タモリ

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 タモリ
本名 森田 一義(もりた かずよし)
ニックネーム タモさん、タモちゃん
生年月日 1945年8月22日(64歳)
出身地 Flag of Japan.svg 日本福岡県福岡市南区
血液型 O型
身長 161cm
方言 標準語博多弁
最終学歴 早稲田大学
(第二文学部西洋哲学専修中退
師匠 赤塚不二夫
山下洋輔(先見人)
グループ名 面白グループ
芸風 漫談
ものまね など
事務所 田辺エージェンシー
活動時期 1975年 - 現在
同期 関根勤
現在の代表番組 森田一義アワー 笑っていいとも!
笑っていいとも!増刊号
ブラタモリ
ミュージックステーション
タモリ倶楽部
エチカの鏡〜ココロにキクTV〜
世にも奇妙な物語 ほか多数
過去の代表番組 タモリのオールナイトニッポン
今夜は最高!
タモリのボキャブラ天国
ジャングルTV 〜タモリの法則〜
タモリの音楽は世界だ!
タモリの週刊ダイナマイク
タモリのジャポニカロゴス ほか多数
作品 CD 「タモリ」
CD 「タモリ2」
CD 「タモリ3 - 戦後日本歌謡史 -」
CD 「ラジカル・ヒステリー・ツアー」
CD 「タモリのワーク・ソング」
CD 「狂い咲きフライデイ・ナイト」
著書 「タモリのおじさんは怒ってるんだぞ!」
著書 「タモリのTOKYO坂道美学入門」 ほか
他の活動 日本坂道学会(副会長)
配偶者 既婚
親族 伊佐山ひろ子(遠戚)
公式サイト TANABE AGENCY.Co.Ltd.
受賞歴
1984年: 第12回日本放送演芸大賞受賞
1986年流行語大賞受賞
2003年ギネス・ワールド・レコーズ
(『いいとも!生放送単独司会最高記録受賞)
  

タモリ(本名:森田 一義(もりた かずよし)、1945年昭和20年8月22日 - )は、日本お笑いタレント司会者俳優歌手声優ラジオパーソナリティー作詞家実業家日本坂道学会(副会長)。福岡県福岡市南区出身、現在は東京都目黒区在住。身長は161cm[1]株式会社田辺エージェンシー所属。女優伊佐山ひろ子とは遠戚。

目次

[編集] 概要

地元の福岡県保険外交員、喫茶店従業員ボウリング場支配人など様々な職を経て、ジャズピアニストである山下洋輔らと出会った事などをきっかけに東京へ上京、30歳で芸能界入りをした。

1980年代後半以降、ビートたけし明石家さんまと共に、日本お笑い芸人ビッグ3』の1人として認められている。ビートたけしを「たけちゃん」と呼び、明石家さんまには呼び捨て、「さんちゃん」「さんまちゃん」「師匠」「出っ歯」と呼んでいる。また、タモリがさんまに呼び捨てや「出っ歯」と呼ぶ事に対して「アンタにはいつも言うてるけど芸能界では先輩やで」などと毎回のように言われている。

1970年代後半頃までは、萩本欽一、ビートたけしと共に、日本のお笑い芸人『ビッグ3』であった。[要出典]

また、所ジョージとんねるずなど見出した1人でもある。

現在では司会業が中心で、中には20年以上続く番組がある。司会者ながら、聞き手に回りながらも、相手の何気ない一言を即席の持ちネタにし、話の節目やオチで効果的に連呼し使用する特徴がある。自ら、「省エネ司会」「エコ司会者」と言っている。特に『いいとも!(森田一義アワー 笑っていいとも!)』の司会者として知られ、同じ司会者による最長寿テレビ番組としてギネスブックに登録されており、2009年現在においても記録を更新している。特定の師匠や修行経歴を持たず、素人芸を極めて一家を成した。また、料理船舶鉄道坂道等と多芸・多趣味で知られる。

森田一義アワー 笑っていいとも!」、「笑っていいとも!増刊号」、「笑っていいとも!特大号」、「笑っていいとも!春・秋の祭典スペシャル」では本名の『森田一義』を用い、他の番組では芸名の『タモリ』で活動している。(芸名の由来は芸名(愛称)の項参照の事。)

[編集] 来歴・経歴

[編集] 幼少時代

1945年昭和20年8月22日福岡県福岡市、現在の南区に誕生する。血液型O型干支乙酉獅子座

本名は「一義」だが生まれる前までは「義一」と名付けられる予定だった。占い師から「義一」は頭でっかちな子が産まれると言う事で「一義」になった。これは血の繋がりのない祖父[2]が、尊敬している田中義一陸軍軍人、昭和初期に立憲政友会総裁として首相をつとめる)にあやかって名付けようとしたが、「畏れ多い」と名を逆にしたもの。後年、タモリは「俺は姓名ともに逆さにされたからひねくれてんだよな」と語っている。なお、タモリの家は家族関係が非常に複雑で、まだ会ったことのない妹もいるという。過去には「生年月日から逆算すると俺が仕込まれたのは昭和19年の10月ごろになるが、その頃親父は徴兵されて出征中だった。いったい俺の本当の父親は誰なんだろう?」と語ったこともあるが[3]、真偽のほどは不明である。その後のインタビューでは満州鉄道機関士であったと語っている。 また、母親についても幼少の頃に両親が離婚したために、肉親としての母親の実感や記憶がないという。現在では、1年に一度ほどは母親と面会している模様。[4]

幼少時代は大人びており、「偽善」と言う言葉を知っていたと『いいとも!』で語っている。「ギンギンギラギラ夕日が沈む」を両手を回転しながら、嫌だったお遊戯している園児達を見て、幼稚園入園を拒否し、小学校入学に至るまで、毎日、一日中坂道に立って人間観察を行っていた。自身は「5歳が俺の精神的ピークだったんだから」と、冗談めかしく語っている。[5][6]。このため坂道好きとなり、後に「日本坂道学会」を設立する遠因となっている。この頃に、両親が離婚している。[7]

小学5年生の頃、予餞会(卒業生を送る会)で「喜劇カラス天狗」の台本を書いて披露したが、受けなかった。だが、最近になって、現在は脚本家として活躍している同級生と再会した際、「面白かった」との評を受けた。

料理を始めたきっかけは、小学生の頃。タモリのおばあさんが、「今の内から男も料理をするようにならないと、後々奥さんがいざと言う時に困るでしょ」と「私が料理をしている姿を見ていなさい」と言われ、その時、タモリは料理が嫌いではなく、小学生時代は、学校から帰ると暇でテレビゲームもなければ、習い事もなく、毎日、おばあさんが作る料理の支度姿を見ていたと言う。そして大学生時代に、余り金銭面にも余裕がなく、友人らと料理を作ろうとするとタモリ1人が全部の事が身に付いていて、何を食べたいか大体の料理は出来て、だしの取り方まで全部覚えていた、と語っている。

[編集] 中・高校時代

中学時代から4年間、近所のバプテスト派のキリスト教会に通ったという。本人曰く「牧師を芸人のように見ていた。」とのこと[8]。船が好きで、良く地元の港に行って船をずっと見ていた。そこで、どこの船なのかを全部知っていたと話している。

高校時代には、吹奏楽部でトランペット兼司会を担当。アマチュア無線クラブにも入っていて、船の無線通信士にもあこがれた。さらに居合道場にも通い、二段を取得した[9]

福岡市立高宮中学校福岡県立筑紫丘高等学校を卒業後、1年間の浪人生活を送る。大学浪人中はしばしば押入に潜り込み、韓国中国からのラジオ放送を長時間聴いていた。これが藤村有弘以来と言われた「インチキ外国語芸」へとつながった。また、座禅を組んでトリップ状態を経験したこともある[10]

[編集] 大学時代

1965年早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学[11]。その後学費未納のため抹籍処分となる[12]

早稲田大学在学中はモダン・ジャズ研究会に在籍し、トランペットを演奏。同期に増尾好秋、1年先輩には鈴木良雄らがいた。「マイルス・デイヴィスのラッパは泣いているが、お前のラッパは笑っている」などの批評を受け、主にマネージャー・MCを担当することになった。このことは、後の話芸の基礎ともなった。この時期、学生バンドの司会としてTBSラジオの番組「大学対抗バンド合戦」に出演し、MCの大橋巨泉からその才能を認められている。

早稲田大学を去った理由は、2年次の5月の連休、友人2人と旅行を計画し、学費用に仕送りされた資金を旅行用に一旦充てたが返済されず、自分の授業料が払えなくなったためである。学費未納のため抹籍という処分となった。ただし、モダン・ジャズ研究会のマネージャー役は続行し、かなりの収入を得ていた[11]

[編集] デビュー以前

1968年に帰郷。保険外交員(朝日生命)時代は営業成績がトップクラスであり、表彰されたこともある。この時期に同僚の女性と結婚した。また、喫茶店の雇われマスターだった頃には、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。

[編集] 芸能活動

[編集] デビューのきっかけ

30歳まではタモリ自身何をやってもいいだろう、と思っていたが、30歳からはちゃんとした事をやっていかなければならない、と思ったタモリは、何が向いているだろうと思い、自分はお笑いの道に向いていると確信し、芸能界入りを果たした。

きっかけは、ジャズ・ピアニストの山下洋輔との出会い。1972年、タモリが大分県日田市ボウリング場支配人だった時に始まる。当時の山下は、ライブ後ホテルで乱痴気騒ぎをすることを常としており、渡辺貞夫のツアーメンバーの1人として福岡を訪れた際も同様であった。

