羽生善治

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羽生善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )は、将棋棋士。通算タイトル獲得数歴代2位。5つの永世称号(永世棋聖・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世王将)を保持(ただし、現在はいずれも名乗らず)。
平成の最強棋士であることは勿論のこと、将棋史上最強格の棋士の少なくとも一人であることは誰もが認めるところであろう。
二上達也九段門下。棋士番号175。血液型AB型。埼玉県所沢市生まれ、東京都八王子市育ち。東京都立富士森高等学校中退、東京都立上野高等学校卒業。
なお、羽生と同世代の棋士には強豪が多く、「羽生世代」と称されている。

目次

[編集] プロデビューまでの来歴

小学校1年生で将棋を覚える。その後八王子の将棋道場に通うようになり、めきめきと上達。(羽生の親が買い物をするとき、託児所的に将棋道場を利用したということもある。)  子供の頃から将棋が家族内であまりにも強すぎたために、家族が不利な展開になったときは将棋盤を180度回転して、それまで家族が指していた劣勢な側を善治が、それまで善治が指していた優勢な側を家族が指し継ぐという家族内ルールが存在した[1]

5年生の頃から、関東各地の子供将棋大会を総なめにする。母親が我が子を見つけ易くするため、いつも広島東洋カープの赤い野球帽を被らされていて、周囲からは「恐怖の赤ヘル」と恐れられていた(羽生自身は読売ジャイアンツファンであった)[2]

関東各地の子供将棋大会で森内俊之と知り合い、この頃からライバル関係となる。将棋大会で、先手・森内の初手▲5八飛に対して後手の羽生が▽5二飛という出だしの将棋があった。

1982年の小学生名人戦で優勝。このとき森内俊之が3位、NHKテレビ解説者は谷川浩司(当時八段、19歳)だった。

小学生名人戦で優勝後、奨励会入り。驚異的な速度で昇級・昇段を重ね、加藤一二三、谷川浩司に続き史上3人目の中学生棋士となる。

[編集] 戦績

[編集] デビュー、そしてスターダムへ

「中学生棋士」としてデビューしたのは、1985年12月であったが、実質の初年度である1986年度に、いきなり全棋士中で1位となる勝率(0.741)を記録し、将棋大賞の新人賞を受賞する。翌1987年度は、勝率1位(0.820)に加えて最多勝(50勝)も記録。

羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「チャイルドブランド[3]と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進む。特に、先手番での勝率が9割という時期があった。

羽生を一気にスターダムへ押し上げることになったのは、五段時代の1988年度のNHK杯戦である。大山康晴加藤一二三谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、4人の名人経験者を立て続けに下して優勝。まるで作ったかのような舞台設定で、これは多くの将棋ファンに対して羽生という棋士の存在を強烈に印象付けた。特に対加藤戦で放った▲5二銀は非常に有名であり、解説役で出演していた米長邦雄も驚嘆していた。
同年度は対局数、勝利数、勝率、連勝の記録4部門を独占。(80局、64勝、0.800、18連勝) 4部門独占は、その後も他の棋士が達成していない大記録である。無冠であるにもかかわらず、将棋大賞最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞した(NHK杯のほか、新人王戦オールスター勝ち抜き戦でも優勝)。

そして、ついにタイトル戦に登場したのが、初代竜王島朗への挑戦権を得た1989年の第2期竜王戦である。羽生は、七番勝負を4勝3敗1持将棋のフルセットの末に制し、史上最年少タイトル記録(当時)となる19歳2ヶ月で竜王位に就く[4]。この年度は、2年連続2度目の記録4部門独占も果たす。(71局、53勝、0.757、15連勝)

翌年11月に谷川浩司に1-4で敗れ、無冠となるが(そのときの肩書きは「前竜王」)、3か月後の1991年2月の棋王戦南芳一から3-0でタイトルを奪取し、それ以降は無冠となったことがない。

なお、 1991年9月20日に第4期竜王戦1組残留決定戦で加藤一二三に敗れて2組へ降級した。竜王戦の歴史が浅いから、ということはあるが、現役のタイトルホルダー(棋王)として、また、最年少での降級という珍記録となった。

