高橋由伸

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高橋 由伸
読売ジャイアンツ #24
YG-Yoshinobu-Takahashi.jpg
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県千葉市中央区
生年月日 1975年4月3日(36歳)
身長
体重
180cm
87kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 外野手一塁手
プロ入り 1997年 ドラフト1位(逆指名)
初出場 1998年4月3日
年俸 1億7,000万円(2012年)[1]
経歴(括弧内は在籍年)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 2004年
オリンピック
男子 野球
2004 野球

高橋 由伸(たかはし よしのぶ、1975年4月3日 - )は、読売ジャイアンツに所属するプロ野球選手外野手)。千葉市中央区出身。

労働組合「日本プロ野球選手会」副会長の1人(2005年12月1日 - )である。

目次

[編集] 来歴

[編集] 小学校~中学校時代

右利きだが、3歳の頃から誰に言われるでもなく自然と左打ちだった。小学校4年生で地元少年野球チームへ入団すると同時に、6年生ばかりのレギュラーに唯一入れられる。入団以前から同じグラウンドで練習していた高橋を見ていた監督が、動きやスイングの速さなどに卓越したセンスを感じたためであった[2]。5年生時には3番・ショートとしてチームの県大会初優勝、6年生時には4番・エースとして2連覇に貢献。

幼少期よりお父さんっ子であり、少年野球~高校の寮に入るまで、常に父親との二人三脚で自主トレをしていた。その内容の一つとして、身長の倍ほどの竹で素振りをするという日課もあった。プロを目指し挫折してほしくないという父親の配慮により、練習時以外では野球に触れることが殆ど無く、プロを志すことも無ければ憧れの選手もいなかった[2]。野球そのものはあまり好きでもなく、父や兄弟など周囲が喜んでくれるので続けていた面もあったと後に語っている[3]。また現実的で冷めた子供だったと言い[4]、プロ野球選手にはなりたいともなれるとも全く思わず、プロ入りを考え始めたのも大学2年生頃になってからであった[2]。当時から人前に出るのが苦手であり、目立つことを嫌っていた[5]

中学のポニーリーグ時代は4番・エースとしてチームを全国大会2連覇に導く。途中、「野球を辞めたい」と言っては父親と兄の2人に力ずくでグラウンドまでひきずって連れていかれたり[5]、嫌だと騒いでは兄の暴力を受け、よく泣きながら練習に向かっていたという[4]。中学3年時の成績は26試合の出場で打率.559、17本塁打、65打点。ここで野球を辞め、将来を見据えて学業に集中しようと考えたが、「あと3年だけお父さんを楽しませてくれ」という父の要望で甲子園を目指すことに決める[2]。勉強と両立できるという理由、特に憧れであった慶應義塾大学入学への近道として[6]、数あったスカウトの中から神奈川の名門・桐蔭学園高等学校(以下、桐蔭学園)を選択し入学。

[編集] 高校時代

桐蔭学園野球部には期待の投手として入部したが、間もなく監督の土屋恵三郎から打撃と強肩を活かす右翼手への転向を薦められる。高橋は渋ったものの、転向すればすぐにレギュラーで3番を打たせるという言葉で決断。1年生時から3番・右翼手のレギュラーの座を掴む。このころから強肩・好守に加えて勝負強さの片鱗を見せていた。第73回全国高等学校野球選手権大会で3回戦に進出するも、鹿児島実とあたり、最後はサヨナラ負けを喫する。当時のチームメイトには高木大成(2学年上)や副島孔太(1学年上)がいた。

4番打者となり、投手を兼任するようになった2年時の1992年にも第74回全国高等学校野球選手権大会に出場。沖縄尚学とあたり、本塁でのクロスプレーで左太股の肉離れを起こしたが、8回からリリーフ投手として登板。結果、延長12回でまたもサヨナラ負けを喫し、1回戦敗退。最後は足の痛みで歩けなくなり、チームメイトに担がれながらマウンドを下りた。その後、怪我と腰痛治療のために2週間の入院を余儀なくされたが、退院後にはチームメイトからの厚い人望により翌年の主将に任命される。「自分はチームを引っ張っていけるようなタイプではない」と最初は断ったものの、監督命令と聞き引き受けたという。先輩である副島孔太は「口で引っ張っていくのではなく、日常の自然な練習態度や言動から気がつけば周囲に人が集まっている、という独特の雰囲気を持っていた」としている[7]

