達川光男

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達川 光男
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 広島県広島市東区
生年月日 1955年7月13日(56歳)
身長
体重
177cm
75kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1977年 ドラフト4位
初出場 1978年7月11日
最終出場 1992年10月4日(引退試合)
経歴(括弧内は在籍年)
選手歴
監督・コーチ歴

達川 光男(たつかわ みつお、1955年7月13日 - )は、日本の元プロ野球選手捕手)、元プロ野球監督野球解説者

広島東洋カープの正捕手として、1980年代に活躍した。監督時代は登録名を達川 晃豊(読み同じ)としていた。監督辞任後は本名に戻し、現在はフジテレビテレビ新広島ニッポン放送J SPORTS解説者、スポーツ報知評論家として活動している。

広島県広島市出身で、独特の軽妙な広島弁が特徴である。愛称は「タツ」「タツさん」「たっちゃん」など。

目次

[編集] 経歴・プレースタイル

[編集] プロ入り前

1973年迫田穆成率いる広島商業高校時代、春のセンバツに出場し準優勝。特に江川卓を擁する作新学院を待球戦術などで下した試合は現在でも語り草である。同年の夏の甲子園にも出場し優勝。その後、東洋大学へ進学。同野球部では松沼雅之バッテリーを組み、1976年春季リーグでのチーム初優勝に貢献した。東都大学リーグ通算90試合出場、283打数64安打、打率.226、3本塁打、25打点。ベストナイン1回。

1977年のドラフト会議広島東洋カープから4位指名を受け、入団。テレビでドラフトの様子を2巡目までは見ていたが、自分の名前が出ないためパチンコに行ってしまい、指名されたと後輩が伝えに来たときは大当たりの途中で台から動けなくなっていた[1]。また、指名がなかった場合は本田技研の野球部に進むことが内定していたという[1]背番号40

[編集] 現役時代

入団当時の広島は水沼四郎道原裕幸といった捕手が活躍していたため、長く控えに甘んじていた。当時リリーフエースであった江夏豊週刊ベースボール内の自身のコラムで「入団直後の達川のキャッチングはプロに入団した選手とは思えないほどひどいものであった。しかし、持ち前の明るさでチームに溶け込み、頼んでもいないのに俺の部屋を掃除したり、マッサージをしたりしてくれた。ブルペンでは率先して先輩投手の球を受けるなど努力を欠かさなかった。これほど先輩選手から何かを吸収しようとする選手は他にはいなかった」と語っている。6年目にようやく正捕手の座を射止めた。

この頃について、達川は後にこう語っている。

「6年目の日南キャンプにですね、休みの日にですね、ほかのチームがどんな練習しているか思ってですね、巨人のキャンプ見に行ったんですね、暇だったんで。そしたらですね、当時いた山根がほかのピッチャーに『タツ(達川)が巨人の偵察に行ったぞ』って言ったんですね。それからピッチャーが信用してくれるようになりましたね」

達川といえば「ささやき戦術」「デッドボール」(ともに後述)などのトリックプレーで知られるが、捕手としての高い技術も持ち合わせていた。

川口和久が登板したある試合で、川口が自分のサインに従わないことに激怒し、試合中マウンドに詰め寄り「もう勝手にせえ!」とサインを拒否したことがある。結局バッテリーは滅多打ちに遭い、ベンチでコーチに叱責されたが達川は川口を擁護した。それ以降、川口は達川に信頼を寄せるようになった。当時、川口はキャッチングの下手な達川がノーサインで捕れるのか半信半疑だったが、意地になって必死にボールを止め、1球もパスボールしなかった達川の根性に舌を巻いた。その後厚い信頼関係を築いた2人は、相手チームにサインを盗まれていると感じたときなどにはたびたびノーサインで投げたという[注釈 1]
リード面では、評論家時代の野村克也に「達川がうるさくて困る」と言われるほど、野村をグラウンドで見つけると教えを乞うた。野村を信用するきっかけは、当時よく打たれた巨人ゲーリー・トマソンの対策法を伝授されたことだった。野村が「外からの緩いカーブ低めに落としゃぁ、セカンドゴロ4本打つよ」と言うので、コントロールのよい北別府学が投げているときにそれを実践したところ、トマソンは本当にセカンドゴロを4本打った事からである。

