若乃花幹士 (初代)
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|---|---|---|---|---|
映画『若ノ花物語・土俵の鬼』(1956年)に出演した若乃花(上)
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| 基礎情報 | ||||
| 四股名 | 若乃花幹士 | |||
| 本名 | 花田 勝治 | |||
| 愛称 | オオカミ | |||
| 生年月日 | 1928年3月16日 | |||
| 没年月日 | 2010年9月1日(満82歳没) | |||
| 出身 | 青森県弘前市青女子 | |||
| 身長 | 179cm | |||
| 体重 | 107kg | |||
| BMI | 33.4 | |||
| 所属部屋 | 二所ノ関部屋→芝田山部屋→花籠部屋 | |||
| 得意技 | 左四つ、上手投げ、呼び戻し | |||
| 成績 | ||||
| 現在の番付 | 引退 | |||
| 最高位 | 第45代横綱 | |||
| 生涯戦歴 | 593勝253敗70休4分(65場所) | |||
| 幕内戦歴 | 546勝235敗4分55休(57場所) | |||
| 優勝 | 幕内最高優勝10回(全勝1回) 三段目優勝1回 序二段優勝1回 |
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| 賞 | 殊勲賞2回 敢闘賞2回 技能賞1回 |
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| データ | ||||
| 初土俵 | 1946年11月場所 | |||
| 入幕 | 1950年1月場所 | |||
| 引退 | 1962年5月場所 | |||
| 引退後 | 二子山部屋師匠 日本相撲協会第6代理事長 |
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| 備考 | ||||
| 金星6個(羽黒山2個、東富士2個、千代の山2個) | ||||
| 2013年2月13日現在 | ||||
初代 若乃花 幹士(わかのはな かんじ、本名:花田 勝治(はなだ かつじ)、1928年(昭和3年)3月16日 - 2010年(平成22年)9月1日)は、大相撲の力士、第45代横綱。所属は入門当時は二所ノ関部屋、1953年に花籠部屋の独立とともに移籍。青森県弘前市青女子(あおなご)出身。身長179cm、体重107kg。血液型はB型。弘前市名誉市民。土俵の鬼と呼ばれた。戦後最軽量横綱である。[1](歴代史上最軽量は栃木山の103㎏)
引退後二子山部屋を創設し、弟である大関・初代貴ノ花(のち藤島→二子山)、横綱・2代若乃花(現:間垣)、横綱・隆の里(のち鳴戸)、大関・若嶋津(現:松ヶ根)らを育て、日本相撲協会の理事長もつとめた。
第65代横綱・貴乃花(現:一代年寄・貴乃花親方)と第66代横綱・3代若乃花(のち藤島、現実業家・タレント)の二人は甥にあたる。 愛人関係にあった韓国人女性との間の息子が藤島部屋に入門したが、幕下止まりで1997年に廃業している。
目次 |
略歴 [編集]
誕生から横綱昇進まで [編集]
青森のリンゴ園農家に、10人兄弟の長男(上に姉が1人いた)として生まれた。しかし、1934年の室戸台風のため作物が全滅、一家は破産状態で北海道室蘭に移住した。沖仲仕などの力仕事で家計を支えていたが、1946年、大関佐賀ノ花ら二所ノ関一門の巡業で催された相撲大会に飛び入りで参加、本職の力士を数名倒してみせた。このことが大ノ海(のちの師匠・花籠)の目に留まり、働き手を失いたくない父親の反対を押し切って入門。条件は「3年で関取になれなければ帰る」というものだったという。
