掛布雅之

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掛布 雅之
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 千葉県千葉市
生年月日 1955年5月9日(56歳)
身長
体重
175cm
77kg
選手情報
投球・打席 右投左打
ポジション 三塁手
プロ入り 1973年 ドラフト6位
初出場 1974年4月7日
最終出場 1988年10月10日
経歴(括弧内は在籍年)

掛布 雅之(かけふ まさゆき、1955年5月9日 - )は、千葉県千葉市出身の元プロ野球選手内野手)。現在はスポーツ報知毎日放送野球解説者

新潟県三条市生まれ、大阪府豊中市在住。4代目ミスタータイガース

目次

[編集] 経歴

[編集] 生い立ち

母親の実家・三条市で生まれ、生後一年から父親の郷里千葉市で育つ[1][2]。珍しい“掛布”姓のルーツは、祖父の出身地・愛知県犬山辺りにあるのではないかと話している[1]。“雅之”という名前は父親が俳優森雅之の大ファンだったことから名付けられた[1]。父親は戦前、千葉商業の教員を務め、野球部監督として甲子園まであと一歩のところまで進んだが、諸事情で野球とは縁を切っていた[2]。戦後は中国から引き揚げ職業を変えた後、郷里で料理店を営んだ[2]。実家があった場所は現在、ミスタードーナツ京成千葉中央店となっている。

[編集] アマ時代

再び中学の野球部監督として野球に関わった父親に幼少時に利き手を左に矯正され[3]、少年時代から野球のトレーニングを受ける[2]習志野高2年生時の1972年夏の甲子園に4番・遊撃手で出場したが、1回戦の東洋大姫路高戦に敗退(東洋大姫路高にはのちに阪神でチームメイトとなる山川猛がおり、この試合で満塁本塁打を放った)。3年生時の1973年は県予選で敗れて甲子園には行けなかった。

同年秋、父親が千葉商業高校の野球部長兼監督だった頃の教え子でヤクルト二軍監督だった小川善治に入団を頼み込んだが断られ、千葉商の野球部監督経験者の篠田仁にプロ球団への仲介を依頼。篠田は懇意にしていた阪神タイガース安藤統男(同年限りで現役引退し、コーチ)に口利きを頼んだ結果、金田正泰監督へ話が伝わり、入団テストを受けて合格した。ドラフト6位指名。契約金500万円、年俸84万円で契約。

[編集] プロ入り後

入団後、1974年の春季キャンプで徹底的に鍛えられる。オープン戦初出場は対南海戦。掛布と同年南海ドラフト1位の野崎恒男から代打でオープン戦初安打を放つ。オープン戦初スタメンは3月21日の対太平洋戦(鳴門球場)。中軸を打つショートの藤田平が結婚式で休みのため7番・ショートでの代役だったが、東尾修から4打数2安打を記録した。そして3日後の対近鉄戦(日生球場)では内野の要であった野田征稔(後にマネージャー)が母を亡くして帰郷。再び掛布が代役で8番・三塁手として出場することになり、その試合で4打数4安打の大活躍を見せる。オープン戦が終わってみれば18打数8安打2二塁打の活躍で開幕1軍入りを果たし、高卒1年目にして1軍に定着する。同年のジュニアオールスターにも出場した。高卒新人としての1軍での本塁打は3本で、球団記録の8本(1957年並木輝男)には及ばなかった。

高校時代は遊撃手であったが、当時の阪神では藤田平が不動のレギュラーだったことから、三塁手となる。掛布と同年のドラフト1位である佐野仙好も三塁手であったため、ポジション争いが生じた。1975年に監督に就任した吉田義男は当初、相手が右投手の時には左打者の掛布、左投手の時には右打者の佐野と起用を分けたが、やがて掛布が正三塁手として定着する[4]。佐野は外野手に移った。掛布は、ポジション争いでライバルだと感じたのはこの時の佐野だけだと語っている。1980年早稲田大学の大物三塁手だった岡田彰布が入団し、マスコミが「ポジション争いか?」と騒いだ時も、掛布はすでに中心選手としての余裕があり、佐野ほどのライバル意識は感じていなかったという[5]

1976年王貞治を上回る打率5位に食い込んでブレイクし、同年のベストナインに選ばれる。掛布は、「打撃ベストテンで王さんの上に立てたことが大きな自信になった」と語っている[6]。さらに翌1977年にも大活躍し、応援歌「GO! GO! 掛布」も売り出された。この人気に応援団は掛布の打席でヒッティングマーチを演奏するようになった。一説に阪神在籍選手では掛布が最初といわれる[要出典]。最初の応援歌は「GO! GO! 掛布」のサビであったが、のちに変更された。

