安史の乱

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安史の乱
An Shi Rebellion
安史の乱.PNG

安禄山軍の進路
戦争節度使安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱
年月日755年763年
場所:中国北部
結果:唐王朝・ウイグル帝国連合軍[1]の勝利 唐王朝の弱体化
交戦勢力
燕 (安禄山) 唐・ウイグル帝国連合軍
指揮官
安禄山
史思明
安慶緒
高仙芝
粛宗
葉護太子(ウイグル帝国)
ブグ・カガン(牟羽可汗)
僕固懐恩
戦力
15万 不明
損害
不明 不明

安史の乱(あんしのらん)・安禄山の乱(あんろくざんのらん)とは、755年から763年にかけて、節度使安禄山とその部下の史思明及びその子供達によって引き起こされた大規模な反乱。

背景[編集]

安禄山は西域サマルカンド出身で、ソグド人突厥の混血でもあった。貿易関係の業務で唐王朝に仕えて頭角を現し、宰相の李林甫に近付き、玄宗から信任され、さらに玄宗の寵妃・楊貴妃に取り入ることで、范陽をはじめとする北方の辺境地域(現在の北京周辺)の三つの節度使を兼任するにいたった。

史思明は安禄山とは同郷で、同様に貿易関係の仕事で頭角を現し、安禄山の補佐役として彼に仕えるようになったといわれる。

挙兵[編集]

李林甫の死後、宰相となった楊国忠(楊貴妃の従兄)との対立が深刻化しついにその身に危険が迫ると、安禄山は755年11月についに挙兵した。

安禄山軍の構成[編集]

盟友である史思明、参謀の次男安慶緒、漢人官僚の厳荘(げんそう)や高尚突厥王族出身の蕃将阿史那承慶契丹人の孫孝哲らとが参画した[2]

当時、安禄山は唐の国軍の内のかなりの割合の兵力を玄宗から委ねられていた。親衛隊8000騎、藩漢10万〜15万の軍団で構成された。

洛陽陥落と燕国建国の宣言[編集]

唐政府軍は平和に慣れきっていたことから、全く役に立たず、安禄山軍は挙兵からわずか1ヶ月で、唐の副都というべき洛陽を陥落させた。

756年正月、安禄山は大燕聖武皇帝(聖武皇帝)を名乗り燕国の建国を宣言する[3]

唐軍の状況[編集]

唐軍は洛陽から潼関まで退いたが、司令官封常清は敗戦の罪で、高仙芝は退却と着服(これは冤罪であった)の罪で処刑された。新たに哥舒翰(かじょかん)が兵馬元帥に任じられ、潼関に赴任した。哥舒翰は病気をもって固辞しようとしたが玄宗に拒絶されたと伝えられる。

哥舒翰は御史中丞田良丘に指揮をゆだねたが統率がとれず、また騎兵を率いる王思礼と歩兵を率いる李承光が対立しており、軍の統制は低かった。

長安制圧[編集]

唐は756年6月、蕃将哥舒翰に命じ潼関から東に出撃させたが、哥舒翰は安禄山軍に敗北する[4]

唐の敗走[編集]

パニックに陥った唐朝廷は、楊国忠の進言により、756年6月13日、宮廷を脱出する。玄宗は(現在の四川省)へと敗走する。その途上の馬嵬で護衛の兵が反乱を起こし、楊国忠は安禄山の挙兵を招いた責任者として断罪されたあげく、息子の楊暄楊昢楊曉楊晞兄弟と共に兵士に殺害された。その上に兵らは、皇帝を惑わせた楊貴妃もまた楊国忠と同罪であるとしてその殺害を要求し、やむなく玄宗の意を受けた高力士によって楊貴妃は絞殺された。これは馬嵬駅の悲劇といわれる[5]。失意の中、玄宗は退位した。皇太子の李亨が霊武粛宗として即位し、反乱鎮圧の指揮を執ることとなる。

唐、ウイグルへの援軍要請[編集]

756年9月、粛宗は、ウイグル帝国に援軍を求めるため、モンゴリアに使者として敦煌郡主の承宷(じょうしん)と、テュルク系の九姓鉄勒僕固部出身の僕固懐恩、ソグド系蕃将の石定番らを派遣する[6]。10月に、オルドバリクの会見でウイグル帝国第二代ハーンの葛勒可汗は要請に応じる。