「若ノ花」の四股名は大ノ海の若い時の名を譲られたもの。このため後年、「若ノ花・若乃花は全部で何人か」という問題が取りざたされた。もちろん、彼を初代とする数え方が一般的ではあるが、自身は「師匠が初代、自分は二代目」と数えていたらしい。
入門後は「二所一門の猛稽古」によって力を付けた。最も彼をしごいたのは後にプロレス入りする力道山で、これは成績不振に陥った場所後に景気付けに兄弟子と蕎麦を食べに行こうとしたところを力道山に見付かり、夜逃げと勘違いされて目を付けられたからであるという。ある時、あまりの猛稽古で土俵に這ったまま立てなくなったが、それでも容赦がなく、このままでは殺されると力道山の脛にかみ付き、廻し姿のまま部屋から脱走して近くの隅田川に飛び込んだという逸話がある。一説には、のちのプロレスラー力道山のトレードマークである黒タイツは、この時の古傷を隠すためだったともいう。本人も力道山からの援助・教えは身にしみたと述懐している。
後に大関となる琴ヶ濱との稽古も凄まじいものだったという。当時は高砂と二所ノ関で合同の巡業を打つことが多かったので、東富士にも可愛がられた。鏡里もまた若乃花によく稽古をつけていた。
入門当時は敗戦直後の混乱の中で相撲人気が大きく衰えた時期であり、相撲協会は旧両国国技館をGHQに接収され興行も各地を転々として行われた。1947年6月場所は明治神宮外苑で行われたが、そのとき隣の明治神宮野球場で開催された学生野球の方に客が集まるのを見て以来、「野球は商売敵」と言って、頑として野球はやらなかったという。
1946年11月場所の初土俵から各段優勝に近い成績で、1949年5月場所には十両に昇進。家族と約束した3年より約半年早かった。
関取昇進を祝って弟弟子たちと夜通し祝杯をあげていて、金が足りなくなり、慌てて東富士に金の無心をした。東富士としては、前記の通り可愛がっていた相手であり、すぐに金を出してやって店の方とはそれですんだが、後で相撲協会の側で「新十両の分際で横綱に借金を申し込むとは」と問題視された。中には除名まで主張する意見もあったが、羽黒山のとりなしもあって救われた。「あの2人(東富士と羽黒山)には足を向けて寝られません」と後々まで語っていたが、やがて入幕してこの恩人2人から金星を奪い恩を返している。
下半身の強さ、特に膝のバネに独特のものがあり、「異能力士」とあだ名された。脚の筋肉の付き方は見事であり、これは室蘭時代の舟板の上での労役によるところが大きいとされる。その必殺技として名高い「呼び戻し」を実際に食った体験者である鳴門海などが、「腕力でなく、下半身からの力で投げ捨てられる感じ」と証言している。
この「異能力士」の他に、若き日は「オオカミ」のあだ名があった。後に「ウルフ」のあだ名を持つ千代の富士が出世する際にこのあだ名がクローズアップされた。角界には“動物のあだ名が付くと出世する”という言い伝えがあるが、若ノ花はその言い伝えを証明するかのように番付を上げていった。
1953年、師匠の大ノ海が引退と共に二所ノ関部屋から独立し、花籠部屋(独立当初は芝田山部屋)を創設するとそれに従うが、当初は小部屋ゆえの苦労が絶えなかった。巡業も引き受け先が見付からず、辺鄙な土地に出かけて部屋の若い衆相手に胸を貸す稽古を延々と続けたという。
1955年9月場所、西関脇で10勝4敗1分。この1引分は横綱千代の山と水入り取り直しの計17分15秒に及ぶ前代未聞の大相撲の末だった。この相撲を評価され、場所後に関脇松登と共に大関に昇進する。昇進前3場所の通算勝ち星は28勝(引分が2回あるので事実上29に等しいが)なので、現在の基準で言えば甘い昇進だったことになる。当人も大関になれるとは思いもよらず、番付編成会議の朝、家族とともに旅行に出かけようとしたところを、新聞記者にあわてて呼び止められたという逸話が残る。しかし、新大関の1956年1月場所は他の2大関が負け越す中優勝した横綱鏡里に1勝差の13勝2敗、大関推挙が失敗ではなかったことを自ら証明してみせた(ちなみに同時に大関に昇進した松登は後に3場所連続負け越しで大関を陥落することになるが、大関陥落決定となる黒星を付けたのは若乃花である)。