1979年には、田淵幸一が移籍した後の主砲としてチーム新記録となる48本塁打(それまでのチーム記録は藤村富美男の46本。その後1985年にランディ・バースが54本で更新したが、日本人選手としては現在も球団記録)を放ち、本塁打王となる。同年オフに結婚。しかし、翌1980年は左膝の負傷のために70試合の出場にとどまり、成績も低下した。同年オフに、さるスポーツ紙の大阪版に「掛布を南海に放出、投手数名とトレード」という「スクープ」が1面に出たことがあった[7]。球団は即座に否定したものの、江夏豊や田淵幸一の放出劇がまだ記憶に新しい頃で、ガセネタでは済まされない内容であった。掛布自身も大きな衝撃を受け、そうした話が出ないようにするため摂生に努め、翌年から1985年までは5年連続で全試合出場を果たすこととなった。

1982年1984年にも本塁打王、1982年には打点王に輝くなど、「ミスタータイガース」として人気を博した(当時はミスタータイガースから田淵を除外して、掛布が3代目ミスタータイガースと呼ばれたが、現在では田淵を含めて掛布を4代目とすることが一般的である)。1980年代前半は不動の4番打者。また、同学年でもある江川卓との対決は、両者が全盛期だった1980年代前半の名勝負と言われた。1984年に本塁打王を獲得した際には中日ドラゴンズ宇野勝と激しく争い、最後の直接対決2連戦では両者が全打席で敬遠を受けてタイトルを分け合った。この敬遠の応酬についてはセ・リーグ会長が両監督(安藤統男と山内一弘)に注意し、最終的には記者団に謝罪するほどであった。

1985年には3番・バース、4番・掛布、5番・岡田彰布からなるクリーンナップの一角を担って強力打線を形成し、リーグ優勝・日本一に貢献した。同年のバックスクリーン3連発(掛布はバックスクリーン左に入ったため、賞金をもらい損ねていたが、スポンサーの計らいでもらっている)ではバースに続いて本塁打を叩き込み、この年の象徴のように語られている。

1986年4月20日、対中日戦でルーキー斉藤学投手から手首に死球を受けて骨折、連続出場が663試合で途切れた。後年の述懐では、この負傷でそれまで張り詰めていた緊張の糸が切れ、怪我を言い訳にする「弱い自分」が出てきてしまったという[8]。5月中旬に復帰するが、11日後には甲子園球場の巨人戦で三塁守備の際にバウンドが変化した打球に当たって右肩を負傷し、1ヶ月近く欠場。さらに8月26日には骨折で三たび戦列を離脱し、復帰できたのはシーズン終了間際だった。このシーズン後半以降、華麗なバッティングは影を潜めることとなる。翌1987年には開幕前の3月22日に飲酒運転で現行犯逮捕された。マスコミからの非難のみならず、久万俊二郎オーナーにも「欠陥商品」と酷評されてしまう。このショックを抱えたまま迎えたシーズンは腰痛で成績が低迷し、チームの調子と歩を合わせることになった。約1ヶ月登録を抹消され、6月にはプロ入り以来初めての2軍落ちも経験した。1988年も故障続きでかつての打棒は甦らず、9月14日に現役引退を表明。10月10日、阪神甲子園球場でのホーム最終戦が「引退試合」となり、多くのファンに見送られてグラウンドを去った。通算349本塁打は阪神の球団最多記録である。

引退に際しては、その若さを惜しんで複数の球団からオファーがあったことをのちに明かしている。ヤクルトのヘッドコーチとなっていた安藤統男は、環境を変えればまだ働けるのではないかと考えて掛布に移籍を打診したが、掛布は丁重に断っている(2003年に安藤と掛布が出演したラジオ番組での発言)。偶然ながら、プロ入り時に断られたヤクルトに今度は掛布の方から断る形になった[9]。このほか、横浜大洋ホエールズ監督の古葉竹識からは「背番号31を用意する」と誘われ、長嶋茂雄からは「一年間2軍にいて、じっくりと体を鍛えて気持ちを切り替えれば」というアドバイスがあった[10]。しかし、田淵がかつてトレードに際して「今度はお前だぞ。お前は、江夏や俺のように途中で縦縞のユニフォームを脱ぐようなことはするなよ」と言った言葉が頭にあり、現役を続けるなら阪神でなければならないと考えて固辞[10]。引退試合のあとコーチだった中村勝広から「最近は阪神の歴代の主力選手が、こんな引退試合をしたことはなかった。新しい阪神の歴史を作ったな。惜しまれながら球場全員が涙する。お前が道筋を作ったおかげで、これからはこうやって阪神の選手が辞めていくことができるだろう」という言葉をもらったと述べている[10]

