立川談志
立川 談志(たてかわ だんし)は、落語家の名跡。7代目(自称5代目)の死後は空き名跡となっている。
これは明治時代の寄席で人気を博していた釜堀りの談志(4代目)が初代を称し、俥屋の談志がそれに倣って4代目と称していたようなので、小ゑんは5代目というのは語呂が良く、さらに師匠5代目柳家小さんと代数が合うので丁度いいということで、5代目を名乗ることになった(本人の著書『現代落語論』より)。
釜堀りの談志を初代と見なした場合、3代目になるはずの談志がなぜ4代目を称していたかというのは、本名恒川駒吉の談志と俥屋の談志の間にはもう一人談志がいたらしいため、その談志を代数に含めていたためではないかと思われる。
また、花咲爺の談志(3代目)を初代とみなしたから5代目となった、とも言われる。
ちなみに、4代目桂文之助が1916年に著した『古今落語系図一覧表』では、のちに宇治新口を名乗った談志が代数に入っておらず、花咲爺の談志が2代目、釜堀りの談志が3代目、本名恒川駒吉の談志が4代目となっている。
- 初代立川談志 - 後の2代目菅良助。
- 2代目立川談志 - のち初代三笑亭可楽の門下で宇治新口を名乗る。こちらの談志の方が初代だとする説もある。
- 3代目立川談志 - 「花咲爺の談志」。本名、三宅岩太郎。
- 4代目立川談志 - 「釜堀りの談志」。江戸2代目桂才賀の門下。本名、中森定吉。
- 5代目立川談志 - 後の柳家金太夫。本名、恒川駒吉。
- 5代目と6代目の間にもう一人談志がおり、東西会に所属していたようであるが、詳細不明。
- 6代目立川談志 - 得意な演目から「反対俥の談志」「俥屋の談志」。性格の良さから「お結構の談志」。5代目三升家小勝の門下。本名、竹内栄次郎。
- 7代目(自称5代目)については以下に記載。
| たてかわ だんし 立川 談志 |
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丸に左三蓋松は、立川流の定紋である。 |
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| 本名 | 松岡 克由 |
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| 生年月日 | 1936年1月2日 |
| 没年月日 | 2011年11月21日(満75歳没) |
| 出生地 | |
| 死没地 | |
| 職業 | 落語家 |
| 活動期間 | 1952年 - 2011年 |
| 受賞 | |
| 第7回 サライ大賞(2008年10月) | |
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松岡 克由
まつおか かつよし |
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|---|---|
| 生年月日 | 1936年1月2日 |
| 出生地 | 東京府東京市小石川区 |
| 没年月日 | 2011年11月21日(満75歳没) |
| 所属政党 | 無所属→ 自由民主党→ 無所属 |
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| 選挙区 | 全国区 |
| 当選回数 | 1回 |
| 任期 | 1971年7月4日 - 1977年7月3日 |
7代目(ただし自称5代目)立川 談志(1936年(昭和11年)1月2日 - 2011年(平成23年)11月21日)は、落語家、落語立川流家元。本名、松岡 克由(まつおか かつよし)。
東京府小石川区(現在の東京都文京区)出身。政治家として参議院議員を1期、沖縄開発庁の政務次官を36日間務めた。サイバー大学客員教授。
目次 |
[編集] 概説
古典落語に広く通じ、現代と古典との乖離を絶えず意識しつつ、長年にわたって理論と感覚の両面から落語に挑み続けていた。古典落語を現代的価値観・感性で表現しなおそうという野心的努力は高く評価され、天才と称されるがその荒唐無稽、破天荒ぶりから好き嫌いが大きく分かれる落語家の一人でもあった。落語の他、講談、漫談をも得意とするなど、芸域の広さで知られた。
自ら落語立川流を主宰し、「家元」を名乗る。出囃子は『木賊刈』(とくさがり)。5代目三遊亭圓楽、3代目古今亭志ん朝、5代目春風亭柳朝(柳朝死去後は8代目橘家圓蔵)と共に『江戸落語四天王』と呼ばれた。
[編集] 経歴
- 1936年 - 1月2日、東京府東京市小石川区(現在の東京都文京区白山)に生まれる。
- 1952年 - 東京中学卒業。先輩に安藤鶴夫、牧伸二がいる。
- 1952年 - 高校を中退し、4月の16歳で5代目柳家小さんに入門。本名の「克由」の一字を取って、柳家小よしと名乗る。
- 1954年 - 3月に二つ目昇進し柳家小ゑんに改名。寄席の他に日劇ミュージックホールや新宿松竹文化演芸場にも定期的に出演し、コントや漫談も披露。赤シャツにジーパン姿がトレードマークだった。
- 1962年 - 入門が5年も遅い古今亭志ん朝が、「36人抜き」で小ゑんより先に真打になり、生涯最大の屈辱を味わう。
- 1963年 - 4月に立川談志を襲名し、真打に昇進。同時に小さん門下から真打に昇進したのが5代目柳家つばめ。
- 日本テレビ『笑点』の企画を発案し、1966年5月から1969年11月まで初代司会者を務める。後に、笑点放送100回記念では桂歌丸と異色漫才を行った。
- 1969年 - 第32回衆議院議員総選挙に無所属で出馬するも落選。
- 1969年 - ニッポン放送にて、月の家圓鏡(現・8代目橘家圓蔵)と、木魚を叩きながら、ナンセンスなやりとりをするラジオ番組「談志・円鏡歌謡合戦」を放送開始。人気番組となり、1973年まで放送[1](のちに、舞台やテレビ番組などで、何度も「再現」をしている)。
