川口能活
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|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 名前 | |||||||
| 愛称 | ヨシカツ、Yoshi | ||||||
| カタカナ | カワグチ ヨシカツ | ||||||
| ラテン文字 | KAWAGUCHI Yoshikatsu | ||||||
| 基本情報 | |||||||
| 国籍 | |||||||
| 生年月日 | 1975年8月15日(36歳) | ||||||
| 出身地 | 静岡県富士市 | ||||||
| 身長 | 180cm | ||||||
| 体重 | 77kg | ||||||
| 選手情報 | |||||||
| 在籍チーム | |||||||
| ポジション | GK | ||||||
| 背番号 | 1 | ||||||
| 利き足 | 右足 | ||||||
| ユースクラブ1 | |||||||
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| クラブチーム1 | |||||||
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| 代表歴 2 | |||||||
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| 1. 国内リーグ戦に限る。2011年12月23日現在。 2. 2010年5日21日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
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川口 能活(かわぐち よしかつ、1975年8月15日 - )は、静岡県富士市出身のプロサッカー選手。ポジションはゴールキーパー。Jリーグ・ジュビロ磐田所属。
長年に渡り日本代表に選出され、国際Aマッチキャップ数は井原正巳(122試合)に次ぐ歴代2位の116試合を記録している(GKの中では最多)。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] プロ入り前
漫画『キャプテン翼』の影響や兄の薦めから9歳でサッカーを始め、小学生時代は富士市内のスポーツ少年団でプレーした。GKをはじめるきっかけは、試合に上級生の正GKが休んだことで当時様々なポジションを転々としていた川口が代役として出場し、その試合でGKの魅力に惹かれてしまったという経緯であった[1]。
1988年に東海大学第一中学校に入学。在学中に3年連続で全国中学校サッカー大会出場を経験し、2年次・3年次の2度、大会優秀選手に選出された[2]。
1991年に清水商業高等学校(現静岡市立清水商業高等学校)に入学。1年次よりレギュラーとして試合に出場した[3]第70回全国高等学校サッカー選手権大会に望月重良や平野孝らと共に出場し、前園真聖を擁する鹿児島実業に1-2で敗れ3回戦で敗退した。
1992年は出場はならなかったが、翌年の第72回全国高等学校サッカー選手権大会では静岡県代表として出場。田中誠、小川雅己、佐藤由紀彦、安永聡太郎、鈴木悟らとともに、チームをキャプテンとして率いた。準決勝で城彰二らを擁する鹿児島実業高校と再び対戦。試合は2-2でPK戦に持ち込まれた。鹿児島実業4人目の藤崎義孝をセーブし5-4で制した。決勝戦では1992年度王者の長崎県立国見高等学校と対戦。2-1で勝利し5年ぶり3回目の選手権優勝を果たす。
[編集] 横浜マリノス時代
1994年、横浜マリノスに入団。当時、マリノスには日本代表GK松永成立が在籍していたが、2年目の1995年シーズンに監督のホルヘ・ソラリが若手の川口を正GKに抜擢。これにより、4月26日第11節柏レイソル戦でJリーグ初出場を果たした。初出場で浮足立ったプレーもあったがゴールを守り、無失点で勝利した。この後もポジションを確保し、この年のNICOSシリーズは全試合出場。