翌場所も12勝3敗で優勝決定戦出場(優勝は関脇朝汐)、次の5月場所12勝3敗で前頭9枚目大晃との決定戦を制して初優勝、翌9月場所に横綱をかけたが、場所前に長男がちゃんこ鍋をひっくり返して火傷で亡くなるという悲運に見舞われる。
稽古どころではなく本場所出場も危ぶまれたが出場を強行、愛児の名を記した数珠をさげて場所入りし、支度部屋でほとんど一言も発しないその姿は鬼気迫るものであった。水入りの苦戦を強いられることの多かった前頭5枚目出羽錦をあっという間に寄り切るなど初日から12連勝、連続優勝と横綱は確実、あるいは全勝優勝なるかと思われたが、扁桃腺炎を発症、高熱に襲われ13日目を休場、千秋楽には出場の意欲を見せ横綱栃錦と割が組まれたが当日病状が悪化してやむなく休み不戦敗、結局12勝2敗1休(2敗はいずれも不戦敗[2])に終わる。綱取りは夢と消えたが、皮肉にもこの悲劇が「数珠をさげた名力士」として若ノ花の人気をさらに高めた。翌1957年には日活が映画『若ノ花物語・土俵の鬼』を制作、若ノ花自身も出演した。
同年9月場所より「若乃花」に改名。画数占いですすめてくれる人があったのと、愛児の一周忌を機に心機一転をはかるためと言われている。
1957年11月場所は12勝3敗の優勝次点で、翌1958年1月場所は13勝2敗で優勝。場所後45代横綱に推挙される。ちょうど昇進場所となる1月に「2場所連続優勝、もしくはそれに準ずる成績」という横綱昇進の内規を制定した横綱審議委員会の一部委員からは反対も出たが、相撲協会がこれを押し切った形だった。昭和生まれで最初の横綱である。
横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であり、負け越せば引退以外に道はないため、自分が養うべき家族のことを考えて、推挙を受けるべきかどうか、かなり悩んだという(大関以下の力士は負け越してもその時の実力に見合った番付で比較的長く現役を続けることができるが、それは横綱には許されず、横綱が負け越せば引退のみである)。結局受けることにしたが、問題があった。横綱は三ツ揃えの化粧廻しが揃うまでは一門の先輩横綱から借りるのが通例だが玉錦以来実に20年ぶりの横綱、しかも玉錦の廻しは戦時中の空襲で焼けてしまい使えない。さらに困ったことに、土俵入りを指導する先輩横綱も一門にはいなかった。困っていた若乃花を助けたのは、理事長の時津風とその弟子鏡里だった。事情を知った時津風は土俵入りの指導を引き受け、三ツ揃えの廻しも唯一焼けずに完全な形で残っていたものを貸し出してくれた。
栃・若時代 [編集]
「栃錦清隆#横綱昇進と「栃若時代」」も参照
初対決がいきなりの大勝負、次の対戦も水入りの末二番後取り直しと、栃錦との取組は常に大熱戦であった。技の打ち合いとしのぎ合いで激しく土俵を動き回る両雄の姿はたちまちファンを魅了し、当時登場したテレビの魅力を発揮するのにもふさわしいものであった。
初土俵が遅かったこともあって、番付面では常に栃錦が上を行っており、大関、横綱とも、常に惜しいところで栃錦のために星を落として逃してきた。一方の栃錦にとっても何度も全勝や優勝を阻まれた相手である。お互いに横綱となってからも、この最大のライバルと常に名勝負を展開、特に年六場所となった1958年以降は毎場所のように二人で優勝を分け合い、戦後最初の黄金期である「栃・若時代」を実現する。現在でもこの2人で築き上げた一時代に対する評価は高くこれを上回るものはまだない(朝潮、大内山など強くて個性的な力士が多数居た事も含めて)と考える人も多い。
1959年5月場所、初日から14連勝の栃錦を千秋楽に下して優勝決定戦に持ち込み、逆転優勝。これは史上初めてのケースだった。