- 1971年 - 第9回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で初当選。直後に自由民主党(自民党)に入党。
- 1975年 - 12月26日、三木内閣の沖縄開発政務次官に就任したが、翌年1月30日(在任36日目)に辞任。自民党を離党。
- 1978年 - 6代目三遊亭圓生ら三遊派が落語協会脱退。落語協会分裂騒動となる。この脱退については諸説あり、落語史としても今なお、不透明の部分の多い歴史でもある。談志と5代目圓楽を黒幕とする説が多い(5代目圓楽は著書で新協会設立の話を圓生に持ちかけたのは談志であると述べている。また、志ん朝の香盤を下げるために仕組んだとする見方もある)。しかし、反響の大きさに慌てている談志の姿も目撃されてもいる。また、参加しないと思われていた志ん朝が参加してしまったため、慌てて参加を取りやめたとも言われる。
- 1983年 - 落語協会真打昇進試験制度運用を巡って落語協会会長で、師匠小さんと対立、83年落語協会を脱会し落語立川流を創設、家元となる。
- 1995年 - 新潟県西蒲原郡岩室村夏井(現:新潟市西蒲区夏井)に田んぼを持つ。「談志の田んぼ」と称し、以降、田植え、稲刈り作業をほぼ毎年行い、年によっては岩室温泉での落語会も行う。
- 1997年 - 食道癌を外科手術により摘出。以降の人生を癌との戦いに費やす。
- 1998年9月 - 食道癌(一説に喉頭癌とも)の手術を受ける。
- 1999年 - 長野県飯田市での高座にて、落語を上演中に居眠りしていた客一人を注意して退場を勧告した。後日、その客から「落語を聴く権利を侵害された」と民事訴訟で訴えられた。結局は請求棄却となる。
- 2005年4月から、NHKラジオ第1放送で、ラジオ創世記の名番組のリメイク『新・話の泉』(『おしゃべりクイズ疑問の館』の枠で月一回放送)のレギュラーを毒蝮三太夫、山藤章二、松尾貴史、その他ゲストとともに務めた。
- 2007年10月6日から2008年3月30日まで、爆笑問題の太田光とともに『立川談志・太田光 今夜はふたりで』に出演。以前は2005年10月6日から、ナイターオフシーズン(10月 - 3月)に放送されていた『おとなの時間割「談志の遺言」』(TBSラジオ火曜21時 - 22時)に出演していた。また過去に、文化放送で放送された『立川談志 最後のラジオ』にも出演していた。
- 2007年に入ってからテレビで再びコメントを求められるようになり『筑紫哲也NEWS23』に出演、「私の多事争論」で病欠の筑紫哲也をサポートして見せ、『情報プレゼンター とくダネ!』では直接ではないものの5代目柳家小さんの孫・柳家花緑と共演している(花緑の受け持ちコーナー「温故知人〜天国からのメッセージ」で生前親交のあった横山ノックを取り上げた際ゆかり人物としてVTR出演)。
- 2008年3月9日 - NHK BShiで『立川談志 きょうはまるごと10時間』放送。以前放送された『わが心の旅』『HV特集・71歳の反逆児・素顔をドキュメント』、毎日放送(MBS)『情熱大陸』を含む、インタビュー・密着ドキュメント・高座「居残り佐平次」などが放送された。
- 2004年から2008年まで、TOKYO MXで、野末陳平とともにトークバラエティ番組『談志・陳平の言いたい放だい』に出演。同番組は2007年6月からYouTubeでも公式に視聴することが可能となっている。
- 2008年5月 - 喉にポリープの疑い。検査を受けた。
- 2008年6月3日 - 自宅からほど近い日本医科大学付属病院に一泊二日の検査入院したが、「20日間は入院が必要」と医師に言われる。
- 2008年6月18日 - 退院。入院の間は病院から落語会やテレビ収録に行っていたという。
- この頃以降、高座でもそれ以外でも発声が極端に苦しくなり、力がなくしわがれた聞き取りづらい声に変わっていった。
- 2008年10月14日 - 喉頭癌を発病していることを公の場(雑誌『サライ』大賞授与式)にて告白。
- 2009年8月26日 - 長期休養を発表。予定されていた出演をすべてキャンセルとする。理由は体力の低下と持病の糖尿病治療であると発表していた。
- 実際は癌により発声が困難になったからと推測される。本人は事務所に当初は引退を切り出したという。事務所の説得で休養という形に落ち着いた。
- 2009年12月1日 - NHKラジオ第1放送公開収録番組『新・話の泉』に別録りのインタビューという形で出演。実際の公開収録舞台には談志の写真ボードが置かれた。
- 2009年12月28日 - 体調が好転せず、2010年冒頭に入院することが決定したことなどを受け、休養期間を約3ヶ月延長すると発表。
- 2010年3月2日 - 6代目三遊亭圓楽襲名披露パーティーに姿を見せ、挨拶を行った。この時に同席した桂歌丸は「生きている談志さんにお会いできたことが嬉しかった」とコメントし、談志との再会を喜んでいる[2]。
- 2010年4月13日 - 8か月ぶりに高座に復帰し『首提灯』を披露した。
- 2010年11月 - 声門癌再発を確認。このときは声帯摘出手術を本人が拒否。
- 2011年3月6日 - 川崎市・麻生市民館・麻生文化センターでの「立川談志一門会」にて『蜘蛛駕籠』。立川談志生涯最後の高座となる。
- 2011年3月21日 - 入院。ストレス性胃潰瘍と公表していたが、実際には声門癌の進行による呼吸困難症状が発生し、気管切開手術(声帯にメスを入れる)で一命を取り留めたものの、この手術によって、ほとんど声が出せない状態となっていたと推測される。退院後、以降のすべての仕事をキャンセルしたと発表し、現実にその死まで一切仕事は行わなかった。
- 2011年5月22日 - 弟子である立川キウイの真打昇進記念パーティーを欠席(欠席の理由は公式には「ビン・ラーディンの喪に服するため」と発表)。次ぐ、キウイの真打披露興行(6月30日・7月19日)に登場が予告されながら会場に足を運ばず。弟子の真打昇進記念パーティー・興行を欠席した唯一の例となる。
