
幕内戦歴 330勝197敗88休(41場所)
優勝 幕内最高優勝1回
十両優勝3回
幕下優勝1回
序二段優勝1回
序ノ口優勝1回
殊勲賞1回
敢闘賞5回
技能賞1回
データ
初土俵 2004年5月場所
入幕 2006年5月場所
引退 2013年9月場所[1]
趣味 コイン集め、釣り、映画音楽鑑賞、パソコン
備考
2013年9月11日現在

把瑠都 凱斗(ばると かいと、1984年11月5日 - 、本名:カイド・ホーヴェルソン Kaido Höövelson )は、旧・エストニア・ソビエト社会主義共和国 (現在のエストニア共和国レーネ=ヴィル県 ラクヴェレ(ラエクヴェレ)郡 ロフ村 (現在のラクヴェレ市)出身(出生地はヴァイケ・マーリヤ郡)、尾上部屋(入門時は三保ヶ関部屋)所属の元大相撲力士で、スウェーデン系エストニア人。得意技は右四つ・左四つ・寄り・投げ・吊り。

最高位は東大関四股名は母国エストニアが面するバルト海から。凱斗の名は本名Kaido(カイド)の音に、日本で素晴らしいものをつかみ母国に凱旋してほしいという願いを込めた漢字をあてて、三保ヶ関親方が名づけた。史上初のエストニア出身力士関取

2012年1月場所に唯一の幕内優勝を成し遂げ、綱獲りに挑んだこともあった。しかしその後度重なる故障などに泣き同年11月場所限りで大関から陥落し、十両まで番付を下げた末に故障の悪化により2013年9月場所前に十両の地位で現役引退となった。

来歴[編集]

2008年9月

入門前[編集]

レーネ=ヴィル県 ヴァイケ・マーリヤ郡 エバヴェレ村 で二男一女の二男として生まれ、間もなく現在も実家のある 同県 ラクヴェレ(ラエクヴェレ)郡 ロフ村 (現在のラクヴェレ市)に移って幼少期から成人までを過ごした[2]

柔道経験者であり、18歳の時、本人曰く「出場選手4人」とのことであるが、柔道エストニアジュニア王者の栄冠に輝いた。早くにを亡くし生活苦に喘いでいたこともあり、バーの警備員を務めていたこともあった[3]。また、その優しい性格と太り気味の体格からいじめを受けていたとされている[3][4]

そのようなホーヴェルソン少年の相撲との出会いは12歳、小学6年生の時であった。相撲の国際的な普及を図る国際相撲連盟の理事夫妻がラクヴェレを訪れ相撲の指導を行った際、多くの子どもが初体験の相撲に戸惑う中、ホーヴェルソン少年だけは目を輝かせて相撲を取っていたという。後に把瑠都もこの日のことを、「何で裸になるんだろうと思ったけど、力と力の勝負が本当に楽しかった。今思えば、これも運命でしょう」と述懐している[5]。以来、自宅から車で10分ほどの場所にある相撲道場「SAKURA」で稽古を積み重ねて相撲の基礎を築いた[6]。把瑠都はこの夫妻を今もなお日本の両親と慕い、大相撲への入門もこの夫妻と国際相撲連盟の会長の尽力があって実現したことであった[7]

スピード出世[編集]

2004年5月場所初土俵。序ノ口序二段と2場所連続で優勝するなどスピード出世で、2005年7月場所では西幕下6枚目で5勝2敗という成績で同部屋の白石(元白乃波)と同時に十両昇進を果たした[8]。初土俵から所要8場所での新十両昇進は小錦と並ぶ史上3位タイ(当時)のスピード出世であった。

なお、その9月場所では、優勝した豊ノ島に唯一の黒星を付けている。翌11月場所は十両西4枚目に躍進し、史上最速の前相撲からの所要10場所での新入幕を十分狙える位置にあったが、場所初日に急性虫垂炎を発症し全休、翌2006年1月場所では幕下に陥落した。幕下では6番相撲を終えた時点で全勝が1人となる幸運も重なり、虫垂炎の手術時に施された全身麻酔の後遺症から思うように身体が動かない中、7人による優勝決定戦を制して幕下優勝、1場所で十両に復帰した。翌3月場所では北の富士(第52代横綱)以来43年ぶり4人目(本場所が15日制になってから)となる十両での15戦全勝優勝を果たし、史上2位タイとなる所要12場所での新入幕を決めた。この場所千秋楽の全勝優勝インタビューにて解説・北の富士から「北の富士賞」が贈られ、(将来の目標について)「横綱、横綱」の声が出るなど、当時から早くも横綱昇進を期待する声が上がっていた[9]

怪我に苦しむ[編集]

新入幕の2006年5月場所は序盤で2敗を喫するも、そこから素質の高さを見せて勝ち進み13日目終了まで2敗をキープする。最終盤の2日間は、この場所優勝を争った関脇雅山大関白鵬に連敗を喫したが、11勝4敗で優勝次点の成績をおさめ、自身初の三賞となる敢闘賞を受賞した。前相撲から13場所目での三賞受賞は栃東琴欧州と並び史上最速である。またこの場所の千秋楽で三役揃踏を行ったが、新入幕でこれをつとめた力士は1973年9月場所の大錦以来33年ぶり、史上2人目のことであった。また、前相撲から13場所目でのこれより三役出場も琴欧州を抜いて史上最短の記録。このとき、あまりの出世の早さ(および独特の髪質)が影響して大銀杏が結えなかったため、ちょん髷姿で揃い踏みを行った。

