伊藤みどり

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オリンピック
フィギュアスケート
1992 女子シングル
いとう みどり
伊藤 みどり
基本情報
代表国: 日本
生年月日: 1969年8月13日(39歳)
出生地: 愛知県名古屋市
身長: 145 cm
元コーチ: 山田満知子
元振付師: デヴィッド・ウィルソン山田満知子
引退: 1992年、1996年

伊藤 みどり(いとう みどり、1969年8月13日 - )は、愛知県名古屋市出身の元フィギュアスケート選手。東海女子高等学校(現、東海学園高等学校)、東海学園女子短期大学卒業。身長145cm。 アルベールビルオリンピックフィギュアスケート女子シングル銀メダリスト。1989年世界選手権優勝。

ジャンプの伊藤として世界的に名前が知られ、全日本選手権8連覇、女子選手として世界で初めて公式戦でトリプルアクセル(3回転半)を成功させるなど、女子フィギュアスケート界に数々の金字塔を打ち立てた。伊藤の突出したジャンプ技術は、それまで優雅に氷上を舞う芸術だったフィギュアスケートを、鍛え上げられたアスリートが技を競い合うスポーツへと変革させた。1989年、「もっとも高得点をとったフィギュアスケーター」としてギネスブックに掲載。2004年3月25日、日本人初の世界フィギュアスケート殿堂入り。2007年3月22日、開催中の世界選手権の会場で国際殿堂入りの表彰式が行われた。

目次

[編集] 来歴

[編集] 天才少女出現

4~5歳の頃にスケートを始め、6歳から本格的なスケート競技に参加。中日スケートクラブで山田満知子コーチに師事。1980年に、小学校4年生で全日本ジュニア選手権で優勝し、同じ年にはシニアの大会全日本フィギュアスケート選手権で3位となり、「天才少女スケーター」と呼ばれるようになる。

1984年のサラエボオリンピックは、14歳の伊藤は年齢制限で出場資格が無かったが、日本スケート連盟は伊藤を五輪へ出場させるため、「オリンピック開催年に世界ジュニア選手権で3位以内に入れば資格を与える」という特例を活用し、1983年の世界ジュニア選手権を札幌に招致。伊藤は3位となる。しかし、翌1984年の全日本選手権では、規定で10位と出遅れ、ショートプログラムでは得意のダブルアクセルで転倒するなどのミスで5位、フリーで1位と追い上げるも加藤雅子に次ぐ総合2位に終わった。日本人女子フィギュアの五輪と世界選手権の出場枠がそれぞれ1名であったことから、加藤は五輪へ、伊藤は世界選手権への派遣が決まり14歳での五輪出場は果たせなかった。1984年オタワの世界選手権に初めて出場し、7位に入賞した。

[編集] カルガリー五輪

1985年、中学校3年生で全日本選手権で初優勝。以後、1992年の神戸大会まで優勝を重ね、渡部絵美と並ぶ史上最高8連覇を達成する(後に1996年の横浜大会においても優勝したため、通算9回優勝)。1988年に高校3年生で出場したカナダで開催されたカルガリーオリンピックでは、規定で10位と出遅れ、技術点では高い評価を得たものの芸術点が伸び悩み、ショートプログラム・フリースケーティングともにノーミスでありながら総合5位入賞(ショートだけでは4位、フリーだけでは3位)にとどまった。

伊藤は、「順位が低いのでエキシビションには呼ばれない」と考えて一旦宿舎に帰った後に呼び戻されたため、カルガリー五輪のエキシビションでは最終演技者となった。

なお、この大会で金メダルをとった東ドイツカタリナ・ヴィットが「観客はゴム鞠が跳ねるのを見に来ているわけではない」と、暗に伊藤を揶揄したため、「フィギュアスケートは、芸術かスポーツか」という論争を生むことになる[1]

[編集] 世界選手権優勝

同年、愛知県のフィギュアスケート選手権で、競技会では女子選手として初めてトリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を成功させ、翌1989年、大学1年生でパリ世界選手権で優勝。日本人初、アジア人としても初のフィギュア世界チャンピオンとなる。

この時の技術的要素の評価で、「完全無欠」とする6.0満点を、ショートプログラム(規定要素)では9人中2人、フリースケーティング(テクニカルメリット)では9人中5人がつけて話題となった。続く1990年の世界選手権(ハリファックス)では、規定(コンパルソリー)で10位と出遅れ、SP(ショートプログラム)とフリー(サルコウがダブルになるミスがあったもののテクニカルメリットで6.0満点を3個獲得)で、ともに1位と追い上げたが、総合2位に終わった。

[編集] アルベールビル五輪へ

1991年の世界選手権(ミュンヘン)は、伊藤が不得意だった規定が廃止となり、2年ぶりの優勝が期待されたものの、6分間練習中にレティシア・ユベールと接触して負傷し、さらにSPではコンビネーションジャンプのファーストジャンプのトリプルルッツは成功したものの、続くセカンドジャンプのダブルトゥループの際にリンク外に飛び出すアクシデントがあり3位となり、フリーでは前半の3つのジャンプにミスが生じ、総合4位となった。

