週刊少年サンデー

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週刊少年サンデー
WEEKLY SHONEN SUNDAY
愛称・略称 サンデー
ジャンル 少年向けコミック誌
読者対象 男性
刊行頻度 週刊(水曜日発売)
発売国 Flag of Japan.svg 日本
言語 日本語
定価 260円
出版社 小学館
編集部名 週刊少年サンデー編集部
発行人 都築伸一郎
編集長 縄田正樹
雑誌名コード 066
刊行期間 1959年3月17日(1959年4月5日号) -
発行部数 74万[1]部(2009年4月 - 2009年6月 日本雑誌協会調べ)
レーベル 少年サンデーコミックス
ウェブサイト 「WEBサンデー」
  
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週刊少年サンデー』(しゅうかんしょうねんサンデー、WEEKLY SHONEN SUNDAY)は、小学館が発行する日本週刊少年漫画雑誌1959年に創刊。略称は 「サンデー」など。

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目次

[編集] 概要

1959年(昭和34年)3月17日に、同年4月5日号として創刊。「サンデー」という誌名は「この雑誌を読むとまるで日曜日のように楽しい気分に浸れるように」という初代編集長豊田亀市が名付けた。当初は毎週火曜日の発売だったが、2009年現在は、毎週水曜日に発行されている。マスコットキャラクターのナマズは1977年からで、現在の誌面の装丁・デザインはベイブリッジ・スタジオの白山仁によるもの(2004年7号以降)。

企画立ち上げ時のスタッフの大半が学年誌の編集者だったことから創刊前には「小学館の新児童誌」と宣伝され、創刊から10年近くの間、学年誌の延長線上にあり[注 1]、読み物や付録などが充実していた。1960年代半ばにはSFに力を入れ、当時気鋭の若手筒井康隆が小説の連載を持っていたこともあった。

1960年代にシリアスな漫画で問題を起こすことが多かった一方、ギャグ漫画やコメディ・タッチの漫画のヒット作が多かったことから、俗に「ギャグのサンデー」と呼ばれることになった。1980年代初頭には「ラブコメ」や「パロディ」も加わり、この風潮は現在も続いている。1980年代半ばにはギャグ漫画家(パロディ組)が飽和状態になり、『月刊少年キャプテン』などの他誌への放出も目立った。

漫画家間の交流(サンデー内のみではなく、小学館関係の雑誌も含め)が比較的さかんで、1980年代-1990年代初頭には島本和彦を中心としたグループ、1990年代半ばからは藤田和日郎を中心としたグループが有名。創刊1500号を記念して作られたレコード「WINGS OF FREEDOM」(1985年)の際には、当時の連載陣の一部が歌を披露している。

雑誌(編集部)と漫画家との重大なトラブルも比較的少なく、有名な事件は1980年代の「安永航一郎が編集者と喧嘩した」事と「新谷かおるが「バランサー」のクレームによる改題が発端で編集者との確執に至った[注 2]」くらいだったが、2008年には雷句誠が発行元の小学館に対して原稿紛失訴訟を起こし、その際にブログで編集部の内幕を暴露して話題になった[注 3]

2008年現在の発行部数は、週刊少年漫画誌としては『週刊少年ジャンプ』(集英社)、『週刊少年マガジン』(講談社)に続いて3位[1]。少年漫画誌の中では読者の年齢層が高く、高校生以上の読者が全体の約6割を占める[2]

[編集] 歴史

[編集] 創刊 - 1960年代

1958年、学年誌編集部の次長だった豊田亀市が、テレビ時代の到来と1950年代半ばから続いていた週刊誌ブームを受けて、漫画を中心に据えた少年週刊誌の発行を社長の相賀徹夫に働き掛け、『週刊少年サンデー』の創刊が決まる。当初は1959年5月5日の発行を予定して諸準備に取り掛かっていたが、『ぼくら』『少年倶楽部』などの月刊少年誌を持つ講談社も週刊誌ブームを受けて『週刊少年マガジン』の創刊準備を始めたことから、徐々に創刊日が繰り上がり、結局ともに1959年3月17日に創刊した。創刊号のラインアップは手塚治虫スリル博士」、横山隆一「宇宙少年トンダー」、寺田ヒロオスポーツマン金太郎」、 藤子不二雄海の王子」、益子かつみ「南蛮小天狗」で、創刊号の表紙に読売巨人軍長嶋茂雄を起用。巻末には児童心理学者波多野勤子が祝辞を寄せている。

