羽生善治

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 羽生善治 名人・王位・王座・棋聖
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第5回国際将棋フォーラム(当時41歳)
名前 羽生善治
生年月日 1970年9月27日(44歳)
プロ入り年月日 1985年12月18日(15歳)
棋士番号 175 
出身地 埼玉県所沢市東京都八王子市 
師匠 二上達也 
永世称号 十九世名人(襲位は原則引退後)
永世王位(就位は原則引退後)
名誉王座(同上)
永世棋王(同上)
永世棋聖(同上)
永世王将(同上)
名誉NHK杯選手権者
在位中タイトル 名人・王位・王座・棋聖
段位 九段
戦績
タイトル獲得合計 89期(歴代1位)
一般棋戦優勝回数 42回(歴代2位)

羽生 善治(はぶ よしはる、1970年9月27日 - )は、日本の将棋棋士二上達也九段門下。棋士番号は175。

概要[編集]

1996年2月14日将棋界で初の7タイトル独占を達成。

2012年7月5日、棋界の金字塔と目されていた大山康晴の通算タイトル獲得期数80期の従来記録を抜き、歴代単独1位[注 1]となった。全7タイトルのうち竜王を除く6つでの永世称号(永世名人(十九世名人)・永世王位・名誉王座・永世棋王・永世棋聖・永世王将)の資格の保持(いわゆる「永世六冠」)に加え、名誉NHK杯選手権者の称号を含めた7つの永世称号の保持は史上初[注 2]である。

通算優勝回数141回、通算公式戦優勝回数131回、通算タイトル獲得89期、タイトル戦通算登場回数118回、同一タイトル戦連続登場回数22回(王座)、同一タイトル獲得通算21期(王座)は歴代1位の記録である。また、通算非タイトル戦優勝回数52回・通算非公式戦優勝回数10回も歴代1位である。一般棋戦優勝回数42回は大山(44回)に次いで歴代2位である。詳細は主な成績を参照。

1つ以上のタイトルを23年に渡って維持しており、さらに1992年に王座・竜王を獲得して以降、一冠までに追い込まれたのは2004年のわずか89日間(王座)のみである。その前後も年度複数冠は達成しているため、年度複数冠継続の記録は2014年現在も更新中である。

羽生とほぼ同じ年齢にトップクラスの実力者が集中しており、彼らは「羽生世代」と呼ばれる。

プロデビューまで[編集]

埼玉県所沢市で生まれ、幼稚園に入る頃から東京都八王子市に移り住んだ[1]

小学校1年生のとき、近所に住む同級生から将棋のの動かし方を教わった[1][注 3]。2年生(1978年)の夏、将棋に熱中している我が子の姿を見ていた母が将棋道場「八王子将棋クラブ」の「第1回夏休み小中学生将棋大会」に出場を申し込み、大会デビュー(1勝の後2連敗で失格)[1]。それがきっかけで、同年10月28日から毎週末に同道場に通うようになった[1]。家が新興住宅地にあったため周囲にまだあまり店がなく、週末に両親が車で八王子市街に出かけて買いだめをするたび、道場の席主に母があいさつして羽生を預けた[1]

道場のいちばん下は7級であったが、昇級の楽しみを与えるため席主が与えた段級は14級であった[1]。その後、棋力は急速に向上していき、翌年の小学3年生の時に初段、4年生の10月に四段、5年生の10月に五段となり[1]、いわゆるアマ強豪のレベルとなった。なお、家でも将棋を指し、それは両親と妹の計3名による「連合軍」と羽生1名が対戦して、連合軍が不利な展開になったときは将棋盤を180度回転して指し継ぐという家族内ルール[2]であったが、羽生の上達が速かったため長続きしなかった[1]

1979年、3年生で4級のとき、日本橋東急デパートの「よい子日本一決定戦・小学生低学年の部」で準優勝(優勝は先崎学)をし、その翌年も関東各地のデパートの大会で準優勝や3位入賞をする[1]。将棋大会出場時は、母が我が子を見つけやすくするため、いつも広島東洋カープの赤い野球帽である‘赤ヘル’を被らせていた(羽生自身は読売ジャイアンツファンであった)[3][1]

そして、1981年1月7日、「第1回小田急将棋まつり小学生大会」でデパート大会での初優勝した。このとき、準決勝で森内俊之を、決勝で小倉久史を破っている[1]。森内とのライバル関係は、この頃から始まった。ある将棋大会では、先手・森内の初手▲5八飛という珍しい手に対して後手の羽生が△5二飛と返すというきわめて珍しい序盤を見せることもあった[4]。同年、5年生に上がると、アマ名人戦の都下予選(7月12日)を史上最年少で通過[1]。8月には東京の4つの小学生大会で優勝する[1]

5年生のとき、奨励会への入会を志し、道場の師範代である中嶋克安指導棋士(二上の最初の弟子)[注 4]に相談をしたが、中嶋は「小学生将棋名人戦で優勝をすること」という厳しい条件を突きつけた[注 5][1]。しかし、6年生の春(1982年4月3日)、羽生は見事優勝し条件をクリアした。このとき森内は3位、NHKテレビ解説者は3日後に二十歳の誕生日を迎える谷川浩司新八段だった。母は対局が行われたNHKのスタジオから、すぐに二上に電話を入れた[1]。小学生将棋名人戦に出演していた大山康晴は優勝した羽生と谷川を見て将来はこの若い2人が将棋界を引っ張っていくライバルになっていくであろうと述べている。

同年、奨励会入会試験に合格(この時の奨励会の幹事は滝誠一郎で、羽生は小学5年生の時、二枚落ちという本来ならば手合い違いのハンデで滝に敗れている)。以降、1年あまりで6級から初段に昇段するなど驚異的な速度で昇級・昇段(後述)を重ね、1985年12月18日に三段での13勝4敗を記録。この成績をもって、当時の規定[注 6]により四段に昇段してプロに昇格。加藤一二三、谷川浩司に続く史上3人目の中学生棋士となる。

戦績[編集]

末尾の年表 も参照。

デビュー[編集]

第38回 NHK杯戦 準々決勝
第60手 △3二同玉まで
(この次の一手が▲5二銀)
△加藤一二三 持駒:桂歩
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91 81 71 61 51 41 31 21 11
92 82 72 62 52 42 32 22 12
93 83 73 63 53 43 33 23 13
94 84 74 64 54 44 34 24 14
95 85 75 65 55 45 35 25 15
96 86 76 66 56 46 36 26 16
97 87 77 67 57 47 37 27 17
98 88 78 68 58 48 38 28 18
99 89 79 69 59 49 39 29 19
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▲羽生善治 持駒:角金銀二香歩

デビューから年度が明け、実質の初年度となる1986年度に全棋士中1位の勝率0.741(40勝14敗)を記録し、将棋大賞の新人賞と勝率1位賞を受賞する。羽生に追随してデビューしてきた同年代の強豪棋士達とともに、いわゆる「チャイルドブランド[注 7]と呼ばれる新世代のグループを形成し、羽生は、その代表的存在として勝ち進む。

羽生を一気にスターダムへ押し上げることになったのは、五段時代の第38回(1988年度)NHK杯戦である。大山康晴(3回戦)、加藤一二三(4回戦 = 準々決勝)、谷川浩司(準決勝)、中原誠(決勝)と、当時現役の名人経験者4人をすべて破るという、まるで作った舞台設定[注 8]のような勝ち上がりで優勝した。対・加藤戦では終盤61手目に加藤陣に打った妙手▲5二銀(右図は1手前の局面。打った銀を飛車で取っても金で取っても加藤の玉が詰む)に驚いた解説役の米長邦雄は「おぉー、やった!」とマイクの音が割れる大声を上げた。対局室と解説室は離れているにもかかわらず、その声は対局室の羽生に聞こえた[5][注 9]

この1988年度は、対局数、勝利数、勝率、連勝の記録4部門を独占(80局、64勝、0.800、18連勝[注 10])をし、将棋大賞の最優秀棋士賞を史上最年少(18歳)で受賞した。無冠の棋士が受賞したのも、史上初である。なお、記録4部門独占は羽生だけが達成している記録で、しかも、その後に3回(合計4回)達成している(将棋大賞 を参照)。

1989年、第2期竜王戦で3組優勝者として挑戦者決定トーナメントを勝ち上がって挑戦権を得、タイトル戦初登場。七番勝負の相手は、研究会「島研」での‘恩師’であり前年に初代竜王の座に就いた島朗であった。持将棋1局を含む全8局の熱闘を4勝3敗で制し、初のタイトル獲得棋界で名人位と並んで序列トップの竜王位に就いた。19歳2か月でのタイトル獲得は、当時の最年少記録であった(最年少タイトルの記録は、翌年、18歳の屋敷伸之によって塗り替えられる)。この年度は、先手番での勝率が0.9355(29勝2敗)であった[6]

1990年11月に谷川に竜王位を奪取され、無冠の「前竜王」という肩書きになるが、4か月後の1991年3月に棋王位を獲得し、以降、一冠以上を保持する状態が長く続く。また、肩書きとして段位を名乗ったのは竜王挑戦時の「六段」が最後である。

七冠独占[編集]

1992年度、第40期王座戦福崎文吾から奪取して、初めて複数冠(王座・棋王)となる。ここから長い王座戦連覇が始まり、後に、大山が持つ同一タイトル連覇記録を塗り替えることとなる。

同年、第5期竜王戦で谷川竜王(三冠)との三冠対二冠の天王山対決を制し、「タイトル保有の図式が逆転」[注 11]した。

1993年度、谷川から棋聖を、郷田真隆から王位を奪取して五冠王(大山、中原に次いで3人目)となる。羽生はこのときに「初めて七冠を意識した」[7]。しかし、竜王戦で佐藤康光に敗れ四冠に後退する。

