タモリ

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タモリ
本名 森田 一義
(もりた かずよし)
ニックネーム タモさん、タモちゃん
生年月日 1945年8月22日(66歳)
出身地 日本の旗 日本福岡県福岡市南区
血液型 O型
身長 161cm
方言 共通語博多弁
最終学歴 早稲田大学第二文学部西洋哲学専修
師匠 赤塚不二夫
山下洋輔(先見人)
グループ名 面白グループ
芸風 漫談
ものまね など
事務所 田辺エージェンシー
活動時期 1975年 -
同期 関根勤 など
現在の代表番組 笑っていいとも!
笑っていいとも!増刊号
ミュージックステーション
タモリ倶楽部
ブラタモリ 他多数
過去の代表番組 タモリのオールナイトニッポン
今夜は最高!
タモリのボキャブラ天国
ジャングルTV 〜タモリの法則〜
タモリの音楽は世界だ! 他多数
作品 CD 「タモリ」
CD 「タモリ2」
CD 「タモリ3 - 戦後日本歌謡史 -」
CD 「ラジカル・ヒステリー・ツアー」
CD 「タモリのワーク・ソング」
CD 「狂い咲きフライデイ・ナイト」
著書 「タモリのおじさんは怒ってるんだぞ!」
著書 「タモリのTOKYO坂道美学入門」 他多数
他の活動 日本坂道学会(副会長)
配偶者 既婚
親族 伊佐山ひろ子(遠戚)
公式サイト TANABE AGENCY.Co.Ltd.
受賞歴
1981年 第10回「ベストドレッサー賞スポーツ芸能部門受賞
1982年 第19回「ゴールデン・アロー賞」芸能賞受賞
1984年 第21回「ゴールデン・アロー賞」放送賞受賞
・1984年 第12回「日本放送演芸大賞」受賞
1986年流行語大賞」受賞
・1986年 「ゆうもあ大賞」受賞
2003年ギネス・ワールド・レコーズ
(2003年度版『いいとも!生放送単独司会最高記録受賞)
2010年 第2回「伊丹十三賞」受賞

タモリ1945年〈昭和20年〉8月22日 - )は、日本お笑いタレント司会者俳優ラジオパーソナリティー作詞家作家実業家。本名、森田 一義(もりた かずよし)。

福岡県福岡市出身。田辺エージェンシー所属。身長161cm[1]女優伊佐山ひろ子とは遠戚。

目次

[編集] 概要

地元の福岡県で保険外交員、喫茶店従業員、ボウリング場支配人など様々な職業を経て、ジャズピアニストの山下洋輔(先見人)や赤塚不二夫らと出会ったことなどをきっかけに上京、30歳で芸能界入りを果たした。

1980年代後半以降、ビートたけし明石家さんまと共に、日本お笑い芸人ビッグ3」の一人として認められている。

所ジョージとんねるず石橋貴明木梨憲武)などを見出した一人でもある。

現在では司会業が中心で、中には『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系列)、『タモリ倶楽部』『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)といった20年以上続くレギュラー番組が複数ある。

司会者として聞き手に回りながらも、相手の何気ない一言を即席の持ちネタにし、話の節目やオチで効果的に連呼し使用する特徴があり、自ら「省エネ司会」「エコ司会者」と言ってはばからない[2]。特に『いいとも!』の司会者として知られ、同じ司会者による最長寿テレビ番組としてギネスブックに登録されており、2012年現在においても記録を更新している。特定の師匠や修行経歴を持たず、素人芸を極めて一家を成した。また、料理や船舶、鉄道、坂道等と多芸・多趣味で知られる。また、それらの知識を駆使して独特なユーモアを創り出している。

森田一義アワー 笑っていいとも!』『笑っていいとも!増刊号』や『笑っていいとも!特大号』『笑っていいとも!春・秋の祭典スペシャル』『夜の笑っていいとも!春・秋のドラマ特大号』といった『いいとも!』のスペシャル版では本名の「森田一義」を用い、他の番組では芸名の「タモリ」で活動している(芸名の由来は芸名(愛称)の項参照)。

視聴者や観客は全員馬鹿と思っている」と過去に語っている。それゆえ、緊張することも全くない。

[編集] 来歴・経歴

[編集] 幼少時代

1945年8月22日福岡県福岡市、現在の南区に誕生する。

本名は「一義」だが生まれる前までは「義一」と名付けられる予定だった。占い師から「義一」では頭でっかちな子が産まれると言われたため、「一義」になった。これは血の繋がりのない祖父[3]が、尊敬している田中義一元首相にあやかって名付けようとしたが、「畏れ多い」と名を逆にしたもの。後年、タモリは「俺は姓名ともに逆さにされたからひねくれてんだよな」と語っている。タモリの家は関係が複雑で、まだ会ったことのない妹もいるという。

本人曰く、幼少より大人びており、「偽善」という言葉を知っていたと語り、幼稚園入園時期が迫り、園を見に行ったおり「ギンギンギラギラ夕日が沈む(童謡『夕日』葛原しげる作詞・室崎琴月作曲)」を両手を回転しながらお遊戯している園児達を見て、入園を拒否[4]。小学校入学に至るまで、毎日、一日中坂道に立って人間観察を行っていた。また「5歳が俺の精神的ピークだったんだから」と、冗談めかして語ってもいる[5]。このため坂道好きとなり、後に「日本坂道学会」を設立している。

小学3年生の時、下校途中に電柱のワイヤに顔をぶつけ、針金の結び目が右目に突き刺さって失明。2ヶ月休校して治療したものの、視力は戻らなかった[6]

小学5年生の頃、予餞会(卒業生を送る会)で「喜劇カラス天狗」の台本を書いて披露したが、受けなかった。だが、脚本家として活躍している同級生と再会した際、「面白かった」と評された。スポーツにも興味があり、野球をやっていた。現在はラグビーなどのスポーツ観戦も興味があるという。

小学生の頃、祖母に「今の内から男も料理をするようにならないと、後々奥さんがいざと言う時に困るでしょ。私が料理をしている姿を見ていなさい」と言われ、毎日祖母が支度する姿を見ていたことが料理を始めたきっかけだという。この頃のことをタモリは「小学生時代は、学校から帰ると暇でテレビゲームもなければ、習いごともなく、人を見ているか、坂道を見たり、船を見たり、(祖母の料理支度の見学は)暇つぶしにはもってこいだった」と述懐している。そして、大学生時代に、余り金銭面にも余裕がなく、友人らと料理を作ろうとするとタモリ一人が大体の料理は出来て、だしの取り方まで全部覚えていたと語っている。

[編集] 中・高校時代

中学時代から4年間、近所のバプテスト派のキリスト教会に通ったという。本人曰く「牧師を芸人のように見ていた」とのこと[7]。船が好きで、良く地元の港に行って船をずっと見ていた。そこで、どこの船なのかを全部知っていたとも話している。中学3年間は丸刈り頭であった。剣道と陸上競技を行っていた。

高校時代には、吹奏楽部でトランペット兼司会を担当。アマチュア無線クラブにも入っていて、船の無線通信士にもあこがれた。さらに居合道場にも通い、二段を取得した[8]

福岡市立高宮中学校福岡県立筑紫丘高等学校を卒業後、1年間の浪人生活を送る。福岡市立高宮中学校の後輩には歌手の氷川きよし、タレントの博多華丸博多華丸・大吉)、森口博子、歌手の高橋真梨子らがいる。この人物らと競演すると必ず地元の話でトークが盛り上がる。