2006年9月場所は東前頭筆頭まで進み三役昇進を期待されたが、上位陣に対して苦戦し、10日目の雅山との取組で左ひざを痛め、翌日から休場した。これ以降しばらく怪我に苦しむことになる。2度目の十両優勝を果たし、わずか1場所で幕内復帰を果たしたが、7月場所初日の土佐ノ海戦でまたも左膝を痛め2日目より休場。しかし、再度の十両陥落となった9月場所で他を寄せ付けず、3度目の十両優勝を果たす。11月場所は2度目の帰り入幕ながら前半戦から好成績をあげて優勝争いに加わり、敢闘賞を受賞した。それ以後は引退数場所前まで大きな怪我もなく、幕内に定着していった。

上位定着・大関獲り[編集]

2008年1月場所では、7勝8敗と15日間皆勤での負け越しを初めて経験した。しかし、同年の7月場所では、西前頭5枚目の番付で10勝5敗と二桁勝利をあげた。この場所では上位陣に負け越した力士が多かったために、翌9月場所では初の三役となる小結昇進を果たした。この場所は9日目を終えて2勝7敗と非常に危なかったが終盤奮起したか強さを発揮、残り6日間を全部勝って8勝7敗と見事勝ち越し、11月場所では関脇昇進を果たした。その場所も勝ち越して翌2009年1月場所は東関脇に昇進した。5月場所は大関以上に全敗し、自身最低の4勝11敗という成績で4場所連続で在位した関脇から陥落してしまった。そればかりでなく、千秋楽の千代大海戦での明らかなダイビング無気力相撲であったとして、師匠を通じて注意処分を受けた[10]。西3枚目に下がった7月場所では序盤から好調で11勝4敗、三賞受賞はならなかったが翌場所の三役復帰を果たした。

大関獲りの話題が大きくなった時期は2009年9月場所だった。この場所把瑠都は5大関全員に勝つという偉業を成し遂げるが、これは1986年の保志(後の横綱北勝海)以来のことであった。優勝争いの方も、13日目まで2敗と両横綱を追走する立場だったが、14日目に鶴竜に敗れて3敗目となり優勝の可能性は消えた。それでも12勝3敗の成績で敢闘賞を受賞し一躍注目を浴びた。しかし、11月場所は9勝6敗と一桁の勝ち星に終わり、来場所は「かなりの大勝ではないと大関にはなれない」との声があった[11]

大関昇進の望みもあった2010年1月場所では、7日目に白鵬に初めて勝つ殊勲の星を挙げ、また白鵬の連勝を30で止めた。初優勝と大関昇進も期待されたが10日目に豊ノ島、11日目に朝青龍に敗れて3敗となってしまった。その後は千秋楽まで連勝を続け12勝3敗、初の殊勲賞を受賞した[12]。また、直近3場所の勝ち星の合計が大関昇進の目安となる三役の地位で合計33勝に達したものの、場所後は昇進の話題すら殆ど出ないままだった。次の3月場所を迎えるにあたり、審判部友綱審判部長は、把瑠都の大関昇進に必要な星の目安が「13勝以上」であるとの認識を示したが、これは「三役3場所33勝以上」の基準を1勝上回る条件であった[13]

その3月場所、把瑠都は場所前に左手親指のじん帯を損傷し、場所後の大関昇進は不安視されていた。しかし初日から、圧倒的に強い所と懐に入られる危ない所の両方を見せながらも、突き押しに著しい進境を見せて勝ち進んだ。11日目の白鵬との一番には何もできずに敗れたが、白鵬と千秋楽まで優勝争いを繰り広げた。優勝こそ逃したが大関以下の力士を全員破る14勝1敗の成績で終えて昇進基準を上回る成績を残し、場所後の大関昇進が確定的になった[14]。さらにこの場所は5度目の敢闘賞に加え、突き押しが評価されて初めての技能賞を受賞した。千秋楽の琴光喜との相撲は、立合いの突っ張りで相手を突き起こしておいて、右上手と左前褌を取って引き付け、一気に寄り切るという内容で、解説者の北の富士勝昭や元NHKアナウンサーで相撲評論家の杉山邦博[3]が技能賞に相応しいと太鼓判を押す内容であった。3月31日、大関昇進が決定。なお昇進伝達式での口上は「謹んでお受けいたします。稽古に精進して、 栄誉ある地位を汚さぬよう努力いたします」であった。近年は伝達式の口上に四字熟語を用いる力士が多いが、把瑠都は「自分が理解していない言葉を使っても意味がない」という理由で四字熟語は用いなかった。

大関昇進後[編集]

2012

新大関として出場の2010年5月場所、前半戦は初日から7連勝したものの、中日8日目の鶴竜に敗れて初黒星。9日目に勝ち越したものの、10日目から3連敗を喫するなど後半戦は失速、結局10勝5敗に留まった。続く7月場所は2日目から連敗するなど序盤波に乗れず、その後持ち直して11日目に勝ち越しを決めたが12日目から4連敗を喫し8勝7敗に終わった。9月場所は8日目まで7勝1敗と好調だったが、9日目魁皇に敗れてからは失速し、9勝6敗に終わった。11月場所は11日日まで10勝1敗で優勝争いに加わったが、12日目で平幕の豊ノ島(同場所14勝1敗で優勝同点)に不覚を取り2敗と後退、その後は14日目白鵬に、千秋楽魁皇に連敗し11勝4敗だった。

翌2011年1月場所は、初日敗れた後9日目まで8連勝とし優勝争いに加わるも10日目から3連敗するなど失速。千秋楽も琴欧洲に敗れ9勝6敗に終わる。同年3月場所は大相撲八百長問題により開催中止となった。同月、東日本大震災の直後から許可なく地方へ行くことを禁止されていた中で大阪市内の繁華街をジャージ姿で出歩いていたことが問題視され、協会から厳重注意を受けた[15]