一方、順位戦では、1991年度(第50期)のB級2組から2期連続昇級でA級に昇格。そして迎えた第52期(1993年度)A級順位戦では、谷川と並んで7勝2敗で1位タイの成績で終え、プレーオフで谷川に勝ち、A級初参加にして名人挑戦権を得る。この第52期(1994年度)名人戦七番勝負の相手は、前年から初めて名人位に就いていた50歳の米長邦雄名人であった。羽生は3連勝・2連敗[注 12]の後の第6局で勝ち、奪取。

同年度、さらに竜王位を佐藤から奪還して史上初の六冠王となる。残るタイトルは、谷川が保持する王将位ただ一つとなった。王将リーグでは郷田と5勝1敗同士で並びプレーオフとなったが、これに勝利して王将挑戦権を獲得。ついに、1995年1月からの王将戦七番勝負で、全冠制覇をかけて谷川王将に挑むことになる。

この第44期王将戦七番勝負はフルセットの戦いとなり、その間、同時進行していた棋王戦五番勝負では森下卓に対し3-0で早々と防衛をしていた。

そして最後の第7局(1995年3月23 - 24日)は、青森県奥入瀬で行われた。相矢倉の戦形となったが、2日目に千日手が成立。先手・後手を入れ替えての指し直し局は同日中に行われたが、40手目まで千日手局と同じ手順で進行。つまり、相手の手を真似し合ったような格好であった[注 13]。41手目に先手の谷川が手を変え、以降、矢倉の本格的な戦いとなったが、最後は谷川の111手目を見て羽生が投了。阪神淡路大震災で被災[注 14]したばかりの谷川によって、七冠制覇を目前で阻止された。羽生がタイトルに挑戦して敗れたのは、これが初めてである。この第7局の2日目当日、対局場のホテルには、将棋界の取材としては異例の数の報道陣が大挙して詰めかけていた(約150名[8])。敗れた羽生は、「もう2、3年は、(七冠の)チャンスは巡ってこないだろう」と思った[7]

ところが、それから1年間、羽生は王将戦第7局の前に既に防衛していた棋王戦(対・森下卓)を含め、名人戦(対・森下卓)、棋聖戦(対・三浦弘行)、王位戦(対・郷田真隆)、王座戦(対・森雞二)、竜王戦(対・佐藤康光)と六冠の防衛に全て成功する。なお、これらの防衛戦の間に通算タイトル獲得数が谷川の20期(当時)を超え、大山、中原に次ぐ歴代3位となっている。そのかたわら、第45期王将リーグは対・中原戦で1敗を喫したものの、村山聖、森内俊之、丸山忠久、郷田真隆、有吉道夫に勝って5勝1敗の1位となり、2期連続で谷川王将への挑戦権を勝ち取る。なお、これらの防衛戦、リーグ戦の中では、終盤戦で相手の悪手に助けられた逆転勝ちがいくつもあった[注 15]

【七冠達成の図】
第45期王将戦第4局
82手目△7八金
△羽生善治竜王・名人
持駒:金銀桂歩四
Shogi zhor 22.png
91 81 71 61 51 41 31 21 11
92 82 72 62 52 42 32 22 12
93 83 73 63 53 43 33 23 13
94 84 74 64 54 44 34 24 14
95 85 75 65 55 45 35 25 15
96 86 76 66 56 46 36 26 16
97 87 77 67 57 47 37 27 17
98 88 78 68 58 48 38 28 18
99 89 79 69 59 49 39 29 19
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▲谷川浩司王将
持駒:飛角金桂歩三

第45期王将戦七番勝負の決着は、前年とは異なりあっさりとやって来た。羽生は開幕から3連勝し、山口県マリンピアくろいでの第4局(1996年2月13日 - 2月14日)を迎える。報道陣の数は1日目から170名を超え、2日目には250名近くに達した[8]。羽生の後手番で戦形は横歩取りの激しい将棋となり、82手で羽生の勝利(右図は投了図)。4-0のストレートで王将位を奪取し、ついに七冠独占を成し遂げた。横歩取りは、谷川が低段の頃に愛用しており、それに影響を受けた小学生時代の羽生少年が好んで指していた戦法であったため、その戦形で七冠を達成できたことは、感慨深かったという[7]

タイトル戦の数が6つ以上になった1975年度以降、全冠制覇は初の出来事で、翌日の新聞の一面を飾ったり、終局直後に生中継によるニュース速報が行われるなど、棋界にとどまらず社会全体で大々的に採り上げられた。

なお、第4局1日目の前日から風邪を引いて熱を出していた。これについては、本人いわく「体調管理が悪いことは褒められたものではない」としながらも、「いい状態ではないから、負けてもしょうがないと思ったことが、逆に、プレッシャーを低減させた一面があった」とのことである[9]。しかし、この第4局が終わって自室に戻ったときは、ベッドに倒れこみ、頭の中は真っ白。それは竜王や名人を初めて獲ったときとは全く異なるものであった[7]

直後に第21期棋王戦(七冠王としての最初の防衛戦)で高橋道雄を相手に防衛に成功。これで年度の全7タイトル制覇も達成したことになる。また、この年度は、テレビ棋戦のNHK杯戦、早指し将棋選手権でも優勝した。年度勝率は、タイトル戦の番勝負での対局が主であったにもかかわらず、当時歴代2位の0.8364(46勝9敗)[注 16]という数字であった。

新年度(1996年度)の最初のタイトル防衛戦(七冠王として2つ目の防衛戦)は、小学生時代からのライバル(上述)でタイトル戦初登場の森内俊之との名人戦(第54期)であり、4勝1敗で防衛に成功した。フルセットの戦いではなかったが、「(森内に)色々な作戦を持って来られたり、封じ手時刻ぎりぎりで指されたりして、ハードな名人戦だった」という[10]。これで名人3連覇となったが、永世名人資格(通算5期)までの残り2期獲得まで12年もかかることになる。

七冠から一冠へ陥落、再び四冠[編集]

次の防衛戦(七冠王としての3つ目の防衛戦)は、2期連続で三浦弘行五段[注 17]を挑戦者に迎えた第67期棋聖戦であった。フルセットの戦いとなったが、最終第5局で相掛かり2八飛車引き[注 18]の趣向を見せた三浦に敗れ、七冠独占は167日で幕を降ろした1996年2月14日=王将奪取日 - 7月30日 = 棋聖失冠日)[注 19]

三浦から棋聖位を奪われたのと同年の第9期竜王戦と、翌1997年の第55期名人戦という2つのビッグタイトル戦で、いずれも谷川に敗れ四冠に後退。この名人戦で谷川は名人位獲得通算5期となり、永世名人(十七世)の資格を得た。獲得賞金・対局料ランキングでは羽生は1位が‘指定席’であるが、1997年は谷川竜王・名人にその座を譲った。

第47回(1997年度)NHK杯戦決勝(対局日は1998年2月28日)は、村山聖との最後の対戦となった(約5か月後の1998年8月8日に村山が死去)。最終盤、村山が悪手(68手目△7六角[11])を指し、急転直下で3手後に村山の投了となった。羽生は4度目の優勝。これで、二人の通算対戦成績は羽生の7勝6敗となった[注 20]

第38期(1997年度)王位戦七番勝負(対・佐藤康光)から第48期(2000年度)王座戦五番勝負(対・藤井猛)にかけて、登場した15回のタイトル戦で全て獲得に成功(防衛14、奪取1)[注 21]。第13期(2000年度)竜王戦七番勝負で藤井猛竜王に挑戦敗退して止められる(藤井はこれをもって竜王戦史上初の3連覇)。

2003年度、第51期王座戦では、10代で羽生より一回り以上若い挑戦者・渡辺明五段を迎える。1勝2敗とされてからの2連勝で辛くも防衛。最終第5局では、終盤で勝ちが確実となったときに手が激しく震え、駒をまともに持てなかった。

同年度の竜王戦、王将戦、そして翌2004年度の名人戦で、いずれも森内に立て続けに3つのタイトルを奪われ、永世竜王資格獲得(竜王通算7期)と永世名人資格獲得(名人通算5期)の両方を阻止される。竜王戦は自身初のタイトル戦ストレート負けであった。これで羽生のタイトルは王座だけとなる。羽生が一冠のみとなったのは11年9か月ぶりのことである。この時点で、タイトル保持者は、森内竜王・名人(王将と合わせて三冠)、谷川王位・棋王(二冠)、佐藤(康)棋聖(一冠)、羽生王座(一冠)となった。しかし、その2004年度中に次々とタイトル挑戦権を得る。まず王位戦で谷川王位に挑戦して奪取し、王座一冠の時期は89日で終わる(2004年6月11日 - 2004年9月8日)。さらに王座戦で森内の挑戦を退けて防衛した後、冬には王将戦と棋王戦で、森内王将・谷川棋王それぞれにストレート勝ちし、あっという間に再び7タイトルの過半数の四冠を占める。

永世名人獲得成功と永世竜王獲得失敗[編集]

2004年度は、A級順位戦でも7勝2敗で1位となり森内名人への挑戦権を得るが、その名人戦(2005年4月 - 6月)ではフルセットの戦いの末に敗れ、前年に続き永世名人の資格獲得を逸する。結果的に、この2年後、森内は羽生より一歩先に永世名人に到達することとなる。

2005年度のA級順位戦では8勝1敗の成績だったにもかかわらず同星の谷川とのプレーオフとなり、結果敗れて名人挑戦を逃した。8勝して名人挑戦できなかったのは、順位戦史上、唯一のケースである[注 22]

2006年、王座を防衛した時点で通算タイトル獲得数を65期とし、中原誠の通算64期を抜いて歴代単独2位となる。

2007年12月20日、第66期A級順位戦6回戦・対久保利明戦で勝ち、史上8人目の通算1000勝特別将棋栄誉賞)を史上最年少、最速、最高勝率で達成。その2か月後の2008年2月28日には、第57期王将戦で防衛に成功し、史上2人目の棋戦優勝100回(タイトル獲得68期、一般棋戦優勝32回)を達成。

