千代の富士貢
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| 千代の富士 貢 | |
|---|---|
千代の富士貢の銅像
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| 四股名 | 千代の富士 貢 |
| 本名 | 秋元 貢 |
| 愛称 | ウルフ |
| 生年月日 | 1955年6月1日 |
| 出身 | 北海道松前郡福島町 |
| 身長 | 183cm(現役時) |
| 体重 | 127kg(現役時) |
| 所属部屋 | 九重部屋 |
| 成績 | |
| 最高位 | 第58代横綱 |
| 生涯戦歴 | 1045勝437敗159休 (125場所、勝ち星歴代1位) |
| 幕内戦歴 | 807勝253敗144休 (81場所、勝ち星歴代1位) |
| 優勝 | 幕内最高優勝31回(歴代2位) |
| 賞 | 殊勲賞1回 敢闘賞1回 技能賞5回 |
| データ | |
| 初土俵 | 1970年9月場所 |
| 入幕 | 1975年9月場所 |
| 引退 | 1991年5月場所 |
| 備考 | |
| 金星:3個(三重ノ海2、若乃花1) | |
| 2008年6月22日現在 | |
千代の富士 貢(ちよのふじ みつぐ、本名:秋元 貢(あきもと みつぐ)、1955年6月1日 - )は、大相撲の力士で、第58代横綱。北海道松前郡福島町出身。身長183cm、体重127kg。現在は年寄・九重。現役時代の異名・愛称はウルフ、大将。血液型はA型。岳父は玄洋社記念館館長や玄洋ビル社長を務めた進藤龍生。夫人は進藤喜平太(第二代及び第五代玄洋社社長)の曾孫で、進藤一馬(第十代玄洋社社長、元福岡市長)の姪孫。次女はファッションモデルの秋元梢(1987年7月27日 - )。
史上最多の通算勝星・1045勝、史上2位の通算31回の幕内最高優勝、1988年(昭和63年)5月場所7日目から11月場所14日目までの53連勝[1](史上5位)など、数々の栄光を手にした史上有数・昭和最後の大横綱。小兵ながら速攻と上手投げを得意にして一時代を築いた。 右四つ、左前廻しの体勢から、自分よりも大きな相手をぐいぐいと寄り切ったり、一瞬の呼吸で投げ飛ばすさまはファンを熱狂させた。四股の美しさも特筆すべきもので、高々と頭の高さほどまで上げた足が空中で一瞬静止したのち、力強く踏み下ろされるまで、体には僅かなぶれもない堂々たる四股だった。
目次 |
[編集] 少年時代~入門まで
漁師の息子として生まれた。漁業の手伝いで足腰が鍛えられ、少年時代からスポーツ万能。特に陸上競技では走高跳、三段跳で地方大会に優勝し、オリンピックにもいける、といわれた逸材だったという。
中学時代虫垂炎の手術をした際、彼の腹の筋肉が厚くこれにてこずっているうちに、予定を大幅に上回る長時間の手術になってしまい、終わる前に麻酔が切れた。それでもなお耐え続ける貢少年を見た執刀医は感心して知り合いにこの話をした。その知り合いというのが、かつて千代の山(後の九重)をスカウトした若狭龍太郎で、その後貢少年が運動神経を買われて町の相撲大会に引っ張り出され、勝ちを収めたと聞いた若狭はスカウトに乗り出す。話を聞いた九重も若狭と共に乗り出し、直々に説得。本人は相撲に興味がなく、両親も反対したため断わったが、「入門するなら飛行機(YS-11だったらしい。当時は夢の乗り物であった)に乗れるよ」また「中学の間だけでもやってみて、後のことを考えたら」と持ちかけられ、結局貢少年は家族の反対を押し切って九重部屋に入門を決めた、というある意味子供らしい逸話がある。
[編集] 現役時代
[編集] 初土俵~幕内定着
本名で初土俵を踏み、翌場所には大秋元と改名。その後、千代の冨士、後に点をつけて千代の富士となる。相撲は始めたが、転入した中学でも陸上を続け、区大会入賞するなど活躍、中学卒業後は帰郷するつもりでいた。しかし土俵での成績も概ね好調で、逸材を手放すのを恐れた師匠は、後援会に世話を頼んで貢少年を明大中野高校に通わせる。高校で学業と相撲の両立をはかったが困難となり、退学して相撲に専念することに決し、ここに至って貢少年は本格的に力士の道を歩むことになる。
千代の富士の四股名の由来は、師匠の四股名である「千代の山」と同じ部屋の先輩横綱「北の富士」。異名の「ウルフ」については、魚を捌いていたところを見た師匠が「狼みたいだな」と言ったことからついた。当初は狼と呼ばれていたのがいつしか変化したそうで、これを聞いた当時の春日野理事長は「動物の名前で呼ばれる力士は強くなる、儂はマムシだった、狼は若乃花の昔のあだ名だ」と言ったという。
小兵ながら(幕内定着の頃まで体重は100kg以下)気性の激しさを表す取り口で順調に出世して、史上初の5文字四股名の関取になり、1975年(昭和50年)9月場所で新入幕。しかし相撲の粗さもあってその後幕下まで陥落するが這い上がって1978年(昭和53年)1月場所には再入幕する。ところが、今度はそれまでも課題ではあった先天的に両肩の関節のかみ合わせが浅いという骨の形状からくる肩(特に左)の脱臼癖が顕在化する。取り口も力任せの強引な投げ技を得意とするものだったため更に肩に負担がかかり、度重なる脱臼に悩まされた。1979年(昭和54年)3月場所播竜山との取り組みで右肩を脱臼して途中休場し、入院して脱臼との戦いを強いられることとなる。この時、肩を筋肉で固めるという対策に活路を見出し、毎日500回の腕立て伏せやウェイトトレーニングに励んで脱臼を克服した。
翌5月場所は十両に陥落したものの怪我が取組中であったため、公傷制度を利用して肩の治療に専念するはずであった。しかし、手続きの不手際で公傷と認められないことが場所の直前に発覚。3日目から強行出場することとなったが、9勝を挙げて翌7月場所に幕内に復帰。以後は着実に力をつけ、幕内上位に定着することとなる。
[編集] 三役から横綱へ~ウルフフィーバー
肩の脱臼癖もあってそれまでの強引な投げから、前廻しを取ってからの一気の寄りという形を作りあげ、1980年(昭和55年)3月場所から幕内上位に定着し、人気者となる。同年9月場所に小結で幕内初の二桁勝利となる10勝を挙げた(ちなみにこの場所以降引退するまで、皆勤した場所ではすべて二桁勝利を挙げた)。同年11月場所に新関脇。この場所は11勝を挙げ、大関を目前として1981年(昭和56年)を迎えた。