2011年5月技量審査場所では、3日目の豪栄道戦で上手投げで敗れた直後、記者陣に対して「遊びの場所みたい」と問題発言、翌日理事長室に呼ばれ放駒理事長(元大関・魁傑)らに厳重注意の処分を受けた[16]。同場所は12日目まで10勝2敗だったが、翌13日目から3連敗を喫して又しても優勝争いから完全に脱落となった。

2011年11月場所は4日目まで1勝3敗と絶不調、一時は途中休場も危ぶまれた程だったが、その後は12日目で日馬富士に敗れた以外は白星を重ねて11勝4敗、千秋楽結びの一番では白鵬をはたき込みで下して2場所ぶりの勝利、さらに白鵬の9回目の全勝優勝を阻止した。

2012年1月場所は、初日から好調で相手を圧倒する相撲で13日目まで連勝街道を走り、13日目に白鵬が琴欧洲に敗れたため、初の幕内最高優勝を獲得した[17]。14日も勝ち星をあげ、千秋楽には全勝優勝をかけて白鵬と対戦したが敗れて全勝優勝はならなかった。14勝1敗で初場所を終えた。優勝インタビューでは、日本に呼んだ母親と妻の喜ぶ姿を見て、人目を憚らずに男泣きしながらも「お母さんがいなかったら私はいない。産んでくれてありがとう」と、心からの感謝を告げた[18]

場所後、12日目の稀勢の里戦で注文相撲を見せたことが横綱審議委員会に問題視され、当初は2場所連続優勝でも推挙しないという例外的な厳しい措置も示唆されたが、最終的には鶴田卓彦委員長が「役力士は正々堂々勝負すべき」と相撲内容を重視する方針を掲げた上で「12勝以上すれば議論になるのでは。準優勝でも内容が良ければ」とかなり甘めの基準を示すに至った。一方でこの場所後に審判部長に新任した鏡山は「次も優勝なら文句はない。そうでなければ(昇進は)ないのでは」と考えを示した[19]

2012年3月場所は、初の綱獲りに挑んだが12日目で3敗してしまい、昇進の最低条件として挙げられていた「13勝以上での優勝」を達成できなくなった。その後も日馬富士にしか勝利できず、最終的に10勝5敗であったため、結局横綱挑戦は失敗に終わった。翌2012年5月場所は11日目まで3敗を守ったが、その後連敗し優勝争いから脱落。千秋楽では、勝てば優勝決定戦進出となっていた稀勢の里を上手投げで下して優勝を阻止、楽日に存在感を見せた。2012年7月場所では初日から7連勝と好スタートを切ったが、後半戦で星を落とし9勝6敗、これが自身大関で最後に勝ち越した場所となった。

2012年9月場所初日、魁聖との取組で土俵際把瑠都の上手投げに魁聖が手をつき、把瑠都の足が俵内に残っていたにもかかわらず、行事軍配は魁聖の寄りを有利に挙げ、しかも審判団5人全員からも物言いがつかず、不運にも黒星とされてしまう[20]。把瑠都本人も「相手の手が先についてたのに。体勢は確かに悪かったけど…」と納得のいかないコメントを出している。土俵下で見ていた鏡山審判部長(元関脇・多賀竜)は「把瑠都の体は半分出ていたし、流れは完全に魁聖。ビデオを見ながらならば(物言いの)手を挙げられるが…」と言い訳するも、この直後視聴者から相撲協会へ抗議の意見が殺到した。2日目の碧山戦は勝利するも、翌3日目の臥牙丸戦では土俵際把瑠都の上手投げに軍配が挙がったが、物言いの末取り直しに。その相撲では臥牙丸に寄り切られ1勝2敗に。この取組で場所前から痛めていた右足の怪我が悪化、右足親指剥離骨折により全治1か月の診断が下され、4日目から途中休場(把瑠都の途中休場は当時平幕の2007年9月場所以来7月場所以来)。これで2009年7月場所から続いた幕内連続勝ち越しは18場所でストップ(同4日目に琴奨菊、6日目からは琴欧洲も休場を表明し6大関の内3人が途中休場)。

2012年11月場所は初の大関角番となった。初日の魁聖戦は送り出しで下したが、2日目の松鳳山戦で掬い投げで敗れた際、左太腿を痛めてしまう。翌3日目、左太腿裏肉離れで全治3週間の診断により途中休場(豪栄道戦は不戦敗)。その後再出場を果たせぬまま9日目に2場所連続負け越しとなり、大関在位15場所目で次場所関脇への陥落が決定してしまった[21][22]

関脇陥落~現役引退[編集]

2013年1月場所は関脇の地位で10勝以上を挙げれば、1場所で大関特例復帰だった[23][24]。だが、2日目の琴奨菊戦で早くも土、3日目の豪栄道戦も連敗するなど序盤から波に乗れず、10日目の日馬富士戦で5敗となり絶体絶命に。そして13日目の高安戦でついに6敗目を喫したため、これで大関特例復帰はならなかった[25]。千秋楽の戦は取り直しの末白星で終え、8勝7敗とぎりぎり勝ち越した。ちなみに関脇陥落場所で大関復活ならずも勝ち越した力士は、1974年7月場所の大受(9勝6敗)以来39年ぶり2人目のことだった。

翌3月場所も勝ち越したものの9勝6敗と1桁勝星だった。次の5月場所は3勝3敗で迎えた7日目、結果的に現役最後の取組となった稀勢の里戦で寄り倒しで敗れた際、古傷の左膝をまた痛めてしまい翌8日目から途中休場。結局再出場ならず[26]、翌7月場所は2009年7月場所以来平幕の地位(東前頭6枚目)へ転落となった[27]。しかしその7月場所も膝の怪我の回復が思わしくなく「左膝靭帯損傷で2週間の安静加療を要する」との診断書を提出、初日から休場[28]。同場所は千秋楽まで全休したため、翌9月場所は十両(東3枚目)へ陥落。なお元大関で十両転落者は大受・雅山に続いて史上3人目となる[29]