[編集] 七冠独占への道

1992年王座福崎文吾から奪取して、自身初の二冠となる。この王座獲得が、後にタイトル連覇記録を塗り替えるまでの長旅の序章であったということは、このとき誰も知るよしがなかった。
さらに、同年の竜王戦では、1組への即復帰だけに留まらず、谷川浩司竜王への挑戦権を得、4勝3敗1千日手で奪取して竜王に復位し、自身初の三冠となる。

1993年棋聖王位をそれぞれ谷川浩司郷田真隆から奪取して、たちまち五冠となる。しかし、竜王佐藤康光に奪われ四冠に後退する。

1994年には、前年に史上最年長名人の記録を達成した米長邦雄から、名人位を奪取。竜王も佐藤から奪還し、史上初の六冠王となる。

残るタイトルは王将ただ1つとなり、1995年(1994年度)、ついに全冠制覇をかけて第44期王将戦谷川浩司王将に挑むことになる。

王将戦七番勝負はフルセットの戦いになったが、同時進行していた棋王戦五番勝負では森下卓をストレートで下して、早々と防衛を決めていた。

そして迎えた王将戦第7局では、千日手指し直し[5]の末、敗退。谷川の執念によって、史上初の全冠制覇を目前で阻止された[6][7]。このとき、「いくら羽生でも、もう七冠独占は無理であろう」と言われていた。

しかし、それから1年間、羽生は、なんと全ての防衛戦で勝利する。挑戦者は、森下卓(名人戦)、三浦弘行(棋聖戦)、郷田真隆(王位戦)、森雞二(王座戦)、佐藤康光(竜王戦)であった。なお、この間、通算タイトル獲得数が谷川の20期(当時)を超え、大山、中原に次ぐ歴代3位となっている。

さらに、第45期王将リーグも5勝1敗の1位で抜けて、谷川王将に2年連続挑戦する。
そして、ついに1996年2月14日、4-0のストレートで王将を奪取し、七冠独占の偉業を成し遂げた

タイトルが7つになってからの全冠制覇は、史上初の快挙で、翌日の新聞の一面を飾ったり、終局直後に生中継によるニュース速報が行われるなど、棋界にとどまらず社会全体で大々的に採り上げられた。直後に棋王戦防衛にも成功(相手は高橋道雄)したので、年度の全7タイトル制覇も達成したことになる。この年度は、テレビ棋戦のNHK杯早指し将棋選手権でも優勝したので「九冠」とも言われた。しかも、年度勝率は、タイトル戦続きで強豪との対局がほとんどであったにもかかわらず0.8364(歴代2位)という驚異的な数字であった[8]

さて、七冠王として迎えた新年度(1996年度)の最初のタイトル戦は、小学生時代からのライバル・森内俊之との初のタイトル戦となる名人戦であった。この七番勝負は4-1で防衛に成功し、内容的にも、両者、力を出し合った名局揃いという評価を受ける。

次の防衛戦は、2年連続でダークホース[9]・三浦弘行を挑戦者に迎えた第67期棋聖戦であった。フルセットの戦いの末、三浦に2-3で敗れ、全冠独占はわずか167日(1996年2月14日-7月30日)で幕を降ろした[10]