1981年(昭和56年)1月場所、横綱北の湖との優勝決定戦を制して初優勝し大関昇進。千秋楽が行なわれた1月25日の大相撲中継視聴率は、52.2%、瞬間最高で65.3%に及び、これは今に至るまで大相撲中継の最高記録である(ビデオリサーチ調べ)。3月場所、5月場所と連続して千秋楽まで優勝争いに残り、横綱昇進が懸かった7月場所に2度目の優勝を果たして横綱に推挙される。横綱土俵入りは師匠と同じ雲龍型を選んだ[1]。このとき2代目千代の山の襲名を打診されたが、これを「横綱2人分の今の四股名のほうが強そうだから」と断っている。
新横綱となった同年9月場所の2日目、ライバルと言われた隆の里との取組で場所前から痛めていた足を負傷し、新横綱が途中休場という憂き目を見る(新横綱の休場は昭和に入って武藏山、吉葉山に次いで3人目)。新横綱誕生の期待が失望に変わり、「11月場所は進退が懸かる」などと報じたマスコミもあった。しかし、11月場所では朝汐との優勝決定戦を制し、横綱として初優勝を飾ることで見事な復活を見せた。隆の里はその後も千代の富士の天敵と言えるような存在で、千代の富士を長く苦しめることになった。
この1981年には、同一年中に関脇、大関、横綱の3つの地位で優勝するというかつてない記録を達成した。関脇から横綱へと駆け上がるとともに、新横綱での挫折、翌場所の復活優勝と、1981年は千代の富士にとって激動の1年であったと言える。こうした事情から、関脇千代の富士(不詳)、大関千代の富士(テレビマガジンにおける永谷園「味ぶし」の宣伝に登場)と記された各種記録は数が多くない。
この時期の千代の富士は、細身で筋肉質な体型と精悍な顔立ち、そして豪快でスピーディな取り口から、若い女性や幼い子供にまで知名度が高まり、一種のアイドル的な人気を得ていた。とりわけ一気に大関・横綱への昇進を決めた1981年は「ウルフフィーバー」の年として記憶されている。千代の富士の取組にかかる懸賞の数は他の力士に比べて圧倒的に多く、懸賞旗が土俵を一周してまだ余るような状態だった。
[編集] 横綱時代
1982年(昭和57年)には3連覇を達成した。横綱昇進後の最初の3年間は強い時は強いが、やや頼りない部分も見受けられ、特に1984年(昭和59年)は年明けから振るわず、3月場所は右股関節捻挫で中日から途中休場。翌5月場所は2年ぶりの優勝を目指す北の湖に一方的に寄り切られて11勝止まり。7月場所は左肩の脱臼で全休。9月場所は入幕2場所目の新鋭小錦の突き押しにあっけなく土俵を割り、場所後横綱としての責任を問われる羽目になってしまった。11月場所は久々に優勝したが、翌年は30歳を迎えるという年齢的な面から一時は限界説も流れた。
しかし、千代の富士にとって本当の黄金時代は30代に入ってからであった。両国国技館のこけら落としとなった1985年(昭和60年)1月場所は全勝優勝で最高のスタートを切り、5月場所から廻しの色が「青」から「黒」に変わり、この年史上3人目となる年間80勝を達成した。さらに、1986年(昭和61年)5月場所~翌年1月場所まで5連覇を達成した。1987年(昭和62年)前半は僅かに崩れ、千代の富士時代は終わりに近づいたとの声もあり、「次の時代を担う力士は誰か」というアンケートまで実施された。しかしその声を打ち消すかのように、1988年(昭和63年)5月場所7日目から11月場所14日目まで53連勝。他を寄せ付けない圧倒的な強さで、昭和50年代後半から平成初期にかけての「千代の富士時代」の中でも、昭和最後の4年間は驚異的な成績を残した。ちなみに、53連勝でストップした大乃国との一番が奇しくも昭和最後の一番となる。
その強さもさることながら、均整のとれた筋肉質の体格(183cm・126kg体脂肪率10.3%)、逞しさ漂う風貌でも人気を集めた。また、人気漫画『キン肉マン』のキャラクター「ウルフマン」(アニメ版ではリキシマン)のモデルにもなっている。引退した年の1991年(平成3年)にも、アニメ『ゲンジ通信あげだま』に千代の富士並みの力を得られる「ウルフカード」というアイテムが登場している(番組前半の登場であるため、おそらくデザインされたのは引退前と思われる)。
幕内→大関→横綱と一気に昇進してしばらくは絶大な人気を誇ったが、あまりの強さにファンがやや飽きたこと、若手のライバル北天佑の実弟(千代の富士と同じ九重部屋に所属、目に余る素行不良でいわゆる「かわいがり」を受けた)を稽古でリンチまがいにシゴき重傷を負わせたという疑惑が起きたこと、週刊誌などの大相撲八百長疑惑報道で名指しされたことなどで、やや人気が低迷した時期もある(高鐵山孝之進、板井圭介を参照)。
角界屈指のゴルフ好きだが、元々休みの日は麻雀や、ファミコンに夢中の彼に対して、北の富士(当時:九重)は「健康的な休みを取らないとダメだ!」と、無理やり彼をゴルフに連れて行った。しかし、初めてのゴルフのハーフで40台を出し、ワンラウンドを86で回って、九重のスコアより良かった彼は「いやぁ、ゴルフっていいですねぇ!」と、北の富士のメンツは丸つぶれ。この日を境に、千代の富士はゴルフに狂い出した程。
横綱として全盛期を極めていた当時、テレビ番組、特に生放送の番組に出演することは稀であったが「夜のヒットスタジオDELUXE」(フジテレビ系)には1985~1987年まで3回、特別ゲストとして番組オープニングからエンディングまで出演している。これは当時の同番組司会者であり、千代の富士、及び師匠の九重との親交がある芳村真理の誘いを受けての出演であった[2]と言われている。特に初めて番組に顔を出したときには、アン・ルイスが吉川晃司との過激なパフォーマンスを展開し物議を醸した回であり、歌の最中、千代の富士は明らかに不機嫌な表情を浮かべながらその一部始終を見届けており、その形相を気にした芳村真理が、話題をそらそうとして千代の富士に頻繁に話しかけている様子が確認されている。
1989年(平成元年)3月場所14日目に大乃国を破って優勝を決めたが、この一番で左肩を脱臼。翌日の千秋楽が不戦敗となり、表彰式では左手にテーピングを巻いて登場。片手で賜杯を手にした。6月に、同年2月に誕生したばかりの三女をSIDS(乳幼児突然死症候群)で亡くす不幸に見舞われる。千代の富士の家族をはじめ、千代の富士自身も精神的なショックが大きく、もう相撲が取れないのではないかと思われた程だった。しかし直後の7月場所は首に数珠を掛けて場所入りし、成績は12勝ながらも千秋楽の優勝決定戦で弟弟子の北勝海を下して、神がかり的な優勝を果たした。涙ながらに「供養になった」という言葉は、相撲ファンに大きな感動を与えた。翌9月場所に通算勝ち星の新記録を達成し、9月28日に大相撲の世界で初めての国民栄誉賞受賞が決定した。この日は先代九重の千代の山の13回忌が行なわれた日でもあり、この時千代の富士は「苦労をかけた師匠にいい報告ができます」と言ったそうである。これにより協会は一代年寄千代の富士貢を満場一致で承認するが、本人は九重(北の富士)とも相談のうえでこれを断わっている[3]。