2013年7月場所後も再起を目指していたが、膝の故障は一向に良くならず殆ど稽古が出来ないことから9月場所の出場が危ぶまれていた。そして同年9月場所前の9月11日、本場所の土俵に上がる事無く、十両の地位で日本相撲協会に現役引退を申し出て土俵を去ることとなった[30]。日本国籍を取得していなかったため、大関経験者として現役名のまま協会に残ることが出来る権利も利用できずに相撲協会を離れることになった。尚大関経験者が引退後に即退職(廃業)したのは、1965年3月場所前引退の若羽黒以来48年ぶりだった(但し野球賭博問題で2010年7月場所前解雇となった琴光喜は除外。又横綱も含めると2010年1月場所後、度重なる不祥事で責任を取り引退した朝青龍以来3年ぶり)。在位15場所(133勝69敗23休)の短命大関に終わったが、戦後に昇進した大関の中で最高位が大関の力士としては琴風(在位22場所、212勝110敗8休)と共に大関勝率1位タイの.658を誇る[31]。故障が無ければ十分に横綱を掴む可能性があったと評される由縁である。

9月場所3日目、NHKテレビの大相撲中継・幕内取組時に特別ゲストとして生出演、現役時代の想い出話などを自らコメントしていた[32]。2014年2月8日には角界で例のない一般公開型の断髪式を行った[33]

引退前より角界に残る意思はなかったと報じられており、今後はエストニアの観光客誘致活動や母国での牧場経営などに携わる見込みである[34]。 また、曙が全日本プロレスへの勧誘を行っており、プロレス転身も示唆されている[35]

取り口[編集]

巨躯強力を活かした豪快な相撲が魅力で、左四つの体勢からの寄り、投げ、吊りを得意とした。相撲界においても「怪力」と評される強い握力の持ち主であり、廻しを取った際の安定感は特筆すべきものがある。通常の力士からすれば規格外の懐の深さと腕の長さにより、肩越しの上手など多少無理な体勢でも攻めることができ、元横綱の九重親方に「相撲の概念が変わる」とまで言わしめた。2012年の1月場所の13日目で初優勝を決めた取組でも、琴奨菊を相手に肩越しから取った上手で相手を吊り上げての白星であった。また、その懐の深さで引き技もよく決まった。膝を負傷する前は優れたスピードとバランス感覚も持ち合わせ土俵際の際どい場面での逆転もみせていたが、荒削りゆえの強引な相撲を指摘されることもあった。

膝の負傷後は、下半身の強化や相撲経験の深化によって、身体能力に任せるばかりではない正統派の四つ身の相撲を身につけつつあった。また、徐々に突き押しにも磨きがかかり、2009年後半ごろより豪快なもろ手突き突っ張りが見られるようになった。このもろ手突きは、貴乃花のビデオを見て研究し身につけたものである[36]。また、突っ張りに関しては、秀ノ山親方がかつての曙のようだと評している[37]。大関昇進を決めた2010年3月場所ではこの突き押しが評価されて、技能賞を受賞したと言える。

その巨躯からすれば当然だが、四つ身の攻防において頭をつけることは極めて稀で、2010年1月場所の琴欧洲戦を頭をつけて勝利した際のインタビューで「今まで頭をつける相撲をとったことがなかった」と把瑠都本人が認めていた。

しかしその反面左膝を初め、特に下半身の負傷が相次いだ原因は、一説に肩越しの上手にあるとされていた。高い位置から上手を取ると必然と膝が伸び、これが怪我を何度も誘引している可能性が否めなかった。また、上手の位置の都合上相手の差し手を絞ることがしづらく、肩越しの上手が防御として役に立っていない部分もあり、押し切れずに外四つ棒立ちで後退する相撲は下半身を故障する危険性が高く、これが引退を早めた要因と指摘する声が多かった。実際北の湖理事長は2012年11月場所、大関で2場所連続途中休場・負越により関脇陥落した把瑠都に対し、「しっかりと腰を割っていない。あれでは鍛えていることにならない」「突っ立ったまま相撲を取っている。下半身を強化するべきだ」と指摘していたが[38]、これが上記の不安を端的に説明した形となってしまった。この怪我の多さは稽古不足によるところが大きく角界関係者やスポーツライターは口をそろえて「自業自得」、「ちゃんと下半身を鍛えていれば横綱になっていた」という突き放した意見を口にしていた[39][40]。引退会見では自ら稽古不足を悔いる一幕があり、最高位まで上り詰められなかった理由を「チャンスはたくさんあった。全て私のせい」と話して自責を主張した[41]

エピソード[編集]

人物[編集]

  • 外見から一部マスコミでは角界のディカプリオと呼ばれた。
  • 親孝行者としても知られている。遠く離れた日本で力士としての生活を選んだのは、今まで女手一つで兄弟3人を苦労して育ててきてくれた母親を助けたい一心だった。エストニアの関係者も、「日本に来る前に“家族を幸せにしたいから”と話していた」と明かしたという。
  • 趣味はコイン集めと釣り[42]
  • 語学に堪能で、入門の時点でエストニア語のみならず、ドイツ語ロシア語英語仏語を話すことができた。
  • 2009年2月にロシア出身の2歳年上の女性と結婚した(現在のエレナ夫人)。エレナ夫人は初めて会ったときに把瑠都の大きな体にも驚かず、その後の把瑠都の引退劇にも動じない人物であると雑誌に紹介された[43]
  • BISTRO SMAPに出演した時に「実は恐がり」と言った。注射も恐くて苦手らしい。
  • 読書も好んでおり、現役時代はエストニア語の本をインターネットで取り寄せて読むことが多かった。『相撲』2012年1月号31頁掲載の記事では記者が「自伝を書きませんか?」と話し、把瑠都が「まだ27歳だよ(笑)。人生これから!」と苦笑しながら返す場面が見られた。しかしその雑誌が発行されてからわずか2年足らずの2013年9月場所前に把瑠都は引退し、角界を去る事となった。

