石ノ森章太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
石ノ森 章太郎
Replace this image JA.svg
本名 小野寺 章太郎
(おのでら しょうたろう)
生誕 1938年1月25日
日本の旗 日本宮城県登米郡石森町
(現・宮城県登米市
死没 1998年1月28日(満60歳没)
日本の旗 日本東京都
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家
特撮原作者
活動期間 1954年 - 1998年
代表作 サイボーグ009
仮面ライダー
人造人間キカイダー
さるとびエッちゃん
マンガ日本経済入門
HOTEL
受賞 第 7回講談社児童まんが賞
(『サイボーグ009』『ミュータント・サブ』
第13回小学館漫画賞
(『ジュン』『佐武と市捕物控』)
第33回小学館漫画賞
(『HOTEL』『マンガ日本経済入門』)
第17回日本漫画家協会賞大賞
(『マンガ日本経済入門』)
日本漫画家協会賞文部大臣賞
手塚治虫文化賞マンガ特別賞
映画特別功労賞
勲四等旭日小綬章
公式サイト http://www.ishimoripro.com/
テンプレートを表示

石ノ森 章太郎(いしのもり しょうたろう、1938年昭和13年〉1月25日 - 1998年平成10年〉1月28日)は、日本漫画家特撮作品原作者。本名、小野寺 章太郎(おのでら しょうたろう)。1984年までは石森 章太郎の表記を用いたが、この時期には「いしもり〜」と呼ばれるのが通例だった。

代表作は『サイボーグ009』、『ロボット刑事』、『さるとびエッちゃん』、『マンガ日本経済入門』、『HOTEL』など。仮面ライダーシリーズを始め特撮作品の原作者としても活躍。SF漫画から学習漫画まで幅広い分野で作品を量産し「漫画の王様」、「漫画の帝王」と評された。

1989年、漫画には「面白い、おかしい」だけではない多数の表現が可能になったとして、漫画の新しい呼び名「萬画」を提唱し「萬画宣言」を発表。以降は自らの職業を「漫画家」ではなく「萬画家」と称した。没後の2007年末には、500巻770作品におよぶ個人全集『石ノ森章太郎萬画大全集』(角川書店)が、一人の著者による最も多い漫画の出版の記録としてギネス・ワールド・レコーズに認定されている。なお、テレビ原作者(アニメ、実写)としてのクレジットは放映期間のべ六十数年分に及び、野村胡堂長谷川町子らを凌駕して国内最高である。手塚治虫衣鉢を継ぐSFマンガの第一人者であったが、熱心なSFの読者としても知られ、海外SF小説から作品のヒントを得ていたことも指摘されている[1]

息子に俳優小野寺丈長男)と石森プロ社長の小野寺章(次男)がいる。親戚に小説家今野敏がいる。血液型はAB型。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

登米市中田町石森の石ノ森章太郎生家。一般公開されている。

1938年(昭和13年)1月25日[注釈 1]宮城県登米郡石森町(いしのもりちょう、現登米市中田町石森。これが石ノ森のペンネームの由来である。当時「軍隊生活 兵営便り」など軍隊漫画絵葉書で活躍していたイラストレーター・小野寺秋風の絵柄を嫌い、同じ苗字を避けて石森を名乗った[2])に、父・康太郎(こうたろう)、母・カシクの長男として生まれる。姉、弟2人、妹の5人兄弟。下記にもあるように当初は映画監督を志していたが、3歳上の姉は生来病弱で外出もままならないため、学校での出来事や外での見聞などを絵に描いて見せていたのが、漫画の原点であったという。

そして手塚治虫の「新寶島」に出会い衝撃を受ける。以後手塚治虫の大ファンになった。

中学時代、近所の子供を集めて漫画同人誌墨汁一滴』を作るも、2号で廃刊。2年生の時「毎日中学生新聞」に4コマ漫画を投稿し入選、以後投稿マニアとなる。

宮城県佐沼高等学校[注釈 2]入学後、『漫画少年』への投稿仲間を集めて「東日本漫画研究会」を設立、肉筆回覧誌『墨汁一滴』を制作する。このころ既に漫画業界で「宮城県に天才がいる」と評判になっている。この頃のあだ名は「じゃがいも」。