- 2011年10月27日 - 昏睡状態に陥る。この日を最後に、意識を回復することはなかった。
- 2011年11月21日14時24分、家族に看取られて死去。死因は喉頭癌[3]。75歳没。
- 談志の死去の報は一門の弟子たちを含む落語界・芸能界・知人の誰にも伝えなかった。家族のみで通夜・告別式(密葬)を挙行。2日の間、死を誰からも隠し通した。戒名は生前自ら考えた「立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)」。2日後、事務所(談志役場=息子慎太郎の会社)が死の事実をプレス・リリースしたが、その際も弟子たちに知らせなかった。立川キウイ[4]や立川談慶[5]ら弟子たちは、死の2日後にテレビニュース等で談志の死を知ることとなる。このため、マスコミやファンの問い合わせを受けて「(自分は聞いていないので)ガセだろう」と回答してしまい、あとで訂正するはめになった弟子たちが複数出た。
- 談志の死去を受けて11月23日、橘家圓蔵(5代目月の家圓鏡)と林家木久扇(初代林家木久蔵)が日本テレビのニュース番組『news every.』に生出演して、故人との想い出を語った。また日本テレビ『金曜夜席』当時からの友人である桂歌丸、上方落語界長老の桂米朝も逝去を悼むコメントを発表した[6]。弟弟子で落語協会会長の柳家小三治は「とんでもない人物だった。今でも兄弟弟子という思いは強い」と語り、兄弟子の死を悼んだ[7]。また、談志に憧れて落語家の道を志した上方落語協会会長の桂三枝も談志の訃報が公表された日の緊急会見で「嘘であって欲しいと思いました」と泣き崩れながら故人を偲んだ。
[編集] 政治活動
1969年に衆議院選挙に立候補したが落選(東京8区、無所属。19,548票で定数3人、立候補者9人中6位)。1971年の参議院選挙では当時の全国区で50人中50位の最下位当選だったが、その際のインタビューで「寄席でも選挙でも、真打は最後に上がるもんだ」という言葉を残す。直後に自由民主党(自民党)に入党した(本人によれば、佐藤栄作が座布団からおりて小さんに頭を下げたからと言うのが理由だという)。議員活動では、NHK受信料問題を質問した。
三木内閣時代の1975年12月には沖縄開発政務次官に就任するが、就任時の会見で議員の選挙資金について「子供の面倒を親分が見るのは当然」と発言したことが問題化。さらに政務次官初仕事である沖縄海洋博視察では二日酔いのまま記者会見に臨み、地元沖縄メディアの記者から「あなたは公務と酒とどちらが大切なんだ」と咎められる。これに対して「酒に決まってんだろ」と言ったことがさらに問題となる。弁明を行うはずの参議院決算委員会を寄席を理由に欠席するに至って、自民党内部からも反発が起こり辞任。在任期間は僅か36日であった。談志自身は、議員になったのは兼職をしてもいいと言われたからであり、自分は大衆との接点を持ち続けるのが信条だとして自民党を離党した。なおこの問題の時、親交がある石原慎太郎から「謝罪したらどうだ」と説得されたが拒絶した。参議院議員2期目を目指して、全国区から東京地方区への鞍替え出馬を予定していたが、直前で出馬を取りやめ、議員活動は参議院議員1期6年だけで終わった。
政治的には保守寄りである。在任中は共産党議員への野次に力を入れていたことにより、共産党支持者の8代目林家正蔵(後の林家彦六)(ただし、共産党のイデオロギーに共感したわけではなく、本人は判官贔屓としている)と、野次があるたびに喧嘩をしていた模様(ただし、彦六は談志の選挙を手伝っており、また、談志も国会の決算委員会で国鉄問題の際に通勤定期を通勤のみに使い、外出など私用な目的には定期を使わずに運賃を払っている人物の例として彦六を取り上げており、議事録にも残っている(昭和51年10月28日、参議院運輸委員会会議録7号29頁))。政界を退いた後も自民党を中心とする保守系政治家との親交が深い。保守系議員の選挙応援などにもしばしば動いている。
その反面、元社会党衆議院・参議院議員上田哲の選挙応援にも出たこともある。談志によると「議会には反対派も必要だ」と言うが、政治レベル以外での個人的な交友関係によるものとも思われ、上田も立川流の高座に上がったこともあるほか、談志・西丸震哉と「老人党東京」を旗揚げしている。
[編集] 音楽活動
自身は無類の歌謡曲ファンで青春時代は歌声喫茶に通いつめた。最近は『談志絶唱 昭和の歌謡曲』という本を出版もした。ディック・ミネのファンでもありほとんどの曲を今でも歌える。なお噺家になってからは交流もあった。
- 『笑点音頭』
(※『笑点音頭』は、この番組で現在放送されているインストゥルメンタルのテーマミュージックとは全く別物である)
談志自身が企画し司会を務めたテレビ番組「笑点」のテーマソングである。談志31歳の頃の作品。すべての歌唱パートを談志が受け持つ。「笑点グループ」のメンバーは上記のとおりの6人であるが、サビの部分のバックコーラスのみの担当である。
談志とこのメンバーが、日劇における三橋美智也ショーのゲストとして招かれ、この曲を披露したことがある。談志と三橋美智也が友人だったからでもある。有楽町・日劇は最高のステータスを誇る劇場であったが、三遊亭歌笑を除く落語家とはもともと無縁のところだった。
反対に、日劇に併設された日劇ミュージックホールへは、談志は非常に若い二ツ目時代からレギュラーで出演していた。泉和助・E・H・エリックらとコントを演じていたほか、洋装で、立ったまましゃべるスタンダップ・コメディを披露していた。
しかし談志とメンバーが対立し、大喜利メンバー全員が降板した1969年以降、この曲は一切放送に使用されなくなった。
現在では、この曲は、企画盤のうちの一曲として複数のレコード会社からCD化されている。
- 『アメリカ』