3年時には強打者を1番に据えるという土屋の方針により1番打者を務めるも、甲子園には出られなかった。1,2年時の甲子園通算打率は.400。高校通算30本塁打ヤクルトなど複数のプロ球団からスカウトされていたが、慶應進学という入学当初からの目標は変わらず、慶應義塾大学(法学部政治学科)へ指定校推薦で進学する。「非凡なセンスを持ちながら根っからの野球好きでない高橋には、自由で伸び伸びとしたチームがいい」と考えた土屋の助言もあった[2]

[編集] 大学時代

慶應義塾大学野球部で1年時からレギュラー。春季リーグ戦の開幕1試合目から5番・三塁手として出場、ルーキー新記録の3本塁打を放つ。3年時の東京六大学野球1996年春季リーグ戦では打率.512、5本塁打を記録して三冠王を獲得。4年時の1997年には主将に就く。相手が勝負を避けるようになり、2試合で7四球など敬遠も目立つ中、春季リーグ戦ではチームを9季ぶりのリーグ優勝に導く貢献。秋季リーグでは法政大学安藤優也から田淵幸一の持つ東京六大学リーグ本塁打記録を更新して歴代1位となる通算23本塁打を放つ。リーグ通算102試合出場(4年間全試合フルイニング出場)し366打数119安打、62打点、打率.325。通算219塁打は歴代1位。日米大学野球においても日本代表の4番打者として3試合連続本塁打を打つなど活躍。インターコンチネンタルカップでも大学生ながら日本代表の4番打者として出場し、上原浩治が先発した国際大会151連勝中のキューバとの決勝戦で1回裏に先制点かつ決勝点となる3点本塁打を放ち、その後も2点三塁打を打つなど優勝に貢献。同年に大学を卒業。甘いマスクと走攻守を兼ね揃えた六大学のスターとして高い人気を誇っていた。ちなみに、リーグ戦では1度だけリリーフ投手として登板し無失点で切り抜け、球速149km/hも記録したことがある。当時の慶大監督の後藤寿彦は、「試合の勝敗にはすごくこだわるのに、自分の記録や賞についてはギラギラしていない」と語った[2]。大学の後輩である佐藤友亮は、「後輩に怒ることが全く無く、後輩が叱られていたら庇ってくれる仏様のような人」「彼がいなかったら何人も野球部を辞めていた。」とプロ入り後に話っている[8]。また、同期である明大の川上憲伸投手とは大学時代より数々の名勝負[要出典]を繰り広げたライバルであった。

ドラフトに際しては中日ドラゴンズ日本ハムファイターズ広島東洋カープを除く9球団の激しい争奪戦が繰り広げられる。高橋の出身地である千葉の千葉ロッテマリーンズファンが「高橋君にロッテへの逆指名入団を」と署名運動を繰り広げ、数万人の署名を集めたりもしたが、高橋本人は志望球団をヤクルトスワローズ西武ライオンズ読売ジャイアンツの3球団に絞る。ただ本人に「慶大野球部のように伸び伸びとしたチームがいい」との意向があったため、逆指名会見直前には読売新聞グループ傘下であるスポーツ報知を含めたいずれのマスコミも「ヤクルトスワローズに逆指名入団間違いなし」と報じていたが、本人の意思を超越した、周囲を巻き込みながらの壮絶な争奪戦が展開された結果[9]11月4日に巨人を1位で逆指名入団する。会見では笑顔が一切見られず、目には涙を浮かべていた[10]こともあり、巨人逆指名に至るまでの経過についても終始マスコミに取り沙汰されていた。

[編集] プロ入り後

1998年、入団当初より監督の長嶋茂雄から「21世紀のスター」として期待され、開幕戦に7番・右翼手で先発出場しプロ初安打を放つ。右足を高く上げる独特の一本足打法で打線を牽引し、後半戦は5番打者に定着。オールスターゲームのファン投票では新人史上最多の51万4351票で選抜され、以降7年連続で出場する。8月4日の広島戦では同じ背番号24の左腕大野豊から逆転スリーラン本塁打を放ち、この一発がきっかけで大野は引退を決意した。結局、打率.300、19本塁打、75打点OPS.852の好成績でシーズンを終える。プロ1年目で打率3割(規定打席到達)は史上7人目、セ・リーグでは長嶋茂雄以来40年ぶり(パ・リーグでは清原和博(当時・西武)が高卒ルーキーながら達成している)。さらに新人で満塁本塁打3本は史上初だった。新人王候補にも挙がったが、新人王は中日の川上憲伸が受賞。この年の川上との直接対決の成績は 22打数1安打(1本塁打)であった。その代わりとして、新人としては異例のセントラル・リーグ特別表彰を受賞した。また、守備でもリーグ最多タイの12補殺を記録し、新人外野手としては史上初のゴールデングラブ賞を受賞。このころ長嶋監督から「ウルフ」のニックネームが与えられたが、一般には定着しなかった。