両誌の価格はサンデーが30円、マガジンが40円で、豊田が「もしサンデーがマガジンと同じ値段だったとしたら、マガジンの付録の分お得感で負けてしまう」と判断した事から、両誌の契約している印刷所がともに大日本印刷だったこともあり、「マガジンが刷り始めるのを確認してからサンデーの値段を入れて刷る」という機密漏洩的後だしジャンケンのような裏技を使っている。創刊号の売上げはサンデーが30万部で、マガジンが20.5万部でサンデー側に軍配が上がり[3]、マガジンも5号から30円に値下げした。これ以降もお互い張り合って雑誌の総ページ数を増やしていった。1960年代半ばにはW3事件(「W3」をマガジンからサンデーに移籍)、1960年代末には「天才バカボン」のマガジンからサンデーへの移籍が起きるなど、その後もライバル間の争いは続いた。

1960年代のヒット作には、横山光輝伊賀の影丸」(1961年)、赤塚不二夫おそ松くん」(1962年)、藤子不二夫オバケのQ太郎」(1964年)、藤子「パーマン」(1966年)、横山光輝「ジャイアントロボ」(1967年)などがある。

1960年代半ばからマガジンが劇画路線・スポ根路線を開拓して、創刊当初の主要読者層(戦後のベビーブーム世代)を離さなかったのに対して、サンデーは少年向けの漫画にこだわった。毎週土曜日に編集部を子供達に開放し、漫画需要を探るという作戦を取り、当時立ち上げを企画していた『週刊少年ジャンプ』(集英社)編集部の協力要請に「一ツ橋に少年向けの漫画雑誌は二つもいらない」と協力を拒否する一方で、青年向けの漫画雑誌「ビッグコミック」(1968年、創刊当初「一流の漫画家しか起用しない」というのをウリのひとつにしていた)を創刊するなどして対応していた。

1960年代末になると、「右手にマガジン、左手に朝日ジャーナル」の学生運動の時代が訪れ、学生の他にアングラ・カルチャー層からの支持を得たマガジンが発行部数を伸ばし、一気に追い抜かれることになった。この時期、園田光慶の「あかつき戦闘隊」(1968年)の懸賞問題の影響で、隆盛を誇っていた戦記モノが激減した。

[編集] 1970年代

『週刊少年マガジン』との争いの敗北を受けて、やむなく青年向け雑誌(マガジンとは異なり、スタイリッシュな路線を目指した)への方向転換を図り、1970年21号から1年間広告製作プロダクションサン・アドに表紙の製作を受注。「傑作アイデアシリーズ」と称した、昆虫をダイナミックにレイアウトした「怪虫シリーズ」を皮切りに、トイレの便器、マネキン、スキンヘッド、マッチ箱、オール手書きイラスト、編集部宛の投書など表紙としての定義さえも破壊した表紙が次々と登場した。この時期の主な連載にジョージ秋山銭ゲバ」(1970年)、古谷三敏ダメおやじ」(1970年)などがある。それらが沈静化した1972年頃からは「月光仮面」、「赤胴鈴之助」などの旧作のアニメ化に伴った漫画連載を展開し、当時作品に馴染んでいた親層の取り込みを図る一方で、石森章太郎人造人間キカイダー」(1972年)、永井豪/石川賢ゲッターロボ」(1974年)などの特撮作品のコミカライズを掲載し、子供層を押えようとするなど、「親と子が安心して読める」誌面を展開した。

しかし、サンデー、マガジンともすでに青年(あるいはそれ以上)向け雑誌に転じていたため、本来の読者層であるはずの少年の多くが『週刊少年ジャンプ』に流れることになり、1973年にはサンデー、マガジンともに発行部数で追い抜かれることになり、再び少年向けに方向転換(ただし、一部の劇画は残った)。