高校2年生の春、漫画少年の投稿が手塚治虫の目に入り、『鉄腕アトム』のアシスタントを務める。

デビュー以後[編集]

高校在学中の1954年(昭和29年)[注釈 3]、手塚治虫の仲介が入り石ノ森は漫画少年で漫画家としてデビューすることになる[5]。デビュー作は『漫画少年』新年号にて「二級天使」。厳格な公務員であった父からは漫画家になることを反対されていたが、姉が応援してくれたこともあり、翌年の高校卒業と同時に姉の病気治療も兼ねて二人で上京。手塚をはじめ多くの漫画家たちが住んでいたトキワ荘に住み、作家活動を始めた。トキワ荘グループの男性陣の中では最年少ではあったが、最も早く頭角を現し、赤塚不二夫[注釈 4]などは、自分の漫画を描くよりも、石森のアシスタントをする時間の方が多いほどだった。また創作速度も極めて速く、藤子不二雄[注釈 5]やのちに石ノ森のアシスタントを務めた永井豪など、石ノ森を知る人間は口を揃えて制作の速さを証言している。藤子の『まんが道』では、藤子が2人で一日に5、6枚描ければよいところを、石ノ森は1人で15-20枚を描いていたという話が出てくる。また石ノ森のエッセイ漫画『サンジェルマン伯爵』(サイボーグ009「海底ピラミッド編」のエピローグに相当)には、「昔(赤塚不二夫と二人で描いていた時代)は月650枚という無茶もやったが、最近では歳だから300枚でフウフウいう」とある。

しかし1958年(昭和33年)4月、トキワ荘で石ノ森と同居し、トキワ荘グループのマドンナ的存在となっていた姉が急逝した[注釈 6]。最大の理解者であった姉を失ったことは、後の石ノ森の作風にも大きな影響をもたらした。

1959年(昭和34年)、手塚のアシスタントだった月岡貞夫とともに、手塚治虫の身代わりとして東映動画(現・東映アニメーション)の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に派遣された。石ノ森は月岡とともに「このまま東映動画に入ってアニメーションをやりたい」と訴えたが、当時東映動画の若手スタッフだった白川大作(後に東映動画専務)から「(絵が個性的でアニメに向かないから)ちゃんと漫画をやれ。そのかわり漫画が売れたらそれを原作として買いに行く」と説得されて断念した[6][注釈 7]。後にこのときの約束通り東映動画で作品がアニメ化された。さらに東映本体での特撮番組企画へとつながる東映グループとの接点のきっかけとなる。

トキワ荘に長く住んで国民的売れっ子作家にまでなった藤子、赤塚らの中ではもっとも遅い時期まで住み続けていた。

スター作家として[編集]

石ノ森萬画館の最寄駅であるJR石巻駅に飾られた人気作品の人形(左側: 仮面ライダー、右側: サイボーグ009)。

1964年(昭和39年)7月19日より代表作『サイボーグ009』の連載を開始[注釈 8]。この頃にはすでにスター作家となっており、この時期に描かれた石ノ森のマンガ入門書『マンガ家入門』(1965年)『続・マンガ家入門』(1966年)は当時から広く読まれた。これは漫画の技術論から、具体的なストーリー構想術までが書かれた画期的な漫画家入門書で、長年の間漫画家志望者のバイブルとなった。また、『サイボーグ009』を連載していた当時、ファンレターの宛先が漫画家の住所となっていたため多数の読者が訪問していた[1]すがやみつるが『サイボーグ009』の連載終了直後に訪問したときは、サインを貰いにきた別の訪問者に対して、訪問者に見えないところで当時チーフアシスタントであった永井豪が絵だけではなくサインまで書き上げて渡していたという[1]。このような対応を行わないと仕事にならないほど訪問者がきていたことが原因である[1]

