千代の富士貢

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千代の富士 貢 Sumo pictogram.svg
Kokonoe.jpg
国技館へ向かう九重親方
基礎情報
四股名 千代の富士 貢
本名 秋元 貢
愛称 ウルフ・大将・ゴリラ
小さな巨人・小さな大横綱
生年月日 1955年6月1日(59歳)
出身 北海道松前郡福島町
身長 183cm(現役時)
体重 127kg(現役時)
BMI 37.92
所属部屋 九重部屋
得意技 右四つ、寄り、上手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 第58代横綱
生涯戦歴 1045勝437敗159休 (125場所)
幕内戦歴 807勝253敗144休 (81場所)
優勝 幕内最高優勝31回
幕下優勝1回
殊勲賞1回
敢闘賞1回
技能賞5回
データ
初土俵 1970年9月場所
入幕 1975年9月場所
引退 1991年5月場所
引退後 九重部屋親方
備考
金星3個(三重ノ海2個・若乃花1個)
2014年8月16日現在

千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、1955年6月1日 - )は、北海道松前郡福島町出身の元大相撲力士。第58代横綱。本名は秋元 貢(あきもと みつぐ)。

人物[編集]

誕生~入門前[編集]

1955年に北海道松前郡福島町で漁師を営む家に生まれた。子供の頃から漁業を手伝って自然に足腰が鍛えられ、中学生では運動神経が抜群だった。特に陸上競技では走り高跳び・三段跳びの地方大会で優勝し、なかには「オリンピック選手もいける」と言われるほどだったが、相撲は大嫌いだった。1年生のときに盲腸炎の手術を受けたが、秋元少年の腹の筋肉が厚いために手こずって予定を大幅に上回る長時間の手術になってしまい、終了直前に麻酔が切れてしまった。それでも必死に耐え続ける体格の良い秋元少年を見た病院長が見出し、千代の山の入門の世話をしたことがある若狭龍太郎に連絡した。その連絡を受けた九重(千代の山)から直々に勧誘されたが、自身はあまり気が乗らず、両親も入門に大反対したため一旦は断わっていた。

それでも諦めない九重は秋元少年に対して「とりあえず東京に行こう。入門するなら飛行機[1]に乗っけてあげるよ」「中学の間だけでも(相撲を)やってみて、後のことを考えたらどうだ?」などと持ちかけると、結局、その飛行機にどうしても乗りたいがために、家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決めた。

初土俵~十両昇進[編集]

本名のまま1970年9月場所初土俵を踏み、翌11月場所序ノ口につき「大秋元」と改名、1971年1月場所「千代の冨士」(後「千代の富士」)と名付けられた。四股名の由来は、九重の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱・北の富士から取られた。上京して相撲を始めたものの陸上への未練も捨てがたく、転入した福井中学校では台東区立中学連合の陸上競技大会の砲丸投げで2位に入賞する活躍を見せた。相変わらず相撲に馴染めないまま日時だけが過ぎて行き、中学校を卒業後は帰郷する予定で、1971年3月場所の終了後は荷物を実家へ送り返してしまった。土俵での成績は概ね良好のため、逸材を手放すことを恐れた九重は秋元少年を故郷の後援会会員に世話を頼んで明治大学付属中野高校定時制へ進学させた。そこで学業と相撲の両立を図ったが失敗し、6ヶ月で中途退学して相撲に専念した。

小兵(幕内定着の頃まで体重は100kg以下)ながら気性の激しさを表す取り口で順調に出世して、1974年11月場所19歳5ヶ月で十両昇進、史上初の5文字四股名の関取となった。異名の「ウルフ」については、ちゃんこ番として魚を捌いているところを見た九重が「みたいだな」と言ったことから付けられた。当初は狼と呼ばれていたものがいつしか変化したそうで、これを聞いた春日野理事長は「動物の名前で呼ばれる力士は強くなる。ワシは『マムシ』だった。狼は若乃花の昔のあだ名だ」と言ったという。

新入幕~肩脱臼との戦い[編集]

1975年9月場所で昭和30年代生まれの力士としては第一号の新入幕を果たし幕内初白星を元大関大受から挙げるが、相撲の粗さが元で5勝10敗と負け越し。その後幕下まで陥落し、昭和30年代生まれの力士としての幕内勝ち越し第一号も当時「北の湖二世」と呼ばれ将来を嘱望された小沼に先を越された。人並み以上の奮起で帰り十両を果たすが、以前から課題だった先天的に両肩の関節の噛み合わせが浅いという骨の形状から来る肩(左肩)の脱臼が顕在化する。[2]取り口も力任せの強引な投げ技を得意としていたために左肩へますます負担がかかり、度重なる脱臼に悩まされた。このため、2年間を十両で過ごすことになるが、元NHKアナウンサー向坂松彦はこの頃から「(千代の冨士は)ケガ(脱臼)さえなければ幕内上位にいる人だと思う。ウルフと言われる鋭い目はいつの日か土俵の天下を取るものと見ている」と将来性を見抜いていた。[3]

1977年10月29日に九重が死去したことで、部屋は北の富士が継承した。

1977年頃からは頭をつける体格に合った相撲が見られるようになり、その成果もあって脱臼も幾分か治まり、1978年1月場所には再入幕を果たした。同年5月場所13日目の対貴ノ花戦は、取組前の「両者とも足腰が良いからもつれるだろう」という実況・解説者の予想を覆して、頭を付けて懐に入ってから強烈な引き付けで貴ノ花の上体を起こし、貴ノ花が左からおっつけるところを一気に寄り切るという会心の相撲で勝利し、銀星と勝ち越しを同時に手にする大きな白星となった。この場所、9勝6敗の成績を挙げて初の敢闘賞を受賞。この活躍から同年7月場所では新小結の座につき、貴ノ花・旭國の2大関を破ったが、5勝10敗と負け越し。幕内に定着したと思われた1979年3月場所の播竜山戦で右肩を脱臼して途中休場し、入院して脱臼との戦いをまたも強いられることとなる。これは全治1年、手術すれば2年という重大な怪我であり、「もし2カ月で治したいなら筋力トレーニングを行い肩の周辺を筋肉で固めなさい。」と医師に勧められる。この肩を筋肉で固めるという対策に活路を見出し、こうして毎日500回の腕立て伏せウェイトトレーニングに励んで脱臼を克服した。[4]

再入幕~三役昇進[編集]

同年5月場所は周囲の予想通り十両に陥落したものの、取組中のケガだったことから公傷制度を利用して肩の治療に専念するはずだった。しかし、手続きの不手際で公傷と認められないことが場所の直前になって発覚したため、このまま休場すれば幕下陥落の危機もあったことから3日目より強行出場、9勝を挙げて同年7月場所に幕内へ復帰した。以後は着実に力をつけ、幕内上位に定着することとなる。

千代の富士貢の銅像

肩の脱臼を受けて、それまでの強引な投げから前廻しを取ってからの一気の寄りという形を完成させ、1980年3月場所から幕内上位に定着する。横綱・大関陣を次々と倒して人気者となり、特に大関昇進後の増位山に対しては6戦6勝負けなしと「増位山キラー」とされた。同年9月場所には小結で幕内初の二桁勝利となる10勝5敗の成績を挙げた(この場所以降引退まで、皆勤場所では全て二桁勝利)。同年11月場所に新関脇に昇進すると初日から8連勝し11勝4敗の成績を挙げ、大関を目前として1981年1月場所を迎えた。