引退後は野球解説者を務めており、監督、コーチの経験は一度もない(アメリカマイナーリーグの臨時コーチを務めたことはある)。2004年秋に発足当初の東北楽天ゴールデンイーグルスから監督要請があったように報じられるが、結果的に田尾安志が監督に就任した。この件について実のところ、掛布は楽天の三木谷浩史オーナーによって玩具まがいの扱いをされていたことが、先輩である加藤博一から1年後の10月に伝えられた。掛布自身は、三木谷が経営上の収益が出せることを強く求め、それが自らが望む監督像と食い違っていたことが辞退の原因だと述べている[11]。このほか、千葉ロッテマリーンズのオーナー代行とも一度話したことがあったが、野球観が合わなかったとしている[12]

現在は、ニッポン放送MBS毎日放送の解説者としてラジオを中心に出演している。

[編集] プレースタイル

[編集] 打撃

若手の時期はどちらかといえば中距離打者であった。しかし、チームの主砲であった田淵が1978年のオフに移籍したことで、長距離打者になる道を選ぶ。体格的に決して恵まれていなかった掛布は、猛練習による強靱な体力で打球をスタンドまで叩き込んだのである。しかしこの打法は体への負担も大きく、選手寿命を縮める一因ともなった。掛布自身、「体が大きくない僕が、ホームランを30本、40本まで増やすためには肉体的にはかなりの無理をしていた」と述べている[13]。甲子園球場で本塁打を量産するために、浜風とケンカするのではなく利用しようと研究を重ね、レフトスタンドへ本塁打を量産する独特の芸術的な流し打ちを身に付けた[14]。以降、レフトへの本塁打が飛躍的に増え、球界を代表するホームランバッターとなった。

本塁打は「狙って打つもの」と考えており、「ホームランの打ち損じがヒット」というイメージを持っていた[13]。ただし、負傷による不調から復帰した1981年には「4番として全試合出場」を目標としたため、本塁打を意識しない打撃に徹した。その結果、フル出場を果たすとともに打率も.341という高い数字(現役時代の最高記録)を残したが、そのオフのイベントでファンから「もうちょっとホームランを見たい」(この年の本塁打は23本)と言われたことがきっかけで再び本塁打を意識した打撃に変更したという[15]。掛布は引退後に、この1981年が「一番自分らしかったのかもしれない」と語り、「今でも自分がホームランバッターとは思っていない。(1981年のバッティングをやれれば)違うバッティング、違う掛布があったのかなという思いが今でも強い」という[15]

セリーグ審判部長を務めた田中俊幸は、著書『プロ野球 審判だからわかること』で、攻守の技術に優れ審判に対する態度も良かった選手として掛布を高く評価している。特に打撃面では、掛布の打球はバットに当たった瞬間、ほんの一瞬だが消えたと証言している。これは、掛布がボールを手元まで呼び込み、それを速いスイングにのせて弾きかえすので、ボールがバットにへばりついている間、見えなくなったのではないかと推測し、「闘魂ドラマに出てくるようなワザ」と称している。

投手の癖を観察して球種を判断することを途中からしなくなった。これは、大洋時代の野村収と対戦した際に、「癖を見破っている」と思って打ちに行ったところ、頭部への死球となり、癖を見て判断することへの怖さが生じたからだと述べている[16]

江川卓は著書『江川流マウンドの心理学』(廣済堂出版、2003年)で「掛布の弱点はインコース高め」と指摘し、掛布自身も対談で「インコースは弱い」と認めている[17]。しかし、「4番打者の強さ」を相手投手に見せつけるため、インコースに投げられたボールのコントロールミスをライトスタンドへの強烈な本塁打にすることを意識していた[17]。引退への発端となった1986年の死球の際も、ライトに引っ張る本塁打を打つためにインコースを待っていて起きたと述べている[8]

手首の保護目的でリストバンドを着用してプレーした野球選手は、掛布が初めてである。一方、父親の教えもあり、バッティンググローブを使用せず素手でバットを持つことに引退までこだわり続けた。ただし守備時はグラブの下に手袋をはめており、バッティングの際はその手袋を尻ポケットに入れていた。その様子がサルのしっぽに似ているとやくみつるが漫画のネタにしたことがある。現役後半にはローカットタイプのストッキングを愛用。それが掛布スタイルの代名詞となった。