「俺は広島初の年俸2000万円捕手になるんだ!」と意気込んで広島市民球場の球団事務所での年俸交渉に臨んだある年、球団側は「達川、これは税金対策だ。この方が君の手取りは多くなる」と年俸1980万円を提示した。それを聞いた達川は、「この20万を足して年俸2000万にして下さい。不足分を私が出す。文句は無いでしょう」と、自分の財布から20万円を取り出して詰め寄った。球団もついにその熱意に負け、達川は晴れて球団初の2000万円捕手となった。

以上のように、正捕手として定着以降、黄金期の広島投手王国を長きにわたってリードし続けた。打者としては、打率.280・本塁打10本を超えたシーズンは一度もなく、一流の打者とは言えないが、上記のような努力を重ねて、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞3回と当時のセ・リーグを代表する捕手となった。

現役時代の応援歌の原曲は、『仮面の忍者赤影』のテーマソングだった。

引退試合
1992年限りで現役引退。引退試合となった同年10月4日の巨人戦では、代打に起用されて涙をこらえながら打席に立った[注釈 2]。「バットを乾かした方がボールがよく飛ぶ」という話を聞いた達川は、最後の打席をホームランで飾ろうと、バットを十分に乾かして臨んだが、乾かしすぎたことで却って脆くなってしまい、結局バットは折れてショートゴロに終わった[注釈 3]。また、その次の回に守備に就いたときは、大野豊とともにリリーフカーに乗ってグラウンドに登場した。捕手で試合中にリリーフカーに乗ったのは、後にも先にも達川だけである。引退試合後の挨拶では、この日の試合でタイムリーエラーをした巨人の篠塚和典に対し、「特に篠塚会長! その他……」と名指しして観客を沸かせ、何か特別に言うことがあるのかと思いきや「以下同文」とオチをつけ、涙の引退試合から一転、場内を爆笑の渦に巻き込んだ[注釈 4]

[編集] 引退後

引退後は野球解説者となり、1993年よりフジテレビ・ニッポン放送・テレビ新広島の解説者に就任。1995年に監督の王貞治の要請で福岡ダイエーホークスのバッテリーコーチに就任。現役時代から仲が悪かった打撃・走塁コーチの高橋慶彦と、選手もいる前で2度も取っ組み合いのケンカをするなどして王を困らせたが、城島健司ら若手を育成し、後の常勝チームの基礎を作った。同年オフに退団。1996年からは再び解説者となる。

1998年二軍監督として6年ぶりに広島に復帰し、翌1999年には一軍監督に昇格(昭和30年代生まれで初めての一軍監督である)。鬼軍曹として知られる大下剛史をヘッドコーチに招いて「胃から汗が出る」ほどの猛練習で若手の底上げを図ったが、選手と年が近かったため(達川の現役時代のチームメイトも多数残っていた)、投手交代時に「代えてもいいか」と聞くなど選手に厳しく接することが出来ないときもあった。また、「ビッグ・レッド・マシン」と呼ばれた打撃陣は好調だったが、長年の課題だった投手陣の崩壊を止めることはできなかった。

また2000年には、4番として前田智徳を起用するが怪我で離脱し、FA権を行使して巨人に移籍した江藤智の穴埋めとしてジェフ・ボールを獲得したが期待外れに終わるなど(そのためルイス・ロペスが復帰することになる)、誤算も相次いだ。結局チームは2年連続5位に終わり、成績不振の責任を取る形で同年辞任した。ただ、後に阪神に移籍した金本知憲は達川時代を振り返り「チームは弱かったけど楽しかった」と語っている。

その後はフジテレビ・テレビ新広島・ニッポン放送・J SPORTSで解説、スポーツ報知で評論をしていたが、2003年星野仙一が率いる阪神タイガースにバッテリーコーチとして招聘され、同年のリーグ優勝に大きく貢献した。そして星野の勇退とともにチームを去り、翌年野球解説者として3度目の復帰(このときから2009年までMBSラジオの中継にも登場するようになる)。