7月19日に優勝が懸かったサントリーシリーズ第25節の清水エスパルス戦で、1-2でリードされた後半ロスタイム、コーナーキックのチャンスでゴール前に上がりヘディングシュートをするもののゴールポストに当たり得点にはならなかった。この試合には敗れたもののチームは1stステージ優勝を経験し、1995年度のチャンピオンシップでヴェルディ川崎を下し年間優勝。自身も初タイトルとなる、Jリーグ新人王を獲得した。
[編集] ポーツマスFC時代
2001年10月21日、イングランドのフットボールリーグ・チャンピオンシップ(2部)に所属するポーツマスFCへ移籍し、日本人GKとして初の欧州移籍を果たした。これにより10月20日の2ndステージ第10節セレッソ大阪戦がマリノスでのラストゲームになった。
新天地でのデビューは11月3日のリーグ戦第8節シェフィールドW戦で、チームは3-2で勝利した。また、2002年1月4日に行われたレイトン・オリエントFC戦で日本人選手として初めてFAカップに出場した。
2001-02シーズンはリーグ戦11試合に出場したが、レギュラー確保には至らなかった。2002年にはウェストハム・ユナイテッドFCからトリニダード・トバゴ代表のシャカ・ヒスロップが加入したこともあって、シーズンの大半をリザーブリーグで過ごす。イングランドでの2年目は1試合の出場にとどまり、プレミアリーグ(1部)に昇格した2003-04シーズンは出場機会を完全に失った。結局、2002-03シーズンに途中出場した2003年5月4日第44節ブラッドフォード・シティAFC戦[4]が、ポーツマスでの最後の試合となり、プレミアリーグでは出場できなかった。
[編集] FCノアシェラン時代
試合の出場機会を求め、2003年9月4日、デンマークのFCノアシェランに移籍。10月5日SASリーガ第11節ヘアフュルエBK戦にてスーペルリーガ公式戦に初出場した。しかし、後にデンマーク代表にも名を連ねたキム・クリステンセンにポジションを奪われ、2004年4月12日第25節ヴィボーFF戦以降、出場機会はなかった。
[編集] ジュビロ磐田時代
出場機会を求め、2005年にノアシェランからジュビロ磐田へ移籍し、約4年ぶりの国内復帰を果たす。同年4月10日に味の素スタジアムで開催されたJ1第4節、FC東京戦で、約4年ぶりにJリーグ公式戦に出場した[5]。
2006年にJリーグ ベストイレブンのタイトルを獲得した[6]。
2008年5月10日第12節、アルビレックス新潟戦(東北電力スタジアム)で史上32人目、GKとしては史上3人目のJ1通算300試合出場を達成[7]。しかし、この年チームは終始低迷し、残留のかかった最終節の大宮アルディージャも敗れて16位でシーズンを終えた。12月13日、J23位のベガルタ仙台とのJ1・J2入れ替え戦第2戦では、後半24分の平瀬智行のループ気味のヘディングのセーブ[8][9]後半ロスタイムでの顔面でのセーブ[10]などの働きを見せ、磐田のJ1残留に貢献した。
2009年は開幕戦のモンテディオ山形戦(2-6@ヤマハ)、第2節のガンバ大阪戦(1-4@万博)の2試合で計10失点を喫し、更にチームも第6節の清水エスパルス戦まで5試合勝利がなく、その後も波に乗り切れず低空飛行が続いた。9月19日、第26節の京都サンガF.C.戦でFW金成勇と接触した際に右脛骨骨幹部骨折で負傷、右脛骨骨幹部骨折により全治6ヶ月と診断され[11]離脱。残りのシーズンを棒に振ることとなった。
2010年序盤はリハビリのためベンチ入りすらなかったが、自身も代表に選出された南アフリカW杯後の8月7日、第17節の山形戦(0-1)で約1年ぶりに公式戦に復帰した。この年はリーグ戦17試合に出場。リーグ戦こそ前年に引き続き中位に留まったものの、第32節では3連覇中の王者鹿島アントラーズ相手に8年ぶりの勝利を挙げた。ナビスコカップでは決勝トーナメント4試合に出場し、9年ぶりの決勝進出を果たす。決勝のサンフレッチェ広島戦では槙野智章のPKを止めるなど好プレーを披露し、12年ぶりの優勝を達成した。
2011年8月3日に行われたスルガ銀行チャンピオンシップでは、2-2で迎えたPK戦で2人目と3人目を止めて優勝に導いた。
また、久しぶりに34試合に全てにフル出場したシーズンとなった。
[編集] 日本代表
1994年2月2日マレーシア国際トーナメント、U-23マレーシア代表戦に初出場を果たす。以降U-23日本代表としてアトランタオリンピック予選に正GKとして出場し、メキシコオリンピック以来となる28年ぶりのオリンピック出場に貢献。