サックス奏者(資料によっては、ドラムス奏者とする場合もある[11]がこれは間違い)の中村誠一が部屋にあったゴミ箱を頭にかぶり、メンバーで歌舞伎の踊りや狂言など虚無僧ごっこをして遊んでいた。タモリは、渡辺貞夫のマネージャーと学生時代の友人同士であったために同じホテルで飲んでいたところ、廊下まで響くその騒ぎを聞きつけ、鍵の開いていた部屋へと乱入し、ゴミ箱を取り上げて自ら歌舞伎踊り始めた。中村は、その非礼をインチキ朝鮮語でなじったところ、タモリがそれより上手なインチキ中国語で返答したために、双方が意気投合したという。後日、「この男はジャズ・ファンに違いない」と確信した山下らジャズメンが、博多のジャズバーに片っ端から問い合わせた結果、とあるジャズバーで発見された[13]。その後、新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」の常連(奥成達高信太郎長谷邦夫山下洋輔森山威男坂田明三上寛長谷川法世南伸坊ら)で結成された「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」のカンパによって、1975年6月に上京を果たす[11]。開かれた独演会では「四ヶ国語麻雀」や、「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」などのリクエストを含めた即興芸を披露し、筒井康隆唐十郎山下洋輔ら臨席した全員を感動させる。また、タモリの芸は奥成達から「密室芸」と命名された。

臨席したうちの1人である漫画家の赤塚不二夫は、「この男を博多に帰してはいけない」と引き留め、自らの家に居候させた。また、後にプロデューサー的にタモリを売り出し、しばしば一緒に仕事をした高平哲郎にも、しばらくして「ジャックの豆の木」で芸を見せ、意気投合している。また、作家の阿佐田哲也は、タモリと赤塚不二夫が裸で抱き合っているバカ騒ぎの場面に出くわし、その様子を自分の小説の中で描写した。初期の真ん中分けの頭にアイパッチという姿は、カメラマンの浅井慎平が「サイレント映画の大スター、ルドルフ・バレンチノ風にしよう」と、スタイリングされたもの。

バーでの一件の直後、赤塚が出演する生放送にそのまま連れて行かれ、インチキ牧師などのパフォーマンスを演じさせたところ、黒柳徹子からその夜のうちに照会があったそうで、彼女の感性の鋭さに感心した、と赤塚がコメントしている。

タモリの赤塚不二夫宅での居候生活は、住居は家賃17万円で4LDKのマンションであり、車はベンツのスポーツタイプが乗り放題、赤塚からは月に20万円の小遣いが渡される、というものだった[11]。赤塚本人は、下落合の仕事場のロッカーを倒し、布団を敷いて寝ていた。赤塚以外ではこんな関係は成り立たなかっただろう、とタモリも認め、大恩人だと語っている。ちなみに赤塚は、自書の漫画で、「これだけ一緒に暮らしているんだから愛し合うことも出来るんじゃないか」と、2人で同性愛に挑戦して抱き合ったが、全く興奮せず、何もなかったと描いており、タモリも同様の趣旨の発言をしている。タモリが考える居候の秘訣は「卑屈になるな」。

[編集] 芸能界入り

1975年、30歳で芸能界入りする。東京12チャンネル(現:テレビ東京)の深夜番組『空飛ぶモンティ・パイソン』で芸能界デビュー。その後、日本テレビの棚次隆プロデューサーの目に留まり、『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系列)でレギュラーの座を獲得し、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)で人気を不動のものとする。

また、NHKばらえてい テレビファソラシド』では、既に人気を得ていたが、毒のあるキャラクターや発言などから、NHKには不向きといわれていた。また当時のNHKは制限が多く、今のように誰もが出演できると言う訳ではなかった。だが、タモリの持つインテリジェンスが番組の性格と一致するということ、そして、進行役の永六輔の後押しもあり、番組に起用される事となる。当初はゲスト出演で、得意のハナモゲラ語スキャットで女性アナウンサーと絡んだり、イグアナの物真似をしていたが、その後、レギュラーとして定着。番組後期は、永六輔と共に『テレビファソラシド』の顔的存在となった。

この番組では、タモリと加賀美アナという全く違うタイプの2人がコンビを組み、ペアで司会をすることもあった。永は放送当時、タモリと加賀美アナウンサーのコンビによって、バラエティに必要な「意表をつく楽しさ」が生まれる。この2人から何かが始まるという期待がある」と発言。2人のコンビネーションの良さも、番組の魅力となり人気を呼んだ。また、番組終了後も、『ウォッチング』などNHKの番組に多数出演している。

1981年4月4日に『今夜は最高』(日本テレビ)が始まり、また、1982年10月4日より『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系)がスタートしている。前者の番組が始まると、テレビ番組の司会者としての能力の高さ、ゲストのあしらいの上手さが評価されるようになった。

芸能界デビュー当時は、世間やテレビ業界からあまりの過激さから、「ゴールデン番組には出演させてはならない」と、密室芸人の異名を持っていた。タモリは自ら「江頭2:50みたいな存在だった」と言っていた。

「戦後最大の素人芸人」を自称していたデビュー当時は、常にアイパッチを使用していた。お笑いタレントでありながら愛想笑いやヨイショ芸をせず、どこかインテリ風で何を考えているか分からないという革命的な芸風だった。サブカルチャー好きの若年層には好評を博すが、中高年層には強い印象を与えつつも「薄気味が悪い」と不評だった。「恐怖の密室芸人」という評も与えられていた。

ザ・ベストテン』に臨時司会者として出演したことがあり、この際に当時アイドルであった田原俊彦をネタにしたことで、ファンからの抗議が殺到した。ただし『ザ・ベストテン』の司会者の1人であった黒柳徹子とは親交が深く、トーク番組『徹子の部屋』では、年末にタモリがゲスト出演し、新作モノマネを披露するのが恒例になっている。

[編集] 面白グループ結成

1977年には赤塚不二夫滝大作高平哲郎らと『面白グループ』を結成する。週3回以上の宴会を催し、その成果を何らかの方法で発表することを目的にした団体である。坂田明内藤陳小松政夫団しん也たこ八郎三上寛研ナオコ柄本明所ジョージ、ブレイク前のアルフィーや、劇団東京ヴォードヴィルショーのメンバーも参加。一時はビートたけしも参加していた(ただし、当時のたけしは、タモリの芸風を嫌って、すぐに脱退した)。

1979年には『ケンタッキー・フライド・ムービー』の日本版として作られた、山本晋也監督のコメディ映画『下落合焼とりムービー』に所ジョージやアルフィーらと共に出演した。同1979年、渋谷公会堂で「第一回いたいけ祭り」という、タモリや赤塚の「宴会芸」を見せるイベントを行う。また、面白グループ名義で、当時ヒットしていた女子大生二人が執筆した書籍『ANO・ANO(アノアノ)』のパロディ本、『SONO・SONO(ソノソノ)』を刊行。その年のベストセラーになった。

[編集] 全日本冷し中華愛好会

1975年1月ジャズピアニストである山下洋輔が、冷し中華を食べられない事に憤慨し、SF作家である筒井康隆中州産業大学教授の肩書であるタモリも共に参加し、「全日本冷し中華愛好会」(全冷中)[14]という団体を立ち上げ、「第1回冷し中華祭り」(1977年4月1日、有楽町読売ホール)、「第2回冷し中華祭り」(1978年4月26日、平和島レジャーランド)[15]を開催した。初代会長は山下洋輔であり、第1回目の「冷し中華祭り」の場で、筒井康隆が2代目の会長に就任となった。

また、1975年9月1日に、会報「冷し中華第1号」を発行。その内容は『空飛ぶ冷し中華』(住宅新報社1977年4月)『空飛ぶ冷し中華 part2』(住宅新報社:1978年6月)という本にまとめられた。執筆者は、山下洋輔を筆頭に、タモリ、赤塚不二夫 、筒井康隆、奥成達平岡正明坂田明河野典生上杉清文堀晃黒鉄ヒロシ赤瀬川原平高信太郎長谷邦夫南伸坊末井昭長谷川法世高平哲郎朝倉喬司らと言う面々だった。そして、「全日本冷し中華愛好会」は1979年に解散した。

[編集] オールナイトニッポン

1976年10月から1983年9月までラジオ番組『タモリのオールナイトニッポン』(水曜1部)に出演し、当時人気だったオフコースや、フォーク歌手のさだまさしアリス名古屋及び名古屋人、作家の五木寛之などに対しての批評を行い、ファンとの対立を起こした。オフコースについては「軟弱なフォーク、根暗なヤツが聞く音楽」、さだまさしは「女々しい、わざとらしい、歌よりトークが長い」アリスは当時行なわれたハンド・イン・ハンド運動谷村新司が提唱し、音楽ファンのための音楽ホール「シアター・フレンズ」建設を合言葉にした募金運動)を「もてない根暗ファンの自己満足」、そして名古屋と名古屋人は「東京と大阪に挟まれ独特のコンプレックスがある、田舎なのに都会ぶる、人間がずうずうしい、エビフライをごちそうだと思っている、名古屋弁は響きが汚い」、五木寛之は「文化人づらをして、自分が書いた作品に出演する女優をくどいてばかりいる」等とそれぞれに対して評した。その他、『いいとも!』では明石家さんまと共に佐賀県をこき下ろす発言を繰り返したりした。

また、番組内で「根暗」という言葉を発明。タモリは「こう見えて、オレはが暗いから」等と「表面的に明るいが、根は暗い人」という意味で使用していたが、世間的には「根っから暗い人」という意味で、「ネアカ」「ネクラ」と対比されて、悪口として流行した。

[編集] 『いいとも!』以降から現在

1982年10月4日からフジテレビ系列の平日お昼の生放送バラエティ番組『笑っていいとも!』の総合司会者に就任。この番組で人あしらいのうまさと知性を買われるようになる。以降は各種バラエティ番組の司会者としての活動が主となり、1980年代初頭までの個人芸をテレビ番組で見る機会は少なくなる。

『いいとも!』におけるタモリの起用理由については、プロデューサーの横澤彪が「夜の顔だったタモリをあえて昼にもってきて意表をついた」と語っている。そのため当初は視聴者にとって違和感のある人選だったが、番組はヒット。1986年に4周年を迎え放送1000回を、1990年に8周年を迎え放送2000回を、1994年に12周年を迎え放送3000回を、1998年に16周年を迎え放送4000回を、2002年に20周年を迎え放送5000回を、2006年には24周年を迎え放送6000回を達成した。そして、間もなく放送7000回を迎える。

[編集] 紅白歌合戦

1983年には、デビュー8年目にして『第34回NHK紅白歌合戦』の総合司会を務める。現在に至るまで、NHKアナウンサー以外で紅白の総合司会を務めたのはタモリのみである(2005年にはみのもんたがグループ司会制ながら、事実上の総合司会を担当)。