1981年1月場所は前場所をはるかに上回る快進撃で、若乃花を真っ向勝負で寄り倒すなど初日から14連勝を記録。そして迎えた千秋楽(1月25日)、1敗で追いかけた北の湖との直接対決を迎えた。本割では吊り出しで敗れて全勝優勝こそ逃すものの、吊り出された時に北の湖の足を見て作戦を立てており、それが見事決まって優勝決定戦では北の湖を右からの上手出し投げで下し、14勝1敗で幕内初優勝を果たした。場所後に千代の富士の大関昇進が決定したが、千秋楽の大相撲中継視聴率は52.2%、千代の富士の優勝が決まった瞬間の最高視聴率は65.3%に達し、現在でも大相撲中継の最高記録となっている(ビデオリサーチ調べ)。

横綱昇進~ウルフフィーバー[編集]

新大関で迎えた3月場所は11勝4敗、5月場所は13勝2敗と連続して千秋楽まで優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所には千秋楽で北の湖を破って14勝1敗の成績で2度目の優勝を果たして横綱を掴んだ。非常に劇的な瞬間に、千秋楽審判委員として土俵下に控えていた当時の九重親方(北の富士)は勝負が決まった瞬間手で涙を拭った。横綱土俵入りは九重と同じ雲龍型を選択した[5]。横綱推挙の際「2代目・千代の山」の襲名を打診されたが、これを「横綱2人分(千代の山+北の富士=『千代の富士』)のいまの四股名の方が強そうだから」と固辞した。千代の富士の大関・横綱昇進伝達式の際には、北の富士と、北の富士からの配慮で先代九重親方の未亡人が同席していた。

新横綱となった同年9月場所の2日目、ライバルと言われた隆の里との取組で場所前から痛めていた足を負傷し、新横綱が途中休場という憂き目を見る(新横綱の休場は昭和以降では武蔵山吉葉山に次いで3人目)。新横綱誕生の期待が一転して失望に変わった。しかし、同年11月場所では12勝3敗の成績で朝汐との優勝決定戦を制して横綱としての初優勝を飾ることで復活を見せた。この場所も14日目に隆の里に敗れている。隆の里はその後も千代の富士の天敵と言えるような存在で、千代の富士を長く苦しめることになった。

1981年には、同一年中に関脇・大関・横綱の3つの地位で優勝するという史上初の記録を達成した。関脇から横綱へ一気に駆け上がるとともに新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であったと言える。こうした事情から、関脇・千代の富士(不詳)、大関・千代の富士(テレビマガジンにおける永谷園「味ぶし」の宣伝に登場)と記された各種記録は少ない。

この時期の千代の富士は、細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から若い女性や子供まで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得ていた。一気に大関・横綱への昇進を決めた1981年は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。千代の富士の取組にかかる懸賞の数は他の力士に比べて圧倒的に多く、懸賞旗が土俵を数周してもまだ余る状態だった(大抵の場合三周以上していた)。

限界説との戦い[編集]

1982年には3連覇を達成し、自身初の年間最多勝も受賞する。横綱昇進後の最初の3年間は強い時は強いが頼りない部分も見受けられ、特に1984年は年明けから振るわず、3月場所は右股関節捻挫で中日から途中休場。同年5月場所は2年ぶりの優勝を目指す北の湖敏満から一方的な寄りを受けて11勝4敗に終わった。同年7月場所は左肩の脱臼で全休したほか、同年9月場所は入幕2場所目の小錦の突き押しにあっけなく敗れ、横綱としての責任を問われることになった。

同年11月場所は久々に優勝したが、翌年は30歳を迎えるという年齢的な面から一時は限界説も流れた。[6]

度重なる不幸~国民栄誉賞受賞[編集]

しかし、千代の富士にとって本当の黄金時代は30代に入ってからで、両国国技館のこけら落としとなった1985年1月場所は全勝優勝を果たして幸先良いスタートを切る。5月場所から廻しの色が青から「黒」に変わり、この年には史上3人目となる年間80勝を達成、3年ぶり2度目の年間最多勝にも輝いた。1986年1月場所に天敵・隆の里が引退し、同年3月場所から7月場所までの番付は千代の富士のみ一人横綱となる(7月場所後に北尾が横綱昇進し一人横綱は3場所で解消)も、1986年5月場所から1987年1月場所までは5連覇を達成した(1986年も2年連続3度目の年間最多勝となるが、これが自身最後の同受賞)。

1987年前半はわずかに崩れたことで千代の富士時代は終わりに近づいたとの声が高まり、「次の時代を担う力士は誰か」というアンケートまで実施された。しかしその声を打ち消すかのように、1988年5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝を記録するなど、他を寄せ付けない強さで1980年代後半から平成初期にかけての「千代の富士時代」を築き上げた。53連勝で止まった1988年11月場所千秋楽(対大乃国戦)が奇しくも昭和最後の取組となる。53連勝は昭和以降の記録としては2014年1月場所現在、双葉山(69連勝)、白鵬(63連勝)に次いで歴代3位。

1989年1月場所も優勝候補筆頭だったが、前場所に連勝記録が途切れて緊張感がなくなったか雑な相撲が目立ち、8日目に寺尾に敗れて以降は優勝争いから後退、11勝4敗に終わる。4年4ヶ月ぶりに西正横綱として登場した同年3月場所は初日から他を寄せ付けない強さで、14日目に大乃国を破って優勝を決めたが、この一番で左肩を再び脱臼したことで千秋楽が不戦敗となり、表彰式では左肩にテーピングを巻いて登場、右手のみで賜杯を手にした。[7]

1989年6月には、同年2月に誕生したばかりの三女をSIDSで亡くす不幸に見舞われる。千代の富士の家族や自身も精神的なショックが大きく、相撲は取れないのではないかと思われた程だったが、直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、12勝3敗の成績ながらも千秋楽の優勝決定戦では、奇しくも同部屋の弟弟子だった横綱北勝海を下して、奇跡の優勝を果たした。同年9月場所には通算勝ち星の新記録を達成し、同年9月28日に大相撲で初となる「国民栄誉賞」の受賞が決定した。この日は先代九重(千代の山)の13回忌が行われた日でもあり、千代の富士は「苦労をかけた師匠に良い報告ができます」と言った。協会は一代年寄「千代の富士」を満場一致で承認するが、本人は九重とも相談のうえで辞退している。[8]

1000勝到達~現役引退[編集]

1990年1月場所には優勝回数を30と大台に乗せた。同年3月場所の7日目には花ノ国戦に勝利して前人未踏だった通算1000勝の大記録を達成した[9]。しかし、同年5月場所と7月場所は旭富士に優勝を奪われ、旭富士の横綱昇進の引き立て役になった。さらに夏巡業で左足を痛めて同年9月場所を全休、35歳という年齢から引退を囁かれたが、同年11月場所に復帰して4横綱が存在する中で14日目に31回目の優勝を決め、同時に幕内通算804勝目を上げて北の湖と並んで史上1位タイとして貫禄を見せ付けた。

1991年1月場所初日に幕内通算805勝目を挙げ、当時の大相撲史上単独1位(現在は史上2位)の記録を達成したが、翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休した。復帰場所となった1991年5月場所は初日に、当時新鋭だった貴花田(のち貴乃花)と対戦するが、まわしが取れず頭をつけられて寄り切りで敗れた。この時は再燃した引退説を否定するものの、翌日の板井戦は勝利したものの納得いく相撲とは程遠く、「もう1敗したら引退する」との決意を固めて翌日の貴闘力戦に挑んで敗戦。取組後に記者会見を開き、気力・体力の限界として現役引退を表明[10]、「小さな大横綱」として歴史に名を刻んだ。引退と同時に、陣幕親方(元前頭1・嶋錦)と自身が所有していた年寄・八角を名跡交換したため、年寄・陣幕を襲名し九重部屋の部屋付きの親方となった。