1996年7月22日、アトランタオリンピック1次リーグ第1戦、ロナウドやリバウドといった錚々たる面々を揃えたブラジル代表と対戦。防戦一方の展開の中、スーパーセーブを連発し、計28本のシュートを無失点に抑え込み、後半に伊東輝悦が挙げた1点を守りきってブラジルを破る大波乱の立役者として大きく賞賛された(マイアミの奇跡)。しかし、チームは健闘むなしく1次リーグ敗退に終わる。
1997年2月13日、キングスカップスウェーデン戦で、国際Aマッチ初出場を果たす。フランスW杯・アジア最終予選の全試合に唯一出場し、特に苦戦を強いられたアウェー戦での活躍が光り、9月19日のアブダビでのUAE戦では、劣勢の状況の中、好セーブ連発で0-0と相手を封じ込め貴重な勝ち点1をもたらした。日本のサッカーの歴史に深く刻まれる“ジョホールバルの歓喜”でも2失点はしたが、安定した守備を披露し歴史的な場面に立ち会った。
翌年1998 FIFAワールドカップのメンバーに選出され、初戦のアルゼンチン戦では相手の23本のシュートを1失点のみで抑え、敗れたものの善戦した。その後のクロアチア戦(0-1)、ジャマイカ戦(1-2)でも奮闘するが敗れ、全3試合に出場したW杯は3戦全敗で1次リーグ敗退に終わる。
フランスワールドカップ後に就任したフィリップ・トルシエ監督の下では、楢崎正剛の台頭もあり徐々に出場機会が減り、シドニーオリンピックの代表からも外れた。しかし、出番が回ってきたAFCアジアカップ2000ではグループリーグの1試合を除く全試合に出場。決勝のサウジアラビア戦では、積極的な守備と、終盤の劣勢に回る展開には神懸かり的なセーブで優勝に大きく貢献。この大会での活躍が報われその後のFIFAコンフェデレーションズカップ2001で正GKに復帰する。
しかし、その後は海外移籍による出場機会の激減で試合勘など不満の残る状況が続き、コンディションが整わない日々が続いた。地元開催の2002 FIFAワールドカップでは楢崎が正GKとなったため出場機会は無かった。
日韓W杯後にジーコ監督が就任してからも控えの立場が続いたが、2004年のAFCアジアカップ2004では3年ぶりに正GKに復帰。決勝トーナメント準々決勝のヨルダン戦、1-1のまま縺れ込んだPK戦ではいずれも入れられたら敗退が決まる絶体絶命の状況で2本のシュート(3回終了時1-3)をクロスバーに掠めながらの神懸かり的なセーブにより阻止。結果的にヨルダンは3人成功後4人連続で失敗し、日本が奇跡的な逆転勝利を手にした。ホスト国中国との決勝戦でも、アジア杯を締めくくるような活躍をして2大会連続優勝、3度目のアジア制覇の立役者として貢献。アジアカップ2004 ベストイレブンのタイトルも獲得し最高の結果をもたらした。
2006年自身3度目となる2006 FIFAワールドカップのメンバーに選ばれ2大会ぶりに正GKとして全3試合出場。初戦のオーストラリア戦は相手の再三の攻撃を凌ぐも、スローインへの飛び出しから同点にされ[12]、終盤に3失点を喫して1-3で敗れた。第2戦のクロアチア戦では、キックに定評があるダリヨ・スルナのPKを止め勝ち点1を呼び込んだ(0-0)。このプレーによって、ワールドカップでPKを止めた史上20人目のGKをして名を刻むことになった[13][14]。第3戦のブラジル戦では、次々に放たれる21本のシュートを浴び4失点を喫するも孤軍奮闘の守りを見せる(1-4)。2敗1分けという結果となり、またしてもピッチ上で勝利を噛み締めることなく大会を去ることになったが、FIFAが選定した「グループリーグ敗退国ベストイレブン」のサブGKに選ばれた(正GKはチェコのペトル・チェフ)。また、ブラジル戦で前半ジュニーニョ・ペルナンブカーノのミドルシュートを止めたセーブが「2006 FIFAワールドカップスーパーセーブベスト10」ランキングの6位に選ばれた。
ドイツワールドカップ後にイビチャ・オシム監督が就任して以降は、キャプテンに指名されると共に背番号1を与えられた。2007年には自身3度目のアジアカップとなるAFCアジアカップ2007に正GKとして全試合出場した。決勝トーナメント準々決勝のオーストラリア戦では、1-1で延長戦も終了し引き続き行われたPK戦では1番手のハリー・キューエル、2番手のルーカス・ニールを連続で阻止する活躍を見せ4-3で勝利した[15]。しかし、準決勝のサウジアラビア戦では2-3で敗北。3位決定戦の韓国戦ではまたしてもPK戦にもつれたもののオーストラリア戦とは逆に1本も止められずに5-6で敗戦し、3連覇は成らなかった。
