貴乃花光司
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|---|---|---|---|---|
| 基礎情報 | ||||
| 四股名 | 貴乃花 光司 | |||
| 本名 | 花田 光司 | |||
| 愛称 | コウジ | |||
| 生年月日 | 1972年8月12日(40歳) | |||
| 出身 | 東京都杉並区 | |||
| 身長 | 185cm | |||
| 体重 | 159kg (現役時) 85kg (2010年) |
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| BMI | 46.4 | |||
| 所属部屋 | 藤島部屋→二子山部屋 | |||
| 得意技 | 突っ張り、右四つ、左四つ、寄り、上手投げ | |||
| 成績 | ||||
| 現在の番付 | 引退 | |||
| 最高位 | 第65代横綱 | |||
| 生涯戦歴 | 794勝262敗201休(90場所) | |||
| 幕内戦歴 | 701勝217敗201休(75場所) | |||
| 優勝 | 幕内最高優勝22回 幕下優勝2回 |
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| 賞 | 殊勲賞4回 敢闘賞2回 技能賞3回 |
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| データ | ||||
| 初土俵 | 1988年3月場所 | |||
| 入幕 | 1990年5月場所 | |||
| 引退 | 2003年1月場所 | |||
| 備考 | ||||
| 金星1個(千代の富士1個) | ||||
| 2013年4月30日現在 | ||||
貴乃花 光司(たかのはな こうじ、1972年8月12日 - )は、東京都杉並区出身の元大相撲力士、第65代横綱。在籍の相撲部屋は、入門時は藤島部屋所属で、後に二子山部屋所属となる。現在は一代年寄・貴乃花として、貴乃花部屋(元は二所ノ関一門で、現在は無所属)の師匠、及び日本相撲協会理事・地方場所部長(大阪)、スポーツニッポン評論家(大相撲担当)を務める。
本名、花田 光司(はなだ こうじ)。愛称は「コウジ」。
目次 |
人物 [編集]
1972年(昭和47年)、東京都杉並区に生まれ、同中野区で育つ[1]。現役時代、取組前の場内アナウンスでは中野区を出身地としていた。
父は元大関の貴ノ花利彰、母は女優の藤田紀子。兄は元大相撲力士でタレントの花田虎上(第66代横綱・三代目若乃花)。妻は元フジテレビアナウンサーでタレントの河野景子[2]で、1男2女の父親。初代若乃花(第45代横綱)は伯父(父の兄)。二代目若乃花(第56代横綱)はかつて義理のいとこ(伯父の娘婿)だった。
血液型はO型。元々は右利きだったが、長年の相撲の影響で右手に痺れが残ってしまい、今は左手で箸やペンを持つようになっている[3]。
経歴 [編集]
少年相撲から中学相撲 [編集]
当人や周囲の回想によれば、相撲に身を入れ始めたのは、父の現役引退が契機だったという。
父を慕って部屋によく遊びにきていた鎌苅忠茂少年(のち入門して四股名を貴闘力)には、兄の勝ともどもかわいがられ、部屋の稽古場で相撲を取ることもあった。
小学5年生の時、わんぱく相撲の全国大会に優勝、わんぱく横綱として土俵入りを行っている。これを入れるならば、蔵前国技館と新両国国技館の両方で横綱土俵入りを行ったひとりということになる。
明大中野中に進学。同相撲部で武井美男監督から受けた廻しの切り方などの技術面の指導は、のちの躍進に大きく寄与したとされている。
入門から大関時代 [編集]
入門当時からその優れた素質が話題となり、前評判に違わず数々の最年少記録を打ち立てた。新弟子検査時には「これは新弟子の体じゃない、今すぐ幕下でも通用する」と、新弟子検査担当の親方たちから驚嘆されるほど既に体作りの基礎ができていた。1989年11月場所、17歳2か月で新十両に昇進した[4]当時も、出世に髪の伸びる早さが追いつかず大銀杏が結えず、ちょんまげ姿で土俵に上がった。名大関貴ノ花の息子として兄とともに入門したことは、マスメディアを通じて国民に広く報じられ、入幕前から相撲ファンの枠を超えた注目を集めていた。
1990年5月場所、17歳8か月で新入幕。場所直前に足の親指の靭帯を切る負傷をしていたことから4勝11敗と大きく負け越し、十両に落ちたが[5]、11月場所で幕内に復帰した[1]。その後二場所は小幅の勝ち越し、負け越しが続きやや勢いが減速したものの、東前頭13枚目に下がった1991年3月場所では27年ぶりとなる平幕での11連勝を記録、12勝3敗の好成績を挙げ、敢闘賞、技能賞をダブル受賞した。西前頭筆頭まで番付を上げた5月場所では、わずか18歳9か月ながら、初日に横綱千代の富士を破り引導を渡したことで、次代の第一人者候補としての評価を固めていく。弟にわずかに遅れて入幕した兄若花田とともに「若貴フィーバー」と呼ばれ、平成初期の一大相撲ブームの担い手となり、一日20番の申し合いをこなす[6]、下ろしたばかりのまわしがその当日の稽古が終わるころには汗が染み込むなどの猛稽古ぶり、勝負に負けて土俵に落ちる際には顔から落ちる[7]などの勝負師ぶりを見せ、その後も順調に成長していった。
翌1992年1月場所は14勝1敗の成績で19歳5か月での幕内初優勝。同年9月場所で14勝1敗の成績で2回目の幕内優勝、同年九州場所で史上最年少の年間最多勝を受賞。さらに翌1993年1月場所では11勝4敗の成績で20歳5か月の若さで大関まで上り詰め(同時にライバルの大関曙も横綱昇進決定)、父と同じ貴ノ花に改名。次の5月場所では14勝1敗の成績で3回目の優勝を果たし、翌7月場所で初の綱獲りとなったが、千秋楽に13勝2敗で曙(第64代横綱、現プロレスラー・タレント)・兄若ノ花らとの優勝決定戦に進出したが、曙に敗れて横綱昇進はならなかった。続いて9月場所場所は初の全勝優勝を狙った曙を千秋楽で下して阻止、曙に次ぐ12勝3敗の優勝次点で綱獲りを再び繋いだが、翌11月場所は体調不良により7勝8敗と負け越して綱獲りは完全に消滅。1994年1月場所では21歳5か月での大関角番も史上最年少の記録となった。