独特のキャラクターで全国的な知名度があり、広島、関西、東京で解説者として活動する。解説者としての達川は、広島弁を交えた解説を行っており、天才的な選手に対してはよく「モノが違いますね」と評する。

[編集] 人物・エピソード

[編集] ささやき戦術

野村克也日比野武と並ぶ「ささやき戦術」の使い手として知られている。しかし、野村がバッターの弱味を突いて集中力を奪っていたのに対し、達川のそれは世間話やウソなどで相手の思考を撹乱する、いわば「明るいささやき」であった。主なものは以下の通り。

  • 広島弁で「今日飲みに行くん?」など、野球と全く関係ない話題を振る。
  • 「初球はど真ん中にストレートが来る」とわざと配球を教え、いぶかしむ打者をよそにその通りの球を投手に投げさせ、見逃した所に「せっかく教えたったのに、もうあんなええ球来んぞ」と煽る。
  • 横浜大洋ホエールズの新人・谷繁元信が打席に立った際、「よう頑張っとるから、特別に次の球種を教えちゃる」とささやき、いぶかしむ谷繁に「カーブ、カーブ、カーブ、カーブ」と呟き続けた。谷繁もその気になったところ、ピッチャーが実際に投げてきたのはストレートだった。思わず谷繁が文句を言うと、「すまんすまん、アイツはワシのサインを理解しておらんかったようじゃ」と答え、直後に「ナイスストレート!」とピッチャーにボールを返球した。当時の大洋の監督は達川をよく知る古葉竹識であり、谷繁はベンチに帰った際「達川の言うことを聞くな」と怒られたと言う。
  • 相手チームの主力選手やその時点で好調な打者に対して「悪いが1球、顔の前に通させてもらうけぇのお」と脅す。達川本人が引退後に語ったところによれば、「顔の前」とはインハイ攻めを指すものではなく「避けなければ当たるコース」であり、プロではブラッシュボールは駆け引きのひとつとして当然の行為と認識していたという。
    • 達川は池山隆寛とテレビで共演した際、現役時代に池山に対して「次の球は危ないところ(インコース)使わせてもらうけぇ、気をつけとけ」と予告したエピソードを例として挙げた。達川は「彼(池山)くらいのバッターになると、厳しいところを攻めないと必ず打たれますから。プロでは常識です」と述べている。池山もこの達川の言動が事実であることを認めており、仕掛けられた数は「1回や2回ではなく、数えきれない」とのこと。
  • 味方ピッチャーに大声でまくしたて、敵味方だけでなく観客の失笑を買うこともあった。ヤクルト大杉勝男と対戦した際、マウンドの津田恒美のコントロールが定まらず、落ち着かせるつもりで「こいつぁー石ころじゃけぇ(足が速くないので四球で出塁させても盗塁の心配はないという意味)、安心して投げてきんさい」と叫んだ。怒った大杉はわざわざ死球コースに投げさせろと要求、本当に投げさせる気などなかった達川が渋々従うと、大杉はその身体に向かって投じられた球を特大本塁打にしてしまった。達川はベースを1周した大杉に「(バットが振れない)石ころだと? ふざけるな!」と一喝された上、頭を殴るジェスチャーをされたという[2]

1984年の日本シリーズ阪急ブレーブスを下し日本一に輝いた際、広島ローカルの特番で以下のように語っている。

「つぶやくとね、弓岡なんかぶつぶつ怒るんですよ。『達川さん、黙ってくださいよー』言ってね。今井さんと山沖は乗ってくるんですよね、すぐ。まぁ軽い男ゆうたら失礼ですけどね。ホント軽い男なんですけどね。今井さんなんかは、北別府だったんですけどね、1球振ったんですよ。『あ、今井さん、バッティング練習していないのになかなか当たるじゃないですか』言うたら『ほうじゃろうがぁ』言うから『あぁすごいですね。じゃあ、スライダーはどうですか』言うたら空振りしたんですよ。『スライダーは打てないですねぇ』ほいでツーナッシングなったんですね。『じゃもういっちょスライダー行きますよ。いってくださいよ』言うたら、空振り三振しましてね」
「で、昨日(第6戦)なんですけど、山本和さんいうのがいるんですが。ま、9回で5点差あって2アウトだったから、打つ気なかったと思うんですが、山沖に『おまえ打つなよ』言うたら『いや、打ちますよ』言うから『打つなや、わりゃ何言いよんなら! 山本和さんは女房も子どもも一人おるのに、おまえおるまぁが。打つなよ』言うたら『はあ、そうですか』言うて三振しましたけどね。まぁ、言わんでも三振はしとったと思うんですが」