1990年(平成2年)1月場所には優勝回数を30と大台に乗せた。翌3月場所の7日目には花ノ国戦の勝利で前人未踏の通算1000勝を達成した。しかし5月場所と7月場所は旭富士に優勝を奪われ、千代の富士は2場所連続準優勝に終わり、旭富士の横綱昇進の引き立て役になってしまった。更に夏巡業で左足を痛めて9月場所を全休。35歳という年齢から引退を囁かれたが、11月場所に復帰して4横綱がいる中14日目に31回目の優勝を決め、同時に幕内通算804勝目を上げて北の湖と並んで史上1位タイとして貫禄を見せ付けた。翌1991年(平成3年)1月場所初日に幕内通算805勝目を上げ、史上単独1位としたが翌日の逆鉾戦で左腕を痛めて途中休場。翌場所も全休した。そして1991年5月場所初日に当時18歳の新鋭貴花田、三日目に貴闘力に敗れ、35歳11か月で気力・体力の限界を表明して引退、「小さな大横綱」として歴史に名を刻んだ。引退相撲・断髪式は1992年1月場所後に行われた。
弟弟子の北勝海との稽古は壮絶な物であったと言う。が、その甲斐もあって、北勝海は1987年(昭和62年)7月場所に横綱に昇進している。さらに、1989年(平成元年)7月場所では千代の富士は、その北勝海と史上初の同部屋横綱優勝決定戦で対戦し、優勝している。北勝海本人も「大将(千代の富士)がいたおかげで、自分も横綱になれたと思う」と語っており、千代の富士の指導力ならびに影響が如何に大きかったかを物語っている。事実、千代の富士が横綱昇進を決めた時は関取は千代の富士だけだったが、その後は北勝海を筆頭に、孝乃富士や巴富士らが関取に昇進している。当の千代の富士本人も、「北勝海との猛稽古がなかったら自分の力士寿命はもっと短かったかもしれない」と語っている。
横綱土俵入りは四股も美しく、全体として気合の入った土俵入りで、かなり上手い部類に入る。重い横綱を付けた状態で、上げた足が頭より高い位置に達する(参考画像)のは、千代の富士のほかにはほとんど例がない。また取組前の入場時には両手で下がりを持ち、制限時間いっぱいになった時には、頭を下げて、廻しを右手で叩いてピンク色のタオルを受け取り、必ず左右の腋の下の後に顔面の汗を拭くなど、几帳面に見えるほど、礼儀作法を重んじている。
[編集] 年寄として
場所中は、『中日新聞』に「一刀両断」と題した相撲解説コラムを連載している(系列紙の『東京新聞』には「ウルフの目」というタイトルで掲載)。注目した一番・力士に対する独自の解説や、相撲界への提言、優勝力士の予想など、幅広く執筆している。優勝力士予想については、千秋楽当日であっても当たらない場合がある。しかし、親方業の傍ら執筆しているので、自分の部屋に所属する力士の情報なども詳細に語られ、新聞記者の記事とは違った魅力がある。近年は、力士の稽古不足、下半身の強化不足に警鐘を鳴らし続けている。
日本相撲協会では、1994年(平成6年)武蔵川親方と共に役員待遇に昇格し、審判部副部長を務めていたが、評議員が少ない高砂一門に所属しており、さらに一門内でも外様出身[4]であるため、理事に立候補することができないでいた。また1998年(平成10年)に弟弟子の八角親方が格上の監事に就任[5]したり、貴乃花が理事選に立候補をほのめかした際、「九重ですら理事になれないんだから、親方になったばかりの貴乃花に務まる訳がない」と順番を考慮する発言を誰もしなかったなど、彼の評価は現役時代に比べると低い。審判部長は理事が担当するため、古くから審判部副部長職にあるにもかかわらず、先代二子山、先代押尾川、放駒と3代続いて大関止まりの理事が九重親方を抑えて審判部長になっており、「副部長を務めている」というよりも「部長になれないでいる」という感が漂っていた。だが、2007年半ばより始まる朝青龍騒動や時津風部屋力士暴行死事件で角界が大揺れの中、一門代表の理事だった高砂親方に代わって2008年2月から理事に就任し、広報部長・指導普及部長を務めている。審判部の職から離れた事でNHKの大相撲中継の解説者として登場できるようになり、2008年3月場所8日目で15年ぶりに正面解説席で解説をつとめた。
育成面では大関千代大海、元小結の千代天山などを育てているが、後が続かないでいる。ただし、大鵬以降の一代年寄で大関を育てたのは九重親方一人だけである。
[編集] 強さなど
尊敬する力士は貴ノ花だったと言う。当時ヘビースモーカーだった千代の富士に貴ノ花は禁煙を勧め、千代の富士は禁煙を実施。これがきっかけで体重が増え後の横綱昇進に繋がっていく。(貴ノ花利彰を参照)
平幕時代苦手にしていたのが琴風。当時琴風の鋭い当たりと一機の出足に全く歯が立たなかったが、出稽古で克服し後に琴風をカモにする。ある日佐渡ヶ嶽部屋での三番稽古の際、琴風の右指が大きく裂けるという怪我をしている。琴風本人は裂けた瞬間全く気がつかなかったというエピソードがある。
隆の里については千代の富士曰く「裏の裏をかかれる」とのこと。大関から横綱にかけて8連敗するほど苦手にしていた。(隆の里俊英を参照)
小錦についても上述の1984年(昭和59年)9月場所の初対戦では完敗している。当時不振が続いていた千代の富士は目が覚めたかのように場所後小錦対策として高砂部屋に出稽古を開始。翌場所から対小錦戦8連勝を記録。この小錦の登場が千代の富士の復活~黄金期に繋がったと見るファンも多い。
横綱昇進後、同じ力士には滅多に連敗しないと言われたが、隆の里以外には小錦に1987年(昭和62年)1月場所~5月場所まで3連敗、また小錦が初優勝した1989年(平成元年)11月場所~1990年(平成2年)5月場所まで4連敗している。 1年通して不振だった1984年には朝潮には1月場所から4連敗。北天佑には1月場所から5連敗(不戦敗を含む)している。全盛期でもカモにしていた大乃国や若嶋津、当時小結の益荒雄に2連敗したことがある。さらに平幕だった安芸ノ島には1990年3月と5月に連敗2場所連続で同力士に金星を配給しているなど、歯車が狂った時は脆かった。
本場所負けた相手に対して、上述の琴風や小錦のように出稽古や巡業で相手の攻略法を見つけるほか、横綱になってからは若い力士に率先して稽古をつけていた。特に前場所負けた相手に対して巡業では積極的に稽古に狩り出した(安芸ノ島、琴錦、両国など)。ただ朝青龍と異なるのが、彼が前場所負けた相手を徹底的に叩きのめすことだけが目的だったのに対し、千代の富士の場合は、相手を徹底的にかわいがる事で自分の強さを見せ付けるほか、相手力士の育成もしっかり考えていた事は有名で、関係者から評価されている。
