塚原卜伝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
塚原卜伝
時代 戦国時代
生誕 延徳元年(1489年
死没 元亀2年2月11日1571年3月6日
改名 朝孝(幼名)、高幹、卜伝
別名 新右衛門、土佐守、土佐入道(いずれも通称)
戒名 宝剣高珍居士
墓所 茨城県鹿嶋市須賀の梅香寺
官位 土佐守
主君 鹿島景幹義幹
氏族 吉川氏塚原氏
父母 父:吉川覚賢
養父:塚原安幹

塚原 卜伝(つかはら ぼくでん)は、日本戦国時代剣豪兵法家高幹(たかもと)。卜傳朴伝とも。父祖伝来の鹿島古流(鹿島中古流)に加え、天真正伝香取神道流を修めて、鹿島新当流を開いた。

目次

[編集] 生涯

鹿島神宮の神官・鹿島氏の四家老の一人である卜部覚賢(吉川覚賢)の子として常陸国(現在の茨城県)の鹿島に生まれる。幼名は朝孝。時期は不明だが後に塚原安幹の養子となる。同時にを高幹とした。塚原氏本姓平氏で、大掾氏の一族・鹿島氏の分家である。

実父からは鹿島古流(鹿島中古流とも)を学び、義父からは天真正伝香取神道流を学んだ。『関八州古戦録』『卜伝流伝書』によれば、松本政信の奥義「一の太刀」も養父の安幹から伝授されたという(松本から直接学んだという説、卜伝自身が編み出したとする説もある)。やがて武者修行の旅に出て、己の剣術に磨きをかけた。『卜伝百首』の後にある加藤信俊(相模守)による序では、39度の合戦、19度の真剣勝負に臨みながら一度も負傷しなかったと記述されている。生涯に斬って捨てた剣士の数は、記録に残っているだけでも212人である。よく知られている真剣勝負に川越城下での梶原長門との対決がある。

弟子には唯一相伝が確認される雲林院松軒(弥四郎光秀)と、諸岡一羽真壁氏幹斎藤伝鬼房(勝秀)ら一派を編み出した剣豪がいる。また、足利義輝北畠具教にも剣術を指南したという。また、この両者には奥義である「一の太刀」を伝授したとされている。 (しかし、史実によると かなり無理が有り、後に創作されたものと思われる)

剣聖と謳われ、好んで講談の題材とされ、広く知られた。

著名なエピソードのひとつで、勝負事にまつわる訓話としてもよく引き合いに出されるものに、「無手勝流」がある。次のような話である。琵琶湖の船中で若い剣士と乗り合いになり、相手が塚原卜伝だと知ったその若者が決闘を挑んでくる。卜伝はのらりくらりとかわそうとするが、血気にはやる若者は卜伝が臆病風に吹かれて決闘から逃れようとしていると思いこみ、ますます調子に乗って卜伝を罵倒する。周囲に迷惑がかかることを気にした卜伝は、船を降りて決闘を受けることを告げ、若者と二人で小舟に乗り移る。そのまま卜伝は近傍の小島に船を寄せると、若者が船を飛び降りるや否や櫂を漕いで島から離れてしまう。取り残されたことに気付いた若者が大声で卜伝を罵倒するが、卜伝は「戦わずして勝つ、これが無手勝流だ」と言って高笑いしながら去ってしまうというものである。これは『甲陽軍鑑』にある話だが、どこまでが真実かは判然としない。

武蔵塚原試合図(月岡芳年画)

また、若い頃の宮本武蔵が卜伝の食事中に勝負を挑んで斬り込み、卜伝はとっさに囲炉裏の鍋の蓋をにして武蔵の刀を受け止めたとする逸話があるが、実際には武蔵が生まれるよりも前に卜伝は死んでいるため、卜伝と武蔵が直接出会うことは有り得ず、この逸話は史実ではない。

『天真正伝新当流兵法伝脉』では、鹿島沼尾郷田野(現・鹿嶋市沼尾)の松岡則方の家で死去とする。『鹿島史』によれば元亀2年(1571年)2月11日、83歳で死去。 墓は須賀村(現・茨城県鹿嶋市須賀)の梅香寺にあるとされるが同寺は焼失し、墓のみが現存している。位牌は近くの長吉寺にある。

[編集] 門下

伝承上弟子とされる人物も含む

[編集] 塚原卜伝を題材にした作品

[編集] 関連書籍

  • 池波正太郎「卜伝最後の旅」(角川グループパブリッシング、1980年)
  • 津本陽「塚原卜伝十二番勝負」(講談社、1983年)
  • 中山義秀「塚原卜伝」(徳間書店、1989年)
  • 峰隆一郎「日本剣鬼伝 塚原卜伝」(祥伝社、1993年)
  • 石ノ森章太郎「塚原卜伝」(小学館、1996年)
  • 矢作幸雄「無敗の剣聖 塚原卜伝」(講談社、2011年)

[編集] テレビドラマ

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

個人用ツール
名前空間
変種
操作
案内
ヘルプ
ツールボックス
他の言語