仮面ライダーシリーズスーパー戦隊シリーズ(『秘密戦隊ゴレンジャー』『ジャッカー電撃隊』)の生みの親の一人である、渡邊亮徳(東映本社元副社長、当時の東映テレビ部事業本部長)との出会いと絶大なるサポートによって、1971年(昭和46年)より特撮作品『仮面ライダー』の原作とその漫画化(仮面ライダー)を担当。既にある漫画の実写映像化ではなく、製作会社である東映の企画に設定とキャラクターデザインを提供、できあがったものを元に漫画も執筆するというものであり、この成功をきっかけに同社における数多くの特撮変身ヒーロー番組の原作を手がけることになった。もともと映画監督志望だったこともあり、一部の作品(『仮面ライダー』や『イナズマン』)では監督も務めている。

これらの実写作品では、主役などのレギュラーのキャラクターデザインを石ノ森が手がけるのが通例だったが、『仮面ライダーストロンガー』以降の仮面ライダーシリーズや『アクマイザー3』『秘密戦隊ゴレンジャー』『ジャッカー電撃隊』などの1970年代中期以降の作品では、毎回登場するゲストのキャラクター(敵の怪人)のデザインも数多くおこなっている。ゲストのキャラクターのデザインの多くは簡単な設定込みで石ノ森がラフスケッチを起こすという形で行われ、このラフスケッチをもとに東映の番組スタッフ側でシナリオや着ぐるみがつくられた[注釈 9]

1981年(昭和56年)より日本漫画家協会理事を務める。

1985年(昭和60年)[注釈 10]、画業30年を機に「石森章太郎」から「石ノ森章太郎[注釈 11]」に改名した。もともとは「石森」で「いしのもり」と読ませるつもりだったが、誰も「いしのもり」と読んでくれず、「いしもり」の読みが定着してしまっていたため、初心に戻る意味をこめて改名を行なったという。しかし山田ゴロが自身のサイトで語るところによると、これまで打ち合わせ・旅行・忘年会などの季節行事で関係者一同に頻繁に会っていたのが、改名した頃からなくなってしまい、石森プロに連絡しても会わせてくれなくなった。ほどなく関係者一同の間で「先生は病気らしい」という話が広まったという。

1998年(平成10年)1月28日死去。60歳没。死因はリンパ腫による心不全。誕生日の3日後であった。戒名は「石森院漫徳章現居士」。東京都豊島区池袋三丁目の祥雲寺にある。

年表[編集]

主要作品リスト[編集]

※五十音順

外部原作者作品[編集]

特撮原作[編集]

この欄で紹介する作品は、テレビ番組の企画のブレーンとしての参加であり、テレビの企画が先行し漫画が原作というわけではない(詳細は上記の「経歴」を参照)。また、自らは漫画を描いていない作品も多い。

以下は没後製作されたが、著作権管理を一括する配慮からテロップでは原作者とされている。

共作扱い[編集]

スーパー戦隊シリーズの原作は、第1作『秘密戦隊ゴレンジャー』と第2作『ジャッカー電撃隊』のみ石ノ森(当時は「石森」)が担当し、第3作『バトルフィーバーJ』以降は八手三郎に交代した。ただし、ゴレンジャーとジャッカーも登場する場合や仮面ライダーシリーズとのクロスオーバーでは、石ノ森も連名でクレジットされている。

なお、『仮面ライダーディケイド』第24・25話と『侍戦隊シンケンジャー』第20・21話(両作品のクロスオーバー)の場合、『ディケイド』では石ノ森のみが、『シンケンジャー』では八手のみが原作者としてクレジットされた。

一方、石ノ森(石森)が単独原作者とされる東映作品(『宇宙鉄人キョーダイン』『快傑ズバット』『氷河戦士ガイスラッガー』など)において、八手が作詞者としてクレジットされている楽曲が多い。