大学浪人中はしばしば押入に潜り込み、韓国中国からのラジオ放送を長時間聴いていた。これが「藤村有弘以来」と言われた、「六ヶ国語マージャン」などの「インチキ外国語芸」へとつながった。また、座禅を組んでトリップ状態を経験したこともある[9]

[編集] 大学時代

1年間の浪人生活を送ったのちに、1965年早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学[10]。その後学費未納のため抹籍処分となる[11]

早稲田大学第二文学部部西洋哲学専修在学中はモダン・ジャズ研究会に在籍し、トランペットを演奏。同期に増尾好秋、1年先輩には鈴木良雄らがいた。「マイルス・デイヴィスのラッパは泣いているが、お前のラッパは笑っている」などの批評を受け、主にマネージャー・司会を担当することになった。このことは、後の話芸の基礎ともなった。学生バンドの司会としてTBSラジオの番組「大学対抗バンド合戦」に出演し、MCの大橋巨泉からその才能を認められている。そこで、タモリが初めて出会った芸能人は大橋であった。また、別な機会のある時、大橋がしゃべる後ろで裏方としてドラムの機具の設置をしていたのだが、大橋の話に区切りが付いたところで金槌で「トントトトントン、トントン」と叩いてみたところ客が爆笑し、大橋自身は客がなぜ笑ったのかわからなかったという(『いいとも!』より本人談)。

大学2年次の5月の連休、友人2人と旅行を計画し、学費用に仕送りされた資金を旅行用に一旦充てたが返済されず、自分の授業料が払えなくなったため、早稲田大学を去った。3年次に学費未納のため抹籍という処分となった[6]。ただし、モダン・ジャズ研究会のマネージャー役は続行し、かなりの収入を得ていた[10]

[編集] デビュー以前

1968年に帰郷。保険外交員(朝日生命)時代は営業成績がトップクラスであり、表彰されたこともある。この時期に同僚の一般女性と結婚した。喫茶店の雇われマスターだった頃には、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。

[編集] 芸能活動

[編集] デビューのきっかけ

タモリ自身「30歳までは何をやってもいいが、30歳からはちゃんとしたことをやっていかなければならない」と考えて自分はお笑いの道に向いていると確信し、芸能界入り。

きっかけは、ジャズピアニストの山下洋輔との出会い。1972年、タモリが大分県日田市のボウリング場支配人だった時に始まる。当時の山下は、ライブ後ホテルで乱痴気騒ぎをすることを常としており、渡辺貞夫のツアーメンバーの一人として福岡を訪れた際も同様であった。

サックス奏者(資料によっては、ドラムス奏者とする場合もある[10]がこれは間違い)の中村誠一が部屋にあったゴミ箱を頭にかぶり、メンバーで歌舞伎の踊りや狂言など虚無僧ごっこをして遊んでいた。タモリは、渡辺貞夫のマネージャーと学生時代の友人同士であったために同じホテルで飲んでいたところ、廊下まで響くその騒ぎを聞きつけ、鍵の開いていた部屋へと乱入し、ゴミ箱を取り上げて自ら歌舞伎を踊り始めた。中村は、その非礼をインチキ朝鮮語でなじったところ、タモリがそれより上手なインチキ中国語で返答したために、意気投合したという。後日、「この男はジャズ・ファンに違いない」と確信した山下らジャズメンが、博多のジャズバーに片っ端から問い合わせた結果、とあるジャズバーで発見された。ただし、山下がこの時点でタモリが誰かを知らなかったというのは、山下が意図的に作った「伝説」で、実際にはタモリは、昼間に行われた山下らのライブを観に来ており、そこで知人から紹介されていたという。タモリは後に、ホテルの扉を開けなければ、芸能界に入っていないかもしれなかった、と語っており、「人生の扉である」とまとめている。ちなみに「人生の扉である」とは、ここ数年前に思いついたらしい[12]

その後、新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」の常連(奥成達高信太郎長谷邦夫、山下洋輔、森山威男坂田明三上寛長谷川法世南伸坊ら)で結成された「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」のカンパによって、1975年6月に上京を果たす[10]。開かれた独演会では「四ヶ国語麻雀」や、「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が、宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」などのリクエストを含めた即興芸を披露し、筒井康隆唐十郎ら臨席した全員を感動させる。タモリの芸は奥成達から「密室芸」と命名された。

臨席したうちの一人である漫画家の赤塚不二夫は、「この男を博多に帰してはいけない」と引き留め、自らの家に居候させた。後にプロデューサー的にタモリを売り出し、しばしば一緒に仕事をした高平哲郎にも、しばらくして「ジャックの豆の木」を見せ、意気投合している。作家の阿佐田哲也は、タモリと赤塚が裸で抱き合っているバカ騒ぎの場面に出くわし、その様子を自身の小説の中で描写した。初期の真ん中分けの頭にアイパッチという姿は、カメラマンの浅井慎平が「サイレント映画の大スター、ルドルフ・バレンチノ風にしよう」と、スタイリングしたもの。

バーでの一件の直後、赤塚が出演する『赤塚不二夫の世界』(NET〈現・テレビ朝日〉)の生放送にそのまま連れて行かれ、インチキ牧師などのパフォーマンスを演じさせたところ、たまたま、当番組を見ていた黒柳徹子から「今の人、誰? すごいじゃない」とその夜のうちに照会があったそうで、彼女の感性の鋭さに感心した、と赤塚がコメントしている。その直後、芸能界入りの前のサラリーマン時代に『徹子の部屋』(テレビ朝日系列)に初出演。

タモリの赤塚不二夫宅での居候生活は、住居は家賃17万円で4LDKのマンションであり、車はベンツのスポーツタイプが乗り放題、赤塚からは月に20万円の小遣いが渡される、という破格のものだった[10]。赤塚本人は、下落合の仕事場のロッカーを倒し、布団を敷いて寝ていた。赤塚以外ではこんな関係は成り立たなかっただろう、とタモリも認め、大恩人だと語っている。ちなみに赤塚は、自著の漫画で、「これだけ一緒に暮らしているんだから愛し合うことも出来るんじゃないか」と、2人で同性愛に挑戦して抱き合ったが、全く興奮せず、何もなかったと描いており、タモリも同様の趣旨の発言をしている。タモリが考える居候の秘訣は、「卑屈になるな」。

[編集] 芸能界入り

1975年、30歳で芸能界入りする。東京12チャンネル(現:テレビ東京系列)の深夜番組空飛ぶモンティ・パイソン』内のタモリ専用のコーナーで芸能界デビュー。その後、日本テレビ系列の棚次隆プロデューサーの目に留まり、『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系列)でレギュラー出演の座を獲得し、『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)で人気を不動のものとする。

ばらえてい テレビファソラシド』(NHK)では、人気を得ていたとはいえ毒のあるキャラクターから、制約の多いNHKには不向きと思われていたが、タモリのインテリジェンスが番組の性格と一致するということ、そして進行役の永六輔の後押しもあり、番組に起用される。当初はゲスト出演で、得意のハナモゲラ語スキャットで女性アナウンサーと絡んだり、イグアナの物真似をしていたが、その後、レギュラーとして定着。番組後期は、永六輔とともに『ばらえてい テレビファソラシド』の顔的存在となった。