初の角番だった初場所では14勝1敗で4回目の幕内最高優勝で復活。同年の3月場所で綱獲りを再び期待されるが、11勝4敗で優勝を逃し綱獲りは失敗。5月場所では14勝1敗の成績で5回目の幕内最高優勝を果たすが、翌7月場所では11勝4敗に終わりまたも綱獲りは失敗。次の9月場所では初の全勝優勝(史上最年少の全勝優勝記録)、同秋場所後に日本相撲協会は横綱審議委員会に貴乃花の横綱昇進の打診をしたものの、「『大関で2場所連続優勝』の内規を満たしていない」との理由から見送りに。それでも、貴ノ花から「貴乃花」と改名して迎えた翌11月場所でも他を全く寄せ付けず、双葉山以来の「大関で2場所連続全勝優勝」を果たし(千秋楽で曙に土俵際の上手投げで勝利)、先場所からの30連勝も達成、ようやく横綱昇進を確実とした。
横綱時代 [編集]
1994年(平成6年)11月場所後ついに横綱昇進が決定。11月23日に行われた昇進伝達式で「謹んでお受け(致)します。今後も『不撓不屈』(自身大関昇進の伝達式でも用いた)の精神で、力士として相撲道に『不惜身命』を貫く所存でございます」と使者に答えた。横綱として最初の2年近く、1995年(平成7年)1月場所から1996年(平成8年)9月場所は他を寄せ付けない圧倒的な強さで、11場所中8場所も制覇した。1995年(平成7年)11月場所は実兄で当時大関・若乃花と優勝決定戦での兄弟対決となったが結果的には下手投げで敗れ、若乃花が幕内優勝となった。
1996年は年明けから3場所連続で14勝1敗の成績を残した(1月場所は同部屋の大関・貴ノ浪と優勝決定戦に進出したが、河津掛けで敗れた)。3月場所から9月場所では自身初の4連覇達成。9月場所は4度目の全勝優勝。さらに同9月場所で幕内連続12勝以上勝利が、北の湖の12場所を超える、13場所目の新記録(当時)を達成した(現在は白鵬に次ぎ歴代2位)。当時まだ24歳という年齢で、幕内優勝15回という実績や、ほとんど隙のない当時の取り口から考えると、大鵬や千代の富士の優勝回数の突破は、時間の問題とさえ言われていた。
- 成績不振
しかし、1996年(平成8年)9月場所後の巡業中、背筋の肉離れを起こすケガにより緊急帰京。肉離れが完治しない中、同年11月場所を一旦強行出場することを表明したが、場所初日の前日に急性腸炎による発熱で入院、結局11月場所は自身初土俵以来初めて本場所を全休することとなる。[8]
この休場をきっかけに、貴乃花の相撲に陰りが見え始め、また休場中の間に上体だけが肥えてしまい、1997年(平成9年)以降は体をのしかけて潰す相撲に変貌してしまう。更に強引にねじ伏せたり浴びせ倒したりするなど、明らかに相撲の質が落ち、好角家からも批判されるようになった。大型力士に対抗するために自らの判断で体重を増やしたが、あまり上手くいかなかった。[9]
それまではかなり熱心で体の毛も生えない程だった稽古も、準備運動は入念にするものの実戦的な稽古量が激減するという事態に陥ってしまった。1997年(平成9年)は過去の稽古の貯金もあって3度優勝、通算5回目の年間最多勝(同1997年が自身最後の年間最多勝)も受賞して横綱の面目を十分に保てたが、1998年(平成10年)以降はその貯金も底を突いた状態となった。1998年(平成10年)1月場所終盤、急性上気道炎による高熱と原因不明の湿疹で勝ち越しながらも途中休場(これにより同年2月に開催された長野オリンピック開会式及び横綱土俵入りも欠席した。横綱土俵入りの代役は曙)。翌場所も序盤から崩れて、肝機能障害によりまたも途中休場に追い込まれた。7月場所と9月場所は連覇して優勝回数を20回の大台に乗せたが、その後は怪我や病気に苦しみ、2年以上優勝から遠ざかることになった。
特に1999年(平成11年)は年明けから大崩れ。1月場所は序盤から崩れて盛り返すことなく8勝7敗に終わった。3月場所は10日目の相撲で左肩を骨折して途中休場。5月場所は全休、復帰した7月場所は序盤は好調だったものの、9日目の出島との取り組みで左手薬指を脱臼し、その影響で終盤崩れて4連敗し9勝6敗。9月場所は怪我が治らないのに何故か出てきて一つも勝てずに3日目から休場。再起を賭けた11月場所も初日に敗戦(この敗戦で不戦敗を含まず7連敗となり平成以降の横綱では最多記録となってしまった)して最後を思わせるほどになってしまった。しかしこの場所は中盤から持ち直して、千秋楽まで優勝争いをして望みを繋いだ。
またこの頃から稽古量が上向きになり、2000年(平成12年)は12勝3敗、11勝4敗、13勝2敗と復活間近を思わせた。7月場所で左手の上腕二頭筋を断裂して[3]またもや途中休場、翌9月場所を全休してしまうが、休場明けの11月場所に11勝4敗で繋ぎ不振脱出の兆しを見せた。
- 復活、最後の優勝
2001年(平成13年)1月場所は初日から14連勝したが、千秋楽で横綱武蔵丸に敗れて14勝1敗。武蔵丸と同点となり優勝決定戦に廻るも、その一番では武蔵丸に雪辱勝利を果たし、14場所ぶり21度目の復活優勝を遂げた。一度変貌した相撲内容は更に変貌し、嘗ての自在の内容に代わり、完全に腰を固め、充分に捕まえて逡巡せず勝負に出るようになって新生貴乃花を印象付けた。安定感はやや低下したものの、力強さは逆に最盛期以上とも思える相撲振りを印象付けた。
そして2001年(平成13年)5月場所は初日から13連勝して完全無敵の強さだった。しかし14日目の武双山戦で、土俵際で巻き落としを喰らって右膝半月板を損傷する大けがを負った。もはや立つことも困難なほどの重傷であり、本来休場するべきところであった。二子山親方ら関係者も休場するよう貴乃花に勧めたが、幕内優勝が掛かっていたため、周囲の休場勧告を振り切り、翌日の千秋楽は無理矢理強行出場した。しかし本割りの仕切り最中にすら右膝を引き摺るような仕草があり、勝負にならないことは明らかであった。予想通り千秋楽結びの一番の武蔵丸戦では、自ら負けるような内容で全く相撲にならず、武蔵丸と相星となった。
続く優勝決定戦は誰もが武蔵丸の勝利を確信せざるを得なかったが、大方の予想を覆し、武蔵丸を豪快な上手投げで破った[10]。勝利を決めた直後の鬼の形相と奇跡的な優勝に、当時の首相であった小泉純一郎は表彰式で「痛みに耐えてよく頑張った!感動したァッ!おめでとうッ!」と貴乃花を賞賛した。後世相撲史に語り継がれる大一番となった。
- 7場所連続の長期休場
相撲史に残る大一番を制した貴乃花であったが、間もなくその代償は予想以上に大きい事が判明し、逆に大きな禍根を残すことにもなった。全休となった2001年(平成13年)7月場所後、大けがをした右膝の半月板を除去する手術をフランスで受けて再起を目指した[3]。しかし貴乃花は2001年7月場所から2002年(平成14年)7月場所まで、1年以上も全ての場所で休場となってしまう(なお7場所連続全休は大相撲史上ワースト1位である[1])。世間も最初は「休場してゆっくり治せば良い」と温かい目で見ていたが、休場が1年近くになった頃から、貴乃花に対する風当たりは強くなり、一部の横綱審議委員(渡邊恒雄など)も苦言を呈するようになった。