総合司会を担当した際、『いいとも!』風に観客に呼びかけた(詳細は「第34回NHK紅白歌合戦」参照)。また終盤で白組司会の鈴木健二が持っていた優勝旗がタモリの顔を隠し、タモリは振っている手の先しか映らない状態になった。この時の事をタモリは「『気くばりのすすめ』を書いた人の素晴らしい気くばりでした」と皮肉っている。[16]

なお、タモリ本人は『いいとも!』の中で、「(紅白の司会は)もう2度とないだろうけど、(1回)やってやったよ」と話したことがある。

[編集] BIG3

お笑いBIG3は、FNSの日であった『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』、『タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀のゴルフマッチ』などの番組も終了し、日本のお笑いタレントとしてのビッグ3を使用することは、(昔よりは)少なくなっている(2009年現在は「BIG3」を冠したお笑い番組はない)。

そのため、日本のお笑いタレントとしてのビッグ3を知らない世代、お笑い好きも増えつつある。しかし、業界人の間では今でもしっかりと根付いており、テレビ局等での扱いにも他のお笑いタレントとは明確な差があり、例えば笑福亭鶴瓶が番組内で「BIG3になりたい(入りたい!)」と語っており、若手芸人の場合はBIG3との共演の有無がお笑い芸人としての一種の格付け要素となっていて実際にギャラに影響するほか、「ミドル3」という呼び方が間接的に使用されることもあるなど、完全に消えたわけではない。

この3人がBIG3という概念はフジテレビ自身が生み出したもので、日本テレビにとってはたけし・さんまに、長らく出演の無いタモリではなく所ジョージを加えた3人がBIG3であるが、番組スタッフがフジテレビのBIG3のファンであったため、タモリ・たけし・さんまの3人の出演を望みこのような形になったことを明かしている。またスケジュールを調整して3人の共演も企画していたが、それぞれが3人が多忙のため実現しないことも明らかにした。

また、BIG3の歴史を語る上で、欠かすことのできない人物が、元フジテレビアナウンサーの逸見政孝である。個性がまったく異なるお笑い界の大物達、タモリ・ビートたけし明石家さんまからなるいわゆるBIG3を完璧に制御することのできた唯一の人物として、また日本を代表する「名(迷)司会者」として語り継がれている。

この「BIG3+逸見」という、いわば『BIG4』の組み合わせが、数々のBIG3企画を成功させた一人と言える。ちなみに1993年の『NHK好きなタレントランキング』ではタモリ、たけし、さんま、所、そして逸見の5人がベスト5を独占していた。

[編集] ラジオ

ラジオにおける活動は、『いいとも!』出演以降も行われている。『オールナイトニッポン』のパーソナリティを務めた過去から、ナイターオフシーズン(冬季)にはニッポン放送に『タモリの週刊ダイナマイク』、『ブリタモリ大百科事典』、『だんとつタモリ おもしろ大放送!』など多数のレギュラー番組を持つ。

2005年に起きたライブドアによる一連のニッポン放送に関する騒動に対し、「仮にニッポン放送がライブドアに買収された場合は、ニッポン放送への出演を取りやめる」と所属事務所を通じて公言していたが、この事件が解決したことで、同年秋からは『ブリタモリ大百科事典』にレギュラー出演した。この番組以降、2009年現在は毎年、冬季に放送されていたラジオのレギュラー番組は持っていない。スケジュールの関係でテレビ番組だけの出演になっている。

[編集] 恩師である赤塚不二夫の死

2008年8月2日、タモリのコメディアンとしての才能を見抜き、地元・福岡から上京させて、自宅マンションに居候までさせた赤塚不二夫が亡くなった。

死去の2日後に事務所を通じて追悼のコメントを発表し、「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉も載せた[17]

また、同年8月6日の赤塚の通夜、及び8月7日葬儀告別式に『いいとも!』が生放送開始される朝に参列し、告別式では「私もあなたの数多くの作品の一つです。」との弔辞を読み上げた。[18]。この弔辞は7分56秒にも及ぶものであり、手にしていた紙を何度も見ながら読んでいたが、実際には紙は白紙だったとの報道が一部でなされた[19]

なお、横澤彪によると、後日行われた『いいとも!』スタッフの通夜でタモリと会っており、横澤が尋ねるとこの事実を認め、前夜に書こうとしたが面倒になったので勧進帳のギャグをやる事にしたとのこと。ちなみにオチは「自分のマネージャの名前がトガシ」だから(詳細は勧進帳、および原作の安宅の項をそれぞれ参照)だそうである[20]

[編集] 人物像

[編集] 性格

座右の銘は『適当』、『現状維持』、『やる気のある者は去れ』など多数ある。

タモリの知識ウンチク)は多彩で世間で知られ、哲学写真建物建築文学歴史アングラ絵画骨董書道地理地名産業詩吟俳句落語歌舞伎宝塚文学ミュージカル芸能鉄道道路政治経済など、幅広い。時折、冗談でそれらしいウソを交えることがあるが、周りがそれと気づかずにすんなりと受け入れてしまうことも少なくない(当人は、すぐさま冗談であるとネタばらしするため、大事になることはほとんどない)。

番組内で、よく冗談事を言う。例えば、俺は昔(歌手外国籍モデルラッパー子役ZOOアイドルなど)だった。また、特徴のある芸能人、一般人をすぐにものまねをしてすぐに公表する。他には、特徴のある芸能人、一般人の顔をフリップなどに似顔絵を良く描く。番組内やプライベートなどでは一切悪口を言わない、怒らないなど、極めて笑顔を容易くさせ温和な性格である。また、テレビドラマや映画の長文の長くて読みにくい題名になると、短文にしたり、略したりする癖がある。

[編集] 芸名(愛称)

芸名である『タモリ』は、本名の「森田」の前後を入れ替えたもので、元々は学生時代の愛称である。通常、多くの著名人からは『タモリさん』、『タモさん』。タモリを生んだ赤塚不二夫山下洋輔大橋巨泉ら先輩芸能人からは『タモリ』と呼ばれ、和田アキ子愛川欽也おすぎピーコといった親しい芸能人からは『タモちゃん』と呼ばれている。

トリビアの泉〜素晴らしきムダ知識〜」(フジテレビ系列)で品評会会長に就任以降、共に共演していた高橋克実八嶋智人ビビる大木の3人からは『会長』と呼ばれている。SMAP中居正広からはごくまれに『森田さん』と本名で呼ばれ、丹波哲郎からは『座長』と呼ばれていた。1980年代前半までの映画作品では、『タモリ一義』という名前で出演したことがあった。柳沢慎吾からは『ターさん』と呼ばれたりもする。元猿岩石有吉弘行からのあだ名は『昼メガネ』と呼ばれ、タモリから「そのまんまじゃないか」と言われている。

また、とんねるず石橋貴明矢島美容室で「いいとも!」や「ミュージックステーション」に生出演した際、『リモタ』と呼んでいた。他には「お昼の顔」や「夜の顔」、「大物司会者」、お笑い界の「大御所」とも呼ばれたりしている。

[編集] 身体的特徴

小柄であり、「年を取ってくると背が縮むんだよ」と、良く言っている。肩が撫で肩であり、ショルダーバッグなどを肩に掛けるとすぐにズレ落ちると自ら主張する。なで肩のせいか、小学校時代のあだ名は『矢印』だと皆から言われていたそうだ。身長を上に上にとサバを読む事が良くあり、他のタレントと背を比較する時には「俺が182cmあるから」「遠近法で小さく見える」などと、よくウソをつく。また、笑顔になると前歯がすきっ歯である。髪型はデビュー当時、真ん中分けにしていた。『いいとも!』開始時から7:3に分け、1990年7月末の事故をきっかけに、現在のオールバックに至っている。

また、自ら肌が綺麗な事や肌が白いなどと主張している。両腋毛は2本しかないと「オバQ」だと言っている。他には両足の毛が1本もない。

そのほか、芸能界で1、2を争うほど腕相撲が強いという。また握力が非常に強く、「ジャングルTV 〜タモリの法則〜」で計測した際には、プロレスラー並の70kg台を記録した。

[編集] 密室芸

デビュー当時の密室芸は、「中洲産業大学芸術学部西洋音楽理論教授」や「タモリ教授」、「森田一義助教授」といった架空の肩書きをしばしば名乗り、「ハナモゲラ語」、「イグアナのモノマネ」、「4カ国親善麻雀」などを披露するというものだった。当時はあまりモノマネの対象とされていなかった朝鮮語北朝鮮アナウンサー)やベトナム語も取り上げている。特に評価の高いモノマネに「寺山修司」がある。これはしゃべり方や身振りの模写のみならず、話す内容自体はタモリ自身が考えたものでありながら「いかにも寺山修司が語りそうな物言い」をするという点(寺山自身が生前「喋る内容や論理の組み立て方が(自分と)同じである」と語っていた[21])で画期的であり、それ以前の政治家のモノマネや歌手の歌真似を中心とする「声帯模写」芸とは題材やアイデアの面で一線を画し、後の「モノマネ」に多大な影響を与えた。こうした芸は「思想模写」と称され、レパートリーとして「野坂昭如」や「竹村健一」などがあった。他では田中角栄大橋巨泉永六輔横井庄一浦辺粂子久米明(ナレーション)など。このタモリの『密室芸』は毎年、最後の黒柳徹子が司会を勤める『徹子の部屋』で黒柳との打ち合わせもなく本番で披露している。

最近のモノマネでは、麻生太郎内閣総理大臣)、森山周一郎(声マネ)、滝口順平(声マネ)、笑福亭鶴瓶石原良純おすぎピーコGACKTDAIGOボビー・オロゴン、生まれたての子馬、ハゲタカの着地、携帯電話のバイブ、ジャングルにいるオランウータン、毛玉が喉に詰まった猫、童謡の女性の歌い方、トロを食う男など、多彩なレパートリーがある。