2008年6月17日、第66期名人戦第6局で森内名人を破り、名人位と三冠に復帰。通算5期獲得により永世名人十九世名人)の資格を得、史上初の、いわゆる「永世六冠」(永世名人、永世棋聖、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世王将)を達成。大山康晴と中原誠の「永世五冠」を抜いた。そして、残る1つの永世位獲得をかけ、第21期竜王戦で渡辺明竜王への挑戦権を得る。渡辺が勝てば連続5期で初代永世竜王、羽生が勝てば通算7期で初代永世竜王という、タイトル戦史上初の‘初代永世位決定戦’となった。七番勝負は羽生が開幕3連勝。しかし、そこから3連敗してフルセットとなり、2008年12月17日 - 18日に山形県天童市で行われた最終第7局でも渡辺に敗れる。羽生は将棋界初の3連勝4連敗を喫して奪取を逃した[注 23]。なお、この最終局は矢倉の戦形からお互い早めに動く展開で、中・終盤のねじり合いの内容が素晴らしく、将棋大賞の名局賞受賞局となった。羽生にとっては同賞創設から3年連続3回目の受賞で、いずれも敗局での受賞である。

大山の記録を超えて[編集]

2010年6月1日、第51期王位戦白組プレーオフで戸辺誠に勝ち、通算1100勝を達成。同年、タイトル戦登場100回目となった第81期棋聖戦は、深浦を3勝0敗のストレートで下して防衛し、記録に花を添える(2010年6月26日)。また、第58期王座戦では藤井猛を相手に3勝0敗で防衛(2010年9月29日)。同一タイトル19連覇同一タイトル6回連続ストレート防衛という2つの歴代1位の記録を樹立した[注 24]

第58回(2008年度) - 第60回(2010年度)のNHK杯戦史上初の3連覇。同棋戦での通算優勝回数を一気に9へと伸ばし、大山康晴の記録(8回)を抜き去って歴代単独トップに立つ。なお、第59回・第60回の決勝の相手は、2年続けて「関西若手四天王」[12][13]の一人と呼ばれる糸谷哲郎五段であった。

2011年、森内俊之を挑戦者に迎えた第69期名人戦で3連敗後3連勝するも、最終局で敗れ失冠。しかし、同年の第52期王位戦で広瀬章人王位に挑戦し、4勝3敗で奪取(2011年9月13日)して通算タイトル獲得数80期とし、40歳にして大山康晴の持つ歴代1位の記録に並んだ。しかし、第59期王座戦で挑戦者の渡辺にストレート負けを喫し、20連覇を逸する。なお、同年、初出場の第19回富士通杯達人戦(非公式戦)で優勝している。

2012年2月11日、第5回朝日杯将棋オープン戦で、2年ぶり2度目の優勝。第70期(2011年度)順位戦で史上3人目のA級順位戦全勝優勝を達成。第61回(2011年度)のNHK杯戦では3月18日放送の決勝で渡辺を破り、自身の連覇記録をさらに更新するNHK杯戦4連覇[注 25]を果たすとともに通算優勝回数10回を達成。将棋界では初の名誉NHK杯選手権者の称号を獲得した[注 26][14]。これによって七つ目の永世称号の獲得となり、自身の記録を更新する歴代最多記録となった。 この時点で通算優勝回数が124回(タイトルと一般棋戦、非公式戦の合算)となり、大山康晴の最多記録に並ぶ。

第70期(2012年)名人戦で森内に敗北(2勝4敗)。A級全勝者挑戦の名人奪取失敗は史上初。しかし、直後の第83期棋聖戦で新鋭・中村太地(タイトル初挑戦)を3連勝で退け、通算タイトル獲得数81期として歴代単独1位となる[15]。8月17日の対局(銀河戦決勝収録・対阿久津主税七段)で勝利し、史上5人目の通算1200勝を史上最年少、最速、最高勝率で達成[16]

2012年度、渡辺から前年奪われた王座を奪還。その最終第4局は千日手指し直しの末深夜2時までもつれる熱戦で、第40回将棋大賞の名局賞に選ばれた(羽生にとっては初の勝局での受賞)。

第71期(2012年度)A級順位戦で優勝し、2年連続で名人挑戦。その第71期(2013年度)名人戦は3年連続で森内との対決となったが、1勝4敗で敗退。一方、渡辺の挑戦を受けて史上初の三冠同士対決となった第84期(2013年度)棋聖戦では3勝1敗でタイトルを防衛し、6連覇を達成した。

第61期(2013年度)王座戦で中村太地に対して1勝2敗からの2連勝で辛くも防衛。このシリーズは200手超あり、千日手あり、打ち歩詰めありという白熱したシリーズだった。これにより、同一タイトル通算獲得数歴代単独1位21期とする(従来の記録は大山の王将通算20期)。

第72期(2013年度)A級順位戦で優勝し、森内名人への挑戦権を獲得。また、2014年2月8日、第7回朝日杯将棋オープン決勝戦で渡辺二冠を下し、3度目の優勝。また、渡辺王将に挑戦した第63期王将戦ではフルセットにもつれ込むも惜敗。

第72期(2014年度)名人戦で4年連続・9回目の顔合わせとなった森内名人を4連勝のストレートで破り名人に復位。約4年ぶりに四冠に復帰した。3期連続の挑戦、および3度の復位は共に名人戦史上初である。3度の復位は全て森内から、3度の失冠のうち2度は森内によるもので、両者の際立ちぶりを如実に物語っている。第85期棋聖戦では、森内竜王を挑戦者に迎え、名人戦とは立場を変えての番勝負となった。結果は羽生の3連勝で防衛。大山の記録に並ぶ棋聖7連覇、13期目の獲得となった。

木村一基八段を挑戦者に迎えた第55期王位戦は、第3局に王位戦史上初(タイトル戦では22年ぶり)となる持将棋が成立した。結果は羽生の4勝2敗1持将棋で防衛。4連覇、16期目の王位獲得となった。

棋風・評価[編集]

居飛車振り飛車相振り飛車を自在に指しこなし 相手の得意も受けて立つ、どのような状況も苦にしない真のオールラウンドプレイヤーである。

好きな駒は銀将。攻め、受けの要であるため[17]

また、対局の中の様々な面で強さを発揮する。勝又清和は「大山の力強い受け、中原の自然流の攻め、加藤(一)の重厚な攻め、谷川の光速の寄せ、米長の泥沼流の指し回し、佐藤(康)の緻密流の深い読み、丸山の激辛流の指し回し、森内の鉄板流の受け、といった歴代名人の長所を状況に応じて指し手に反映させる‘歴代名人の長所をすべて兼ね備えた男’」としている[18]

終盤での絶妙の勝負手あるいは手渡し、他の棋士が思いつかないような独特な寄せ手順から逆転することは、主に若手時代、「羽生マジック」と呼ばれた。

金銀を2三(後手なら8七)や8三(後手なら2七)に打った対局の勝率が高いと言われている。ここに金銀を打つのは、通常は勝ちづらいと考えられている手法である。このため棋界の一部では、これらのマス目は「羽生ゾーン」と呼ばれている[19]

著書『決断力』で「成長するために逃げずに敢えて相手の得意な戦型に挑戦する」との旨の発言をしている。

長年のライバルである森内俊之は、「彼の凄さは、周りのレベルも上げつつ、自分のレベルも上げるところにある。勝負の世界にいながら、周りとの差を広げることだけにこだわっていない」と語る[20]。これに関しては他に、観戦記者が「感想戦で羽生などは別の手順をすべて明らかにします。今後の対局もあるからバラすと損になるなどと考えない」などがある[21]

渡辺明は、「佐藤棋聖に敗れA級の羽生-谷川戦を観戦。あまりの名局に感動し動けない。トップ棋士の力を見た一日」、「羽生名人はどんな戦法も指せる」、「情熱大陸」の竜王戦密着取材では、第1局の羽生の勝ちに関して「あの状態(渡辺は羽生が攻めきれないと読んでいた)から勝てると読んでいたのは恐らく羽生さんだけじゃないかな…」と ナレーションの「差を見せ付けられた」との声と共に語った。

深浦康市は、2003年に「(二冠に後退したが)羽生さんは今も最強だと思っています。羽生さんに比べると自分はまだまだ」と語る[22]

中原誠は、49期王位戦特集にて「オールラウンドプレーヤーで欠点がない。歴史上初の棋士」と評した。また、スランプ時の羽生を「七冠を達成して目標がなくなり一時期成績が落ちた。今はまた大山先生の記録を抜く目標ができた。」としている。

谷川浩司は著書の『集中力』で、「羽生さんはあらゆる戦法を指しこなせる棋士。オールラウンドプレイヤーで変幻自在のため、どう指してくるのかわからない。攻めも受けも強い。こだわりが全くないのが特色。棋風がない」と述べ、2008年の羽生の永世名人獲得時のコメントでは最近の羽生の将棋を「勝負にこだわらない内容重視の将棋」と述べている(羽生自身も2007年頃からNHKの番組等で何度も「もう勝ち負けにこだわる将棋には意味がないと思うんですよ」と現在の将棋への取り組み方を示した)。

複数の戦法を高いレベルで使いこなすオールラウンド型であるためか、デビューから20年を過ぎても「光速流」や「自然流」など棋風を表すキャッチフレーズはつけられていない。

発言[編集]

  • 「将棋と人生は別物。『遊びは芸の肥やし』は遊ぶための口実に過ぎない。『将棋は技術』と割り切っている」
  • 「わからないからこそ勝負どころ。僕の場合、読みより勘で決める」
  • 「(読む手数は)直線で30 - 40手。枝葉に分かれて300 - 400手」
  • 「記憶力のピークは20歳の頃だった」(つまり、七冠制覇のときはすでに下降していた)
  • 「1回の対局で3キロぐらいは痩せる」
  • 「(自分に)弱点はあるが教えない。『そんなことか』と思われそうなものではあるが、それを探り出すのが勝負の世界」

パーソナルデータ[編集]