756年11月から12月にかけて、安禄山軍の蕃将阿史那承慶は自身が突厥王族出身でもあったことから、突厥トングラ(同羅)・僕骨軍の5000騎を率いて、長安から北へ進軍し、粛宗のいた霊武を襲撃する[7]

葛勒可汗率いるウイグル軍と唐の郭子儀軍は合流し、阿史那承慶軍を撃破する[8]

安禄山の暗殺[編集]

一方、長安を奪った安禄山であるが、間もなく病に倒れ失明し、次第に凶暴化。さらに、皇太子として立てた息子の安慶緒の廃嫡を公然と口にするようになると、安慶緒及び側近達の反発を買い、安禄山は757年正月に暗殺された。安慶緒が父の後を継いで皇帝となる。

安禄山の盟友であった史思明はこれに反発し、范陽(北京)に帰って自立してしまう。

唐・ウイグル連合軍による奪回戦[編集]

粛宗は757年2月には鳳翔(陝西省鳳翔県)にまで南進する[9]

757年9月、葛勒可汗太子葉護と将軍帝徳ら3000〜4000騎を唐援軍として出兵する。粛宗は喜び、元帥広平王(のちの代宗)に命じて葉護太子と兄弟の契りを交わした[10]

唐・ウイグル帝国連合軍は15万の軍勢となり[11]広平王を総帥とし僕固懐恩郭子儀らを司令官として大挙して長安に迫った。

757年10月、広平王及び副元帥の郭子儀は唐・ウイグル連合軍を率いて安軍と陝州の西で戦った。この戦いでは、郭子儀軍は最初は曲沃に駐屯した。葉護太子は車鼻施吐撥裴羅将軍らを率いて南山に沿って東へ進み、谷の中で賊軍の伏兵と遭遇したが、全滅させた。

郭子儀は新店で賊軍に遭遇して戦ったが、賊軍の勢いが強く、郭子儀の軍隊は数里退却したが、ウイグル軍が背後より襲撃して安軍は敗走した。郭子儀と葉護太子の軍は賊軍を20里あまり追撃した。賊軍の死者は数えきれぬほどで、郭子儀と葉護太子の軍は敵の首を十余万も斬り、地上に倒れ伏した屍体は30里も続いたという。賊軍の武将の厳荘が大敗したことを安慶緒に報告すると、安慶緒は東京(洛陽)を後にして敗走し、黄河を渡った。

11月、広平王、僕射郭子儀、葉護太子らが長安に凱旋する。葉護太子は司空忠義王に封じられ、金銀を送られ、さらに唐は毎年、絹2万匹を支給することを約束した[12]

758年5月、ウイグル側が唐に公主降嫁を要求する。粛宗はやむなく、実の王女を「寧国公主」に封じて降嫁させ[13]、葛勒可汗を英武威遠毘伽可汗(えいぶいえんビルグカガン)に冊立する。759年4月に葛勒可汗が死去すると、すでに何らかの罪で殺害されていた長男の葉護太子でなく、末子の移地健が第三代ハーンとして即位する。これがブグ・カガン(牟羽可汗)である[14]

史思明[編集]

759年3月、史思明は洛陽の安慶緒を攻め滅ぼし、ここで自ら大燕皇帝を名乗り自立する。しかし761年2月、史思明も不和により長男の史朝義に殺害される[15]

史朝義討伐[編集]

762年4月に玄宗が逝去し、その直後に粛宗も逝去し、代宗が即位する[16]

762年8月、唐の代宗は安政権の残党史朝義を討伐するためにウイグルのブグ・カガン(牟羽可汗)に再度援軍を要請するために使者を派遣していたが、同じ頃、先に史朝義が「粛宗崩御に乗じて唐へ侵攻すべし」とブグを誘い、ブグ・カガンはウイグル軍10万を率いてゴビ砂漠の南下を始めていた。

唐の使節劉清潭はそれに遭遇したので、唐への侵攻を踏みとどまるようブグを説得したが聞き入れられず、ウイグル軍は南下を進めた[17]