千代の富士の引退相撲・断髪式は1992年1月場所後に行われた。

引退後[編集]

1992年4月に師匠の九重(元横綱・北の富士)と名跡交換し、九重部屋を継承した。しかし、まもなく陣幕(先代九重)と対立し絶縁する[11]1993年10月に弟弟子の八角(元横綱・北勝海)が九重部屋から独立し八角部屋を創設。この際、陣幕を含む部屋付の年寄全員が同部屋に移籍する事態となった。さらに、施設も旧九重のものを継承し、九重の方が部屋を追い出される形となった[12]。このため、九重はやむなく自宅を改装して部屋を新設した。現在の九重部屋は「大横綱・千代の富士が師匠の相撲部屋」という色を前面に打ち出した部屋になっている[13]

2000年から2002年の3月までエアガンを至近距離から打つなどの陰湿ないじめが自身の部屋で兄弟子たちから行われており、被害者の若い力士(四股名=河内)とその父親からいじめを行った千代天山と共に訴えられていたが、2003年の5月に謝罪することを条件に民事裁判で和解し、告訴は取り下げとなった[14]。河内(2002年の3月に脱走して廃業)は苦境を九重に訴えたが、九重は取り合おうとしなかったとのこと。

引退後、2010年5月場所まで毎場所に渡って中日新聞に「一刀両断」と題した相撲解説コラムを連載していた(系列紙の東京新聞には「ウルフの目」というタイトルで掲載)。注目した取組や力士に対する独自の解説、相撲界への提言、優勝力士の予想など幅広く執筆していた。優勝力士予想については千秋楽当日でも当たらない場合があった。しかし、親方業の傍ら執筆しているために自分の部屋に所属する力士の情報なども詳細に語られ、新聞の相撲担当記者が書いた記事とは違った魅力がある。近年は力士の稽古不足、下半身の強化不足に警鐘を鳴らし続けた。

日本相撲協会では、1994年武蔵川と揃って役員待遇に昇格し、審判部副部長を務めていたが、評議員が少ない高砂一門に所属しており、さらに一門内でも外様出身[15]であるため、理事に立候補することが出来ずにいた。また、1998年に弟弟子の八角が格上の監事に就任したり[16]審判部長は理事が担当するため、古くから審判部副部長職にあるにも関わらず、二子山押尾川放駒と3代続いて大関止まりの理事が九重を抑えて審判部長に就任していたことから、「副部長を務めている」というよりも「部長に昇進できずにいる」という感が漂っていた。

しかし、2007年半ばより始まる朝青龍のトラブルや時津風部屋力士暴行死事件で角界が大揺れの中、一門代表の理事だった高砂が朝青龍の師匠として責任を問われたことにより2008年2月からようやく理事に就任し、広報部長・指導普及部長を務めた。審判部の職から離れたことでNHKの大相撲中継の解説者として登場することが可能となり、2008年3月場所8日目には15年ぶりに正面解説席で幕内取組の解説を務めた。また、直後の5月場所から東京場所限定でファンサービスの一環として、親方衆による握手会を開催して先着100名に直筆サイン色紙をプレゼントした。その後は日替わりで玉ノ井高田川とともに日本相撲協会のキャラクターグッズを先着100名にプレゼントをした。

2010年1月26日、愛弟子でこの時に引退したばかりの佐ノ山(元・千代大海)から、「森田一義アワー 笑っていいとも!」のテレフォンショッキングに出演依頼を受け、同番組に初登場した。金髪剃りこみ姿で入門を直訴してきた佐ノ山のエピソードや、前述の飛行機に乗りたいがために入門した逸話など披露した。翌日のゲストには綾小路きみまろ漫談家)を紹介した。

その直後の理事選挙には、高砂一門から立候補して当選を果たし、新弟子検査担当・ドーピング委員長を兼任する審判部長に就任した。理事長が放駒に代わった後の体制では巡業部長を務めている。2010年9月場所7日目に正面解説席で解説を務め、この日に自身の連勝記録(53連勝)を超えた白鵬を支度部屋で祝福した。

2012年の理事改選で再選するも、最下位当選であった。しかし、直後の改選理事による理事会において、貴乃花とともに北の湖の理事長就任に尽力したことから、論功行賞により2月の職掌任命において、事実上のナンバー2である事業部長に就任した。9月に理事が辞任したことを受けて、総合企画部長と監察委員長も兼任。

2014年1月場所は北の湖が腸閉塞のため初日から7日目までを休場する中で理事長代行を務める運びとなり、協会挨拶も担当した。[17]挨拶として「横綱日馬富士が休場致し、遺憾に存じます」と謝罪した。[18]

2014年の理事改選では最下位となる5票しか獲得できず、11人の候補者中唯一の落選となった。現職の事業部長の落選は史上初であったが、理事としての九重の悪評は「豪傑すぎる言動」として常時指摘されており、件の理事選で高砂一門が八角を第1候補に擁立していたことから驚きをもって迎えられることはなかった[19]。同年4月の職務分担では委員に降格。友綱(元関脇・魁輝)のように前期に理事を務めた年寄が次の職務分担で委員に降格する例が過去にも存在するが、前期の年寄序列と現役時代の実績を考えれば左遷や冷遇と呼べるものがあった。[20]育成面では前述の千代大海の他に千代天山を育てている。大鵬以降の一代年寄で大関力士を育てた親方は九重ただ一人だけである。

力士として[編集]

史上2位の記録である通算31回の幕内最高優勝を果たしたほか、共に歴代2位の通算勝利数(1045勝)と幕内勝利数(807勝)、1988年5月場所7日目から同年11月場所14日目までの53連勝取り直し制度導入後歴代3位)など、数々の栄光を手にした史上有数・昭和最後の大横綱である。小兵ながら速攻と上手投げを得意にして一時代を築いた。 体格で上回る力士との差を埋めるために土俵上では凄まじい集中力を見せ、本場所で負けた相手に対しては相手の部屋に出向いて稽古、攻略法を身につける努力家。廻しを緩まぬようにきっちり巻くことにより、四つに組み相手の指が廻しにかかっても腰の一振りで払いのける、など体格差を感じさせない取り口で、全盛期に見せた相手の頭を押さえるような独特の上手投げは、「ウルフスペシャル」としてつとに知られた。鍛え抜かれた腕力を生かした廻しの引きつけには脅威的なものがあり、重い相手も腰を浮かせた。また、体の芯が異常に強く、常に軸がぶれずに堂々とした相撲を取った。

横綱土俵入りは四股も美しく、全体として気合の入った土俵入りでかなり上手い。重い横綱を付けた状態で上げた足が頭より高い位置に達するのは、千代の富士のほかには例がない。また取組前の入場時には両手で下がりを持ち、制限時間いっぱいになった時には、頭を下げて廻しを右手で叩いてピンク色のタオルを受け取り、必ず左右の腋の下の後に顔面の汗を拭くなど、几帳面に見えるほど礼儀作法を重んじている。

立合いの踏み込みの鋭さは歴代屈指のもので、短距離走のスタートにも例えられた。この鋭い立合いがすぐに得意の左廻しを奪うこと、重みに優る相手にも当たり負けしない強さを可能にしていた。休場明けの場所に強いことも特徴で、実に6度も休場明けの場所で優勝している。特に30代に入ってからが顕著で、休場の度に限界が囁かれながらも翌場所に優勝して不死鳥とも言われた。その強さもさることながら、均整のとれた筋肉質の体格(183cm・126kg、体脂肪率10.3%)、逞しさ漂う風貌でも人気を集めた。幕内から大関、横綱へ一気に昇進してからは絶大な人気を誇った。

