山本浩二

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山本 浩二 (山本 浩司)
Koji Yamamoto on March 8, 2013.jpg
2013年WBC日本代表での山本 浩二
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県広島市佐伯区
生年月日 1946年10月25日(67歳)
身長
体重
183 cm
82 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1968年 ドラフト1位
初出場 1969年4月12日
最終出場 1986年10月27日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
監督・コーチ歴
野球殿堂(日本)
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選出年 2008年
選出方法 競技者表彰

山本 浩二(やまもと こうじ、1946年10月25日 - )は、広島県広島市佐伯区出身の元プロ野球選手外野手)・プロ野球監督。本名及び旧登録名は「山本 浩司」(1974年まで)[1]

現役時代は広島東洋カープで長きに渡って活躍した。「ミスター赤ヘル」の愛称で親しまれ、引退後も広島監督を2度務めた。北京オリンピック野球日本代表守備走塁コーチ。2013年WBC日本代表監督。

経歴[編集]

アマチュア時代[編集]

1946年、広島県佐伯郡五日市町(現・広島市佐伯区)に生まれる。子供の頃、父に連れられ、当時の広島カープの本拠地・広島県営球場太田川対岸から渡し船で何度も通った。この時代の広島の主力選手であったエースピッチャー長谷川良平、4番打者・小鶴誠、韋駄天・金山次郎に憧れ、これらを全部足した選手になりたいと夢見て野球に打ち込んだ。

16歳の時、自分自身の力で甲子園へ行くため、また大学進学を視野に入れた家族の意向もあって、野球では全くの無名だった広島県立廿日市高等学校へと進学。入学入部と同時にエース・4番打者となる(県内の同期には高橋一三小川邦和らがいる)。3年時には主将として広島県予選を勝ち抜き、もう少しで甲子園に手が届く所まで勝ち進んだが、準決勝で広陵高等学校に17安打を打たれ涙を飲んだ。

しかし、その評判を人伝に聞いた南海ホークス鶴岡一人監督の目に留まる。鶴岡は「今プロに入っても通用しない」と大学進学を勧め、それを受けて1965年、高校卒業と同時に法政大学に入学した。鶴岡は後年、当時の山本について「投手としてはともかく、打撃には非凡なものを感じた」と語っている。

大学進学後、投手として野球部に入部したが、1年生部員だけで50人いた当時の法大では台頭できず、すぐにエリートコース(合宿組)に入った田淵幸一と違い、富田勝桑原秀範らと共に一般部員の立場に甘んじていた。2年生時、山中正竹の入部をきっかけに外野にコンバートされ、松永怜一監督に個人特訓を受けて打撃の才能が開花。2年生にしてクリーンナップに抜擢される。やがて山本は、田淵、富田と共に「法政三羽ガラス」の異名を取り、法政黄金時代を築き上げる大きな原動力となった。リーグ通算で65試合出場、229打数67安打、打率.293、8本塁打、30打点の成績を残し、ベストナインを2回獲得した。

現役時代[編集]

1968年のドラフト1位で広島東洋カープに入団。入団当初の背番号は27だったが、山内一弘引退後、背番号8を譲り受けた。

1969年4月12日開幕戦で6番打者・中堅手としてスタメン出場し、初出場を果たす。レギュラーの座を勝ち取ると、シーズン後半には4番打者などのクリーンナップを任されるようになり、1970年は3番打者、1971年は主に5番打者、1972年は主に1番打者や5番打者を務めるなど、チームの主力として活躍した。しかし打撃の成績自体は特筆されるようなものがなく、長らく平凡な中距離打者として脇を固めていた。その後、根本陸夫上田利治関根潤三広岡達朗ら指導者にも恵まれ、徐々に成長を見せる。1974年には主に3番打者を務め、打率.275、28本塁打、74打点という好成績を残した。同年シーズンオフ、姓名判断で「浩司という名前は勝負師に向かない」と言われたため、名前を「浩司」から「浩二」に改名した。

翌年の1975年6月下旬から4番打者に定着。オールスターゲーム第1戦では、セ・リーグの3番として4番王貞治、5番田淵幸一とクリーンアップを組み、6番に入った衣笠祥雄と共に二打席連続アベック本塁打を放った。このアベック本塁打は、オールスターゲームの名場面としてよく紹介される。同年シーズンは好調を維持し、首位打者をかつての同僚である中日の井上弘昭と最後まで争い、首位打者を獲得した。最終的に打率.319、30本塁打、84打点、24盗塁という自己最高の成績を記録し、自身初のシーズン打率3割とシーズン30本塁打を達成。チーム初優勝に大きく貢献すると共に、シーズンMVPに輝いた。優勝を決めた10月15日の対巨人戦(後楽園)では人目もはばからず男泣きし、広島の人々から郷土の英雄として「ミスター赤ヘル」の二つ名を送られた。

