達川光男

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達川 光男
Mitsuo Tatsukawa
基本情報
国籍 日本
出身地 広島県広島市牛田(現東区牛田)
生年月日 1955年7月13日(52歳)
身長
体重
177cm
75kg
選手情報
投球・打席 右投右打
守備位置 捕手
プロ入り 1977年 4位
初出場 1978年7月11日
最終出場 1992年
経歴
Template  ウィキプロジェクト 野球選手

達川 光男(たつかわ みつお、1955年7月13日 - )は、広島県広島市牛田(現東区牛田)出身のプロ野球選手捕手)・プロ野球監督野球解説者。現在はフジテレビテレビ新広島ニッポン放送毎日放送ラジオ(本数契約のゲスト出演)、J SPORTS解説者、スポーツ報知評論家として活躍している。

広島監督時代は登録名を達川 晃豊(読み同じ)としていた。監督辞任後は本名に戻して活躍中。愛称は「タツ」「タツさん」「たっちゃん」。独特の軽妙な広島弁が魅力である。

目次

[編集] 来歴・人物

1973年迫田穆成監督率いる広島商業時代、春のセンバツに出場し準優勝。特に江川卓投手の作新学院を待球戦術などで下した試合は現在でも語り草である。同年夏の甲子園にも出場し優勝。その後東洋大学を経て、1977年ドラフト4位で広島東洋カープに入団した。入団当時の広島は水沼四郎道原裕幸が活躍していたため、長く控えに甘んじていたが、6年目にようやく正捕手の座を射止めると、その頭脳的なプレーで味方投手を援護、あるいは相手チームを撹乱し、黄金期の広島投手王国を長きにわたってリードし続けた。1992年限りで引退。

達川といえば「ささやき戦術」「デッドボール」(ともに後述)などのトリックプレーで知られるが、ピッチャーにノーサインでボールを投げさせ、それを一つも取りこぼさず捕球するなど、キャッチャーとしての技術にも確かなものを持っていた。入団直後の達川は、当時リリーフエースであった江夏豊によると、プロに入団した選手とは思えないほどひどいキャッチングだったと言うが、持ち前の明るさでチームに溶け込み、ブルペンでは率先して先輩投手の球を受けるなど努力を欠かさず、その後の地位を築いた。打者としては、生涯成績にも記されているようにシーズンを通して打率2割8分・本塁打10本を超えたことが一度もなく、優秀な選手とは言えないが、努力を重ねて当時のセリーグを代表するキャッチャーに成長した。ちなみにチームメイトだった大野豊とは同学年で、現役時代からの親友でもある。

1992年に引退した後は、野球解説者として人気を博した。1995年王貞治監督の要請で福岡ダイエーホークスのバッテリーコーチに就任。現役時代から仲が悪かった高橋慶彦打撃・走塁コーチと、ベンチ内の選手もいる前で2度も取っ組み合いのケンカをするなどして王監督を困らせたが、城島健司ら若手を育成し後の常勝チームへと繋がる礎を作った。同年オフに退団。1996年1997年はフジテレビ・テレビ新広島・ニッポン放送の解説者を務める。

1998年、二軍監督として6年ぶりに広島に復帰し、翌1999年には監督に昇格(昭和30年代生まれで初めての一軍監督である)。鬼軍曹として知られる大下剛史をヘッドコーチに招いて「胃から汗が出る」ほどの猛練習で若手の底上げを図ったが、選手と年が近かったため(達川の現役時代のチームメイトも多数残っていた)、投手交代時に「代えてもいいか」と聞くなど、選手に厳しく接しきることが出来なかった。また、「ビッグ・レッド・マシン」と呼ばれた打撃陣は好調だったが、長年の課題だった投手陣の崩壊を止めることはできなかった。

また2000年には、4番として前田智徳を起用するが怪我で離脱し、FA権を行使して読売ジャイアンツに移籍した江藤智の穴埋めとしてジェフ・ボールを獲得したが期待外れに終わるなど(そのためルイス・ロペスが復帰することになる)、誤算も相次いだ。結局チームは2年連続5位に終わり、成績不振の責任を取る形で同年辞任した。ただ、後に阪神に移籍した金本知憲は達川監督時代を振り返り「チームは弱かったけど楽しかった」と語っている。