1991年10月のラリック杯は、翌年のアルベールビルオリンピックで使用するリンクで開催され、オリンピックの前哨戦としてトップクラスの選手が出場した。伊藤はオリジナル・プログラムでは、コンビネーションジャンプのファーストジャンプのトリプルアクセルの着氷を乱してしまう。しかし、フリーではトリプルルッツ-トリプルトウループとトリプルアクセル-ダブルトウループのコンビネーションジャンプを完璧に決め、途中トリプルフリップとトリプルループにミスはあったものの、最終的には6種類のトリプルジャンプを成功させ、技術点で6.0満点を1つ獲得して1位となり、優勝する。この大会の優勝で、伊藤には翌年のオリンピックの金メダルの期待が高まった。この大会のフリーの直前練習では、トリプルアクセル-トリプルトウループのコンビネーションジャンプを成功させた。

伊藤自身の選手生活の集大成となった1992年のアルベールビルオリンピックでは、オリジナル・プログラムのコンビネーションジャンプのファーストジャンプを、トリプルアクセルからより確実性の高いトリプルルッツに変更して挑むも転倒。結果4位となり、自力での金メダルは絶望的となってしまった。しかしフリー演技で、前半の2つめのコンビネーションジャンプのファーストジャンプであったトリプルアクセルに失敗しながらも、体力的に大技は困難とされる後半に再度トリプルアクセルジャンプに挑戦し見事成功。日本人フィギュアスケート選手では初の銀メダルを獲得。金メダルを獲得したクリスティー・ヤマグチに対し、続く世界選手権が雪辱戦となると目されたものの、体調不良で出場辞退。本大会がアマチュア最後の試合となった。

同年4月25日に引退会見を行い、6月17日にプロ転向を正式に表明、6月28日に名古屋スポーツセンターでさよなら公演「アイスフェスティバル ミドリイトウ フォーエバー」を行い、アマチュア生活に別れを告げた。

[編集] プロ転向後

1993年に世界プロフィギュア選手権大会で優勝。1994年同大会で2位。1995年、第10回インターナショナル・プロフィギュア選手権(チャレンジ・オブ・チャンピオン)優勝するなど、プロスケーターとしても世界の第一線で活躍を続けた。

1995年には長野五輪出場を目指して一時アマチュア復帰し、迎えた1996年の全日本フィギュアスケート選手権では26歳でトリプルアクセルを成功させ、4年ぶり9度目の優勝を果たすが、同年の世界選手権は体調不良もあって7位と不本意な結果に終わった。1996年11月に再び引退し、長野五輪出場を断念した。1998年開催の長野五輪の開会式では、日本に26年ぶりの聖火を灯す大役を担った。伊藤は長野オリンピックの実現でも重要な働きをし、1991年の国際オリンピック委員会総会に振袖姿で出席し、英語でオリンピック招致を訴えるスピーチを行った。

以後、所属するプリンスホテルのアイスショー出演や競技会の解説者としての活動がメインとなる。

現在、グランプリシリーズの解説や、テレビ番組のゲスト出演、新聞・雑誌のコラム等の執筆、フィギュアスケート入門DVDソフトの出演、YAMADAグループのインストラクタ-(アドバイザー)などで活躍している。

[編集] 人物

[編集] 苦労人

伊藤の両親は伊藤が4歳の時に離婚し母親に引き取られている。母親は伊藤にスケートを続けさせるために早朝から深夜まで働きつづけたが次第にそれではまかないきれなくなりコーチに「スケートを止める」と言ったこともあるが(みどりと一緒にならっていた実妹はこのときスケートをやめた)、その才能を惜しんだ山田満知子コーチは伊藤を自宅に引き取ってスケートを続けさせた。


[編集] Tsunami Girl

伊藤は規定演技が苦手で、プログラムが始まる時には6位~10位の場所から逆転しなければならなかった。しかし、男子選手をも圧倒する高さと安定感のあるジャンプ技術によって、ショートプログラム、フリーで一気に順位を上げてくることから、1981年の世界フィギュアスケートジュニア選手権の頃より、他国コーチ陣から津波に因んだTsunami Girl(ツナミちゃん)という愛称をつけられたこともあった[要出典]

[編集] トリプルアクセル

伊藤がトリプルアクセルを跳ぼうとした当時、女子選手はダブルアクセル(二回転半)が限界で、男子選手でも世界のトップクラスの数名しかトリプルアクセル(三回転半)を競技会で使うことは無かった。

伊藤は84年春に練習を開始、6月6日の練習で一旦完成するが競技会では成功せず、成長期を迎えたことで怪我のリスクを考えて練習を中断した。カルガリー五輪後の1988年5月に練習を再開。競技会で初めてトリプルアクセルに成功したのは、同年10月に地元名古屋で開催された愛知県選手権だった。そして、翌年の世界フィギュア選手権で成功させると、伊藤以外の女子選手もトリプルアクセルに挑むようになる。しかし、1992年のアルベールビル五輪までにトリプルアクセルを成功させた女子選手は、伊藤とトーニャ・ハーディングの二人だけだった。