1986年には、タモリの半生を描いた『歌と笑いの41年 戦後タモリ史』という番組が放送された。

また、2007年10月4日放送『とんねるずのみなさんのおかげでした春スペシャル』の新食わず嫌い王座決定戦に初登場し、松田聖子と対決をして、タモリが負けてしまい、罰ゲームとして久々にコンドルの着地を披露し、また、松田の『赤いスイートピー』に乗せてイグアナを披露した。

[編集] サユリスト

『サユリスト(吉永小百合愛好家)』の1人として有名。吉永と同年齢のタモリは、早稲田大学においては吉永小百合と在学時期が重なっており、学生食堂で吉永と遭遇した際、彼女が食事を済ませ立ち去った後に、食べ残した食パンの端を見つけ、食べたい衝動に駆られ理性と欲望の狭間でしばし様子をうかがったが、勇気がなくて結局あきらめたという。現在に至るまでサユリストを貫いている。「いいとも!」のテレフォンゲスト綾小路きみまろに吉永から花が届くと「何で?」と訝しげになり「花を持って帰る」と言い出す。また、笑福亭鶴瓶が映画「おとうと」で吉永と共演しており、鶴瓶が出演する木曜日は決まって自慢話を聞かされる。

同じく「サユリスト」として知られる野坂昭如に対して、「あの人は一時、山口百恵に走ったが、俺は小百合サマ一筋」と、述べたことがある。

その後、吉永とタモリ、鶴瓶の3人で食事をする機会があり、タモリが料亭を選び、鶴瓶はセッティング(吉永へ依頼)をして、タモリの念願が実現するが、その中で鶴瓶がトイレに行くため席を離れ、吉永とタモリの2人きりになったものの、鶴瓶が帰ってくるのが早かったためか、戻ってきた鶴瓶に思わず小声で「早いよ……帰って来るのが」と言ってしまったという[22]竹中直人も、テレフォンゲストで登場した時に、吉永と映画で共演した自慢話をしていた。 タモリ自身は、司会を務めていた「今夜は最高!」などの番組で共演したことがある。だが、長年司会をしている「いいとも!」の通算6700回を超える人気コーナーである「テレフォンショッキング」には、2009年現在においても生出演したことがない。

桜田淳子も、タモリが好みの人物であり、『いいとも!』の第1回目の生放送時の「テレフォンショッキング」1人目のゲストとして、タモリが指名してから現在へと『友達の輪』が繋がっている。

[編集] トレードマークのサングラス

デビュー当時は、眼帯アイパッチ)を着用をしてテレビ番組やCDのジャケットなどに出演していたが、後にサングラスを使用し始め、『いいとも!』が始まった以降は、主にレイバンサングラスのみを使用し、2009年現在に至るまでタモリのトレードマークとなっている。昼の帯番組ではイメージが良くないという配慮からサングラスのみを使用した。このサングラスは、昼番組と夜番組を併せて1982年の番組開始2週目、1990年7月1991年1996年2002年の5回変わっている。『いいとも!』開始当初から1990年までと1991年から1996年までの頃は「昼の番組で真っ黒なサングラスはいかがなものか?」という理由から目元がほぼ見える薄茶色のサングラスを着用していた。『いいとも!』以外の番組では黒色のサングラスを着用しており、1996年から2009年現在の『いいとも!』を含む全番組出演時は黒色に統一されているが、同型でレンズカラーの違うスペアサングラスを所持しているようだ。また、現在着用している黒い色のサングラスは『テレフォンショッキング』に毎回、出演した際に俳優内藤剛志からのプレゼントを使用している。

また、1995年4月12日4月13日放送分と2008年4月3日放送分の『いいとも!』ではその当時のいつものサングラスとは少し違ったサングラスをかけており、当時話題となった。

[編集] カツラ疑惑

デビュー当初はディップ(整髪料)で固めて、頭の真ん中分けで、中州産業大学教授を演じる時のみボサボサとした髪型にしていた。その後、「いいとも!」のみ、ディップで固めた7:3分けで出演していた。これは、当時の第二次アイビーブームの流行に沿った物だったのか、分け目の髪の毛の薄さが誰の目にも明らかであった。当時を振り返りタモリは「多忙により頭を洗う時間がなく、かゆかった。」とコメントしている。 自らが所有するプレジャーボートに乗り移ろうとして東京湾の岸壁から転落し、「頭部に裂傷を負った」と1990年8月頃から髪型を現在のオールバックに変更。それまでの整髪料で固めたヘアスタイルとは明らかに異なるボリューム感が出ており、各メディアなどからカツラ疑惑が持たれるようになった。

結局、カツラ疑惑は周りが作り出した噂であり、タモリ本人もよく語る「笑いのネタ」である。しかし、カツラ疑惑が流れた当時、タモリが『いいとも!』本番中に「髪引っ張ってみてよ」と、明石家さんまに言ったが、さんまが「本当にカツラだったらどうしよう」と迷った挙句、引っ張らずに遠慮したため、再び世間に広まってしまったと言うエピソードがある。

カツラでないということを裏付ける証拠として、近年、後頭部付近の頭髪自体はやや薄くなってきている。そのせいか、「薄くなってきた」「被っている」「カツラ」などの言葉に対して、年を増すごとに敏感になっている。

ディップ時代の映像や写真が出された際、「過去と現在」を比較され、さんまや島田紳助[23]から「増えてる!」と言われてしまった。それを逆手に取ったかのように、オールバック変更直後と現在を自ら比較し、「(この頃は髪が)まだある!」と言ったこともある。[24]

[編集] 安産祈願の神様

ネタのひとつとして、タモリは、安産祈願の神様などと言われている。もともと、テレフォンショッキングで紹介されたゲストへのメッセージのメモをとるふりをしていたが、本当にとっているはずも無く、放送禁止女性器を簡素化した図形を描き、ゲストに見せて、その反応を楽しんでいた。次第に、その図柄にちなみ安産祈願と称しそのメモをゲストが持ち帰るようになったもの。現在でも、身近に出産を間近にしている著名人等に書いている場面がテレビなどで観受けられ、その際、「安産! スッポン!」なる呪文めいた言葉を口にすることも少なくない。安産祈願第1号は、坂東三津五郎の長女。タモリは「4人の逆子を治した事がある」「安産祈願の成功率は90%だ」と、うそぶいている。

[編集] 私生活

ミュージカルが苦手で知られ、良く「いいとも!」で「脈絡もなくいきなり歌いだすのが不自然」、「何で歌うのかが分からない」と語っている。海外作品を日本で上演する際には「どうみてもアジア顔の奴が『スティーブ』だの『ジャクリーン』だの言い合っているのをみると寒気がする」といった趣旨の発言を度々行っている。最近は、ミュージカルに関心を持ってきているようだ。[要出典]

40代頃まで喫煙をしていたが、健康維持をきっかけに禁煙した。現在でもお酒は良く飲み「タモリ倶楽部」(テレビ朝日系列)の飲み企画でビール焼酎を良く飲んでいる。自宅にはワインセラーがあり、ワインウィスキーも飲んでいる。タモリは「お酒は毎晩欠かさず飲むよ」と言っている。 1日1万歩を目標に必ず散歩に行くと言う。最近、散歩の際には、他の人が住んでいる家を正面から眺めるのが好きだ、と言っている。昭和の感じの家が好きらしい。

平日は、朝・昼食はしっかり食事をするが、昼食をする時間が『いいとも!』生放送終了後で14時頃になるため、夕食は食べない。昼食は毎日の様に外食をし、14時頃に食事をしたら次の仕事場へと向かう。タモリ曰く『夜になってもお腹は空かない』と言っている。しかし、休日は3食必ず食べている。

数年前から、花粉症で悩まされている1人である。数年も前から春になると目が痒い、鼻水や鼻声になると言い、花粉症の話題を必ず『いいとも!』などでする。

タレント活動とは別に、実業家として、静岡県伊豆には海鮮もんじゃ屋の経営をしている。週に1回はその店に顔を出している。他には、毎年正月には伊豆の別荘に行っている。

現在の愛車はトヨタアルファード。その前は同じくトヨタ・グランドハイエース[25]過去にはベンツジャガーも所有していた。

[編集] エピソード

[編集] 各番組におけるタモリ

[編集] 長寿番組

森田一義アワー 笑っていいとも!」(放送開始27年)、「笑っていいとも!増刊号」(放送開始27年)、「笑っていいとも!特大号」(放送開始27年)、「タモリ倶楽部」(放送開始27年)、「ミュージックステーション」(放送開始23年)、「ミュージックステーションスーパーライブ」(放送開始17年)、「世にも奇妙な物語」(放送開始19年)は、長寿番組である。

番組を長く続ける秘訣につき、「自分の番組を好きでいなければいけない」、「一々、反省はしない」、「自分が出演しているテレビは一切観ない」と述べる。

また、タモリは「森田一義アワー 笑っていいとも!」、「タモリ倶楽部」、「ミュージックステーション」などのレギュラー番組の司会で、マイクを使用する。タモリは「俺はいつも欠かさずマイクは何処に行くにしろ持っている」と述べる。

[編集] 冠番組

『いいとも!』が放送開始した1982年10月からバラエティ番組の司会が急上昇し、冠番組が続々と誕生し、『いいとも!』、『タモリ倶楽部』、『ミュージックステーション』はもちろんの事、ゴールデンタイムプライムタイムラジオ番組のレギュラー番組は週に7 - 8本は仕事をこなす時期があった。その中でも、長期に渡る人気番組を数多く生んだ男でもある。NTV系列今夜は最高!』、TBS系ジャングルTV〜タモリの法則〜』(MBS制作)、テレビ東京系列『タモリの音楽は世界だ!』等が開始されていった。また、博識が評価され『今夜は最高!』で「オペラ昭和任侠伝」が、同年の民間放送連盟賞のテレビ娯楽番組部門最優秀賞を受賞した。

上記は1980 - 1990年代当時のレギュラー番組であるが、このうちNTV、TBS、CX全ての番組の視聴率が10 - 20%をマークした。その他、テレビ番組以外にも歌手としてのCD・レコードリリースとライブ活動なども行っていた。この頃により、ビートたけし明石家さんまとともに、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。

[編集] ドラマ

タモリはバラエティ番組で活躍しているタレントとして有名だが、ドラマ出演も数多くこなしている1人でもある。ドラマ初出演作品はNHKドラマ人間模様詐欺師」』であった。このドラマは連続ドラマであり、大谷直子とのベッドシーンやキスシーンもあった。他には、日本テレビ系列『月曜スター劇場なぜか、ドラキュラ』、『今夜は営業中!』、TBS系列『代議士秘書の犯罪』、『不連続爆破事件』、『ミセスとぼくとセニョールと!』、『月曜ドラマスペシャル『自主退学』、フジテレビ系列『世にも奇妙な物語』、『X'smap〜虎とライオンと五人の男〜』など、主人公役が多数あった。

[編集] 報道番組

タモリはバラエティ番組はもちろんの事、音楽番組ドキュメンタリー番組ドラマ出演など数多くこなす他に報道番組への力も入れており、『FNNスーパーニュース』のメインニュースキャスター安藤優子と共にメインキャスターに挑戦し合計3回程度、『スーパータイムスペシャル』、『タモリ&安藤優子のSuperスーパーニュースSpecial』共にフジテレビ系列にて出演し、多方面の分野に渡って出演している。

また、1983年6月26日に実施された第13回参議院議員通常選挙では、タモリが選挙メインキャスターとなりFNN系列で『いいとも!』をアレンジとした『選挙でいいとも!』が放送された。

[編集] ヒット番組

笑っていいとも!