体格・素質で上回る力士との差を埋めるため、土俵上では凄まじい集中力を見せ、本場所で負けた相手に対しては相手の部屋に出向いて稽古、攻略法を身につける努力家。廻しを緩まぬようにきっちり巻くことにより、四つに組み相手の指が廻しにかかっても腰の一振りで払いのける、など体格差を感じさせない取り口で、全盛期に見せた相手の頭を押さえるような独特の上手投げは、「ウルフスペシャル」としてつとに知られた。鍛え抜かれた腕力を生かした廻しの引きつけには脅威的なものがあり、重い相手も腰を浮かせた。また、体の芯が異常に強く、常に軸がぶれずに堂々とした相撲を取った。
立合いの踏み込みの鋭さは歴代屈指のもので、短距離走のスタートにも例えられた。この鋭い立合いが、すぐに得意の左廻しを奪うこと、重みに優る相手にも当たり負けしない強さを可能にしていた。
優勝決定戦に出場した6回すべてで優勝している。北の湖との1回、北尾→双羽黒との2回は、千秋楽の本割に負けた後の再戦で、土壇場での強さを見せつけた。しかし、双羽黒の強さは認めており、不祥事による廃業に関しては、残念がっていた。決定戦での勝率ならびに決定戦での優勝回数はそれぞれ記録。弟弟子の北勝海との優勝決定戦の経験もある。
優勝回数31回、全勝優勝7回はそれぞれ最多を誇る大鵬に次ぐ記録であり、53連勝も昭和以降では双葉山に次ぐ第2位の記録である。また連続優勝5場所も歴代3位タイと堂々たる記録である。参考ながら、九州で行われる11月場所では、1981年(昭和56年)から1988年(昭和63年)までの8連覇を含め9度優勝している。夫人が九州出身であるため、「千代の富士にとって九州場所は地元のようなもの」とも言われた。また、両国国技館が開館した1985年(昭和60年)1月場所から1987年1月場所まで、同所で行われる本場所(毎年1月、5月、9月)に7連覇している。
休場明けの場所に強いことも特徴で、実に6度も休場明けの場所で優勝している。特に30代に入ってからが顕著で、休場の度に限界が囁かれながらも翌場所に優勝して不死鳥とも言われた。
前述の通り、高鐵山孝之進らに八百長相撲を指摘されているが、これは千代の富士が弱かったという意味ではない。実力があり、ガチンコで戦っても勝ち目が薄いと相手に思わせられたからこそ、相手の力士も礼金が貰える八百長に応じたという理屈である。板井圭介は「ガチンコで唯一かなわないと思ったのは大将(千代の富士)だけ」「八百長が無くてもガチンコでは大将が一番強かった」と語るほど千代の富士の強さを認めている。
出身地、卒業した小学校とも師匠千代の山と同じである。これは非常に珍しいケースであり他に例がない。故郷の福島町には横綱千代の山・千代の富士記念館がある。
晩成型で最年少記録の類とは無縁であるが、19歳で新十両、20歳で新入幕と出世は早く、新入幕からしばらくの間は「幕内経験をもつ最若年者」の地位を保っていた。
「入幕後、幕下まで陥落」「三役昇進後、十両まで陥落」という経験を併せて持つことは、後の大横綱としては極めて異例である。
脱臼癖に苦しめられてきた千代の富士であるが、一方では脱臼が大成の一助になったという見方もある。解説者の玉の海は、「若いころの千代の富士は軽量のくせに相手を引っ張り込んで、天井を向いて上手投げにいく「身の程知らずの相撲取り」であった」と語っている。そのような大きな相撲から、前廻しを引き、頭をつける体格にマッチした取り口に変わっていったのは、少しでも脱臼のリスクを軽減するためでもあった。この相撲が完全に身につき、大関・横綱に進むことが出来たことから、元横綱北の富士の前九重親方は「脱臼が千代の富士という大横綱を作った。前のままの相撲なら、陸奥嵐(元関脇)のような存在で終わったかも知れない」と語っている。また、千代の富士自身も「もう少し早く、この相撲の取り方に気付いていたら、もっと早く横綱になれていた。」と語っている。
北勝海の横綱昇進に伴い、同部屋に横綱が2人となったため、力士が2人をどう区別して呼ぼうかと迷った際、北勝海の提言で、千代の富士を「大将」と呼ぶ様にさせた、という話も残っているが、横綱となった身の者が、先輩横綱という意味のみならず、ワンランク上の横綱、と見ていた存在感の大きさを現すエピソードである。
[編集] 略歴
- 1970年 9月 - 本名である秋元という四股名で初土俵
- 1970年11月 - 四股名を大秋元に改名
- 1971年 1月 - 四股名を千代の冨士に改名
- 1974年 9月 - 幕下優勝
- 1974年11月 - 新十両、昭和30年代生まれで最初。因みに、のちにライバルとなる隆の里とは同時新十両である。
- 1975年 1月 - 四股名を千代の富士に改名
- 1975年 9月 - 新入幕、昭和30年代生まれで最初
- 1981年 1月 - 初の幕内最高優勝
- 1981年 3月 - 大関昇進
- 1981年 9月 - 横綱昇進
- 1988年11月 - 千秋楽、同年5月場所7日目から続いた連勝記録を大乃国に53で止められる。
- 1989年 3月 - 14日目に優勝を決めた一番で左肩を脱臼。千秋楽は不戦敗で表彰式に登場。片手で賜杯を受け取る。
- 1989年 9月 - 相撲界で初の国民栄誉賞を受賞、一代年寄授与も打診されるも辞退。
- 1990年 3月 - 7日目に花ノ国を下し、通算1,000勝達成
- 1991年 5月 - 3日目に貴闘力に敗れて現役引退、同時に年寄「陣幕」を襲名、以降後進の指導に当たる
- 1992年 4月 - 当時の九重親方と年寄名跡を交換、年寄「九重」を襲名して同時に九重部屋を継承。
- 1994年 2月 - 役員改選に伴い、役員待遇に抜擢され、審判部副部長を務める。
- 2008年 2月 - 役員改選に伴い、理事に昇格し、広報部長並びに指導普及部長として執行部入りする。
[編集] 主な成績
- 通算成績:1045勝437敗159休(通算勝ち星は歴代1位) 勝率.705
- 幕内成績:807勝253敗144休(幕内勝ち星は歴代1位) 勝率.761
- 横綱成績:625勝112敗137休(横綱勝ち星は歴代2位) 勝率.848
- 幕内最高優勝:31回(大鵬に次いで歴代2位)
- 幕内在位:81場所
- 横綱在位:59場所(北の湖に次いで歴代2位)
- 連勝記録:53(1988年5月場所7日目~1988年11月場所14日目、双葉山に次いで歴代2位)
- 年間最多勝:1982年(74勝16敗)、1985年(80勝10敗)、1986年(68勝10敗12休)
- 三賞:殊勲賞1回、敢闘賞1回、技能賞5回
- 金星:3個(三重ノ海2、若乃花1)
[編集] 幕内での場所別成績
| 一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1975年 (昭和50年) |