プロ15年間、公式戦ではサヨナラ本塁打を打ったことが一度もなく、サヨナラ安打も1本のみである。オールスターゲームには強く、1978年には3打席連続本塁打の記録を残している。また、1981年にも第2戦から第3戦にかけて3打席連続本塁打を記録しており、そのうち2本目が公式戦では記録しなかったサヨナラ本塁打であった。

[編集] 守備

守備については、現役時代にダイヤモンドグラブ賞を6度受賞。これに関して、プロ野球記録の調査・分析で知られた宇佐美徹也は「ほかに特にうまい選手がなく恵まれた感じが強い」と記している[18]。吉田義男は初任監督時代の掛布の守備を「やや粗雑だが肩は強かった」と記し、ジョージ・アルトマンハル・ブリーデンといった体格が大きかったり捕球技術に優れたりした一塁手に恵まれたことで、成長が促されたと評している[19]

[編集] 好敵手・江川卓

高校時代、練習試合で作新学院と対戦する機会があったが、江川が登板する前に掛布は死球を受けて交代したため、直接の対戦はなかった。もしこのとき打席に立っていたらトラウマになってプロ入り後も打てなかったのではないか、と掛布は語っている[20]。プロ入り後、ある時期まで江川は掛布に対する初球は必ずカーブを投げた。しかし、掛布はそれを見送り、ストレートを待って勝負したという[21]。また、一度だけ江川が掛布を敬遠した時(1982年9月4日、甲子園球場での試合)にはその球が異常に速かったという[22]。掛布と江川の通算対戦成績は、167打数48安打で打率.287、14本塁打21三振33打点。このうち本塁打数は山本浩二と並んで江川の最多被本塁打打者である。

掛布は江川について「ストレートへの強いこだわりを持ったボールを感じさせてくれた唯一の投手」という評価をしている[23]。また、お互いが相手との対戦が自身の調子を測る「バロメーター」となっていたことを認めている[24]

[編集] 山本浩二のサイクル安打に関して

広島東洋カープの山本浩二が1983年4月30日の対阪神戦で、あとは三塁打さえ出ればサイクル安打達成という場面において第5打席に左中間に長打を放ったが、現役晩年の山本では三塁まで狙うのはかなり厳しい打球であった。それでも果敢に塁を狙い、三塁で掛布とのクロスプレーを制して、当時プロ野球最年長でのサイクル安打を達成した。しかしこの際、掛布のタッチの動作が非常にゆっくりとした追いタッチであった。山本は前の打席で中前打を放ち三塁まで進んできた時に「カケよ、次の打席で外野を抜いたらどんな打球でもココへ突っ込むから、よろしく頼むで」と言ってそれを実行した。試合はこの時点で広島が12-0と大きくリードしており、かつ終盤でもあったため、山本に三塁打を許しても流れは変わらないと判断した掛布が独断で「配慮」をしたのではないかといわれていた。
掛布は当時「送球が逸れ、捕球時に前につんのめったためタッチが遅れた。八百長ではない」と説明していた(1983年5月1日・朝日新聞関西版より)。しかし2008年7月6日放送の「中井正広のブラックバラエティ」において、掛布は山本同席のもと、わざとタッチをしなかったことを告白した。その際、「この当たりでは三塁まで来ないだろうと思ったら走ってきたので焦った」、「タッチを遅らせるためわざとベースから離れファウルゾーン側に下がったが、それにもかかわらず真弓明信からの送球を捕球した段階で完全にアウトのタイミングであった」という状況が重なり、かなりの葛藤があったことも語っている。

このプレーについて、スポーツライターの玉木正之は掛布の告白以前に刊行した『プロ野球大辞典』(新潮文庫、1990年)の中で、「タイミングは完全にアウトだった」と述べ、「もっとうまく八百長ができなくてはプロといえないだろう」と評した[25]

[編集] 人物

[編集] 人物像

上記のように飲酒運転での逮捕歴があるが、ギャンブルとタバコは全くやらない。

現役時代から球界屈指の大変な車好きとして知られる。実物の車のみならず、模型やラジコンカーも好み、自身のカスタムカーには31のゼッケンを入れていたほどである。1987年の飲酒運転の際は、直前に会食していたホテルの従業員が車を置いていってもよいと勧めたが、「自動車が寂しそうに見えた」ためハンドルを握ったと後年述べている[26]。現役時代は車内が「一人になれる空間」として大事で、独身時代にはガレージの車にしばらく座って合宿所の部屋に戻ることもしていたという[26]