  • 番組開始当初から、オープニングからエンディングまで同じ衣装を着ていたが、2007年4月からは、オープニングからテレフォンショッキングの終わりまではネクタイにスーツ姿、あるいはジャケットにノーネクタイ姿で出演し、その後のコーナーから、夏は無地のポロシャツ、他の季節ではカッターシャツの上からセーター、またはベスト姿で軽装になって出演している。衣装はネクタイにスーツ姿が週2~3回、ジャケットにノーネクタイ姿が週2~3回の割合。どちらかというとフォーマルのイメージが強いが、かつては夏季アロハシャツを着て出演したこともある。
  • 1983年から1993年までの11年間は夏に休みをとっており、司会は当時のレギュラー陣が代打を務めていた。だが当時のプロデューサー山縣慎司の意向からか、1994年以降は夏休みは取らなくなった。
  • 『いいとも』でゲストと話す際、「んなーこたーない」(「そんなことはない」の意)と言うことがよくあるため、コージー冨田などによくネタにされる。
  • 明石家さんまが、1984年4月6日に『いいとも!』の金曜レギュラーに登板し、タモリと共に立ち談話するタモリとさんまのトークコーナー(題名は何度か変化しており開始当初の1985年頃は「タモリ・さんまの日本一の最低男」、その後「タモリ・さんまの日本一のサイテー男」(1987年頃)、「タモリ・さんまのしゃべっちゃいマホー」(1988年頃)、「タモリ・さんまのなんちゅうこというの!」(1990年頃)、「タモリ・さんまの狼が来たぞー!」(1991年頃)「タモリ・さんまの日本一のホラ吹き野郎!」(1992年頃)、「タモリ・さんまのもう大人なんだから」(1993年頃)、「タモリ・さんまのもう大人なんだからネ!!」(1994年 - さんまが『いいとも!』卒業するまで)と変化していった)は「テレフォンショッキング」及び「曜日対抗!いいとも選手権」に次ぐ「いいとも!」の名物コーナーとして親しまれ、『いいとも!』の歴代コーナーの中でも1位、2位の人気を誇る。
  • また、タモリが夏休みなどで不在の場合は代理司会も勤め、最多代理司会者として表彰された。他の代理司会は1987年4月から1990年3月まで関根勤片岡鶴太郎所ジョージ笑福亭鶴瓶らと共にタモリを支える曜日リーダー(通称は『いいとも!ビッグ5』)として親しまれる。
  • 時間が経つ事に、この5人はベテランの域となり自分の番組を持つようになったさんまは特大号に出演もしなくなり、 1995年の4月からは遅刻する事が多くなった。「スタッフに『真面目にやってください』と言われ激怒した」とつぶやき、1995年9月末同番組を卒業した(同時期には片岡鶴太郎も卒業している)。さんま出演最終日の増刊号のコーナー・「放送終了後未公開トーク」ではさんま特集が組まれ、さんまのタモリ代理司会時のVTRを見たりなどして振り返った。週刊誌では「面白おかしく不真面目にやっていたと言う。
  • 1980年代後半、『いいとも!』のいいとも青年隊メンバーであった、磯野貴理が(最初の女性メンバーの一人)いいとも青年隊(少女隊)として活躍する。『いいとも!』出演当時、年齢をさば読みしていた(24歳→19歳)。これは、ある日の放送中に、観客の中に磯野の実の妹がいることが分かり、彼女の年齢を尋ねたところ、磯野の公称年齢より年上(20歳)であった為タモリから「何で年上の妹がいるんだよ?」と突っ込まれたことで公になった。なお、妹の他に2人の姉がいる。
  • レギュラー出演者の誰かが誕生日を迎えた時には、スティービー・ワンダーの「Happy Birthday」をBGMに誕生日祝いのケーキが出される。「テレフォンショッキング」のゲストが出演日に誕生日を迎えた場合も同様のことを行う。その際、女性の場合にはその場でロウソクに火を着け噴いてもらうが、男性の場合にはその場でタモリがロウソク消すオチになっているのが恒例である。
  • ダウンタウンが『いいとも!』に初出演した際、ダウンタウンがいいとものコーナーにケチをつけまくったため、「うるさいなぁ…」とタモリが小声で言うと、浜田雅功が「司会者が『うるさい』って! かなわんなぁ」と言い返したため、「本当にうるさいなあ!!」と怒鳴った。
  • 『いいとも!』開始後間もなく、「たけし(ビートたけし)は大包茎。オシッコが真っ直ぐ飛ばない」と発言した。そのすぐ後の放送日に、「タモリさんさぁ、俺のこと包茎とか言ってたって?そりゃマズいだろ!」と、ビートたけしが番組に乱入した。この件は、それまでタモリとビートたけしの共演がほとんどなかったこともあり、『いいとも』に興味を示さなかった視聴者層や芸能マスコミにも広く話題を呼んだ。この件について、ビートたけしは後に「あれはプロデューサーの横澤さんに頼まれたこと」と、ヤラセであることを暴露した。元来ビートたけしはタモリより先に『いいとも』の司会を頼まれたが辞退した経緯があり、開始当初人気が安定しなかった『いいとも!』へのテコ入れとして、タモリと不仲説のあったたけしを番組に乱入させたらしい。ちなみにビートたけしは自分が包茎であることを『オールナイトニッポン』などでは何度もネタにしていたが、『タモリのオールナイトニッポン』に自分の歌を宣伝するために出演した折、番組に参加していた女性達に自分の局部を露出し、それを見た女性達に笑われた挙げ句タモリにも見せると「すごい包茎」と散々に突っ込まれていた。
  • 片岡鶴太郎が出演した際には、タモリと「キューちゃん」のマネを必ず行う。ちなみにこれはFNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島に出てきた九官鳥がモデルとなって現在でも続いている。ちなみに、鶴太郎はタモリに影響を受け、挿絵を描く事に目覚める。お笑い芸人としての仕事から距離を置くようになり、水墨画を描くことや陶芸など美術方面でも活動している。
  • 笑福亭鶴瓶とは『いいとも!』に、1987年から木曜日に曜日移動なしで継続して出演し続けている。木曜日の『いいとも!』の顔的存在となっている。「辞めたい」と言ったこともあるが、タモリに慰留され現在に至っている。なお、辞めたいとした理由は、明石家さんまの降板と「おもろい若手が沢山出てきて、自分のような古株はいらんと思うようになったから」であり、タモリに原因があるわけではない。むしろ、タモリの笑いに対する意識の高さを人一倍知っており、鶴瓶はタモリを「テレビの師匠」と仰ぎ、尊敬している。「『いいとも!』を辞めたい」と言ったとき、タモリに「こういう場に出続けているってことは、あんたにとって大事なんだよ」と言われ、当初は意味が分からず、年末恒例の『特大号』にだけは出演しない交換条件付きでしぶしぶ残留した。近年になって、定期的にタモリのような芸人と会うことや、若手などと生放送の場で絡むことの意義を感じ、「その意味がようやく分かった」と自身のラジオ番組内で語っている。これに関してタモリに対し、「あんた、何で(あの時に)そんなこと(=鶴瓶にとってそれが大事だということ)分かったの?」と感謝の意ともとれる疑問を投げかけている。また、その答えは、長年やってきた生放送バラエティー番組の司会で培われた、タモリにしかできない予見であったとしている。
  • 間寛平が出演すると、お互いにの真似をしながらスタジオ中を駆け回る。
  • ボビー・オロゴンが出演すると、しゃべり口調をものまねする。
  • 次長課長河本準一が出演すると、必ず河本の顔に対して、「のりしろ?」と聞く(顔の大きさに比べて目や鼻などのパーツが中央に寄っていることから)。
  • 若手芸人出演時には特出すべき特徴を瞬時にとらえ、似ているものと比較する感じにイジる兆候がある。
  • さまぁ〜ず三村マサカズには、顔が日に焼けて黒いので「塗れ煎餅」と良く言う。
  • アンタッチャブル山崎ハリセンボン春菜に対し、しつこく一発ギャグツッコミを強要する。(これが原因で、コーナーが中途半端に終わってしまうことも多々。)
  • テレフォンショッキングユースケ・サンタマリアから花が届くと「カタカナの人」、ふかわりょうから花が届くと「ひらがなの人」と言う。ルー大柴から花が届くと「ノレー大柴」あるいは「ノレー大紫(おおむらさき)」と言う。
  • コーナーの進行中または最終回の冒頭に「(泣きながら)昭和○○年から続けてまいりましたが」と虚言を言ったり、お題と違うテーマを即興で言って進行しようとすることがある。
  • テレフォンショッキングでテレフォンアナウンサーを紹介する際、女性アナは呼び捨て(佐藤里佳の「里佳ちゃん」、内田恭子の「ウッチー」、戸部洋子の「戸部ちゃん」など一部例外あり)、男性アナは「君」付けである。どうして男女で差をつけているのかは不明。
  • 毎年、フジネットワーク系列で放送しているFNSの日の「笑っていいとも!増刊号生スペシャル」では、自身が昨夜から総合司会を続けてきたかの様に「毎年、この時間が一番眠いんだよ」と発言し、他の出演者に突っ込みを入れられる事も恒例となっている。
  • 2002年2月22日マイクロソフト会長のビル・ゲイツがオープニングコーナーに登場した。タモリに『Xbox日本1号機を貰える券』と引き換えに同日に発売されたXboxを手渡した。
  • 2003年6月27日ミュージックステーションテレビ朝日系)で、t.A.T.uが番組を途中放棄するという事件が起きる。その後約1年間にわたり、『いいとも!』出演者からt.A.T.uの話が出るたびに「タトゥーの話はするな!」と怒っていた。今でもごく稀にジョークの種にすることがある。
  • 2004年7月25日にフジテレビの27時間テレビの中で行われた『笑っていいとも!増刊号生スペシャル』のテレフォンショッキングのコーナーでは自分の番組にゲスト・森田一義として登場した。この時、司会は27時間テレビの総合司会を務めていたナインティナイン岡村隆史が行った。
  • また、『いいとも!』の放送終了後のフリートークで「疲れているときにユンケル(栄養ドリンク)はいいよね」と発言したところ、ユンケルを発売している佐藤製薬からユンケルを大量に贈られ、これをきっかけにユンケルのテレビCMにも出演するようになり、「ユンケルンバでガンバルンバ!」のCMコピーは当時流行語になった。
  • 中山弘子新宿区長が2007年11月4日放送分の笑っていいとも!増刊号に出演し、森田一義アワー笑っていいとも!が新宿スタジオアルタから25年間に渡り生放送を現在でも続けて、新宿の街のイメージアップに多大な貢献をしている”と言う事で、タモリに感謝状を手渡した。(実際に表彰されたのは、11月2日
  • いいとも少女隊である渡辺直美は、和製ビヨンセ(または「なりきりビヨンセ」)と言われ、ワンピースを主なステージ衣装としてビヨンセの曲に合わせ踊りを演じるもので、本人は歌わないため当て振りである。『いいとも!』では良くタモリが和製「ブヨンセ」と茶化すこともある。
  • 2009年7月10日放送分のエンディングで、平井理央アナウンサーからタモリが精密検査(人間ドック)を行うために次週(2009年7月13日7月17日7月19日の増刊号)の出演を丸々休養することを発表した。その中で検査とともに白内障の手術も行うことをタモリが自ら語った。タモリが休養の期間は代役の司会者を立てず、各曜日レギュラー陣が臨時で司会を務めた。