2008年3月26日に行われた2010 FIFAワールドカップ・アジア予選(3次予選)のアウェーバーレーン戦で、相手のセンタリングのボールを捌ききれず失点した。この試合を最後に約4年維持していた正GKのポジションを再び楢崎に譲った[16]。
2009年3月19日にはコンディション不調(2試合で合計10失点)と所属する磐田の不振により、3月28日の2010 FIFAワールドカップ・アジア最終予選バーレーン戦での招集が見送られた。怪我以外で代表メンバーから外れたのは4年4か月ぶりだった[17]。さらに9月19日の第26節の京都戦で相手選手と接触し、右脛骨骨幹部骨折で全治6か月の大けがを負った[18]。
2010年5月10日の南アフリカワールドカップに向けた最終メンバー発表までJリーグの公式戦に出場していなかったが、代表監督の岡田武史からチームキャプテンとしての役割を求められ[19]2010 FIFAワールドカップの代表メンバーに選出された。このサプライズ選出はチームメイトから好感をもって迎えられ、中澤佑二は「自分の名前より能活さんの名前が先に呼ばれ、舞い上がった」とコメントしている[20]。本大会で出場機会は無かったがまとめ役としてチームに貢献[21]、岡田監督から賞賛を受けた[22]。
[編集] プレースタイル
闘志を前面に押し出す攻撃的なスタイル、味方を叱咤激励し最後尾からチームを鼓舞する姿から[23]、「炎の守護神」[24]、「魂の守護神」[25]と表現されることが多い。
ゴールキーパーとしては小柄で華奢な体格であるが、ゴール前での果敢な飛び出しと俊敏な反応を武器としている[26]。 大舞台に強いメンタルの強さも長所と言われており[27]、実際に重要な国際試合では何度も神懸かり的な活躍を見せてきた[28]。特にペナルティーキックでの勝負強さには定評があり、川口がPKを行うときの周りの雰囲気・キッカーの動きを予測するここ一番の集中力は奇跡と称される[29][30]。本人曰くPKを止めるコツがあるらしいが「企業秘密」を貫いている。
欠点としては、好不調の波が挙げられることがある。また、ハイボールの処理が欠点であるとも言われており、しばしばイージーミスから失点を許している。これは積極的に飛び出すプレースタイルが災いしていることもあるが、川口自身はピンチを未然に防ぐことが第一と考えており自身のスタイルを崩そうとはしない[31]。
他のGKに比べ、腰を低くし、コンパクトに構えるのが特徴である。本人曰く、重心を低くする事によって相手の動きがゆっくり見えるらしい[32]。
[編集] 人物
[編集] 選手として
- かつてはストイックな選手として知られており、チームメイトに対しての怒鳴るコーチング、叱責などは日常茶飯であった。
- 元日本代表監督のイビチャ・オシムについては、「今までの監督の中で一番自分の能力を引き出してくれる」「(同監督への批判的な意見に対して)あんな監督いないですよ、オシムさんが日本のサッカー界にいてくれていることに感謝しなきゃいけない」[33] と話している。
- 元デンマーク代表のピーター・シュマイケルを目標にしている。
[編集] その他
- Jリーグオールスターサッカーにおいて中西永輔、三浦知良と並び、最多となる9回の出場を果たしている。
- 地元である富士市と、眼前にそびえる富士山に、深い思い入れがある[34][35]。
- 2005年1月にノアシェラン在籍時代に知り合ったスカンジナビア航空勤務の日本人客室乗務員と結婚。2007年3月25日、第1子(女の子)が誕生[36]。
- 田中誠とは清水商業高等学校(現静岡市立清水商業高等学校)時代からの盟友である。
- 古巣の横浜F・マリノスで、当時ルーキーイヤーの時代から見守ってきた中村俊輔とは仲が良いことで知られ、信頼も厚い[37]。
[編集] 所属クラブ
- ユース経歴
- 1988年 - 1991年 東海大学第一中学校 (現:東海大学付属翔洋高等学校・中等部)
- 1991年 - 1994年 清水市立商業高等学校 (現:静岡市立清水商業高等学校)
- プロ経歴
- 1994年 - 2001年10月