[編集] 七冠以後

  • 三浦から棋聖位を奪われたのと同年の第9期竜王戦と、翌1997年第55期名人戦の2つのビッグタイトル戦で、いずれも谷川にタイトルを奪われ、四冠に後退[11]
  • この年度は、NHK杯決勝で村山聖に勝って4度目の優勝をしたが、これが二人の最後の対局となった(約5ヵ月後の1998年8月8日に村山が死去)。
  • 名人位失冠後は、1999年度末まで保持していたタイトルの防衛に成功し続け、四冠を3年間堅持。2000年には谷川浩司から棋聖を奪取して再び五冠王になる。
  • 2001年度のタイトル戦は、奪取1(竜王)、防衛3(王位王座棋王)、失冠2(棋聖王将)と、目まぐるしい1年であったが、年度末時点で四冠。
  • 2002年度のタイトル戦は、奪取1(王将)、防衛2(王座竜王)、失冠2(王位棋王)で、年度末時点で三冠。このうち、竜王の獲得は通算6期となり、史上初の永世竜王にリーチをかけた。
  • 2003年名人戦森内俊之から奪取して四冠になるとともに、名人位通算4期で永世名人資格にもリーチをかけた。
    ところが、同年度(2003年度)の竜王戦王将戦、そして2004年名人戦で、いずれも森内俊之に立て続けにタイトルを奪われ、永世竜王・永世名人資格獲得を逸する[12]ばかりか、羽生のタイトルは王座の一冠のみとなった。
    この時点で、棋界の構図は、森内竜王名人王将と合わせて三冠)、谷川王位棋王(=二冠)、佐藤(康)棋聖、羽生王座となり、この瞬間、羽生は棋界最強の座を奪われただけでなく無冠の危機さえ迎えたかに見えた。
    しかし、羽生の立ち直りは早く、その2004年度中に王位王将棋王を奪還。その間、王座も防衛して、たちまち四冠まで舞い戻った。
  • 2005年度のタイトル戦は、森内へのリターンマッチとなる名人戦で始まったが、3-4で惜しくも敗れ、またしても永世名人資格獲得のチャンスを逃す。この年度は、そのほか、防衛3(王位王座王将[13])、失冠1(棋王=相手は森内)で三冠に後退。
  • 同年度(2005年度)の順位戦では8勝1敗の成績だったにもかかわらず谷川とのプレーオフとなり、結果敗れて名人挑戦を逃した。8勝して名人挑戦できなかったのは唯一のケースである。なお、このプレーオフの一局は結果的に「詰ましにいって詰まなかった」ものだったが、内容は高く評価され、第34回将棋大賞で創設されたばかりの「名局賞」を、谷川とともに受賞している。(翌年度も名局賞を連続受賞するが、皮肉なことに、いずれも負けた対局での受賞である。)
  • 2006年度、王位王座王将を防衛して三冠を堅持(奪取と失冠は無し)。王座防衛の時点で通算タイトル獲得数を65期とし、中原誠(通算64期)を抜いて歴代単独2位となった。
  • 2007年度、王位深浦康市に奪われ二冠に後退。
  • 王座戦で16連覇しており(2007年現在継続中)、1959年~1971年にかけて大山康晴名人戦で樹立した同一タイトル連覇記録13連覇を抜いている[14]
  • 2007年12月20日、第66期A級順位戦6回戦で久保利明を破り、史上8人目、最年少、最速、最高勝率で通算1000勝を達成。
  • 2008年2月28日、第57期王将戦第5局で久保利明を破り、史上2人目の棋戦優勝100回(タイトル獲得68期、一般棋戦優勝32回)を達成。

[編集] 棋風

  • 居飛車振り飛車相振り飛車のいずれも指しこなすオールラウンドプレイヤーで、幅広い序盤戦型、柔軟な発想と決断力、豊富な戦術に定評がある。そのため対策が立てにくく、今に至るまで高い勝率を維持していると言われる。[要出典]
  • 終盤での絶妙の勝負手、他の棋士が思いつかないような独特な寄せ手順から逆転することから「羽生マジック」と称される。
  • 棋風は「泰然流」「無双流」などと名づけられているが定着していない。
  • 好きな駒は銀将。
  • 金銀を、異筋である8三(後手なら2七)に打った対局の勝率が高いことから、棋界では「羽生ゾーン」と呼ばれている。