打者として本格的に才能が開花したのは30代になってからであった。開花したきっかけは、法政大学時代から持病となっていた腰痛である。年が経つにつれてそれがひどくなり、自らは休養を求めたが、古葉監督が休養を許さなかったため、出場を続けた。そうした中で、山本は腰にできるだけ負担をかけずに球を遠くに飛ばす広角打法を習得。これにより右翼への流し打ち本塁打の名手になり、長距離打者として開眼した。

1977年から5年連続40本塁打を記録。この記録を持つのは王貞治と山本のみである。1978年1980年1981年1983年と4度の本塁打王に輝き、打点王も3度獲得した。また、強肩巧守のセンターとしても鳴らし、1972年から1981年までゴールデングラブ賞を10年連続で受賞。通算10回受賞はセ・リーグの外野手としては歴代最多である。外野手として残した通算4637刺殺、通算154補殺、通算4830守備機会は、それぞれセ・リーグ記録であり、日本プロ野球歴代でも2位に位置する。1975年には302守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を樹立しており、守備機会の多さの割に通算失策数も39と少なく、技術の高い捕球や正確無比な送球で知られた。足も速く、11年連続でシーズン2桁盗塁を記録しており、通算でも231個の盗塁を記録している。このように走攻守の三拍子揃った選手として、衣笠祥雄との500本塁打コンビはYK砲と呼ばれ、王貞治と長嶋茂雄のコンビのON砲(106本塁打)に次ぐ日本プロ野球歴代2位の86本のアベック本塁打を放っている。他に水谷実雄三村敏之らと共に広島黄金時代を築いた。

1980年頃を境に足や肩に陰りが見え始めたことや、長嶋清幸山崎隆造が台頭してきたこともあり、1983年より左翼手コンバート。同年4月30日の対阪神戦(甲子園)ではサイクル安打を記録した。1984年より打撃コーチを兼任し、この年はタイトルを逃したものの好成績を残して日本一に貢献、王貞治(現役最終年の1980年当時)を抜いてこの頃の球界最高額となる年俸8500万円で契約した。1985年には史上2人目の通算500本塁打・200盗塁を達成(この記録を持つのは張本勲、山本、衣笠の3人のみ)。

1986年、リーグ優勝を花道に、40歳で現役引退した。この年、チームは130試合制の129試合目にリーグ優勝を決め、日本シリーズも第8戦まで行ったため、日本シリーズ第8戦が事実上の引退試合となった。試合には敗れ、西武に優勝を譲ったが、広島ナインから惜別の胴上げを受け広島市民球場は万来の浩二コールに包まれた。翌日の引退会見の際、涙ながらに「山本浩二は幸せな男です」と述べた。

名の通った大選手でも、プロ入り当初や現役晩年は出場が少なかったり成績が振るわなかったりするが、山本は1年目から引退年までほぼ全試合に出場し、成績も極端に下降することはなかった。最終年の1986年にも打率.276を記録し、27本の本塁打を放っている。早すぎる引退に見えるが、持病の腰痛の悪化が大きかったとされる。

大学出身者での通算536本塁打は日本最多記録である。7度にわたる打点・本塁打のタイトルはいずれも30歳以降であり、通算本塁打の7割を30代以降で放つなど、典型的な大器晩成型の選手であった。その功績を讃え、背番号8」は広島球団史上初の永久欠番となっている。

引退後・監督時代[編集]

引退後は1987年からNHK野球解説者日刊スポーツ野球評論家を務め、1989年、広島監督に就任する。1989年、1990年はリーグ2位、1991年にはリーグ優勝、日本シリーズでは西武に3勝4敗で敗れる。しかし1992年に4位(10年ぶりのBクラス)、1993年に19年ぶりとなる最下位となり、その責任をとる形で辞任した。1993年はサヨナラ負け14回(ワーストタイ)を記録している。

その後、日本テレビ広島テレビで解説者をしていたが、球団の要請で2001年再び広島監督に就任。在任中に一度もAクラスになることなく、2005年に成績不振(12年ぶりの最下位)により2度目の辞任。監督としての在任期間(第1期・第2期合わせて)は10年間で古葉竹識白石勝巳の11年に次ぐ。