1999年バリー・ボンズを参考にして重心移動に取り組み、長打力もアップ。開幕戦から3試合連続本塁打を放ち、4月には打率.433、8本塁打、29打点を記録し月間MVPを獲得。5月5日にはプロ2年目で巨人第66代の4番打者に指名される。以後チームメイトの松井秀喜、ヤクルトのロベルト・ペタジーニ本塁打王を争うが、本塁打王争いのトップに立っていた9月14日の中日戦(ナゴヤドーム)での守備の際に外野フェンスに激突し鎖骨骨折の重傷を負いシーズンを終了。初のベストナインに選出され、年俸も1億円を越えた。

2000年、前半戦は前年の骨折の影響もありプロ入り後初めてのスランプを経験するが、後半戦には復調。「MKT砲」と称された3番・高橋、4番・松井秀喜、5番・清原和博の強力クリーンアップの一員としてリーグ優勝・日本一に貢献。9月(東京ドーム・vs広島)では球団通算1000号サヨナラ本塁打を高橋建から放った。

2001年は前年同様シーズン序盤にスランプに苦しむ。それでも江藤智とともに3番・6番打者を任され、2年連続で全試合出場。8月1日の中日戦では川上憲伸からプロ通算100号本塁打を放つ。

2002年、度重なる死球による負傷離脱を経験するも、主に3番打者として2年ぶりのリーグ優勝・日本一に貢献。6月の広島戦では球団通算7500号本塁打を放ち、対戦投手は2000年にも球団通算節目の本塁打を放った高橋建だった。8月3日の広島戦(旧広島市民球場)ではフェンス際でジャンピングキャッチを試みた際に左足かかとを強打し戦線離脱。その復帰第1戦となった9月16日の横浜ベイスターズ戦では同様のフェンス際の打球でジャンピングキャッチを決めた。

2003年は選手会長に任命される。また松井の移籍により中堅手コンバートされる。清原の欠場もあり、初めて開幕戦を4番で迎える。しかし、慣れない守備位置に苦しんだ結果、腰痛を発症。開幕から数試合で離脱したものの、シーズン中盤には好調をキープし続け、11打数連続安打、14打席連続出塁のプロ野球タイ記録を樹立し、打率も自己最高の.323を記録。6月1日阪神タイガース戦では当時無敗を誇っていたジェフ・ウィリアムスからサヨナラ本塁打を打ち、シーズン唯一の負けを付けた。7月15日オールスターゲームでは2打数2本塁打3打点の活躍で自身初のオールスターMVPを受賞。また、シーズン後にはアテネ五輪の予選を兼ねた第22回アジア野球選手権大会に出場し、首位打者賞を獲得した。

2004年は前年に続き中堅手へのコンバートを試みるが、まもなく移籍したタフィー・ローズに譲る。ロベルト・ペタジーニをヒントに打撃フォームを大きく改造した結果、開幕直後は極端な不調に陥った。開幕からシーズン途中に開催されたアテネ五輪まで継続して4番打者を務める。五輪では日本代表の3番・センターと副主将を任され、代表チーム最多の3本塁打を打つなど活躍。中でも野球台湾代表戦では王建民から貴重な同点2点適時本塁打を放った。しかし五輪で肘の遊離軟骨状態が悪化。肘に痛みを抱えながらのプレーで守備面では送球に精彩を欠くこともあったが、打撃では5年ぶりに30本塁打を記録。9月29日の広島戦では長嶋茂雄の849試合目に次ぐ史上8位のペースとなるプロ850試合目での1000本安打を達成。オフには右肘の手術を受け、球団合併問題では巨人の選手会長、また日本プロ野球選手会の副会長として署名活動などで大きく貢献した。