この番組では、タモリと加賀美幸子アナウンサーという全く違うタイプの2人がコンビを組み、ペアで司会をすることもあった。永は放送当時、タモリと加賀美アナウンサーのコンビによって、バラエティに必要な「意表をつく楽しさ」が生まれる、と発言。2人のコンビネーションの良さも、番組の魅力となり人気を呼んだ。

なお、この番組の終了後も、NHKでは1980年代に『ウォッチング』で司会を務めたほか、『第34回NHK紅白歌合戦』(1983年)では総合司会を務めている。その後の約20年間はNHKへの出演は特集番組などのみであったが、2008年からは冠番組である『ブラタモリ』がスタートした。

[編集] 人気番組の誕生

1981年4月4日に『今夜は最高!』(日本テレビ系列)が始まり、1982年10月4日より『森田一義アワー 笑っていいとも!』(フジテレビ系列)、同年10月8日からは『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系列)、同年10月24日からは『笑っていいとも!増刊号』(フジテレビ系列)、1986年10月24日からは『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)でメイン司会を務める。一連の番組で、司会者としての能力の高さ、ゲストのあしらいの上手さが評価されるようになった。

タモリが持った番組は他に『タモリの音楽は世界だ!』(テレビ東京系列)、『ジャングルTV〜タモリの法則〜』(毎日放送制作・TBS系列)、『世にも奇妙な物語』『タモリのボキャブラ天国』『タモリのネタでNIGHTフィーバー!』『タモリの新・哲学大王!』『タモリのジャポニカロゴス』(フジテレビ系列)、『タモリの週刊ダイナマイク』『ブリタモリ大百科事典』(ニッポン放送)、『ブラタモリ』(NHK)などがある。

[編集] 面白グループ結成

1977年には赤塚不二夫滝大作高平哲郎らと『面白グループ』を結成する。週3回以上の宴会を催し、その成果を何らかの方法で発表することを目的にした団体である。坂田明内藤陳小松政夫団しん也たこ八郎三上寛研ナオコ柄本明所ジョージ、ブレイク前のアルフィーや、劇団東京ヴォードヴィルショーのメンバーも参加。一時はビートたけしも参加していた(当時のたけしはタモリの芸風を嫌って、すぐに脱退した)。

1979年には『ケンタッキー・フライド・ムービー』の日本版として作られた、山本晋也監督のコメディ映画『下落合焼とりムービー』に所ジョージやアルフィーらとともに出演した。同年、渋谷公会堂で「第一回いたいけ祭り」という、タモリや赤塚の「宴会芸」を見せるイベントを行う。また、面白グループ名義で、当時ヒットしていた女子大生二人が執筆した書籍『ANO・ANO(アノアノ)』のパロディ本、『SONO・SONO(ソノソノ)』を刊行。その年のベストセラーになった。

[編集] 全日本冷し中華愛好会

1975年1月に、山下洋輔が、冬に冷し中華を食べられないことに憤慨し、SF作家である筒井康隆中州産業大学教授の肩書であるタモリもともに参加し、「全日本冷し中華愛好会」(全冷中)[13]という団体を立ち上げ、「第1回冷し中華祭り」(1977年4月1日有楽町読売ホール)、「第2回冷し中華祭り」(1978年4月26日、平和島レジャーランド)[14]を開催した。初代会長は山下洋輔であり、第1回目の「冷し中華祭り」の場で、筒井康隆が2代目の会長に就任。

1975年9月1日に、会報「冷し中華第1号」を発行。その内容は『空飛ぶ冷し中華』(住宅新報社1977年4月)『空飛ぶ冷し中華 part2』(住宅新報社、1978年6月)にまとめられた。執筆者は、山下洋輔を筆頭に、タモリ、赤塚不二夫筒井康隆奥成達平岡正明坂田明河野典生上杉清文堀晃黒鉄ヒロシ赤瀬川原平高信太郎長谷邦夫南伸坊末井昭長谷川法世高平哲郎朝倉喬司らといった面々だった。「全日本冷し中華愛好会」は1979年に解散した。

[編集] オールナイトニッポン

1976年10月から1983年9月までラジオ番組で『タモリのオールナイトニッポン』(水曜1部、ニッポン放送)に生出演し、当時人気だったオフコースや、フォーク歌手のさだまさしアリス名古屋及び名古屋人、作家の五木寛之などを揶揄し、ファンと対立。オフコースについては「軟弱なフォーク、根暗なヤツが聞く音楽」、さだまさしは「女々しい、わざとらしい、歌よりトークが長い」アリスは当時行なわれたハンド・イン・ハンド運動(谷村新司が提唱し、音楽ファンのための音楽ホール「シアター・フレンズ」建設を合言葉にした募金運動)を「もてない根暗ファンの自己満足」、そして名古屋と名古屋人は「東京と大阪に挟まれ独特のコンプレックスがある、田舎なのに都会ぶる、人間がずうずうしい、エビフライをごちそうだと思っている、名古屋弁は響きが汚い」、五木寛之は「文化人づらをして、自分が書いた作品に出演する女優をくどいてばかりいる」評した。その他、『いいとも!』では明石家さんまとともに佐賀県をこき下ろす発言を繰り返した。

番組内で「根暗」という言葉を発明。タモリは「こう見えて、オレは根が暗いから」等と「表面的に明るいが、根は暗い人」という意味で使用していたが、世間的には「根っから暗い人」という意味で、「ネアカ」「ネクラ」と対比されて、悪口として流行した。

[編集] 『いいとも!』以降から現在

1982年10月4日からフジテレビ系列の平日正午からの生放送バラエティ番組『笑っていいとも!』の総合司会に就任。この番組で人あしらいのうまさと知性を買われるようになる。以降は各種バラエティ番組の司会者としての活動が主となり、1980年代初頭までの個人芸をテレビ番組で見る機会は少なくなる。

『いいとも!』におけるタモリの起用理由については、当時プロデューサー(初代)の横澤彪が「夜の顔だったタモリをあえて昼にもってきて意表をついた」と語っている。そのため当初は視聴者にとって違和感のある人選だったが、番組はヒット。

1986年に4周年を迎え放送1000回、1990年に8周年を迎え放送2000回、1994年に12周年を迎え放送3000回、1998年に16周年を迎え放送4000回、2002年に20周年を迎え放送5000回、2006年に24周年を迎え放送6000回、2010年に28周年を迎え放送7000回を達成した。

[編集] 紅白歌合戦

1983年には、デビュー8年目にして『第34回NHK紅白歌合戦』(NHK)の総合司会を務める。NHKアナウンサー以外で紅白の総合司会を務めたのはタモリが初めて。

総合司会を担当した際、オープニングで『いいとも!』風に観客に呼びかけた(詳細は『第34回NHK紅白歌合戦』参照)。この回では白組の優勝となったが、番組の最後に出演者が手を振っている中、白組司会の鈴木健二が持っていた優勝旗が不意にもタモリの顔を隠してしまい、タモリは振っている手の先しか映らない状態でのエンディングとなった。この時のことをタモリは『徹子の部屋』の中で「(『気くばりのすすめ』の著者の)素晴らしい気くばりでした」と語っている[15](ちなみに紅組司会は黒柳徹子であった)。

[編集] BIG3

ビートたけし明石家さんまとともに「BIG3」と呼称されたが、『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』、『タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀のゴルフマッチ』(両方はフジテレビ系列)などの番組終了後、2012年現在は「BIG3」を冠した番組はない。