監督時代、第一期では前田智徳緒方孝市江藤智など、第二期には新井貴浩嶋重宣栗原健太を打線の主力として育成した。

2006年より、日本テレビ・広島テレビ解説者に復帰。また2007年星野仙一監督の下、北京オリンピック野球代表チームの守備走塁コーチに就任し、結果は4位に終わった。2008年野球殿堂入り。2010年日本プロ野球名球会副会長に就任する。2012年第3回WBC日本代表の監督に就任。

特筆[編集]

人物[編集]

のんびり屋の性格で、後に妻になる鏡子夫人が、神宮球場に憧れの山本本人を見に来ているのを見ながら、「あれ(鏡子夫人のこと)、誰の彼女じゃろか?」と感じていたほど呑気であったという。

現役時代、王貞治、田淵幸一、星野仙一平松政次松岡弘と共に、細川たかしの「六つの星」という歌にバックコーラスで参加したことがある。しかし この曲のジャケット写真 では、なぜか山本だけがビジター用のユニフォームを着ていた。その理由は現在でも不明である。

現役時代の移動時に着用していた黒スーツストライプ入り等)、パンチパーマなど、衣笠祥雄江夏豊らと新幹線ホームに立つと迫力があった。西崎幸広阿波野秀幸水上善雄ヤクルトの選手らがお洒落な髪型にしたり、DCブランドを着始める前まで、プロ野球選手の私服や移動時はこうしたファッションが主流だった。鼠先輩岡山県赤磐市出身)も自身のパンチパーマにヤクザ風のスーツファッションは、現役時代の山本と衣笠を意識したものと話している[2]

ヤマザキの「エイトドーナツ」の袋に描かれている野球選手である。

野球[編集]

現役時代は投手の配球を読むのが上手く、「読みのコージ」とも呼ばれた。

山本は29歳で首位打者をとるまでは3割を一度も打ったことがなく、本塁打も30本を超えたことはなかった。しかし31歳となる1977年に44本塁打を放つと、以降は3割以上の打率をコンスタントに残すようになり、更に本塁打を量産するようになった(37歳となる1983年にも、36本塁打で4度目の本塁打王に輝いている)。通算536本塁打のうち30歳を過ぎてから367本を放ち、大器晩成型のスラッガーとして有名な打者である。

腰痛の有名なエピソードとして次のようなものがある。1975年8月7日ヤクルト戦の試合前の練習中に山本はぎっくり腰になってしまい、試合への欠場を古葉監督に願い出た。しかし、古葉監督は聞き入れず、4番センターで山本をスタメン出場。腰の激痛で、山本は打席に立っても、ほとんどバットを振れなかった。試合は混戦に突入し、8回の時点で7対7の同点。そしてその回にランナーを3塁に置いて、山本に打席が回ってきた。山本は腰の痛みをこらえ、外角にきた直球をミートすると、打球は右翼席まで飛んでいき、9対7とする勝ち越し本塁打となった。

現在、球場でファンが選手の名前で大声援することを「○○コール」と呼ばれているが、これは山本が「ミスター赤ヘル」としてチームを引っ張るようになってから、打席に立つたびに「浩二! 浩二!」というファンからの大声援が起こるようになり、マスコミがそれを「浩二コール」と名付けて広めたためである、といわれている。また、トランペットなどの楽器(鳴り物)による応援は、山本の打席で行われたのが最初だといわれている(昔は声での応援しか行なわれていなかった。広島東洋カープも参照のこと)。

オールスターゲームに強く、打率・本塁打・打点・得点がそれぞれ歴代3位以内に入っている。また、本塁打数は歴代最多である。

ヘディング事件」といえば元中日の宇野勝(1981年8月26日)が有名であるが、これより前に山本も同年4月19日の巨人戦でセンターフライを頭に当てて落球したことがある。

2007年、オリンピック野球日本代表守備走塁コーチに就任し、三塁ベースコーチを務める。三塁ベースコーチの経験がないので、それを不安視する声に対し、「俺は現役時代守備や走塁に人一倍気をつけてきた」といい、「500本以上本塁打を打っている選手で、守備や走塁を教えることができるのは、俺だけじゃないか」と不安説を一蹴した。ただ、練習試合では監督からのサインを見落としたことを認めることがあった。

交友関係[編集]