その後、国際大会でトリプルアクセルを成功させた女子選手は、伊藤から十年後の中野友加里リュドミラ・ネリディナ(2002年、スケートアメリカ)、浅田真央(2004年、ジュニアグランプリファイナル)だけで、伊藤とハーディングを含めて五人しかいない。また2009年現在、オリンピックでトリプルアクセルを決めた女子選手は伊藤のみである。

[編集] スケーターとしての特徴

伊藤の特徴としてジャンプ技術の高さが挙げられる。6種類全ての3回転ジャンプを正確に跳び分けることのできた非常に数少ない女子選手の一人である。80年代半ば、伊藤のジャンプを科学的に分析した東京大学体育学研究室の吉岡伸彦(94年当時)によれば、最高速度(ジャンプ踏み切り時)は秒速8m、ジャンプの高さ約70cm、滞空時間約0.73秒、着氷時に片足に掛かる荷重約250kg。ジャンプ時のある時点での速度は男子をも凌ぐといわれた。[2]

さらに、複雑な切れの良いステップ、ステップからのジャンプ、腰に手を当ててのダブルジャンプ、イーグルからのトリプルループやトリプルジャンプ直後のデスドロップなど、当時としては最難度の技を駆使していた(ウォーレイやトウウォーレイのように主要な6種のジャンプに数えられない種類のジャンプも飛んでいる)。

91年世界選手権のSPにおいてリンク外に飛び出すアクシデントからわずか2秒足らずでの演技再開や、92年アルベールビルオリンピックのSPにおいてトリプルルッツ転倒後助走なしでダブルトウループを垂直に跳ぶなど、伊藤はミスからのリカバリーの能力も高かった。後年、山田コーチは伊藤について「スケートだけでなく、他のスポーツをやっても天才だったかも知れない」と語っている。

[編集] 女子シングルの技術的先駆者

以下は、女子選手としては初成功となったジャンプコンビネーションである。

  • トリプルトウループ-トリプルトウループ[世界ジュニア選手権では81年オーベルストドルフ、世界選手権では84年オタワ、五輪では88年カルガリー[3]
  • ダブルループ-トリプルループ[世界ジュニア選手権では83年札幌、世界選手権では84年オタワ、五輪では88年カルガリー
  • トリプルルッツ-トリプルトウループ[国際大会では91年ラリック杯NHK杯

以下は、女子選手としては初めて成功した演技構成要素である。

  • トリプルアクセルを除く5種類のトリプルジャンプ[世界ジュニア選手権では81年オーベルストドルフ、五輪では88年カルガリー
  • トリプルアクセル(88年愛知県選手権)[国際大会では88年NHK杯、世界選手権では89年パリ、五輪では92年アルベールビル[4]
  • トリプルアクセルを含む6種類のトリプルジャンプ[公式戦では88年全日本フリースタイル、世界選手権では89年パリ
  • フライング・シットスピン

[編集] 主な戦績

大会/年 79-80 80-81 81-82 82-83 83-84 84-85 85-86 86-87 87-88 88-89 89-90 90-91 91-92 引 退 95-96
オリンピック 5 2
世界選手権 7 11 8 6 1 2 4 7
全日本選手権 3 2 1 1 1 1 1 1 1 1 1
スケートアメリカ 2 2
スケートカナダ 1
ラリック杯 1
NHK杯 3 1 1 2 2 1 1 1 1
世界Jr.選手権 8 6 3
全日本Jr.選手権 1 1

[編集] 脚注

  1. ^ 当時のヴィットの発言は、フィギュアスケートの採点基準が、芸術点重視から技術点重視に移行しつつある傾向への反論で、伊藤を個人攻撃したものではない。ヴィットは、伊藤が世界選手権で優勝した時にはテレビ解説席を抜け出して控え室に祝福に訪れ、アルベールビルオリンピックスルヤ・ボナリーが練習中の伊藤そばで禁止されているバックフリップ(宙返り)をした際には、「国際スケート連盟に提訴すべき」と発言した。
  2. ^ テレビ朝日驚きももの木20世紀」より。[要出典]
  3. ^ 男子選手としての初成功は、 トリプルトウループ-トリプルトウループは80年(ポーランドのグジェゴシュ・フィリポウスキー。なお、この記録は同時に、女子選手として初の3回転3回転のコンビネーションジャンプ成功も意味する
  4. ^ ちなみに、女子選手としてトリプルアクセルのコンビネーションジャンプの初成功はアメリカのトーニャ・ハーディング[91年スケートアメリカSP(トリプルアクセル-ダブルトウループ)]伊藤は、 国際大会では 91年NHK杯

[編集] 関連書籍

  • 『タイムパッセージ-時間旅行』伊藤みどり著 紀伊國屋書店(1993/01) ISBN 9784314100816
  • 『氷上の宝石-伊藤みどり写真集』あすか書房(1993/09) ISBN 9784317800362
  • 『銀盤のエンジェル-伊藤みどり物語』藤崎康夫著 エフエー出版(1992/12) ISBN 9784872080360

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
ホーコン王太子
1994
冬季オリンピック
聖火最終点火者

1998
次代:
1980年アメリカアイスホッケーチーム
2002