2008年度にタモリ・たけし・さんまが日本テレビ開局55年記念として3夜連続でバラエティ番組に登場した(タモリは『タモリ教授のハテナの殿堂?』に出演)。

“BIG3”の歴史を語る上で、欠かすことのできない人物が、元フジテレビアナウンサーの逸見政孝である。ちなみに1993年度の『NHK好きなタレントランキング』ではタモリ、たけし、さんま、所、そして逸見の5人がベスト5を占めていた。

[編集] ラジオ

オールナイトニッポン以降もラジオ出演はしており、『いいとも!』のスタート以降もナイターオフシーズン(冬季)に『タモリの週刊ダイナマイク』『ブリタモリ大百科事典』『だんとつタモリ おもしろ大放送!』(ニッポン放送)などの番組を持った。

2005年に起きたライブドアによる一連のニッポン放送に関する騒動に対し、「仮にニッポン放送がライブドアに買収された場合は、ニッポン放送への出演を取りやめる」と所属事務所を通じて公言したが、この事件が解決したことで、同年秋からは『ブリタモリ大百科事典』にレギュラー出演した。この番組以降、2012年現在は毎年、冬季に放送されていたラジオのレギュラー番組は持っていない。

[編集] 恩人である赤塚不二夫の死

2008年8月2日、タモリの才能を見抜き、地元・福岡から上京させて、自宅マンションに居候までさせた漫画家・赤塚不二夫が逝去。死去の2日後に事務所を通じて追悼のコメントを発表し、「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉も載せた[16]

同年8月6日の赤塚の通夜、及び8月7日の葬儀・告別式に参列。その告別式では「私もあなたの数多くの作品の一つです」との弔辞を読み上げた[17]。この弔辞は7分56秒にも及ぶものであり、手にしていた紙を何度も見ながら時折涙声で読んでいたが、実際にはその紙は全くの「白紙」で、何も書いていなかったとの報道が一部でなされた[18]

なお、横澤彪によると、後日行われた『いいとも!』スタッフの通夜でタモリと会っており、横澤が尋ねるとこの事実を認め、前夜に書こうとしたが面倒になったので勧進帳のギャグをやることにしたとのこと。ちなみにオチは「自分のマネージャの名前がトガシ」だから(詳細は勧進帳、および原作の安宅の項をそれぞれ参照)[19]

[編集] プロデューサー横澤彪

2011年1月8日、『いいとも!』初代プロデューサーを務めていた横澤彪肺炎のために亡くなった。タモリは「夜の番組しか出演出来ないと言われていた私をいきなり昼の真ん中に起用してくれました。私自身は昼も夜も意識したことはありませんでしたが、私で大丈夫なのかと不安でした。『笑っていいとも!』は今秋30周年を迎えます。大変お世話になりました」とコメントを寄せ、恩人の死を悼んだ。葬式や通夜には参列しなかったが、1月12日に横澤の自宅で対面した。[20]

また、タモリ・たけしさんまの「BIG3」を人気者へと押し上げた一人でもあった。

[編集] 人物像

[編集] 性格

  • 座右の銘は「適当」「現状維持」「やる気のある者は去れ」など多数。
  • 好きな言葉は「妄想」。
  • 仕事も何でも「反省はしない」。「反省ばかりしてるとバカバカしくてこれから先、やっていけない」「過去を振り返らない」と語る。自ら出演している番組は恥ずかしくて一切観ない。『週刊朝日』の取材に答えた際、『いいとも!』の長寿の秘訣について、「番組についての反省を一切しないこと」と述べている。

芸能界入りする際、次の4つの戒律を自らに掲げた[22]

  1. だれの弟子にもならない
  2. 組織には属さない
  3. 頭をなるべくさげずにカネをもうける
  4. 色紙にサインをするときは、名前の横に添えるモットーのようなものは持たない

[編集] 適当さ・ゆるさ・自由さ

やる気の無さや収録の適当さを前面に出している。あまりのやる気の無さに時折「やる気を出せ〜」「ちゃんと司会やって下さい!」「しっかり!」などと突っ込む共演者にも、「俺は名前を貸しているだけだ」と全く悪びれない。

一部では「多くの番組を持つタモリは番組の収録を一番楽しんでいるのではないか?」と言われている。スタッフによれば「タモリさんの肩の力を抜いたスタンスだからこそ20年以上も多くの番組が長続きしており、長寿番組を数多く持っている」のだという[23]

[編集] 芸名(愛称)

芸名である「タモリ」は、本名の「森田」の前後を入れ替えたもので、元々は学生時代の愛称である。

通常、多くの著名人からは“タモリさん”“タモさん“と呼ばれる。タモリを見出した赤塚不二夫山下洋輔大橋巨泉ら年配の先輩芸能人からは「タモリ」と呼ばれ、和田アキ子愛川欽也おすぎピーコ片岡鶴太郎間寛平といった親しい芸能人からは「タモちゃん」と呼ばれている。

トリビアの泉〜素晴らしきムダ知識〜』(フジテレビ系列)で品評会会長に就任以降、共演していたトリビアプレゼンター(司会)の高橋克実八嶋智人、品評会会員のビビる大木の3人からは「会長」と呼ばれている。

SMAP中居正広からはごくまれに「森田さん」「一義」と本名で呼ばれ、丹波哲郎からは「座長」と呼ばれていた。1980年代前半までは、映画に「タモリ一義」名義で出演したことがあった[24]

「お昼の顔」や「夜の顔」「大物司会者」「大御所」とも呼ばれている。

[編集] 身体的特徴

小柄であり、「年を取ってくると背が縮むんだよ」とよく言っている。なで肩であり、ショルダーバッグなどを肩に掛けるとすぐにズレ落ちると自ら語る。小学校時代のあだ名は「矢印」だったという。身長を上にサバを読むことがあり、他のタレントと背を比較する時には「俺が182cmあるから」「昔は180cm以上あってわざと整形してお笑いサイズにしたんだよ」「180cmあったんだけど年がいって縮んだんだ」「遠近法で小さく見える」などと、ウソをつく。髪型はデビュー当時、真ん中分けにし、『いいとも!』出演時は番組開始時から7:3に分け、1990年の事故をきっかけに、現在のオールバックに至っている。

自ら肌が綺麗なことや肌が白いなどと主張している。両腋毛は2本しかない「オバQ」だと言っている。

芸能界で1、2を争うほど腕相撲が強いという。

[編集] 芸風

番組内でよく「俺は昔○○(例えばダンサー、歌手、外国籍、モデル 、ラッパー、子役など)だったんだよ」といった冗談を言う。特に、「俺はジャニーズシニアの一員だ」「俺は『ZOO』にKAZU(カズ)の名前で所属していた」などとコメントするのがお約束となっている。zooの件はZOO解散前の最後のテレビ出演となった『ミュージックステーション』において、タモリも曲中のダンスに参加したことに由来する。また、元ZOOのHIROがリーダーを務めるEXILEで新メンバーを募集した際には、『ミュージックステーション』にて自ら「KAZU」の加入を推奨していた。

特徴のある芸能人や素人(一般出演者)、効果音やBGMなどをすぐにそこで覚え、ものまねをして披露したり、同じく特徴のある芸能人や素人の顔フリップボードなどに似顔絵として描いており、似ていることが多い。

テレビドラマや映画の長文の長くて読みにくい題名になると、無理矢理短文にしたり、アルファベットの頭文字をとって略したりする。

芸能界デビュー当時は、あまりの過激さから、「ゴールデン番組には出演させてはならない」と、密室芸人の異名を持っていた。タモリは自ら「今で言う江頭2:50みたいな存在だった」と言っていた。