1960年3月場所では、ともに14連勝同士で千秋楽に対戦。これも史上初となる横綱同士による千秋楽全勝対決を寄り切りで制して、初の全勝優勝を達成。当時この取組は「相撲史始まって以来の世紀の決戦」と言われた。この決戦の前夜、若乃花は緊張と不安でどうしても落ち着かず、少しでも気分をまぎらわそうと映画館へ向かった。中に入ると、やけに大きな体をした人物が前の席に座っている、頭に髷があったのでもしやと思ったら栃錦だったという。これを見て、栃錦も自分と同じように不安な気持ちなのだと知った若乃花は、すっかり緊張が解けて気分が楽になり、翌日は落ち着いた気持ちで決戦に臨むことができ、見事に勝利をつかむことができたという。後日談として、この時の映画は、若乃花は「西部劇だった」と言い、栃錦は「ドイツの恋愛映画だった」と、証言が食い違っている。一説にはジョン・ウェインの「アラモ」だったのではないかとされている。
栃・若はともに優勝10回、全勝1回、連勝記録24、直接の対戦でも若乃花の15勝19敗(うち1敗は前述の1956年9月場所の不戦敗)とほぼ互角だった。大関昇進までは11勝4敗の成績が最高だったが、大関昇進以後皆勤した場所は全て二ケタの勝ち星を残し、大関時代の勝率が.785、横綱時代には.794と地位が上がるにつれて強みを増していった。
しかし、忘れてはならないのが、同時代に横綱を張った朝潮の存在である。1956年3月場所、最初の優勝決定戦進出の際に、関脇だった朝汐(当時)に敗れてから、微妙なところで朝汐と縁があった。1958年11月場所には、12勝1敗1分で迎えた千秋楽、13勝1敗の大関朝汐と対戦、勝てば3連覇と、(結果的に)全6場所制覇をなしとげるところだったが、敗れてしまう。1958年9月場所は初の全勝優勝を目指し千秋楽に朝潮と対戦したが敗れてしまい、優勝こそ既に決まっていたが夢の全勝は阻まれた。1959年5月場所には、千秋楽に逆転を可能にしたのは実は13日目に若乃花が朝潮に敗れて1敗となったからであるし、1960年3月場所の全勝対決も、朝潮が途中休場したために両者の対戦が千秋楽になったためである。このように影の存在を強いられた朝潮あってこそ、栃若時代も際立っていたと見ることもできる。
このように「土俵の鬼」と云われた若乃花が引退を決意したのは、1962年1月場所、関脇だった栃ノ海に負けた相撲であった。倒れそうになったら足を出して負けた方がましと考えるほど土俵で倒れることを極端に嫌っていた若乃花が、栃ノ海の見事な連続技(蹴手繰り・巻き落とし・突き落としを一瞬のうちに繰り出す)で土俵中央で転がされたのだった。「何しろ、それまで土俵の真ん中でこけたことは無かったからねぇ。それをやられたんで、こりゃいかんと思った」と若乃花は語ったという。
栃若 全対戦一覧 [編集]
栃若両雄の対戦は、1951年5月場所~1960年3月場所の40場所間で34回実現(栃錦1不戦勝含む)し、千秋楽両者優勝圏内の対戦が5回(うち、相星決戦が2回)あった。また両者の相撲は、水入りになることが多かった。
千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。
| 場所 | 対戦日 | 栃錦勝敗 (通算成績) |
若乃花勝敗 (通算成績) |
優勝力士 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1951年5月場所 | 8日目 | ●(0) | ○(1) | 千代の山 | 初対戦 |
| 1951年9月場所 | 12日目 | ○(1) | ●(1) | 東富士 | |
| 1952年1月場所 | 12日目 | ●(1) | ○(2) | 羽黒山 | |
| 1952年5月場所 | 6日目 | ○(2) | ●(2) | 東富士 | |
| 1952年9月場所 | - | - | - | 栃錦(1) | 対戦なし。 |
| 1953年1月場所 | 初日 | ○(3) | ●(2) | 鏡里 | 栃錦新大関 |
| 1953年3月場所 | 7日目 | ○(4) | ●(2) | 栃錦(2) | |