相撲関連[編集]

  • 髪が細く、伸びも遅いブロンドヘアのコーカソイドであり、どのように大銀杏を結うのか注目されていた。初土俵から3年後の2007年5月場所で初めて大銀杏を結ったが、これはかつての兄弟子である三保ヶ関部屋の三浦の毛髪を使った付け毛であった。現在は髷を結うときの鬢付け油に黒い着色をしているため、ブロンドというより茶・黒に近い髪色キャラメルである。
  • 2013年3月場所9日目の横綱日馬富士との取り組みでは平蜘蛛型の仕切りを真似て見せた。しかし肝心の相撲は、すり足が無い不安定な足取りに終始し、突き押しで日馬富士を土俵際まで追い詰めるものの逆転の突き落としを喰らい、勢いよく土俵下へ落ちる敗戦を喫した。
  • 握力が右85kg、左93kgという怪力の持ち主。把瑠都本人の弁では「リンゴくらいなら簡単に握り潰せる」とのこと。BISTRO SMAPでは両手で裂くようにリンゴを割っていた。
  • 前述の通り脚の負傷が多いが、呼出の支えを借りて土俵を降りるような重傷を負っても、退場前に必ず一旦呼出に手を離させ自力で振り向き土俵に一礼してから退場する。
  • 塩撒きパフォーマンスを行う北桜との対戦では、そのお株を奪うような大量の塩撒きを披露して館内を湧かせたり、出身地を「奄美大島」と答え(同じ尾上部屋の里山が奄美市の出身で、角界ではマイナーな出身地であることからか)たり、「アップル大好き♡」とリンゴを頬張ったりと、極めて陽気で茶目っ気のある性格であり、部屋での人間関係も良好である。
  • 地元のインタビューで力士と後援会はあまり親密にならない方が良いという意見を寄せていた。同じインタビューの中で部屋の食事は栄養学的ではなく伝統のちゃんこからしか選べないといった不満も口にしていた。

合い口[編集]

  • NHKの新十両紹介のインタビューでもっとも対戦したい力士に琴欧洲を挙げた。理由は自分より背が高い力士であるため。2006年7月場所9日目に初顔の取組が組まれ、がっぷり四つからの投げの打ち合いを制して初勝利を挙げた。2009年1月場所では敗れてこの場所初黒星を喫した。琴欧洲とはあまり相性が良くなく、対戦成績は10勝17敗(不戦敗1)になっていた。
  • 白鵬との取組は力の入る長い相撲になることが多かったが、3勝25敗と合口は悪かった。初顔から11連敗していたものの、2010年1月場所に掬い投げで初勝利。その後再び7連敗を喫したが、2011年7月場所で久しぶりに勝利し、さらに2011年11月場所千秋楽結びの一番においては白鵬の9回目の15戦全勝優勝を阻止した。だが、自身幕内初優勝の2012年1月場所は14日目まで14戦全勝も、翌日千秋楽にその白鵬に阻まれて15戦全勝は果たせなかった。
  • 朝青龍との取組もまた熱戦になるものの、9戦全敗で一度も勝てずに終わった。

略歴[編集]