その後はフジテレビで解説者・評論家をしていたが、2003年星野仙一監督率いる阪神タイガースにバッテリーコーチとして招聘され、同年のリーグ優勝に大きく貢献した。そして星野監督の勇退とともにチームを去り、翌年野球解説者として三度目の復帰(このときからMBSラジオの中継にも登場するようになる)。現役時代の応援歌は仮面の忍者赤影のテーマソングだった。

[編集] 略歴

  • 身長・体重:177cm 75kg
  • 投打:右投右打
  • 出身地:広島県広島市東区
  • 血液型:O型
  • 球歴・入団経緯:広島商高 - 東洋大 - 広島(1978年~1992年) - テレビ新広島・フジテレビ野球解説 - ダイエーコーチ(1995年) - テレビ新広島・フジテレビ野球解説 - 広島二軍監督・一軍監督(1998年~2000年) - テレビ新広島・フジテレビ野球解説 - 阪神コーチ(2003年) - テレビ新広島・フジテレビほか野球解説 
  • プロ入り年度:1977年(4位)
  • 英語表記:TATSUKAWA
  • 守備位置:捕手

[編集] 背番号

[編集] 経歴・タイトル

[編集] 年度別打撃成績

年度 チーム 試合 打率 安打 本塁打 打点 盗塁
1978年 広島 12 .214 6 0 1 0
1979年 49 .222 18 0 3 0
1980年 9 .200 1 0 0 0
1981年 49 .221 25 1 10 1
1982年 77 .210 37 3 13 0
1983年 116 .252 83 5 41 1
1984年 117 .244 76 7 33 1
1985年 95 .230 53 4 31 0
1986年 128 .274 114 9 46 1
1987年 130 .256 107 8 34 2
1988年 122 .261 100 6 38 2
1989年 109 .227 63 4 22 1
1990年 101 .265 72 3 33 3
1991年 120 .237 85 1 39 3
1992年 100 .233 55 0 14 2
通算成績 1334 .246 895 51 358 17

[編集] 監督としてのチーム成績

年度 チーム 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1999年 平成11年 広島 5位 135 57 78 0 .422 152 .260 4.78 44歳
2000年 平成12年 5位 136 65 70 1 .481 150 .256 4.48 45歳
※1999年から2000年までは135試合制

[編集] 監督通算成績

  • 271試合 122勝148敗1分
  • Bクラス2回

[編集] エピソード

[編集] ささやき戦術

  • 捕手としての達川は、野村克也日比野武と並ぶ「ささやき戦術」を駆使することで知られている。しかし、野村がバッターの弱味を突いて集中力を奪っていたのに対し、達川のそれは世間話やウソなどで相手の思考を撹乱する、いわば「明るいささやき」であった。広島弁で「今日飲みに行くん?」など、野球と全く関係ない話題を振って打者を混乱させたり、「初球はど真ん中にストレートが来る」とわざと配球を教え、いぶかしむ打者をよそにその通りの球を投手に投げさせ、見逃したところに「折角教えたったのに、もうあんなええ球来んぞ?」と煽る言葉を投げかけたり、好調な打者や主力打者に対して「悪いが一球顔の前に通させてもらうけぇのう」と脅すなど、虚々実々の駆け引きを用いて投手陣を陰で支えた。
  • また、時には味方ピッチャーを大声でまくしたて、敵味方だけでなく観客の失笑を買うこともあった。ヤクルト大杉勝男と対戦した際、マウンドの津田恒美のコントロールが定まらず、落ち着かせるつもりで「こいつぁー石ころじゃけぇ、安心して投げてきんさい」と叫んだところ、怒った大杉はその直後津田から特大ホームランを放ち、達川はベースを一周した大杉に「石ころだと?ふざけるな!」と一喝された上に思いきり頭を殴られている。
  • 1984年の日本シリーズ阪急ブレーブスを下し日本一に輝いた際、広島ローカルの特番でこんな話をしている。
    「つぶやくとね、弓岡なんかぶつぶつ怒るんですよ。『達川さん、黙ってくださいよー』言ってね。(投手だが日本シリーズのために打席に立つ)今井さんと山沖は乗ってくるんですよね、すぐ。まぁ軽い男ゆうたら失礼ですけどね。ホント軽い男なんですけどね。今井さんなんかは、北別府だったんですけどね、一球振ったんですよ。『あ、今井さん、バッティング練習してないのになかなか当たるじゃないですか』言うたら『ほうじゃろうがぁ』言うから『あぁすごいですね。じゃあ、スライダーはどうですか』言うたら空振りしたんですよ。『スライダーは打てないですねぇ』ほいでツーナッシングなったんですね。『じゃもういっちょスライダー行きますよ。いってくださいよ』言うたら、空振り三振しましてね」
    「で、昨日(第六戦)なんですけど、山本和さんいうのがいるんですが。ま、九回で5点差あってツーアウトだったから、打つ気なかったと思うんですが、山沖に『おまえ打つなよ』言ったら『いや、打ちますよ』言うから『打つな、わりゃ何言いよんなら!山本和さんは女房も子どもも一人おるのに、おまえはいないだろうが。打つなよ』言うたら『はあ、そうですか』言って三振しましたけどね。まぁ、言わなくても三振はしたと思うんですが
  • なお、喋ると頭の回転が良くなり、リードが冴えてくるため、大洋ホエールズがある試合で「達川無視作戦」を決行したが(「絶対喋るな!挨拶からするな!」とミーティングの段階から選手に徹底させたという)、これは、MSNでの達川のコラム「モノが違いますね」によると、加藤博一が提案したもので、この結果達川本人もペースを掴めなくなったということである。