横浜マリノス (現・横浜F・マリノス) - 2001年11月 - 2003年8月
ポーツマスFC - 2003年8月 - 2005年
FCノアシェラン - 2005年 -
ジュビロ磐田
[編集] 個人成績
| 国内大会個人成績 | |||||||||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | リーグ | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | ||||
| 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | ||||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 1994 | 横浜M | - | J | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 |
| 1995 | 1 | 41 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 43 | 0 | ||
| 1996 | 15 | 0 | 13 | 0 | 0 | 0 | 28 | 0 | |||
| 1997 | 22 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 24 | 0 | |||
| 1998 | 34 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 35 | 0 | |||
| 1999 | 横浜FM | J1 | 28 | 0 | 6 | 0 | 2 | 0 | 36 | 0 | |
| 2000 | 28 | 0 | 5 | 0 | 3 | 0 | 36 | 0 | |||
| 2001 | 25 | 0 | 7 | 0 | - | 32 | 0 | ||||
| イングランド | リーグ戦 | FLカップ | FAカップ | 期間通算 | |||||||
| 2001-02 | ポーツマス | 37 | FLC | 11 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 12 | 0 |
| 2002-03 | 29 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | ||
| 2003-04 | - | プレミア | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | |
| デンマーク | リーグ戦 | リーグ杯 | オープン杯 | 期間通算 | |||||||
| 2003-04 | ノアシェラン | 30 | SASリーガ | 8 | 0 | 1 | 0 | - | - | 9 | 0 |
| 2004-05 | 0 | 0 | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | |||
| 日本 | リーグ戦 | ナビスコ杯 | 天皇杯 | 期間通算 | |||||||
| 2005 | 磐田 | 1 | J1 | 29 | 0 | 1 | 0 | 3 | 0 | 33 | 0 |
| 2006 | 34 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 38 | 0 | |||
| 2007 | 32 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 36 | 0 | |||
| 2008 | 33 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 34 | 0 | |||
| 2009 | 26 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 30 | 0 | |||
| 2010 | 17 | 0 | 4 | 0 | 1 | 0 | 22 | 0 | |||
| 2011 | 34 | 0 | 3 | 0 | 1 | 0 | 38 | 0 | |||