アニメ 原作[編集]

以下は没後の製作。

テレビドラマ原作[編集]

以下は没後の製作。

  • おみやさん - 石ノ森の漫画「草壁署迷宮課おみやさん」が原作になっている。

この他、『新・おみやさん』2012年版第1話と『京都地検の女』2012年版第1話では両作品同士のクロスオーバーが行われたが、『京都地検の女』では石ノ森は原作者としてクレジットされていない。

映画原作[編集]

アニメ映画[編集]

実写映画[編集]

他作家が執筆した作品の原作[編集]

映像作品のコミカライズ、ノベライズは除く。

漫画[編集]

仮面ライダーシリーズの漫画作品は、仮面ライダーシリーズ#他の作家による漫画作品を参照。

  • スカルマン
    • スカルマン(作画:島本和彦
      石ノ森本人が執筆したオリジナル版の続編。島本版のために、新たに原作となるプロットを書き下ろしている。
    • スカルマン(作画:MEIMU
      正確には、TVアニメのコミカライズであるが、便宜上(島本版との差を書くため)、書いておく。
  • 人造人間キカイダー

小説[編集]

作詞[編集]

  • 戦いおわって - 『サイボーグ009』(テレビ版第1作)ED
  • 原始少年リュウが行く - 『原始少年リュウ』OP
  • ランのうた - 同ED
  • がんばれロボコン - 『がんばれ!!ロボコン』OP
  • ゴーゴー・キカイダー - 『人造人間キカイダー』OP
  • キカイダー01 - 『キカイダー01』OP
  • 月光の子守唄 - 『好き!すき!!魔女先生』ED
  • 地獄のズバット - 『快傑ズバット』OP
  • 戦えイナズマン - 『イナズマン』OP
  • イナズマン・アクション - 『イナズマンF』ED
  • 勝利だ!アクマイザー3 - 『アクマイザー3』OP
  • 斗え!!超神ビビューン - 『超神ビビューン』OP
  • 宇宙鉄人キョーダイン - 『宇宙鉄人キョーダイン』OP
  • オー!!大鉄人ワンセブン - 『大鉄人17』OP
  • 透明ドリちゃん - 『透明ドリちゃん』OP
  • やがて青春 - 『それゆけ!レッドビッキーズ』OP
  • 勇者よ銀河を渡れ - 『宇宙からのメッセージ銀河大戦』OP
  • 星雲仮面マシンマン - 『星雲仮面マシンマン』OP
  • たたかえ!バイクロッサー - 『兄弟拳バイクロッサー』OP
  • ロボット8ちゃん - 『ロボット8ちゃん』前期OP
  • 8ちゃんのえかき唄 - 同後期ED
  • ロボットガンちゃん110番 - 『ロボットガンちゃん』OP
  • 誰がために - 『サイボーグ009』(テレビ版第2作)OP
  • 星の子チョビン - 『星の子チョビン』OP
  • 星のしずくの子守唄 - 同ED
  • 氷河戦士ガイスラッガー - 『氷河戦士ガイスラッガー』OP

など。

仮面ライダーシリーズ 関連楽曲

など。

スーパー戦隊シリーズ 関連楽曲

著書[編集]

  • マンガ家入門(1965年)
  • 続・マンガ家入門(1966年)

石ノ森章太郎萬画大全集[編集]

角川グループ創立60周年の記念企画。2006年2月22日第1期発売開始。全12期500冊。770タイトルにもなる。2008年現在全12期発行完了。

ネットでの予約販売のみ(一般書店では購入不可能)、各期ごとのセット販売のみ(1冊ずつの購入は不可能)、限定生産という、入手を難しくする条件が重なったため、復刊ドットコムで販売形式が発表された当初は、掲示板に批判的な意見が多数寄せられた。

2008年1月24日ギネス・ワールド・レコーズから「1人の著者によって出版された最多コミックの記録」として世界記録の認定を受けた[10]