2002年(平成14年)9月場所、横審委員会からの勧告もあって、遂に8場所ぶりの出場に踏み切った[10]。注目された初日の高見盛戦では勝利したものの、序盤の2日目・旭天鵬戦と5日目・琴龍戦でそれぞれ金星を献上してしまい、この場所途中での引退さえ囁かれた。しかしその後中盤の6日日から終盤14日目にかけて星を伸ばして12勝2敗、千秋楽に武蔵丸と横綱同士の相星決戦にまで持ち込み、敗れはしたものの12勝3敗の準優勝を果たした[3]。他の幕内力士との実力の違いを見せつけたが、場所終盤には再び右膝の怪我の状態が悪化したため、翌11月場所は右膝の悪化により[11]、またも全休することとなる。[10]
現役引退 [編集]
そして、貴乃花自身最後の場所となった2003年(平成15年)1月場所、右膝の状態が万全ではなかったものの出場を決意。初日の若の里には土俵際の小手投げで辛うじて勝ったが、翌2日目の雅山戦では二丁投げを喰らって左肩を負傷してしまう[11][10]。明らかに不利な体勢であったが、審判委員から物言いがつき「両者同体」と判定された。その取り直しの一番は雅山に左からの上手投げで勝利したものの、左肩の怪我により翌3日日の旭天鵬戦は不戦敗、4日目まで途中休場する羽目となる。
だが5日目から、横綱では異例と言える場所途中からの再出場(1954年1月場所の東富士以来49年ぶり)を決断する。5日目・闘牙と6日目・土佐ノ海とに連勝はしたものの、貴乃花らしい相撲は全く見られず、7日目の出島には一気に押し出され、8日目には初対戦の安美錦にも送り出しでそれぞれ敗れてしまった。[10]
この同1月場所8日目の安美錦との一番を最後に、その翌9日目でついに現役引退を発表(取組予定だった琴ノ若戦はこの場所2度目の不戦敗に)。当時まだ30歳(5か月)で、奇しくも実父・二子山親方と同じ年齢での引退でもあった。引退会見で連発した「非常にすがすがしい気持ち」、「心の底から納得しております」は、一時流行語にもなった。なお貴乃花が引退したことにより、これ以降番付から日本で生まれ育った横綱が姿を消してしまい、さらに2012年(平成24年)現在も日本出身の横綱が一人も誕生しない状態が続いている。
引退相撲と断髪式は2003年(平成15年)夏場所後に行われ、当時の横綱武蔵丸、大関魁皇、実兄の花田虎上、さらに長男などに鋏を入れられ、留めバサミは父親で師匠の二子山親方が入れた。断髪式後には長男が土俵に上がっての作文朗読があり、この時に長男は涙をこぼしていた。
親方として [編集]
引退後は、父親の代から引き継いだ貴乃花部屋の親方になったが、2005年(平成17年)5月30日の父の死に際して兄との確執が噴出し、マスコミを介して大騒動に発展した。また同時に日本相撲協会の体質を批判したため、同年7月場所中に相撲協会から厳重注意を受けてしまった。
現役引退後には葉巻を吸い始めたが、1日も早く関取誕生を願うという意味で、2006年(平成18年)4月から止めているという。また引退直後から膝への負担を減らすため、体重を90kgと大幅に減量している(本人談によると一時期80kgまで落としたと言うが、自分にとってはベストではなかったと言い、90kgまでまた増やしたとのこと)。最近は夫婦でバラエティ番組に出演する機会が増えているが、出演すると大抵の場合最初に体重のことに触れられている。稀に「天然キャラ」も発揮する。現役時代は何を訊いてもほとんど答えないという相撲記者泣かせであったが、最近は番組内でよく喋る姿が映し出され、現役時代とは反対にメディアとのコミュニケーションは取れている。
『就職場所』と言われるほど新弟子採用の多い春場所であるにもかかわらず、2006年(平成18年)3月場所においては貴乃花部屋への入門者が0人という事態が発生した。また、年を追うごとに在籍力士数も減少し、2008年(平成20年)ごろには関取はおろか幕下力士さえ一人もいない状態になった。ただ、このような危機的状況の背景には若い世代の相撲離れ[12]があり、多かれ少なかれどの部屋も抱えている問題でもある。
現役中から児童向けの相撲道場を主宰するなど、かつての自分がそうだった様な根っからの相撲っ子を育てることを心懸けており、その中から力士を育成していきたいという広大な長期的展望の持ち主でもある。ただ、こういう理想論に傾き過ぎる部屋の運営方針に、伝統を重んじる相撲界や旧二子山部屋時代からの後援会などと軋轢を起こすことも多々ある。部屋の運営方針を巡っては、かつての兄弟子であり部屋付きの師匠となっていた安芸乃島と激しい対立をし、遂には安芸乃島を一門外(当時。現在、貴乃花部屋は無派閥)の高田川部屋に追放するに至っている。
2008年(平成20年)2月4日、日本相撲協会の役員人事で35歳の若さで審判部副部長に抜擢され[13]、将来の理事長候補として新たな一歩を踏み出すこととなった。同時に役員待遇に昇格している。
2005年(平成17年)7月場所以来、貴乃花部屋には入門者がいない状態が続いていたが、2008年(平成20年)2月20日、4年ぶりに新弟子(貴天秀、元時津風部屋力士の息子)が入門。同年3月場所に初土俵を踏み、新序三番出世披露を果たした。さらに2009年にはモンゴル人力士(貴ノ岩)や高校総体優勝者(貴月芳・貴斗志兄弟)の入門で、三段目上位や幕下にも部屋の力士が名を連ね、2012年(平成24年)5月場所後には貴ノ岩が新十両に昇進し、五剣山以来の関取となった。同年7月場所には学生相撲出身の渡辺が三段目優勝するなど、理想とは異なる形ながら着実に後進を育てつつある。
2010年日本相撲協会理事選、理事として [編集]
2010年1月場所後に行われる理事選に立候補することを表明。2010年2月の相撲協会理事選挙は10人の改選で5つある一門ごとに理事候補を調整して無投票で決定することが慣例となっており、二所ノ関一門は既に現職理事の放駒と二所ノ関のほか、新人の鳴戸が立候補を予定しているが、これに貴乃花が加わって4人の投票になるところであった。2009年12月から一門で候補者選定会議が行われ、4人の中で最年少であった貴乃花に対して立候補を断念させる方針に傾き、貴乃花は2010年1月8日に一門を離脱し単独で理事選に出馬することを正式に表明した。一部マスコミでは「貴の乱」と称した。