| 2012 | |||||||||||
| 通算 | 日本 | J1 | 398 | 0 | 50 | 0 | 17 | 0 | 465 | 0 | |
| イングランド | プレミア | 0 | 0 | - | - | 0 | 0 | ||||
| イングランド | FLC | 12 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 13 | 0 | ||
| デンマーク | SASリーガ | 8 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 9 | 0 | ||
| 総通算 | 418 | 0 | 51 | 0 | 18 | 0 | 487 | 0 | |||
その他の公式戦
- 1995年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2000年
- Jリーグチャンピオンシップ 2試合0得点
- 2008年
- J1・J2入れ替え戦 2試合0得点
| J1・J2入れ替え戦 | |||
|---|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 | |
| 2008 | 2 | 0 | |
| 通算 | 2 | 0 | |
| 国際大会個人成績 | ||||
|---|---|---|---|---|
| 年度 | クラブ | 背番号 | 出場 | 得点 |
| UEFA | UEFA EL | |||
| 2003-04 | ノアシェラン | 30 | 1 | 0 |
| AFC | ACL | |||
| 2005 | 磐田 | 1 | 1 | 0 |
| 通算 | UEFA | 1 | 0 | |
| 通算 | AFC | 1 | 0 | |
その他の国際公式戦
- 2011年
- スルガ銀行チャンピオンシップ 1試合0得点
[編集] 代表歴
[編集] 主な出場大会
- 1996年 - アトランタオリンピック
- 1998年 - FIFAワールドカップ・フランス大会
- 2000年 - AFCアジアカップ2000 : 優勝
- 2001年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2001 : 準優勝
- 2002年 - FIFAワールドカップ・日韓大会
- 2004年 - AFCアジアカップ2004 : 優勝
- 2005年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2005
- 2006年 - FIFAワールドカップ・ドイツ大会
- 2007年 - AFCアジアカップ2007 : 4位
- 2010年 - FIFAワールドカップ・南アフリカ大会
[編集] 試合数
- 国際Aマッチ 116試合 0得点 (1997年 - )
| 日本代表 | 国際Aマッチ | |
|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 |
| 1997 | 21 | 0 |
| 1998 | 9 | 0 |
| 1999 | 3 | 0 |
| 2000 | 8 | 0 |
| 2001 | 9 | 0 |
| 2002 | 2 | 0 |
| 2003 | 2 | 0 |
| 2004 | 11 | 0 |
| 2005 | 14 | 0 |
| 2006 | 19 | 0 |
| 2007 | 12 | 0 |
| 2008 | 6 | 0 |
| 通算 | 116 | 0 |
- 36試合 0得点(1994年-1996年)
| 五輪日本代表 | |||
|---|---|---|---|
| 年 | 出場 | 得点 | |
| 1994 | 8 | 0 | |
| 1995 | 15 | 0 | |
| 1996 | 13 | 0 | |
| 通算 | 36 | 0 | |
[編集] 初出場
| 開催年月日 | サッカーリーグ | カテゴリー | 対戦相手 | 開催地 | 勝敗 | 備考 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1995年4月26日 | 日本プロサッカーリーグ | ディビジョン1 | 国立競技場 | ○1-0 | 第11節 | |