大学の同期であった田淵幸一(後のダイエー監督)、六大学リーグで何度となく対戦した星野仙一(後の中日・阪神・楽天監督)とは、大学時代から同学年の親友として有名である。大学入学後、田淵が山本に東京の案内をしたのがきっかけで二人が仲良くなったあと、あまりに二人が仲がいいので大学は違うが星野が妬いて入ってきたという。

プロ入り後、みな家庭を持った後も、シーズン中に対戦があると良く互いの家に泊まりあっていた。敵チームの選手宅に泊るのは好ましいことではないが、ファンも彼らのことは黙認していたという。また、山本が現役引退を決意した時、最初に打ち明けたのも田淵と星野であり、星野が阪神の監督辞任を決意し、田淵に「次(監督)お前やれ」と伝えた(田淵は固辞)のも、広島の山本宅に向かう途中のタクシーの中だったという。

ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)関係[編集]

2012年10月10日、2013年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に出場する日本代表監督に就任。過去3回中最高の成績で決勝ラウンドまで通過するも、準決勝で1対3でプエルトリコに敗れた。

準決勝の8回裏の重盗失敗に関しては、その条件にかかわらず重盗を試みること自体高いリスクを伴うものの、橋上秀樹戦略コーチは「データ的には100パーセント可能だった」としており、山本自身も試合直後の会見で「井端(弘和)のスタートが遅れて、ああいう結果になった」と分析した[3]

なお、代表監督としては、大会前の早い段階から大会中にかけて、自らの構想と考えられる情報を国内マスコミに漏らす[4][5] ことが多々あった。

詳細情報[編集]

年度別打撃成績[編集]

















































O
P
S
1969 広島 120 404 366 37 88 20 1 12 146 40 9 5 8 1 23 1 6 74 7 .240 .295 .399 .694
1970 128 514 461 67 112 8 4 22 194 56 21 12 4 0 41 1 8 77 7 .243 .316 .421 .737
1971 123 484 431 42 108 19 0 10 157 52 25 10 4 4 39 1 6 56 7 .251 .319 .364 .683
1972 130 557 485 73 125 27 0 25 227 66 18 11 10 5 52 1 5 55 9 .258 .333 .468 .801
1973 126 526 449 68 121 24 1 19 204 46 10 12 12 3 59 1 3 75 10 .269 .356 .454 .810
1974 127 529 476 74 131 23 2 28 242 74 18 8 6 2 41 5 4 72 18 .275 .337 .508 .845
1975 130 526 451 86 144 21 0 30 255 84 24 9 1 5 67 6 2 39 6 .319 .406 .565 .971
1976 129 535 464 79 136 26 3 23 237 62 14 7 3 2 62 2 4 57 13 .293 .380 .511 .890
1977 130 552 448 102 138 24 4 44 302 113 22 4 0 6 94 6 4 64 12 .308 .428 .674 1.102
1978 130 563 473 114 153 28 0 44 313 112 12 4 0 4 84 9 2 74 10 .323 .425 .662 1.086
1979 130 556 467 90 137 20 0 42 283 113 15 5 0 6 81 10 2 71 8 .293 .496 .606 1.002
1980 130 539 440 91 148 28 3 44 314 112 14 12 0 7 87 11 5 52 13 .336 .445 .714 1.159
1981 130 553 473 102 156 21 0 43 306 103 5 3 0 4 73 7 3 56 12 .330 .420 .647 1.066
1982 130 544 448 84 137 21 0 30 248 90 8 3 0 7 87 9 2 56 14 .306 .415 .554 .969
1983 129 558 462 86 146 19 2 36 277 101 5 6 0 8 85 11 3 62 11 .316 .419 .600 1.019
1984 123 508 437 64 128 15 0 33 242 94 5 4 0 5 64 2 2 59 12 .293 .382 .554 .936
1985 113 460 382 57 110 15 1 24 199 79 2 2 0 6 71 5 1 55 14 .288 .396 .521 .917
1986 126 501 439 48 121 13 0 27 215 78 4 2 0 4 58 6 0 69 10 .276 .367 .490 .847
通算:18年 2284 9409 8052 1364 2339 372 21 536 4361 1475 231 119 48 79 1168 94 62 1123 193 .290 .381 .542 .923
  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別監督成績[編集]