| 1953年5月場所 | 4日目 | ○(5) | ●(2) | 時津山 | |
| 1953年9月場所 | 3日目 | ●(5) | ○(3) | 東富士 | |
| 1954年1月場所 | 10日目 | ●(5) | ○(4) | 吉葉山 | |
| 1954年3月場所 | 11日目 | ●(5) | ○(5) | 三根山 | |
| 1954年5月場所 | 12日目 | ○(6) | ●(5) | 栃錦(3) | |
| 1954年9月場所 | 14日目 | ○(7) | ●(5) | 栃錦(4) | |
| 1955年1月場所 | 12日目 | ●(7) | ○(6) | 千代の山 | 栃錦新横綱 |
| 1955年3月場所 | 千秋楽 | ○(8) | ●(6) | 千代の山 | |
| 1955年5月場所 | 12日目 | ○(9) | ●(6) | 栃錦(5) | |
| 1955年9月場所 | - | - | - | 鏡里 | 栃錦休場により対戦なし。 |
| 1956年1月場所 | 9日目 | ○(10) | ●(6) | 鏡里 | 若乃花新大関 |
| 1956年3月場所 | 千秋楽 | ●(10) | ○(7) | 朝潮 | |
| 1956年5月場所 | - | - | - | 若乃花(当時若ノ花)(1) | 栃錦休場により対戦なし。 |
| 1956年9月場所 | 千秋楽 | □(11) | ■(7) | 鏡里 | |
| 1957年1月場所 | 14日目 | ○(12) | ●(7) | 千代の山 | |
| 1957年3月場所 | 千秋楽 | ●(12) | ○(8) | 朝潮 | |
| 1957年5月場所 | 12日目 | ○(13) | ●(8) | 安念山 | |
| 1957年9月場所 | 13日目 | ○(14) | ●(8) | 栃錦(6) | |
| 1957年11月場所 | 14日目 | ○(15) | ●(8) | 玉乃海 | |
| 1958年1月場所 | 14日目 | ●(15) | ○(9) | 若乃花(2) | |
| 1958年3月場所 | 14日目 | ●(15) | ○(10) | 朝潮 | 若乃花新横綱 |
| 1958年5月場所 | 14日目 | ○(16) | ●(10) | 栃錦(7) | |
| 1958年7月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(11) | 若乃花(3) | 千秋楽2敗同士相星決戦 |
| 1958年9月場所 | - | - | - | 若乃花(4) | 栃錦休場により対戦なし。 |
| 1958年11月場所 | - | - | - | 朝潮 | 栃錦休場により対戦なし。 |
| 1959年1月場所 | 千秋楽 | ●(16) | ○(12) | 若乃花(5) | |
| 1959年3月場所 | 千秋楽 | ○(17) | ●(12) | 栃錦(8) | 千秋楽栃錦1敗、若乃花2敗で対戦 |
| 1959年5月場所 | 千秋楽 | ●(17) | ○(13) | 若乃花(6) | 千秋楽栃錦全勝、若乃花1敗で対戦 優勝決定戦も若乃花勝利。若乃花優勝。 |
| 1959年7月場所 | 千秋楽 | ○(18) | ●(13) | 栃錦(9) | |
| 1959年9月場所 | 千秋楽 | ●(18) | ○(14) | 若乃花(7) | 千秋楽栃錦2敗、若乃花1敗で対戦 |
| 1959年11月場所 | 千秋楽 | ○(19) | ●(14) | 若羽黒 | 千秋楽両者3敗で対戦 栃錦勝利。(千秋楽対決は年間最多勝をかけた対戦であった。) |
| 1960年1月場所 | - | - | - | 栃錦(10) | 若乃花休場により対戦なし。 |
| 1960年3月場所 | 千秋楽 | ●(19) | ○(15) | 若乃花(8) | 千秋楽全勝同士の相星決戦 最後の栃若対戦。 |