「戦後最大の素人芸人」を自称していたデビュー当時は、常にアイパッチを使用していた。お笑いタレントでありながら愛想笑いやヨイショ芸をせず、どこかインテリ風で何を考えているか分からないという革命的な芸風だった。サブカルチャー好きの若年層には好評を博すが、中高年層には強い印象を与えつつも「薄気味が悪い」と不評だった。「恐怖の密室芸人」という評も与えられていた。

ザ・ベストテン』(TBS系列)に久米宏の臨時司会者として出演したことがあり、この際に当時アイドルであった田原俊彦をネタにしたことで、ファンからの抗議が殺到した。『ザ・ベストテン』の司会者の一人であった黒柳徹子とは親交が深く、『徹子の部屋』(テレビ朝日系列)では、年末最後の放送にタモリが必ずゲスト出演し、新作モノマネ(密室芸)を披露するのが恒例になっている。

[編集] 密室芸

デビュー当時の芸を「密室芸」と称し、「中洲産業大学芸術学部・西洋音楽理論教授」や「タモリ教授」、「森田一義助教授」といった架空の肩書きをしばしば名乗り、「ハナモゲラ語」「イグアナのモノマネ」「4カ国親善麻雀」などを披露するというものだった。当時はあまりモノマネの対象とされていなかった朝鮮語北朝鮮のアナウンサー)やベトナム語も取り上げている。

特に評価の高いモノマネに「寺山修司」がある。これはしゃべり方や身振りの模写のみならず、話す内容自体はタモリ自身が考えたものでありながら「いかにも寺山修司が語りそうな物言い」をするという点(寺山自身が生前「喋る内容や論理の組み立て方が〈自分と〉同じである」と語っていた[25])で画期的であり、それ以前の政治家のモノマネや歌手の歌真似を中心とする「声帯模写」芸とは題材やアイデアの面で一線を画し、後の「モノマネ」に多大な影響を与えた。

こうした芸は「思想模写」と称され、レパートリーとして「野坂昭如」や「竹村健一」などがあった。他では田中角栄大橋巨泉永六輔横井庄一浦辺粂子久米明安藤忠雄など他多数存在する。このタモリの密室芸は、『徹子の部屋』の年末のゲスト出演で、黒柳との打ち合わせ(練習)もなく本番、一発勝負で披露している。筒井康隆は「奇人タモリの演じる文化人たちの物真似が受けるのは、何を言っているのかわからないことは本物とまったく同じでありながら、何よりも本物より面白いことだけははっきりしているからである」と評する[26]

モノマネでは他に、麻生太郎(衆議院議員・元内閣総理大臣)の口と声マネ、森山周一郎(声マネ)、滝口順平(声マネ)、笑福亭鶴瓶石原良純おすぎ&ピーコ三宅裕司横山弁護士GACKTDAIGOボビー・オロゴン渡部陽一コカドケンタロウロッチ)のアゴまね、生まれたての子馬、ハゲタカの着地、バグパイプ、携帯電話のバイブ、ジャングルにいるオランウータン、毛玉が喉に詰まった猫、童謡の女性の歌い方、トロを食う男、ハエ、ハイエナ、コンドルの着地など、多彩なレパートリーがある。

[編集] 著名人との芸

  • 片岡鶴太郎と共演する際には、タモリと「キューちゃん」のマネを必ず行う。ちなみにこれは『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島』(フジテレビ系列)に出てきた九官鳥がモデルとなって現在でも続いている。
  • 間寛平がゲスト出演した際にも、お互いに猿の真似をしながらスタジオ中を駆け回るのが恒例の芸である。
  • 小松政夫とは「製材所」というネタを、しばしば披露する。

[編集] サユリスト

サユリスト吉永小百合愛好家)」の一人として知られる。吉永と同年齢(学年は、早生まれの吉永が1つ上)のタモリは、早稲田大学第二文学部においては吉永と在学時期が重なっており(タモリは西洋哲学専修、吉永は西洋史学専修)、戸山キャンパスの学生食堂で吉永と遭遇した際、彼女が食事を済ませ立ち去った後に、食べ残した食パンの端を見つけて食べたい衝動に駆られ、理性と欲望の狭間でしばし様子をうかがったが、勇気がなくて結局あきらめたという。現在に至るまでサユリストを貫いている。 タモリ自身は、司会を務めていた『今夜は最高!』などの番組で共演したことがある。だが、長年司会をしている『いいとも!』の通算7000回を超える「テレフォンショッキング」には、2012年現在においても、出演したことがない。 同じく「サユリスト」として知られる野坂昭如に対して、「あの人は一時、山口百恵に走ったが、俺は小百合サマ一筋」と、述べた[要出典]

[編集] トレードマークのサングラス

1975年のデビュー当時は、眼帯(アイパッチ)を着用してテレビやラジオにCM、CDのジャケットなどに出演していたが、後に1978年頃から主に黒色のサングラスを使用し始め、『いいとも!』が始まって以降は、主にレイバンサングラスのみを使用し、2012年現在に至るまでタモリのトレードマークとなっている。サングラスのコレクションは30〜40種類は所持していて、実際に使用するのは1つか2つ程度。

昼の帯番組ではイメージが良くないという配慮からサングラスのみを使用した。『いいとも!』開始当初から1990年最初までと1991年から1996年までの頃は「昼の番組で真っ黒なサングラスはいかがなものか?」という理由から目元がほぼ見える薄茶色のサングラスを着用していた。

[編集] カツラ疑惑

デビュー当初はディップ(整髪料)で固めて、頭の真ん中分けで、中州産業大学教授を演じる時のみボサボサとした髪型にしていた。その後『いいとも!』のみ、ディップで固めた7:3分けで出演していた。当時を振り返りタモリは「多忙により頭を洗う時間がなく、かゆかった」とコメントしている。 自らが所有するプレジャーボートに乗り移ろうとして東京湾の岸壁から転落し、「頭部に裂傷を負った」と1990年8月頃から髪型を現在のオールバックに変更。それまでの整髪料で固めたヘアスタイルとは明らかに異なるボリューム感が出ており、各メディアなどからカツラ疑惑が持たれるようになった。

カツラ疑惑は周りが作り出した噂であり、タモリ本人もよく語る「笑いのネタ」である。しかし、カツラ疑惑が流れた当時、タモリが『いいとも!』本番中に「髪引っ張ってみてよ」と明石家さんまに言ったが、さんまが「本当にカツラだったらどうしよう」と迷った挙句、引っ張らずに遠慮したため、再び世間に広まってしまったと言うエピソードがある。

「薄くなってきた」「被っている」「カツラ」などの言葉に対して、年を増すごとに敏感になっている。タモリ自身も髪の毛が「不毛地帯になってきた」と言い、髪の毛の量が比較的多い芸能人に対して「うらやましいなぁ」「少しで良いんで分けてもらいます?」「ムカつく程に毛がありますねぇ」と発言している。

ディップ時代の映像や写真が出された際、「過去と現在」を比較され[27]、明石家さんまや島田紳助から「増えてる!」と言われた。

[編集] 安産祈願の神様

ネタのひとつとして、タモリは、安産祈願の神様などと言われている。もともと、「テレフォンショッキング」で紹介されたゲストへのメッセージのメモをとるふりをしていたが、本当にとっているわけではなく、放送禁止の女性器を簡素化した図形を描き、ゲストに見せて、その反応を楽しんでいた。次第に、その図柄にちなみ安産祈願と称しそのメモをゲストが持ち帰るようになった。