Mステ

  • テレビ朝日系列の人気長寿音楽番組として放送しているこのミュージックステーション。その2代目司会として1987年から担当している。
  • 過去にタモリのアシスタントとして担当した人物は、中原理恵(1987春〜秋)から始まって松井康真アナ(1987春〜1990春)、木下智佳子アナ(1987秋〜1990春)、生島ヒロシ(1990春〜1993秋)、有賀さつき(1993春〜1996春)、下平さやかアナ(1996春〜2000春)、武内絵美アナ(2000春〜2004春)、堂真理子アナ(2004春〜2008秋)、そして現在の竹内由恵アナ(2008秋〜現在)と総勢9人に及ぶ。
  • 同番組で一番、嫌がっている場面は年末恒例のミュージックステーションスーパーライブのオープニングを飾る火薬の爆破。本人はクレームまでとは行かないが、今年は(花火の演出は)あるんですか?とスタッフに言う。
  • 前述の『笑っていいとも!』での項と同じく精密検査、白内障の手術の為、2009年7月17日の『Mステ』の生放送も休養し、タモリと共に司会を務める竹内由恵アナとタモリの代役として、その日のゲストアーティストが交代しながらリレー方式で番組が進行した。

タモリ倶楽部

  • タモリ倶楽部』は1982年10月4日から放送開始されたフジテレビの平日昼(正午)の番組『笑っていいとも!』と同時期に始まり、現在も継続する長寿番組で現在では「深夜番組の代表番組」である。この同時期開始には、田辺エージェンシー社長の田邊昭知の並々ならぬ後押しがあったという。元来シュールな芸風であったタモリを気に入っていた田辺が『いいとも』の司会によってその才能が鈍化するのを嫌って、『いいとも!』の司会をするにあたり同時にシュールさを全面に出した同番組を企画したと言われている。
  • 主な企画としては、鉄道系、乗り物系、アダルト系、飲食系、見学技術系など、司会のタモリは聞き役となってさまざまな各分野の専門家に登場してもらい解説してもらう事が多い。
  • 番組後半のミニコーナーである『空耳アワー』は17年間も続く歴代最長のコーナーでもある。

ボキャ天

[編集] 交友関係

「芸能人の友達は少ない。」と「いいとも!」では言っているが、多くの著名人とたまに一緒に外食に行ったり、タモリ宅に来てタモリが作った食事を食べに来る芸能人も数多くいる。だが、タモリはキッチンでずっと料理を作っているため、その輪の中には入らずに料理に没頭していると言う。(明石家さんまなどが証言)井上陽水福山雅治とはメル友仲間で、特に井上とは旧知の仲である。お正月にはSMAP草彅剛香取慎吾稲垣吾郎がタモリ宅にやってくる。

黒柳徹子とは、タモリとの交友も深く、黒柳はタモリの知名度を上げるきっかけを作った人物の1人でもある。毎年、最後の徹子の部屋にゲスト出演をしている。

1984年3月14日生放送分の『笑っていいとも!』の名物コーナー「テレフォンショッキング」に生出演した際に、43分間しゃべり続ける(長話)と言う伝説を残した。そのために、放送時間が無くなり、「テレフォンショッキング」の後に予定されていたコーナー2つのうち1つを無くさなければならない事態となり、双方の司会担当者がじゃんけんをして、潰す方を決めた。そして、2005年12月16日 生放送分に21年ぶりに登場し、またも放送時間内で39分間しゃべり続けた。この為か1998年までフジテレビの番組には殆ど出演せず、それ以降も5回程度しかフジテレビに出演はしていない。

徹子の部屋の年間最終の放送のゲストは1978年から毎年、必ずタモリ(初出演は1977年8月11日)が出演し、2009年の出演で33回目を数える。また最近はタモリ司会の『ミュージックステーションスーパーライブ』が放送される金曜日が年間最終放送日となることが多い。タモリとの付き合いは、タモリが当時のNET(現テレビ朝日)の「赤塚不二夫の世界」というお昼の生番組でインチキ牧師役でTVデビューした時に、余りの面白さに黒柳が「今の人、誰? すごいじゃない」と直接TV局の赤塚へ電話を掛けてからだという。放送では「密室芸」の披露をしているが、1980年代の放送では「マヨネーズ石狩鍋」や「たくあんのとぎ汁で作ったクリームソーダ」など、通常では考えられないゲテモノ料理を2人で作って食べるのが恒例となっていた。

和田アキ子とは、現在では「いいとも!」の人気コーナーである「テレフォンショッキング」で共演する程度であるが、「金曜10時!うわさのチャンネル!!」が和田と最初に共演した番組である。

とんねるずは素人時代にお笑いスター誕生に出演した際、あまりに突飛なネタで他の審査員からの評価は芳しくなかったが、審査員の1人であったタモリが「お前らなんだかわからねえけど面白い」と評価したことから、とんねるずは好印象を抱いている。この当時、とんねるずを評価していたのはタモリとその世話人であった赤塚不二夫だけであった。これは、タモリもまた特定の師匠に付かずに素人芸を極めて芸人となった経緯を持ち、特定のカテゴリーに収まりきれない芸風だったことによる理解が大きい。

とんねるずはタモリのオールナイトニッポン」の見学をした際、タモリに相談をし、プロの道に進む決心をしたと言う逸話もある。(2007年10月4日放送の「とんねるずのみなさんのおかげでした」より、新・食わず嫌い王決定戦でタモリと共演した際に) その後、木梨は2008年に「オールナイトニッポン40周年SPタモリのオールナイトニッポン」の復活特番にゲスト出演をしている。

たけしとの共演が少なく、さんまとの共演が多いこともあって、BIG3が一堂に会したときは、たけし・さんまとタモリという2対1の構図(さんまがたけし側につく)ができてしまい、タモリは「2対1にするな!」「川端くんと一緒に行動する!」と発言していた。一方タモリもたけしと共謀し、さんまをはめたことも多々ある。(レンジローバー車庫入れ事件など)[要出典]

所ジョージのメジャーデビューを後押し、面白グループを通じて行動を共にすることも多く、私的にも披露宴で仲人を務めるほど深い関係にあったが、所が「いいとも!」のレギュラーを外れてからは、テレビなどで競演することは、たけし、さんまとの競演に比べても少ない。

ばらえてい テレビファソラシド』で共演していた元NHKアナウンサー頼近美津子が、2009年5月17日に他界した。タモリは彼女の事を「キャサリン(本名のミドルネーム)」と呼んでいた。この番組では、ホームドラマのコント内でタモリが父親役、頼近が娘役を演じていた。

コピーライターである糸井重里(通称「darling(ダーリン)」)が主宰している、ほぼ日刊イトイ新聞には毎年、インタビュー出演をしている。

[編集] 趣味・嗜好

タモリの趣味嗜好は多岐にわたる。ジャズをはじめとした音楽以外にも、鉄道料理坂道BCLアマチュア無線武道オーディオダム男色熟女船舶ゴルフ、古地図腕時計サングラス家電製品お酒などに造詣が深い。「日本坂道学会」副会長、(会長と合わせて2人)、「日本変態協会(略してNHK)」会長、「おっぱい星人」などの肩書きも自称している。