- 若乃花横綱昇進前まで(1958年1月場所まで)の対戦成績は、栃錦の15勝9敗。
- 両者横綱同士の対戦成績(1958年3月場所以降)は、若乃花の6勝4敗。
主な成績 [編集]
通算成績 [編集]
- 通算成績:593勝253敗4分55休 勝率.701
- 幕内成績:546勝235敗4分55休 勝率.699
- 引分が減少した戦後の力士の中にあって4分けは多い部類に入る。そのうち3度までが出羽錦との取組であり、残り1度は前述の延べ17分15秒もの大相撲を取った千代の山戦である。
- 大関成績:117勝32敗1休 勝率.785
- 横綱成績:254勝66敗1分54休 勝率.794
- 幕内在位:56場所(番付上は57場所)
- 横綱在位:25場所(番付上は26場所)
- 大関在位:10場所
- 三役在位:11場所(関脇8場所、小結3場所)
- 年間最多勝(1957年設立):1958年(75勝14敗1分)
- 連続6場所勝利:79勝(1958年7月場所~1959年5月場所)
- 通算(幕内)連続勝ち越し記録:24場所(当時玉錦に次いで2位、1955年3月場所~1959年11月場所)
- 幕内連続2桁勝利記録:22場所(当時1位・現在歴代5位、1955年9月場所~1959年11月場所)
- 幕内12勝以上連続勝利記録:6場所(1958年7月場所~1959年5月場所)
各段優勝 [編集]
- 幕内最高優勝:10回(全勝1回)
- 序二段優勝:1回(1947年11月場所)
- 三段目優勝:1回(1948年6月場所)
三賞・金星 [編集]
- 三賞:5回
- 殊勲賞:2回 (1954年1月場所、1954年9月場所)
- 敢闘賞:2回 (1950年1月場所、1951年1月場所)
- 技能賞:1回 (1955年9月場所)
- 金星:6個(羽黒山2個、東富士2個、千代の山2個)
場所別成績 [編集]
| 一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
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|---|---|---|---|---|---|---|
| 1946年 (昭和21年) |
x | x | x | x | x | (前相撲) |
| 1947年 (昭和22年) |
x | x | 西 序ノ口 #1 2–3 |
x | x | 西 序二段 #20 優勝 5–1 |
| 1948年 (昭和23年) |
x | x | 東 三段目 #10 優勝 6–0 |
x | x | 西 幕下 #14 4–2 |
| 1949年 (昭和24年) |
西 幕下 #6 10–2 |
x | 東 十両 #8 9–6 |
x | x | 東 十両 #4 11–4 |
| 1950年 (昭和25年) |
西 前頭 #18 11–4 敢 |
x | 東 前頭 #9 10–5 |
x | 東 前頭 #4 4–11 |
x |
| 1951年 (昭和26年) |
東 前頭 #7 11–4 敢 |
x | 東 前頭 #1 8–7 ★ |
x | 東 小結 7–8 |
x |
| 1952年 (昭和27年) |
西 張出小結 5–10 |
x | 西 前頭 #4 5–10 |
x | 西 前頭 #9 10–5 |
x |
| 1953年 (昭和28年) |
西 前頭 #3 8–7 ★★★ |
東 前頭 #1 8–7 ★ |
東 前頭 #1 8–7 ★ |
x | 西 小結 8–7 |
x |
| 1954年 (昭和29年) |
西 関脇 8–7 殊 |
東 関脇 9–6 |
東 関脇 9–6 |
x | 西 関脇 11–4 殊 |
x |
| 1955年 (昭和30年) |
東 関脇 7–7–0 (引分1) |
西 関脇 10–4–0 (引分1) |
西 関脇 8–7 |
x | 西 関脇 10–4–0 (引分1) 技 |
x |
| 1956年 (昭和31年) |