2005年はシーズン序盤の広島戦での守備中、旧広島市民球場のフェンスに登った際に右肩肩甲下筋の肉離れを起こして離脱。その後、7月8日の広島戦でフェンスに右足首を強打し再び離脱。昨年と合わせて3度も同じ球場、同じフェンス際の打球の処理で怪我に遭ったため、復帰後の広島戦では球場のフェンス際に清めの塩を撒いたという。その後も右足首は回復しないまま骨棘が形成され、痛みを抱えた状態で試合に出続けたが、プロ入り以来はじめて規定打席を割る。オフに右足首の手術を受けた。

2006年は手術により調整が遅れ、オープン戦には中盤から参加。この年から監督に再就任した原辰徳の「守備の要であるセンターラインを守ることでチームを引っ張っていってほしい」という方針から再び中堅手にコンバート。右足首の状態は開幕に間に合うかどうかというものであったが、開幕から好調なスタートを切った。しかし、4月12日の広島戦にてセンターの守備でダイビングキャッチの際、左脇腹の肉離れを起こし約1ヶ月の離脱。復帰して半月ほどたった5月27日のロッテ戦で再びダイビングキャッチを試みて左肩を負傷。その後守備位置を中堅手に戻されるが、度重なる負傷で本来の打撃や守備を取り戻すことができず、後半戦からは守備の負担を軽減させるため初めて左翼手の守備に就いた。前年に手術した右足首の状態が悪いままプレーを続けたこともあり、規定打席を割り、打率.260、15本塁打と不本意な成績に終わった。

2007年は心身ともに強い選手という意味で「強」をテーマに掲げ、開幕戦から1番・右翼で起用される。横浜との開幕戦(横浜スタジアム)では第1打席で先発・三浦大輔の初球を右翼スタンドへ本塁打を放ち、セントラル・リーグ史上初、衆樹資宏以来45年ぶりの開幕戦初球先頭打者本塁打を放ち、長嶋茂雄の5年連続に次ぐ歴代2位の3年連続開幕戦本塁打を記録。4月28日FA権を取得するも、早い段階で宣言せずに残留することを表明。生涯巨人を宣言した。6月以降は右足首痛が悪化するもそのまま出場を続け、6月には打率.408、8本塁打、18打点、OPS1.347を記録し4年ぶりとなる月間MVPを受賞。7月26日の横浜戦ではマット・ホワイトから1シーズンでのプロ野球新記録となる9本目の初回先頭打者本塁打を記録。終盤は腰痛により成績を落としたが、久々に1年を通じて大きなケガや長期離脱もなくプレーし、3年ぶりに規定打席及び打率3割をクリア。1番打者として出塁を意識し出塁率.404を記録する一方で、初球打ちの打率は.441、自己最多の35本塁打も記録した。日程終了時点ではリーグ最多本塁打だったが、その後村田修一が最後の1本となる36本目を佐々岡真司引退試合の9回最後の打席で打ったため、惜しくも本塁打王を逃した。OPS.982、得点圏打率.409の記録は12球団トップ。その成績から「1番に据えておくのはもったいない」と言う意見も出るほどで、当時東北楽天ゴールデンイーグルス監督の野村克也からも「俺ならクリーンナップ」と言われた(なお、この発言の翌日の試合のみ4番として起用されている)。チーム5年ぶりの優勝に大きく貢献し、8年ぶりにベストナインに選ばれ、4年ぶりのゴールデングラブ賞も獲得。また、この年のMVP大本命とされていたが、惜しくも選出されず、チームメイトの小笠原道大が受賞した。この年で10年連続2桁本塁打も達成、巨人では長嶋茂雄・王貞治・原辰徳・松井秀喜に次ぐ5人目となった。北京五輪の予選を兼ねた第24回アジア野球選手権大会日本代表に選抜されるが、腰痛のため辞退。ちなみにこの年のオールスター出場選手・監督のサイン入り着用済みユニフォームが慈善オークションにかけられた際には、田中将大に次いで2番目に高額の107万3千円で落札されている。