エピソード[編集]

入門前[編集]

  • 岳父は玄洋社記念館館長、玄洋ビル社長を務めた進藤龍生。夫人は進藤喜平太(第2代・第5代玄洋社社長)の曾孫で、進藤一馬(第十代玄洋社社長、元福岡市長)の姪孫。次女はファッションモデル秋元梢で、他に息子と娘(梢の兄と姉)が1人ずついる。
  • 出身地や卒業した小学校とも千代の山と同じで、これは非常に珍しいケースで他に例がない。故郷の福島町には横綱千代の山・千代の富士記念館があり、千代の山と千代の富士の土俵入りの様子をモデルにした銅像がある。

横綱昇進前[編集]

  • 晩成型で最年少記録の類とは無縁であるが、19歳で新十両、20歳で新入幕と出世は早く、新入幕からしばらくは「幕内経験をもつ最若年者」の地位を保っていた。
  • 1978年ごろ、元恋人が借金を抱えていたこと、梶原一騎らの誘いを受けていたことからプロレス転向を考えていた。だがしかし、プロレスでも肩を壊せば脱臼だけでなく左腕切断の危険性もあり、これは思いとどまった。
  • 「入幕後、幕下まで陥落」「三役昇進後、十両まで陥落」という経験を併せて持つことは、後の大横綱としては極めて異例。
  • 尊敬する力士として貴ノ花を名を挙げている。新入幕後に十両から幕下で低迷してしまいやけになって煙草の本数が増え、一時は1日3箱も吸うヘビースモーカー[21]となってしまったが、貴ノ花から禁煙を勧められたことに「尊敬していた大関がそんなに自分の事を心配してくれているのか」と感激し、50万円のダンヒルの金のライターを隅田川に投げ捨て、さらに飴玉を使って禁煙を遂げた。これがきっかけで体重が増え、後の横綱昇進に繋がる(貴ノ花を参照)。[22]
  • 脱臼癖に苦しめられてきた千代の富士であったが、一方では脱臼が大成の一助になったという見方もある。玉ノ海は「若い頃は軽量のくせに相手を引っ張り込んで、天井を向いて上手投げにいく『身の程知らずの相撲取り』だった」と語っている。そのような大きな相撲から前廻しを引き、頭をつける体格にマッチした取り口に変わっていったきっかけは、少しでも脱臼のリスクを軽減するためだった。この相撲が完全に身につき、大関・横綱に進むことが出来たことから、九重は「脱臼が千代の富士という大横綱を作った。前のままの相撲なら陸奥嵐のような存在で終わったかも知れない」と語っている。千代の富士自身も「もう少し早く、この相撲の取り方に気付いていたら、もっと早く横綱になれていた」と語っている。

対戦相手への対策[編集]

  • 平幕時代苦手にしていた力士が琴風で、鋭い当たりと一気の出足に苦しんで初顔合わせから5連敗したが、出稽古で克服して6度目の対戦では初勝利を挙げ、その後は逆にカモにする(通算で千代の富士の22勝6敗)。ある日、佐渡ヶ嶽部屋での三番稽古の際に琴風の右指が大きく裂けるケガをしているが、琴風本人は裂けた瞬間全く気がつかなかったという。横綱昇進して3年ほど経つまでは琴風との三番稽古を度々行い、これが双方の地力強化につながった。
  • 隆の里については千代の富士曰く「裏の裏をかかれる」。大関から横綱にかけて8連敗するほど苦手にしていた。通算でも13勝18敗(十両1勝2敗、幕内12勝16敗)と負け越しており、隆の里に負けたことで優勝や全勝を逃した場所が多かった。特に1983年7月場所から1984年1月場所にかけて4場所連続で勝った方が優勝という千秋楽相星決戦を行い1勝3敗を記録、この間に隆の里は横綱に昇進し、新横綱だった9月場所では全勝決戦を制して15日制で唯一の新横綱全勝優勝という偉業を成し遂げている。
  • 小錦についても上述の1984年9月場所の初対戦では完敗している。当時不振が続いていた千代の富士は目が覚めたかのように、場所後に「小錦対策」として高砂部屋に出稽古を開始し、翌場所から対小錦戦で8連勝を記録(通算でも20勝9敗)。
  • 双羽黒についてもやや苦手にしており、幕内取組成績は千代の富士の8勝6敗(ほか優勝決定戦で2勝)。1987年11月場所後、双羽黒は師匠・立浪親方(元関脇・羽黒山)らとの衝突の末24歳の若さで廃業したが、千代の富士は現役引退後の著書で「もし双羽黒が廃業せずに現役を続け、さらに力を付けて来ていたら、その後の私の相撲人生は全く違っていたかも」と記していた。
  • このように、本場所で負けた相手に対して出稽古や巡業で相手の攻略法を見つけるほか、横綱になってからは若い力士に率先して稽古をつけていた。特に前場所負けた相手に対して巡業では積極的に稽古に狩り出した(安芸乃島琴錦両国など)。
  • しかし、横綱昇進後には同じ力士に対して滅多に連敗しないと言われたが、隆の里以外には小錦に1987年1月場所 - 5月場所まで3連敗、小錦が初優勝した1989年11月場所 - 1990年5月場所まで4連敗している。
  • 1年通して不振だった1984年には朝潮には1月場所から4連敗。北天佑には1月場所から5連敗(不戦敗を含む)している。全盛期でもカモにしていた大乃国や若嶋津益荒雄に2連敗したことがある。さらに平幕だった安芸ノ島(当時)には1990年3月と5月に連敗し2場所連続で同力士に金星を配給(結局対安芸ノ島戦は千代の富士の7勝4敗で、4敗は全て金星)をしているなど、歯車が狂った時は意外な脆さを見せる所もあった。

弟弟子・北勝海[編集]

  • 8歳年下だった弟弟子・北勝海信芳との猛稽古は、毎回壮絶な物であったという。その甲斐もあって北勝海は、1987年7月場所に第61代横綱へ昇進を果たし、幕内優勝を合計8回も達成した。さらに1989年7月場所では、千代の富士と北勝海で史上初の同部屋横綱優勝決定戦で対戦、千代の富士が優勝(しかし優勝決定戦後は二人共に「今後は二度とやりたくない」とコメントしていた)。北勝海本人は現役引退後「大将(千代の富士)がいたおかげで自分も横綱になれたと思う」と語っており、千代の富士の指導力・影響が如何に大きかったかを物語っている。事実、千代の富士が横綱昇進を決めた時は部屋の関取が千代の富士だけだったが、その後も北勝海を筆頭に、孝乃富士巴富士が関取(共に最高位は小結)に昇進している。当の千代の富士本人も「北勝海は同部屋ながらも自身にとって非常に良いライバルだった。もしも稽古熱心な北勝海がいなかったら、自分の力士寿命はもっと短かったかもしれない」と語っている。
  • 北勝海の横綱昇進に伴い、同部屋に横綱が2人となったため、力士が2人をどう区別して呼ぼうかと迷った際、北勝海の提言で千代の富士を「大将」と呼ぶようにさせた話も残っているが、横綱となった身の者が先輩横綱という意味のみならず「ワンランク上の横綱」と見ていた存在感の大きさを現すエピソードである。
  • 2002年2月に行われた、元師匠の第52代横綱・北の富士勝昭の還暦土俵入りでは、太刀持ちを千代の富士、露払いを北勝海が務めた(但し、当時北の富士は日本相撲協会を退職したため両国国技館が使えず、代わりにホテルイースト21東京を借りて披露した)。

記録[編集]