  • 身長は172cm[24]。血液型はAB型[7][25]
  • 妻は元俳優NHK連続テレビ小説京、ふたり」のヒロイン役を務めた畠田理恵。婚約発表は1995年7月1996年2月19日に畠田が駅で暴漢に襲われる事件が発生。この事件は七冠達成から僅か5日後であったため、マスコミで大きく取り上げられた。挙式は1996年3月28日1997年7月に長女、1999年11月に二女が誕生。
  • 父と母は同じ会社の出身者で、しかも、お互いの祖母同士が姉妹という親戚関係である[1]
  • お笑い3人組Bコースのメンバーのハブ(本名:羽生幸次郎)は従弟[26]
  • 八王子桑の実幼稚園卒園、八王子市立恩方第一小学校入学、2年生に上がるときに近くに新設の同市立元木小学校へ転校[1]
  • プロ棋士となってからも一時東京都立富士森高等学校に通う多忙な生活を送っており、試験は持ち前の記憶力で突破していたが出席日数が足りず、東京都立上野高等学校通信制に転入し、卒業。母は、将棋に専念させず高校に通わせたことを後悔したと述べている[27]が、羽生は逆に、「高校に行ったおかげで将棋を嫌いにならずに済んだので、母には感謝している」と述べている[28]

対局関連の逸話[編集]

重要な対局[編集]

  • 初タイトルの竜王を失った1990年の竜王戦七番勝負は、谷川3連勝の後に羽生が1勝を返し、最終的に4-1で谷川が奪取した展開であったが、角番で1勝を挙げた第4局は、入玉模様ではなく攻め合いであったにもかかわらず、203手という長手数の激戦であった。この一局のことを、羽生は「それまでは、昇級・昇段・タイトル獲得という上だけを見ていたが、初めて後ろ向きで対局したという意味で、(将棋観を変えた最も)印象に残る一局」[9]と語り、一方、谷川は「どちらが勝ってもおかしくない名局」、「4-0か4-1かというのは、その後のことを考えれば大きかったかもしれない」[29]という旨を述べている。
  • 永世称号資格の獲得では、棋界で序列最上位の竜王・名人の2つのみ、あと一歩となると足踏みする。永世名人資格の獲得は森内に2年連続で阻止され、その森内の方が先に獲得してしまった(森内が十八世、羽生が十九世)。唯一永世称号を獲得していないのは竜王で、2002年に通算6期獲得で永世竜王まで残り1期としたが、その後森内に1度、渡辺に2度阻止されている。2008年渡辺明と戦った竜王戦は勝った方が初代永世竜王となるシリーズであったが、将棋史上初の3連勝4連敗で敗れた。著書『決断力』で「3連勝すると不安になり気の緩みが出る」との旨を述べている。
  • 通算タイトル獲得期数の従来記録(大山の80期)更新に際しても足踏みを見せた。通算81期の新記録達成まであと一歩とするも、渡辺(2011年王座戦)、森内(2012年名人戦)に連続阻止される。
  • 第67期名人戦七番勝負第1局の2日目(2009年4月10日)、対局中の羽生に対して観戦記者が扇子へのサインを求めるという珍事があった。羽生は44手目を考慮中であったが、記者の扇子にサインをした。これは午前9時45分頃の出来事であったため、NHK BS2の生放送(9:00 - 10:00)でこの様子がリアルタイムで映し出された[注 27]。後で羽生は「驚きましたが、10秒か15秒で済むことでしたから」とコメントした[30]。この記者は朝日新聞社の嘱託を長くつとめた東公平で、この対局の観戦記の執筆を同社から委託されていた。同社は東に厳重注意をした。東は「(羽生とは昔から顔見知りであったため)うかつなことをしてしまった」との反省の弁を述べた。この対局には勝利している。
  • 東日本大震災の発生から約3か月後の2011年6月12日、被災地である仙台市において「自分と闘って負けない心」と題する講演[31][32]を行ったが、この前後の1週間には重要な対局が集中した。6月7日-8日は第69期名人戦七番勝負第6局(対・森内俊之)、11日は第82期棋聖戦第1局(対・深浦康市、10日は前夜祭)、13日には第52期王位戦挑戦者決定戦(対・藤井猛)という過密な日程であったが、この3つの対局すべてで勝利した。

所作・習性[編集]

  • 2003年の第51期王座戦では、タイトル戦初登場で19歳の渡辺明五段の挑戦を受け3-2で防衛したが、最終の第5局の終盤で羽生の手が震えて駒をまともに持てなかった[33]。その後も、一手のミスも許されない終盤で羽生の手が震えることが度々見られるようになった。手の震えが出るようになったのは30代に入ってからである[注 28]。田中寅彦はNHK杯で羽生の将棋を解説していた際「イップスが出ないね」と発言し、この震えをイップスと見ている。
  • プロデビューして間もない低段時代には、上目で相手をにらみつける(ように見える)「ハブにらみ」が相手を恐れさせたとされる。なお、同様の「にらみ」は佐藤康光や田村康介にも見られる。
  • 初めて竜王位に就いた1989年頃は、先輩棋士(自分より段位や実績が上の棋士)と対局する際、上座に座るべきか下座に座るべきか、毎局悩んでいたが、1990年に1期で竜王位を失って以降は、席次に関しては、タイトル保持者としてふさわしい行動をとるよう努め、それで反感を買っても仕方がない、という考えをとるようになった[34]。その後1994年に、A級順位戦8回戦で中原誠(当時の肩書きは前名人)と対戦した際、羽生(当時王位・王座・棋王・棋聖の四冠)が上座についたことで物議をかもした。この件は「上座事件」と呼ばれることもある。これについて羽生は、それまでのリーグ戦の成績が、自分の方がよかったので勘違いした、と語っている[35]
  • 相手が悪手を指すと不機嫌になると言われており、羽生が勝利した第57期王座戦第2局ではまだ難解な将棋を投了した挑戦者の山崎隆之に厳しい言葉を投げかけたと言われる。このときの姿は『将棋世界』2009年12月号(日本将棋連盟)の観戦記にも「羽生には勝利を喜ぶ、あるいは勝利に安堵するといった雰囲気は微塵もなく、がっかりしたように、いやもっと言えば、怒っているようにも見えたからだ。」と記されている。また、本人も「相手でも自分でも、どちらかが悪い手を指すと、もっとすごいものを作り出せそうなチャンスがなくなってしまった、ということですから。」と発言している[36]しかし、第25期竜王戦第2局(渡辺明-丸山忠久)の解説を務めた際に、視聴者からの質問としてこの件が取り上げられ、「私自身としてはそんなに厳しい口調で言ったというつもりは全くなかった。対局後に主催者が入室するまでの2~3分の間に、簡単な感想として「こういう手があったのではないか?」と軽く聞いたつもりだった。秒読みの緊迫した後だったので、見る人によってはそういう風に見えたのではないか」と発言している。[要出典]

諸対局内容[編集]

  • 初めての五冠王の頃は振り駒で先手を引き当てることが多く、「振り駒も強い」と言われた。1992年度と1993年度のタイトル戦における振り駒(第1局および最終局)は12回行われたが、すべて羽生が先手となった。
  • 若手時代、NHK杯戦で先手番となったとき、▲2六歩△8四歩▲2五歩△8五歩という相掛かりの出だしの後、常識とされる5手目▲7八金を指すまでに若干の時間を使ったことがある[注 29]
  • 1993年12月24日の対谷川戦(第63期棋聖戦五番勝負第2局)において、序盤で4四の歩のタダ取りを許す△4二角、さらには、いったん敵玉に迫っていた7九のと金を、香車を取るだけのために2手をかけて△8九、△9九と「退却」させるという、将棋の常識からかけ離れた奇手を指した。売られた喧嘩に谷川が応じる展開の乱戦となり、さらに終盤だけで80手ほどもある激戦となったが、結果、羽生が勝利している。
  • 1994年、初めて名人位を獲得した直後のNHK杯戦・対畠山鎮戦で、先手・畠山の初手▲2六歩に対して2手目△6二銀と指した。そして、10手目で△3四歩とするまで羽生の歩が1つも動かないという、極めて珍しい出だしとなった。まさに「名人に定跡なし」である(結果、勝利した)。また、ほぼ同時期に、先手の初手▲7六歩に対する2手目△6二銀も指しており、こちらは一度ならず何度も指している。これは、相手が振り飛車党の場合に、たまに用いられる作戦ではあるが、羽生が実戦で試した相手は、谷川浩司、郷田真隆、森下卓といった居飛車党である。なお、後に羽生は「2手目△6二銀は損だが、どれぐらい損であるかを見極めるために指した。どれだけ損であるかがわかったので、もう指すことはない。」という旨を語っている[37]
  • 2007年10月14日放送のNHK杯戦、対中川大輔戦は、羽生が七冠のときのNHK杯戦決勝と同じ顔合わせとなったが、終盤で中川が自分の玉のトン死の筋に気づかず、羽生の逆転勝ちとなった。最後は歩1枚さえも余らない、ぴったりの詰み。解説の加藤一二三は、トン死の筋に気づいたとき、「あれ?おかしいですね。えぇぇ! トン死?」「NHK杯戦史上に残る大逆転じゃないかな」「ひょぉぉ!」などの驚嘆の声を連発した。勝又清和将棋ニュースプラスで、この対局を解説した際、「羽生さん自身もこんな奇跡的な展開はないなと(言っている)」、「(羽生が)後でネットも見てたらしいですね。その話を聞いた時『ニコニコ動画に出てましたね』と結構反響があったので。」などのエピソードを紹介。この時点で羽生が視聴したかは明確ではなかったが、「棋士 羽生善治」のロングインタビューの中で、ニコニコ動画の映像を視聴したと明かした。
  • 2008年の第66期名人戦第3局(2008年5月8日 - 9日)において、検討陣の棋士達が森内俊之の勝ちと判断して検討を打ち切った後、敗勢から驚異的な粘りを見せて、最後の最後で森内のミス[注 30]を誘い、大逆転勝利を挙げる。羽生自身はその後のインタビュー[38]の中で「ずっと不利を感じていて気持ちが萎えていたが、それからひたすら最善手を続けた結果、勝利を引き寄せたのではないか」と語っている[注 31]
  • 史上初のネット公式棋戦である大和証券杯ネット将棋・最強戦の第2回、1回戦・渡辺明竜王との対局(2008年5月11日)において、マウス操作のミス[注 32]によって、痛恨の時間切れ負けをする[注 33]。時間切れとなった局面は68手目、中盤から終盤への入り口でいちばん面白くなるところであり、しかも羽生優勢[注 34]の局面であった[注 35]。なお、これは羽生にとってデビュー以来初めての反則負けとしてマスコミに注目され、翌日の朝刊では一般紙や地方紙でも取り上げられた[注 36]