劉清潭からの密使による報告で唐朝廷内は震撼した。僕固懐恩の娘のカトゥン(可敦)がブグの皇后であったことから、僕固懐恩が娘婿であるブグを説得したとされる[18]。説得に応じたウイグル軍は、あらためて唐側に付いて史朝義討伐に参加した。

762年10月、唐・ウイグル連合軍は、洛陽の奪回に成功。史朝義は敗走し、范陽に逃れんとしていたが、763年正月、追撃され、自殺する。こうして8年に及ぶ安史の乱は終結した。

なお、同763年10月、吐蕃ティソン・デツェン王が唐の混乱に乗じて侵攻し、長安を一時占領している。

その後[編集]

この10年近く続いた反乱により、唐王朝の国威は大きく傷ついた。また、唐王朝は反乱軍を内部分裂させるために反乱軍の有力な将軍に対して節度使職を濫発した。これが、地方に有力な小軍事政権(藩鎮)を割拠させる原因となった(河朔三鎮)。以降の唐の政治は地方に割拠した節度使との間で妥協と対立とを繰り返しながら徐々に衰退していった。

唐が弱体化していくとともに、ウイグル帝国とチベット(吐蕃)が台頭していく。

僕固懐恩の乱[編集]

764年、娘がブグ・カガンの后になっていたことや出身がウイグルと同じ九姓鉄勒 の僕固部であったことから宦官などから謀反の疑いをかけられた僕固懐恩吐蕃の衆数万人を招き寄せて奉天県に至ったが、朔方節度の郭子儀によって防がれた。

翌年(765年)秋、僕固懐恩はウイグル,吐蕃,吐谷渾党項奴剌の衆20数万を招き寄せて、奉天,醴泉,鳳翔,同州に侵攻した。しかし僕固懐恩が死んだため、吐蕃の馬重英らは10月の初めに撤退し、ウイグル首領の羅達干(ラ・タルカン)らも2千余騎を率いて涇陽の郭子儀もとへ請降しに来た。

これ以降、ウイグルと唐の和平が保たれたが、唐国内で安史の乱鎮圧の功を鼻にかけた回紇人の暴行事件が相次ぎ、大暦年間(766年 - 779年)において社会問題となった。

ウイグルによる唐征討計画[編集]

778年、ウイグルのブグ・カガン(牟羽可汗)自身も唐に侵攻する。翌779年、代宗が崩御して徳宗が即位すると、ソグド人官僚の進言でブグは唐に侵攻しようとするが、宰相トン・バガ・タルカン(頓莫賀達干)がブグとソグド人官僚を殺害し、アルプ・クトゥルグ・ビルゲ・カガン(合骨咄禄毘伽可汗)として即位した。アルプ・クトゥルグ・ビルゲは対唐関係を修復した。またアルプ・クトゥルグ・ビルゲは先代のブグが信仰していたマニ教を弾圧し、ソグド人にも圧力をかけ、また国号を回紇から回鶻に変える。

チベット軍の動向[編集]

また、同779年には吐蕃南詔連合軍は20万の大軍をもって成都占領を目指したが、国力を回復していた唐軍に撃退された。しかし786年には敦煌を占領し、河西回廊を掌握[19]。以後、タリム盆地南縁部へ進出する[19]

北庭争奪戦[編集]

789年にはチベット軍は、それまでウイグルに服属していた白服突厥カルルクと連合し、北庭大都護府のあったビシュバリク(北庭)を襲撃し、現地のウイグル・唐軍に勝利する[19]。ウイグル軍はモンゴリア地方まで撤退し[19]、ウイグル側にいた沙陀部もチベットに降る。この北庭争奪戦は792年まで続くが、最終的にウイグルが勝利し、トルファン盆地を含む東部天山地方全域がウイグル帝国の領域となり、タリム盆地北辺がウイグル領、タリム盆地南辺がチベット領となった[20]

東方で奚,契丹の反乱が起きていたため、忠貞可汗(在位:789年 - 790年)は頡干迦斯(イル・オゲシ)を派遣するが回鶻軍は勝てず、北庭大都護府が陥落し、北庭大都護の楊襲古は兵と共に西州に奔走した。その後、頡干迦斯は楊襲古と連合して北庭を取り返すべく5,6万の兵で攻めたが、大敗する。一方で葛禄(カルルク)が勝ちに乗じて浮図川を奪ったので、回鶻は大いに恐れ、北西にある部落の羊馬を牙帳の南へ遷してこれを避けた。