現在でも、タモリの持つ番組などで身近に出産を間近にしている著名人(女優)等に書いている場面があり、その際、「安産スッポン!」なる言葉を口にすることもある。安産祈願第1号は、坂東三津五郎(当時・坂東八十助)の長女。タモリは「4人の逆子を治したことがある」「安産祈願の成功率は90%だ」という[要出典]

[編集] ミュージカル嫌い

ミュージカルが苦手で、「脈絡もなくいきなり歌いだすのが不自然」「何で歌うのかが分からない」「死ぬ前にわざわざ歌うかね?」「あの動作がイヤ」などと語っている。海外作品を日本で上演する際には「どうみてもアジア顔の奴が『スティーブ』だの『ジャクリーン』だの言い合っているのをみると寒気がする」といった趣旨の発言を度々行っている。『今夜は最高!』(日本テレビ系列)にて、ゲストの谷啓とミュージカルナンバーを歌い踊った際には、タモリの態度に谷が気分を害し、ラストの決め台詞を言うべき時に「『今夜は最高!』…って言わなきゃいけないの?」と表情を歪めた。なお、オペラについては、音楽として割り切って聞くことができるため、それほど嫌いではない。

[編集] 私生活

現在の愛車はトヨタアルファード。過去にはベンツジャガー日産・キャラバンも所有していた。

以前は携帯電話を持っていないことを誇らしげに語っていたが、現在は、ナインティナイン岡村隆史からプレゼントされた携帯を所有している。『いいとも!』や『Mステ』で他の出演者やゲストと携帯電話の話になり、「俺の携帯は一度充電すれば1週間はもつ」などと語った。また、2008年に『FNSの日』において、明石家さんまに「井上陽水から飲み会に誘われたメールの返事を、半年経ってから送ったことがある」とも語っていた。

平日は、朝・昼食はしっかり食事をするが、昼食をする時間が『いいとも!』生放送の終了後で14時頃になるため、夕食はとらない(夜の飲酒を習慣としているため、肥満対策という側面もある)。昼食は毎日の様に外食をし、14時頃に食事をしたら次の仕事場へと向かう。「夜になってもお腹は空かない」と言っている。しかし、休日は3食必ず食べている。

喫煙していたが、健康維持の為に禁煙トレーニングを行い、1987年12月31日付で卒煙した。

1日1万歩を目標に必ず散歩に行くと言う。最近、散歩の際には、他の人が住んでいる家を正面から眺めるのが好きだ、と言っている。

年1度は人間ドックに行くという。2009年には白内障の手術も兼ねて、『いいとも!』を一週間休んだ。

[編集] 仕事

基本的に弟子は取らない方針で、希望者が来ても「自分の芸は誰かに教えてもらったものではないので、人に教えようが無い」と断るという。ただし付き人や運転手は存在する。また、1980年代後半には岡村という運転手がおり、たびたび『いいとも!』などに出演していた。

芸人が自ら泣く、あるいは人を泣かせることに否定的であり、2005年度の『FNS25時間テレビ』(フジテレビ系列)の終盤で、総合司会の笑福亭鶴瓶が出演者やスタッフに向けて涙ながらにメッセージを送ったことがあったが、後に「なんで泣くの?」とたしなめたという(同様の考えはたけし・さんまも番組などで語っている)。

所属している田辺エージェンシーの公式サイト内におけるタレント紹介ページでは、タモリのみ写真が掲載されていない。

出演番組の公式サイト上では『いいとも!』でも一切顔出しを行っていない(『いいとも!』については、他のレギュラー出演者も、テレフォンアナや例外のケースを除いて一切顔出しをしていない)。反面、『いいとも!』以外のサイトでは顔出しを行っている(『タモリ倶楽部』にはテレビ朝日のサイトの中に一応公式ホームページがあるが、1ページのみで構成される極めて簡素なもので、タモリの顔写真もない)。

また、不定期で母校の早稲田大学へ、学園祭の講演会などで訪れることが度々ある。

[編集] 副業

タレント活動の他に、経営者・実業家としての顔もある。お好み焼きや海鮮もんじゃ焼の専門店・太助を静岡県沼津市・駿東郡清水町・静岡市清水区に3店舗出店している。

おすすめ料理(メニュー)として自身が練りに練って考案し試食を重ねたという「タモちゃん焼餃子」がある。休日には3店舗に顔を出して、自前のエプロンを着て従業員のように手伝っていることもある。

[編集] 資格・免許

[編集] 交友関係

井上陽水とは旧知の仲であり、メールも交わす。1990年代から正月にはSMAP草彅剛香取慎吾稲垣吾郎がタモリの自宅にやって来る。タモリはSMAPのコンサートによく行く。2006年に福山雅治とメルアドを交換して以来、メールを交わす[要出典]

「芸能人の友達は少ない」と『いいとも!』では言っているが、著名人と一緒に外食に行ったり、自宅へ数多くの芸能人を招待したりしている。だがその際、タモリはキッチンでずっと料理を作っているため、その輪の中には入らずに料理に没頭しているという。

「BIG3」が一堂に会したときは、たけし・さんまとタモリという2対1の構図ができてしまい、タモリは「2対1にするな!」「川端くん(フジテレビアナウンサー)と一緒に行動する!」と発言していたが、3人は仲が悪いわけではない。

所ジョージのメジャーデビューを後押し、面白グループを通じて行動をともにすることも多く、私的にも披露宴で仲人を務めるほど深い関係にあったが、所が『いいとも!』のレギュラーを外れてからは、テレビなどで共演することは少ない。

ばらえてい テレビファソラシド』(NHK)で共演していた頼近美津子アナウンサーを「キャサリン(本名のミドルネーム)」と呼んでいた。この番組では、ホームドラマのコント内でタモリが父親役、頼近が娘役を演じていた。