趣味[編集]

趣味はチェス水泳と言われていたが、2010年4月27日放送の「爆笑問題のニッポンの教養」(NHK総合)では、「趣味はですね、まあ、あんまりあるというか、あまりないですかね。まあ、ぼんやりすることが好きなんで。ぼーっとする」と語った。

チェス[編集]

チェスにおいては国際チェス連盟(FIDE)のタイトル(称号)グランドマスター(GM)、国際マスター(IM)に次ぐ、FIDEマスター (FIDE Master, FM)位を有する、日本国内屈指の強豪である。現在では選手として競技会への参加は少なくなったが、国内でのチェスの普及や親善としてのイベント対局をこなしている。

海外のチェス大会に一人で出場するため、多忙な中で英語を勉強し、アメリカ、フランス、ドイツ、UAEなど各国の大会に出場した。2006年にフィラデルフィアで行われたワールドオープンでは、英語の取材に羽生自らが英語で応じており、その模様は公式サイトで公開されている。また、フランスのチェス大会に出場した羽生が、フランス語で買い物をしている姿は「情熱大陸」で放送された。

チェスの魅力を将棋棋士の室岡克彦に22歳で教えられ、本でルール等を覚えた。実際にチェスをプレイし始めたのは七冠制覇前後の1996年頃、26才とかなり遅く、日本在住のフランス人チェス講師のジャック・ピノーに一から教わった。プレイといっても多忙のため月に1、2度の練習であった。将棋とチェスに関して羽生は「当初似ていると思っていたが、全然違う」と語った[39]

上記の将棋との混乱やチェスの開始時期が遅い事、月1、2度という僅かな練習にもかかわらず、2年後の1998年3月に全日本百傑戦で単独優勝、9月のジャパンオープンでは1局敗れたものの4者同率優勝した。

1999年6月には、非公式の自由対局ながらIMのAlmira Skripchenkoに2戦2勝。しかしその夫(当時)であるGMのJoël Lautierに森内俊之、佐藤康光とともに3面指しで挑むも3人とも敗れた。 2000年は将棋界で記録的な活躍をしていたにかかわらず、暇を見つけてシカゴで開催された「Chicago Open」に参加、これが海外大会初参加である。

また2002年10月には再来日したGMのJoel Lautierに再び森内、佐藤とともに3面指しで挑むも羽生は敗れた(森内のみ引き分け)。

2004年には日本人として3人目となるFMの称号を獲得。以降2007年5月までにほぼ年2回のペースで13回の海外大会に参加(うち2回は早指し戦)、2006年6月に参加したWorld Openでは5勝2分2敗で237人中38位となり、IM獲得への第一歩となる1度目のIMノームを達成した(日本人として3人目)。これらの大会で30分前後の早指し戦ではGMに3勝2敗1分と勝ち越している(早指しについてはFIDEのレーティングでは別枠として扱われている)。

2007年5月の時点でレイティングは2404と日本国内1位、世界ランキングは2796位、アジア圏のランキングは260位、日本チェス協会の国内称号である段位は六段とした。少ないながらも定期的に大会に出ては順調にレイティングを上げていたが、2007年5月から長期間チェス大会へ出場しなくなる。ちょうどその頃の出来事として、獲得賞金・対局料で7年ぶりに1億円の大台を割る、永世名人位を森内に先取される等があった。

これ以降もイベントでの対局は時折行い、2011年10月にはフランスで開催された国際将棋フォーラムで、アンドル=エ=ロワール県ヴィランドリー城でフランス国内チャンピオンのマキシム・バシエラグラーブ(対局時の世界ランキング29位、レーティング2715)と、森内とともに2面指しの親善対局を行い、黒番(後手、一般的に不利とされる)を持ったが、チェックメイトの順を逃しての引き分けとなった(森内は敗れた)。バシエラグラーブは両者について、「日本にこんな強い選手がいることにびっくりした」と感想を述べた[40][41]

2012年3月、全日本百傑戦に参加し単独優勝(5勝1分 5.5P/6R)を果たす。4月22日には都内で小島慎也と共に、GMで世界王者への挑戦経験もあるナイジェル・ショート(対局時の世界ランキング49位、レーティング2697)と、2面指しのエキシビション対局を行い、後手黒番を持って引き分けになった[42]

2012年9月14日、神戸で開催されたチェス・プロブレムの世界大会「WCCC2012」で、2011年に対局したバシエラグラーブ(対局時の世界ランキング50位、レーティング2697。将棋は一年前から始めた[43])と、将棋とチェスを同時に指すという変則ルールで公開対局を行った。ハンデとして羽生は将棋が飛車落ち、チェスは先手白番で、将棋に勝ちチェスは負けた。羽生はインタビューに「頭を切り替えて考える面白さがあった」とし、バシエラグラーブは「チェスと将棋が影響を及ぼし合えば面白い」と答えた[44][45]

2013年11月、ジャパンオープンで総合3位(5勝1分2敗 5.5P/8R)。12月には年末年始の休みを利用してポーランドに渡り、クラクフで開催された「第24回クラクフ国際チェスフェスティバル 2013」に参加。6勝1分2敗(6.5P/9R)の成績を残し2度目のIMノームを達成した[46]。6勝の中には、GMのBartłomiej Heberla(対局時のレーティング2561)から後手黒番で上げた1勝が含まれている。これにより2014年2月のFIDEレーティングで2415となり、active playerへ復帰した(世界2459位、アジア230位)。

エピソード[編集]

  • 座右の銘は「運命は勇者に微笑む」[要検証 ]
  • 好物は蕎麦。苦手な生き物はカエル[要検証 ]
  • 普段は自然体で喋るが、インタビューで重要な対局について問われると、「そうですね、あーのー、まぁー」などとゆっくり前置きをしながら、慎重に言葉を選んで受け答えをする[47]
  • 対局時の寝癖がトレードマーク(結婚後は頻度が少なくなった)、2013年の王座戦第4局では「後頭部に見事な寝癖がついている。」と日本将棋連盟王座戦中継サイトに記録が残っている[48]演歌歌手長山洋子の歌「たてがみ」は、寝癖になぞらえたタイトルのオマージュソングである。
  • チャトランガ系統のゲームは一通り出来る[49]囲碁は小学生の時にやっており、5級からは苦戦したものの初段になり、やめた[50]
  • 漫画作品『月下の棋士』の主人公・氷室将介の圧倒的な強さと対局時のオーラは羽生をモデルにしていると、作者の能條純一が単行本最終巻に記している。ただし、「羽田」という名前の眼鏡をかけた少年もスポットで登場している[要ページ番号]
  • 2006年11月に八王子市より八王子観光大使を委嘱される[51]
  • 子供の頃公文式をしていたため、CMに起用されていたこともある。また、その頃から六冠になるまでを書いた本(マンガ形式)もある[52]
  • 将棋を題材にしたテレビゲームの監修及びアドバイスを度々行っており、自身も登場するゲームソフトもある。

昇段履歴[編集]

  • 1982年12月2日(12歳) - 6級で奨励会入会
  • 1983年2月3日(12歳) - 5級 (9勝3敗)
  • 1983年3月28日(12歳) - 4級 (6連勝)
  • 1983年5月11日(12歳) - 3級 (6連勝)
  • 1983年7月7日(12歳) - 2級 (6連勝)
  • 1983年8月24日(12歳) - 1級 (6連勝)
  • 1984年1月11日(13歳) - 初段 (12勝4敗)
  • 1984年9月10日(13歳) - 二段 (14勝5敗)
  • 1985年4月25日(14歳) - 三段 (12勝4敗)
  • 1985年12月18日(15歳) - 四段 (13勝4敗)[注 6] = プロ入り(当時史上3人目の「中学生棋士」)
  • 1988年4月1日(17歳) - 五段 (順位戦C級1組昇級)
  • 1989年10月1日(19歳) - 六段 (竜王挑戦)
  • 1990年10月1日(20歳) - 七段 (前年の竜王位獲得による[注 37]
  • 1993年4月1日(22歳) - 八段 (順位戦A級昇級)
  • 1994年4月1日(23歳) - 九段 (タイトル3期 … 八段昇段前にタイトル3期は達成していたが、1年以内の飛び昇段ができない規定のため)

主な成績[編集]

タイトル・永世称号[編集]

色付きは現在在位。

詳細は末尾の年表 を参照。他の棋士との比較は、タイトル獲得記録 、および、将棋のタイトル在位者一覧 (2) を参照。

タイトル 番勝負 獲得年度 登場 獲得期数 連覇 永世称号資格
竜王 七番勝負
10-12月
89(第2期), 92, 94-95, 01-02 13 6期
(歴代2位)
2
名人 七番勝負
4-6月
94(第52期)-96, 03, 08-10, 14 14 8期
(現役1位タイ)
(歴代3位タイ)
3 (※ 2回) 永世名人
十九世名人
王位 七番勝負
7-9月
93(第34期)-01, 04-06,11-14 20 16期
(歴代1位)
9
(歴代2位)
永世王位
王座 五番勝負
9-10月
92(第40期)-10,12-13 22 21期
(歴代1位)
19
(歴代1位)
名誉王座
棋王 五番勝負
2-3月
90(第16期)-01, 04 16 13期
(歴代1位)
12
(歴代1位)
永世棋王
王将 七番勝負
1-3月
95(第45期)-00, 02, 04-08 17 12期
(現役1位)
(歴代2位)
6
(歴代2位タイ)
永世王将
棋聖 五番勝負
6-7月
93前(第62期)-94後-95(第66期),
00, 08-14
16 13期
(現役1位)
(歴代3位)
7
(※ 継続中)
(歴代1位タイ)
永世棋聖
登場回数合計118 = 歴代1位、 獲得合計89期 = 歴代1位
番勝負終了前を除く。最新は、2014年度の王位防衛。
史上初の名誉NHK杯資格保持。