2010年1月17日の1月場所8日目、6年半振りに大相撲中継で正面解説を務め、テレビの前で所信表明。同年1月19日には二所ノ関一門は緊急会合が開き、貴乃花を支持する間垣、阿武松、大嶽、二子山、音羽山、常盤山の親方6人および間垣部屋、阿武松部屋、大嶽部屋の3部屋は事実上破門させられた。既に一門からの離脱を明らかにしていた貴乃花と貴乃花部屋に対しても、同様の措置が執られた。同時に二所ノ関一門からは現職の放駒と二所ノ関のみが立候補することになり、鳴戸は事実上立候補を断念せざるを得なくなった。
4期(8年)ぶりに評議員の投票で11人が10人の理事を争う形になった。武蔵川理事長はこの騒動に対し厳しく批判するなど話題になった。固めている票は上記7親方の票だけで当選ラインの10票まで届いていないために苦戦が予想され、他一門からの票の上乗せを目指すことになった。2月1日の理事選の投開票では落選という予想に反し、上記7親方の票以外にも3票の上積みがあり、結果10票を得て当選した(落選は大島親方)[14]。新理事会の結果、理事長は武蔵川親方の続投となった。なお貴乃花のことを、一部のマスメディアは「相撲協会の革命児」と報道しているところもある。
貴乃花とその支持派閥は現在、マスメディアで「貴乃花派」「貴乃花グループ」と呼ばれる派閥を形成し、合同で稽古を行うなど一門に準じた形態で行動している。
2010年7月4日に行われた臨時理事会で大関琴光喜が野球賭博に関与して解雇処分になったことを不服として、貴乃花は処分軽減ならびに現役続行を強く訴えたが、外部理事からの反発により却下された。また、理事選にて自身を支持した阿武松の弟子と床山、それに大嶽が野球賭博に関与して処分の対象となったことも背景にあり[15]、貴乃花は退職願を提出した。これは保留扱いとなり、受理されなかった。その後、貴乃花は朝稽古を見た後に退職を撤回した[16]。
武蔵川前理事長の辞任に伴う理事長選挙では北の湖親方を推薦し、「貴の乱再び」とまで言われた(結果は落選)。その理事長が放駒親方に代わってから初めて行われた8月20日の理事会にて、審判部長に就任した。38歳での審判部長就任は、35歳で就任した元佐田の山の出羽海親方(当時)に次ぐ、2番目の若さであった[13]。
2012年1月場所後の1月30日に行われた理事選にも立候補し、再選した[17]。現在は大阪場所担当部長を務めている。
大横綱の素顔 [編集]
優勝22回は単独5位の記録であり、「平成の大横綱」と称されている。
身長185cm、体重160kg(いずれも全盛時)。少年期から中学生時分にはいわゆる肥満児だったが、入門後一度ガリガリにやせた後で、その上に徐々に肉がついていくという、相撲取りとして理想的とされる成長の仕方をした。この太り方は学研の学習雑誌小学生の学習・科学にも写真が掲載され紹介された。特に初優勝から大関へ駆け上がる時期の変貌ぶりは鮮やかで、それゆえにドーピング疑惑まで取りざたされたほどだった。肩幅広く、鳩胸で太鼓腹、あと胴長短足なら力士の理想像そのものとまで言われたが、最後の点だけは当人もどうしようもなかった。又、横綱正装姿はとても絵になったが、いざ土俵入りとなると四股は美しかったが、肝心のせり上がりが低く、構え過ぎであると酷評され、あまりの酷さに当時の境川理事長が激怒した事もあった。この点、四股に注文がつけられたものの、せり上がりが評価されるようになった曙と好対照をなしている。
特に曙とは数々の名勝負を演じた。幕内での対戦成績は21勝21敗、優勝決定戦まで含めた本場所中の対戦成績は25勝25敗と、全くの五分であり、当時の大相撲界を「曙貴(あけたか)時代」とも呼ばれた。特に曙との千秋楽結びの一番での対戦回数は、27回を数え史上1位である(2位は輪島-北の湖の22回、3位は柏戸-大鵬の21回)。また、相星決戦となった千秋楽結びの対戦は5回を数え、これも史上1位である。
貴乃花と曙の千秋楽結びの一番の対戦では、両者優勝圏内の対戦は、5度の相星決戦を含め10度実現した。下記に対戦結果を記す。
| 場所 | 曙成績(地位) | 貴乃花成績(地位) | 優勝力士 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 1993年1月場所 | 13勝2敗(大関) | 11勝4敗(関脇) | 曙 | 千秋楽貴乃花3敗、曙2敗で対戦 曙勝利。 |
| 1993年5月場所 | 13勝2敗(横綱) | 14勝1敗(大関) | 貴乃花 | 千秋楽1敗同士相星決戦で、貴乃花勝利。 |
| 1993年7月場所 | 13勝2敗(横綱) | 13勝2敗(大関) | 曙 | 千秋楽貴乃花2敗、曙1敗で対戦 貴乃花勝利。優勝決定戦は、曙勝利。 |
| 1995年1月場所 | 12勝3敗(横綱) | 13勝2敗(横綱) | 貴乃花 | 千秋楽2敗同士で優勝決定戦出場を賭け対戦で、貴乃花勝利。貴乃花は武蔵丸との決定戦を制して優勝。 |
| 1995年3月場所 | 14勝1敗(横綱) | 13勝2敗(横綱) | 曙 | 千秋楽1敗同士相星決戦で、曙勝利。 |
| 1995年5月場所 | 13勝2敗(横綱) | 14勝1敗(横綱) | 貴乃花 | 千秋楽1敗同士相星決戦で、貴乃花勝利。 |
| 1996年7月場所 | 12勝3敗(横綱) | 13勝2敗(横綱) | 貴乃花 | 千秋楽2敗同士相星決戦で、貴乃花勝利。 |
| 1997年3月場所 | 12勝3敗(横綱) | 12勝3敗(横綱) | 貴乃花 | 千秋楽貴乃花3敗、曙2敗で対戦 貴乃花勝利。優勝決定戦も貴乃花が勝利。 |
| 1997年5月場所 | 13勝2敗(横綱) | 13勝2敗(横綱) | 曙 | 千秋楽貴乃花1敗、曙2敗で対戦 曙勝利。優勝決定戦も曙が勝利。 |
| 1997年7月場所 | 12勝3敗(横綱) | 13勝2敗(横綱) | 貴乃花 | 千秋楽2敗同士相星決戦で、貴乃花勝利。 |
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- 1993年7月場所は、曙、貴乃花(当時貴ノ花)、若乃花(3代)(当時若ノ花)の3人による決定戦。
- 1997年3月場所は、曙、貴乃花、武蔵丸、魁皇の4人による決定戦。
東京場所で強かったが特に9月場所(秋場所)とは相性が良く、通算で6回優勝、1994年から1998年まで5連覇、3年連続全勝、48連勝などを記録した。