なお、喋ると頭の回転が良くなり、リードが冴えてくるため、大洋の選手がある試合で「達川無視作戦」(「絶対喋るな! 挨拶からするな!」とミーティングの段階から選手に徹底させた)を決行した。MSNでの達川のコラム「モノが違いますね」によると、これは加藤博一が提案したもので、この結果として達川本人も「お前ら、どうなっとるんじゃ……」と困惑するほどペースを掴めなくなった。

この「ささやき戦術」を始めたきっかけは広商時代、1973年春センバツ準決勝の試合前、迫田穆成監督に「(作新学院江川卓に)何でもええけぇ話しかけて、帰り際に広島弁で脅してこい」と言われたのが始まりだという。

[編集] デッドボール

達川は身体をかすってもいないボールを「デッドボールだ」と言い張る事が多く、『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』(フジテレビ)で頻繁に取り上げられた。デッドボールが認められて出塁したことが何度もあり、本人は至って真面目なプレーであったと語っている。

  • 相手投手の投球が内角を深く攻める投球であった場合、ユニフォームにかすったことを激しくアピールし、執拗にデッドボールを主張した。一度それが成功したのでその後は体に近い投球があれば無条件で一塁に走り出す技を会得した。内角球→一塁へ平然と走り出す→捕手と球審が呼び止める→いかに自分がデッドボールに当たったかを必死に説明する。
  • 左腕を投球がかすめた際に、とっさに右手でひっかき傷を作り、審判にアピールして成功した。
  • 投球がかすめた時にアピールする箇所は何故か手袋をめくった手首付近が多く、打席前にベンチ裏にて何らかの仕込みがあるのではと噂された(実際は際どいボールが来て倒れ込んでいる間に手の甲をつねって腫れさせていたことが多かった)。左手をかすめたのに右手を差し出したこともある。

しかし、他のチームの打者に対しては、デッドボールであることが明らかである場合でも「デッドボールではない」と平光清審判のズボンを掴んでまで抗議し、阪神の北村照文から激怒されたこともある。

東のグラウンドの詐欺師」といわれた大洋の市川和正とともにデッドボールに関する逸話を数多く作ってきた。また、両者はお互いをかなり意識していたという。また当時は「東の金森、西の達川」とも称されたが、当たりっぷりの悲惨な金森に対し、達川はその老獪さが笑いを誘った。

引退した年にゲスト出演したテレビの珍プレー番組の中で「当たっていないのに塁に出たのは1回で、当たってても出してもらえなかったことが3回ある」と発言したが、その直後、当たっていないのに出塁したシーンが2つ映し出された。それに対して「あれはオープン戦ですから」と弁明している。

なお達川は日本シリーズでの最多死球6という記録を持っている。

[編集] 「珍プレー」について

前述のように、ボールが体に当たっていないのに「当たった」とアピールする達川のプレーは、『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』などの珍プレーを取り扱う番組でしばしば取り上げられた。

一方、三塁に走者がいる場面で投球が本当に左足に当たり、当たったボールがそれる間に三塁走者が生還した際には、痛みを必死にこらえて当たっていないというアピールをしたこともある。しっかり「デッドボール」と判定され走者も三塁に戻され、その直後に足を引きずりながら達川が一塁に向かう様子は、童話「狼少年」を地でいくシーンとして珍プレー集などで何度も使われた。実はこの時、足の親指の爪が割れて血が噴き出していたという。

また、達川は2度ほど試合中にコンタクトレンズを紛失したことがある。当時は高価な品物であったため、2度とも試合は中断され、ホームベース周辺で両軍総出の大捜索劇となり、その様子は観客の爆笑を誘った。最初の紛失の際は突然タイムをかけ地面を探り出した達川に場内騒然となったが、「コンタクトレンズ紛失のため」という場内アナウンスにより観客席は大爆笑に包まれた。このシーンも『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』で頻繁に取り上げられた