x | x | x | x | 東 前頭 #12 5–10 |
(十両) |
| 1976年 (昭和51年) |
(十両) | (幕下) | (幕下) | (十両) | (十両) | (十両) |
| 1977年 (昭和52年) |
(十両) | (十両) | (十両) | (十両) | (十両) | (十両) |
| 1978年 (昭和53年) |
東 前頭 #12 8–7 |
東 前頭 #8 8–7 |
東 前頭 #5 9–6 敢 |
西 小結 5–10 |
東 前頭 #4 4–11 |
西 前頭 #10 9–6 |
| 1979年 (昭和54年) |
東 前頭 #4 5–10 |
西 前頭 #8 2–6–7[6] |
(十両) | 西 前頭 #14 8–7 |
東 前頭 #10 8–7 |
東 前頭 #7 7–8 |
| 1980年 (昭和55年) |
東 前頭 #8 8–7 |
東 前頭 #3 8–7 技★★ |
西 小結 6–9 |
西 前頭 #2 9–6 技★ |
東 小結 10–5 技 |
東 関脇 11–4 技 |
| 1981年 (昭和56年) |
東 関脇 14–1[7] 技殊 |
東 大関 11–4 |
東 大関 13–2 |
東 大関 14–1 |
西 横綱大関 1–2–12[6] |
東 張出横綱 12–3[8] |
| 1982年 (昭和57年) |
東 横綱 12–3 |
西 横綱 13–2 |
東 横綱 13–2[8] |
東 横綱 12–3 |
東 横綱 10–5 |
東 横綱 14–1 |
| 1983年 (昭和58年) |
東 横綱 12–3 |
東 横綱 15–0 |
休場 | 東 横綱 13–2 |
東 横綱 14–1 |
西 横綱 14–1 |
| 1984年 (昭和59年) |
東 横綱 12–3 |
西 横綱 4–4–7[6] |
東 張出横綱 11–4 |
休場 | 東 張出横綱 10–5 |
西 横綱 14–1 |
| 1985年 (昭和60年) |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 11–4 |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 11–4 |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 14–1 |
| 1986年 (昭和61年) |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 1–2–12[6] |
東 横綱 13–2 |
東 横綱 14–1[9] |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 13–2 |
| 1987年 (昭和62年) |
東 横綱 12–3[10] |
東 横綱 11–4 |
東 横綱 10–5 |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 9–2–4[6] |
東 張出横綱 15–0 |
| 1988年 (昭和63年) |
東 横綱 12–3 |
休場 | 東 張出横綱 14–1 |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 15–0 |
東 横綱 14–1 |
| 1989年 (平成元年) |
東 横綱 11–4 |
西 横綱 14–1[11] |
休場 | 東 張出横綱 12–3[12] |
西 横綱 15–0 |
東 横綱 13–2 |
| 1990年 (平成2年) |
東 横綱 14–1 |
東 横綱 10–5 |
西 横綱 13–2 |
東 横綱 12–3 |
休場 | 東 張出横綱 13–2 |
| 1991年 (平成3年) |
東 横綱 2–1–12[6] |
休場 | 西 張出横綱 引退 1–3–11 |
x | x | x |
| 各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 十両・幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 |
||||||
- 幕内通算勝利・敗戦・勝率はその場所時点での数字
| 場所 | 地位 | 勝数 | 敗数 | 休場 | その他 | 幕内勝 | 幕内敗 | 幕内休 | 勝率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 昭和50年 9月 | 東前頭12枚目 | 5 | 10 | 0 | 新入幕 | 5 | 10 | 0 | .333 |
| 昭和53年 1月 | 東前頭12枚目 | 8 | 7 | 0 | 再入幕 | 13 | 17 | 0 | .433 |
| 昭和53年 3月 | 東前頭8枚目 | 8 | 7 | 0 | - | 21 | 24 | 0 | .467 |
| 昭和53年 5月 | 東前頭5枚目 | 9 | 6 | 0 | 敢闘賞(初) | 30 | 30 | 0 | .500 |
| 昭和53年 7月 | 西小結 | 5 | 10 | 0 | 新小結 | 35 | 40 | 0 | .467 |
| 昭和53年 9月 | 東前頭4枚目 | 4 | 11 | 0 | - | 39 | 51 | 0 | .433 |
| 昭和53年 11月 | 西前頭10枚目 | 9 | 6 | 0 | - | 48 | 57 | 0 | .457 |
| 昭和54年 1月 | 東前頭4枚目 | 5 | 10 | 0 | - | 53 | 67 | 0 | .442 |
| 昭和54年 3月 | 西前頭8枚目 | 2 | 6 | 7 | 途中休場 | 55 | 73 | 7 | .430 |
| 昭和54年 7月 | 西前頭14枚目 | 8 | 7 | 0 | 再々入幕 | 63 | 80 | 7 | .441 |
| 昭和54年 9月 | 東前頭10枚目 | 8 | 7 | 0 | - | 71 | 87 | 7 | .446 |
| 昭和54年 11月 | 東前頭7枚目 | 7 | 8 | 0 | - | 78 | 95 | 7 | .448 |
| 昭和55年 1月 | 東前頭8枚目 | 8 | 7 | 0 | - | 86 | 102 | 7 | .455 |
| 昭和55年 3月 | 東前頭3枚目 | 8 | 7 | 0 | 技能賞(初)、金星2 | 94 | 109 | 7 | .460 |