| 1995年7月22日 | Jリーグオールスターサッカー | 国立競技場 | ●0-4 | 第3回大会 | ||
| 2001年11月3日 | フットボールリーグ | フットボールリーグ・チャンピオンシップ | ヒルズボロ・スタジアム | ○3-2 | 第8節 | |
| 2003年10月5日 | デンマーク・スーペルリーガ | SASリーガ | ヘアフュルエ・スタジアム | ●1-2 | 第11節 | |
| 開催年月日 | ナショナルチーム | 大会名 | 対戦相手 | 開催地 | 勝敗 | 備考 |
| 1994年2月2日 | U-23サッカー日本代表 | マレーシア国際トーナメント | クアランプール | ○1-0 | ||
| 1997年2月13日 | サッカー日本代表 | 第28回キングス・カップ | ナショナルスタジアム(バンコク) | ●0-1 |
[編集] タイトル
[編集] チーム
[編集] 個人
サッカー
- 1995年 - 新人王
- 1996年 - 日本年間最優秀選手賞
- 2001年 - FIFAコンフェデレーションズカップ2001 ベストイレブン
- 2001年 - AFC月間最優秀選手賞 (6月)
- 2004年 - アジアカップ2004 ベストイレブン
- 2006年 - Jリーグベストイレブン
- 2008年 - Jリーグフェアプレー個人賞 (ジュビロ磐田選手では初受賞)
その他
- 1995年 - ベストスマイル・オブ・ザ・イヤー (著名人部門)
- 1996年 - 報知プロスポーツ大賞 (Jリーグ部門)
- 1998年 - ベストドレッサー賞 (スポーツ・芸能部門)
- 2002年 - 日本プロスポーツ大賞 (2002 FIFAワールドカップ日本代表として)
[編集] 出版
[編集] 書籍
- ゴールはオレにまかせろ!「川口能活」―アトランタ若き守護神 (1996年7月発売、著・大貫哲義 主婦と生活社) ISBN 4391119129
- 川口能活〈PERSONAL BOOK〉YOSHIKATSU (1996年12月発売、小学館) ISBN 4091023266
- 魂のゴールキーパー 川口能活 (2006年3月発売、著・西川昭策 アールズ出版) ISBN 4862040128
- 川口能活 証 (2006年5月発売、著・山中忍 文藝春秋) ISBN 4163680101
- 『月刊コロコロコミック』 (1998年5-6月号でドキュメント漫画「川口能活物語」を掲載、作画はかとうひろし)
[編集] ビデオ
- 川口能活 /横浜マリノス・オフィシャル・ビデオ (1996年11月21日発売、ポニーキャニオン)
[編集] 出演
[編集] テレビ・ラジオ
- 第47回NHK紅白歌合戦 (NHK)
- 関口宏の東京フレンドパークII (TBS)
- 情熱大陸[38] (毎日放送)
- SmaSTATION-3[39] (テレビ朝日) - 香取慎吾と対談など
- GET SPORTS (テレビ朝日) - 中西哲生とも対談
- やべっちFC〜日本サッカー応援宣言〜 (テレビ朝日)
- すぽると! (フジテレビ) - 試合後コメントなど
- 金子達仁のSports Press (ニッポン放送)
- FIFAフットボール・ムンディアル (IMG)
[編集] CM
- 明治製菓アメリカンチップス イメージキャラクター (1996年)
- 日産自動車 (1998年)
- 日産火災海上保険 (2000年~2001年)
- 大塚製薬 「エネルゲン」
- 参天製薬 「サンテエフエックス」
- 総務省「第44回衆議院議員総選挙・最高裁判所裁判官国民審査」投票啓発活動[40][41] (加藤あいと共演、2005年)
- 東海漬物 「きゅうりのキューちゃん」 (2006年)
- NEC 「VALUESTAR W」[42] (2006年) (山本太郎、玉木宏が出演している)
[編集] イメージキャラクター
- セキュリティハウス・センター (契約会社)[43]
[編集] 関連項目
- マイアミの奇跡 (1996年 アトランタオリンピック)
- ジョホールバルの歓喜 (1997年 ワールドカップフランス大会最終予選)
- 1998 FIFAワールドカップ日本代表