791年、ウイグルは北庭を奪還、また唐軍と共に塩,霊州へ攻撃を掛けて陥落させ吐蕃の首領を捕えた。この後の、タリム盆地~河西地域~隴右~漠南一帯を巡る戦争は50年に渡る。

809年に吐蕃が再度霊州から豊州の一帯を制圧して、回鶻-唐間の直道(参天可汗道)を遮断。

811年、ウイグル・唐軍による2度目の北庭都護府奪還とジュンガル盆地制圧によりカルルクがウイグルに服属、次第に旗色が悪くなる。840年頃には河西・隴右・西域の全域を奪還され、ウイグルと講和した。

813年、ウイグルが漠南で吐蕃軍を撃ち破ると勝ちに乗じて河西まで追撃したが、816年には吐蕃軍が牙帳から3日の距離まで進軍し周辺も制圧された。821年、連合を図るため唐から公主が降嫁。

三国会盟[編集]

821年、ウイグル、チベット、唐の間での三国会盟が締結された。この三国会盟については従来、チベットと唐の二国間での長慶会盟であることが通説であったが、近年[21]森安孝夫敦煌文書の断片ペリオ3829番に「盟誓得使三国和好」という文言をパリで発見したり[22]、中国の李正宇サンクトペテルブルク敦煌文書断片Dx.1462から同様の内容の記録を発見し[23]三国会盟が締結されていたことが明らかになってきている。当時の唐・チベット・ウイグルの国境は、清水県秦州天水と、固原(原州)をむすぶ南北の線が、唐とチベットの国境線で、東西に走るゴビ砂漠が、ウイグルとチベットとの国境であった。なお、ゴビ=アルタイ東南部のセブレイにあるセブレイ碑文が現存しているが、この碑はウイグル側が三国会盟を記念して建立したとされる[24]

824年に吐蕃と唐が停戦に至って以降は、専ら西部で戦闘が行われ、840年に和睦するまでの間に、漠南を奪還し河西地域を征服した。


日本への影響[編集]

このような唐の動乱の影響は海外にも及んだ。日本では天平宝字2年(758年渤海から帰国した小野田守が日本の朝廷に対して、反乱の発生と長安の陥落、渤海が唐から援軍要請を受けた事実を報告し、これを受けた当時の藤原仲麻呂政権は反乱軍が日本などの周辺諸国に派兵する可能性も考慮して大宰府に警戒態勢の強化を命じている[25]

更に唐の対外影響力の低下を見越して長年対立関係にあった新羅征討の準備を行った(後に仲麻呂が藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)で処刑されたために新羅征討は中止された)。

脚注[編集]

  1. ^ 森安孝夫『興亡の世界史5 シルクロードと唐帝国』講談社,2007年
  2. ^ 森安2007:287頁
  3. ^ 森安2007:287頁
  4. ^ 森安2007:287頁
  5. ^ 森安2007:287頁
  6. ^ 森安2007:288頁
  7. ^ 森安2007:290頁
  8. ^ 森安2007:290頁
  9. ^ 森安2007:290頁
  10. ^ 森安2007:290頁
  11. ^ 森安2007:290頁
  12. ^ 森安2007:290頁
  13. ^ 森安2007:290頁
  14. ^ 森安2007:292頁
  15. ^ 森安2007:292頁
  16. ^ 森安2007:292頁
  17. ^ 森安2007:293頁
  18. ^ 森安2007:293頁
  19. ^ a b c d 森安2007:349頁
  20. ^ 森安2007:350頁
  21. ^ 山口瑞鳳やハンガリーのJ・セルブらは1980年代にこの長慶会盟締結のときに、ウイグル帝国とチベット帝国との間にも講和が結ばれたとする仮説を提唱した。山口瑞鳳「沙州漢人による吐蕃二軍団の成立とmKhar tsan軍団の位置」『東京大学文学部文化交流研究施設研究所紀要』4,13-47頁,1981年。森安2007:350頁
  22. ^ 森安2007:351頁
  23. ^ 森安2007:351頁
  24. ^ 森安2007:353頁
  25. ^ 続日本紀』同年12月10日

参考文献[編集]