  • 大乃国に敗れた「53連勝でストップ」の一番は連勝記録の方へ話題が行きがちのためあまり語られないが、実は「年間3回の全勝優勝」「3場所連続15戦全勝優勝」という史上初の快挙を逸する一番でもあった(2010年3月場所から7月場所にかけて、白鵬が共に達成した)。また、50連勝以上達成した力士のうちで横綱に敗れて連勝記録が止まったケースは千代の富士が唯一(双葉山、白鵬は平幕力士に敗れている)。
  • 引退時の通算勝利数1045勝と幕内勝利数807勝は、共に当時史上1位の記録だった。それから19年近く経過の後、魁皇が2010年1月場所3日目に幕内勝ち星を808勝、2011年7月場所5日目には通算勝利数を1046勝とそれぞれ更新されたが、その都度九重は直接「おめでとう」と祝福の言葉を掛けて握手を交わし、「(記録を)抜かれた寂しさは全然ない。これからの力士に励みになるようにどんどん記録を作って欲しい」とコメントしていた。なお魁皇は1047勝、幕内879勝まで延ばしたが、2011年7月場所10日目限りで現役引退。九重は魁皇の引退に「日々こつこつと踏ん張った成果が(通算)1047もの白星に繋がった。本人は完全燃焼以上だろう。(通算最多勝の)記録を抜いたと同時に心の芯や張りがなくなったのかも。長い間本当にご苦労様だった」とねぎらっていた。
  • 初日から8連勝の中日勝ち越し回数は、通算25回。平成25年3月場所で白鵬に抜かれるまで最多。
  • 年間最多勝の受賞は3回と、優勝20回以上の大横綱の中ではかなり少ない。これは千代の富士の横綱昇進後の休場がほぼ年に1場所程度のペースで均等に散らばっているためであり、現に休場を除いた勝率ではその年1位という年度が多く存在する。同様の理由で連続勝ち越し場所数、連続二桁勝利場所数、任意の連続場所(10場所、12場所など)での勝ち星記録などでも実力に比例する記録は残していない。

現役引退[編集]

  • 横綱昇進が決まった日の夜、九重は千代の富士を自分の部屋に呼び、いきなり「ウルフ、辞めるときはスパッと潔く辞めような。ちんたらチンタラと横綱を務めるんじゃねえぞ」と言った。祝儀がもらえるのかと思っていた千代の富士はこの言葉に面食らったという。しかし、千代の富士の引退は正にこの言葉を守った潔いものとなった。これは、栃木山から言われた言葉を栃錦が千代の山に語り、千代の山から北の富士を経て、千代の富士へ受け継がれたものと言われている。
  • 1991年5月場所が始まる前の最大の注目は、3月場所に幕内下位ながら終盤まで優勝争いに加わった貴花田と千代の富士の初対戦であった。何日目に対戦するかが話題となる中で、誰も予想しなかった初日に取組が組まれた。これは当時審判部長だった九重が「勝ち負けが全くついていない、まっさらな状態で対戦させたい」との思いからであったが、千代の富士はこの取組に敗れ、その2日後に引退を表明。ある意味、自らの師匠が招いた引退とも言える。貴花田に敗れた時点で実は千代の富士は引退も頭をちかつかせる程だったが、そのことを伝えに九重のもとに行ったところ、九重は千代の富士を見るなり「先に廻しを取られたからなあ。まあ明日がんばれよ」と言った。このために気勢を削がれた千代の富士は引退の意思を伝えそびれてしまい、引退表明が3日目の貴闘力戦に敗れた後になったという。その千代の富士からついに引退の決意を伝えられた時には、千代の富士も涙したが九重も思わず泣いたという。
  • 千代の富士が引退した1991年5月14日は午前中に信楽高原鐵道列車衝突事故が発生し、NHKでは断続的に事故に関するニュースを放送していた。しかし、夜になって千代の富士が引退会見を行うことになったために急遽ニュースを中断し、会見の生中継を行った。この際に最初は笑みを交えて「皆様、長い間応援して下さり、有り難う御座いました。月並みの引退ですが…」と語ったが、その後言葉に詰まりながら目を赤くして、「体力の限界!…気力もなくなり、引退することになりました…以上です。」と振り絞るように言った。ちょうど20年前の1971年5月14日には、大鵬も当時新鋭だった貴ノ花に敗れて引退を表明しており、大横綱と二子山部屋、藤島部屋が絡んでいる花田家には因縁がある。ちなみに、千代の富士が幕内初優勝を果たした1981年1月場所は、奇しくも貴ノ花が現役引退を表明した場所でもあった。
  • 同年7月場所前、千代の富士改め陣幕は自ら土俵に立って若い力士に稽古をつけたが、あまりの充実ぶりに九重から「現役以上じゃないか。引退させるのは早かったな」と言われたほか、周囲からは「史上最強の新米親方」と評した人もいた。それから21世紀に入り、当時千代の富士の持つ通算勝星及び幕内勝星を塗り替えた魁皇も「余力を残して辞められた九重親方(千代の富士)と違って、こっちは必死こいて辿り着いた記録なので。とても比較にはならないし、申し訳ない」と謙遜するコメントを述べている。
  • 引退相撲が行われた1992年2月1日はTBSで放送され、最後の横綱土俵入りでは露払いに引退直後の旭富士、太刀持ちには弟弟子の北勝海の両横綱を従えた。大銀杏を切り落とす瞬間には大粒の涙を流していた。
  • ロンドンにある蝋人形館、マダム・タッソーでは最近まで千代の富士の蝋人形が置かれていた。ウルフと呼ばれていたことなどが記されていた。現在はデックス東京ビーチ内にあるマダム・タッソー東京で展示されている。

ライバル不在[編集]

千代の富士が優勝31回・53連勝・通算1045勝という大記録を達成した背景として、勿論本人の実力もさることながら、同世代のライバル力士が次々脱落していったことが関係している。

  • 第55代横綱・北の湖と第56代横綱・2代若乃花は、1981年9月場所に千代の富士が横綱昇進を果たした頃には既に全盛期を過ぎており、同年9月場所以降の北の湖の幕内優勝は僅か2回、2代若乃花の幕内優勝はゼロに終わった。
  • 第54代横綱・輪島は千代の富士が大関に昇進した場所に引退してしまった。
  • 千代の富士の唯一の「天敵」だった第59代横綱・隆の里は、横綱昇進は30歳と遅く、又1984年1月場所で4回目の幕内優勝を最後に、それ以降度重なる怪我に苦しみ急速に衰えた。さらに隆の里の現役最後の対戦相手は、奇しくも千代の富士の弟弟子・保志(のち第61代横綱・北勝海)で、1986年1月場所初日に肩透かしで敗れた後、横綱在位15場所の短命で引退を表明。
  • 第60代横綱・双羽黒は師匠らと大喧嘩の末自ら部屋を飛び出してしまい、24歳の若さながら優勝無しのまま廃業。横綱在位は8場所、幕内在位も僅か20場所のみで、千代の富士の対抗馬を務める機会を十分に持っていたとは言い難い。
  • 第62代横綱・大乃国は怪我や病気、太りすぎに悩まされて横綱23場所中に6回の全休を含めて105休を記録し、優勝2回に留まり、さらに皆勤負け越しまで経験するなど極度のあんこ型と合わせて千代の富士と好対照の横綱生活に甘んじた。
  • 第63代横綱・旭富士は千代の富士との幕内対戦成績が6勝30敗と大の苦手で、千代の富士の敗戦がきっかけで優勝を逃すケースが多かった。
  • 2歳年下の琴風は大関在位22場所ながら、平幕の地位に下がった1985年11月場所中膝のケガの回復が思わしくないため、28歳の若さで引退した。
  • 他大関の若嶋津・朝潮・北天佑らも、千代の富士との対戦成績では大きく負け越し、1985年以降は全く歯が立たなかった。(若嶋津は1985年3月から5月場所にかけて千代の富士に連勝、以後渡り合える事を期待されたが、その後、体調を崩し、急速に劣化してしまった。北天佑は1984年11月場所まではほぼ互角に戦っていたが、1985年以降は全くといっていいほど勝てなくなった。)
  • 大関・小錦は優勝3回を記録したものの、初優勝以降の賜杯は千代の富士引退後のものであり、300Kg近くの重過ぎる体重や右膝の致命傷などが原因で、当時最多の大関角番7回(後に栃東が更新、現在は千代大海の14回が最多)を喫するなど低迷を続けていた。