- 2002 FIFAワールドカップ日本代表
- 2006 FIFAワールドカップ日本代表
- 2010 FIFAワールドカップ日本代表
- アシックス[44] (契約メーカー)
[編集] 脚注
- ^ J's GOAL×NTT西日本:スペシャルインタビュー ~15~ J's GOAL
- ^ 東海大学付属翔洋中学校 サッカー部の歴史 東海大学付属翔洋高等学校・中等部公式サイト 2011.3.22 06:47 (UTC) 閲覧
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- ^ Jリーグアウォーズ2006 コメント Jリーグ公式サイト 2011.3.22 07:46 (UTC) 閲覧
- ^ 磐田GK川口300試合「褒めて」チーム勝たす - サッカーニュース:日刊スポーツ
- ^ 【J1・J2入れ替え戦 磐田 vs 仙台】仙台サイドレポート:ラスト1分に一瞬の夢を見るも届かず。梁のFKの美しい軌道を思い出に、仙台の挑戦は終わる。 J's GOAL 2008.12.14付記事
- ^ 【J1・J2入れ替え戦 磐田 vs 仙台】第2戦試合ダイジェスト (動画) J's GOAL 2008.12.15付
- ^ 執念顔面ブロック!川口号泣、磐田残留 Internet Archive (データ元: デイリースポーツ 2008.12.14付記事)
- ^ 川口能活選手、怪我について ジュビロ磐田公式サイト 2009.9.20付ニュースリリース
- ^ クローズアップ川口能活「判断は間違っていなかった」 - gooスポーツ:NumberWeb
- ^ ワールドカップ 日本―クロアチア 奇跡を起こす男 川口能活:スポーツナビ
- ^ 川口、7.87で最高点:読売新聞、ニッポンのMVP~クロアチア戦
- ^ 日本 PK戦を制して3大会連続の準決勝進出 - APFBB
- ^ 9月最終予選で高原、川口代表落ちも - 日刊スポーツ
- ^ 岡田監督、覚悟の「川口外し」 - 日刊スポーツ
- ^ 磐田GK川口 全治5~6カ月で今季絶望 - スポーツニッポン
- ^ 川口「喜んで」チームキャプテン就任! - スポーツニッポン
- ^ 今季公式戦出場ゼロも…大抜擢!川口キャプテン - スポーツニッポン
- ^ 「僕はありのままで」陰でチーム支える主将・川口- 朝日新聞
- ^ 躍進の裏に“オーバー30”の献身的な働きあり- スポーツニッポン
- ^ 川口能活の臥薪嘗胆-Number Web
- ^ 炎の守護神、川口能活のサッカー人生- 勝負の瞬間
- ^ 史上最強の第3GK川口能活の加入で、“勝利に執着する”日本代表に期待!!-Number Web
- ^ 代表のゴールを明け渡す楢崎正剛。対照的な川口の決断と、川島の課題。-Number Web
- ^ コーチを驚かせた川口の“普通じゃない”精神力スポニチ
- ^ 楢崎と川口、日本の守護神として優れていたのは?-Number Web
- ^ サッカー日本代表、“奇跡”の代名詞。川口能活は南アをまだ諦めていない!-Number Web
- ^ 奇跡には理由がある-Number Web
- ^ 岡田ジャパン、決勝トーナメント進出へのシナリオ-SPORTS COMMUNICATION
- ^ Voice-Peak Performance Laboratory
- ^ ナンだ!?での発言。[要出典]
- ^ 富士市天馬出身プロサッカー選手川口能活さんインタビュー
- ^ TNC静岡ジモティーズ:川口能活 (サッカー選手)
- ^ 川口能活選手に長女誕生のお知らせJ's GOAL
- ^ インサイドストーリー:日本代表の精神的リーダー 川口能活のちょっと「男前な」話
- ^ 情熱大陸:川口能活
- ^ SmaSTATION
- ^ 川口能活さん、加藤あいさんからのメッセージ:衆議院議員総選挙・最高裁判所裁判官国民審査
- ^ 選挙啓発イメージキャラクター
- ^ NEC新CMに川口能活がゲスト出演:デジタル家電総合情報サイト
- ^ 川口能活選手をキャラクターにセキュリティハウスが契約:防犯のセキュリティハウス
- ^ アシックス契約選手:川口能活
[編集] 外部リンク
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