このように、宇野勝と並んで珍プレーに取り上げられることの多い達川だが、テレビなどでは宇野がほとんどヘディングプレーを採り上げられるのに対し、達川の珍プレーはデッドボールやコンタクト紛失など枚挙に暇がない。日本テレビ系列で放送されている珍プレー番組『勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー』では、「2試合に1回のペースで珍プレーを出していた」という分析結果が紹介されており、20世紀の珍プレーキングに輝いている。

一方、番組内で真面目な指摘を行うこともあった。解説者時代に中日山本昌牽制の際に癖があることを指摘し、横浜のコーチに就任することが決まっていた高木豊に「それを言っちゃダメですよ」と言われたこともある。

[編集] サヨナラインフィールドフライ事件

1991年6月5日の横浜スタジアムでの大洋戦で、同点で迎えた9回裏1死満塁の場面。大洋の清水義之が本塁付近に飛球を打ち上げ、球審の谷博は「インフィールドフライ・イフ・フェア」の宣告をした。広島捕手の達川光男はこの飛球を体に触れずに近くに落とし、ワンバウンドしたボールをフェアグラウンド上で捕球して、本塁を踏んで一塁に送球した。

達川はこれで三塁走者と打者走者を併殺したつもりだったが、インフィールドフライを宣告された打球がフェアの判定となった時点で打者清水のアウトが成立しているため、塁上の走者はフォースの状態から解除される。したがって達川が本塁を踏んでも三塁走者はフォースアウトにならなかった。三塁走者・山崎賢一もこのルールを知らなかったためか、達川が飛球をワンバウンドさせるのを見るなり本塁に突入した(インフィールドフライが成立したので山崎に進塁義務はなく、打球がワンバウンドしたため進塁の際にタッチアップの必要もない。また本塁付近に立っていた打者の清水も達川がワンバウンド捕球をしたのを見て一塁へと走り出した)。達川が本塁を踏んだのを見て自分がアウトになったと勘違いした山崎は、一塁側ベンチに帰ろうとする途中、惰性で本塁を踏んだ。アウトになったのは打者走者のみでまだ二死だったため、山崎が本塁を踏んだことによって得点が認められ、球審はホームインと試合終了を宣告。広島はサヨナラ負けを喫してしまう。達川のみならず、三塁走者山崎、打者清水、試合終了後も激しく抗議を続けた監督の山本浩二など、インフィールドフライのルールを熟知していなかった当事者が多かったため起こった珍プレイである。達川は本塁を踏んで一塁に送球するのではなく、ボールを持ったまま山崎にタッチしなければならなかったのである。

このプレイでは、達川に失策が記録された。また、球審の谷はファインジャッジ賞として表彰された。この件はインフィールドフライルール説明の教材として使われることが多い。

[編集] 監督時代

達川が広島の監督を務めていた時期は、投手陣がボロボロでピッチャーの頭数が足りなかった。それに加えて当時の外国人枠の関係で外国人投手は2人までしか使えなかったため、打開策として、野手登録していたフェリックス・ペルドモをピッチャーとして登板させた事がある。また、代打でペルドモを送り、そのまま登板させた事がある。

監督時代も「詐欺師」ぶりは変わらず、2000年9月19日。新井貴浩の明らかなファウルボールをホームランだと抗議し、森健次郎三塁塁審だけでなく阿部慶二三塁ベースコーチや、巨人の三塁手だった江藤智、三塁ランナーの金本知憲にまで笑われたことがある[注釈 5]。なおこの試合で達川は合計3回抗議に出て、最後はルイス・ロペスのサヨナラホームランで広島が勝利している。

金本知憲は2004年8月1日に連続フルイニング出場の日本記録を更新したが、実はもっと早くこの記録を達成できる可能性があった。広島の6番として出場していた1999年7月20日の阪神戦(甲子園)の7回2死満塁の場面で、当時監督だった達川が金本に代打(町田康嗣郎)を送ったため、その時点で一旦記録が途切れてしまったのである。達川は金本が記録を更新した後の2006年オフ、解説者として取材をした際にこのことを自ら切り出し苦笑いしていた。