[編集] ジャズ

音楽は主にジャズを好む。後述の早稲田大学第二文学部在学中における実績があるほか、植草甚一の死後、遺品整理をしていた高平哲郎の仲介で、植草のレコードコレクション約2000枚を約100万円で買い取っている[29]。自身も森田一義名義で早稲田大学応援歌「ザ・チャンス」の作詞を担当したり、トム・O・リーの名でトランペット演奏のレコードを出す他、THE SQUAREのアルバムのレコーディングに参加するなどの音楽活動も行っている。THE SQUAREはタモリのコンサートツアーにバックバンドとして参加していたことがあり、その縁でアルバムに参加したという経緯がある。

マイルス・デイビスに雑誌のインタビュー企画で会い、終わった際にマイルスから「いいインタビューだった」と褒められ、トランペットにサインをしてもらったことを非常に喜んで語っている。また、マンハッタン・トランスファーの日本ツアーで司会のオファーが来たことがあったが、当時「笑っていいとも!」等で多忙を極めていた為、マネージャーがスケジュールが押さえられないことを理由に断った事があると「タモリ倶楽部」のコーナー「空耳アワー」で語った事がある。

世界的に有名なジャズシンガーであるサリナ・ジョーンズとは20年以上の付き合いがある。出会いはタモリがメインパーソナリティーを勤めていたタモリのオールナイトニッポンニッポン放送)。ゲスト出演をしたサリナは、アルバムのプロモーションで簡単なインタビューで終わるつもりだったが、予定時間を過ぎても終わらず、サリナとタモリはサリナの歌を大熱唱し意気投合していた。

[編集] トランペット

デビュー当初はトランペットに対する腕前も高く、「いいとも!」「ミュージックフェア」(フジテレビ)、「今夜は最高!」(日本テレビ)、「ミュージックステーション」(テレビ朝日)と言った自らが持つレギュラー番組でタモリがトランペットの演奏など腕前を披露していた。

[編集] 鉄道

鉄道ファンとしての分野は、線路そのものが連なるさまや分岐器の複雑な造形、またそれらを列車が通過する際の音を好む「線路マニア」であると称している(一部では「鉄道の事情通」とも言われる)。線路マニアになったきっかけは、幼少時に見た、薬院駅南側で西鉄大牟田線西鉄福岡市内線城南線平面交差デッドセクションとなっているところだったという[30]。かつては国鉄CMにも出演経験がある(「食堂車に窓を設けました」「新幹線はますます良くなっております」など)。自身が司会を行う『いいとも!』の楽屋にも、いつも時刻表地図が置かれているという。また、JTB時刻表の月刊本は毎月欠かさず購読していると言う。

自身が司会を担当する『タモリ倶楽部』でしばしば鉄道関係の企画を行っており、「タモリ電車クラブ」を主催し自ら会長を務める。雑誌ブルータス」のインタビューでは、京浜急行電鉄のファンであることを語っており、後にタモリ倶楽部にて特別専用列車による特番&ツアーが組まれる事となる。ゲームソフト『電車でGO!』の腕前は、自他共に認めるハイレベルである。

[編集] 船舶

また船舶にも造詣が深く、一級小型船舶操縦士免許を所有(試験日が平日だったため、タモリはその日の『いいとも』を休んでいる。3000万円で購入した自身所有の船舶を静岡県伊豆に係留しており、休日はその船で過ごしているという。まれに「趣味のために休んだ」ことを突っ込まれることがある)するほか、船舶が映る画面を凝視するシーンがしばしば目撃されている。映画「タイタニック」では(恋愛映画が嫌いなため)「登場人物のシーンを飛ばして船の出てくるシーンだけを見る」とたびたび語っている。

[編集] 料理

料理はプロ級の腕前であると評される。「テレフォンショッキング」でゲストが料理や食材の話をすると、美味しい食べ方や隠し味などを披露したりする光景が頻繁に見受けられる。共演したタレントを自宅に誘って食事会を開くことも多いが、タモリ自身はキッチンにこもって料理に没頭するため、番組と違ってトークで盛り上がることは稀であるらしい。なお、当人は和食以外一切食べない和食党である。ある日、料理屋でマグロを焼いたものを食べて以来「何でも熱通した方が旨い」との持論を持ち、番組等でも「何でも軽く炙った方が美味しい」と語っている。自宅では「キッチンで酒を飲みながらそこで食事をしている」とも言っており、タモリ倶楽部の酒呑み企画で何度もそのような様子が放映されている。

テレビ番組での料理の腕前としては、2006年4月24日SMAP×SMAP春の特大号」で見せたタモリ VS SMAPのビストロ対決がある。一週前の放送でビストロにゲスト出演したタモリが、木村・稲垣ペアの作った料理の敗因を述べた後、中居に「それじゃあ自分は作れるのか」と突っ込まれたのがきっかけ。タモリはその場で「すいません。言い過ぎました」と謝った後、今度は自分が作ると宣言。そのまま木村・稲垣ペアとタモリ・中居ペアの料理対決実現となった。タモリ・中居ペアは「冷や汁」、木村・稲垣ペアは「ブラック&ブラックカレー」を作り、草彅・香取の判定の結果、タモリ・中居ペアが勝利した。

また、「いいとも!」の放送終了後の増刊号の企画や「ジャングルTV 〜タモリの法則〜」の料理コーナーでもその腕前を見せていた。ありあわせの材料を使い、番組で用意したレシピとは別の料理を即興で追加することも少なくなかった。

当人いわく「料理とは、他の事を何も考えないで料理だけに集中出来て、面白いし、頭の体操にもなり気分転換になる」とのこと。

[編集] 坂道

タモリが東京に初めて来た際、なんと坂の多い場所なんだと驚いたらしい。坂道については、幼少のころからの趣味(後述も参照)であり、2000年には山野勝と「日本坂道学会」を結成し副会長を自称する。同会副会長として、休日には、好みの坂を歩き周り、坂道の写真を撮る。過去には「TOKYO1週間」誌上に『TOKYO坂道美学デートNAVI入門』を連載し、2004年にはその活動が書籍『タモリのTOKYO坂道美学入門』としてまとめられた。

テレビ朝日の番組『全力坂』の大ファンで、DVDも所有している[31]

タモリが坂道を見る鑑賞の点は、

1、勾配の具合を自分の目で確かめる。
2、湾曲の行き方(角度・傾斜)はどうなっているか。
3、周囲江戸などの歴史、景色風情を出す物があるかどうか。
4、坂道の名前の由来など由緒を自ら調べ感じとれるか。

と言った事を自ら述べている。

[編集] ゴルフ

かつてはゴルフ嫌いであったが、1980年代半ばに「転向」した。「タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀のゴルフマッチ」では10回のうち8回優勝する[32]。タモリは「人にゴルフ教える事に関しては俺はうまい」と述べるほか、プロは天才すぎて幼少の頃から身に着いて逆に教えられないから、何年も経験を積んできたアマチュアに教えてもらうとすぐに上達すると述べる。しかしタモリは、「2001年に起きた事故(後述)で怖くなってやめた」と述べる。

[編集] 性的指向

「日本変態協会」(NHK)会長を名乗り、「創作は全て変態である」という「創作変態論」を唱えている。また、バストが大きい女性が好きであると公言し、「俺はおっぱい星人」と発言している。1990年代から、ヒロミと『タモリのボキャブラ天国』(フジテレビ)等のテレビ番組で『おっぱい星人』と自分たちの嗜好を表現する用語として使い始めたのがきっかけとなって一般に定着した。タモリらの主張によれば、おっぱい星人とは「おっぱい星からやって来た、おっぱいの素晴らしさを伝道するための使者」であるらしい。

なお、タモリ・ヒロミらからするとしばしば「おっぱい星人=巨乳好き」と混同されることがあるが、あくまで「おっぱい星人」は「乳房に対する関心が高い」ことを示す言葉であり、必ずしも「おっぱい星人」を自称する人物が巨乳好きであるとは限らない。例えば、ヒロミの場合は『タモリのボキャブラ天国』の番組内で「おっぱい星人」を自称する一方で、同番組においてむしろ貧乳の方が好みであるような発言も繰り返していた。

[編集] アマチュア無線

アマチュア無線では、過去にコールサイン「JA6CSH」を取得したこともあり(現在は失効)、ラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)でBCL番組を担当していた実績も持つ。

[編集] 武道

武道にも造詣が深く、高校時代に柳生新陰流居合二段を取得している[11]

[編集] 古地図

NHKで『ブラタモリ』として番組化されるほど、古地図と、それに基づいた街歩きには造詣が深い。同番組での本人談によれば、個人的に最も面白かったのは、「『市中引廻し』はどこを引廻すのか」をたどった時(=タモリ倶楽部での企画)とか。

[編集] その他

静岡県伊豆別荘を構える。また、芸能人仲間らの証言によれば、自宅では緑色のビキニブリーフ1枚になりイグアナの生態のまねをし、週末は沼津マンションに宿泊している。

好きなプロ野球チームについては、『いいとも!』で藤井フミヤが出演した際、「福岡ソフトバンクを応援しましょう」と言われ「元々は(福岡に本拠地を置いていた)西鉄ファンだったが、西鉄が身売りしてからはどこのファンでもない」と言っていた。

数多くのレギュラー番組を持っているが、休日は日曜日や年末年始から正月に掛けてであり、平日は『いいとも!』・『エチカの鏡』・『ブラタモリ』などの収録など、金曜日は『Mステ』、土曜日は『タモリ倶楽部』と忙しいタレント生活を送っている。また、毎年に行われる『FNSの日』には『笑っていいとも!増刊号生スペシャル』が日曜日の朝から昼に掛けて放送されるために1週間丸々休日がない時がある。

[編集] 事件・事故

[編集] ヨット事故

  • 1990年7月某日、ヨットの柱に額をぶつけた。この事故でタモリは髪型を7:3分けのオールバックから、現在の分け目のないオールバックへ変えた。番組には、額に消毒のテープを貼り出演していた。ちなみにビートたけしがこの事故を語る際、なぜかヨットをボートと勘違いし、タモリに訂正されていた。

[編集] 人身事故

  • 2000年5月6日、東京・目黒区人身事故を起こした。タモリの車が左折した際、右から直進してきたオートバイと接触、オートバイは弾みで別の車にも接触した。運転していた男性と同乗女性が足に軽い打撲。タモリに怪我は無かった。
  • このほか、バイクでの事故経験もある。乗っていたバイクが竿立ち状態になりコントロールできず、無関係の家の垣根を通り抜けて庭に突っ込み、食事中の一家から「どなたですか?」と言われた、とトークで語っている。