| 昭和55年 5月 | 西小結 | 6 | 9 | 0 | 再小結 | 100 | 118 | 7 | .456 |
| 昭和55年 7月 | 西前頭2枚目 | 9 | 6 | 0 | 技能賞(2)、金星1 | 109 | 124 | 7 | .466 |
| 昭和55年 9月 | 東小結 | 10 | 5 | 0 | 再々小結、技能賞(3) | 119 | 129 | 7 | .476 |
| 昭和55年 11月 | 東関脇 | 11 | 4 | 0 | 新関脇、技能賞(4) | 130 | 133 | 7 | .491 |
| 昭和56年 1月 | 東関脇 | 14 | 1 | 0 | 優勝(初)(北の湖との決定戦を制す)、殊勲賞(初)、技能賞(5) | 144 | 134 | 7 | .514 |
| 昭和56年 3月 | 東大関 | 11 | 4 | 0 | 新大関 | 155 | 138 | 7 | .526 |
| 昭和56年 5月 | 東大関 | 13 | 2 | 0 | - | 168 | 140 | 7 | .542 |
| 昭和56年 7月 | 東大関 | 14 | 1 | 0 | 優勝(2) | 182 | 141 | 7 | .560 |
| 昭和56年 9月 | 西横綱大関 | 1 | 2 | 12 | 新横綱、途中休場 | 183 | 143 | 19 | .558 |
| 昭和56年 11月 | 東張出横綱 | 12 | 3 | 0 | 優勝(3)(4代朝汐との決定戦を制す) | 195 | 146 | 19 | .569 |
| 昭和57年 1月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | - | 207 | 149 | 19 | .579 |
| 昭和57年 3月 | 西横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(4) | 220 | 151 | 19 | .590 |
| 昭和57年 5月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(5)(4代朝汐との決定戦を制す) | 233 | 153 | 19 | .601 |
| 昭和57年 7月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | 優勝(6) | 246 | 156 | 19 | .609 |
| 昭和57年 9月 | 東横綱 | 10 | 5 | 0 | - | 256 | 161 | 19 | .611 |
| 昭和57年 11月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(7) | 270 | 162 | 19 | .622 |
| 昭和58年 1月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | - | 282 | 165 | 19 | .628 |
| 昭和58年 3月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 全勝優勝(8) | 297 | 165 | 19 | .640 |
| 昭和58年 5月 | 東横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 | 297 | 165 | 34 | .640 |
| 昭和58年 7月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | - | 310 | 167 | 34 | .647 |
| 昭和58年 9月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | - | 324 | 168 | 34 | .656 |
| 昭和58年 11月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(9) | 338 | 169 | 34 | .664 |
| 昭和59年 1月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | - | 350 | 172 | 34 | .668 |
| 昭和59年 3月 | 西横綱 | 4 | 4 | 7 | 途中休場 | 354 | 176 | 41 | .665 |
| 昭和59年 5月 | 東張出横綱 | 11 | 4 | 0 | - | 364 | 180 | 41 | .665 |
| 昭和59年 7月 | 東張出横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 | 364 | 180 | 56 | .665 |
| 昭和59年 9月 | 東張出横綱 | 10 | 5 | 0 | - | 374 | 185 | 56 | .666 |
| 昭和59年 11月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(10) | 388 | 186 | 56 | .673 |
| 昭和60年 1月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 全勝優勝(11) | 403 | 186 | 56 | .681 |
| 昭和60年 3月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | - | 414 | 190 | 56 | .682 |
| 昭和60年 5月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(12) | 428 | 191 | 56 | .688 |
| 昭和60年 7月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | - | 439 | 195 | 56 | .689 |
| 昭和60年 9月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 全勝優勝(13) | 454 | 195 | 56 | .697 |
| 昭和60年 11月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(14) | 468 | 196 | 56 | .702 |