[編集] デッドボール

相手投手の投球が内角を深く攻める投球であった場合、ユニフォームにかすったことを激しくアピールし執拗にデッドボールを主張した。一度それが成功したのでその後は体に近い投球があれば無条件で一塁に走り出す技を会得した。内角球→一塁へ平然と走り出す→捕手と球審が呼び止める→いかに自分がデッドボールに当たったかを必死に説明する。
左腕を投球がかすめた際に、とっさに右手で引掻き傷を作り審判に主張し成功した。
投球がかすめた時にアピールする箇所は何故か手袋をめくった手首付近が多く、打席前にベンチ裏にて何らかの仕込みがあるのではと噂された(実際は際どいボールが来て倒れ込んでいる間に手の甲をつねって腫れさせていたことが多かった)。その仕込みのためか、左手をかすめたのに右手を差し出したという伝説もある。
  • しかし、他のチームの打者に対しては、デッドボールであることが明らかである場合でも「デッドボールではない」と審判のズボンを掴んでまで抗議し、阪神の北村照文から激怒されたこともある。
  • 三塁に走者がいる場面で投球が左足に本当に当たったのだが、当たったボールがそれる間に三塁走者が生還したため、痛みを必死にこらえて暴投であった事をアピールするが、しっかりデッドボールと判定され走者も塁に戻された。その直後に足を引きずりながら一塁に向かう様子は、珍プレー集などで童話「狼少年」を地でいくシーンとして何度も使われた(実はこの時、足の親指の爪が割れて血が噴き出していた)。
  • 特に「東のグラウンドの詐欺師」といわれた大洋の市川和正とはデットボールに関する逸話を数多く作ってきた。また、両者はお互いをかなり意識していたという。死球について当時は「東の金森、西の達川」とも呼ばれたが、当たりっぷりの悲惨な金森に対し、達川はその老獪さが笑いを誘った。
引退した年にゲスト出演したテレビの珍プレー番組の中で「当たってないのに塁に出たのが1回で、当たってても出してもらえなかったことが3回ある」と発言。その後当たってないのに出塁したシーンが2つ映し出されるが「あれはオープン戦ですから」とコメントしている。
  • なお達川は日本シリーズでの最多死球6という記録を持っている。普段達川を見ていないパ・リーグの審判には死球と判定してもらえたらしい。

[編集] コンタクト紛失

  • 達川は2度ほど、試合中にコンタクトレンズを紛失したことがある。コンタクトレンズは当時は高価な品物であったため、2度とも試合は中断され、本塁付近で両軍入り乱れての大捜索劇になり、その様子は観客の爆笑を誘った(最初の紛失の際は突然タイムをかけ地面を探り出した達川に場内騒然となったが、アナウンスの「コンタクトレンズ紛失のため」の一言で場内が大爆笑に包まれた)。このシーンも、上記のデッドボールと共に『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』で頻繁に取り上げられた(TBS系列の『珍プレー・好プレー番組』ではデッドボールに対する天罰だと紹介された)。