現役中、右四つ、寄りを得意としていたが、左四つでも遜色なく取ることができ、時に突き押しも見せるなど、取り口は多彩。投げの力が非常に強く、あまり良くないとされている深い位置の上手廻しからでも強烈な上手投げがよく決まった。四つ相撲では自分十分、相手十分の体勢からでも、肘を張って廻しを切る技術が巧みで、強い引き付けと上体の強さを生かした寄り身で優位に運ぶことが出来た。安定感のある下半身で、200キロを超える力士ですら正面受け止める、いわゆる「横綱相撲」なのであるが、細かい技を組み合わせて相撲を取っているために見た目決めてかかる技がない事や、当時は千代の富士の先に勝負を仕掛ける攻撃相撲のために既に横綱像も本質的に変化していた事などが相まって、存在感はあってもずば抜けた力強さや威圧感はないと評された事もあった。場所の序盤から中盤で優勝争いのトップに立てば独走する一方、千秋楽までもつれたときや優勝決定戦での敗退の多さが、「ここ一番での勝負弱さ」を印象付けることにもなった。このため「並の名横綱」との評価もある。22回もの優勝を果たしながら期待ほどの優勝回数ではなかったとも評されるのは、若手の頃の期待感の大きさを表すものでもある。しかし、全盛時の相手に得意の技を全く出させず着実な寄り身で完封してしまう取り口は、まさに貴乃花の相撲の真骨頂であった。
貴乃花の取り口は、横綱昇進後も小さな変化を重ねている。横綱昇進後は、前廻しを狙って頭から出る立ち合いが主流で、当時の幕内の中では平均的な体格であったため、頭を付けたりもろ差しを狙う相撲も多かった。スケールの大きさと言う点では物足りなさが残ったが、当時の状況に合わせた取り口で、崩れない足腰と廻しを掴んでからの自在の攻めで全盛を謳歌した。しかし、1996年11月場所に初めて休場して以降、肥え過ぎと内臓器官や上体に怪我が重なると成績は急降下。特に1998年1月・3月場所は2場所連続で途中休場、さらに1998年11月場所からは13場所の間一度も優勝を果たせない大スランプに陥った。この頃の相撲は、立ち合いの踏み込みが悪く力任せで上体の強さに頼ったものであった。腰高と足腰の崩れが顕著で、粘りがなく全盛期ではありえないような負け方が多くなっていた。しかし、2000年頃から復活の兆しが見え、右四つに特化して相手を捕まえての早い攻めに活路を見出した。自在性はないものの、力強さと攻めの速さは全盛期以上でより大きな相撲を取って、2001年1月場所でようやく復活優勝を果たすに至った。
何かと記憶に残る取り組みも多く、10代で横綱千代の富士を破り引導を渡したことや、ライバル曙との名勝負、兄若乃花との兄弟での優勝決定戦、右膝半月板を損傷しながら土壇場で優勝するなど、優勝回数や記録だけでははかりえない横綱であったといえる。
同時代のライバル曙と比べ豪快さに欠けるとの評を気にして、伯父の初代若乃花の必殺技だった「呼び戻し」を試みるなど、完成間近だった相撲を自らおかしくしてしまう時期もあった。また、若貴ブームの雑音の異常な大きさは本人たちにとっては時に耐え難いものであったかもしれないが、他者の評価に真摯な性格が相撲の取り口に悪く反映してしまい、みすみす負けを呼んでしまっているように見える場合も多々あった。千代の富士を倒した場所でその後なかなか白星を上げられなかったり、婚約場所になった1992年11月場所で序盤に4連敗してしまった例などは、雑音に負けてしまった例と言えよう。一時期、マスコミ人を一様に無視する態度から相撲記者やカメラマンとの間で深刻な対立を招いたこともあった。師匠二子山や兄弟子の安芸乃島らの仲裁・助言もあって、こうした面は徐々に緩和された。
略歴 [編集]
- 1972年 8月12日、東京都杉並区で大関(当時関脇)貴ノ花の花田満、元女優の藤田憲子(2001年離婚)の次男として誕生。
誕生時の体重は4300g。 - 1979年 杉並区立松ノ木小学校に入学。
- 1982年 東京都中野区の藤島部屋土俵開き。光司も一家とともに、部屋のある中野区に本籍を移転(現在の本籍も中野区にある)。
- 同年6月、わんぱく相撲東京場所に出場、4年生の部で優勝。
- 1985年 明治大学付属中野中学校に進学。同校の相撲部に入部し、中学3年間で40勝1敗の成績を残す。
- 1988年 兄勝(元横綱若乃花、現タレント花田勝)とともに、藤島部屋に入門。同年3月場所、兄と同日に初土俵。四股名は貴花田光司(たかはなだ・こうじ)。ほかに同期の力士は曙太郎、魁皇博之などがおり「花の六三組」と言われた。
- 1989年 11月場所に十両昇進。
- 1990年 3月場所に幕内昇進。
- 1991年 5月場所初日に初対戦の千代の富士に勝利。この場所中に千代の富士は引退。
- 1992年 1月場所で初優勝。
- 1993年
- 1月場所後に大関昇進。四股名を貴ノ花と改名。増位山太志郎に次ぐ親子大関となる。同日、宮沢との婚約解消を公表した[1]。この時相手を悪く言うことをせず「(彼女への)愛情がなくなりました」とだけ言って泥をかぶった姿は感心もされたが、多くの女性と宮沢ファンを敵に回した。宮沢と最後に会った時に言われた言葉は「強い横綱になってください」だったという。
- 5月場所を14勝1敗で優勝。これは宮沢との破局がなければ、「挙式直前場所」になっていたはずの場所である。
- 7月場所でも曙、若乃花と同点優勝だったが優勝決定戦で曙に負け、横綱昇進を見送られる。
- 9月場所では曙に優勝を許し、最年少での横綱昇進を逃す。しかしながら、曙の全勝優勝を千秋楽で阻止した一番は名勝負として語り継がれる。
- 11月場所でも成績次第では横綱昇進と噂されていたが7勝8敗と負け越してしまい、翌年1月場所を史上最年少のカド番大関として臨むこととなる。
- 1994年 カド番大関の1月場所で14勝1敗と優勝で復活。以降、大関ながら、5月場所、9月場所と1場所おきに優勝を果たして行く。
- 1995年 1月場所に新横綱として登場。初日にいきなり敗れて連勝は30で止まるが最終的に13勝2敗で優勝。3場所連続となった。
- 同年5月、元フジテレビアナウンサーの河野景子と結婚。
- 1996年
- 9月場所、自身初の4連覇達成。1994年から1996年の3年間近くが、貴乃花の全盛期と言われている。
- 11月場所、初土俵以来初めての全休。この辺りから怪我・病気が相次ぎ、休場する場所が多くなった。
- 1998年 9月場所に20回目の優勝。このころ、整体師による洗脳騒動などで父の二子山親方、兄の横綱若乃花らと不和[1]。特に兄とは絶縁まで宣言した。
- 1999年 9月に兄と一旦和解。