  • 2002年
  • 2003年
    • エストニアジュニア柔道選手権優勝。
  • 2004年
    • 2月 - 日大相撲部の倉園一真(後の幕下薩摩力尾上部屋、2009年9月現役引退)の父親の仲介でエストニアから北欧司入間川部屋、2004年9月現役引退)と共に来日し、日大相撲部合宿所で日本や相撲に親しむ。
    • 5月場所 - 三保ケ関部屋に入門、初土俵。
    • 7月場所 - 序ノ口優勝。
    • 9月場所 - 同部屋の里山との優勝決定戦を制し、序二段優勝。
  • 2005年
    • 9月場所 - 新十両、所要8場所(前相撲から)は小錦と並び歴代3位タイ。初日から13連勝の豊ノ島に土を付け全勝を阻み、12勝3敗で優勝次点と活躍。
    • 11月場所 - 最速記録の所要10場所での入幕も見える西十両4枚目に昇進したが、場所の初日に急性虫垂炎を発症し初日から休場(1不戦敗14休)。
    • 12月 - 入門以来初めて故郷エストニアに一時帰国。
  • 2006年
    • 1月場所 - 11月場所の休場で十両陥落(西幕下3枚目)、7人による優勝決定戦を制し幕下優勝(6勝1敗)。
    • 3月場所 - 再十両(東十両11枚目)、初日から連勝し13日目にして十両初優勝を決め、更には1963年11月場所の北の富士以来42年4カ月ぶり史上4人目、外国人としては初となる15戦全勝優勝を達成。
    • 5月場所 - 新入幕、所要12場所(前相撲から)は所要11場所の琴欧州に次ぎ、板井小錦栃東朝青龍時天空嘉風と並び歴代2位タイ。11勝4敗で優勝次点、自身初の三賞・敢闘賞を受賞。
    • 8月 - 尾上部屋の分家独立に伴い、白石、里山らとともに三保ケ関部屋から尾上部屋に移籍。
  • 2007年
    • 1月場所 - 3日目の琴奨菊戦で浴びせ倒された際に左膝負傷、翌日から途中休場(2勝2敗11休)。
    • 3月場所 - 怪我の回復が遅れて全休。
    • 5月場所 - 西十両11枚目に陥落、14勝1敗の圧倒的な成績を挙げて2度目の十両優勝。
    • 7月場所 - 再入幕(前頭14枚目)、初日の土佐ノ海戦で浴びせ倒された際に左膝を負傷し3日目から途中休場。
    • 9月場所 - 十両陥落(西十両9枚目)、圧倒的な強さで3度目の十両優勝。
    • 11月場所 - 2度目の再入幕、13日目まで2敗で優勝争いに加わり11勝4敗の好成績を残し敢闘賞受賞(2回目)。
  • 2008年
    • 1月場所 - 初の15日間皆勤での負け越し(7勝8敗)。
    • 3月場所 - 先場所の負け越しで番付を後退させたが、優勝次点の12勝3敗の好成績を挙げ敢闘賞受賞(3回目)。
    • 5月場所 - 2006年9月場所以来10場所ぶりに前頭筆頭まで番付を上げたが、上位の壁に跳ね返され初めての2桁負け越し(5勝10敗)。
    • 7月場所 - 西前頭5枚目、10勝5敗。
    • 9月場所 - 自身初の三役昇進(東小結)、8勝7敗。
    • 11月場所 - 新関脇(西関脇)、9勝6敗。
  • 2009年
    • 2月 - 2歳年上のロシア出身の女性(現エレナ夫人)と結婚。
    • 5月場所 - 千秋楽に大関・千代大海が把瑠都をあっけなく押し倒した取組に対し、監察委員会(友綱委員長)が師匠を通して「無気力相撲に相当する」の理由で両力士に注意。
    • 9月場所 - 東小結で12勝3敗、保志以来23年ぶりに関脇以下の力士による5大関撃破を果たし敢闘賞受賞(4回目)。
    • 10月 - Tシャツ、短パン姿で六本木を闊歩する姿が写真週刊誌にキャッチされ、日本相撲協会から厳重注意処分。
  • 2010年
    • 1月場所 - 東関脇で12勝3敗、殊勲賞受賞(1回目)。
    • 3月場所 - 東関脇、千秋楽まで白鵬と優勝争いを繰り広げ優勝次点の14勝1敗、敢闘賞(5回目)と自身初の技能賞(1回目)を受賞。
    • 3月31日 - 理事会で大関昇進を満場一致で決定、外国出身力士としては8人目。
    • 5月場所 - 新大関。初日から7連勝するも、その後失速し10勝5敗。
  • 2011年
    • 3月場所 - 大相撲八百長問題により本場所開催中止。
    • 5月場所 - 技量審査場所として開催。3日目の取組後不謹慎発言を行い、翌日相撲協会から厳重注意。
    • 11月場所 - 千秋楽結びの一番、14戦全勝だった白鵬をはたき込みで下し、白鵬の9回目の全勝優勝を阻止。
  • 2012年
    • 1月場所 - 初日から自身初の14連勝(前年11月場所13日目から17連勝)、13日目白鵬が琴欧州戦で敗れ3敗となった時点で自身初の幕内最高優勝が決定。千秋楽結びの一番、白鵬戦で全勝優勝を狙うも寄り切りで初黒星、14勝1敗。
    • 3月場所 - 自身初の綱取り場所だったが、10勝5敗に終わり結局失敗。
    • 9月場所 - 右足親指剥離骨折のため4日目から途中休場。
    • 11月場所 - 初の大関角番、左太腿裏肉離れのため3日目から途中休場、2場所連続負け越しで大関陥落。
  • 2013年
    • 1月場所 - 16場所ぶりの関脇。大関特例復帰を目指したが13日目で6敗目を喫し、復帰に失敗。
    • 5月場所 - 左膝前十字靱帯・半月板損傷のため8日目から途中休場。
    • 7月場所 - 2009年7月場所以来の平幕(東前頭6枚目)へ陥落。左膝靭帯損傷の怪我が回復せず、初日から全休。
    • 9月場所 - 十両(東3枚目)へ陥落。元大関力士の十両転落は史上3人目となったが、初日を前に現役引退を発表。

主な成績[編集]

通算成績[編集]

  • 通算成績:431勝213敗102休 勝率.669
  • 幕内成績:330勝197敗88休 勝率.626
  • 大関成績:133勝69敗23休 勝率.658
  • 十両成績:54勝7敗14休(5場所・番付上は6場所)
  • 現役在位:55場所(番付上は56場所)
  • 幕内在位:41場所
  • 大関在位:15場所
  • 三役在位:12場所(関脇10場所、小結2場所)

各段優勝[編集]

  • 幕内最高優勝:1回(2012年1月場所)
  • 十両優勝:3回(2006年3月場所、2007年5月場所、2007年9月場所)
  • 幕下優勝:1回(2006年1月場所)
  • 序二段優勝:1回(2004年9月場所)
  • 序ノ口優勝:1回(2004年7月場所)

三賞・金星[編集]

  • 三賞:7回
    • 殊勲賞:1回(2010年1月場所)
    • 敢闘賞:5回(2006年5月場所、2007年11月場所、2008年3月場所、2009年9月場所、2010年3月場所)
    • 技能賞:1回(2010年3月場所)
  • 金星:なし

場所別成績[編集]

[44]

把瑠都凱斗
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
2004年
(平成16年)
x x (前相撲) 東 序ノ口 #40
優勝
7–0
東 序二段 #30
優勝
7–0
西 三段目 #33
5–2
 