[編集] サヨナラインフィールドフライ事件

  • 1991年6月5日大洋戦、2-2で迎えた9回裏の大洋の攻撃は一死満塁、大洋の打者清水義之は本塁付近に飛球を打ち上げた。球審の谷博は「インフィールドフライ・イフ・フェア」を宣告した。ところが達川はこのフライを意図的に捕球せず、落下後にワンバウンドで捕球した。その瞬間、両チームのほぼ全ての選手は混乱を来たし、打者の清水が慌てて一塁に走り出すと、塁上の走者もスタートを切り出した。達川はそのまま本塁を踏むと、まるで勝ち誇ったかのように一塁へ送球したが、三塁走者の山崎賢一が本塁を踏んだ瞬間に、球審の谷は得点を認め、サヨナラによる試合終了を宣告した。
ルールでは、インフィールドフライが宣告された場合は打者走者は無条件でアウトとなるため塁上の走者には進塁の義務はなく、フォースアウトは成立しない。従ってこの場合、達川は本塁を踏むのではなく、山崎に触球しなければいけなかったのである。このプレイでは達川にエラーが記録されているが、達川ばかりでなく大洋の選手達(特にワンバウンドしたのを見て慌てて走った打者の清水と三塁走者の山崎)や、広島ベンチ(試合終了後に球審に抗議をしていた山本浩二監督)もインフィールドフライのルールを知らなかったか忘れていた可能性が高い。ちなみに球審の谷はこの咄嗟の出来事を完璧に裁いたナイスジャッジにより、連盟から表彰を受けている。
なお、前年にオリックス・ブレーブス中嶋聡も同じように併殺を狙ってインフィールドフライを故意に落球し、相手チームに得点を許している。
この事件は翌日の各スポーツ番組、ワイドショーで大々的に報道され、その余波として、ナムコの人気ゲームシリーズファミリースタジアムワールドスタジアムの92年以降のシリーズに「インフィールドフライ機能」が追加設定された。

[編集] 引退試合

  • 引退試合となった1992年の巨人戦では、代打に起用されて涙をこらえながら打席に立ち、ファンの感動を誘った。なお、マスコミに対して引退を発表したのが試合開始前後であり、球場では発表されていなかったため、球場の観客は何故達川が打席で涙をこらえているかがわからなかった。また、その次の回に守備についた時は、大野豊とともにリリーフカーに乗ってグラウンドに登場した。捕手で試合中にリリーフカーに乗ったのは、後にも先にも達川だけである。
  • 「バットを乾かした方がボールがよく飛ぶ」という話を聞いた達川は、引退試合をホームランで飾ろうと、自らのバットを十分に乾かして引退試合に臨んだ。しかし、乾かしすぎたことでかえって脆くなってしまい、結局バットは折れてショートゴロに終わった。これもまた、達川らしいと言えば達川らしいエピソードである。
    • そのバットは試合後ゴミ箱に捨てられていたが、この時アルバイトでバットボーイを務めていた大学生が密かに持ち帰っていた。後にこの大学生はテレビに出演し「達川さんが引退試合で使った折れたバット」とエピソードを披露した。また、中国新聞のカープ50周年特集記事でもこの大学生と折れたバットのエピソードが紹介されていた。
  • 試合後の挨拶では、この日の試合でタイムリーエラーをした巨人の篠塚和典に対し、「特に篠塚君!」と名指しして観客を沸かせ、何か特別に言うことがあるのかと思いきや「以下同文」とオチをつけることを(他の選手にも)数度行い、涙の引退試合から一転、場内を爆笑の渦に巻き込んだ。試合は20時台前半に終わったので、この爆笑の引退挨拶も全国ネットで生放送(大洋vs阪神との2元中継)されている。

[編集] 監督時代

  • 広島の監督をしていた時期、投手陣がボロボロでピッチャーが足りなかった。それに加えて当時の外人枠の関係で外国人ピッチャーは2人までしか使えなかったため、その打開策として、野手登録していたフェリックス・ペルドモをピッチャーとして登板させたことがある。また、代打でペルドモを送った後、そのまま投手の守備に付かせたことがある。
  • 1999年のドラフト会議において、近鉄中日と競合して国学院久我山高校のエース・河内貴哉の指名権を引き当て、広島の松田耕平オーナーから受け取った煙草ラッキーストライクを懐から取り出してその喜びを表現した。これにより、一時期広島ファンの中でラッキーストライク愛好者が増えたという。
  • 監督になってからも現役時代の「詐欺師」の姿勢は変わらず、新井貴浩の明らかなファールボールをホームランだと抗議し、審判だけでなくチームのコーチや、巨人の三塁手だった江藤智、三塁ランナーの金本知憲にまで笑われたことがある(後に本人が語ったところによると、ベンチから見ていたので確信はなかったものの、大事な試合だったので一応抗議に出ただけとのこと。抗議中側にいた走者金本に「入っとるって!のぉ、カネ。お前見てどうだった?」と同意を求めたところ「どうでしょうね…」と暗に否定した答えが返ってきたため「ほうか!お前が言うならファールじゃ」と踵を返してベンチに戻っている)。
  • 2006年4月9日、連続フルイニング出場の世界記録を更新した金本知憲だが、これより早くにこの記録を達成できる可能性があった。広島の4番として出場していた1999年7月20日対阪神戦の7回二死満塁の場面で、当時の達川監督が代打に町田康嗣郎を送ったため、その時点で一旦記録が途切れてしまったのである(その試合前に金本は100試合以上連続フルイニング出場していた)。金本は記録更新後、テレビ取材を受けた際にこの事を尋ねられて苦笑いしていた。