- 2001年 5月場所14日目の大関武双山戦で巻き落としに敗れ右膝の半月板を損傷。出場が危ぶまれた千秋楽に強行出場。本割りでは横綱武蔵丸に突き落としで不甲斐なく負け、優勝決定戦。優勝決定戦では横綱武蔵丸を上手投げで豪快に下し、通算22回目の優勝を果たす。観戦に訪れていた首相の小泉純一郎は、表彰式で内閣総理大臣杯を直接手渡し、「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!おめでとう!」と祝福。しかしながら、右膝の故障は見た目以上に重症で、この後7場所連続全休で治療に努めたものの十分に回復せず、結果的にこの優勝が貴乃花最後の優勝となった。
- 2002年 9月場所、8場所ぶりに出場。進退をかけて臨んだこの場所で、6日目からの9連勝を含む12勝を挙げ、最後まで横綱武蔵丸と優勝争いを繰り広げたが、千秋楽相星決戦を寄り切りで敗れ優勝を逃す。
- 2003年 1月場所8日目限りで現役を引退。8日目の対戦相手は安美錦。日本相撲協会は、相撲界の隆盛に格別の功績があったとして、一代年寄・貴乃花を贈呈し、功労金1億3000万円を支給した。同年3月、年寄名跡・山響株を取得(名乗りは一代年寄・貴乃花のまま。同時に兄の勝が退職したときに譲られていた藤島株は兄弟子の安芸乃島へ売却)。同年6月1日に断髪式を行う。
- 2004年 6月1日に正式に二子山部屋を継承。名前も貴乃花部屋に変更され、同日、1500人を招待して創設パーティーが行われた。
- その後、元横綱の肉体があばら骨が浮き出るほどの激やせダイエットぶりが注目された。胃袋が一般人より大きくなり、食事量を減らすのは至難のわざと言われる引退後の相撲取りの中では極めて異例なやせ方であった。
- 2005年5月30日、父・二子山親方が口腔底癌のため死去。
- 同年7月7日、兄・勝の遺産相続放棄の宣言により、父の遺産は次男である本人が受け継ぐことになっている。その理由は、いまだに明らかではない。
- 同年7月18日、民放のテレビ番組などで日本相撲協会の運営を批判するかのような発言をしたとして協会から厳重注意を受ける。
- 2006年5月25日 両国国技館で行われた師匠会に出席。
- 2006年5月28日 二子山親方の一周忌法要が東京都杉並区の天桂寺で行われるため列席し、営まれた後、墓前で相撲協会錬成歌を若手力士らと共に歌った。
- 2006年5月30日 命日の30日に旧二子山部屋に縁のある元力士らを集めて千代田区のホテルで、しのぶ会を開く。
- 2006年12月26日 年寄名跡・二子山株の名義書き換えが認められ、正式所有する(山響株は一門外の元幕内巌雄の小野川親方へ売却。その後、二子山株も一門外の元大関雅山に売却)。
- 2008年2月4日 日本相撲協会の役員待遇委員・審判部副部長に就任。
- 2009年2月2日 日本相撲協会の役員待遇委員・巡業部副部長・警備本部副部長に異動。
- 2010年
- 2012年2月1日 日本相撲協会理事・地方場所部長(大阪)に職務変更。
主な成績 [編集]
通算成績 [編集]
- 通算成績:794勝262敗201休 勝率.752
- 幕内成績:701勝217敗201休 勝率.764
- 大関成績:137勝28敗 勝率.830
- 横綱成績:429勝99敗201休 勝率.813
- 幕内在位:75場所
- 横綱在位:49場所(現在歴代4位)
- 大関在位:11場所
- 三役在位:7場所(関脇4場所、小結3場所)
- 年間最多勝:5回
- 1992年(60勝30敗)、1994年(80勝10敗)、1995年(80勝10敗)、1996年(70勝5敗15休)、1997年(78勝12敗)
- 連続6場所勝利:83勝(1994年9月場所から1995年7月場所、1994年11月場所から1995年9月場所)
- 連続勝ち越し:17場所(1994年1月場所から1996年9月場所)
- 連続2桁勝利:17場所(歴代6位、1994年1月場所から1996年9月場所)
- 連続12勝以上勝利:13場所(歴代2位、1994年9月場所から1996年9月場所)
- 連続勝利:30連勝(1994年9月場所初日から1994年11月場所千秋楽)
- 曙、武蔵丸を除いた横綱戦では、平幕時代に唯一の金星を獲得した千代の富士のほか、小結時代に旭富士と北勝海から各1回ずつ勝利している。大乃国とは1度対戦しているが勝てなかった。朝青龍には2戦2勝の負けなしで引退している(2001年5月場所と2002年9月場所の2回対戦)。2002年9月場所で貴乃花に敗れた朝青龍は花道を引き上げる際に「畜生!」と大きな声で叫んだり、支度部屋で「怪我をしている左足を狙えばよかった」と発言した。
各段優勝 [編集]
- 幕内最高優勝:22回(歴代5位タイ)(1992年1月場所、1992年9月場所、1993年5月場所、1994年1月場所、1994年5月場所、1994年9月場所、1994年11月場所、1995年1月場所、1995年5月場所、1995年7月場所、1995年9月場所、1996年3月場所、1996年5月場所、1996年7月場所、1996年9月場所、1997年3月場所、1997年7月場所、1997年9月場所、1998年7月場所、1998年9月場所、2001年1月場所、2001年5月場所)
- 場所別優勝回数(東京場所:15回、地方場所:7回)
- 1月場所(東京):4回
- 3月場所(大阪):2回
- 5月場所(東京):5回(北の湖の7回に次いで歴代2位)
- 7月場所(名古屋):4回(千代の富士の6回に次いで、大鵬、輪島、朝青龍と並び歴代2位タイ)
- 9月場所(東京):6回(大鵬と並び歴代1位タイ)
- 11月場所(九州):1回
- 全勝優勝:4回(歴代6位)
- 連続優勝:4場所連続(歴代6位、1996年3月場所から1996年9月場所)
- 優勝決定戦を経ての優勝5回(出場10回は歴代1位)
- 大関以下での優勝7回(明治以降では歴代1位)
- 場所別優勝回数(東京場所:15回、地方場所:7回)
- 幕下優勝:2回(1989年5月場所、1989年9月場所)
三賞・金星 [編集]
- 三賞:9回
- 殊勲賞:4回(1991年5月場所、1991年7月場所、1992年1月場所、1992年9月場所)
- 敢闘賞:2回(1991年3月場所、1992年1月場所)
- 技能賞:3回(1991年3月場所、1991年7月場所、1992年1月場所)
- 金星:1個
- 千代の富士1個
最年少記録 [編集]
- 幕下優勝:16歳9か月(1989年5月場所)
- 十両昇進:17歳2か月(1989年11月場所)[5]
- 幕内昇進:17歳8か月(1990年5月場所)[5]
- 幕内勝ち越し:18歳3か月(1990年11月場所)
- 中日勝ち越し:18歳7か月(1991年3月場所)