[編集] エピソード・人物

[編集] 対局に関するエピソード

  • 得意なタイトル(王位王座棋王王将)と得意ではないタイトル(竜王名人棋聖)との獲得数の差が顕著である。特に永世名人資格保持者(通算5期)になっていないことは将棋界の七不思議になっており、小学生時代以来のライバルである森内俊之に先を越された。ただし、それでも永世棋聖はすでに達成、永世竜王(通算7期)と永世名人(通算5期)にもリーチをかけている(竜王を通算6期獲得しているのは羽生だけである)。
  • プロデビューして間もない低段時代には、上目で相手をにらみつける(ように見える)「ハブ睨み」が相手を恐れさせたとされる。
  • 初手を指すとき、歩を持った手を若干左斜めに上げてから下ろす。それはあたかも、将棋漫画の登場人物の様な動作である。
  • 対局中、勝ちを確信したときに、打ち下ろした駒をさらに指で盤に押し付ける仕草(通称「グリグリ」)をすることがある。
  • 初めて竜王位に就いた頃、先輩棋士(自分より段位や実績が上の棋士)と対局する際、上座に座るべきか下座に座るべきか、対局相手が来るまで悩んでいた[15]
  • 若手時代、NHK杯戦で先手番となったとき、▲2六歩▽8四歩▲2五歩▽8五歩という相掛かりの出だしの後、当然の5手目▲7八金を指すまでに若干の時間を使って考慮をし、観戦している人々をドキリとさせたことがある[16]
  • 1993年12月24日の対谷川戦(棋聖戦)において、序盤で4四の歩のタダ取りを許す▽4二角、さらには、いったん敵玉に迫っていた7九の と金を、香車を取るだけのために2手をかけて▽8九~▽9九へ「退却」させるという、将棋の常識からかけ離れた奇手を指した。売られた喧嘩に谷川が応じる展開の乱戦となり、さらに終盤だけで80手ほどもある激戦となったが、結果、羽生が勝利している。
  • 1994年、初めて名人位を獲得した直後のNHK杯戦・対畠山鎮戦で、先手・畠山の初手▲2六歩に対して2手目▽6二銀と指したことがある。そして、10手目で▽3四歩とするまで羽生の歩が1つも動かないという、極めて珍しい出だしとなった。まさに「名人に定跡なし」といったところであろうか。
    結果、勝利したものの、自陣を整備するのに神経をすり減らす展開であった。
    なお、羽生は、これについて後に「▽6二銀は損だが、どれぐらい損であるかを見極めるために指した。どれだけ損であるかがわかったので、もう指すことはない。」という旨を語っている[17]
  • 2003年の第51期王座戦では、タイトル戦初登場で19歳の渡辺明五段(当時)の挑戦を受け3-2で防衛したが、最終の第5局の終盤で羽生の手が震えて駒をまともに持てなかったということは有名である[18]。ただし、このときに限ったことではなく、一手のミスも許されない終盤で羽生の手が震えるというのは、比較的よく見られることのようである[19]
  • 2007年10月14日放送のNHK杯戦で中川大輔から奇跡的な逆転勝利を挙げ、当時の解説でNHK杯現役最多優勝記録保持者の加藤一二三をして「NHK杯戦史上に残る大逆転」と言わしめる対局となった。
  • 2008年の第66期名人戦第3局(2008年5月8日~9日)において、控え室[20]の棋士達が森内俊之の勝ちと判断して検討を打ち切った後の敗勢から驚異的な粘りを見せて、最後の最後で森内のミス[21]を誘い、大逆転勝利を挙げる。その凄まじさは副立会人の深浦康市が「50年に1度の大逆転」と評したほどであった。
  • 史上初のネット公式棋戦である大和証券杯ネット将棋最強戦の第2回、1回戦・渡辺明竜王との対局(2008年5月11日)において、マウス操作の関係のミス[22]によって、痛恨の時間切れ負けをする[23]。時間切れとなった局面は68手目、中盤から終盤への入り口で一番面白くなるところであり、しかも羽生優勢の局面であっただけに、観戦者にとっても羽生自身にとっても、惜しまれる結果であった[24]。なお、これは羽生にとってデビュー以来初めての反則負けとしてマスコミに注目され、翌日の朝刊では一般紙や地方紙でも取り上げられた[25]