プロ入り後初めての広島遠征で、広島風お好み焼きを食べ「こんなウマイものがあるのか」と感動。当時は全国的には広島風はほとんど知られていない時期だったが、広島遠征では必ず通い、広島の有名店「へんくつや」では、掛布の好きなニンニクいっぱい入りの「掛布スペシャル」というメニューがあった。[要出典]掛布はこれが高じて大阪・豊中の自宅近くにある通称・ロマンチック街道沿いに「掛布企画」名義で「ほっとこーなー」という広島風お好み焼きの店を持っていた。隣には同じく掛布のスポーツカジュアル用品店「スポーツハウス・フィールド31」もあった。このほか、京阪天満橋駅近くに「参拾壱 ほっとこーなー」という地鶏の店を経営したことがあり、プロダクション会社『掛布』も経営していた。しかし、これらの店舗の経営不振により、2009年以降、債務処理に関する報道が複数なされている(詳細は後述)。

野球解説の際にはファーストを「ホワスト」と発音する。解説中に選手の名を言うときは語尾に必ず「~君」と付けるが、外国人選手の時には何故かそれが付かない。また、「ひじょうにこう」「やはりこの〜」「ですからその〜」といったフレーズを多用。末尾は「ええ」「はい」で完了することが多い。ものまねをする松村邦洋は「掛布さんは『ひじょうに』を1試合の中継で27回以上は言っている」と話している(これは完全中継されないテレビ中継の場合であり、原則試合開始から終了まで放送されるラジオ中継では27回を遥かに越えることになる)。2007年9月23日放送の着信御礼!ケータイ大喜利の最後のお題に出た際、「げっ、延長ですか…」などの投稿されたネタを言った直後に「本音ですね」とか「これは無いな」などと勝手に付け足して喋った。

サイン色紙に常に記す言葉は「いつもあこがれ」である。

[編集] 人間関係

2年目の1975年6月に甲子園球場の対ヤクルト戦で、1点ビハインドの6回表2死満塁の場面に三塁ゴロをトンネルし、そこから大量失点を招いて敗れた。試合後、ロッカールームに入れず、扉の前でしゃがみ込んでいたところに先発投手の江夏豊が通りがかり、「なにしてんだ、バカ。気にするな」と声を掛けたという[27]

長嶋茂雄のことを敬愛している。デビューした年の5月21日の対巨人戦でプロ入り初安打を記録した時、掛布は三塁を狙ったが長嶋にタッチアウトされた。しかし、「憧れの長嶋」にタッチされたことが嬉しくてたまらなかったという。長嶋は掛布の結婚披露宴で「君には巨人戦で数多くのホームランを打たれて悔しい思いもした。だが、君は千葉の後輩なんだ。悔しいが、誰にも負けない大きな拍手を、心から君のホームランには贈っている」とスピーチし、掛布も「長嶋巨人を倒すことが長嶋が最も喜ぶことだ」と考えたという[28]

新人時代、対巨人戦で安打で出塁した際、王貞治に「いつあんなバッティング覚えたんだ」と声を掛けられ、「あぁ、見てくれていたんだ」と自信がついたという。王とあまり言葉は交わさず、そのときだけ声をかけられた。一方、長嶋茂雄は三塁で「君はいくつなんだ?」などといった声をかけてきたとのこと[29]

長嶋が評論家に転じたのち、スランプに陥っていた掛布は長嶋に電話で助言を求めたことがある。すると長嶋曰く「そこにバットある? あったら振ってみて」。首をかしげながら掛布は素振りの音を電話越しに長嶋に聞かせた。音を聞いた長嶋は「雑念を取り払え、無心で振れ!」と言う。今度は無心でバットを数度振り、音を聞かせる。すると「そうだ、今のスイングだ。忘れるな!」と言い、電話は終わった。その後、掛布はスランプを脱したという[30]

ライバルであった江川卓とは、現役当時はオールスターゲームの際に会話する程度であった[31]。しかし、引退後にともに解説者として仕事をするようになってから親交が深まり、現在は親友の間柄となっている。TVにおいて共演した際には江川に向かい「たまには阪神のOB会に来い」と江川のプロ入りの際のゴタゴタをネタにからかったりしている。

現役時代、ともに主力選手であった岡田彰布との間で不仲説やそれぞれの「派閥」があるような記述が当時のスポーツ紙などでみられた。これについて岡田は2008年の著書で、入団後に飲食をともにしなかったことは事実としながらも不仲説は否定しており、そうしたマスコミの記述を「一緒に行かないから=仲が悪いと決めつけられても困る」と批判的に記している[32]。岡田は、掛布の引退試合の際に「後は頼むぞ」と言われたことが、「初めての2人の本音の会話だったかもしれない」と述べている[32]