キャラクターデザイン[編集]

上のアニメや特撮の原作となった作品のキャラクターは省いている。

その他[編集]

主な出演作品[編集]

原作者という立場ではあるが、いくつかの作品では、石ノ森章太郎本人がテレビ番組や映画作品中に出演している。

出演時期によっては「石森章太郎」名義になっている。

テレビ[編集]

  • 仮面ライダー(1972年、東映)84話. イソギンジャガーに殺された釣り人
  • イナズマン(1973年、東映)助手
  • 快傑ズバット(1977年、東京12チャンネル)10話. 元プロ野球選手の石森選手[注釈 15]
  • ロボット110番(1977年、東映)最終話.ロボット博士
  • 大恐竜時代(アニメ)(1979年10月7日公開、日本テレビ)ジュン(主人公)の父の声

映画[編集]

ビデオ[編集]

ラジオ[編集]

関連人物[編集]

手塚治虫[編集]

手塚治虫と石ノ森は単に知名度のみならず、作品の質・量とも随一であり、二人にまたがるエピソードも多いため、節を分けて解説する。

デビュー前[編集]

石ノ森は幼少の頃、手塚の「新宝島」に衝撃を受け漫画家を志し、手塚が連載していた漫画少年の投稿欄に毎回送っていた。手塚は石ノ森を「ズバ抜けたデッサン」「天才的な少年の絵」と評価し、それは次第に仕事を手伝って欲しいと思わせるようになる[11]

高校2年生の春、『鉄腕アトム』の「電光人間の巻」執筆中の手塚治虫に「シゴトヲテツダツテホシイ」との電報を受け、学校を休んで上京。中間テストを挟んで手塚のアシスタントを務める。このとき背景や脇役だけを描けば充分であったにもかかわらず、アトムやヒゲオヤジなどのメインキャラクターまですべてを手塚タッチで描いてみせたため、手塚も度肝を抜かれたという。

手塚の仲介が入り石ノ森は漫画少年で漫画家としてデビューすることになる[5]。デビュー作「二級天使」の原稿をみた手塚治虫は「かれもディズニーにいかれているな」と評したという[11]

デビュー後[編集]

高校卒業と同時に、手塚が住んでいたトキワ荘に住む。

1959年(昭和34年)、手塚がスタッフとして加わっていた東映動画(現・東映アニメーション)の劇場アニメ『西遊記』の制作現場に、手塚の依頼により助手として派遣される。多忙で制作に参加できなくなった手塚が、自分の代わりとして手塚のアシスタントだった月岡貞夫とともに送り込んだものだった。

1967年(昭和42年)より『COM』に連載した『ジュン』は、姉への愛情とその喪失を主題に、明確なストーリーを描かず絵とコマの流れだけで叙情的な世界を表現した実験的な作品であり、当時の漫画読者に熱狂的に迎えられた。この時手塚治虫が読者への手紙の中で「あれはマンガではない」と『ジュン』を批判。それを知った石ノ森はショックを受け『ジュン』の打ち切りを宣言するが、のちに手塚が一人で石ノ森のアパートを訪れ「なぜあんなことを言ったのか分からない」と謝罪したというエピソードがある[12]。『ジュン』は以降も描き継がれることになり、『佐武と市捕物控』とともに1968年小学館漫画賞受賞作品となった。

その後二人の関係は修復し、手塚は何度か石ノ森を自身の漫画に登場させている。手塚が亡くなる少し前には二人で対談も行なっている[13]

手塚治虫の没後[編集]

1990年「手塚治虫展 フィルムは生きている」で、タイトル題字を藤子不二雄鈴木伸一馬場のぼる等との共同で担当。

没後、第2回手塚治虫文化賞マンガ特別賞が贈られる。

アシスタント[編集]