[編集] その他

  • 寝癖がトレードマークであったが、結婚後はあまり見られなくなった(結婚報告の記者会見時も寝癖がついていたため、扶桑社から発刊された「新しい単位」内の「だらしなさ」の単位が「hb(ハブ)」になった)。演歌歌手長山洋子の歌「たてがみ」は、羽生に対するオマージュソングである(「たてがみ」は羽生の寝癖になぞらえたタイトル)。
  • 妻は元女優の畠田理恵。婚約発表は1995年7月1996年2月19日に畠田が駅で暴漢に襲われる事件が発生。この事件は七冠達成から僅か5日後であったため、マスコミで大きく取り上げられた。
    挙式は1996年3月28日[26]
    1997年7月に長女、1999年11月に二女が誕生。2人の女の子の父親となる。
  • 能條純一漫画作品『月下の棋士』の主人公・氷室将介のモデルと言われている。ただし、モデルにしているのはその圧倒的な強さとオーラのみで、彼の性格や風貌などには一切関係がない。また、漫画の後半部分でスポット的に登場した眼鏡の少年(羽田)は羽生に似ている。
  • 趣味は水泳とチェス。チェスでは、FIDE Masterの称号を持ち、2007年1月現在においてレイティングは2404と日本国内1位で、国内屈指の強豪である。日本チェス協会の国内称号である段位は六段となっている。
  • 2006年11月14日八王子市より八王子観光大使を委嘱される。
  • お笑い芸人Bコースのメンバー、ハブは彼の従兄弟にあたる。
  • 子供の頃公文式をしていたため、CMに起用されていたこともある。また、その頃から七冠王になるまでを書いた本(羽生善治ストーリー、マンガ形式)もある。
  • 最強棋士とのイメージから、名人位になくとも、将棋をよく知らない一般人からは「名人」と呼ばれることが少なくない。
  • テレビ番組「進め!電波少年」内のコーナーで、松村邦洋と「金銀飛車角桂馬香車歩落ち」(要するに王将だけ)で対戦するが、松村が将棋のルールを全く知らなかったこともあってか、勝利を収めている。

[編集] 昇段履歴

  • 1982年12月 - 6級 =奨励会入会
  • 1984年 - 初段
  • 1985年12月18日 - 四段 =プロ入り(奨励会三段昇段後13勝4敗)
  • 1988年4月1日 - 五段 (順位戦C級1組昇級)
  • 1989年10月1日 - 六段 (竜王挑戦)
  • 1990年10月1日 - 七段 (竜王位獲得)
  • 1993年4月1日 - 八段 (順位戦A級昇級)
  • 1994年4月1日 - 九段 (タイトル3期・・・八段昇段前にタイトル3期は達成していたが、1年以内の飛び昇段ができない規定のため)

[編集] 主な成績

[編集] 在籍クラス

  • 第21期竜王戦(2007年秋~2008年秋) 1組
    1組以上通算19期(第3~4, 6~22期)
  • 第67期順位戦(2008年度) A級以上
    A級以上通算16期(第52~67期)

[編集] 獲得タイトル

(2007年度終了現在)

  • 竜王 6期(第2期・5期・7期・8期・14期・15期) - 最多在位記録、永世竜王まで、あと1期
  • 名人 4期(第52期 - 54期・61期) - 永世名人まで、あと1期
  • 棋聖 6期(第62期 - 66期・71期) - 永世棋聖
  • 王位 12期(第34期 - 42期・45期 - 47期) - 最多在位タイ記録、永世王位
  • 王座 16期(第40期 - 55期) - 最多在位記録、最多連覇記録、名誉王座
  • 王将 11期(第45期 - 50期・52期・54期 - 57期) 永世王将
  • 棋王 13期(第16期 - 27期・30期) - 最多在位記録、永世棋王
獲得合計68(歴代2位)

[編集] 一般棋戦の優勝歴

合計32回(歴代2位)

[編集] 将棋大賞

  • 第14回(1986年度) - 勝率一位賞・新人賞
  • 第15回(1987年度) - 勝率一位賞・最多勝利賞・敢闘賞
  • 第16回(1988年度) - 最優秀棋士賞[27]・勝率一位賞・最多勝利賞・最多対局賞・連勝賞[28]
  • 第17回(1989年度) - 最優秀棋士賞・勝率一位賞・最多勝利賞・最多対局賞・連勝賞[29]
  • 第19回(1991年度) - 敢闘賞
  • 第20回(1992年度) - 最優秀棋士賞・勝率一位賞・最多勝利賞・最多対局賞・連勝賞[30]
  • 第21回(1993年度) - 最優秀棋士賞
  • 第22回(1994年度) - 最優秀棋士賞・最多勝利賞
  • 第23回(1995年度) - 最優秀棋士賞・特別賞(七冠独占による)・勝率一位賞・最多勝利賞
  • 第24回(1996年度) - 最優秀棋士賞
  • 第26回(1998年度) - 最優秀棋士賞・最多対局賞
  • 第27回(1999年度) - 最優秀棋士賞
  • 第28回(2000年度) - 最優秀棋士賞・勝率一位賞・最多勝利賞・最多対局賞・連勝賞[31]
  • 第29回(2001年度) - 最優秀棋士賞
  • 第30回(2002年度) - 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞
  • 第32回(2004年度) - 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞
  • 第33回(2005年度) - 最優秀棋士賞・最多対局賞・連勝賞
  • 第34回(2006年度) - 優秀棋士賞・名局賞(第64期A級順位戦プレーオフ 対谷川浩司九段戦)
  • 第35回(2007年度) - 最優秀棋士賞・最多勝利賞・最多対局賞・名局賞(第48期王位戦七番勝負第7局 対深浦康市八段戦)