当時の小学館は路線転換の煽りで離れつつあった少年読者層の再度獲得を目指すべくまず1974年6月に「少年サンデーコミックス」レーベル(「漂流教室」などが第一弾として刊行)を立ち上げ、続いて幼児向けの『てれびくん』(1976年)、児童向けの『コロコロコミック』(1977年)、学年誌とサンデーの中間の『マンガくん』(1976年)(1979年に『少年ビッグコミック』に改称)、新人作家育成のための『週刊少年サンデー増刊号』(1978年)など次々と新雑誌を創刊。

この時期は『週刊少年チャンピオン』の大躍進の影響もあり、発行部数が低迷、第4位になっていた。1977年には編集長が交代し、ビッグコミック系誌から持ち込まれた、現在もサンデーを象徴するイメージキャラクターのナマズが初登場、また1976年から5年間1年ごとに誌名ロゴを変更する体制をとった。

1970年代中期から後期にかけては小山ゆうがんばれ元気」(1976年)、楳図かずおまことちゃん」(1976年)などがヒットしているが、雁屋哲/池上遼一男組」(1974年)、さいとう・たかをサバイバル」(1976年)などの劇画のインパクトが強く、硬派でかつ重い雑誌と取られがちだった。1980年前後には、『週刊少年チャンピオン』の部数激減の影響もあり、発行部数が『週刊少年ジャンプ』に次ぐ第2位になった。

[編集] 1980年代

劇画村塾出身の高橋留美子うる星やつら」(1978年)、「少年ビッグコミック」で「みゆき」をヒットさせていたあだち充タッチ」(1981年)、同じく「エリア88」をヒットさせていた新谷かおるふたり鷹」(1981年)のヒットでラブコメブーム(学園もの、青春もの)を巻き起こし、この3作品のアニメ化により部数を大きく伸ばして1983年には最高発行部数の228万部を記録。この記録は現在まで更新されていない。当時『週刊少年ジャンプ』編集部は猛追を恐れ、「友情・努力・勝利」を「友情・勝利・愛」に変えようとした(「北斗の拳」がヒットしそれ以上のブームを作り、発行部数を大きく引き離したことから回避)。

この時期から増刊組が台頭。島本和彦炎の転校生」(1983年)、ゆうきまさみ究極超人あ〜る」(1985年)などでの特撮のパロディが話題になり、いずれもヒットした。なお、本誌から連載の依頼があっても増刊で描くのが好きだからと断るみず谷なおきのような漫画家もいた。

1985年頃から、RCサクセションを筆頭にBARBEE BOYS爆風スランプなどのロックバンド、あるいはウィラードやガスタンクなどのパンク・ハードコア系のバンドにインスピレーションを受けた石渡治「B・B」(1985年)、上條淳士To-y」(1985年)などの、音楽的かつ青年誌的な漫画が増えた。

1985年中盤に「ふたり鷹」、1986年末に「タッチ」、1987年初頭に「うる星やつら」が終了したのを筆頭にそれまでサンデーを支えていた作品の多くが完結し、1980年代前半の勢いが止まる。その後高橋留美子「らんま1/2」(1987年)、ゆうきまさみ「機動警察パトレイバー」(1988年)がヒットするものの続くヒット作がなかなか出ずに部数が大きく落ち込み、1987年頃にはマガジンに発行部数を追い抜かれた。

1988年から1991年にかけて連載数を増加させ、他社からのギャグ漫画家などの引き抜きや、石ノ森章太郎ら大御所の登用、漫画家インタビューコラム「オレのまんが道」の連載、既存の枠にとらわれない増刊『サンデーspecial』の発行、プロ・アマチュアを問わずに連載用の第1話を公募して誌面に掲載、読者の人気が高かったものを連載化する「コミックグランプリ」の実施、たまXといったロックバンドのカラーグラビア掲載などの実験的な試みを数多く行った。この時期は雑誌及び編集部に混乱が続いていて、小山ゆう「少年」(1989年)の不自然な打ち切り、柳沢きみおの「ウエルカム」(1990年)の打ち切り、単行本が最終巻刊行直後に絶版になる(石森「仮面ライダーBlack」、楳図「まことちゃん(平成版)」)など、中堅・ベテラン・大御所を問わず悲惨な目に遭うことになった。