1999年のドラフト会議において、近鉄中日と競合して国学院久我山高校のエース・河内貴哉の指名権を引き当て、広島オーナーの松田耕平から受け取った煙草「ラッキーストライク」を懐から取り出してその喜びを表現した。

[編集] その他のエピソード

現役時代、どの投手にも分け隔てなく接するため、連れ合っての食事、飲酒等は控えていた。だが同い年の大野豊とは親密に友人付き合いをしていた。反対に前述の通り高橋慶彦とはすこぶる仲が悪く、コーチ時代には試合中にベンチ内で掴み合いの喧嘩をする有り様だった。もっとも、2008年12月に開催された同年度で閉鎖となる広島市民球場での「カープOBオールスターゲーム」では高橋と談笑する場面も見られている。

津田恒実とのコンビも「名バッテリー」と呼ばれた。苦楽を共にした津田が亡くなった日のプロ野球ニュースでは、達川は泣きながら思い出を語っていた。

珍プレーで同じく有名な宇野勝を「彼ほど正直な男はいない」と評価している。理由は宇野が打席に立っていた時に審判にストライクをボールと判定されて「今のをボールというのなら僕は(野球を)辞めます。次宇野が打席に立ったら聞いてみます」と審判に言い、宇野が次に打席に入った時に「ウーやん、さっきのボールはストライクだな?」と宇野に聞くと「はい、確かにストライクです」と正直に答えたから。

松村邦洋モノマネされているが、非常に気に入っている様子で、番組で松村と共演すると、達川本人が「達川のマネをしている松村」のモノマネをすることがある。しかし松村の十八番である「あのね、あの〜」の口癖は封印している。

達川が監督やコーチに就任して現場復帰している間、テレビ新広島は専属の解説者を置かず、必要に応じてFNS系列局や広島のフロントから解説者を招いていた。達川がいつか解説者に復帰する時に備えた「粋な配慮」だが、そのため広島主催試合の解説を、同じフジ系列の解説者である、対戦相手のOBが務めるケース(中日戦を鈴木孝政、ヤクルト戦を池山隆寛、横浜戦を加藤博一など)がしばしば見られ、『J SPORTS STADIUM“野球好き”』にも配信されたため、契約の関係で同番組には通常出演しないはずの解説者がTSS制作時に限り出演する事態ともなった。

映画カスタムメイド10.30」では、主人公の小林マナモ(木村カエラ)の夢の中に出てくるラジオ電話相談という設定で「回答者の声」として出演した。

後に甲子園通算20回出場・40勝をあげる木内幸男が甲子園を目指すきっかけとなったのは、達川の言葉によるものである(詳細は木内幸男の項を参照)

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1978 広島 12 30 28 2 6 1 0 0 17 1 0 0 1 0 1 0 0 6 2 .214 .241 .250 .491
1979 49 89 81 4 18 0 0 0 18 3 0 0 0 0 7 0 1 16 4 .222 .292 .222 .514
1980 9 5 5 0 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 2 0 .200 .200 .200 .400
1981 49 123 113 8 25 4 0 1 32 10 1 1 0 0 7 1 3 11 8 .221 .285 .283 .568
1982 77 206 176 15 37 8 0 3 54 13 0 0 9 1 15 2 5 23 2 .210 .289 .307 .596
1983 116 372 330 30 83 11 0 5 109 41 1 0 12 5 19 2 6 23 11 .252 .300 .330 .630
1984 117 371 312 35 76 9 0 7 106 33 1 2 14 2 36 7 7 30 3 .244 .333 .340 .673
1985 95 269 230 18 53 6 0 4 71 31 0 1 16 3 19 2 1 34 8 .230 .289 .309 .597
1986 128 467 416 42 114 21 1 9 164 46 1 0 10 2 34 11 5 42 5 .274 .335 .394 .729
1987 130 480 418 40 107 18 0 8 149 34 2 3 15 2 38 14 7 40 16 .256 .327 .356 .683
1988 122 432 383 29 100 13 0 6 131 38 2 1 10 1 30 18 8 29 10 .261 .327 .342 .669
1989 109 331 277 22 63 8 0 4 83 22 1 2 14 1 33 7 6 36 9 .227 .322 .300 .621
1990 101 305 272 19 72 9 0 3 90 33 3 1 7 5 15 4 6 34 8 .265 .312 .331 .643
1991 120 423 359 30 85 19 0 1 107 39 3 3 15 6 41 12 2 47 13 .237 .314 .298 .612
1992 100 283 236 17 55 4 0 0 59 14 2 1 6 0 36 8 5 29 11 .233 .347 .250 .597
通算:15年 1334 4186 3636 311 895 131 1 51 1181 358 17 15 129 28 331 88 62 402 110 .246 .317 .325 .642
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] 年度別守備成績