2005年
(平成17年)
東 三段目 #6
6–1
 
西 幕下 #32
5–2
 
東 幕下 #22
6–1
 
西 幕下 #6
5–2
 
西 十両 #14
12–3
 
西 十両 #4
0–1–14
 
2006年
(平成18年)
西 幕下 #3
優勝
6–1
東 十両 #11
優勝
15–0
西 前頭 #11
11–4
西 前頭 #4
9–6
 
東 前頭 #1
4–7–4[45]
 
西 前頭 #6
10–5
 
2007年
(平成19年)
西 前頭 #3
2–2–11[46]
 
西 前頭 #13
休場[47]
0–0–15
西 十両 #11
優勝
14–1
東 前頭 #14
0–2–13[48]
 
西 十両 #9
優勝
13–2
東 前頭 #16
11–4
2008年
(平成20年)
西 前頭 #6
7–8
 
東 前頭 #7
12–3
西 前頭 #1
5–10
 
西 前頭 #5
10–5
 
東 小結
8–7
 
西 関脇
9–6
 
2009年
(平成21年)
東 関脇
9–6
 
東 関脇
8–7
 
東 関脇
4–11
 
西 前頭 #3
11–4
 
東 小結
12–3
東 関脇
9–6
 
2010年
(平成22年)
東 関脇
12–3
東 関脇
14–1
西 大関 #3
10–5
 
東 大関 #1
8–7
 
東 大関 #2
9–6
 
西 大関 #1
11–4
 
2011年
(平成23年)
西 大関 #1
9–6
 
八百長問題
により中止
東 大関 #2
10–5
 
東 大関 #1
11–4
 
西 大関 #1
10–5
 
東 大関 #1
11–4
 
2012年
(平成24年)
東 大関 #1
14–1
 
東 大関 #1
10–5
 
西 大関 #1
9–6
 
東 大関 #2
9–6
 
西 大関 #2
1–3–11[49]
 
東 大関 #3
1–2–12[50][51]
 
2013年
(平成25年)
西 関脇
8–7[52]
 
西 関脇
9–6
 
西 関脇
3–5–7[53]
 
東 前頭 #6
休場[54]
0–0–15
東 十両 #3
引退
––[55]
x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

幕内対戦成績[編集]

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
豊真将 12 3 栃乃花 1 1 北勝力 7 3 北桜 1 1
片山 1 0 白露山 2 1 十文字 1 0 嘉風 6 1
春日王 1 0 普天王 4 1 玉乃島 3 2 岩木山 3 0
朝赤龍 6 4 雅山 10 5 白鵬 3 25 日馬富士 12 16
琴奨菊 15 13 旭天鵬 13 4 安美錦 16 7 琴光喜 5 7
琴欧洲 10 17(1) 千代大海 7(1) 5 稀勢の里 21 6 玉春日 3 0
栃乃洋 3 1 露鵬 1 5 栃東 1 1(1) 朝青龍 0 9
豪風 6 3 出島 5 0 高見盛 5 0 豊ノ島 18 4
垣添 2 2 土佐ノ海 1 1 海鵬 1 1(1) 春日錦 1 0
若麒麟 1 0 栃煌山 16 2 若ノ鵬 1 1 黒海 2 2
若の里 7 1 豊響 5 0 豪栄道 10 8(1) 魁皇 7 8
鶴竜 13 12 時天空 6 0 栃ノ心 12 1 武州山 1 0
翔天狼 2 0 阿覧 8 2 北太樹 5 0 白馬 1 0
隠岐の海 5 1 玉鷲 1 0 臥牙丸 3 2 栃乃若 2 0
妙義龍 3 4(2) 高安 2 2 若荒雄 3 0 碧山 2 0
魁聖 1 1 松鳳山 1 1 1 0

(カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦勝、不戦敗の数、太文字は2014年3月場所終了現在、現役力士

TV出演[編集]

現役時代
引退後

CM出演[編集]

脚注[編集]