2008年は4年総額16億の大型契約を更新。開幕からしばらくは前年同様1番・右翼で出場。4月3日の中日戦で川上憲伸から7回裏にバースデーアーチとなる3点本塁打を放つ。開幕から好調を維持し、4月下旬から4番として起用されるも、腰痛を再発させ2軍落ち。1軍復帰後も痛みは引かずに本来の調子を取り戻すことが出来ず、1軍帯同したままで起用されない試合も増える。ポストシーズンでは代打起用のみとなるなど最後まで復調することなくシーズンが終了し、自己ワーストの成績、年間出場打席数も2005年を下回った。チームはリーグ優勝したものの、本人は「今年はチームに迷惑かけっぱなしでした」とあまり喜べないものだった。この年の北京五輪についても、代表監督の星野仙一は当初「(高橋は)国際試合には欠かせない」と選抜の意向を示していたが、腰痛により出場は叶わなかった。この不振により、プロ入りして以来10年間3割以上をキープしていた通算打率が.299となった。示唆されていた腰痛手術の可能性については、シーズンオフに医師や首脳陣と話し合った結果手術を見送り、引き続きリハビリによる改善を目指した。

2009年は腰痛で調整が遅れ、プロ生活初の2軍スタートとなる。しかし腰痛が一向に改善せず、「やればやるほど調子が落ちていく」と漏らすほどであった。8月28日に一軍登録され同日の阪神戦(阪神甲子園球場)の9回に代打で登場したものの、藤川球児に対し一塁線に痛烈なファールを打つも内角低めの球を見逃し三振。その翌日、本格的な復帰を期して腰の手術を受けることを表明。そのまま一軍に上がることなくシーズンを終えた。この手術は成功しても腰の痛みが完全に取れる保障も無く、リハビリは最悪1年以上かかり、失敗したら一生車椅子生活もあるという選手生命を賭けたものであった。踏み切るに至るまでの経緯として、当初から「秋に手術しても来年の開幕には間に合う」と話していて、ギリギリまでシーズンを棒に振る決断を待った形になった。高橋もこの年を「野球をやっていることを想像したくてもできなかった時期」「もう無理かと思った」と振り返るほど絶望的な状況であった。

2010年は腰痛手術から復帰。腰の状態は万全ではなく練習量を減らして調整していたが、オープン戦で結果を出し、キャリア初となる8番・一塁手で開幕スタメンを勝ち取った。この年には同じく初となる2番打者も経験。中盤以降は右翼手や代打での起用が増える。腰の状態を気にしながらの出場で規定打席には届かず成績も不本意に終わったものの久々に1年を通して116試合に出場。CSも含め、本塁打を打った試合ではチームは全勝。出塁率.364、得点圏打率.325、CSでの打率は.375と選球眼や勝負強さは健在であった。

2011年、開幕戦では5番・右翼手でスタメン出場。4月26日のヤクルト戦で脇腹を痛め、29日に登録を抹消された。6月11日に再度登録されたものの、成績は上がらず代打での起用も多かった。結局規定打席には届かず打率.246、15本塁打、37打点、OPS.829という成績に終わる。守備については主に外野で起用されつつ、15試合は一塁手でも起用された。契約更改では球団史上最高のダウン額となる1億8000万円減の推定1億7000万円でサインした。

[編集] プレースタイル

『天才』と形容されることもある打撃技術の高さと天性のタイミングの取り方を持ち味とし[11]、早打ちで初球から積極的に振りに行くが[12][13][14][15]、右足を高く上げる一本足打法で初球からどんなボールにもフォームを崩さずに対応できる柔軟さを備え[16][17]、多少のボール球でも安打にできる[14]。2006年から2010年にかけての通算得点圏打率.322と勝負強さを備える他、ファウル打ちの技術にも優れ、外角の球にも強く打球を広角に打ち分けることができる[18][19]。1番打者として起用された2007年には出塁を意識するスタイルとなり、ファーストストライクでのスイング率が前年から15パーセント下がり四球数が増加した[20]

走塁面ではプロ入り当初は50メートル走6.0秒台、一塁到達4.0秒台の俊足を誇っていたが[21][22]、近年は故障もあって一塁到達4.3秒台と満足いく走塁ができなくなった[23][24]。守備では主に右翼手として起用され、中堅手として起用されたこともある。右翼守備ではフェンスを恐れない積極的な守備を見せ[11]、送球面では遠投120メートルの強肩と正確さを兼ね備える[12][22]。近年は故障もあって一塁手での起用も増えた。

