東トルキスタン

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東トルキスタン
Kokbayraq flag.svg
東突厥斯坦
繁体字 東突厥斯坦
簡体字 东突厥斯坦
東土耳其斯坦
繁体字 東土耳其斯坦
簡体字 东土耳其斯坦
ウイグル語
ウイグル語 شەرقىي تۈركىستان
Sherqiy Türkistan
トルコ語
トルコ語 Doğu Türkistan

東トルキスタン(ひがしトルキスタン)は、テュルク(突厥)系民族が居住する中央アジアの地域で、テュルクの土地を意味するトルキスタンの東部地域を指す地域概念。 中華民国は1912年から新疆省という行政区分を置いていた。

トルキスタンは、西トルキスタン東トルキスタンの東西に分割しており、西トルキスタンにはトルクメニスタンウズベキスタンキルギスカザフスタンタジキスタンが含まれる。

トルキスタンに含まれる国家・地域を囲った地図
トルキスタンの面積は、インド亜大陸よりも広い

東トルキスタンの漢民族視点の呼称に、新疆があるが、これは大清帝国時代に使われた言葉である。

中華民国は1912年から新疆省という行政区分を置いていた。 1949年中華人民共和国併合されて以降は、新疆ウイグル自治区という行政区分にあたる。中国領トルキスタンウイグルスタンとも言う。また東トルケスタンとも呼ばれる。

南にチベット自治区および青海省、東に甘粛省、北東にモンゴル国と接しており、北西から南西にかけては、カザフスタンキルギスタジキスタン西トルキスタン地域と呼称される旧ソビエト連邦中央アジア諸国、インドパキスタン間で係争中のカシミールアクサイチン)地方などと接している。

地域概念としての使用[編集]

日本東洋史学界における用法[編集]

日本において東洋史学が成立した明治末期、東京帝国大学の東洋史学科では、この地域について、西域という呼称を用いた。しかしながら、この呼称は中国から見た、中国にとっての西方を意味する呼称である。また、この地を現在統治している中国が使用する「新疆」という呼称は、この土地が清朝によって征服された1860年以降、「新しい領土」の意で命名された呼称であり、「西域」と同様に中国にとっての呼称であるうえに、1860年以前の当地に使用することは、時代錯誤となる。 現在、たとえば東京大学の史学会が編纂・出版する『史学雑誌』においては、当地に対し東トルキスタンという呼称が地域用語として使用されている。[要出典]

東トルキスタン独立運動における使用[編集]

テュルク系民族の一つであるウイグル族の中国からの独立派の人々も、「新疆」という用語が包含する中国中心の視点、中国中心の史観を嫌い、彼ら居住の地域や、独立をめざす国家の名称にこの用語を採用している。[要出典]

地理[編集]

アジア大陸の内陸部に位置する影響から、年平均降水量はわずか145mmと乾燥した気候となっている。そのために一日の中でも気温の変化が激しく、「朝に綿入れ、昼に半袖、夜に火鉢をかこんでスイカメロンを食べる」との喩え話がある程である。

東トルキスタンのほぼ中央にそびえる天山山脈を背骨とし、天山山脈と北のアルタイ山脈モンゴル国境)の間にジュンガル盆地、天山山脈と南のクンルン山脈チベット自治区との境)の間にタリム盆地が広がる。そのために中国では、天山山脈を境として、ジュンガル盆地のある北側を北疆、タリム盆地のある南側を南疆として分けている。

タリム盆地の中心はタクラマカン砂漠で、天山山脈南麓とクンルン山脈北麓に沿ってオアシス都市がほぼ連なって点在している。

クンルン山脈や天山山脈などからは、氷河などを主要水源とする河川が570本ほど流れているが、そのほとんどは海まで流れない内陸河川である。なお、東トルキスタン最長の内陸河川は、全長2137kmのタリム川である。

タリム盆地の西は旧ソ連領の西トルキスタン地域であり、天山山脈北麓は、イリ川の渓谷を経てイリ川の注ぐカザフスタンバルハシ湖や天山山脈北西麓のキルギスタンに繋がっている。

なお、かつての主要な東西交易路(いわゆるシルクロード)は、中国敦煌付近(甘粛省)から天山山脈南麓を通り、パミール高原などを越えてフェルガナ盆地ウズベキスタン)に至る経路を辿っていた。

東トルキスタンの住民の約45%はウイグル族が占めているが、他にも漢族、カザフ族回族モンゴル族満族など多くの民族が居住している。特に、中華人民共和国成立以後は漢族の流入が著しい。北西部には漢族と回族が多く、南西部にウイグル族が多い。

主な都市[編集]

歴史[編集]

近代以前[編集]

東トルキスタンには、古くはインド・ヨーロッパ語族の言葉を話す人(いわゆるアーリア人)が居住していた。

都市国家と月氏と匈奴[編集]

タリム盆地の辺りには古くは疏勒亀茲焉耆高昌楼蘭などの都市国家交易により栄えたが、しばしば遊牧国家月氏匈奴などの影響下に入った。

前漢と突厥と唐[編集]

