李白

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李 白(り はく、701年長安元年) - 762年宝応元年))は、中国盛唐詩人太白(たいはく)。飄々とした詩風から「詩仙」と後世の人は呼んでおり、杜甫と並び称される。絶句の表現を大成させた人物でもある。

李白肖像
李白肖像

目次

[編集] 略歴

[編集] その出自

逸話によると、李白が生母の胎内に宿った時、母は夢で太白星に遭遇したという。

李白の出身地には諸説がある。

新唐書』によると、李白は先祖代々の故地であった隴西郡成紀県(現在の甘粛省天水市秦安県)、そして生まれ育った綿州彰明県(または昌隆県)青蓮郷(現在の四川省江油市)、さらに山東の金陵県(現在の山東省)や西域の出生説もあり、現在のところははっきりわからない。また、『新唐書』によれば、李白は西涼の初代で太祖武昭王・李暠の9世の後裔と言われ、後に李暠の子孫が北魏に滅ぼされると、西涼の隴西李氏は北魏の庇護を受けたという。

引き続き、『新唐書』では末期頃に、李白の先祖が何らかの事情で(親族の李陽冰の言葉である“罪に非ずして謫居された”によると、一説では天災や旱魃に見舞われ、国家経営が困難に陥り、人材を確保する方針で突厥に拉致されたともいう)、東トルキスタンに追放されたと記されている。数代目になって西涼に戻ったようである。しかし、李白が4・5歳頃になんらかの事情で、家族と共に先祖代々の土地であった隴西郡を立ち去り蜀の青蓮郷に移住して、当地に定着したともいわれる。

だが、李白は隴西李氏で李暠の9世の孫でありながら、その実父の名は未だに不詳である(但し、蜀では李白の父は隴西郡から来た客と言う意味で李客と呼ばれたと言う)。俗説では李白の父は李思漢と呼ばれ、西域で商売をやっていたというが真偽の程は定かではない。

つまり、李白の出目を総合すると、彼の出身地は彰明県青蓮郷であり、原籍は隴西郡成紀県であることが真相らしい。

李白は少なくとも漢化した鮮卑系の李氏(鮮卑大野部)の唐の皇室とは血縁関係は全くない。要するに、唐の皇室は李暠の子孫で、隴西李氏と自称しているが、司馬光の『通鑑』によると唐の李氏は武川鎮にいた鮮卑貴族であろうと記されており、大部分を占める漢族の支持を受けるために李暠の子孫と名乗り、隴西李氏の一族と称ししたほうが中華王朝の主として君臨し易かったと推測することができる。

[編集] その生涯

李白は4・5歳から25・6歳までの少・青年期を青蓮郷で過す。号は青蓮居士(せいれんこじ)。 

この間、詩文を学び、山に籠って東巖子という道士と一緒に、蜀の鳥を飼育しながら共に過ごしながら道士の修行をした。山中の鳥も、李白の手から餌をついばんで恐れることがなかったという。また、その一方で、剣術を好み、任侠の徒と交際したとも伝えられる。

蜀を出てから、一時的に孔巣父ら5人の道士と共に徂徠山(そらいざん)に籠ったので、『竹渓六逸』とも呼称される。

以降は、しばらく流浪の生活を送っていたが、会稽で友人となった呉筠の勧めで長安に訪ねた。やがて呉筠の兄弟子の賀知事の推挙で彼の詩の才能を認められて、42歳で、宮廷の翰林供奉として仕えるようになったが、勤務時間は比較的に自由だったという。

彼は豪放で非常な酒好きであり、本人曰く常に酔っ払っているということで、玄宗の前に召された時も酔っ払っていて楊貴妃に対して暴言を吐いたり、玄宗の寵臣である宦官高力士に対して酔って指図して履物を脱がせたため、後に讒言を受けて官職を馘(クビ)になったと伝えられている。これを聞いた杜甫は、その『飲中八仙歌』において、「李白一斗詩百篇、長安市上酒家眠。天子呼来不上船、自称臣是酒中仙(李白一斗詩百篇、長安市上酒家に眠る。天子呼び来れども船に上らず、自ら称す臣は是れ酒中の仙と)」と評するが、楊貴妃とともに牡丹を賞でる玄宗のもとに召し出されるや、たちどころに楊貴妃の美しさを称える『清平調詞』三首をものし、面目を施した。一説では、李白は宮仕えが性に適わず、再び山に戻りたいと上奏し、玄宗がそれを許可したという。李白の官吏生活は約三年間くらいだったのである。確かに、李白の豪放な性格では官僚は確かに似合わなさ過ぎると言えよう。こうして李白は再び念願の自由人に戻ったのである。