この時期、少年ビッグコミックの対象読者層を青年に変える形で、『ヤングサンデー』(1987年)が創刊。

[編集] 1990年代

1988年から1991年にかけての大混乱の中、若手漫画家の手により、それまでのサンデーの色に無かった新しい漫画が増える。「うしおととら」(藤田和日郎、1990年〜)、「今日から俺は!!」(西森博之、1990年〜、増刊号から移籍)、「行け!!南国アイスホッケー部」(久米田康治、1991年〜)、「GS美神 極楽大作戦!!」(椎名高志、1991年〜)などで、これらはいずれも長期連載になった。

これらに加えて、「H2」(あだち充、1992年〜)、「名探偵コナン」(青山剛昌、1994年〜)、「MAJOR」(満田拓也1994年〜)、「烈火の炎」(安西信行、1995年〜)、「犬夜叉」(高橋留美子、1996年〜)など中堅・ベテランの長期連載も増え、雑誌的には一種の安定期に入ったが、その一方で1990年代後半になっても若手漫画家が台頭せず暗い影を落とした(1995年に週刊少年サンデー増刊号を『週刊少年サンデー超』とリニューアルするなどして若手漫画家の台頭を待っていた)。

この時期、『コロコロコミック』と『サンデー』の中間層をターゲットにした『コミックGOTTA』(1999年)、メディアミックス誌『月刊サンデーGX』(2000年)が創刊。

[編集] 2000年代

この前後から長期連載や人気作が次々と終了し、部数が低迷。メディアミックスを前提とした漫画づくりに変更し、「金色のガッシュ!!」(雷句誠、2001年〜)、「焼きたて!!ジャぱん」(橋口たかし、2002年〜)、「史上最強の弟子ケンイチ」(松江名俊、2002年〜)、「ワイルドライフ」(藤崎聖人、2003年〜)、「ハヤテのごとく!」(畑健二郎、2004年〜)がヒットしたが、部数の低迷に歯止めが効かず、1980年代後半の混乱と同様に連載作が安定しない時期に入り、2007年頃まで多くの作品が短期終了となり、長期間連載を続けていた多くの漫画家がこの時期に離れている。

2008年3月から2009年3月にかけて『週刊少年マガジン』と「サンデー×マガジン 創刊50周年企画」を行ない、共同雑誌の他、数多くのコラボレーション商品を発売。2009年第14号(3月18日号)では、「創刊表紙トリビュート号」と題して創刊号の表紙デザインを再現(創刊号表紙の長嶋茂雄を松坂大輔に、手塚治虫の『スリル博士』のイラストを橋口たかしの『最上の命医』に置換)した。

50周年イベント終了後の2009年3月末にウェブコミック配信サイトクラブサンデー」を開設、同年5月には『ゲッサン』(月刊少年サンデー)を創刊するなど、動きが活発化している。

[編集] 歴代編集長

  1. 豊田亀市(1959年 - 1960年)
  2. 木下芳雄(1960年 - 1963年)
  3. 喘水尾道雄(1963年 - 1965年)
  4. 小西湧之助(1965年 - 1967年)
  5. 高柳義也(1967年 - 1969年)
  6. 木下賀雄(1969年 - 1970年)
  7. 渡辺静夫(1970年 - 1972年)
  8. 井上敬三(1972年 - 1977年)
  9. 田中一喜(1977年 - 1984年)
  10. 猪俣光一郎(1984年 - 1987年)