2003年9月11日「談志2REVOLUTION」名義でシングルCDとして発売。ラップミュージックとなっている。
- 『国会』
[編集] 大学教授
サイバー大学の客員教授を務めていた。受け持ち科目は共通科目の「落語と文化・文明論」。[2]
[編集] その他の活動
手塚治虫の熱烈なファンで、生前の手塚本人との親交も深く、アニメ映画『ジャングル大帝』に声優として参加した(密猟者ハムエッグ役)。声優としての出演には他に『ドラ猫大将』などがある。また、ブラック・ジャックの文庫本にもメッセージを寄せている。
1992年、瀬戸内海のサメが人を襲う事件があり、当時、明治大学替え玉受験疑惑で芸能活動謹慎中であったなべおさみと「シャークハンター必殺隊」を結成、鮫のぬいぐるみのついた野球帽をかぶって現地入りし、現地の人たちから顰蹙を買い罵声を浴びた。このように本気か冗談か判断の難しい突飛なパフォーマンスを好む傾向がある。
[編集] 所属事務所
- 1965年頃 - 1967年頃
- 「現代センター」
- 1967年頃 - 1971年国会議員就任まで
- 「談志プロダクション」(談志自身が社長)
- 1971年国会議員就任 - 1983年落語協会脱会まで
- 1983年落語協会脱会 - 2000年3月末まで
- 「立川企画」(松岡由雄社長=談志の実弟)
- 2011年現在、立川志らくのマネージメントを担当
- 「立川企画」(松岡由雄社長=談志の実弟)
- 2000年12月13日 -
- 有限会社「談志役場」(松岡慎太郎社長=談志の息子)
[編集] 人物
[編集] 自殺
- 「談志は自殺する」と予言した人物がいる。同業の先輩である林家正蔵(彦六)である。しかし、それは談志が国会議員になったばかりの絶好調の頃である。だが正蔵に言わせると、談志はやることなすことが全て当たり、成功したので、現実の世の中が馬鹿馬鹿しく思えるのではないかとのことだった。正蔵は談志本人に直接それを言うことはなかったが、他の多くの人にその危惧を語っている。その1人である川戸貞吉がそれを本に書き、公の知るところになった。
- 晩年、談志は、テレビで「死ぬつもりでいたからね。(でも)自殺ができないってことになって…。本当の話だもん」と、自殺願望が抑え切れなくなっていることを告白した[8]。
- 談志本人は、「談志は自殺する」という正蔵の予言について「(今から見れば)当たっている」と評した(川戸との対談にて。紀伊国屋書店第85回新宿セミナー、2007年9月16日)。
- 公式ホームページ「地球も最後ナムアミダブツ」の「今日の家元(日記欄)」にも自殺をしたくても出来ないことを示すくだりが登場している。
[編集] 落語家として
- 落語家としての全盛期の実力に対する評価は概して高いものの、直情径行な性格により数々の過激な争いを起こし続けており、敵を作ることも厭わない「暴れん坊」ぶりもあって、毀誉褒貶の激しい人物でもある。
- 楽屋ネタや同業者をネタにする噺家は少なくなく、談志もまた、敵味方・先輩後輩関係無く、同業者にネタにされることがある。落語「地獄めぐり」の口演では、地獄に来た落語家を並べ立てるくだりにおいて、「立川談志……あれ、あいつまだ生きてんじゃなかったか……ああ小さく書いてある、えーと『近日来演』」(まもなく死んで地獄に来る、というオチ。オリジナルは3代目桂米朝の「地獄八景亡者戯」で、本来は演者の名前が入る)というネタが出て来る。
- 落語そのものに対して、「落語とは、人の業の肯定である」との見解を、常々表明していたが、近年は「イリュージョン」という独自の域に達したと自認している。イリュージョンとは、業の域をさらに高め、円鏡とのラジオでみせていたような意味不明の掛け合いから、新しいおもしろさを見いだそうというものである。
- 師匠5代目柳家小さんとは口論になることが多いが、基本的に関係は悪くなかった。
- 真打昇進試験に弟子が合格できず、その当時会長であった小さんとは方針が合わないとして、落語立川流を設立、これにより破門される。
- 本人著では、破門後も何度か互いの芸を貶す・どちらが先に死ぬかなどの口論をしたり、取っ組み合いの喧嘩もしているが、基本的には二人の間で自然とおさまっている。
- ある新年会では、気に入らない小さんの客に、酒や膳の上のものを、片っ端からその客にぶつけて帰ってしまった後、小さんは「客がワルイ」と談志を庇ったという。また、喧嘩にしても小さんは「本気でやれば、俺の方がよっぽど強い」と、談志に好きに頭を締めさせてやっていた。
- 小さん(5代目)の生前、孫である花緑との座談で「(小さん)師匠に『(落語)協会に戻って来い』と頭を下げられたら困る。それを断ることは日本教に反する」と語っている。発言に小さんに対する意識が垣間見える。
- 上方の噺家である、3代目桂べかここと、3代目桂南光襲名披露パーティーで、偶然、南光の楽屋で鉢合わせになり、両者が口論になった。その時楽屋にいたべかこの大師匠3代目桂米朝が、制止したこともある。
- 落語における「大名跡」の価値を評価しており、「いずれ、オレは小さんに、5代目圓楽は圓生に、志ん朝は志ん生になるべき」と、『現代落語論』で書いている。そのため、本来の実力からは自身の弟弟子であった10代目柳家小三治が継ぐべき「小さん」を、先代の息子である3代目柳家三語楼が襲名したことを批判している。
- ハスキーな声でシニカルかつマイペースに振る舞い、時に有言不実行ぶりをはばからないなど、一筋縄ではいかないキャラクターの持ち主である。
- 今では一般化した、「あわわ」や「やだねえ」という言葉を流行らせた。
[編集] 笑点初代司会者として
1966年5月15日の放送開始から1969年11月2日まで日本テレビの演芸番組『笑点』の司会を務めているが、後年「笑点ってのはよう、アタシが作った傑作なんだよ」と語っている通り、笑点は談志が自ら企画して実現したものである。