山田及びすがやのサイトによると、正確には「石ノ森の作画作業を補助する、本来の意味のアシスタント」(こちらは石森スタジオと呼ばれていた)と、「石森プロ関連作品の漫画化やキャラクター商品などの絵描き」の二種類があり、両者は仕事場も別々で、どちらかしか担当したことがない弟子も多いという。例として永井は前者、すがやは後者である。石森が亡くなった際、葬儀は密葬にて行われたが、『ライダー』ブームから始まるテレビまんが誌黎明期に活躍していた門下生たちは直訴した結果、石森の家までの集団訪問を許されている。

芸名を命名した俳優[編集]

関連施設[編集]

石ノ森萬画館(2012年4月撮影)
石ノ森章太郎ふるさと記念館
石ノ森の人物と歴史に焦点を当てた展示施設[15][16]宮城県登米市の石ノ森の生家に近くに所在する。2000年7月開館。
石ノ森個人の愛用品や収集物、記念品などを中心に展示している。
石ノ森萬画館
石ノ森作品を題材とした展示施設。石ノ森が第2の故郷としていた宮城県石巻市に所在する。2001年7月開館。2012年11月17日再開館。

脚注[編集]

[ヘルプ]

注釈[編集]

  1. ^ 松本零士と同じ生年月日である。
  2. ^ 同校出身の漫画家に大友克洋がいる。
  3. ^ 書籍によっては1955年と記載している[3][4]
  4. ^ 初期の『少女クラブ』に掲載された作品には、赤塚不二夫との共同ペンネーム「いずみあすか」名義、赤塚不二夫および水野英子との共同ペンネーム「U.マイア」名義のもの等がある。
  5. ^ 藤子の『オバケのQ太郎』の主人公「大原正太」は石ノ森の名前を元にしている。また「藤子不二雄」の共同ペンネームをやめて藤子不二雄Fとなった藤本弘に藤子・F・不二雄にするよう助言をしたのも石ノ森である。
  6. ^ 石森章太郎 『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』ISBN 978-4-06-183752-2 講談社〈講談社文庫〉、1986年、208頁によれば、死因は持病だった喘息の発作を抑えるための「モルヒネの打ちすぎによる心臓発作」。石ノ森は、「姉が倒れて救急車を呼び、入院して注射を打ったところ、容態が安定した」ように見えたため、一旦トキワ荘に帰り、その後、赤塚、水野英子と共に映画を見るために外出。帰ったところに「病院に来る」よう、電報が届いた、と記述している。また、石ノ森の姉が亡くなった当日、石ノ森、赤塚と終日行動を共にしていた水野も自著『トキワ荘日記』(自費出版、2009年)の中で、石ノ森の言動を含めて事態を詳細に記述している。さらに、この出来事は、石ノ森、水野の証言と比べると、細部がかなり異なってはいるが、藤子不二雄Aの著作『愛…しりそめし頃に…―満賀道雄の青春』にも描かれている。
  7. ^ 『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』、96頁によれば、「漫画(自分の仕事)と東映動画との両立が厳しい事が判ったから」、となっている。
  8. ^ 『トキワ荘の青春 ぼくの漫画修行時代』、184-213頁によると、この前に世界旅行に出かけている。海外旅行自由化される前であり、「個人の観光」では許可は下りなかった。そのため、集英社に依頼し、臨時に「記者」の肩書きを入手している(シアトルで開かれるSF大会の取材、という名目)。貯金がなかったため、旅費も各出版社から前借りした。SF大会では、矢野徹の紹介状を持ち、フォレスト・J・アッカーマン(雑誌「MONSTER」の編集長)、ロバート・A・ハインラインポール・アンダースンと会っている。この時に訪問した国・都市・名所は、アメリカに3週間(ロサンゼルスサンフランシスコニューヨークラスベガスディズニーランドグランド・キャニオン、シアトル)の他、イギリスロンドン)、フランスパリ)、オーストリアウィーン)、ドイツ東ベルリン西ベルリン)、オランダスペインマドリード)、イタリアローマミラノ)、ギリシャパルテノン神殿)、エジプトカイロピラミッドスフィンクス)、香港マカオなど(太字はサイボーグ戦士〈002、003、004、005、007〉の出身国。また、ギリシャはミュートスサイボーグのモチーフとなっている。後年にはピラミッドも登場した)。なお、この旅行は「雑誌(『少女クラブ』他)の廃刊が続いた事や、姉の死にショックを受けた逃避行」、という面も持っていた。
  9. ^ ただし必ずしも石ノ森のラフが尊重されたわけではなく番組スタッフ側で大幅にアレンジされることもあった。これらのラフスケッチで現存するものは、ジェネオンエンタテインメント『石ノ森章太郎 変身ヒーロー画集 ―Before 1975―』および『石ノ森章太郎 変身ヒーロー画集 (After1975)』に収録されている。
  10. ^ 『石ノ森章太郎 変身ヒーロー画集』では1986年と記載している[7]
  11. ^ 「ノ」の字の表記については、石ノ森が存命時、出版物や映像原作表示の際には、他の字に比して縦横2/3から1/2のサイズに表記する(「半角文字ではない」と言われる)ことが求められた。
  12. ^ EDではキャラクターデザインに雨宮慶太と野口竜の名前がクレジットされているが、主役のRXのラフ(頭部のみ)や、番組中期以降の多くの怪人のラフは石ノ森によっておこなわれている。
  13. ^ 敵側のキャラクターのみ、キャラクターデザインを担当。
  14. ^ 八手三郎山川啓介小池一夫との共同作詞扱い。詞・曲は、スーパー戦隊以外の作品の主題歌(渡辺宙明作曲)からも引用されている。
  15. ^ このときに撮影されたスナップ写真は、石ノ森の生家の玄関付近に飾られており誰でも見ることができる。