[編集] 人物

[編集] 表記について

プロ入り2年目の1999年まで巨人所属の「高橋」姓の選手は1人だけだったが、2000年に高橋尚成が入団したことで、表記名が「高橋由」になった。2009年オフに高橋尚成がFA権を行使して移籍したため、2010年は新聞やテレビでの表記は11年ぶりに「高橋」に戻ったが、スコアボード表記の「高橋由」と場内アナウンスのフルネーム呼称は継続された[25]。2011年途中に日本ハムから高橋信二が移籍してきたことで、新聞やテレビでの表記も再び「高橋由」に戻った。2012年は高橋信二が退団したが、高橋洸が入団する為、「高橋由」のままである。

[編集] 家族

夫人は元日本テレビアナウンサー小野寺麻衣。夫人との間には一女がいる。

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1998 巨人 126 515 466 65 140 32 1 19 231 75 3 2 1 5 36 1 7 85 5 .300 .356 .496 .852
1999 118 505 454 71 143 18 2 34 267 98 3 3 2 2 39 7 8 96 3 .315 .378 .588 .966
2000 135 577 519 89 150 29 1 27 262 74 5 3 3 3 46 2 6 87 11 .289 .352 .505 .857
2001 140 605 543 88 164 26 0 27 271 85 3 2 1 5 49 4 7 85 14 .302 .364 .499 .863
2002 105 454 409 63 125 18 0 17 194 53 1 3 2 3 27 0 13 70 7 .306 .365 .474 .839
2003 118 486 443 85 143 31 1 26 254 68 3 1 0 2 38 2 3 59 7 .323 .379 .573 .952
2004 109 477 426 83 135 20 1 30 247 79 1 3 1 1 38 1 11 70 12 .317 .387 .580 .966
2005 88 360 325 50 97 15 0 17 163 41 1 0 0 0 30 0 5 54 8 .298 .367 .502 .868
2006 97 390 350 45 91 14 1 15 152 51 1 0 2 5 25 0 8 64 5 .260 .320 .434 .754
2007 133 590 503 76 155 29 1 35 291 88 1 5 3 2 66 6 16 107 3 .308 .404 .579 .982
2008 91 311 275 38 65 11 0 17 127 41 1 0 0 1 30 3 5 76 3 .236 .322 .462 .783
2009 1 1 1 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 1 0 .000 .000 .000 .000
2010 116 332 280 30 75 9 0 13 123 56 2 0 0 6 44 1 2 75 6 .268 .364 .439 .803
2011 95 301 256 35 63 13 0 15 121 37 0 1 1 0 40 1 4 64 9 .246 .357 .473 .829
通算:14年 1472 5904 5250 818 1546 265 8 292 2703 846 25 23 16 35 508 28 95 993 93 .294 .365 .515 .880
  • 2011年度シーズン終了時
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 年度別守備成績


一塁 外野
試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率 試合 刺殺 補殺 失策 併殺 守備率
1998 - 124 226 12 7 4 .971
1999 - 118 209 3 2 1 .991
2000 - 135 245 2 4 1 .984
2001 - 140 255 6 4 0 .985
2002 - 105 175 6 2 0 .989
2003 - 111 221 7 3 3 .987
2004 - 109 185 5 1 0 .995
2005 - 78 150 5 1 0 .994
2006 - 96 152 7 1 0 .994
2007 - 128 210 7 1 0 .995
2008 - 80 120 2 2 1 .984
2010 52 344 15 4 23 .989 45 53 1 0 0 1.000
2011 15 87 2 0 2 1.000 76 89 6 0 1 1.000
通算 67 431 17 4 25 .991 1345 2290 69 28 11 .988
  • 2011年度シーズン終了時