[編集] その他

  • 宇野勝と並んで「珍プレーの殿堂入り」扱いをされている達川だが、宇野がほとんどヘディングプレーを含むエラーのシーンのみ取り上げられているのに対し、達川の珍プレーは上記のデッドボールやコンタクト紛失など枚挙に暇がなく、件数に関して言えば2位以下に圧倒的大差をつけての1位である(日本テレビ系列で放送されている珍プレー番組「勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー」では、「2試合に1回のペースで珍プレーを出していた」という分析結果が紹介されており、20世紀の珍プレーキングに輝いている)。
  • 自分がドラフトにかかるかもしれないという話があったため、ドラフト会議を2巡目の指名までは見ていたが、広島に指名された時はパチンコで遊んでいる真っ最中だった。カープから指名したと挨拶の電話が入った時、後輩たちが慌てて呼びに行ったが、「今、玉出てるから」と言って台の前を動こうとしなかったという。
  • 上述の通り、入団直後は拙い技術しか持ち合わせていなかった達川が努力で技術を向上させ、レギュラーキャッチャーとなった一因に、持ち前の明るさがある。リリーフエースだった江夏は週刊ベースボール内の自身のコラムで「達川は頼んでもいないのに俺の部屋を掃除したり、マッサージをしたりしてくれた。また、ブルペンでは専属のブルペンキャッチャーに詫びを入れた上で私のボールを受けた。捕手としての技術は見てられないようなものだったが、これほど先輩選手から何かを吸収しようとする選手は他にはいなかった」と語っている。
  • 打力も無く、肩も大して強くない達川が「投手王国」広島の正捕手の座を射止めたきっかけについて、本人は以下のように語っている。「6年目の日南キャンプにですね、休みの日にですね、ほかのチームがどんな練習してるか思ってですね、巨人のキャンプ見に行ったんですね、暇だったんで。そしたらですね、当時いた山根がほかのピッチャーに『タツ(達川)が巨人の偵察に行ったぞ』って言ったんですね。それからピッチャーが信用してくれるようになりましたね」
  • 現役時代、川口和久が登板したある試合で、川口があまりにも自分のサインに従おうとしないことに激怒し、試合中にマウンドに詰め寄り「もう勝手にしろ!」とサインを拒否したことがある。その後、バッテリーは滅多打ちに合い、ベンチでコーチに怒られるも、達川は川口を擁護。それ以降、川口は達川に信頼を寄せるようになった。
  • 当時、川口はキャッチングの下手な達川がノーサインで捕れるのか半信半疑だったが、意地になって必死にボールを止め、1球もパスボールしなかった達川の根性にも舌を巻いた。その後厚い信頼関係を築いた二人は、相手チームにサインを盗まれている兆候があるときなど、度々ノーサインで投球をしたが、互いに相手の投げたがっている球、欲しがっている球が分かるので、何も問題が無かったと、川口が自著「投球論」(講談社現代新書)で語っている。
  • 1988年の巨人戦で大野豊とバッテリーを組んでいた試合で、9回2アウトの場面で代打・簑田浩二が起用された。達川は2ストライクからフォークボールを要求。蓑田はファールチップし、達川はワンバウンドで捕球した。しかし、達川は三振だと主張し、飛び跳ねて大げさなアピールを行い、大野の元まで走りハイタッチをしようとした。真面目な大野は明らかに困惑した表情をしていた。
  • 現役時代、どの投手にも分け隔てなく接するため、連れ合っての食事、飲酒等は控えていた。だが同い年の大野豊とは親密に友人付き合いをしていた。
  • 「俺は広島で初めての2000万捕手になるんだ!」と意気込んで広島市民球場の球団事務所での年俸交渉に臨んだある年。球団側は「税金対策だよ達川。この方が君の為になる」と年俸1980万円を提示。それを聞いた達川は、「この20万を足して年俸2000万にして下さい。不足分を私が出すのだから文句は無いでしょう」と、自分の財布から20万円を取り出して詰め寄った。球団もついにその熱意に負け、達川は晴れて球団初の2000万円捕手となった。