代数不明

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[編集] 連載作品

[編集] 過去の連載作品

週刊少年サンデー連載作品の一覧」を参照

[編集] 発行部数

  • 2000年 200万部[要出典]
  • 2002年 153万部[要出典]
  • 2003年 131万部[要出典]
  • 2004年 116万部[要出典]
  • 2005年 106万部[要出典]
  • 2006年 100万部[要出典]
  • 2007年 94万部[要出典]
  • 2008年4 - 6月 866,667部 [2]
  • 2008年7 - 9月 833,334部 [3]
  • 2008年(2007年10月 - 2008年9月) 873,438部
  • 2008年10 - 12月 802,084部 [4]
  • 2009年1 - 3月 781,667部 [5]
  • 2009年4 - 6月 765,000部 [6]
  • 2009年7 - 9月 745,770部 [7]
発行部数発行部数(2008年4月以降)
1〜3月 4〜6月 7〜9月 10〜12月
2008年 866,667 部 833,334 部 802,084 部
2009年 781,66 7部 765,000 部 745,770 部
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[編集] 増刊号

  • 週刊少年サンデー増刊号→週刊少年サンデー超 (1978年-)
    • 月刊誌。若手漫画家の連載と新人漫画の読切が中心。2004年から2009年春まで読切のみの隔月誌になっていた。
  • 少年サンデー特別増刊R (1994年-)
    • 不定期刊。『コロコロコミック』などと同じA5版(一時期B5版の時代もあった)で、人気作家の読切作品の再録と超での掲載経験がほとんどない新人作家の新作読切を掲載。
  • 週刊少年サンデー創刊50周年記念特別増刊『少年サンデー1983』(2009年)
    • 2009年7月15日に発売。1983年当時の人気作9作品の復刻と原作者および関連する漫画家のスペシャル・インタビューが掲載された。

[編集] 系列誌

[編集] アニメ・特撮化作品

[編集] 現在放送中の作品

2009年度現在、五十音順。

[編集] 過去にアニメ・特撮化された作品

五十音順。

[編集] 少年サンデーCM劇場

1995年から、連載作品の中でまだアニメ化されていない作品をテレビCM用にアニメ化して放送している。これらは公式ホームページで、一部を除き過去分も含め視聴することができる。

[編集] サンデーCM劇場でアニメ化された作品

放映順。

※後に正式なテレビアニメ化がされなかった作品。近年はテレビアニメ化が決定している作品がCMに使われることがほとんどである。

[編集] 海外提携誌

  • 元気少年(台湾・青文出版集団
  • 龍漫少年星期天(中国・吉林美術出版社。編集は小学館の現地合弁法人「上海碧日咨詢事業有限公司」が担当)
  • BOOKING(韓国・鶴山文化社)
  • SHONEN STAR(インドネシア・ELEX MEDIA)

※日本作品が全て掲載されているわけではない。

[編集] 読者コーナー

ジャンプ放送局」の『週刊少年ジャンプ』や「マガジン7」の『週刊少年マガジン』に対抗して、巻末に読者コーナーが設置された。当時の人気アイドルだったおニャン子クラブ出身の高井麻巳子渡辺美奈代吉沢秋絵などがいたが、特筆すべきは当時人気絶頂だったとんねるずが最初の読者コーナー「サンデーファン」を担当していたことである。

現在の読者ページは2001年春に始まった「サンデー青春学園」。週刊の少年誌の中で初めて読者からのインターネットでの投稿を受け付けた。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] 脚注

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[編集] 注釈

  1. ^ 同様の状況は同時期に創刊されたライバル誌『週刊少年マガジン』にもあり、マガジンの場合は企画立ち上げ時のスタッフに少女漫画誌の編集者が多く、少女漫画家を多く起用していた。
  2. ^ 当初の題名は「ジャップ」であり、日本に対する蔑称が題名に使われたことからクレームが多発して改題された。この一件が原因で「バランサー」は打ち切りになり、新谷は増刊号も含めサンデーから一時撤退した(増刊号に連載された「紅たん碧たん」のコミックスは1巻のみの発行となり、1994年に完全版が白泉社から発行されている)。ただし、その後はサンデーとの関係が修復し、単発の読切作品や『少年サンデー1983』の復刻・インタビューの掲載も行っている。
  3. ^ 該当記事は和解後に削除されているため、現在は閲覧不可になっている。詳しくは小学館とのトラブルを参照。

[編集] 出典

  1. ^ JMPAマガジンデータ
  2. ^ JMPA読者構成データ
  3. ^ 『サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年』(大野茂、2009年、光文社新書、ISBN 4-334-03503-5