初代メンバーの1人で後に司会を務めることとなった5代目三遊亭圓楽がいつみても波瀾万丈で語ったところによると、談志は5代目圓楽に「寄席でやっている大喜利をテレビでやろうじゃないか」と持ちかけたのが番組開始の端緒だという。持ちかけた末に生まれた番組が前身番組の『金曜夜席』で隔週金曜深夜に放送されていた番組であった。当初は談志が演芸コーナーの司会で5代目圓楽が大喜利コーナーの司会というローテーションだったが後に談志に統一された。前身番組の時点で『笑点』の基礎が固まり、そのまま日曜夕方の番組としてスタートしたのである。
談志は降板後も特別番組の時には何度か出演しているが、2000年代以降は完全に距離を置いている。
一方で、『笑点』の企画自体の思い入れがあるためか、2001年 - 2003年頃には、特冊新鮮組(竹書房の隔週刊娯楽雑誌)で「大笑点」という投稿コーナーを企画(2006年 - 2008年の元日に日本テレビで放送された同名番組とはまったく関係はない。2002年には書籍化)し、2005年10月開始の談志の遺言(TBSラジオの番組)には、「おれとお前の笑点」という投稿コーナーを設けていた(2006年3月の一時終了まで存在した。同年10月の再開時には消滅)。
番組内でのキャラクターについては「大喜利 (笑点)#立川談志(笑点初代司会者)」を参照
[編集] 性格
- 評価できない人物に対しては正直に罵倒混じりの辛辣な批評を飛ばし、高座では差別用語も遠慮無く連発するなど、タブーを物ともしない過激な毒舌家として有名だが、一方ではフェミニストであり日和見主義である。特にそのタブーを物ともしない過激ぶりで有名なのが吉本興業批判。自著で初代桂春団治が晩年非業の死を遂げたという例をあげ「あそこ(吉本興業)の使い捨て体質は戦前から(創業時からの伝統)なんだよ」と批判しており、吉本が東京に進出して以降、テレビの出番が減っている。ただし、締め出されてはいない。
- 弟子によれば、「人格は最低だが芸は最高」という。
- 「芸人という消費文化の担い手である以上真っ当に働くな」、との趣旨で「泥棒しろ、ただし、俺の家は駄目だぞ」と弟子に発言したこともあるという。
- 自他共に認める、無鉄砲なまでの冗談・いたずら好きであり、洒落か本気かわからぬ行動によるこの種の武勇伝は極めて多い。エピソードの一つとして、レポーターやナレーション業で知られる神太郎が付き人だった時の話がある。地方興行の折、夜中に突如「トランプを買ってこい!」と無理難題を押しつけられたが、機転を利かせた神はバーへ行き、バーテンダーからトランプを調達して、談志を唸らせたという。
- 肉が好物であるため、弟子はしくじった際に機嫌をとるために高級肉を談志宅へ持ち込むことがある。談志の自宅には多数の冷蔵庫があり、賞味期限が切れた食材は弟子に食べさせる。
- かなりの資産家であると同時に、吝嗇(りんしょく:ケチ)でもある。「10億円の預金がある」との発言もしている。
- 落語立川流に上納金制度を導入しているが、これは飲み屋でそのスジの人から、「師匠の所は、モノを教えるのに金はとらないのかい?」と言われた事がきっかけだという(驚きももの木20世紀より)。
- また、大変な洋画好きであり、「言いたい放だい」でもコーナーが設けられている。取り上げられるのは主に黎明期から黄金期にかけてのハリウッド映画やフランス映画で、MGMミュージカルが好きなようだ。監督ではビリー・ワイルダーを敬愛している。
- 5代目圓楽によると「案外気の小さいところがある」とのこと。実際、「志ん朝が真打に昇進する時には本人に『昇進を辞退しろ』と直談判に行ったが、自分(5代目圓楽)の時には人にボロクソ言ったわりに直接言いには来なかった」「自民党の大物政治家たちと同じテーブルに座っているのをみて『圓楽の馬鹿はああいうところに座ってる』と言っておきながら自分はそこに座ろうとはしなかった」などそれを裏付けるようなエピソードが圓楽の著書にいくつか紹介されている。
[編集] 逸話
- 熱海に出かけたが弟子たちの働きぶりが気に入らず、弟子全員の衣類と財布を持って先に東京に帰ってしまい、弟子たちはどうしようもなく旅館から電車賃を借り、旅館の浴衣姿でやっと帰ってきたという。談志自身の著作・弟子の著作双方に記載されている。
- いかに荒っぽいいたずらであろうと「洒落」の一言で済ませてしまう乱暴な談志を、唯一閉口させたのは石井伊吉(毒蝮三太夫)であった。鉄道駅のプラットホームで電車を待っていた談志を電車入線間際に線路に突き落とそうとし、運良く落ちずに済んだ談志が「死んだらどうするんだ!」と怒鳴りつけたが、毒蝮は笑って曰く「洒落のわからないやつだと言ってやる」。また、「笑点」の収録で大阪に行った際、道頓堀で暴漢に刃物で後頭部を切られた談志を見た毒蝮が「おい、貯金箱だな」と言って頭の傷口に硬貨を入れようとし一緒にいた笑点メンバーたちは大笑いしたという。石井に「毒蝮三太夫」の芸名を与えたのは談志である。
- 談志が芸人として絶頂期にあった頃、行きつけの酒場で見知らぬ老人からいきなり「よう、テレビでよく見る三流芸人じゃねぇか」と声をかけられた。既に酒が入っていた談志は憤慨し、「この野郎、どうせ落語なんかろくに知らねぇんだろう」と激しく詰め寄ると、老人は噺家顔負けの掛け合いを披露してみせ談志を黙らせてしまった。実はこの老人は紀伊國屋書店の社長の田辺茂一で、酒場で出くわしたことは偶然ではあるものの、売れっ子になり時折慢心をのぞかせていた談志を懲らしめてやろうとわざと怒らせたのだという。その後二人は公私共に信頼しあう間柄になり、田辺が病死した際は談志に本人の遺言で形見分けがなされた。
- 上記の形見は田辺が常に持ち歩いていた使い古しのバッグで、生前田辺は「この中には俺の人生で一番大切なものが入っている」と言い、談志がいくら頼んでも中身を見せてはもらえなかった。田辺の死によりバッグを受け取った談志は、「あれほどの大人物がそれほど大切にしている物とは一体何だろう」と思いバッグを開けると、中には何も入っておらず空だった。いわば談志は長年にわたり田辺が仕掛けたマクガフィンに騙されていたわけで、それに気付いた瞬間さすがに苦笑いしたという。