| 昭和61年 1月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(15) | 481 | 198 | 56 | .706 |
| 昭和61年 3月 | 東横綱 | 1 | 2 | 12 | 途中休場 | 482 | 200 | 68 | .704 |
| 昭和61年 5月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(16) | 495 | 202 | 68 | .707 |
| 昭和61年 7月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(17) (北尾(双羽黒)との決定戦を制す) | 509 | 203 | 68 | .712 |
| 昭和61年 9月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(18) | 523 | 204 | 68 | .717 |
| 昭和61年 11月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(19) | 536 | 206 | 68 | .720 |
| 昭和62年 1月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | 優勝(20)(双羽黒との決定戦を制す) | 548 | 209 | 68 | .721 |
| 昭和62年 3月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | - | 559 | 213 | 68 | .722 |
| 昭和62年 5月 | 東横綱 | 10 | 5 | 0 | - | 569 | 218 | 68 | .721 |
| 昭和62年 7月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(21) | 583 | 219 | 68 | .724 |
| 昭和62年 9月 | 東横綱 | 9 | 2 | 4 | 途中休場 | 592 | 221 | 72 | .726 |
| 昭和62年 11月 | 東張出横綱 | 15 | 0 | 0 | 全勝優勝(22) | 607 | 221 | 72 | .731 |
| 昭和63年 1月 | 東横綱 | 12 | 3 | 0 | - | 619 | 224 | 72 | .732 |
| 昭和63年 3月 | 東横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 | 619 | 224 | 87 | .732 |
| 昭和63年 5月 | 東張出横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(23) | 633 | 225 | 87 | .735 |
| 昭和63年 7月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 全勝優勝(24) | 648 | 225 | 87 | .740 |
| 昭和63年 9月 | 東横綱 | 15 | 0 | 0 | 全勝優勝(25) | 663 | 225 | 87 | .744 |
| 昭和63年 11月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(26)、53連勝達成 | 677 | 226 | 87 | .748 |
| 平成元年 1月 | 東横綱 | 11 | 4 | 0 | - | 688 | 230 | 87 | .747 |
| 平成元年 3月 | 西横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(27)、千秋楽不戦敗 | 702 | 231 | 87 | .750 |
| 平成元年 5月 | 東横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 | 702 | 231 | 102 | .750 |
| 平成元年 7月 | 東張出横綱 | 12 | 3 | 0 | 優勝(28)(北勝海との決定戦を制す) | 714 | 234 | 102 | .751 |
| 平成元年 9月 | 西横綱 | 15 | 0 | 0 | 全勝優勝(29) | 729 | 234 | 102 | .755 |
| 平成元年 11月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | - | 742 | 236 | 102 | .757 |
| 平成2年 1月 | 東横綱 | 14 | 1 | 0 | 優勝(30) | 756 | 237 | 102 | .759 |
| 平成2年 3月 | 東横綱 | 10 | 5 | 0 | 通算1000勝達成 | 766 | 242 | 102 | .758 |
| 平成2年 5月 | 東横綱 | 13 | 2 | 0 | - | 779 | 244 | 102 | .760 |
| 平成2年 7月 | 西横綱 | 12 | 3 | 0 | - | 791 | 247 | 102 | .760 |
| 平成2年 9月 | 東横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 | 791 | 247 | 117 | .760 |
| 平成2年 11月 | 東張出横綱 | 13 | 2 | 0 | 優勝(31) | 804 | 249 | 117 | .761 |
| 平成3年 1月 | 東横綱 | 2 | 1 | 12 | 途中休場 | 806 | 250 | 129 | .761 |
| 平成3年 3月 | 西張出横綱 | 0 | 0 | 15 | 全休 | 806 | 250 | 144 | .761 |
| 平成3年 5月 | 西張出横綱 | 1 | 3 | - | 引退 | 807 | 253 | 144 | .759 |
| 通算 | 807 | 253 | 144 | - | - | - | - | - | |
[編集] 主な力士との幕内対戦成績
| 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 寺尾 | 16 | 1 | 琴ヶ梅 | 21 | 1 | 花ノ国 | 10 | 0 |
| 北天佑 | 33 | 14 | 旭富士 | 30 | 6 | 巨砲 | 37 | 5 |
| 栃乃和歌 | 14 | 0 | 大乃国 | 23 | 9 | 逆鉾 | 27 | 3 |