コピーライターである糸井重里(通称「darling(ダーリン)」)が主宰している、『ほぼ日刊イトイ新聞』には毎年、インタビュー出演をしている。

  • 明石家さんまとは、さんまの自宅で開催された餅つき大会に招待されたことがある。しかし、タモリは前髪を下ろし、サングラスではなく普通のメガネをかけるというという出で立ちで、来るや否やさんまの自宅のこたつに入り、ただ餅つきを静観していたという。さんまや大竹しのぶもその男がタモリと気付かず、長男に至ってはタモリの目の前で「ねぇ、タモリどこにいるの?」と大声でさんまに尋ねた。するとタモリは「(来るのは)もうすぐだよ」と言ったという。
  • 笑福亭鶴瓶とは、『いいとも!』に、1987年の出演から木曜日に曜日移動なしで継続して出演し続けており、木曜日の『いいとも!』の顔的存在となっている。「辞めたい」と言ったこともあるが、タモリに慰留され、現在に至っている。なお、辞めたいとした理由は、さんまの降板と「おもろい若手が沢山出てきて、自分のような古株はいらんと思うようになったから」であり、タモリに原因がある訳ではない。むしろ、タモリの笑いに対する意識の高さを人一倍知っており、鶴瓶はタモリを「テレビの師匠」と仰ぎ、尊敬している。「『いいとも!』を辞めたい」と言ったとき、タモリに「こういう場に出続けているってことは、あんたにとって大事なんだよ」と言われ、当初は意味が分からず、年末恒例の『特大号』にだけは出演しない条件付きで渋々残留した。近年になって、定期的にタモリのような芸人と会うことや、若手などと生放送の場で絡むことの意義を感じ、「その意味がようやく分かった」と自身のラジオ番組内で語っている。これに関してタモリに対し、「あんた、何で(あの時に)そんなこと(=鶴瓶にとってそれが大事だということ)分かったの?」と疑問を投げかけている。また、その答えは、長年やってきた生放送バラエティ番組の司会で培われた、タモリにしかできない予見であったとしている。
  • 所ジョージとは、所が新人時代から長く交友がある。レコードデビューに際し、所はテレビ各局のオーディションを受けていたが、そこで演出家の滝大作の目に留まる。滝は(タモリの世話人であった赤塚)の「面白グループ」の一員であり、その伝手で赤塚やタモリと出会う。所もタモリと同じく一時期、赤塚の家に居候していたことがあり、赤塚所有のベンツを乗り回していた。赤塚やタモリら「面白グループ」と毎晩のようにバカ騒ぎをし、所の結婚式を盛大に祝い、赤塚の思いつきで作った映画『下落合焼とりムービー』やテレビ番組でも共演するなど、公私隔たりのない親密な付き合いをしていた。赤塚は、「一生バカを続けなよ」と所の歌への思いを伝えている。また、『いいとも!』のレギュラーを務めていた間柄でもある。
  • 黒柳徹子とは、交友は深く、タモリの知名度を上げるきっかけを作った人物の一人でもある。タモリが赤塚不二夫に連れられ、生放送の番組『赤塚不二夫の世界』(テレビ朝日系列)に出演し、インチキ牧師を演じていたところを、番組を見ていた黒柳が「今の人、誰?すごいじゃない」とテレビ朝日にいる赤塚に電話を入れ、ぜひ『徹子の部屋』(テレビ朝日系列)に出て欲しいと出演依頼を行った(タモリの初出演は、1977年8月11日)。これ以来、『徹子の部屋』の年末最後の放送にゲスト出演するのが恒例となり、現在ではほとんど見られなくなったタモリの芸が見られる貴重な機会である。黒柳は、年に一度タモリの自宅へタモリが振舞う手料理を食べるために、大橋巨泉野際陽子堀文子前橋汀子マツコ・デラックスなどと訪れ、食べた料理は写真に残すようにしている。『徹子の部屋』のゲスト出演は、2010年の出演で34回目を数える。放送内容としては「密室芸」の披露を番組後半で黒柳にお願いされ行っているが、1980年代の放送では「マヨネーズ石狩鍋」や「たくあんのとぎ汁で作ったクリームソーダ」など、ゲテモノ料理を2人で作って食べるのが恒例となっていた。1984年、『いいとも!』の「テレフォンショッキング」に黒柳が生出演した際に、43分間しゃべり続ける(長話)という伝説を残した(当番組での歴代最長時間)[28]。そのために、放送時間がなくなり、「テレフォンショッキング」の後に予定されていたコーナー2つのうち1つを無くさなければならない事態となり、双方の司会担当者がじゃんけんをして、潰す方を決めた。以降、黒柳は1998年までフジテレビ系列の番組には殆ど出演せず、それ以降も5回程度しかフジテレビに出演はしていない。2005年黒柳は『いいとも!』に21年ぶりに登場し、またも放送時間内で39分間しゃべり続けた[要出典][29]
  • 和田アキ子とは、『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系列)で初共演。笑っていいとも!のコーナー「テレフォンショッキング」にはタモリの意向もあって、必ず少なくても年1回はゲスト出演(1990年と2011年は2回、2010年は3回)し、1982年10月8日放送の初出演以降、「テレフォンショッキング」最多出演記録を持っている(ただし一時、2010年に陣内孝則がいったん記録更新して現在は同率である)[要出典]。2006年以降数年にわたり出演しなかった(和田側はアッコのいいかげんに1000回などで「スケジュールが合わない」としていた[要出典])が、2011年10月19日に5年ぶりに出演した(ちなみにテレフォンへ3年以上出演がなかったのは2000年出演後の2003年以来である[要出典])。
  • お笑いコンビのとんねるずとは、とんねるずが素人時代に「お笑いスター誕生!!」(日本テレビ系列)に出演した際、あまりに突飛なネタで他の審査員からの評価は芳しくなかったが、審査員の一人であったタモリが「お前らなんだかわからねえけど面白い」と評価したことから、とんねるずは好印象を抱いている。この当時、とんねるずを評価していたのは、タモリとその世話人であった赤塚だけであった。

[編集] 趣味・嗜好

タモリの趣味は多岐にわたる。ジャズをはじめとした音楽以外にも、鉄道、料理、坂道BCLアマチュア無線、武道、オーディオ、ダム、男色、熟女、船舶、ゴルフ、古地図、腕時計、サングラス、家電製品、お酒、妄想、旅行などに造詣が深い。「日本坂道学会」副会長、(会員は会長と合わせて2人)、「日本変態協会(略してNHK)」会長、「おっぱい星人」などの肩書きも自称している。

[編集] ジャズ

音楽は、主にジャズを好む。後述の早稲田大学第二文学部西洋哲学専修在学中における実績がある他、植草甚一の死後、遺品整理をしていた高平哲郎の仲介で、植草のレコードコレクション約2000枚を約100万円で買い取っている[30]。自身も森田一義名義で早稲田大学応援歌『ザ・チャンス』の作詞を担当したり、トム・O・リーの名でトランペット演奏のレコードを出す他、THE SQUAREのアルバムのレコーディングに参加するなどの音楽活動も行っている。THE SQUAREは、タモリのコンサートツアーにバックバンドとして参加していたことがあり、その縁でアルバムに参加したという経緯がある。

マイルス・デイヴィスに雑誌のインタビュー企画で会った際、デイヴィスはインタビュー中もずっと絵を描き続けその絵をプレゼントしてもらった。インタビューが終わった際にはデイヴィスから「良いインタビューだった」と褒められ、タモリが持参したトランペットにも絵を描き、タモリが「自分の音楽をよく聴いてくれていると褒めてくれた、案外いい人だった」と明かしている。

また、マンハッタン・トランスファーの日本ツアーで司会のオファーが来たことがあったが、当時『いいとも!』等で多忙を極めていた為、マネージャーがスケジュールが押さえられないことを理由に断ったと『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系列)のミニコーナー「空耳アワー」で語ったことがある。

ジャズシンガーのサリナ・ジョーンズとは、20年以上の付き合いがある。出会いは、タモリがメインパーソナリティーを務めていた『タモリのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)。ゲスト出演をしたジョーンズは、アルバムのプロモーションで簡単なインタビューで終わるつもりだったが、予定時間を過ぎても終わらず、二人でジョーンズの歌を熱唱し、意気投合していた。

[編集] トランペット

デビュー当初はトランペット演奏の技術も高く、『いいとも!』『ミュージックフェア』『今夜は最高!』『ミュージックステーション』といったレギュラー番組で、トランペット演奏を披露していた。

[編集] 鉄道

鉄道ファンとして、線路そのものが連なるさまや分岐器の複雑な造形、またそれらを列車が通過する際の音を好む「線路マニア」であると称している(一部では「鉄道の事情通」とも言われる)。線路マニアになったきっかけは、幼少時に見た薬院駅南側で西鉄大牟田線西鉄福岡市内線城南線平面交差デッドセクションとなっている所だったという[31]