- 5代目三遊亭圓楽と同様に、睡眠薬を大量に服用するのが好きである。とりわけ、睡眠薬をかじりながら酒を飲むというのがたまらないと語っている。
- 1997年に咽頭癌の手術。しかし、この時は白板症と診断され「癌もどき」と。術後、医者から止められていたにもかかわらず記者会見では堂々とタバコを吸った。ただし、その後は毎月定期健診に行ったりして健康には人一倍気を使っているという(5代目圓楽の著書による)。
- 落語自体の将来を憂えており、「驚きももの木20世紀」において、一肌脱いでやろうと、本当に全裸になってポーズをとった(当然、モザイクはかかった)。
- ラジオ番組にて免田事件の元死刑囚に対し「絶対やってないわけないんだよね」と話し、それが問題となると後に謝罪した。また、テレビの深夜番組においても、知人の元法務大臣の談の引用として「やってねえわけはねえ、やってねえわけはねぇんだけど、証拠がねえんだ」と発言し、元死刑囚の支援団体より質問状を送付される事態となった。
- テレビのワイドショー番組で「市中引回し・仇討ちを復活させねーとだめだ」と発言し、「野蛮極まる」と問題になった。このため同番組で意見を求められる機会は最近に限れば、無い。
- バスケットボールリーグNBAのファンとしても知られ、落語のネタにできるほどの知識を持っている。特にサクラメント・キングスとジェイソン・ウィリアムスを熱心に応援している。
- 桂南光が東西の落語家が集まる酒席で、泥酔して、談志に「あんたの落語は素晴らしいけど、あんたがマスコミやら何やらで、下らない話をするのはがまんがならん。もし生活のためにやってはるんやったら、贅沢はさせてあげられまへんけど、あんた一人ぐらい私が面倒みてあげますさかい、落語に専念しなはれ」と暴言を吐いた時に、談志は「ま、いろいろあるんだよ」と言って笑って咎めず、その後弟子一同に対し、桂南光と言う男はなかなかの男だから、関わる際には失礼の無いようにと申し渡した。この話をテレビ番組の対談で南光から直接聞いた談志の弟子の志の輔は、師匠から大体の話しは聞いていましたが、そこまでとは、東京の落語家では偉い人でも(大師匠クラスを指すと思われる)、そこまで言える人はいません、恐れ入りましたと語った。
- 2002年11月13日、WEB現代にて配信されていた『立川談志の世相講談 その164』にて「北朝鮮に拉致された被害者の家族は、自分の家族が誘拐される様な所を歩いていた不始末に対する恥が無い」という旨の、拉致被害者家族に対する批判を行った[9]。
- 2007年7月29日21:00-25:00にTOKYO MXで放送された参議院選挙の特別番組に出演した際に野末陳平や吉村作治と選挙について討論したのだが、他の解説者の話が長かったため途中で帰ってしまった。
- 戒名は「立川雲黒斎家元勝手居士」(たてかわうんこくさいいえもとかってこじ)。生前に自分で決めていた。
- 報道各紙の訃報の見出しは「談志が死んだ」だった。生前故人は「上から読んでも下から読んでも、談志が死んだ!」と書いてくれと云っていた。
[編集] 家族
息子は所属事務所有限会社「談志役場」社長の松岡慎太郎。弟は松岡由雄(立川企画社長←「まむしプロダクション」でマネージャー)。
娘は銀座のクラブホステスママ、松岡弓子。元バラエティタレントで、当時の芸名は松岡まこと。
[編集] 演目
[編集] 他の芸人、タレントへの批評
「お笑いに才能は絶対、必要だ」というのが談志の持論。ある番組[要出典]の中で「ダウンタウンの松本人志と爆笑問題の太田光には、お笑いの才能があると感じた。要は、あいつら天才なんだよ」と、この2人を大絶賛していた。
元々大阪勢の芸風と肌が合わず、上述の通り吉本興業に対しては辛辣な面がある。しかしながら、『M-1グランプリ』(朝日放送系列)の第2回大会の審査員も務めている。『M-1グランプリ』での評価の仕方ははっきりしており、秀作には80点、良作には70点、駄作には50点の三段階で採点していた。吉本興業の芸人やタレントに対しては、評価されている人物、批判されている人物、様々である。
上方落語に関しては、元々はそれほど造詣が深くなく、評価もしていなかったが、若手の頃、志ん朝と仕事で来阪した際に、空き時間にたまたま6代目笑福亭松鶴の「らくだ」を聞いて、2人とも打ちのめされるほど感動し、評価を一変させた。5代目桂文枝を好きな上方噺家の1人として挙げている。
- 手塚治虫
- 手塚治虫と生前に親交があり、「天才とはレオナルド・ダ・ヴィンチと手塚治虫のことをいう」と評した。また自分がマンガの「神様」と呼ばれた手塚に認められていることを明かしている。
- ザ・ドリフターズとコント55号
- ザ・ドリフターズに対する評価は高く、「最後の本物の芸を見せる芸人」「素人から玄人まですべてを対象にできる芸人」と評している。もともとリーダーのいかりや長介とは旧知の仲であったが、結成当初は未熟な芸と見なして無視し続けていた。しかし、70年代半ば(志村加入後)にテレビの日劇舞台中継をたまたま見てその内容に脱帽。それ以降は全面的に評価している。一方で、そのライバルと見なされたコント55号については、その全盛期から今日に至るまで全く評価をしていない。
- 爆笑問題
- 爆笑問題がデビューしたての頃、太田の持つ才能をすぐに見抜き、高評価した談志は太田に対し、「天下、獲っちゃえよ」と応援すると同時に「(相方の)田中だけは切るなよ。こう出来た奴も、なかなかいないもんだ」と田中が太田にとって欠かせない存在であることを説いた。しばしば、「太田は俺がよそで作った子供だ」とも発言している(太田の実父がこれを聞いて、少し不安になったという逸話を太田が語っている)。
- ダウンタウン