[編集] ゴルフ事故

  • 2001年11月4日関東近郊のゴルフ場でプレイ中、ボールがサングラスのつるに当たり、左こめかみ付近を負傷。都内の病院に検査入院。1995年の小型船舶免許取得時以来、6年ぶりの番組欠勤となった。『いいとも』は当時の各曜日レギュラー陣が代役を務め、「ミュージックステーション」ではタモリとともに司会を務めていたテレビ朝日アナウンサー武内絵美(2000年4月 - 2004年3月まで担当)とゲストで歌手KinKi Kidsが司会を務めた。

[編集] 口癖(名台詞)

主に『笑っていいとも!』で使用する。

なお、上記の口癖のうち、一部はあまり使わなくなっている。原因は不明だが、近年コージー富田などがものまねのセリフとして多用したことが影響していると見られる。 またコージー冨田と共演しないのは亡くなったマネージャーの意見を尊重してだと、笑福亭鶴瓶がラジオで語った。

[編集] 評価

当初自分の独特の芸風が壊されるという理由で師匠につかず事務所に入らずの方針で活動していたが、現在の所属事務所田辺エージェンシー社長の田邊昭知が、芸風は自由にやらせるという条件付で自ら直々に口説き落としたという。

現在でこそビデオリサーチの企業などがおこなうタレントの好感度ランキングでは、ビートたけし明石家さんま所ジョージ島田紳助らと共に現在に至っても上位にランクされることも多いが、デビューした1975年から1980年代初頭にかけては、逆に嫌いなタレントランキングの上位を占めていた。

笑福亭鶴瓶はかつて、タモリに「なんで人の笑いを邪魔するのか」と尋ねたことがある。これに対し、「お前やさんまは笑いを取りに行こうとする。それが当たり前になると帯番組はマンネリになる。だから一番山のところで叩く。そうすれば何かを考えるだろう。それがマンネリ解消になる」と答えた。鶴瓶はその予定調和を嫌う態度こそがタモリがトップに君臨する理由と見抜き、「テレビの師匠」として仰いでいると語った(週刊文春2007年8月30日号)。また、初代『いいとも!』プロデューサー横澤彪は、タモリを「これほど、芸人として我のないやつに会ったことない」と語っていた。

[編集] 受賞歴

[編集] 現在の出演番組

[編集] レギュラー番組

[編集] 単発・不定期番組

[編集] 過去の出演番組

[編集] CM

2009年4月より、タモリのレギュラー番組『笑っていいとも!』・『タモリ倶楽部』の番組スポンサーとなっている。

[編集] 映画

[編集] レコード・CD作品

[編集] アルバム

NO. ジャケットタイトル 形態・発売日 品番・発売元 備考
1st タモリ LP:1977年03月20日 ETP-72227(東芝EMI/Alfa) 毛沢東風中国人・マッカーサー風アメリカ人・ヒトラー風ドイツ人・寺山修司風日本人のモノマネによる「四カ国親善麻雀」が収録されているが、元々は寺山修司ではなく昭和天皇のモノマネだった。発売になったのは修正版。
LP:1980年(再発) ALR-4013(アルファ)
CD:1995年06年16日(初CD化) ALCA-9159(アルファ)
CD:2007年12年20日(CD再発)

※初回のみ紙ジャケ仕様

MHCL-1238(Sony Music Direct)
2nd タモリ2 LP:1978年12月20日 ETP-80060(東芝EMI/Alfa) 講師として中州産業大学芸術学部西洋音楽理論の森田一義助教授の音源が収録されている。
LP:1980年(再発) ALR-4007(アルファ)
CD:1995年06年16日(初CD化) ALCA-9160(アルファ)
CD:2007年12年20日(CD再発)

※初回のみ紙ジャケ仕様

MHCL-1239(Sony Music Direct)
3rd タモリ3

- 戦後日本歌謡史 -

LP:1981年9月 TAMORI-3(アルファ) 実際には『タモリ2』以前に録音されており、当初はこの内容が『タモリ2』になるはずだった。戦後の名曲をパロディーにしているため著作権上の疑義が指摘され、初回プレス分の3万5000枚だけを新星堂で限定発売し直ちに絶版という運命をたどる。未CD化。
4th ラジカル・ヒステリー・ツアー LP:1981年05月01日 27AH-1237(CBS/SONY) サザンオールスターズ桑田佳祐が楽曲を提供。CD化の際にシングル「タモリのワーク・ソング」AB面を追加収録。
CD:2007年12年20日(初CD化)

※初回のみ紙ジャケ仕様

MHCL-1240(Sony Music Direct)
5th HOW ABOUT THIS LP:1986年09月21日 VIH-28272(ビクター) 大マジなジャズ・アルバム。LPとCDで一部収録曲が異なる。
CD:1986年09月21日 VDR-1276(ビクター)

[編集] プロデュース

  • 大地真央宝塚歌劇団時代に、タモリが作詞・作曲家を手掛けた。「タモリさんが作った歌」編曲は小笠原寛。CD「この愛よ永遠に~TAKARAZUKA FOREVER~」の1曲に入っている。

[編集] VHS・DVD

[編集] 書籍

[編集] ゲーム関連

  • 「森田一義アワー 笑っていいとも!ボードゲーム」(1985年)
  • 「森田一義アワー 笑っていいとも!タモリンピック」 スーパーファミコン専用ゲームソフト(1994年、アテナ
  • 「タモリのSuperボキャプラ天国 CARD GAME ヤングアダルト向カルタ的 豪華美麗カードゲーム」
(発売元:タカラ、販売元:セントラルホビー

[編集] 関連人物

[編集] 関連項目


[編集] 参考文献・出典

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  1. ^ジャングルTV 〜タモリの法則〜」(毎日放送製作・TBS系列による測定。
  2. ^ 血縁上はタモリの母のおじである。なお、祖父の妻(つまり祖母)と父は血縁上は姉弟である。
  3. ^ 『東芝スーパーサウンドグラフィティ The History of the Radio』(ニッポン放送、1989年1月1日)
  4. ^エチカの鏡〜ココロにキクTV〜』(フジテレビ、2009年2月1日)
  5. ^とんねるずのみなさんのおかげでした』(食わず嫌い王決定戦2007年10月4日放送分)
  6. ^ 前掲書 『タモリのTOKYO坂道美学入門』。
  7. ^ 2008年11月23日放送、エチカの鏡での発言より
  8. ^ 平岡正明『タモリだよ!』P.181
  9. ^ 『ザ・ヒーローズ2 宝島ロング・インタビュー集』(JICC出版局 1983年)
  10. ^ 平岡正明『タモリだよ!』P.182
  11. ^ a b c d e f 中村孝司「タモリ年譜」『クイック・ジャパン vol.41』、太田出版、2002年。
  12. ^ 早稲田大学学生部編「第800号記念 タモリ ロングインタビュー」『早稲田ウィークリー』、早稲田大学学生部、1997年4月17日。
  13. ^ ただし、山下がこの時点でタモリが誰かを知らなかったというのは、山下が意図的に作った「伝説」で、実際にタモリは、昼間に行われた山下らのライブを観に来ており、そこで知人から紹介されていたという。タモリは後に、ホテルの扉を開けなければ、芸能界に入っていないかもしれなかった、と語っており、「人生の扉である」と、上手くまとめている。ちなみに「人生の扉である」とは、ここ数年前に思いついたらしい。 平岡正明『タモリだよ!』P.184参照。
  14. ^ 全日本冷し中華愛好会(個人のサイト)
  15. ^ 全冷中「冷し中華祭り」秘話(個人のブログ。ヒゲタ醤油株式会社のサイトから転載)
  16. ^ 2008年12月26日、徹子の部屋(テレビ朝日系)にて
  17. ^ “タモリ、赤塚不二夫さんへコメント「先生、ありがとうございました」”. スポーツ報知. (2008-08-02). http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20080805-OHT1T00034.htm 
  18. ^ “タモリ弔辞「私もあなたの作品の一つです」”. SANSPO.COM. (2008-08-07). http://www.sanspo.com/geino/news/080807/gnj0808071158018-n1.htm 
  19. ^ “タモリの手には白紙…あふれる感謝そのままに”. スポニチ Sponichi Annex. (2008-08-08). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2008/08/08/02.html 
  20. ^ “タモリに聞いた 「赤塚弔辞」白紙のワケ”. 横澤彪のチャンネルGメン69:J-CAST テレビウォッチ. (2008-08-19). http://www.j-cast.com/tv/2008/08/19025331.html 
  21. ^ http://www.flickr.com/photos/32252476@N04/sets/72157611706808436/
  22. ^ 2009年6月20日放送「EXH」内で、鶴瓶が話したエピソード。
  23. ^ 2009年の26時間テレビ内『笑っていいとも!増刊号』での『テレフォンショッキング』にて、22年前(1987年)に紳助がゲスト出演した際の写真が出された。
  24. ^ 2008年の27時間テレビ内『笑っていいとも!増刊号』での『テレフォンショッキング』にて、1993年当時の写真が出された。
  25. ^ 2009年8月4日放送『笑っていいとも!』のコーナー『テレフォンショッキング』より
  26. ^ (2008年7月27日FNS27時間テレビ!! みんな笑顔のひょうきん夢列島!!より)
  27. ^ 2008年放送ビートたけしの今まで見たことないテレビ事前インタビューでたけし自ら証言。
  28. ^ 2009年4月7日放送分「テレフォンショッキング」において
  29. ^ 太陽 1995年 No.409 特集・植草甚一平凡社)P.76 タモリの談話
  30. ^ 「タモリ倶楽部」での自身の発言。なお平面交差およびデッドセクションは福岡市内線廃止により消滅。
  31. ^ 2009年1月31日放送『50時間テレビ SMAPがんばりますっ!!』出演時に発言
  32. ^ その他の2回は北野が2回優勝する。もっとも、たけし・さんまは「(1988年の初回は)タモリを勝たせるための接待ゴルフだった。」と語る。

[編集] 外部リンク

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