巨人の阿部慎之助の父親は掛布の習志野高時代の同級生で、同じく野球部に所属していた。高校時代は阿部の父親が4番を打っており、掛布は3番打者だった。今でも阿部の父親とは深い親交があり、阿部が子供の頃から掛布に憧れていたのはこの縁に由来する。

前述のように、松村邦洋によくものまねされている。初期の頃は「阪神よりも下半身がいいですねー。」や「昼は解説・夜はワイセツ」といったダジャレに下ネタを織り込んだものまねをしていたため、本人は少々迷惑がっていたが、これをきっかけに親交は深くなった。松村の話によると、自分の家に一般人が平気で訪れたり悪戯電話をかけるなど嫌がらせが絶えなかった時代に、掛布の声で電話があり、はじめは悪戯と思ったが、本物の掛布であることが分かり感動したという。

[編集] 家族

現夫人は米田哲也に紹介された。

長男は大阪学院大学高等学校から大阪学院大学を経て社会人野球三菱重工神戸で2008年までプレーしていたが、彼がつけていた背番号も31だった。大阪学院大学時代にも、主将を務めた4回生時を除けば、1回生から3回生までは背番号31をつけた(4回生時には主将の慣例で1をつける)。

[編集] 債務問題

2009年には週刊誌において、経営していた店舗の不振により多額の負債を抱え、自宅も2008年11月に差し押さえを受けていると報じられた[33]。このことが関係してかは不明ではあるが、2008年いっぱいで長らく担当していた日本テレビ及び読売テレビの野球解説者としての契約を解除された。この債務について、掛布は、債務保証したコンサルタント会社から大阪地方裁判所訴訟を起こされた。掛布は「コンサルタント会社が実質経営していた」と主張したが受け入れられず、同地裁は2009年9月11日に、掛布側全面敗訴の判決を言い渡した[34][35]。2010年3月31日、大阪府豊中市にある自宅を大阪地裁が競売開始を決定。家財道具13点も同時に競売にかけられた。競売申し立ては兵庫県尼崎市の金融機関である。不動産登記簿によると、対象は延べ床面積約600平方メートルで鉄筋4階、地下1階の建物と土地約320平方メートルで、豊中市が同年2月に差し押さえていた。競売の結果、自宅は2011年6月に第三者に売却された[36]

2011年7月27日、実質的に経営している掛布企画が2回目の手形不渡りを出し、銀行取引停止処分になったことが明らかになった(事実上倒産)。負債総額は約4億円に上るという[37]

[編集] 詳細情報

[編集] 年度別打撃成績

















































O
P
S
1974 阪神 83 194 162 13 33 8 0 3 50 16 1 1 0 2 28 0 2 38 3 .204 .325 .309 .633
1975 106 344 317 34 78 15 3 11 132 29 0 0 3 0 22 3 2 68 8 .246 .299 .416 .716
1976 122 469 406 69 132 20 7 27 247 83 5 7 2 3 54 4 4 52 7 .325 .407 .608 1.015
1977 103 439 381 59 126 18 4 23 221 69 4 4 0 6 50 1 2 58 9 .331 .405 .580 .986
1978 129 532 465 73 148 17 2 32 265 102 7 5 0 2 63 7 2 86 5 .318 .400 .570 .970
1979 122 530 468 107 153 20 3 48 323 95 10 4 0 4 58 0 0 61 13 .327 .398 .690 1.088
1980 70 288 258 27 59 7 0 11 99 37 2 1 0 2 26 1 2 47 9 .229 .302 .384 .686
1981 130 549 458 84 156 25 1 23 252 86 1 1 0 4 85 18 2 54 8 .341 .443 .550 .993
1982 130 549 464 79 151 27 0 35 283 95 6 6 0 4 79 16 2 69 11 .325 .423 .610 1.033
1983 130 560 483 72 143 25 2 33 271 93 6 3 0 3 72 8 2 81 5 .296 .388 .561 .949
1984 130 549 442 79 119 14 1 37 246 95 3 2 0 3 102 8 2 83 11 .269 .406 .557 .963
1985 130 579 476 102 143 16 4 40 287 108 3 1 0 6 94 6 3 62 12 .300 .415 .603 1.017
1986 67 285 254 33 64 11 1 9 104 34 0 2 0 3 25 0 3 40 7 .252 .323 .409 .732
1987 106 424 387 33 88 14 3 12 144 45 0 1 0 3 33 2 1 61 9 .227 .288 .372 .660
1988 67 283 252 28 63 13 0 5 91 32 1 0 0 3 28 0 0 37 7 .250 .322 .361 .683
通算:15年 1625 6574 5673 892 1656 250 31 349 3015 1019 49 38 5 48 819 74 29 897 124 .292 .381 .531 .913
  • 各年度の太字はリーグ最高