一般棋戦優勝[編集]

通算42回 = 歴代2位(1位は大山康晴の44回)

詳細は、末尾の年表 を参照。

非公式戦優勝[編集]

通算10回 = 歴代1位 

  • 達人戦 2回(2011年度 = 第19回、2012年度 = 第20回)
  • 銀河戦(非公式戦時代) 2回(1997年度 = 第5回、1998年度 = 第6回)
  • 若駒戦 1回(1985 - 1986年 = 第8回、準々決勝以降対局は四段昇段後)
  • IBM杯 1回(1992年度 = 第4回)
  • 全日空杯 1回(1992年度)
  • リコー戦 1回(リコーvs プロ新鋭戦 1986年度 = 第4回、プロ側優勝)
  • 天才少年激突!三番勝負 1回(vs 阿部隆四段 1985年度 = 第1回、2連勝で勝利)
  • 新人王羽生・タイトルホルダーに挑戦!五番勝負 1回(vs 中村修 王将、桐山清澄 棋聖、高橋道雄 二冠、福崎文吾 十段、中原誠 名人 1987年度、4勝1敗で勝ち越し)

在籍クラス[編集]

竜王戦と順位戦のクラスは、将棋棋士の在籍クラス を参照。

将棋大賞[編集]

詳細は末尾の年表 を参照。記録は次項を参照。

記録(歴代1位のもの)[編集]

2014年度王位戦終了現在

  • タイトル戦関連
    • 通算タイトル獲得 - 89期
    • タイトル戦登場回数 - 118回
    • タイトル保持 - 23年超(1991年3月18日棋王獲得 - ) ※継続中
    • 同一タイトル獲得 - 21期(王座:1992-2010、2012-2013年)
    • 同一タイトル連覇 - 19期(王座:1992-2010年)
    • 同一タイトル戦連続登場 - 22期(王座:1992年 - )※継続中
    • 同一タイトル連勝 - 19連勝(王座:2004-2010年)
    • 同一タイトル連続ストレート獲得 - 6期(王座:2005-2010年)
    • 最高同時タイトル - 7冠(1996年2月14日-1996年7月30日、史上唯一)
    • 最多永世称号獲得 - 7(永世名人、永世王位、名誉王座、永世棋王、永世棋聖、永世王将、名誉NHK杯選手権者)
    • 名人復位最多回数 - 3回(第61期(2003年度)、第66期(2008年度)、第72期(2014年度)) 史上初
    • A級順位戦全勝 - 第70期(2011年度)で達成。史上3人目[53]
    • 竜王戦1組通算在籍期数(竜王在位含む) 24期(第3期 - 第4期、第6期 - 27期) ※連続在籍期数も22期で歴代1位(佐藤康光とタイ・継続中)
  • 優勝関連
    • 通算優勝回数 - 141回(タイトル戦89・一般棋戦42・非公式戦10)
    • 通算公式戦優勝回数 - 131回(タイトル戦89・一般棋戦42)
    • 通算非タイトル戦優勝回数 - 52回(一般棋戦42・非公式戦10)
    • 通算非公式戦優勝回数 - 10回(銀河戦2・達人戦2・若駒戦1・IBM杯1・全日空杯1・リコー戦1・天才少年激突!1・タイトルホルダーに挑戦!1)
    • NHK杯戦優勝回数 - 10回(1988(=第38回)、1991、1995、1997-1998、2000、2008-2011年度) - 名誉NHK杯選手権者
    • NHK杯戦連続優勝 - 4連覇(2008(=第58回) - 2011年度)
    • オールスター勝ち抜き戦 - 16連勝(2000年 = 第20回)[注 38]
    • 銀河戦優勝回数 - 7回(1997(=第5回)-1998、2000-2001、2004、2006、2012年度)
    • 朝日杯戦優勝回数 - 3回(2009(=第3回)、2011、2013年度)
  • 将棋大賞関連
    • 最多最優秀棋士賞 - 19回
    • 最年少最優秀棋士賞 - 18歳(1988年度)
    • 最多勝利賞 - 14回
    • 年度最多勝利 - 68勝(2000年度)
    • 最多対局賞 - 12回
    • 年度最多対局 - 89局(2000年度)
    • 勝率第一位賞 - 7回
    • 連勝賞 - 5回
    • 名局賞 - 5回
    • 年度記録4部門賞独占(最多対局、最多勝利、勝率1位、連勝) - 4回(1988、1989、1992、2000年度) - 羽生以外の棋士は一度も達成していない
  • 高記録達成回数
    • 年度勝数60勝以上 - 4回[注 39](1988年度(64)、1992年度(61)、2000年度(68)、2004年度(60))
    • 年度勝率8割以上 - 3回(1987年度(.820)、1988年度(.800)、1995年度(.836))(2回は中原誠)
  • 通算記録
    • 1200勝所要年月最速 - 26年8か月
    • 最年少1200勝 - 41歳10か月20日
    • 1200勝達成時までの最高通算勝率 - .7233
    • なお、通算600勝・800勝・1000勝到達も最速・最年少・最高勝率記録を保持している。
  • 珍記録
    • 最年少竜王戦1組降級 - 20歳11か月23日(1991年9月20日)
    • タイトルホルダーでの最年少竜王戦1組降級 - 20歳11か月23日(1991年9月20日、当時棋王)
    • 将棋のタイトル戦七番勝負史上初の3連勝4連敗(2008年12月18日 第21期竜王戦第7局)
    • A級順位戦全勝者が名人位奪取失敗(2012年6月13日 第70期名人戦第6局、史上初)
    • 名人戦史上初の3期連続挑戦(2012(=第70期)-2014年度)
  • 賞金関連
    • 獲得賞金・対局料ランキング首位 - 15年連続19回(1993-1996、1998-2012年、なお1997年は谷川浩司、2013年は渡辺明に次いで2位)

その他表彰[編集]

著書[編集]

ほか多数

関連書[編集]

ほか多数

出演[編集]

テレビ番組[編集]

ほか多数

CM[編集]

年表[編集]