年度 順位 試合数 勝利 敗戦 引分 勝率 ゲーム差 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢 球団
1989年 2位 130 73 51 6 .589 9 101 .271 3.01 43歳 広島
1990年 2位 132 66 64 2 .508 22 140 .267 3.57 44歳
1991年 1位 132 74 56 2 .569 88 .254 3.23 45歳
1992年 4位 130 66 64 0 .508 3 122 .260 3.60 46歳
1993年 6位 131 53 77 1 .408 27 155 .253 4.29 47歳
2001年 4位 140 68 65 7 .511 155 .269 3.82 55歳
2002年 5位 140 64 72 4 .471 21 154 .259 4.36 56歳
2003年 5位 140 67 71 2 .486 20 153 .259 4.23 57歳
2004年 5位 138 60 77 1 .438 20 187 .276 4.75 58歳
2005年 6位 146 58 84 4 .408 29.5 184 .275 4.80 59歳
通算:10年 1358 648 681 29 .488 Aクラス3回、Bクラス7回
※1 1989年から1996年までは130試合制
※2 2001年から2004年までは140試合制
※3 2005年から146試合制

タイトル[編集]

表彰[編集]

記録[編集]

節目の記録
  • 100本塁打:1974年6月13日、対阪神タイガース11回戦(阪神甲子園球場)、6回表に江夏豊から左越ソロ ※史上79人目
  • 150本塁打:1976年5月7日、対大洋ホエールズ5回戦(川崎球場)、7回表に田中章から中越2ラン ※史上41人目
  • 1000試合出場:1976年10月5日、対阪神タイガース25回戦(広島市民球場)、4番・中堅手で先発出場 ※史上187人目
  • 1000本安打:1977年5月22日、対読売ジャイアンツ6回戦(後楽園球場)、9回表に定岡正二から右前安打 ※史上101人目
  • 200本塁打:1977年8月11日、対阪神タイガース16回戦(広島市民球場)、8回裏に宮田典計から左中間へ3ラン  ※史上27人目
  • 250本塁打:1978年9月6日、対中日ドラゴンズ19回戦(ナゴヤ球場)、1回表に青山久人から中越2ラン  ※史上15人目
  • 300本塁打:1980年4月8日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(広島市民球場)、1回裏に遠藤一彦から右越先制2ラン ※史上12人目
  • 1500本安打:1980年9月7日、対阪神タイガース19回戦(広島市民球場)、2回裏に山本和行から中前安打 ※史上40人目
  • 1500試合出場:1980年9月11日、対中日ドラゴンズ23回戦(ナゴヤ球場)、4番・中堅手で先発出場 ※史上64人目
  • 350本塁打:1981年4月28日、対中日ドラゴンズ4回戦(広島市民球場)、1回裏に三沢淳から左越先制2ラン ※史上10人目
  • 3000塁打:1981年6月18日、対読売ジャイアンツ15回戦(広島市民球場)、6回裏に定岡正二から ※史上16人目
  • 1000打点:1981年8月2日、対中日ドラゴンズ19回戦(広島市民球場)、1回裏に都裕次郎から左越先制2ラン ※史上13人目
  • 1000得点:1981年8月20日、対読売ジャイアンツ24回戦(広島市民球場)、1回裏に水谷実雄の先制決勝2点適時二塁打で生還 ※史上14人目
  • 400本塁打:1982年6月25日、対読売ジャイアンツ11回戦(広島市民球場)、6回裏に鹿取義隆から左中間へソロ ※史上8人目
  • 300二塁打:1982年7月14日、対横浜大洋ホエールズ13回戦(横浜スタジアム)、4回表に竹内広明から右中間二塁打 ※史上21人目
  • 3500塁打:1983年5月18日、対中日ドラゴンズ4回戦(ナゴヤ球場)、2回表に小松辰雄から左前安打 ※史上11人目
  • 450本塁打:1983年10月3日、対読売ジャイアンツ25回戦(浜松球場)、7回表に堀内恒夫から左越ソロ ※史上7人目
  • 2000本安打:1984年5月5日、対読売ジャイアンツ4回戦(後楽園球場)、4回表に槙原寛己から左前安打 ※史上19人目
  • 2000試合出場:1984年8月1日、対横浜大洋ホエールズ16回戦(広島市民球場)、4番・左翼手で先発出場 ※史上18人目
  • 1000三振:1985年5月5日、対横浜大洋ホエールズ5回戦(広島市民球場)、1回裏に遠藤一彦から ※史上9人目
  • 350二塁打:1985年6月5日、対横浜大洋ホエールズ11回戦(広島市民球場)、1回裏に関根浩史から ※史上14人目
  • 4000塁打:1985年6月13日、対阪神タイガース9回戦(広島市民球場)、3回裏に伊藤宏光から左前安打 ※史上8人目
  • 500本塁打:1985年7月26日、対中日ドラゴンズ12回戦(ナゴヤ球場)、2回表に杉本正から左中間へソロ ※史上4人目
その他の記録
  • シーズン40本塁打以上:5回(1977年 - 1981年)※歴代3位タイ
  • シーズン30本塁打以上:9回(1975年、1977年 - 1984年)※歴代3位タイ
  • シーズン100打点以上:6回(1977年 - 1981年、1983年)※歴代3位
  • 5年連続シーズン40本塁打以上(1977年 - 1981年)※歴代2位
  • 8年連続シーズン30本塁打以上(1977年 - 1984年)※歴代3位
  • 13年連続シーズン20本塁打以上(1974年 - 1986年)※歴代3位タイ
  • 5年連続シーズン100打点以上(1977年 - 1981年)※歴代3位タイ
  • 17年連続シーズン100安打以上(1970年 - 1986年)※歴代4位タイ
  • サイクルヒット:1983年4月30日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場) ※史上36人目
  • 9打数連続安打(1972年7月6日 - 7月8日)
  • 302守備機会連続無失策(1975年4月5日 - 9月24日)※外野手としてのセ・リーグ記録
  • 872試合連続出場(1976年10月22日 - 1983年8月28日)※歴代11位
  • 入団の年から引退の年まで規定打席到達(1969年 - 1986年)
  • 通算500本塁打・200盗塁達成(1985年7月26日)※史上2人目
  • 通算満塁本塁打:11本(1972年、1974年、1977年、1978年、1980年、1981年、1982年、1983年、1984年)※歴代9位タイ
  • 通算長打率:.5416(1969年 - 1986年)※歴代10位
  • 通算外野手刺殺:4637 ※歴代2位、セ・リーグ記録
  • 通算外野手補殺:154 ※歴代2位、セ・リーグ記録
  • 通算外野手守備機会:4830 ※歴代2位、セ・リーグ記録
  • オールスターゲーム出場:14回(1973年 - 1986年)
  • オールスターゲーム通算打率:.316 ※100打数以上では歴代3位
  • オールスターゲーム通算本塁打:14本 ※歴代1位
  • オールスターゲーム通算打点:27 ※歴代3位タイ