出典[編集]

  1. ^ a b c d すがやみつる 「感涙の最終回は新『009』への序章」『この最終回がすごい!』 メディアファクトリー、2003年2月11日、初版第1刷、72から80ページ。ISBN 4-8401-0703-3
  2. ^ 山内ジョージ『トキワ荘最後の住人の記録』p.222(東京書籍、2011年)。
  3. ^ 石ノ森ヒーローファイル 2013, pp. 124 - 125, 石ノ森章太郎年表.
  4. ^ 昭和石ノ森ヒーロー列伝 2013, pp. 106 - 111, 石ノ森章太郎ヒストリー.
  5. ^ a b 石ノ森章太郎のマンガ教室。
  6. ^ WEBアニメスタイル 白川大作インタビュー(2) 2012年10月29日閲覧。一方、月岡はその才能を評価されてそのまま東映動画に入社し、「天才アニメーター」と呼ばれた。
  7. ^ 石ノ森章太郎 『石ノ森章太郎 変身ヒーロー画集 -Before 1975-』 ジェネオン エンタテインメント2004年3月24日、207頁。ISBN 4-89452-797-9
  8. ^ a b 仮面ライダー帰ってきた! 被災の石ノ森萬画館が復活”. 朝日新聞 (2012年11月18日). 2012年11月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年1月28日閲覧。
  9. ^ マンガ中国大人物伝第2巻項羽224頁~225頁
  10. ^ 仮面ライダーの故石ノ森さん、最多コミックでギネスに”. 朝日新聞. 2008年1月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年10月29日閲覧。
  11. ^ a b 手塚治虫「ぼくはマンガ家」p.143。
  12. ^ 岩上安身「現代の肖像24 石ノ森章太郎」『AERA』、朝日新聞社、1990年。web掲載 2012年10月29日閲覧。
  13. ^ 石ノ森章太郎『ことばの記憶』2008年 P.132。
  14. ^ プロフィール”. 2012年10月29日閲覧。
  15. ^ 石ノ森ヒーローファイル 2013, pp. 117 - 119.
  16. ^ 昭和石ノ森ヒーロー列伝 2013, pp. 104 - 105.

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]