  • タイトル戦の欄の氏名は対戦相手。うち、色付きのマス目は獲得(奪取または防衛)。濃い色付きのマス目は永世位獲得。
    氏名の下は左から順に、o : 羽生の勝ち、 x : 羽生の負け、 j : 持将棋、 s : 千日手による日程繰り延べ(例外的措置)
  • 将棋大賞は、 : 最優秀棋士賞、 優 : 優秀棋士賞、 特別 : 特別賞、
    率 : 勝率一位賞、 勝 : 最多勝利賞、 対 : 最多対局賞、 連 : 連勝賞、
    敢闘 : 敢闘賞、 新人 : 新人賞、 名局 : 名局賞
  • 賞金&対局料は、年度区切りではなく1月 - 12月の集計。単位は万円。色付きの年は全棋士中1位。
年 度 名人
4-6月
棋聖
6-7月
12-2月
王位
7-9月
王座
9-10月
竜王
10-12月
王将
1-3月
棋王
2-3月
一般棋戦
優勝
将棋大賞 賞金&
対局料
(万円)
備 考
1986年 率 新人 プロ入りは中3時代の
1985年12月18日
1987年 天王 若獅 率 勝
敢闘
棋戦初優勝
 = 若獅子戦
1988年 NHK 天王
新人
勝抜(6連勝)
 率 勝
対 連
記録4部門独占(初)
NHK杯で4人の名人経験者
を破って優勝
1989年 島朗
xjxoooxo
全日 若獅  率 勝
対 連
1869 19歳2か月でタイトル
 = 最年少(当時)
1990年 谷川浩司
xxxox
南芳一
ooxo
5237
1991年 南芳一
xooo
全日 NHK
日シ
勝抜(5連勝)
敢闘 2830
1992年 福崎文吾
ooo
谷川浩司
xsxoooxo
谷川浩司
xoxoo
早権  率 勝
対 連
6197
1993年 谷川浩司
xooo
郷田真隆
oooo
谷川浩司
oxoo
佐藤康光
oxoxxx
南芳一
ooo
10063
谷川浩司
oosxxo
1994年 米長邦雄
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谷川浩司
oxoo
郷田真隆
ooxxxoo
谷川浩司
ooo
佐藤康光
oooxxo
谷川浩司
xxooxox
決着日
95/3/24
森下卓
ooo
決着日
95/3/10
 勝 11297 六冠(初) = 竜王戦
七冠は逃す = 王将戦
永世棋王(連続5期・初)
島朗
ooo
年 度 名人
4-6月
棋聖
6-7月
王位
7-9月
王座
9-10月
竜王
10-12月
王将
1-3月
棋王
2-3月
一般棋戦
優勝
将棋大賞 賞金&
対局料
備 考
1995年 第53期
森下卓
ooxoo
第66期
三浦弘行
ooo
第36期
郷田真隆
xxoooo
第43期
森雞二
ooo
第8期
佐藤康光
xoxooo
第45期
谷川浩司
oooo
七冠達成
第21期
高橋道雄
ooo
七冠維持
NHK 早権  特別
率 勝
16597 七冠(初)(96/2/14
永世棋聖(通算5期)
1996年 森内俊之
ooxoo
七冠維持
三浦弘行
xooxx
七冠終了
深浦康市
ooxoo
島朗
ooo
谷川浩司
oxxxx
谷川浩司
oooo
森下卓
ooo
16145 七冠終了(96/7/30)
名誉王座(連続5期)
1997年 谷川浩司
xoxxox
佐藤康光
ooxoxo
島朗
ooo
佐藤康光
ooxoo
郷田真隆
ooxo
全日 NHK 10182 永世王位(連続5期)
賞金1位は谷川
1998年 佐藤康光
ooxoxo
谷川浩司
xxooo
森下卓
xoooo
佐藤康光
ooo
NHK 日シ  対 11466
1999年 谷川浩司
oooo
丸山忠久
oxoo
佐藤康光
oooo
森内俊之
oxoo
7872
2000年 谷川浩司
xoxoo
谷川浩司
oxoxoxo
藤井猛
xoxoo
藤井猛
xoxxoox
谷川浩司
oxooo
久保利明
ooxo
銀河 NHK
勝抜(16連勝)
 率 勝
対 連
10595
2001年 郷田真隆
oxxox
屋敷伸之
oooo
久保利明
ooxo
藤井猛
oxooo
佐藤康光
xxoxox
佐藤康光
xooo
銀河 11519
2002年 谷川浩司
xxxox
佐藤康光
ooo
阿部隆
sooxxxoo
佐藤康光
oooo
丸山忠久
ooxxx
早権
勝抜(7連勝)
 勝 対 11048
2003年 森内俊之
oooo
谷川浩司
xxxox
渡辺明
oxxoo
森内俊之
xxxx
森内俊之
xoxxox
朝権 日シ 12910
2004年 森内俊之
xxoxox
谷川浩司
xoooo
森内俊之
ooxo
森内俊之
oooo
谷川浩司
ooo
朝権 銀河  勝 対 11272 森内に3連続奪取され
一冠に後退 = 名人戦
2005年 森内俊之
oxxxoox
佐藤康光
oxxox
佐藤康光
xxooxoo
佐藤康光
ooo
佐藤康光
oooxxxo
森内俊之
xxox
朝権   対 連 10391 同一タイトル連覇新記録
(王座14連覇)
2006年 佐藤康光
ooxxoo
佐藤康光
ooo
佐藤康光
xoooxxo
朝権 銀河 優 名局 9376 永世王将(通算10期)
2007年 深浦康市
xxoxoox
久保利明
ooo
久保利明
ooxoo
佐藤康光
oxoxx
 勝 対
名局
8132
2008年 森内俊之
xoooxo
佐藤康光
xxooo
深浦康市
oxxxoox
木村一基
ooo
渡辺明
oooxxxx
深浦康市
oxxoxoo
NHK  名局 10711 永世名人(通算5期)
「永世六冠」(初)
2009年 郷田真隆
oxoxxoo
木村一基
oxxoo
山崎隆之
ooo
久保利明
xoxxox
NHK 朝杯 11278
2010年 三浦弘行
oooo
深浦康市
ooo
藤井猛
ooo
渡辺明
xxooxx
NHK 日シ  勝 11576 同一タイトル19連覇 = 王座戦
6回連続ストレート防衛(〃)
2011年 森内俊之
xxxooox
深浦康市
ooo
広瀬章人
xxooxoo
渡辺明
xxx
NHK 朝杯
日シ 
 勝 対 9886 名誉NHK杯(通算10回優勝・初)
「永世七『冠』」(初)
2012年 森内俊之
xoxoxx
中村太地
ooo
藤井猛
soxooo
渡辺明
xooso
銀河 優 勝 対
名局 特別
9175 タイトル81期(大山超え)= 棋聖戦
2013年 森内俊之
xxoxx
渡辺明
ooxo
行方尚史
ooxoo
中村太地
xoxsoo
渡辺明
xxooxox
朝杯 優 勝 対
名局
7281 通算公式戦優勝125回(大山超え)= 棋聖戦
同一タイトル獲得21期(大山超え)= 王座戦
2014年 森内俊之
oooo
森内俊之
ooo
木村一基
xojooxo
年 度 名人
4-6月
棋聖
6-7月
王位
7-9月
王座
9-10月
竜王
10-12月
王将
1-3月
棋王
2-3月
一般棋戦
優勝
将棋大賞 賞金&
対局料
備 考


脚注[編集]

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  1. ^ 中村太地六段を相手に棋聖位を防衛。この時点で通算タイトル獲得期数を81期とした。
  2. ^ タイトル戦の数が6つ以上になってからの「永世六冠」は羽生が初めて。タイトル戦が5つの時代には大山康晴が「永世五冠」を達成しているが、名誉NHK杯選手権者の称号も得たのは羽生が史上初。
  3. ^ 羽生に将棋を教えたこの同級生は小学校3年のときに山形県に引っ越し、以来、音信不通であったが、1995年にタイトル就位式で再会を果たす。(『将棋世界[4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。』 日本将棋連盟、1996年、171頁
  4. ^ 中嶋克安指導棋士は、父が病気で倒れたため奨励会を退会して家業を継ぎ、そのかたわら道場(のちの八王子将棋クラブ)を開いた。
  5. ^ 小学生将棋名人戦には3年生のときから参加し、2年連続1回戦負けの後、前年の5年生時はベスト8であった。
  6. ^ a b 当時は、三段リーグの制度がなかった。
  7. ^ 島朗による命名。
  8. ^ これについて谷川浩司は「まず抽選をするわけですから」と述べた上で、「(羽生が)持って生まれた運」と表現している。(『別冊宝島380 将棋王手飛車読本 - 将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』 宝島社、1998年、16頁 ISBN 978-4796693806)。
  9. ^ 加藤は仕方なく△4二玉としたが、その5手後(67手目)に投了に追い込まれた。後に加藤はこの対局について、「▲5二銀自体は奨励会員でも指せる」と述べているが、中盤戦で攻められている側に玉将を上がった▲4八玉を高く評価している(『将棋世界』2007年11月号 日本将棋連盟、102頁 「加藤一二三九段、1000敗を語る」)。
  10. ^ 18連勝のうち10勝は前年度からの繰越し。連勝を止めたのは大山康晴。
  11. ^ 森下卓が述べた。さらには「もしも谷川が竜王を防衛していたとしたら、羽生は七冠どころか四冠も難しかったのではないか」とも述べている(『将棋マガジン』1996年6月号 日本将棋連盟、16頁)。
  12. ^ 米長は、もしもストレート負けしたら引退すると心の中で決めていたが、3連敗の後に2勝を返した(日本将棋連盟「米長邦雄の本」)。
  13. ^ このことを谷川は「お互いの意思がピッタリ合った」と表現している(日本将棋連盟書籍編 『谷川vs羽生100番勝負-最高峰の激闘譜!』 日本将棋連盟、2000年 ISBN 978-4819702102)。
  14. ^ 谷川は、第1局と第2局の間に阪神淡路大震災で被災していた。谷川は後に「(逆に)もしも震災がなかったら、このとき敗れていたのかもしれない」という旨を語っている(『別冊宝島380 将棋王手飛車読本 - 将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』 宝島社、1998年、20-21頁 ISBN 978-4796693806)。
  15. ^ 第53期名人戦第1局の108手目、森下は悪手△8三桂(△6七飛成で王手をしながら金を取れば勝勢)を指して羽生の逆転勝ちとなった。第43期王座戦第2局の98手目、森は△6九銀からの詰み(立会人の内藤國雄いわく「1秒でわかる詰み」)を見逃して受けに回り、羽生の逆転勝ち。谷川王将への挑戦権を争う王将リーグでも、森内が95手目に悪手▲9二竜(単に▲5八香として馬を取れば大優勢)を指したことによってもつれ、結果、羽生の勝ちとなった(以上、「将棋マガジン」1996年3月号「さわやか流・米長邦雄のタイトル戦教室」より)。
  16. ^ 46勝9敗のうち、タイトル戦だけでは25勝5敗(.8333)。この年度の最終戦となった対屋敷伸之戦に勝っていれば、1967年度に中原誠の記録した歴代最高勝率(0.8545、47勝8敗)に並ぶことができていた。なお、羽生のこの記録は2011年度に中村太地に抜かれ(勝率0.8511、40勝7敗)、歴代3位となる。ただし中原、中村とも比較的低段位者と当たることの多い若手時代の記録であるのに対して、この年度の羽生は7度ものタイトル戦を戦いながらの記録である(1967年度の中原は後期の棋聖戦のみに登場、中村は2011年度はタイトル戦登場なし)。
  17. ^ 羽生の全冠独占後に『将棋マガジン』(日本将棋連盟)の中で「羽生から最初にタイトルを奪取するのは誰?」というアンケートが行われ、大抵の人が谷川浩司や佐藤康光の名を挙げた中、三浦と答えたのは僅か4人であった。
  18. ^ 相掛かりの先手で、飛車を「浮き飛車」(2六飛)にせず「引き飛車」(2八飛)にする指し方は当時としては珍しかったため、力戦と呼ばれた。しかし、これをきっかけにプロ間で流行するようになる。
  19. ^ 七冠独占が崩れた羽生は「いつかはこういう日が来ると覚悟してはいましたが、現実となるとちょっとつらい部分もあります」と語っている[要出典]
  20. ^ この後の村山の休場による4月の不戦勝を含めると8勝6敗。
  21. ^ 大山康晴が1963年度初頭から1966年度初頭にかけて、当時の全5タイトル戦に渡って記録した19連続獲得には及ばない。
  22. ^ この谷川とのプレーオフの一局は結果的に(羽生が谷川の玉を)「詰ましにいって詰まなかった」ものだったが、内容は高く評価され、第34回将棋大賞で創設されたばかりの「名局賞」を、谷川とともに受賞している。
  23. ^ 囲碁のタイトル戦では3連敗4連勝は、すでに何度も発生していた。
  24. ^ 2005年度、第53期王座戦で佐藤(康)の挑戦を退け王座戦14連覇を果たした時点で大山康晴が名人戦で樹立した同一タイトル連覇記録(1959年 - 1971年、名人13連覇)を抜いた。
  25. ^ 翌年の決勝での敗退まで、羽生は5年間をかけてこのトーナメントで24連勝している。この記録は佐藤康光評するに自身の13連勝など問題にならない(『NHK杯伝説の名勝負』p.196)、決勝戦で羽生の五連覇を阻んだ渡辺明評するに「1回負けたら終わりのトーナメントで5年で24連勝したのだから、信じられない記録です。」「羽生さんは信じられない記録をたくさんもっているけど、その中でも一番信じられない記録といってもいいかもしれない。」(『NHK杯伝説の名勝負』p.223 より引用)とのことである。
  26. ^ 囲碁界では坂田栄男が名誉NHK杯選手権者の称号を獲得している
  27. ^ 司会の長野亮アナウンサーはつぶやくように「今…何か書いていますね…」「まだ午前中ということで心の余裕が感じられるような…」と実況中継した。
  28. ^ たとえば、『プロフェッショナル 仕事の流儀』(NHK総合、2006年7月13日放送)で紹介された藤井猛との朝日オープンでの対局や、『囲碁・将棋ジャーナル』(NHK BS2、2008年5月17日放送)で紹介された2008年の森内との名人戦第3局(大逆転の一局、後述)でも見られ、さらに、同第4局の▲6二角成を指す際に6二の金を取るときには、隣の駒を乱してしまうほど激しく震えた。
  29. ^ 解説役で出演していた内藤國雄は、▲2四歩と指しても先手が僅かに悪いとされているだけであり、羽生ならば何かやってくるかもしれないと相手に思わせる、との旨の解説をした。
  30. ^ 羽生が打った飛車を森内が3枚の銀で捕獲したと思われた直後、羽生が桂馬を動かした142手目が王手銀取り(飛車の空き王手)となり、森内が今打ったばかりの銀が桂馬で取られてしまった。そして、森内の金・銀がぼろぼろと取られていき、その金・銀で森内の玉が寄せられる形となった。
  31. ^ 副立会人の深浦康市は「50年に1度の大逆転」と評した[要出典]
  32. ^ 2度クリックをしないと指し手が確定されない設定(操作ミスによる指し間違いを防ぐ設定)を対局途中から解除するつもりだったが、解除するのをうっかり忘れたままであったという。時間がぎりぎりになり、着手確認の際誤った操作をしてしまい、着手が間に合わなかったという。直後の公開された感想戦および後日の公式ウェブサイト(第2回大和証券杯ネット将棋・最強戦 渡辺明竜王対羽生善治二冠戦の時間切れ負けについての追加2(5/16) 日本将棋連盟、2008年5月16日)上での発表による。
  33. ^ 3か月前に中井広恵もネット対局で時間切れ負けをしている。
  34. ^ 直後の公開された感想戦での渡辺・羽生両者の見解
  35. ^ 翌日、日本将棋連盟の公式ウェブサイト(同上。第2回大和証券杯ネット将棋・最強戦 渡辺明竜王対羽生善治二冠戦の時間切れ負けについての追加2(5/16) 日本将棋連盟、2008年5月16日)で、対局者への注意徹底を行うこと、そして、万一同様の事態が起こった場合に指し継ぎの感想戦を行えるようなシステム(ソフトウェア)に変えることにより、ファンサービスを向上する旨が発表された。
  36. ^ この反則負けの3日前 - 2日前には名人戦で森内に勝利して2勝1敗とし、2日後は棋聖戦の挑戦者決定戦を控えている、という過密スケジュールであった。
  37. ^ 当時は、竜王戦の昇段規定であっても、1年以内に2つ昇段できない規定であったため。
  38. ^ 「オールスター勝ち抜き戦」は終了棋戦のため、羽生の16連勝の記録は破られないことが確定(谷川浩司と中原誠が12連勝で2位タイ)。
  39. ^ 羽生以外には、森内俊之(1991年度・63勝)、木村一基(2001年度・61勝)が各1回達成しているのみ。