背番号[編集]

  • 27 (1969年 - 1970年)
  • 8 (1971年 - 1986年、2001年 - 2005年)
  • 88 (1989年 - 1993年)

登録名[編集]

  • 山本 浩司(やまもと こうじ)(1969年 - 1974年)
  • 山本 浩二(やまもと こうじ)(1975年 - )

関連情報[編集]

レコード[編集]

著書[編集]

  • 「栄光の背番号8 これがオレの野球人生だ」(1986年、交通タイムス社)
  • 「浩二の赤ヘル野球」(1989年 文藝春秋) 1987~88年週刊文春に連載されたコラムを加筆修正し収録

漫画・アニメ[編集]

野球解説者としての出演[編集]

NHK時代
日本テレビ・広島テレビ時代

ドラマ[編集]

映画[編集]

  • BADBOYS(2011年、全力エージェンシー)特別出演

バラエティ[編集]

CM[編集]

現役時代
  • ヒロウン「リーグスター野球用品」
  • ますやみそ 味噌(広島ローカル。『の良さが決め手』がキャッチフレーズで、津田恒実に「ウチのチームと一緒ですね! ねぇ、浩二さん!」とギャグを言われる)
  • ゴールドもみじ(広島ローカル。『ゴールドもみじはお菓子のホームラン王です』というフレーズを言う)
引退後

脚注[編集]

  1. ^ 第13回 改名で開運「浩司」から「浩二」へ”. Sponichi Annex. 2014年7月2日閲覧。
  2. ^ 週刊プレイボーイ集英社、2008年7月7日号、159頁
  3. ^ “山本監督 相手の投手陣に勢いあった”. NHKニュース (日本放送協会). (2013年3月18日). オリジナル2013年3月23日時点によるアーカイブ。. http://megalodon.jp/2013-0323-1722-34/www3.nhk.or.jp/news/html/20130318/k10013276141000.html 2013年3月23日閲覧。 
  4. ^ 侍ジャパン2番に稲葉内定 浩二監督「状況に応じた打撃できる」”. スポーツニッポン. 2013年3月29日閲覧。
  5. ^ 侍ダブル1番鳥谷、長野/WBC”. 日刊スポーツ. 2013年3月29日閲覧。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]