前漢武帝の時代に匈奴が衰えると今度は前漢に服属し、以後は北方の遊牧国家(突厥など)と東方の諸帝国(など)の勢力争いの狭間で何度か宗主が入れ替わった。タリム盆地の都市国家郡は7世紀ぐらいまでは存続し、以後は数百年かけて徐々に衰退していった。

ウイグル可汗国[編集]

一方、タリム盆地の北に位置しモンゴル高原の南西にあるジュンガル盆地には、古来より遊牧民族が暮らしており、主にモンゴル高原を支配する遊牧国家(匈奴、突厥など)の勢力圏となっていた。しかし、突厥の支配時代にテュルク系民族集団の鉄勒の中からウイグル(回鶻)が台頭し、8世紀には突厥を滅ぼした。この時期のウイグルは、タリム盆地、ジュンガル盆地、モンゴル高原など広大な領域を勢力圏とし、多くの部族を従えたため、ウイグル可汗国と呼ばれている。ウイグルの影響力は絶大であり、安史の乱等ではしばしば唐を助け、婚姻関係を結ぶなど関係を深めた。

天山ウイグル王国とカラ・ハン朝[編集]

ウイグル可汗国は840年に崩壊する。これによって、モンゴル高原より逃亡したウイグル人は天山山脈北麓に天山ウイグル王国を建国し、同時期に別のテュルク系民族がタリム盆地にカラ・ハン朝を興した。この結果、東トルキスタンの住民は、次第にテュルク化に向かい、カラ・ハン朝がイスラム教に改宗すると、イスラム化が進んだ。

カラ・キタイ[編集]

カラ・ハン朝は後に東西に分裂し、東カラ・ハン朝はに敗れて西遷してきたの皇族耶律大石率いる契丹族によって12世紀に滅ぼされた。彼ら契丹族がトルキスタンに建てた王朝はカラ・キタイ又は西遼などと呼ばれている。カラ・キタイはさらなる勢力拡大を目指し、西トルキスタンに割拠していた西カラ・ハン朝を攻撃して服属させるとともに、その援軍として現れたセルジューク朝の軍に大勝して中央アジアでの覇権を確立した。結果、天山ウイグル王国やホラズム・シャー朝を影響下に置くこととなった。

モンゴル帝国[編集]

13世紀に入ると、モンゴル高原を統一したチンギス・ハン率いるモンゴル帝国が強大化し始めた。この頃になるとカラ・キタイがホラズム・シャー朝の勃興により相対的に弱体化していたため、天山ウイグル王国はいち早くモンゴルに服属し、その駙馬王家としてモンゴルの王族に準ずる待遇を得た。この判断は結果的に正しいものとなり、間もなく中央アジアの全域がモンゴルの勢力下に入ることとなる。

その後、モンゴル帝国は極東から東ヨーロッパに到る大帝国を建設したが、モンゴル帝国支配下の東トルキスタンを大きく分けると、天山ウイグル王国の領域のほか、チンギス・ハンの第三子オゴデイ系の領地(オゴデイ・ハン国)と第二子チャガタイ系の領地(チャガタイ・ハン国)に別れていた。やがてモンゴル帝国は王族間対立などによって徐々に解体へと向かうこととなるが、オゴデイの孫カイドゥは、モンゴル帝国の宗主たるクビライに公然と反旗を翻し、帝国の解体に大きな影響を与えた。

その後、モグーリスタン(東トルキスタン)は長らくモンゴル系領主の支配を受けた。16世紀にウイグル人国家であるヤルカンド・ハン国が成立したが、この支配者もチャガタイ系であった。

ヤルカンド・ハン国は、17世紀に北方からやってきたオイラト族のジュンガル四オイラト英語版の後継国家)に滅ぼされた。

清朝[編集]

さらに、18世紀なかば1757年9月にアマルサナーモンゴル語版が敗れ、ジュンガルはにより征服され、その支配下に入った。清朝の支配では、イリ将軍統治下の回部として、藩部の一部を構成することとなり、その土地は「ムスリムの土地」を意味する「回疆」、もしくは「新しい土地」を意味する「新疆」などと呼ばれた。

ヤクブ・ベクの乱[編集]

19世紀の後期、西トルキスタンのフェルガナ盆地を支配していたコーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクの手によっていったん東トルキスタンの大半が清から離脱する。しかし、間もなく清は欽差大臣左宗棠を派遣して再征服に成功した。この時期になると列強が積極的に東アジアに進出してきており、清はヤクブ・ベクの乱をきっかけにロシア帝国との国境地帯にあたる東トルキスタンの支配を重視し、1884年に清朝内地並の行政制度がしかれることとなった(新疆省)。結果的に見れば、この時期の一連の出来事が21世紀に至るウイグルの歴史に決定的な影響を与えることとなった。

中華民国・新疆省[編集]

辛亥革命によって清が滅亡した際、東トルキスタンはイリ地方の軍事政権(哥老会英語版広福)、東部の新疆省勢力圏などに分かれたが、やがて漢人勢力(袁大化楊増新)の新疆省がイリ地方を取り込んだ。この結果、藩部のうち、民族政権が維持されていたチベットモンゴルは手をたずさえて「中国とは別個の国家」であることを宣言(チベット・モンゴル相互承認条約)したのに対し、漢人科挙官僚によって直接支配が維持された東トルキスタンは、中華民国への合流を表明することとなった。ただし、中華民国中央が軍閥による内戦状態にあったため、新疆省は以後数十年に渡り事実上の独立国(楊増新金樹仁盛世才)のような状態であった。