出典[編集]

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 将棋世界[4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。』 日本将棋連盟、1996年、168-175頁 「羽生善治、生い立ちの記」(記・炬口勝弘)
  2. ^ NHK『クイズ日本人の質問』インタビュー
  3. ^ 田中寅彦 『羽生善治 神様が愛した青年』 ベストセラーズ、1996年 ISBN 978-4584191286
  4. ^ 将棋マガジン』1996年6月号 日本将棋連盟、37頁
  5. ^ 2010年12月25日放送『NHK杯将棋トーナメント60周年記念 歴代優勝者が選ぶ名勝負十局』(NHK教育テレビジョン)で本局が1位に選ばれた際の、羽生自身による証言である。解説者の「叫び声」が聞こえた経験は、この1回だけとのこと。
  6. ^ 玲瓏:羽生善治(棋士)データベースの年度別成績を参照。
  7. ^ a b c d e 『将棋世界[4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。』(日本将棋連盟、1996年) 68-69頁 「七冠を得た喜び」(記・羽生善治)
  8. ^ a b 将棋マガジン』1996年4月号 日本将棋連盟、14-16頁
  9. ^ a b 2008年秋にNHKで放送の「100年インタビュー」より。(2008年10月2日・NHKデジタル衛星ハイビジョン、2008年11月8日未明(11月7日深夜)・NHK衛星第2テレビジョン
  10. ^ 将棋マガジン(日本将棋連盟)1996年8月号でのインタビュー
  11. ^ 『将棋世界』1998年5月号 日本将棋連盟、「第47回NHK杯トーナメント 四冠羽生善治vs八段村山聖 痛恨の△7六角」
  12. ^ 2010年2月13日放送の「囲碁・将棋ジャーナル」、および、2010年2月14日放送のNHK杯テレビ将棋トーナメント
  13. ^ 「羽生世代がもたらした、速さと若さの時代」(倉沢鉄也)WEBRONZA+社会・メディア - WEBマガジン - 朝日新聞社(Astand)
  14. ^ 羽生善治二冠、名誉NHK杯に! 日本将棋連盟ホームページ
  15. ^ 羽生、通算タイトル獲得数歴代単独1位に 日本将棋連盟ホームページ
  16. ^ 羽生二冠、1200勝を達成! 日本将棋連盟ホームページ
  17. ^ 2011年1月22日20:00-21:29放送『死闘 渡辺明対羽生善治 - ドキュメント竜王戦 -』(NHK衛星第2テレビジョン
  18. ^ 『将棋世界』2008年10月号 日本将棋連盟、68頁 「これならわかる! 最新戦法講義」
  19. ^ 『将棋世界』2008年3月号 日本将棋連盟、63-65頁 「進化する羽生将棋」(記・鈴木大介勝又清和
  20. ^ 『将棋世界』2006年10月号 日本将棋連盟、18-19頁
  21. ^ ゲンダイネット』2000年7月7日掲載「話題の焦点」
  22. ^ NIKKEI NET将棋王国 会見プラザ 第5回 深浦康市八段
  23. ^ 『将棋世界[4月臨時増刊号]七冠王、羽生善治。』 日本将棋連盟、1996年、126-127頁 「羽生さんへのインタビュー」(記・田丸美寿々)
  24. ^ 平成10年版「将棋年鑑」(日本将棋連盟)
  25. ^ 『別冊宝島380 将棋王手飛車読本 - 将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』 宝島社、1998年、巻末 ISBN 978-4796693806
  26. ^ 一発ギャグ日本一は将棋・羽生名人のいとこ・羽生幸次郎(Oricon career・2008年8月17日)
  27. ^ 棋士・羽生善治のお母さん ハツさん:2 高校入学、勧めたことを後悔 朝日新聞 2009年3月22日閲覧
  28. ^ 2009年4月6日放送「人生が変わる1分間の深イイ話」3時間スペシャル
  29. ^ 『別冊宝島380 将棋王手飛車読本 - 将棋の神に選ばれし者たちの叫びを聞け』 宝島社、1998年、17頁 ISBN 978-4796693806
  30. ^ NHK総合テレビ・2009年4月11日早朝のニュース
  31. ^ 6月12日(日)羽生名人講演会開催のお知らせ(日本将棋連盟)
  32. ^ 栄光ゼミナール復興教育支援特別講演会「宮城の子は負けない」(栄光ゼミナール)
  33. ^ 『将棋世界』2007年1月号、日本将棋連盟。また、対局相手の渡辺も、テレビ番組で証言している。
  34. ^ 羽生善治『決断力』 角川書店〈角川oneテーマ21〉、2005年、5-6頁
  35. ^ NIKKEI NET 将棋王国 コラムの森(1995年9月26日の日本経済新聞夕刊からの引用) 日本経済新聞社
  36. ^ 梅田望夫「シリコンバレーから将棋を観る」(中央公論新社、2009年)
  37. ^ 『将棋世界』2006年8月号 日本将棋連盟、22頁
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  39. ^ chessbase.com "When a Shogi champion turns to chess" http://www.shogi.net/chessbase-habu.html
  40. ^ 羽生二冠、チェスで仏チャンピオンと引き分け
  41. ^ Chess-playing Japanese Shogi champions
  42. ^ 羽生二冠、チェスで引き分け 世界トップ級と対戦
  43. ^ 30カ国140人、複雑さと格闘 チェス版「詰将棋」、神戸で世界大会
  44. ^ 同時対局:羽生王位と仏王者が将棋・チェス同時対局 - 毎日新聞
  45. ^ 対局中の映像 - 朝日新聞公式チャンネル
  46. ^ A Challenge for The Second IM Norm - Accomplished! - - 小島慎也ブログ・2014年1月4日
  47. ^ 「正面からぶつかる姿勢貫けた」羽生名人、一問一答(asahi.com)(2011年5月20日閲覧)
  48. ^ 2013年10月8日五番勝負 第4局 羽生善治王座 対 中村太地六段|第61期王座戦 -日本将棋連盟王座戦中継サイト
  49. ^ 著書『決断力』 角川書店(角川oneテーマ21)、199頁 ISBN 978-4047100084
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  51. ^ 八王子観光協会
  52. ^ 『まんが羽生善治物語』高橋美幸著 1995年6月 くもん出版 isbn=9784875769934
  53. ^ 第31期(1972年度)の中原誠(8戦全勝)と、第62期(2003年度)の森内俊之(9戦全勝)に続く記録。
  54. ^ 東京都文化賞・都民文化栄誉章(東京都生活文化局文化振興部)

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]