[編集] タイトル

[編集] 表彰

[編集] 記録

初記録
その他の記録
  • 1イニング2本塁打 (1982年8月24日、対ヤクルト戦。史上9人目)
  • 4打数連続本塁打 (1978年8月31日 - 9月1日) ※日本タイ記録。
  • 10打席連続四球 (1984年10月3日 - 10月5日) ※セ・リーグ記録。
  • 10打数連続安打 (1981年8月5日 - 8月7日)
  • 12打席連続出塁 (1981年8月5日 - 8月7日)
  • オールスターゲーム出場:10回 (1976年 - 1985年)
  • オールスターゲームMVP:3回 (1978年第3戦、1981年第2戦、1982年第3戦)
  • 通算1000試合出場:1983年4月16日(233人目)

[編集] 背番号

  • 31 (1974年 - 1988年)
長嶋茂雄の3番と王貞治の1番を足して31番とした、と言われる事があるが、掛布本人は、球団から提示された空いている背番号の中で一番若い番号だったから、と語っている。小学館月刊コロコロコミック』に掲載された漫画「掛布選手物語」(たがわ靖之)では掛布の父の教えとされる「人の3倍練習しろ、それで初めて一番になれる」という教訓と上記「長嶋と王の番号」説を兼ねた感動的な説明になっている。掛布の前に付けていたのは、入団直前の1973年のシーズン限りで退団した外国人選手ウィリー・カークランドであった。また、入団当時の選手名鑑には上田二朗のユニフォームを借り、背番号「16」で写っているものもあった。本人はゲン担ぎで、よく試合前に背番号31にあやかりサーティワンのアイスクリームを食べていたらしい。
サッカーの大黒将志が2005年に初めてサッカー日本代表に選出されたときの背番号が31だったことに「掛布と同じですね。縁起えぇわ」と喜んでいる。ちなみに所属していたガンバ大阪での背番号は岡田彰布のつけていた16であった。
なお1976年オフ、掛布は球団首脳から「背番号を『3』に変更しないか」と打診を受けている。憧れの長嶋と同じ背番号ということで掛布は悩んだが、「入団時にもらった背番号『31』を自分の顔として育てていきたい」として固辞している。[38]
2010年5月5日に大阪府立上方演芸資料館(ワッハ上方)で開かれた山田雅人のトークショーにゲスト出演した掛布は、山田の「31番を永久欠番にして監督に復帰してほしい」という発言に対して「31番はグラウンドで動いている選手が背中につけて、生きてる方がいいと思う」と返答した[39]

[編集] 関連情報

[編集] 過去の出演番組

[編集] 現在の出演番組

いずれもMBSラジオ

こんちわコンちゃんお昼ですょ!』『ノムラでノムラだ♪ EXトラ』などの生ワイド番組にも、不定期で出演している。

[編集] ゲスト出演番組

[編集]

  • 1977年、遠藤良春が掛布の応援歌「GO!GO!掛布」(作詞・作曲:中山大三郎)を歌い、関西を中心に126万枚の大ヒットとなった[40]。掛布本人も1978年、はらたいらのプロデュースで「掛布と31匹の虫」(作詞:はらたいら、作曲:長戸大幸)を発売したが、こちらはヒットには至らなかった。なお、「掛布と31匹の虫」はオムニバスCD「えっ!あの人がこんな歌を・・・。」(1990年7月21日発売)にも収録されている。

[編集] CM

  • 大日本除虫菊 - 『コックローチS』(1978年 - 1979年)、『金鳥蚊取りマット』(1980年 - 1987年)
プロ野球選手は「憧れのかっこいい人」という印象が強かった時代に、当初から三枚目的な役どころとして起用され、好感度を上げた。しかし、1980年に放映された同CMでは「これで安心して眠れるなぁ」と三塁ベース上で居眠りする場面があった。

[編集] テレビゲーム

[編集] 漫画作品

なお、飛雄馬と掛布には「少年時代から高校まで父親によって野球漬けの生活を送る」、「プロ入りの際も父親が大きく関わった」、「テスト生として入団後一年目から活躍」という共通点がある。
  • いしいひさいちの『がんばれ!!タブチくん!!』にも長期にわたって登場した。当初は「若トラ」のイメージ通りのスマートな姿であったが、現役晩年には顔や体がいかついデザインに変わっていた。
このほか、水島新司の『野球狂の詩』や、江口寿史の『すすめ!!パイレーツ』などにも登場している。後者では千葉県ネタに絡むシーンがあった。