[編集] 記録(歴代1位のもの)

  • タイトル関連
    • 最高同時タイトル - 七冠(1996年2月14日)
    • 同一タイトル連続保持 - 16期(王座1992年 - 2007年)※継続中
  • 将棋大賞関連
    • 最年少最優秀棋士賞 - 18才(1988年)
    • 最多最優秀棋士賞(15回)
    • 年度記録4部門賞独占(1988、1989、1992、2000年度) - 羽生以外の棋士は一度も達成していない
    • 年度最多対局 - 89局(2000年度)
    • 年度最多勝利 - 68勝(2000年度)
    年度勝数60勝以上 - 4回[32](1988年(64)、1992年(61)、2000年(68)、2004年(60))
    年度勝率8割以上 - 3回(1987年(.820)、1988年(.800)、1995年(.836))
  • 通算勝数関連
    • 1000勝所要年月最速 - 22年0ヶ月
    • 最年少1000勝 - 37歳2ヶ月23日
    • 1000勝時最高勝率 - .7283
  • 賞金関連
  • 珍記録
    • 最年少竜王戦1組降級 - 20才11ヶ月23日(1991年9月20日)
    • タイトルホルダーでの最年少竜王戦1組降級(当時棋王) - 20才11ヶ月23日(1991年9月20日)