東 張出大関 13–2 |
東 大関 12–3 |
東 大関 12–3 |
x | 東 大関 12–2–1[3] |
x |
| 1957年 (昭和32年) |
東 大関 11–4 |
東 大関 10–5 |
東 大関 11–4 |
x | 東 大関 11–4 |
東 大関 12–3 |
| 1958年 (昭和33年) |
東 大関 13–2 |
東 張出横綱 12–3 |
西 横綱 11–4 |
東 張出横綱 13–2 |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 12–2–0 (引分1) |
| 1959年 (昭和34年) |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 12–3 |
東 張出横綱 14–1 |
西 横綱大関 11–4 |
西 横綱大関 14–1 |
東 横綱 11–4 |
| 1960年 (昭和35年) |
西 横綱 0–3–12[4] |
東 張出横綱 15–0 |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 5–4–6[4] |
| 1961年 (昭和36年) |
西 横綱 12–3 |
東 横綱 休場 0–0–15 |
西 横綱 10–5 |
東 横綱 3–4–8[4] |
西 横綱 10–5 |
東 横綱 11–4 |
| 1962年 (昭和37年) |
東 横綱 #2 11–4 |
西 横綱 0–2–13[4] |
東 張出横綱 引退 ––[5] |
x | x | x |
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 十両・幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
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引退その後 [編集]
引退すると年寄二子山として花籠部屋から独立、この際に師匠花籠とは連れて行く弟子について話をつけていたのでついて行きたいと志願しても連れて行けない弟子数名を泣く泣く突き放したともいう(その中にのちの龍虎がいた)。部屋での指導の厳しさは大変なもので、稽古の時間になっても起きない弟子がいれば布団を剥がして起きるまで竹箒で殴り、それでも起きなければ布団が赤くなるまで殴りつけたという。親方としてはまだ若かった頃は自らもまわしをつけて稽古土俵に降りて指導をしたこともある。一方で糖尿病を患った隆の里に対し、まだ幕下以下の力士であった頃から糖尿病治療食のメニューを認めるというきわめて異例な計らいを行う等、弟子思いの一面もあった。
実弟である大関貴ノ花が横綱北の湖と優勝決定戦の末に初優勝(1975年3月場所)した際、当時まだ審判部副部長であったが、高砂審判部長(元横綱朝潮)の粋な計らいで、優勝旗授与の代役を任された(公式には、高砂の発熱によるものとされていた)。
1976年理事に当選すると、かつてのライバル春日野理事長は二子山を重用し、両国新国技館建設の頃は、春日野理事長、二子山理事長代行として相撲協会を引っ張り、幹部の栃・若時代と呼ばれたこともある。
両国国技館の完成から3年後の1988年2月、春日野は停年まで余力を残して、あっさり相談役に退き、二子山に理事長を禅譲した。出羽海一門が何人も就任した理事長に二所ノ関一門のしかも傍流の二子山が理事長になったことは画期的なことだった。就任直後の4月24日には国技館で還暦土俵入りを披露した。露払い・鳴戸(第59代横綱・隆の里)、太刀持ち・間垣(第56代横綱・2代若乃花)と、横綱に育て上げた自らの弟子を従えた。理事長としての業績は、土俵の美を追求して立合いの正常化に努め、「待った」の制裁金導入(後に廃止)や行司に「手をついて」と掛け声させたことが特筆される。