- 当初は、たくさんいるつまらない若手芸人の一組としての認識しかなかったが、後年初めて『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』を見て「これはまさしく漫才の間だ」「見損なっていた」と評価した。のちに松本プロデュースのビデオ『HITOSI MATUMOTO VISUALBUM』が発売された際、テレビ朝日の『HITOSI MATUMOTO VISUALOVE』という特番でコメントを寄せたりもしている。
- 横山ノック
- 横山ノックに対しては評価しており、漫画トリオが上京した際には進んで「友達になりましょう」と手をさしのべている(上岡龍太郎の証言による)。ノックが不祥事で大阪府知事職を辞職して芸能界を追われた際は、「なぜノックさんを手助けできないのか、上岡、鶴瓶、八方はバカヤロウだ」と憤慨し、「オレの独演会に来て高座に上がってくれ」と呼びかけていた。
- オール巨人
- オール巨人のスパルタ育成について、彼を徹底的に批判をしている。
- テツandトモ、ますだおかだ、おぎやはぎ
- 『M-1グランプリ』第2回大会にてテツandトモに対して、彼らがいわゆる音曲漫才であり正統派のしゃべくり漫才ではないことや、既にお笑い芸人としての十分な実力や地位を確立していることから、「若手」の漫才ナンバーワンを争うM-1という舞台は、もはや彼らには相応しくないとの理由から「もういいよ。ここはお前らの来るところじゃない」と発言している。優勝したますだおかだに賞金を渡す役を負った際、「(優勝は)もらった、と思ったはずだぜ。思わなきゃ芸人じゃねぇよな。したたかだったよ…褒めてやる!」と評価をした。また、おぎやはぎに関しては、「いいよ。凄くいい。リーガル千太・万吉を彷彿とさせる」と絶賛した。矢作の「ちょっとリーガル千太・万吉さんを知らないんですけど」の言葉に「縁があったらね、やってあげますよ」と答えている。
- 桂歌丸
- 『笑点』放送開始当初のメンバーの中で、桂歌丸だけが唯一きちんとリアクションの取れる噺家であると評価していた。『笑点』降板後も「『笑点』の(当時の)メンバーはろくに挨拶に来ねぇ。来るのは、歌さんくらいだ。」と語り、歌丸も東京スポーツでのインタビューで「談志さんが恩人(なら、5代目圓楽さんは友)」と語るほど仲はよい。同年齢で、笑点初期には一緒に漫才を披露したこともある。
- 5代目三遊亭圓楽
- 5代目三遊亭圓楽を「あたしゃ(5代目)圓楽が嫌いです」と公言している。2011年現在まで5代目圓楽を「下手な落語家」の例えとして挙げていた。真顔に戻ると寄席若竹開業に対して「立派なことをしているんです。」と語っている。5代目圓楽は著書で「談志より先に死にたくない」と語る一方、「『あいつより先に逝きたくはない』という存在があるからこそお互い頑張ってこられた」とも語っている。
- 3代目桂米朝
- 桂米朝とは若手時分より大阪や東京での米朝独演会に参加する、「兄貴」と呼ぶ(入門は米朝が1947年、談志が1952年)など友好関係を築いている。また「米朝さん」と呼んでいるなど敬意を表し、「滅亡寸前の上方落語の中興の祖」と評している。
- 桂三枝
- 桂三枝の「創作落語」に対して評価は低いが、その取り組む姿勢については評価をしている。なお、両者の関係は当代の快楽亭ブラックが談志をしくじった際、一時三枝一門に転じていた縁がある。この点について談志は三枝に恩義を感じていて晩年まで二人会を開くなど交流があった。談志の死去に際する会見で「憧れだった。師匠に認められたくて一生懸命にやって来た。」その後、涙ながらに「亡くなった事をウソだと思いたい。」とコメントしている。
- 2代目桂枝雀
- 2代目桂枝雀の「笑いは緊張の緩和」であると主張したこと(緊緩理論)を支持していたが、当の枝雀の芸に対しては「好きになれない」と低い評価をしていた。ただし、志ん朝の死後「(志ん朝は)さっさと死にやがって、俺は死にたくても死ねないのに…(桂枝雀の死は自殺と言われている。また、上記の自殺の項、参照)。志ん朝と言い、枝雀と言い、俺がライバルと思ったやつはみんな先に死んでしまう。死なれちゃあ、勝てないじゃないか」と彼独特の表現でその死を悼んでいる。
- ビートたけし
- ツービートを真っ先に「面白い」と最初に認めたのが縁で、ビートたけしと交流を持つ。双方とも洒落のきつい性格のため、癌から生還した際、「あのじじい、またくたばりぞこないやがって(笑)」とたけし流のエールを送った。また、破門騒動の中、『ビートたけしのオールナイトニッポン』に一門で出演した際、たけしは、「なぜ破門されたか」ではなく、「これからどんなことをやっていくのか」と問いかけ、彼なりの気遣いを見せていた。また、この放送では意図的に放送禁止用語を連発した。
[編集] 著書
落語口演の活字化のほか、落語に関するエッセイ的な考察を多数著している。談志襲名後間もない時期に著した『現代落語論』が代表作と言われるが、「落語」を分析した有名な言葉「落語は業の肯定」はその後の『あなたも落語家になれる』の冒頭の一節である。修業時代から生に接した有名無名の寄席芸人・俳優・歌手・ストリッパーなどの系譜に非常に詳しく、『談志楽屋噺』など芸能史を語る貴重な回想録もある。
- 『現代落語論』 三一書房 1965年 ISBN 978-4380650079
- 『あなたも落語家になれる』三一書房 1985年 ISBN 978-4380852299
- 『談志人生全集』
- 『立川談志独り会』 三一書房
- 『新釈 落語咄』 中央公論社 1995年、のち中公文庫 1999年 ISBN 4122034191
- 『新釈 落語咄 PART II』 中央公論社 1999年、のち中公文庫(『新釈 落語咄その2』と改題) 2002年 ISBN 9784122040236
- 『談志楽屋噺』
- 『談志百選』
- 『食い物を粗末にするな』 講談社 2000年 ISBN 978-4062720069
- 『談志絶倒 昭和落語家伝』