[編集] その他表彰

[編集] 著書

その他多数

[編集] 出演

[編集] テレビ番組

ほか多数

[編集] CM

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

  1. ^ NHKクイズ日本人の質問で紹介された。
  2. ^ 田中寅彦 著『羽生善治 神様が愛した青年』(ISBN 4-584-19128-X
  3. ^ 島朗による命名。
  4. ^ ただし、最年少タイトル獲得記録は、わずか1年足らずで屋敷伸之によって塗り替えられた。
  5. ^ 千日手局は前局と全く同じ手順で進み、41手目で初めて先手の谷川が手を変えた。「お互いの意思がピッタリ合った。」(『谷川vs羽生100番勝負』より)
  6. ^ 谷川は、第1局と第2局の間に阪神淡路大震災で被災していた。谷川は後に「(逆に)もしも震災がなかったら、このとき敗れていたのかもしれない」という旨を語っている。
  7. ^ 第7局の2日目当日(1995年3月24日)、対局場である青森県奥入瀬のホテルには、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた。勝利したのが谷川であったのにもかかわらず、対局後、カメラや質問が主に羽生に向けられたのは、羽生にとっても谷川にとっても気の毒なことであった。
  8. ^ 46勝9敗のうち、タイトル戦だけでは25勝5敗(.8333)。この年度の最終戦となった屋敷戦に勝っていれば、中原の持つ最高勝率(.8545 47-8)に並ぶことができた。
  9. ^ 羽生の全冠独占後に将棋マガジン日本将棋連盟発行)の中で「羽生から最初にタイトルを奪取するのは誰?」というアンケートが行われ、大抵の人が谷川や佐藤康光と答えた中、三浦と答えたのは僅か4人であった。
  10. ^ この第5局は、先手の三浦が当時としては珍しい相掛かり2八飛引き戦法を採用。この先手引き飛車は、その後、プロ間で流行するようになる。
  11. ^ この名人戦で、谷川は名人位獲得通算5期となり、十七世名人資格を得た。
  12. ^ 竜王戦は0-4のストレート敗退。羽生がタイトル戦でストレート負けを喫したのは初めてであった。
  13. ^ この王将戦七番勝負で佐藤康光の挑戦を受け3連勝しながら3連敗し、あわや将棋のタイトル戦史上初の3連勝後の4連敗を喫するところだったが、第7局を制し大逆転は実現させなかった。なお、3連勝3連敗で最終局を迎えるのは1978年の十段戦中原誠十段(当時)が米長邦雄八段(当時)の挑戦を受けて防衛したとき以来2度目。(囲碁のタイトル戦では、3連敗4連勝は何度か発生している。)
  14. ^ ただし、数字の上では大山の記録を抜いたものの、羽生自身は14連覇時の就位式(2005年)で「大山先生にはとてもかなわないが、数字の上だけでも一つ追いつくことができた」と述べており、偉大な先輩に敬意を表している。
  15. ^ 著書『決断力』より。
  16. ^ 解説役で出演していた内藤國雄は、▲2四歩と指しても先手が僅かに悪いとされているだけであり、羽生ならば何かやってくるかもしれないと相手に思わせる雰囲気を持っている、という趣旨の解説をしていた。
  17. ^ 将棋世界2006年8月号
  18. ^ 将棋世界2007年1月号より。また、対局相手の渡辺も、テレビ番組で証言している。
  19. ^ たとえば、「プロフェッショナル 仕事の流儀」(NHK総合、2006年7月13日放送)で紹介された藤井猛との朝日オープンでの対局や、「囲碁・将棋ジャーナル」(NHK BS2、2008年5月17日放送)で紹介された森内との名人戦でも見られる。
  20. ^ 対局場の宿(ホテル)に駆けつけた棋士達が集う部屋のこと
  21. ^ 羽生が打った飛車を森内が3枚の銀で捕獲したと思われた直後、羽生が桂馬を動かした手が王手銀取り(飛車の空き王手)となり、森内が今打ったばかりの銀が桂馬で取られてしまった。そして、森内の金・銀がぼろぼろと取られていき、その金・銀で森内の玉が寄せられる形となった。
  22. ^ 2度クリックをしないと指し手が確定されない設定(操作ミスによる指し間違いを防ぐ設定)を対局途中から解除するつもりだったが、解除するのをうっかり忘れたまま時間がぎりぎりになり、着手が間に合わなかったらしい。
  23. ^ 3ヶ月前に中井広恵もネット対局で時間切れ負けをしている。
  24. ^ 翌日、日本将棋連盟の公式サイトで、対局者への注意徹底を行うこと、そして、万一同様の事態が起こった場合に指し継ぎの感想戦を行えるようなシステム(ソフトウェア)に変えることにより、ファンサービスを向上する旨が発表された。
  25. ^ ちなみに、この反則負けの3日前~2日前には名人戦で森内に勝利して2勝1敗とし、2日後は棋聖戦の挑戦者決定戦で久保に勝って佐藤棋聖への挑戦権を獲る、という過密スケジュール(しかも、いずれも大一番)をこなしていることにも注目。
  26. ^ テレビ番組「進め!電波少年」で、松村邦洋が「羽生7冠王の寝癖を直したい!」という企画をかかげて、式場へアポなし突入をされた。
  27. ^ 史上最年少での最優秀棋士賞
  28. ^ 史上初の記録4部門独占。(羽生以外の棋士は一度も達成していない)
  29. ^ 自身2度目の記録4部門独占。
  30. ^ 自身3度目の記録4部門独占。
  31. ^ 自身4度目の記録4部門独占。
  32. ^ 羽生以外には、森内俊之(1991年63勝)、木村一基(2001年61勝)が各1回達成しているのみ。


竜王:渡辺明
第21期竜王戦1組(2007年秋~2008年秋)

森内俊之| 佐藤康光| 羽生善治| 深浦康市| 中原誠| 谷川浩司| 丸山忠久| 郷田真隆| 富岡英作| 阿部隆| 三浦弘行| 鈴木大介| 木村一基| 杉本昌隆| 松尾歩| 橋本崇載


名人戦名人森内俊之
A級順位戦

羽生善治 | 三浦弘行 | 郷田真隆 | 丸山忠久 | 木村一基 | 藤井猛 | 谷川浩司 | 佐藤康光 | 鈴木大介 | 深浦康市

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