[編集] 表彰

[編集] 記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:2001年8月1日、対中日ドラゴンズ19回戦(東京ドーム)、4回裏に川上憲伸から中越2ラン ※史上214人目
  • 150本塁打:2003年9月27日、対広島東洋カープ26回戦(広島市民球場)、6回表に河内貴哉から右中間へソロ ※史上129人目
  • 1000本安打:2004年9月29日、対広島東洋カープ27回戦(東京ドーム)、6回裏にジョン・ベイルから右前安打 ※史上227人目(850試合目での達成は歴代8位)
  • 200本塁打:2006年4月4日、対東京ヤクルトスワローズ1回戦(明治神宮野球場)、4回表に石井一久から中越2ラン ※史上86人目
  • 1000試合出場:2006年8月18日、対中日ドラゴンズ16回戦(東京ドーム)、3番・右翼手として先発出場 ※史上412人目
  • 250本塁打:2008年4月6日、対阪神タイガース3回戦(東京ドーム)、3回裏に福原忍から右中間へ2ラン ※史上52人目
  • 1500本安打:2011年7月10日、対広島東洋カープ9回戦(東京ドーム)、5回裏にブライアン・バリントンから左翼線へ安打 ※史上108人目
その他の記録
  • 入団から2年連続で打率3割以上(1998 - 1999年)※史上4人目
  • 入団から6年連続ゴールデングラブ賞受賞(1998年 - 2003年)※日本記録
  • 11打数連続安打(2003年6月7日 - 6月11日 3四球挟む)※日本タイ記録
  • 14打席連続出塁(2003年6月7日 - 6月11日)※日本タイ記録
  • シーズン初回先頭打者本塁打:9本(2007年)※日本記録
  • オールスターゲーム出場:8回(1998年 - 2004年、2007年)

[編集] 背番号

  • 24 (1998年 - )

[編集] 関連情報

[編集] テレビ出演

[編集] CM出演

[編集] 脚注、出典

  1. ^ 巨人・高橋由は1億8千万円減で更改 「後がない気持ち」-産経新聞、2011年11月10日
  2. ^ a b c d e f 鳥飼新市 『高橋由伸 華麗なるスラッガー (シリーズ・素顔の勇者たち) 』 旺文社、2003年。
  3. ^ 「ウチくる!?」( 2011年1月9日放送)、番組内での本人の発言より。
  4. ^ a bプロ野球ai 1998年9月号」 日刊スポーツ出版社
  5. ^ a bプロ野球ai 1998年1月号」 日刊スポーツ出版社。
  6. ^ 「報知グラフ'98―2 高橋由伸 新世紀へかけろ大アーチ」 報知新聞社、1998年、P19。
  7. ^ 「ベースボールアルバムNo.122 高橋由伸」 ベースボール・マガジン社、1998年、P53。
  8. ^ 文化放送「サタデー スポーツニュースショー」(2010年11月20日放送)、番組内のインタビューより。
  9. ^ 片岡宏雄 著「スカウト物語」p.164
  10. ^ 藤見雅希 著「悪魔の野球」p.57~「高橋由伸の涙の裏側」
  11. ^ a b 小関順二、西尾典文、泉直樹 『プロ野球スカウティングレポート2008』 アスペクト、2008年、38-39頁。ISBN 978-4-7572-1439-2
  12. ^ a b 二宮清純、江川卓 『江川卓 スカウティングレポート'99』 ザ・マサダ、1999年、99頁。ISBN 4-915977-84-6
  13. ^ 二宮清純、江川卓 『江川卓 スカウティングレポート2001』 ザ・マサダ、2001年、43頁。ISBN 4-88397-069-8
  14. ^ a b 吉田健城 『MASADA スーパースカウティングレポート'02-'03』 ザ・マサダ、2002年、55頁。ISBN 4-88397-011-6
  15. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2005』 白夜書房、2005年、102頁。ISBN 4-86191-015-3
  16. ^ 二宮清純、江川卓 『江川卓 スカウティングレポート2000』 ザ・マサダ、2000年、71頁。ISBN 4-88397-011-6
  17. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2003』 白夜書房、2003年、21頁。ISBN 4-89367-854-X
  18. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2004』 白夜書房、2004年、100頁。ISBN 4-89367-928-7
  19. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2006』 白夜書房、2006年、122頁。ISBN 4-86191-134-6
  20. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2008』 白夜書房、2008年、25頁。ISBN 978-4-86191-374-7
  21. ^ 二宮清純 『プロ野球スカウティングレポート'98』 ザ・マサダ、1998年、140頁。ISBN 4-915977-57-9
  22. ^ a b 小関順二、泉直樹、荒井太郎 『プロ野球スカウティングレポート2006』 アスペクト、2006年、356-357頁。ISBN 978-4-7572-1246-1
  23. ^ 小関順二、西尾典文、石川哲也、場野守泰 『プロ野球スカウティングレポート2011』 廣済堂出版、2011年、349頁。ISBN 978-4-331-51519-8
  24. ^ 『野球小僧 世界野球選手名鑑2007』 白夜書房、2007年、117頁。ISBN 978-4-86191-246-7
  25. ^ 尚広「鈴木尚」で再びレギュラー取る!-スポーツ報知、2010年2月13日

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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