- 『談志映画噺』
- 『人生、成り行き』
- 『談志 最後の落語論』
- 『談志 最後の根多帳』
- 『談志の落語』
最近の著作では「原稿の校正をしない」というポリシーを表明しており、エッセイでは大幅な脱線が付き物となっている。また、『理解らねぇ(わからねぇ)』『出演った(やった)』など、独特の表記をする。
また文章内で同じ語を繰り返す表記の際、古典文学や民謡の歌詞を表記するのと同じく、踊り字(くの字点)を使うことを習慣としている。芸事から教養を得た人物らしく古風なこだわりと言えるだろう。
[編集] 論文
[編集] ラジオ番組
- 療養のため2010年4月より出演休止していたが、その回が最後となった。
[編集] CD
談志自身のCDは多数あるが、下記のCDは談志が好きな芸人ばかりを集めて構成したCD全集である。それぞれの演者についての談志の芸談も収録されている。(協力:川戸貞吉)
- 席亭 立川談志の「ゆめの寄席」CD全集 1999
[編集] 映画(出演)
- 落語野郎 大脱線 (1966年) - 無職文吉 役
- 落語野郎 大馬鹿時代 (1966年) - 立野談四郎 役
- クレージーの怪盗ジバコ (1967年) - 工員 役
- 悪党社員遊侠伝 (1968年) - 杉原省二 役
- 昭和元禄ハレンチ節 (1968年) - 吉村唯 役
- まっぴら社員遊侠伝 (1968年) - 清川 役
- 極道社員遊侠伝 (1968年) - 西原三郎 役
- 猛烈社員 スリゴマ忍法 (1969年) - 影山係長 役
- アニメ 千夜一夜物語 (1969年) - 競馬シーンの観客 役
- 喜劇 いじわる大障害 (1971年) - 立山談次 役
- 喜劇 大誘拐 (1976年) - 川島 役
- 出張トルコ また行きます (1978年) - 立原談吾 役
- 快楽昇天風呂 (1979年) - 大臣 役
- 愛染恭子の未亡人下宿 (1984年) - 風呂屋 役
- 絶倫海女しまり貝 (1985年)
- 落陽 (1992年) - 青空床屋 役
- 団鬼六 人妻蟻地獄 (1995年)
- アニメ ジャングル大帝 (1997年) - ハム・エッグ 役
- アニメ ぼのぼの クモモの木のこと (2002年) - アライグマくんのお父さん 役
- 理由 (2004年) - 宝井辰雄 役
- 歓喜の歌 (2008年) - 小野寺 役
[編集] CM
- 日本IBM 「Aptiva」(1996年)
- 香取慎吾と別撮りで共演している。
[編集] デジタルコンテンツ
- 談志市場 - Fan+(ファンプラス)
- 『談志の遺言』第1巻『江戸の風』、第2巻『江戸の風』
- 『ここだけの家元』第1巻『粗忽長屋』『勘定板』 in大連2007 、第2巻 談志の田んぼ収穫祭 談志の宴会芸付き in 岩室温泉1999
- 『日めくりのつもり』2011年(5月、6月、7月、8月、9月、10月、11月、12月)、2012年(1月)
- 『週刊談志』創刊第1号(2011年4月14日)、増刊号 No.1(2011年5月13日)、増刊号 No.2(2011年6月14日)、増刊号 No.3(2011年7月14日)、増刊号 No.4(2011年7月28日) 、増刊号 No.5(2011年8月12日)、増刊号 No.6(2011年8月28日)、増刊号 No.7(2011年9月14日)
- 亜紀書房ZERO事業部が談志ファン・落語立川流ファン向けに制作しているオリジナルコンテンツ。「テレビでも見ることができない、ラジオで聞くこともできない、Webで見ることもできない、DVDやCDなどのパッケージでもお目にかかれない、談志師匠のオリジナルコンテンツ」としている。談志が最期に残した仕事とされる。
[編集] 脚注
- ^ http://www.sanspo.com/geino/news/111211/gnj1112110505015-n1.htm
- ^ 仮退院桂歌丸、一番の喜びは「談志が生きていたこと」 日テレNEWS24 2010年3月2日閲覧
- ^ “立川談志さん、喉頭がんで死去…75歳、声失い最後は筆談”. 報知新聞. (2011年11月24日) 2011年11月24日閲覧。
- ^ 立川キウイのブログの2011年11月22日の記事および23日の記事参照。
- ^ 立川談慶の2011年11月23日のツイート 其の壱。後にこの発言は撤回している(立川談慶の2011年11月23日のツイート 其の弐)。
- ^ 落語家の立川談志さんが死去 サンケイスポーツ 2011年11月23日閲覧
- ^ とんでもない人だった 柳家小三治、立川談志を悼む 朝日新聞 2011年11月30日閲覧
- ^ TOKYO MX 談志・陳平の言いたい放だい 2007年8月25日放送 - YouTube
- ^ 家元「拉致騒動」を語る
- ^ [1] CMでは、高座にて「しゃべる自由」と発言している(合成音声)。
[編集] 関連項目
- 落語家一覧
- 日本お笑い史
- 落語立川流(談志が家元となっている。概要と弟子一覧)
- 免田事件
- 稲葉修
- 田辺茂一
- サブミッションズ(メンバーの前田ししょう(既に引退)と言う人物が当代の物真似を得意としており、実際に番組で共演した)
- 江戸噺家
- アップダウンクイズ(テレビ朝日系列での放送からTBS系列での放送に変わった1975年4月6日放送分で10問正解・ハワイ旅行獲得)
- ホホジロザメ
[編集] 外部リンク
- 立川談志公式サイト 地球も最後ナムアミダブツ(公式サイト)
- 日本コロムビア|立川談志
- サイバー大学 教員紹介
- 立川談志の鉄拐(2007年3月16日名古屋ミッドランドホール)
- 立川談志の芝浜(2007年12月18日よみうりホール)
- 談志市場|Fan+(ファンプラス)(デジタルコンテンツ)
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