| 小錦 | 20 | 9 | 霧島 | 12 | 2 | 太寿山 | 21 | 3 |
| 安芸乃島 | 7 | 4 | 水戸泉 | 10 | 1 | 両国 | 11 | 3 |
| 板井 | 16 | 0 | 陣岳 | 15 | 0 | 琴富士 | 4 | 0 |
| 琴稲妻 | 3 | 0 | 隆三杉 | 6 | 0 | 三杉里 | 2 | 1 |
| 久島海 | 2 | 0 | 春日富士 | 2 | 0 | 小城ノ花 | 1 | 0 |
| 琴錦 | 2 | 1 | 朝潮 | 31 | 15 | 琴風 | 22 | 6 |
| 双羽黒 | 8 | 6 | 花乃湖 | 10 | 2 | 佐田の海 | 19 | 1 |
| 出羽の花 | 33 | 2 | 若瀬川 | 5 | 0 | 益荒雄 | 5 | 2 |
| 多賀竜 | 8 | 0 | 舛田山 | 12 | 5 | 麒麟児 | 20 | 6 |
| 青葉城 | 14 | 4 | 鷲羽山 | 9 | 1 | 隆の里 | 12 | 16 |
| 若嶋津 | 25 | 3 | 富士櫻 | 8 | 1 | 高見山 | 11 | 1 |
| 蔵玉錦 | 8 | 1 | 播竜山 | 4 | 3 | 増位山 | 8 | 3 |
| 輪島 | 1 | 6 | 北の湖 | 6 | 12 | 貴ノ花 | 6 | 4 |
| 三重ノ海 | 3 | 2 | 若乃花 | 5 | 9 | 栃赤城 | 7 | 8 |
| 栃光 | 5 | 3 | 大錦 | 8 | 2 | 魁輝 | 9 | 5 |
| 起利錦 | 3 | 1 | 蔵間 | 11 | 2 | 闘竜 | 14 | 0 |
| 高望山 | 6 | 0 | 大徹 | 5 | 1 | 栃司 | 7 | 1 |
| 貴花田 | 0 | 1 | 貴闘力 | 1 | 1 |
[編集] 引退にまつわるエピソード
- 横綱昇進が決まった日の夜、師匠の九重(元横綱・北の富士)は千代の富士を自分の部屋に呼び、いきなり「ウルフ、辞めるときはスパッと、潔く辞めような。ちんたらチンタラと横綱を務めるんじゃねえぞ」と言った。祝儀がもらえるのかと思っていた千代の富士は、この言葉に面食らったという。しかし、千代の富士の引退は正にこの言葉を守った潔いものとなった。これは栃木山から言われた言葉を栃錦が千代の山へ語り、千代の山から北の富士を経て、千代の富士へ受け継がれたものと言われている。
- 1991年5月場所が始まる前の最大の注目は、3月場所に幕内下位ながら終盤まで優勝争いに加わった弱冠18歳の貴花田と、大横綱千代の富士との初対戦であった。何日目に対戦するかが話題となる中で、誰も予想しなかった初日に取組が組まれた。これは当時審判部長だった九重が「勝ち負けが全くついていない、まっさらな状態で対戦させたい」との思いからであったが、千代の富士はこの取組に敗れ、その2日後に引退を表明。ある意味、自らの師匠が招いた引退とも言える。この取り組みは後に、漫画に描かれてもいる。
- 貴花田に敗れた時点で実は千代の富士は引退を決意していたが、そのことを伝えに九重のもとに行ったところ、九重は千代の富士を見るなり「先に廻しを取られたからなあ。まあ明日又がんばれよ」と言った。このために、気勢を削がれた千代の富士は引退の意思を伝えそびれてしまったので、引退表明が3日目の貴闘力戦に敗れた後になったという。その千代の富士からついに引退の決意を伝えられた時には、千代の富士も涙したが師匠の九重も思わず男泣きしたという。
- 千代の富士が引退した1991年5月14日は午前中に信楽高原鐵道列車正面衝突事故が発生し、NHKでは断続的に事故に関するニュースを放送していた。しかし、夜になって千代の富士が引退会見を行うことになったため急遽ニュースを中断し、会見の生中継を行った。この際に最初は笑みを交えて「皆様、長い間応援して下さり、有り難う御座いました。月並みの引退ですが…」と語ったが、その後思わず言葉に詰まり目を赤くして、「体力の限界!気力も無くなり、引退することになりました…以上です」と振り絞るように言い放った。ちなみに、ちょうど20年前の1971年(昭和46年)5月14日に大横綱であった大鵬幸喜も貴ノ花利彰に敗れて引退を表明しており、大横綱と二子山部屋、藤島部屋が絡んでいる花田家には因縁がある。
- 翌7月場所前、千代の富士改め陣幕は自ら土俵に立ち若い力士に稽古をつけたが、あまりの充実ぶりに師匠の九重は「現役以上じゃないか。引退させるのは早かったな」と言ったという。「史上最強の新米親方」と評した人もいる。
- 引退相撲が行われた1992年2月1日はTBSで放送され、最後の横綱土俵入りでは、露払いに当時引退直後の旭富士、太刀持ちには弟弟子の北勝海の両横綱を従えた。大銀杏を切り落とす瞬間には大粒の涙を流していた。
- ロンドンにある蝋人形館、マダムタッソーでは最近まで千代の富士の蝋人形が置かれていた。ウルフと呼ばれていたことなどが記載されている。
[編集] 脚注
- ^ 土俵入りの型は一門、部屋ごとに伝統があり、横綱個人の意思で選択できるというわけではない。
- ^ そのため、彼女が司会を降板した1988年以降は1回も顔を出していない。
- ^ このため彼を一代年寄に含めるかどうかは議論が分かれているが、大鵬は還暦土俵入りの際に千代の富士も含まれるとの見解を示した。
- ^ 千代の山が出羽海部屋から独立したことによる。
- ^ 八角親方が九重部屋から独立した際に部屋付の年寄がすべて八角部屋に移籍したことも影響している。
- ^ a b c d e f 途中休場
- ^ 北の湖と優勝決定戦
- ^ a b 4代・朝汐と優勝決定戦
- ^ 北尾(のち双羽黒)と優勝決定戦
- ^ 双羽黒と優勝決定戦
- ^ 千秋楽不戦敗・休場
- ^ 北勝海と優勝決定戦
[編集] 関連書籍
[編集] 自著
- 『負けてたまるか』(1991年11月) ISBN 4-89363-625-1
- 『不撓不屈 : 一〇四五勝への道のり』(1992年2月)ISBN 4-89198-090-7
- 『ウルフと呼ばれた男』(1993年4月) ISBN 4-643-93035-7
[編集] 共著
- 『私はかく闘った : 横綱千代の富士』(1991年5月) ISBN 4-14-008777-3 (向坂松彦と共著)
[編集] 漫画
- 『千代の富士物語 北の大将 上・下巻』(山崎匡佑)
[編集] 関連楽曲
[編集] 千代の富士物語
[編集] 演じた俳優
[編集] 関連項目
[編集] 外部リンク
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