年度 試合 企図数 許盗塁 盗塁刺 阻止率
1978 12 8 6 2 .250
1979 46 15 10 5 .333
1980 7 0 0 0 .000
1981 48 42 26 16 .381
1982 75 46 30 16 .348
1983 115 75 50 25 .333
1984 117 74 49 25 .338
1985 94 56 33 23 .411
1986 128 102 65 37 .363
1987 130 74 52 22 .297
1988 122 80 46 34 .425
1989 108 77 52 25 .325
1990 101 68 40 28 .412
1991 120 81 48 33 .407
1992 97 59 36 23 .390
通算 1320 857 543 314 .366

[編集] 年度別監督成績

年度 球団 順位 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 チーム
本塁打
チーム
打率
チーム
防御率
年齢
1999年 広島 5位 135 57 78 0 .422 152 .260 4.78 44歳
2000年 5位 136 65 70 1 .481 150 .256 4.48 45歳
通算:2年 271 122 148 1 .452 Bクラス2回
※1999年から2000年までは135試合・引き分け再試合制

[編集] 表彰

[編集] 記録

[編集] 背番号

  • 40 (1978年 - 1992年)
  • 84 (1995年)
  • 74 (1998年 - 2000年)
  • 90 (2003年)

[編集] 関連情報

[編集] 放送

[編集] 現在の出演番組

フジテレビ(・フジテレビONEBSフジ)・テレビ新広島
J SPORTS
ニッポン放送

[編集] 過去の出演番組

ニッポン放送
MBSラジオ毎日放送

[編集] 出演CM

[編集] 出演テレビドラマ

  • とんび(2012年1月7日・14日、NHK) - 伊達酒造社長 役

[編集] ゲームソフト

[編集] 脚注

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[編集] 注釈

  1. ^ 川口は自著「投球論」(講談社現代新書)の中で「互いに相手の投げたがっている球、欲しがっている球が分かるので何も問題が無かった」と語っている。
  2. ^ マスコミに対して引退を発表したのが試合開始前後であり、球場では発表されていなかったため、球場の観客は何故達川が打席で涙をこらえているかがわからなかった。
  3. ^ そのバットは試合後ゴミ箱に捨てられていたが、この試合のバットボーイを務めていた大学生が密かに持ち帰っていた。後にこの大学生はテレビに出演し「達川さんが引退試合で使った折れたバット」とエピソードを披露した。また、中国新聞のカープ50周年特集記事でもこの大学生と折れたバットのエピソードが紹介されていた。
  4. ^ 試合は20時台前半に終わったので、この爆笑の引退挨拶も全国ネットで生放送(大洋vs.阪神との2元中継)されている。
  5. ^ 後に本人が語ったところによると、ベンチから見ていたので確信はなかったものの、大事な試合だったので一応抗議に出ただけとのこと。抗議中、側にいた走者金本に「入っとるって! のぉ、カネ。お前見てどうだった?」と同意を求めたところ「どうでしょうね……」と暗に否定され、「ほうか! お前が言うならファウルじゃ」と踵を返してベンチに戻っている。

[編集] 出典

  1. ^ a b ドラフトの思い出」 オフィシャルブログ(2011年10月29日)、2011年11月24日閲覧。
  2. ^ 笑顔と闘志を忘れないために 津田の思い出 3」 オフィシャルブログ(2011年7月19日)、2011年11月24日閲覧。

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