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  1. ^ 番付発表後に日本相撲協会に対して引退届を提出した為、2013年9月場所が最終場所扱いとなる。
  2. ^ 現在では、日本相撲協会の公式プロフィール本場所の場内アナウンスなどにおいては、出生地のヴァイケ・マーリヤ郡ではなく、育ったラクヴェレ(ラエクヴェレ)郡(現在のラクヴェレ市)を出身地として公称している。
  3. ^ a b c TBSみのもんたの朝ズバッ!』・「ズバッ!8時またぎ」2010年3月29日放送より。
  4. ^ よみうり寸評 読売新聞社 2010年4月30日
  5. ^ 原点は人懐っこい笑顔…把瑠都 角界に高い適応力(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース 2010年3月29日
  6. ^ 把瑠都“エストニアの怪人2世”育成 nikkansports.com 2014年2月9日9時27分 紙面から
  7. ^ 把瑠都の“日本の両親”倉園さん夫婦「今日は祝杯」…春場所14日目:相撲:スポーツ:スポーツ報知 2010年3月29日
  8. ^ ただし、千秋楽の「入れ替え戦」とも言える取組では燁司に敗れ、さらに同年5月場所において白石は同地位、同成績、比較対象となった須磨ノ富士(東12枚目で5勝10敗)は把瑠都の比較対象となった和歌乃山(西6枚目で3勝12敗)を単純計算で下回る地位・成績であったにもかかわらず十両昇進を見送られており、この昇進に関して疑問の声も多数上がった(同地位同成績での十両昇進は1991年11月場所の寺木(蒼樹山)以来14年ぶり、幕下が七番制になってからの45年間で9例目)。新十両の翌9月場所は優勝次点である12勝3敗の成績だったことから、結果的には正しい昇進だったと言えるものの、番付編成の基準の一貫性のなさが改めて問題となった。
  9. ^ 過去に十両で15戦全勝を達成した力士は3人。北の富士が横綱、栃光豊山大関まで昇進している。
  10. ^ 「大相撲夏場所:千秋楽、千大海と把瑠都「無気力」 監察委が「注意」」毎日新聞2009年5月30日 東京朝刊
  11. ^ 平成時代以降、昇進2場所前の白星が1桁で大関に昇進した力士は、1992年5月場所後のと、2014年7月場所後の豪栄道の2人のみ。なお「大関」の記事も参照。
  12. ^ これ以前は丸1年殊勲賞の受賞自体が途絶えていた。
  13. ^ 友綱審判部長認識“把瑠都の昇進には13勝以上”(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex ニュース - 2010年3月27日閲覧
  14. ^ 大関昇進確実!把瑠都“自画自賛”の12勝目(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex スポーツ 大相撲 2010年春場所 - 2010年3月27日閲覧
  15. ^ 把瑠都 引退 今後は?「エストニアの観光大使になりたい」 Sponichi Annex 2013年9月12日 06:00
  16. ^ 把瑠都、理事長室に即呼び出し厳重注意…技量審査場所4日目 スポーツ報知 - 2011年5月12日閲覧
  17. ^ 把瑠都、13連勝で初優勝 スポーツ報知 2012年1月20日閲覧
  18. ^ 把瑠都、涙「産んでくれてありがとう」…初場所千秋楽 スポーツ報知 2012年1月27日閲覧
  19. ^ 『相撲』2012年3月号37頁
  20. ^ 取組直後のビデオ再生で、NHK解説者の北の富士が「これは明らかな誤審ですよ」と指摘する程だった。
  21. ^ 大関陥落した力士は、2009年11月場所の千代大海以来3年ぶりとなる。
  22. ^ カド番大関把瑠都が休場 関脇降格へ 左太腿裏の肉離れスポニチアネックス 2012年11月13日閲覧
  23. ^ 但し現行の特例復帰制度で、過去大関再昇進に成功した力士は僅か4人(その内三重ノ海はのちに横綱昇進、栃東は2度返り咲き)のみである。
  24. ^ 把瑠都降格に見る、大関復帰の高い難易度。sportnavi PLUS 幕下相撲の知られざる世界 2012年11月16日閲覧
  25. ^ 把瑠都 痛恨の6敗目…1場所での大関返り咲きならずスポニチアネックス 2013年1月26日閲覧
  26. ^ 【大相撲】把瑠都が休場 左膝靭帯など損傷/夏場所msn産経ニュース 2013年5月19日閲覧
  27. ^ 元大関の平幕陥落者は、2002年3月場所の雅山以来昭和以降18人目となる。
  28. ^ 把瑠都、診断書を提出…全休なら十両陥落は決定的スポニチアネックス 2013年7月8日閲覧
  29. ^ 把瑠都休場「膝が怖い」全休なら十両日刊スポーツ 2013年7月6日閲覧
  30. ^ 把瑠都、引退届を提出…膝の完治難しく? 読売新聞 2013年9月11日閲覧
  31. ^ 厳密には琴風は.65839、把瑠都は.65842。皮肉にも両者はケガが原因で大関から陥落した点、それからまもなくケガで大きく番付を下げて若くしての引退を余儀なくされた点(琴風は28歳7か月、把瑠都は28歳10か月)で共通している。
  32. ^ 元大関把瑠都が思い出披露 幕内中継にゲスト出演msn産経ニュース 2013年9月17日閲覧
  33. ^ 角界史上初!!把瑠都が公開断髪式 Dairy Sports Online 2013年12月10日
  34. ^ 未練なし!把瑠都が角界と"完全決別"東スポWeb 2013年9月12日16時00分
  35. ^ 曙が全日でいきなり大仕事!把瑠都獲得も示唆 東スポWeb 2013年9月12日16時00分
  36. ^ 5連勝発進!把瑠都ゴキゲン「あ、ほんまに〜」(相撲) ― スポニチ Sponichi Annex スポーツ 大相撲 2010年春場所 2010年3月27日閲覧
  37. ^ NHK大相撲中継解説に座った2010年3月場所13日目の発言。
  38. ^ 大関転落決定的な把瑠都へ理事長再起促す - 日刊スポーツ 2012年11月13日20時17分付
  39. ^ 把瑠都 自業自得の”転落人生” 東スポWeb 2012年1月20日11時03分
  40. ^ 身から出たさび! 大関復帰ならなかった把瑠都は一から出直し THE REAL LIVE WEB 2013年01月26日 17時59分
  41. ^ 把瑠都引退、「欧州初の横綱」夢届かず 「もっと厳しくやればよかった」 msn産経ニュース 2013.9.12 09:04
  42. ^ 「NHK大相撲中継」平成20年名古屋場所展望号収録のインタビューより
  43. ^ 『相撲』2013年12月号90頁
  44. ^ Rikishi in Juryo and Makunouchi” (English). szumo.hu. 2007年7月3日閲覧。
  45. ^ 左膝内側側副靱帯及び左膝前十字靱帯損傷のため11日目から途中休場
  46. ^ 左膝前十字靱帯損傷のため4日目から途中休場
  47. ^ 左膝前十字靱帯損傷のため初日から全休
  48. ^ 左膝内側側副靭帯損傷のため2日目から途中休場
  49. ^ 右足親指剥離骨折のため4日目から途中休場
  50. ^ 初の大関角番
  51. ^ 太腿裏肉離れのため3日目から途中休場、大関の地位で2場所連続負け越し
  52. ^ 関脇陥落
  53. ^ 左膝前十字靱帯及び半月板損傷のため8日目から途中休場
  54. ^ 左膝靭帯損傷のため初日から全休
  55. ^ 9月場所前に引退を表明

関連項目[編集]

外部リンク[編集]