- 横綱初挑戦:18歳7か月(1991年3月場所)
- 三賞:18歳7か月(1991年3月場所)[1]
- 金星:18歳9か月(1991年5月場所)[1]
- 小結昇進:18歳10か月(1991年7月場所)
- 関脇昇進:19歳0か月(1991年9月場所)
- 幕内優勝:19歳5か月(1992年1月場所)[1]
- 年間最多勝:20歳3か月(1992年11月場所)
- 千秋楽結びの一番:20歳5か月(1993年1月場所)
- 大関昇進:20歳5か月(1993年3月場所)
- 優勝決定戦:20歳11か月(1993年7月場所)
- 全勝優勝:22歳1か月(1994年9月場所)
- 連続全勝優勝:22歳3か月(1994年9月場所から1994年11月場所)
場所別成績 [編集]
| 一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1988年 (昭和63年) |
x | (前相撲) | 東 序ノ口 #11 5–2 |
西 序二段 #101 6–1 |
西 序二段 #31 6–1 |
東 三段目 #74 5–2 |
| 1989年 (平成元年) |
東 三段目 #41 5–2 |
西 三段目 #13 5–2 |
東 幕下 #48 優勝 7–0 |
東 幕下 #6 3–4 |
西 幕下 #9 優勝 7–0 |
西 十両 #10 8–7 |
| 1990年 (平成2年) |
西 十両 #6 9–6 |
西 十両 #3 9–6 |
東 前頭 #14 4–11 |
東 十両 #5 8–7 |
東 十両 #2 10–5 |
西 前頭 #12 8–7 |
| 1991年 (平成3年) |
西 前頭 #9 6–9 |
東 前頭 #13 12–3 技敢 |
西 前頭 #1 9–6[18] 殊★ |
西 小結 11–4 技殊 |
西 関脇 7–8 |
東 前頭 #1 7–8 |
| 1992年 (平成4年) |
東 前頭 #2 14–1 技殊敢 |
西 関脇 5–10 |
西 前頭 #2 9–6 |
東 張出小結 8–7 |
西 小結 14–1 殊 |
西 関脇 10–5 |
| 1993年 (平成5年) |
東 関脇 11–4 |
東 大関 #1 11–4 |
東 大関 #1 14–1 |
東 大関 #1 13–2[19] |
東 大関 #1 12–3 |
東 大関 #1 7–8 |
| 1994年 (平成6年) |
西 大関 #1 14–1[20] |
東 大関 #1 11–4 |
西 大関 #1 14–1 |
東 大関 #1 11–4 |
西 大関 #2 15–0 |
東 大関 #1 15–0 |
| 1995年 (平成7年) |
東 横綱 13–2[21] |
東 横綱 13–2 |
西 横綱 14–1 |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 12–3[22] |
| 1996年 (平成8年) |
東 横綱 14–1[23] |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 休場[24] 0–0–15 |
| 1997年 (平成9年) |
西 横綱 13–2 |
東 横綱 12–3[25] |
東 横綱 13–2[26] |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 13–2[21] |
東 横綱 14–1[23] |
| 1998年 (平成10年) |
東 横綱 8–5–2[27] |
西 横綱 1–4–10[28] |
西 横綱 10–5 |
西 横綱 14–1 |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 12–3 |
| 1999年 (平成11年) |
東 横綱 8–7 |
西 横綱 8–3–4[29] |
東 横綱 休場[30] 0–0–15 |
西 横綱 #2 9–6 |
東 横綱 #2 0–3–12[31] |
西 横綱 #2 11–4 |
| 2000年 (平成12年) |
西 横綱 12–3 |
東 横綱 11–4 |
西 横綱 13–2 |
西 横綱 5–3–7[32] |
東 横綱 #2 休場[33] 0–0–15 |
東 横綱 #2 11–4 |
| 2001年 (平成13年) |
東 横綱 #2 14–1[21] |
東 横綱 12–3 |
東 横綱 13–2[21] |
東 横綱 休場[34] 0–0–15 |
西 横綱 休場[35] 0–0–15 |
西 横綱 休場 0–0–15 |
| 2002年 (平成14年) |
西 横綱 休場 0–0–15 |
西 横綱 休場 0–0–15 |
西 横綱 休場 0–0–15 |
西 横綱 休場[36] 0–0–15 |
西 横綱 12–3 |
西 横綱 休場[37] 0–0–15 |
| 2003年 (平成15年) |
西 横綱 引退 4–4–1[38] |
x | x | x | x | x |
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 十両・幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
||||||
主な力士との幕内対戦成績 [編集]
| 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 蒼樹山 | 9 | 2 | 曙 | 21 | 21 | 朝青龍 | 2 | 0 |
| 朝乃翔 | 6 | 0 | 朝乃若 | 9 | 0 | 旭富士 | 1 | 2 |
| 旭豊 | 11 | 2 | 安美錦 | 0 | 1 | 大乃国 | 0 | 1 |
| 小城錦 | 12 | 2 | 小城ノ花 | 9 | 0 | 魁皇 | 27 | 12 |
| 海鵬 | 1 | 0 | 巌雄 | 5 | 0 | 北勝鬨 | 14 | 0 |
| 霧島 | 9 | 5 | 旭鷲山 | 11 | 0 | 旭天鵬 | 2 | 2 |
| 旭道山 | 14 | 4 | 久島海 | 8 | 7 | 剣晃 | 16 | 2 |
| 琴稲妻 | 9 | 2 | 琴ヶ梅 | 2 | 1 | 琴錦 | 34 | 14 |
| 琴ノ若 | 34 | 5 | 琴富士 | 8 | 4 | 琴別府 | 8 | 1 |
| 琴光喜 | 4 | 0 | 琴龍 | 4 | 2 | 小錦 | 15 | 7 |