なお、春日野は1990年1月場所中の同年1月10日、停年目前の64歳で脳梗塞により逝去。記者会見に臨んだ当時の二子山理事長は言葉に詰まり、「ちょっと席を外させてくれ」と一旦退席。数分後席に戻るも「昔の思い出がキューッと込み上げて、気持ちを落ち着かせたいんだけど…」と大粒の涙を溢し、かつて最大の好敵手だった春日野の死を惜しんでいた。
クライマックスは1992年1月場所、理事長最後の場所で甥であり孫弟子にあたる貴花田が初優勝、実弟大関貴ノ花の初優勝時の計らいと違い、理事長として堂々と自らの手で天皇賜杯を孫弟子に授与することができ、「夢のまた夢」と語って理事長の有終の美を飾った。この時感極まって涙を流しており、「鬼の目にも涙」と言われた。
停年後は相撲博物館館長に就任するが、1996年9月に所得税の申告漏れを理由に辞任し、相撲界から去った。
現役時代のライバルが還暦前後で次々逝去する中で、無事65歳の停年を迎えた。弟子として手をかけた末弟貴ノ花は2005年5月に55歳で先立たれてしまったが、横綱経験者として鏡里を抜いて長寿第2位となった[6]。
二子山部屋第1号の関取だった二子岳が年寄・荒磯として停年を迎えた際のパーティーでは、「私は多くの弟子を育て、その中には師匠になった者も多くいるが、無事停年を迎えたのはこの荒磯がはじめてです」とコメントしている。
2010年9月1日、東京都新宿区の慶應義塾大学病院で腎細胞癌のため死去。享年83(82歳没)[7]。その中には、同年に起きた大相撲野球賭博問題の心労もあったという。
長男を亡くした後から霊友会に入信しており、他の花田一族も信徒であるという。
2010年9月4日、通夜の当日に初代若乃花の柩を載せた霊柩車は旧蔵前国技館跡地と両国国技館を回った。両国国技館では日本相撲協会幹部と全幕内力士が霊柩車を出迎えて一礼した[8]。その後、霊柩車は葬儀会場の宝仙寺(東京都中野区)へと向かった。葬儀が2010年9月5日に宝仙寺で行われた。出棺の際には「ワカノハナー」や「さようなら、若乃花」の掛け声をかけた600人のファンに見守られながら別れを告げた。その後若乃花幹士は新宿区の落合斎場で荼毘に付された。法名は「巍勝院釋治道(ぎしょういんしゃくちどう)」。
エピソード [編集]
引退会見の時、NHKアナウンサーから「横綱のあの豪快な上手投げや呼び戻しが見られないのは本当に寂しいんですけどもねぇ」と訊かれ、「まぁ、そのうちにまた出て来ますよ、そういう人が」と答えたが、この時、タバコを吸いながら会見に応じていた。
前述通り新十両時代に除名されそうになった所を羽黒山に救われたことを大層感謝しており、横綱会では毎回真っ先に立浪親方(羽黒山)に酌をして、「あの時助けてくれたおかげで今の自分がいます」と言っていた。
若乃花引退相撲の際に、呼び出しの永男が作った相撲甚句『若乃花一代記』が反響を呼び、これ以後、各地の好角家による相撲甚句愛好の動きが全国に広がっていったことが語られている[9]。
初代若乃花をテーマにした作品 [編集]
関連項目 [編集]
脚注 [編集]
- ^ 歴代横綱一覧
- ^ 実弟貴ノ花、甥の貴乃花も1場所2度の不戦敗を記録したことがある。
- ^ 13日目不戦敗・途中休場、15日目不戦敗・再休場
- ^ a b c d 途中休場
- ^ 5月場所前に引退を表明
- ^ 横綱最高齢記録は初代梅ヶ谷の83歳。因みに、梅ヶ谷の生年月日をグレゴリオ暦に直した場合、梅ヶ谷最後の誕生日が若乃花の生年月日である。
- ^ “土俵の鬼」初代若乃花 死去…82歳” (日本語). 読売新聞. (2010年9月2日) 2010年9月2日閲覧。
- ^ 「土俵の鬼」初代若乃花、両国国技館に別れ… スポーツニッポン 2010年9月5日閲覧
- ^ 「若乃花一代記」から盛り上がった甚句人気 神田雑学大学講義録 2003年11月21日付
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