安史の乱の時に、玄宗の第16子である永王・李璘(璘は王偏に)の勤皇軍に参加した。だが、この永王軍が結果的には、勅命も得ずに勝手に兵を集めてしまったことで、永王は異母兄である粛宗の逆鱗に触れてしまい、粛宗が派遣した武将の皇甫侁によって、謀反の罪に問われ処刑された。李白も永王に連座されて、夜郎へ流されることになった。だが、流刑の途中に罪を許され帰還することができた。この時に歌った詩が「早に白帝城を発す」である。数年後の762年に李白は親族の李陽冰の邸宅で62歳で死去した。死因は厳密には不明だが、酒の飲み過ぎが原因で酒毒になったという話がいかにももっともらしいので広く流布している。『新唐書』にも載る伝説では酔っ払って船に乗っている時に水面に映る月を捕まえようとして溺死したと言われる。杜甫とは親しく親交し、阿倍仲麻呂とも親交があった。仲麻呂が安南(=アンナン、現在のヴェトナム)漂泊され遭難した際に、(仲麻呂が死んだものと思い)その死を悼んだ詩(『哭晁卿衡』)を詠んだことでも知られる。孟浩然とも親交があったようで、「黄鶴楼にて孟浩然の広陵に之くを送る」も詠んでいる。「故人西辞黄鶴楼、煙火三月下揚州。孤帆遠影碧空尽、唯県長江天際流(故人西のかた黄鶴楼を辞し、煙火三月揚州に下る。孤帆の遠影碧空につき、唯だ見る長江の天際に流るるを)」

極めて伝説に富んだ人物であり、後世三言などの小説において盛んに脚色された。

[編集] 家族

李白の家族の逸話は意外と少ない。725年開元13年)、彼が26歳の時に第2の故郷の青蓮郷をあとにして、東進した。やがて、727年(開元15年)に李白は湖北安陸県(湖北省)で、高宗期宰相許圉師の孫娘と結婚し、正室として迎えた。数年後に許夫人との間に二人の子をもうけたという。姉は李平陽で、弟は李白禽と呼ばれたという。特に李白は、息子の白禽を可愛がり、溺愛したという。その李白禽には二人の娘がいたといわれる。ただ、李白は李白禽を除いて、家族よりも酒を溺愛する傾向があったのは事実のようであるらしく、彼は殆ど家庭を顧みずに妻の許氏との仲は険悪だったようである。ある説では李白の再仕官先が決定された時に彼は妻に向かって「どうだ?こんな酔っ払いでも官職を得られるんだぞ!」と妻を見下さんばかりに露骨に自慢したというが、真偽の程はわからない。後に李白は許氏と離縁し、これもまた名門出の南陵の劉氏を娶ったが、これも後に離縁した。さらに今度は「東魯の某氏」を側室に迎え、その間に末子の李頗黎を儲けたと言う。彼が50歳過ぎて、洛陽中宗期の宰相・宗楚客の孫娘の宗氏を継室として娶ったという。このように李白は家庭でも三回も結婚と離別を繰り返し、一人の側室を迎えるなど破天荒な生活を送ったようである。

唯一現存する李白の真筆(北京故宮博物院所蔵)。
唯一現存する李白の真筆(北京故宮博物院所蔵)。

[編集] 詩の特徴

李白の詩は豪放磊落で、唐の絶頂期の男性的な力強さを持っていると言われる。素直な感情をダイナミックに表現する骨太な詩風が特徴。

[編集] 著名な作品

李白墨筆画
李白墨筆画
秋浦歌 其十五
白髪三千丈  白髪三千丈
縁愁似箇長  愁に縁りて箇の似く長し
不知明鏡裏  知らず明鏡の裏 
何處得秋霜  何れの処にか秋霜を得たる

 

早發白帝城 早に白帝城を發す
朝辭白帝彩雲間 朝に辞す白帝 彩雲の間 朝早くに美しい雲がたなびいている白帝城を出発し、
千里江陵一日還 千里の江陵 一日にして還る 江陵までの距離千里を一日でかえってきた。
兩岸猿聲啼不住 両岸の猿声 啼いて住まざるに 両岸でないている猿の声は未だなきやまずに耳に残っているのに、
輕舟已過萬重山  軽舟已に過ぐ 万重の山 軽い舟は幾万に重なる山々の間を一気に通過してしまった。

 

静夜思 静かな夜に思う
床前明月光 寝台の前に明るい月の光がさしこんでいる[1]
疑是地上霜  地上の霜と見まがうばかりだ
挙頭望明月  仰ぎて明月を見
低頭思故郷  俯いてふるさとに思いをはせる

[編集] 妻子

[編集]

  • 許氏 - 高宗期宰相許圉師許紹の末子)の孫娘。
  • 劉氏 - 南陵の名家の娘。
  • 某氏 - 姓は不詳、東魯の人。李白の側室で李頗黎の生母以外は不詳。
  • 宗氏 - 中宗期の宰相で詩人の宗楚客(? - 710年、字は叔敖)の孫娘。

[編集] 子女

  1. 李白禽(? - 792年?) - 生母:許氏。父の後を継ぐ。
  2. 李頗黎 - 生母不詳(東魯の某氏の娘)。
    • 李平陽 - 生母:許氏、伯禽の同母姉。嫁ぎ先で間もなく早世。

[編集] 注釈

  1. ^ 日本では第一句は「牀前看月光」、第三句は「挙頭望山月」という句で親しまれている。

[編集] 関連項目

ウィキクォート
ウィキクォート李白に関する引用句集があります。