[編集] 著書

[編集] 脚注

  1. ^ a b c 『猛虎が吼えた―熱球悲願』P159 - 161
  2. ^ a b c d 『豪打爆発!われらが掛布雅之―背番号31はタイガースの宝だ!』講談社、1982年、P50 - 51
  3. ^ 田中好子と共演したミツカンのテレビCMでは左手で箸を持ってちらし寿司を食べる場面があった。
  4. ^ 吉田によると、当時の一枝修平コーチからの強い勧めがあったという(『牛若丸の履歴書』日経ビジネス人文庫、2009年、P161)。
  5. ^ 文春ビジュアル文庫「豪打列伝2」文藝春秋社
  6. ^ 文春Numberビデオ「熱闘!阪神vs巨人1200試合」文藝春秋社
  7. ^ 『巨人 - 阪神論』では、門田博光との「御堂筋トレード」だったと述べている(同書P180)。掛布はもしトレードが成立したら引退するつもりだったという。
  8. ^ a b 『巨人-阪神論』P127。また1989年に早稲田大学大隈講堂で谷沢健一(元中日)と講演会をした際には「斉藤君の制球力は知っていた。危ないぞ、来るぞ、と分かっていながら避け切れなかったのが残念だ」と語ったが恨みがましい発言はなかった。
  9. ^ 『巨人 - 阪神論』では、監督の関根潤三からの誘いと話している。それによると、将来は阪神に戻ってもよいという条件が示されていた(同書133 -134)。
  10. ^ a b c 『巨人-阪神論』P133 - 134。
  11. ^ 『巨人-阪神論』P207 - 208。
  12. ^ 『巨人-阪神論』P210。
  13. ^ a b 『巨人 - 阪神論』P87
  14. ^ 『巨人-阪神論』P19。
  15. ^ a b 『巨人-阪神論』P88 - 89。「田淵がもし残っていれば」と思うことが多いとも話している。
  16. ^ 『巨人-阪神論』P58 - 59。
  17. ^ a b 『巨人-阪神論』P69 - 70。ただし江川は同書で「他の人から比べると下手ではない」と述べている。
  18. ^ 宇佐美徹也『プロ野球記録大鑑』講談社、1993年、P972。
  19. ^ 『牛若丸の履歴書』P162。
  20. ^ 『巨人-阪神論』P44。
  21. ^ 『巨人-阪神論』P74 - p76。ただし、江川が肩を痛めた1983年頃からはその「暗黙の了解」はすでになくなっていたのではないかと両者は語っている。
  22. ^ 『巨人-阪神論』P54 - 56。江川は「おそらく怒っていたと思う」と述べている。
  23. ^ 『巨人-阪神論』P113。
  24. ^ 『巨人-阪神論』P129 - 131。
  25. ^ 同書P230。なお、玉木は選手としての掛布個人については同書で「それにしても、いい選手だった」と賞賛している(P118)。
  26. ^ a b 【わたしの失敗】プロ野球解説者・掛布雅之さん(3)MSN産経ニュース2007年12月6日。
  27. ^ 【わたしの失敗】プロ野球解説者・掛布雅之さん(2)MSN産経ニュース2007年12月5日。
  28. ^ 『巨人-阪神論』P148 - 149。
  29. ^ 『巨人-阪神論』P141。
  30. ^ 『巨人-阪神論』でもこの電話が事実であると掛布が述べている(同書P149 - 150)。ただし、スランプから脱出したかどうかには触れていない。
  31. ^ 『巨人-阪神論』P96。
  32. ^ a b 岡田彰布『頑固力』角川SSC新書、2008年、P96 - 97。飲食をともにしなかった理由については「やはり気の合う者同士が飲みに行く」からと説明している。
  33. ^週刊新潮』2009年5月7・14日号
  34. ^ 掛布さん側会社に1億5300万円賠償命令 産経新聞 2009年9月11日
  35. ^ 掛布雅之さん:大阪地裁 約1億5000万円の返済命令 毎日新聞 2009年9月11日
  36. ^ ミスタータイガース掛布氏倒産、負債4億 日刊スポーツ 2011年7月27日
  37. ^ 掛布雅之さん:経営の会社が2回目の不渡り 負債4億円 毎日新聞 2011年7月27日
  38. ^ プロ野球チームをつくろう!ONLINE2特別インタビュー
  39. ^ 掛布氏、独演会にゲスト出演も競売問題語らずMSN産経ニュース2010年5月6日。
  40. ^ 一ツ橋猛虎会『阪神タイガースへぇ~77連発!!』小学館、2003年、37-38頁。ISBN 4-09-102354-1

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

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