| 逆鉾 | 4 | 1 | 敷島 | 2 | 2 | 大至 | 5 | 0 |
| 太寿山 | 2 | 0 | 大翔鳳 | 11 | 2 | 大翔山 | 4 | 4 |
| 大善 | 9 | 0 | 隆乃若 | 6 | 0 | 高見盛 | 1 | 0 |
| 隆三杉 | 8 | 0 | 玉春日 | 18 | 4 | 玉乃島 | 1 | 0 |
| 千代大海 | 9 | 6 | 千代天山 | 2 | 0 | 千代の富士 | 1 | 0 |
| 出島 | 13 | 4 | 寺尾 | 22 | 6 | 闘牙 | 9 | 0 |
| 時津海 | 1 | 0 | 土佐ノ海 | 21 | 7 | 栃東 | 16 | 5 |
| 栃栄 | 2 | 0 | 栃乃洋 | 12 | 2 | 栃乃花 | 2 | 0 |
| 栃乃和歌 | 22 | 9 | 智ノ花 | 8 | 1 | 濱ノ嶋 | 9 | 1 |
| 追風海 | 3 | 0 | 肥後ノ海 | 15 | 1 | 北勝海 | 1 | 1 |
| 舞の海 | 10 | 1 | 三杉里 | 5 | 7 | 水戸泉 | 13 | 5 |
| 湊富士 | 9 | 2 | 雅山 | 11 | 0 | 武蔵丸 | 29 | 19 |
| 武双山 | 26 | 11 | 若の里 | 9 | 0 | 和歌乃山 | 6 | 0 |
| 霜鳳 | 1 | 0 | 巴富士 | 5 | 3 | 琴椿 | 3 | 1 |
| 鬼雷砲 | 4 | 0 | 巨砲 | 0 | 1 | 春日富士 | 5 | 2 |
| 陣岳 | 3 | 1 | 孝乃富士 | 0 | 2 | 起利錦 | 3 | 3 |
| 花ノ国 | 0 | 1 | 時津洋 | 3 | 0 | 若瀬川 | 2 | 1 |
| 板井 | 1 | 0 |
(太字は2013年3月場所終了現在、現役力士。)
家系図 [編集]
┏━━━━┓ ○ ○ ┃ ┃ ○ ○ ┃ ┏━┻━┓ 男━┳━女 吉崎 武ノ里 ┏━━┻━┳━━━━┳━━━━━━━┓ 貴ノ花 若緑 女=大豪 初代若乃花 ┏━━━┻━━━┓ ┃ 貴乃花 3代若乃花 女=2代若乃花 (離婚)
著作 [編集]
書籍 [編集]
- 『小さなバッタのおとこのこ』(世界文化社、2003年)
- ※イラストレーター・そやなおきとの共著による絵本、付属CDには貴乃花とその家族が総出演している
- ISBN 978-4-418-03511-3
- 『貴流 心氣体』(扶桑社、2009年)
- 『シコアサイズ: 貴流運動法』(幻冬舎、2010年)※考案・監修、DVDとのセット
- 『一生懸命 相撲が教えてくれたこと』(ポプラ社、2012年)
- 『生きざま 私と相撲、激闘四十年のすべて』(ポプラ社、2012年)
DVD・VHS [編集]
-
- 『貴乃花自選集「氣」』(ポニーキャニオン、2003年)※出演・声の出演
脚注 [編集]
- ^ 妊娠6か月のできちゃった結婚だった(婚約会見時には否定していた)。
- ^ a b c d 週刊プレイボーイ 2012年6月4日号 132頁 貴乃花親方の職人気質VOL.023
- ^ この場所13日目、7番相撲で栃日岳に勝って全勝し十両昇進を決めた際にはNHKの大相撲放送で「史上最年少関取誕生です!わずかに笑いました!」とアナウンスされた。
- ^ a b c 週刊プレイボーイ 2012年6月18日号 140頁 貴乃花親方の職人気質 VOL.025
- ^ 普通は多くても10番程度。
- ^ 真似をして顔から落ち、「貴花田みたいにやった」と告白した幕下力士がおり、その力士の師匠からいい手本であると称賛された。
- ^ なお、この場所の初日に貴乃花は当時小結の武双山との取組が組まれたが、突然の休場により「初日から横綱戦が不戦勝では格好つかない」との理由から、急遽割り返しが行われた。割り返し後の武双山は横綱の曙と対戦し、武双山が勝利している。
- ^ 兄の花田虎上は洗脳騒動で話題になった整体師に過食を勧められたからであると自身の著書で述べた。しかし、貴乃花自身は2005年(平成17年)に「大変お世話になった人。洗脳騒動は母と兄によって捏造されたものだ」と否定している。話題となった整体師は何も語っておらず、真相は不明である。
- ^ a b 週刊プレイボーイ 2012年6月25日号 133頁 貴乃花親方の職人気質 VOL.026
- ^ 2007年(平成19年)7月場所では相撲界全体で新弟子検査の受検者が0人であった。
- ^ a b “大抜てき!貴乃花理事が審判部長「公明正大に」”. スポーツニッポン (2010年8月21日). 2012年7月10日閲覧。
- ^ “「ただ信念あるのみ。自分のなかにあるすべてをかけて闘う」”. ウェブ ゲーテ (2010年1月). 2012年7月10日閲覧。
- ^ 大嶽は解雇処分、阿武松は委員から年寄へ2階級降格の上、10年間昇格なしとされた。阿武松部屋所属力士についても、若荒雄らが謹慎休場の処分を下され、後に古市らが逮捕されている。
- ^ “貴乃花親方、たった一夜で退職撤回”. デイリースポーツ (2010年7月10日). 2012年7月10日閲覧。
- ^ “貴乃花親方“ポスト北の湖”でリード!理事選で票上積み”. ZAKZAK (2012年1月31日). 2012年7月10日閲覧。
- ^ 対千代の富士戦で金星。
- ^ 曙・若ノ花(のち3代・若乃花)と優勝決定戦
- ^ 角番(全1回)
- ^ a b c d 武蔵丸と優勝決定戦
- ^ 3代・若乃花と優勝決定戦
- ^ a b 貴ノ浪と優勝決定戦
- ^ 急性腸炎により全休。
- ^ 曙・武蔵丸・魁皇と優勝決定戦
- ^ 曙と優勝決定戦
- ^ 急性上気道炎・肝機能障害により13日目から途中休場
- ^ 肝機能障害により5日目から途中休場
- ^ 右肩鎖関節亜脱臼・右肩胛骨骨折により11日目から途中休場
- ^ 右肩三角筋挫傷・右肩鎖関節亜脱臼・右肩板部分損傷により全休
- ^ 左第 4指PIP関節脱臼・陳旧性総指伸筋腱(IV)中央索損傷により3日目から途中休場
- ^ 上腕二頭筋短頭筋部分断裂により8日目から途中休場
- ^ 左上腕二頭筋腱損傷により全休
- ^ 右膝外側半月板損傷疑により全休
- ^ 右膝外科手術後により全休
- ^ 筋力強化不足により全休
- ^ 右膝外側半月板損傷により全休
- ^ 左肩鎖靱帯損傷により3日目から途中休場、5日目から再出場、9日目に引退
関連項目 [編集]
外部リンク [編集]
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