東トルキスタン共和国[編集]

また1944年 - 1946年東トルキスタン共和国をはじめ幾度かウイグル人主体の独立政権が試みられた。

中華人民共和国[編集]

1949年中国共産党による中華人民共和国成立に際して統合され、その支配下に入った(ウイグル人にとっては漢族による征服)。1955年には新疆ウイグル自治区が設置された。しかし、自治区とはいえ実際の政治・政策は北京の中国共産党政府主導のもとで行われている。

またチベット亡命政府によると、中国政府は「政治犯」として50万人もの東トルキスタン人を処刑したといわれ、妊婦に対して「計画生育」と言う名目で胎児の中絶を強制し、犠牲になった胎児は850万に上ると推計されている。 またチベットでも同様の産児制限と中絶・不妊手術の強制が行われた[1]

中国による核実験[編集]

1964年から中国政府は新疆ウイグル自治区ロプノール湖にて、核実験を開始した。1964年10月16日に初の核実験が[2]1967年6月17日には初の水爆実験が行われた[3]。中国政府はこれまで46回におよぶ核実験を行ったと公式発表しているが、実際は、小規模の実験も含め、同地における核実験は50回以上に及ぶと推定されている。

放射能汚染による健康被害や農作物への影響が指摘されている。

高田純札幌医科大学教授による2002年8月以降の調査で、中国が東トルキスタンで実施した核実験によって、同自治区のウイグル人を中心に19万人が急死し、急性放射線障害など健康被害者は129万人にのぼり、そのうち、死産や奇形などの胎児への影響が3万5000人以上、白血病が3700人以上、甲状腺がんは1万3000人以上に達すると発表された[4][5][6]。また、被害はシルクロード周辺を訪れた日本人観光客27万人にも及んでいる恐れがあり、影響調査が必要であると同教授は指摘している[7]

高田教授による調査は、1996年までの中国の46回の同地区における核実験の爆発威力や放射線量、気象データや人口密度などを基礎データとした。楼蘭遺跡の近くで実施されたメガトン級の核爆発では高エネルギーのガンマ線ベータ線アルファ線などを放射する「核の砂」が大量に発生、東京都の136倍に相当する広範囲に及んだ。同教授によれば、中国の核実験は、核防護策がずさんで、被災したウイグル人への医療ケアも施されずに、広島原爆被害の4倍を超える被害者を出している。高田教授は「人道的にもこれほどひどい例はない。中国政府の情報の隠蔽も加え国家犯罪にほかならない」と批判した[8]

このような状況の中で「(中国政府に)実験のモルモットにされた」と訴えるウイグル人も現れており[5]、ウイグル人医師アニワルは、「中国では被曝者が団体を作ることも抗議デモをすることも許されないし、国家から治療費も出ない。中国政府は『核汚染はない』と公言し、被害状況を隠蔽しているので、海外の援助支援団体も入れない。原爆症患者が30年以上も放置されたままなのだ」として、中国政府の対応を激しく批判している[9]。また、核実験場は最も近い居住エリアから10キロしか離れていなかったとも指摘されている。

ウイグル人の悪性腫瘍の発生率が、中国の他の地域の漢人と比べて、35%も高くなっており、漢人であってもウイグル自治区に30年以上滞在しているものは、ウイグル人と同じ発生率となっている[5]。また、先天性異常のために歩くことも話すこともできない障害児ばかりが生まれる地域もある[5]

中国による同地区核実験についてはイギリスBBCが1998年8月に隠し撮りによるドキュメンタリー「死のシルクロード」(27分)を報道し、この作品は世界83カ国で放映されローリー・ペック賞を受賞している[10]

遺跡[編集]

東トルキスタン独立運動[編集]

脚注[編集]

  1. ^ 産児制限と中絶・不妊手術の強制
  2. ^ [1][2]
  3. ^ [3]
  4. ^ 高田純『中国の核実験』 ISBN 978-4-86003-390-3[要ページ番号]
  5. ^ a b c d 中国核実験46回 ウイグル人医師が惨状訴え
  6. ^ 2009.4.30産経新聞 中国核実験で19万人急死、被害は129万人に 札幌医科大教授が推計
  7. ^ 「中国共産党が放置するシルクロード核ハザードの恐怖」『正論』2009年6月号所収。2009.4.30産経新聞 [4]
  8. ^ 「中国共産党が放置するシルクロード核ハザードの恐怖」『正論』2009年6月号所収。2009.4.30産経新聞 [5]
  9. ^ 『諸君』2007年2月号「シルクロードに散布された死の灰」
  10. ^ 「『中国核実験』の惨状」 櫻井よしこ週刊新潮』 2009年4月2日号 日本ルネッサンス 拡大版 第356回

関連項目[編集]

参考文献[編集]

外部リンク[編集]