このように、大関・横綱に限っても脱落したライバルは例に事欠かない。

その他[編集]

  • 現役時代、八百長相撲疑惑が持たれた力士の一人ではあるが、板井圭介高鐵山孝之進といった八百長の告発者たちは、『実力があってガチンコで戦っても勝ち目が無いと相手に思わせられたからこそ、相手の力士も礼金が貰える八百長に応じたということ』だと言っていた。板井圭介はさらに「ガチンコで唯一かなわないと思ったのは大将(千代の富士)だけ」「八百長が無くてもガチンコでは大将が一番強かった」と強さを認めている。ちなみに板井は千代の富士と16回対戦して1度も勝てず、千代の富士が現役最後の白星を挙げた相手でもある。あまりの存在感のためか、現役最後の取り組みの際には、横綱在位を59年と間違ってアナウンスされた。
  • 角界屈指のゴルフ好きで知られるが、元々は趣味としていなかった。休みの日は麻雀ファミリーコンピュータに夢中の彼に対して、九重が「健康的な休みを取らないとダメだ」と無理やりゴルフに連れて行ったことがきっかけだった。しかし初めてのゴルフのハーフで40台を出し、ワンラウンドを86で回って、九重のスコアより良かったことに「いやぁ、ゴルフっていいですねぇ!」とすっかり上機嫌になって九重のメンツは丸つぶれ、以後ゴルフにのめり込んだ。
  • ゴルフの他にもジグソーパズルを趣味としていた時期もあった。1986年4月から8カ月をかけて5146ピースもある古い世界地図が描かれたパズルを完成させたという。これが良い気分転換となってか千代の富士の土俵人生は絶頂期に突入し、特に1987年1月場所の辺りで最後の1ピースをはめて完成させた頃の相撲を見た当時の春日野理事長は「この相撲なら2、3年は大丈夫だな」と語ったそうだが、実際に引退に至ったのは4年後の1991年5月場所であった。[23]
  • 横綱として全盛期を極めていた当時、テレビ番組、特に生放送の番組に出演することは稀であったが「夜のヒットスタジオDELUXE」(フジテレビ)には1985 - 1987年まで3回、特別ゲストとして番組オープニングからエンディングまで出演している。これは当時の同番組司会者であり、千代の富士・九重との親交がある芳村真理の誘いを受けての出演だったと言われている。[24][25]
  • 父親が戦時中に広島の基地に所属して被爆しており、本人は被爆2世である。[26]

主な成績[編集]

通算成績[編集]

  • 通算成績:1045勝437敗159休(通算勝ち星は歴代2位) 勝率.705
  • 幕内成績:807勝253敗144休(幕内勝ち星は歴代2位) 勝率.761
  • 横綱成績:625勝112敗137休(横綱勝ち星は歴代2位) 勝率.848
  • 通算在位:125場所
  • 幕内在位:81場所(引退当時歴代3位、現在10位)
  • 横綱在位:59場所(北の湖に次いで歴代2位)
  • 大関在位:3場所
  • 三役在位:5場所(関脇2場所、小結3場所)
  • 年間最多勝:3回
    • 1982年(74勝16敗)、1985年(80勝10敗)、1986年(68勝10敗12休)
  • 連続6場所勝利:83勝(1988年5月場所~1989年3月場所)
  • 通算幕内連続勝ち越し:11場所(1986年5月場所~1988年1月場所)
  • 幕内連続2桁勝利:9場所(1981年11月場所~1983年3月場所、1984年9月場所~1986年1月場所)
  • 幕内連続12勝以上勝利:5場所(1981年11月場所~1982年7月場所、1986年5月場所~1987年1月場所)
    • 通算連続勝ち越し・幕内連続2桁勝利・連続12勝以上勝利の記録については、大関及び横綱昇進を果たした1981年以降、年間全て皆勤した年が1982年と1985年の2年間に留まったため、歴代ベスト10には入っていない。しかし、初優勝を果たした1981年1月場所以降、大関・横綱時代に皆勤した場所で1桁勝利に終わった場所は皆無である。

相星決戦[編集]

相星決戦出場経験が通算9回あり、この回数は史上1位である。対戦内訳は北の湖:3回、隆の里:4回、北尾(後の双羽黒):2回である。特に隆の里とは1983年7月 - 1984年1月まで4場所連続相星決戦による千秋楽結びの対戦となった。同じ対戦カードによる相星決戦が連続することは、他には輪島 - 北の湖(1976年11月 - 1977年1月)、北の湖 - 千代の富士(1981年5月 - 7月)、 - 貴乃花(1995年3月 - 5月)、朝青龍 - 白鵬(2008年1月 - 3月)があるが、いずれも2場所連続にとどまっており、4場所連続で相星決戦が実現したケースは、千代の富士 - 隆の里以外過去に例がない。

千代の富士の相星決戦出場一覧
場所 対戦相手(地位) 勝敗 備考
1981年5月場所 北の湖(横綱) 千秋楽1敗同士相星決戦
1981年7月場所 北の湖(横綱) 千秋楽1敗同士相星決戦
1982年1月場所 北の湖(横綱) 千秋楽2敗同士相星決戦
1983年7月場所 隆の里(大関) 千秋楽1敗同士相星決戦
1983年9月場所 隆の里(横綱) 千秋楽全勝同士相星決戦
1983年11月場所 隆の里(横綱) 千秋楽1敗同士相星決戦
1984年1月場所 隆の里(横綱) 千秋楽2敗同士相星決戦
1986年5月場所 北尾(大関) 千秋楽2敗同士相星決戦
北尾は横綱昇進時に「双羽黒」と改名
1986年11月場所 双羽黒(横綱) 千秋楽2敗同士相星決戦

連勝記録 [編集]

千代の富士の最多連勝記録は、53連勝である。(1988年5月場所7日目~1988年11月場所14日目、昭和以降では双葉山、白鵬に次いで歴代3位、大相撲史上では歴代6位)
下記に、千代の富士のその他の連勝記録を記す。(20連勝以上対象)

回数 連勝数 期間 止めた力士 備考
1 24 1982年11月場所2日目~1983年1月場所10日目 朝潮
2 20 1983年11月場所2日目~1984年1月場所6日目 朝潮
3 22 1984年11月場所13日目~1985年3月場所4日目 鳳凰 1985年1月場所全勝優勝
4 20 1985年11月場所5日目~1986年1月場所9日日 旭富士
5 21 1987年11月場所初日~1988年1月場所6日目 逆鉾 1987年11月場所全勝優勝
6 53 1988年5月場所7日目~1988年11月場所14日目 大乃国 1988年7月場所~9月場所2場所連続全勝優勝
7 20 1989年9月場所初日~1989年11月場所5日目 両国 1989年9月場所全勝優勝
  • 上記の通り、20連勝以上7回、30連勝以上1回記録している。