  • 達川が監督等に就任して現場復帰している間、テレビ新広島は専属の解説者を置かず、必要に応じてFNS系列局や広島のフロントから解説者を招いていた。達川がいつか解説者に復帰する時に備えた『粋な配慮』だが、そのため広島主催試合の解説を、同じフジ系列の解説者である、対戦相手のOBが務めるケース(中日戦を鈴木孝政、ヤクルト戦を池山隆寛など)がしばしば見られた。
  • 解説者としての達川は、広島弁を交えた的確な解説で概ね好評である。天才的な選手に対してはよく「モノが違いますね」という言葉で評している(この「モノが違いますね」のタイトルで2006年9月、MSNにてコラムを始めた)。ただ、本人は解説者に就任した当初、逆に標準語を話せないことで悩んでいたという。
  • 解説のとき、アナウンサーからの意見に対して「そういうことですね」と返すことが口癖。
  • 松村邦洋モノマネされているが、非常に気に入っている様子で、番組で松村と共演すると、達川本人が「達川のマネをしている松村」のモノマネをすることがある。しかし松村の十八番である『あのね、あの~』の口癖は封印している。
  • 2000年末に放送されたプロ野球珍プレー・好プレー大賞にて「盗塁」の話になった時に、司会の島田紳助山本昌に「盗塁されやすい?」と聞いた時に山本昌が「キャッチャーの中村が肩強いですし、ボクは牽制がうまいんで…」と言った時、「山本昌はクセがありますよ」と言ってしまった。「でも彼はクイックがうまいし、中村も肩がいいから問題ないクセなんですよ。でも、山本昌がホームに放るときと牽制放るときのクセは分かってる」と山本昌の投球のクセを指摘。山本は「8月に直したんですがダメですか?」と質問したが、達川は「いや、それでもダメなんですよ」と返した。しかし、翌年から横浜のコーチに就任することが決まっていた高木豊に「達川さんは現場から解説者に戻るでしょ?ボクは逆に解説者から現場に戻るんですよ。それチェックしてたんですよ。それ言っちゃダメですよ達川さん」と指摘されてしまった。これを紳助は「珍プレー史上初めて、シビアな話になりました」とまとめ、直後に長嶋茂雄の特集が始まることから「この人は本当にそこまで考えているんでしょうか」と笑いをとっていた。
  • 津田恒実とのコンビも「名バッテリー」と呼ばれた。津田がストッパーを務めていた頃、津田の球を受けた時は即座に速球を津田に投げ返していたことから、当時のカープファンの間では「津田の球は150(キロ)だったが、達川(の球)も149(キロ)ぐらい出てたぞ」という評判だった。それだけに、苦楽を共にした津田が亡くなった日のプロ野球ニュースでは、達川は泣きながら思い出を語っていた。
  • 「ツネ(津田の愛称)が出てくると、がっらとナインの雰囲気が変わるなぁ」とマウンドで津田と話しているときに、そう思っていた。
  • 珍プレーで同じく有名な宇野勝を「彼ほど正直な男はいない」と評価している。理由は宇野勝が打席に立っていた時審判にストライクをボールと判定されて「今のをボールというのなら僕は(野球を)やめます。次宇野が打席に立ったら聞いてみます」と審判に言い、宇野が次に打席に入った時に「ウーやん、さっきの1-2からのボールはストライクだな?」と宇野に聞くと「はい、確かにストライクです」と宇野は正直に答えたとのこと。
  • 後に甲子園通算20回出場・40勝をあげる木内幸男が甲子園を目指すきっかけとなったのは、達川の言葉に因るものである(詳細は木内幸男項目を参照のこと)

[編集] 現在の出演番組

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

先代:
三村敏之1994年1998年
広島東洋カープ監督
1999年2000年
次代:
山本浩二2001年2005年
※カッコ内は監督在任期間。
広島東洋カープ
1977年ドラフト指名選手
1位:田辺繁文 / 2位:下地勝治 / 3位:林正毅 / 4位:達川光男 / 5位:川中圭三 / 6位:高木真一