各段優勝[編集]

  • 幕内最高優勝:31回(大鵬に次いで歴代2位)

(1981年 1月場所、7月場所、11月場所
1982年 3月場所、5月場所、7月場所、11月場所
1983年 3月場所、11月場所
1984年 11月場所
1985年 1月場所、5月場所、9月場所、11月場所
1986年 1月場所、5月場所、7月場所、9月場所、11月場所
1987年 1月場所、7月場所、11月場所
1988年 5月場所、7月場所、9月場所、11月場所
1989年 3月場所、7月場所、9月場所
1990年 1月場所、11月場所)

    • 全勝優勝:7回(北の湖と並んで歴代3位タイ)
    • 連覇:5連覇(1986年5月場所 - 1987年1月場所)
    • 場所別優勝回数(東京場所:13回(蔵前国技館:2回、両国国技館:11回)、地方場所:18回)
      • 初場所:5回
      • 春場所:3回
      • 夏場所:4回
      • 名古屋場所:6回
      • 秋場所:4回
      • 九州場所:9回(1981年 - 1988年まで8連覇)
  • 幕下優勝:1回(1974年9月場所)

優勝決定戦に出場した6回全てで勝利して優勝している。北の湖との1回、北尾・双羽黒との2回は千秋楽の本割に負けた後の再戦で、土壇場での強さを見せつけた。しかし双羽黒の強さは認めており、不祥事による廃業に関しては残念がっていた。決定戦での勝率ならびに決定戦での優勝回数はそれぞれ最高記録保持者。弟弟子の北勝海との優勝決定戦の経験もある。

優勝回数31回、全勝優勝7回はそれぞれ最多を誇る大鵬に次ぐ記録で、53連勝も昭和以降では双葉山、白鵬に次ぐ第3位の記録である。また連続優勝5場所も歴代3位タイと堂々たる記録である。参考ながら九州で行われる11月場所では、1981年から1988年までの8連覇を含め9度優勝している。夫人が九州出身であるため、「九州場所は地元のようなもの」とも言われた。また、両国国技館が開館した1985年1月場所から1987年1月場所まで、同所で行われる本場所(毎年1月、5月、9月)に7連覇している。

三賞・金星[編集]

  • 三賞:7回
    • 殊勲賞:1回(1981年1月場所)
    • 敢闘賞:1回(1978年5月場所)
    • 技能賞:5回(1980年3月場所、1980年7月場所、1980年9月場所、1980年11月場所、1981年1月場所)
  • 金星:3個(三重ノ海2個、若乃花幹士1個)

場所別成績[編集]

  

千代の富士貢
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1970年
(昭和45年)
x x x x (前相撲) 東 序ノ口 #10
5–2
 
1971年
(昭和46年)
東 序二段 #57
4–3
 
西 序二段 #38
4–3
 
西 序二段 #19
4–3
 
西 序二段 #5
3–4
 
西 序二段 #25
5–2
 
東 三段目 #61
休場
0–0–7
1972年
(昭和47年)
西 序二段 #19
5–2
 
西 三段目 #60
5–2
 
東 三段目 #31
4–3
 
西 三段目 #20
5–2
 
東 幕下 #59
3–4
 
東 三段目 #8
4–3
 
1973年
(昭和48年)
東 幕下 #59
4–3
 
東 幕下 #51
4–3
 
東 幕下 #45
2–2–3
 
西 三段目 #2
6–1
 
東 幕下 #31
5–2
 
西 幕下 #18
3–4
 
1974年
(昭和49年)
西 幕下 #25
5–2
 
東 幕下 #15
4–3
 
東 幕下 #11
3–4
 
東 幕下 #20
5–2
 
東 幕下 #11
優勝
7–0[27]
東 十両 #12
9–6
 
1975年
(昭和50年)
西 十両 #4
6–9
 
西 十両 #8
8–7
 
西 十両 #6
9–6
 
東 十両 #2
9–6
 
東 前頭 #12
5–10
 
東 十両 #4
4–8–3
 
1976年
(昭和51年)
西 十両 #13
4–11
 
東 幕下 #7
5–2
 
西 幕下 #1
4–3
 
西 十両 #13
9–6
 
東 十両 #10
8–7
 
東 十両 #6
5–10
 
1977年
(昭和52年)
東 十両 #11
8–7
 
西 十両 #10
10–5
 
東 十両 #2
5–10
 
西 十両 #9
8–7
 
東 十両 #7
10–5
 
東 十両 #1
9–6
 
1978年
(昭和53年)
東 前頭 #12
8–7
 
東 前頭 #8
8–7
 
東 前頭 #5
9–6
西 小結
5–10
 
東 前頭 #4
4–11
 
西 前頭 #10
9–6
 
1979年
(昭和54年)
東 前頭 #4
5–10
 
西 前頭 #8
2–6–7[28]
 
西 十両 #2
9–4–2
 
西 前頭 #14
8–7
 
東 前頭 #10
8–7
 
東 前頭 #7
7–8
 
1980年
(昭和55年)
東 前頭 #8
8–7
 
東 前頭 #3
8–7
西 小結
6–9
 
西 前頭 #2
9–6
東 小結
10–5
東 関脇
11–4
1981年
(昭和56年)
東 関脇
14–1[29]
東 大関
11–4
 
東 大関
13–2
 
東 大関
14–1
 
西 横綱大関
1–2–12[30]
 
東 張出横綱
12–3[31]
 
1982年
(昭和57年)
東 横綱
12–3
 
西 横綱
13–2
 
東 横綱
13–2[31]
 
東 横綱
12–3
 
東 横綱
10–5
 
東 横綱
14–1
 
1983年
(昭和58年)
東 横綱
12–3
 
東 横綱
15–0
 
東 横綱
休場
0–0–15
東 横綱
13–2
 
東 横綱
14–1
 
西 横綱
14–1
 
1984年
(昭和59年)
東 横綱
12–3
 
西 横綱
4–4–7[32]
 
東 張出横綱
11–4
 
東 張出横綱
休場
0–0–15
東 張出横綱
10–5
 
西 横綱
14–1
 
1985年
(昭和60年)
東 横綱
15–0
 
東 横綱
11–4
 
東 横綱
14–1
 
東 横綱
11–4
 
東 横綱
15–0
 
東 横綱
14–1
 
1986年
(昭和61年)
東 横綱
13–2
 
東 横綱
1–2–12[33]
 
東 横綱
13–2
 
東 横綱
14–1[34]
 
東 横綱
14–1
 
東 横綱
13–2
 
1987年
(昭和62年)
東 横綱
12–3[35]
 
東 横綱
11–4
 
東 横綱
10–5
 
東 横綱
14–1
 
東 横綱
9–2–4[36]
 
東 張出横綱
15–0
 
1988年
(昭和63年)
東 横綱
12–3
 
東 横綱
休場
0–0–15
東 張出横綱
14–1
 
東 横綱
15–0
 
東 横綱
15–0
 
東 横綱
14–1
 
1989年
(平成元年)
東 横綱
11–4
 
西 横綱
14–1[37]
 
東 横綱
休場
0–0–15
東 張出横綱
12–3[38]
 
西 横綱
15–0
 
東 横綱
13–2
 
1990年
(平成2年)
東 横綱
14–1
 
東 横綱
10–5
 
西 横綱
13–2
 
東 横綱
12–3
 
東 横綱
休場
0–0–15
東 張出横綱
13–2
 
1991年
(平成3年)
東 横綱
2–1–12[39]
 
西 張出横綱
休場
0–0–15
西 張出横綱
引退
1–3–0
x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 十両・幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

主な力士との幕内対戦成績[編集]

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
寺尾常史 16 1 琴ヶ梅剛史 21 1  花ノ国明宏 10 0
北天佑勝彦 33 14 旭富士正也 30 6 巨砲丈士 37 5
栃乃和歌清隆 14 0 大乃国康 23 9 逆鉾伸重 27 3
小錦八十吉 20 9 霧島一博 12 2 太寿山忠明 21 3
安芸乃島勝巳 7 4 水戸泉政人 10 1 両国梶之助 11 3
板井圭介 16 0 陣岳隆 15 0 琴富士孝也 4 0
琴稲妻佳弘 3 0 隆三杉太一 6 0 三杉里公似 2 1
久島海啓太 2 0 春日富士晃大 2 0 小城ノ花昭和 1 0
琴錦功宗 2 1 朝潮太郎 31 15 琴風豪規 22 6
双羽黒光司 8 6 花乃湖健 10 2 佐田の海鴻嗣 19 1
出羽の花義貴 33 2 若瀬川剛充 5 0 益荒雄広生 5 2
多賀竜昇司 8 0 舛田山靖仁 12 5 麒麟児和春 20 6
青葉城幸雄 14 4 鷲羽山佳和 9 1 隆の里俊英 12 16
若嶋津六夫 25 3 富士櫻栄守 8 1 高見山大五郎 11 1
蔵玉錦敏正 8 1 播竜山孝晴 4 3 増位山太志郎 8 3
輪島大士 1 6 北の湖敏満 6 12 貴ノ花利彰 6 4
三重ノ海剛司 3 2 若乃花幹士 5 9 栃赤城雅男 7 8
金城興福 5 3 大錦一徹 8 2 魁輝薫秀 9 5
起利錦利郎 3 1 蔵間竜也 11 2 闘竜賢二 14 0
高望山大造 6 0 大徹忠晃 5 1 栃司哲史 7 1
貴花田光司 0 1 貴闘力忠茂 1 1

脚注[編集]

  1. ^ 当時、全日本空輸が所有していたフォッカーフレンドシップだったとされ、当時は福島町の町長でさえも搭乗したことがない乗り物だった。
  2. ^ 自著『負けてたまるか』では父が戦時中に広島で被爆していたことについて記述されており、肩の噛み合わせとの因果関係が示唆されている。
  3. ^ 別冊「グラフNHK」大相撲特集号1977年春場所(日本放送出版協会発行)の記事より。
  4. ^ ただし肩を徹底的に鍛えて筋肉で固めたことが脱臼しにくくする効果はあった反面、脱臼してしまうと元に戻すことが非常に難しくなってしまい、これを治せた人は元大関清國の伊勢ヶ浜親方1人だけだった。このため千代の富士が肩を脱臼すると伊勢ヶ濱親方がすぐに支度部屋に駆けつけていたほどだった。
  5. ^ 土俵入りの型は一門・部屋ごとに伝統があり、横綱個人の意思で選択できるというわけではない。
  6. ^ この結果、1984年11月場所終了時点で優勝回数は10回に到達したが、蔵前国技館で開催の東京場所の優勝は2回のみ(1981年1月場所・1982年5月場所)に終わっている。
  7. ^ この時は賜杯を受け取り損ねることがないように武蔵川親方(三重ノ海)が表彰式に付き添っていた。
  8. ^ このため、千代の富士を一代年寄に含めるかどうかは議論が分かれているが、大鵬は還暦土俵入りの際に千代の富士も含まれるとの見解を示した。
  9. ^ その20年後の2010年5月場所千秋楽に魁皇も史上2人目の通算1000勝を達成した。
  10. ^ 引退を表明した5月14日は、午前10時35分ごろに信楽高原鐵道列車衝突事故が発生していたため、マスコミテレビ局各社にとっては事故の報道と横綱引退報道が合わさる形となり、多忙をきわめた一日となった。
  11. ^ しかし、2002年には北の富士の還暦土俵入りを太刀持ちとして率先して参加するなど時間を経て関係は改善されたようである。
  12. ^ 旧九重→八角部屋の施設は北の富士が所有しているため。北の富士は相撲協会退職後も八角部屋最上階に居住している。
  13. ^ 三段目に昇進すると四股名が与えられるが、すべての力士に「千代~」と名付るなど。
  14. ^ 2008年2月29日号のFRIDAYより
  15. ^ 千代の山が出羽海部屋から独立した際に出羽一門を破門され、高砂一門入りしたことによる。
  16. ^ 八角が九重部屋から独立した際に部屋付の年寄が全員八角部屋に移籍したことも影響している。
  17. ^ [1] スポーツ報知 2014年1月9日20時44分
  18. ^ 【初場所】九重代行の初日協会あいさつに声援「ちよのふじー」 スポーツ報知 2014年1月12日20時18分
  19. ^ 九重親方、現職事業部長初の落選 nikkansports.com 2014年2月1日9時29分
  20. ^ 相撲協会の大横綱冷遇 東スポWeb 2014年04月22日
  21. ^ 石井代蔵『天下盗り狼~千代の富士 貢 ─ 九重三代風雲録~』(徳間書店)
  22. ^ 同じことを貴ノ花は栃赤城にも勧めたとされているが、栃赤城は「それならば幕内を維持しているほうがいい」と言って拒否したという。
  23. ^ 『相撲』2012年4月号95頁
  24. ^ そのため、彼女が司会を降板した1988年以降は1回も顔を出していない。
  25. ^ 特に初めて番組に顔を出したときには、アン・ルイス吉川晃司との過激なパフォーマンスを展開して物議を醸した回で、歌の最中に千代の富士は不機嫌な表情を浮かべながらその一部始終を見届けており、その形相を気にした芳村が話題をそらそうとして千代の富士に頻繁に話しかけていた。
  26. ^ 陣幕貢著『負けてたまるか』北海道新聞社<東京新聞出版局>、1991年、ISBN978-4-89-363625-6、文中より
  27. ^ 琴の郷との優勝決定戦
  28. ^ 右肩関節脱臼により8日目から途中休場
  29. ^ 北の湖と優勝決定戦
  30. ^ 左足首関節捻挫により3日目から途中休場
  31. ^ a b 4代・朝汐と優勝決定戦
  32. ^ 右股関節捻挫により8日目から途中休場
  33. ^ 腰背部挫傷により3日目から途中休場
  34. ^ 北尾(のち双羽黒)と優勝決定戦
  35. ^ 双羽黒と優勝決定戦
  36. ^ 腰部椎間板損傷により11日目から途中休場
  37. ^ 左肩関節脱臼により千秋楽不戦敗
  38. ^ 北勝海と優勝決定戦
  39. ^ 左上腕二頭筋部分断裂により3日目から途中休場

関連作品[編集]

書籍[編集]

自著[編集]

  • 陣幕貢『負けてたまるか』東京新聞出版局(1991年)
  • 千代の富士貢『不撓不屈 : 一〇四五勝への道のり』日之出出版(1992年)
  • 九重貢『ウルフと呼ばれた男』読売新聞(1993年)
  • 九重貢『綱の力』ベースボールマガジン社(2011年)

共著[編集]

  • 千代の富士貢、向坂松彦『私はかく闘った 横綱千代の富士』日本放送出版協会(1991年)

漫画[編集]

  • 『千代の富士物語 北の大将 上・下巻』(山崎匡佑)

テレビドラマ[編集]

楽曲[編集]

  • 燃える涙:松山千春の楽曲。関西テレビドラマ「千代の富士物語」エンディングテーマ。ミニ・アルバム『燃える涙』(廃盤)に収録。

ゲーム[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]