線路以外の鉄道に関する知識も豊富で、『ブラタモリ』で鉄道総合技術研究所を訪問した際(後述)、同伴する久保田アナの質問に対し、研究所の職員が答えるより先に、正確で分かりやすい解説をしたため、解説役の職員が「私がいる必要がありませんね」と発言するほどであった。

かつては国鉄のCMにも出演経験がある(1979年のCMで「食堂車に窓を設けました」「新幹線はますます良くなっております」など)。『いいとも!』の楽屋にも、いつも時刻表と世界や全国区の地図が置かれているという。また、JTB時刻表の月刊本は、毎月欠かさず購読している。

『タモリ倶楽部』でしばしば鉄道関係の企画を行っており、「タモリ電車クラブ」を主催し自ら会長を務める。『ブルータス』のインタビューでは、京浜急行電鉄のファンであることを語っており、後に『タモリ倶楽部』にて特別専用列車による特番&ツアーが組まれることとなる。

『ブラタモリ』第2シーズンでは東京メトロの施設等をいくつか訪ねた。第3シーズンでは、地下鉄を前・後半2回に分けてとりあげたほか、前・後半に分けて放送された「国分寺(国分寺市)」の回では、後半を鉄道総合技術研究所の特集とした。鉄道総合技術研究所のほか、東京メトロの社員研修所、銀座線廃駅万世橋駅)など、一般人が入ることが難しく(鉄道総合研究所は年に1回ごく一部を公開)、テレビでとりあげられることがまず無いような施設にも訪れている。

ゲームソフト『電車でGO!』の腕前は、自他ともに認めるハイレベルである。

[編集] 船舶

船舶にも造詣が深く、一級小型船舶操縦士免許を所有する(試験日が平日だったため、タモリはその日の『いいとも!』を休んでいる。3000万円で購入した自身所有の船舶を静岡県沼津市に係留しており、休日はその船で過ごしているという。まれに「趣味のために休んだ」ことを突っ込まれることがある)他、船舶が映る画面を凝視するシーンがしばしば目撃されている。映画「タイタニック」では(恋愛映画が嫌いなため)「登場人物のシーンを飛ばして船の出てくるシーンだけを見る」とたびたび語っている。休日は自らの船舶の掃除を朝からしている。船好きで東京商船大学(現 東京海洋大学海洋工学部)に入学を希望していた。実際に受験したかは不明。

“タモリ茶碗”( - カップ)とは、静岡県沼津市内浦湾ヨットクラブ実行委員会が主催するレースである。8月の日曜日に、内浦湾内の海域で「ショート・ディスタンス・レース」1レースとして実施される。タモリは大会名誉会長を務める。前夜祭、表彰式、パーティーなども行い、開催日当日の天候等によりレースを中止した場合は、パーティーのみ開催される[32][33]

賞として、総合優勝艇にタモリ杯が贈られ、真中賞・ブービー賞・参加賞のほか、おもしろ各賞・ベストドレッサー賞・当日賞各種が設定されている。記念Tシャツも販売している。

[編集] 料理

料理の腕はプロ級であると評される。「テレフォンショッキング」でゲストが料理や食材の話をすると、美味しい食べ方や隠し味などを披露している。共演したタレントを自宅に誘って食事会を開くことも多いが、タモリ自身はキッチンにこもって料理に没頭する。なお、当人は和食以外一切食べない和食党である。ある日、料理屋でマグロを焼いたものを食べて以来「何でも熱通した方が旨い」との持論を持ち、番組等でも「何でも軽く炙った方が美味しい」と語っている。自宅では「キッチンで酒を飲みながらそこで食事をしている」とも言っており、『タモリ倶楽部』の酒呑み企画で何度もそのような様子が放映されている。

[編集] お酒

ビール・焼酎・ワイン・ウイスキーが好みで、自宅にはワインセラーを備える。「休日は朝から歯磨きをせずにビールを飲むことが一番の至福の時だ」「お酒だけは止められない」、毎日のように呑むと番組内でも述べている。「お酒はどれだけ呑んでも、太らない」と主張している。この意見は世間では否定されるが、タモリは「お酒の相手におつまみを食べるから太る」のだと言う。

[編集] 坂道

タモリが東京に初めて来た際、なんと坂の多い場所なんだと驚いたらしい。坂道については、幼少のころからの趣味(後述も参照)であり、2000年には山野勝と「日本坂道学会」を結成し副会長を自称する。同会副会長として、休日には、好みの坂を歩き周り、坂道の写真を撮る。過去には「TOKYO1週間」誌上に『TOKYO坂道美学デートNAVI入門』を連載し、2004年にはその活動が『タモリのTOKYO坂道美学入門』(講談社)としてまとめられた。

タモリが坂道を見る鑑賞の点は、

  1. 勾配の具合を自分の目で確かめる。
  2. 湾曲の行き方(角度・傾斜)はどうなっているか。
  3. 周囲に江戸などの歴史、景色、風情を出す物があるかどうか。
  4. 坂道の名前の由来など由緒を自ら調べ感じとれるか。

といったことを述べている。

[編集] ゴルフ

かつてはゴルフ嫌いであったが、1980年代半ばに「転向」した。新春特別番組「タモリ・たけし・さんまBIG3 世紀のゴルフマッチ」(フジテレビ系列)では10回のうち8回優勝する(その他の2回はビートたけしが優勝する。もっとも、たけし・さんまは「(1988年の初回は)タモリを勝たせるための接待ゴルフで、1989年はたけしが、1990年はさんまが優勝するという流れでやろうとしたが、1989年の第2回の後でタモリがゴルフ決別宣言を出してしまい、その不文律が崩れた」と語る)。タモリは「人にゴルフ教えることに関しては俺はうまい」と述べる他、プロは天才すぎて幼少の頃から身に着いて逆に教えられないから、何年も経験を積んできたアマチュアに教えてもらうとすぐに上達すると述べる。しかし、「2001年に起きた事故(後述)で怖くなってやめた」とも述べる。

[編集] 性的嗜好

日本変態協会」(NHK)会長を名乗り、「創作は全て変態である」という「創作変態論」を唱えている。タモリが思う「変態論」は「創造性豊かな人ほど変態である」「料理と変態は1番簡単に出来る創造的な行為である」「他人に迷惑をかけないのが変態である」等。

バストが大きい女性が好きであると公言し、「俺はおっぱい星人」と発言している。

[編集] アマチュア無線

アマチュア無線では、過去にコールサイン「JA6CSH」を取得したこともあり(現在は失効)、ラジオたんぱ(現:ラジオNIKKEI)でBCL番組『BCLワールドタムタム』を担当していた実績も持つ。

[編集] 武道

武道にも造詣が深く、高校時代に柳生新陰流居合二段を取得している[10]

[編集] 古地図

『ブラタモリ』(NHK)として番組化されるほど、古地図と、それに基づいた街歩きには造詣が深い。

[編集] オーディオ・BCL

オーディオ機器に精通している。また、一時期BCLにのめり込み、押し入れの中で世界各地の短波放送を聴いていた。上記しているが短波放送「ラジオたんぱ」のBCL番組「BCLワールドタムタム」の司会も務めた。

[編集] その他

静岡県伊豆に別荘を構える。

芸能人仲間らの証言によれば、自宅では緑色のビキニブリーフ1枚になりイグアナの生態のまねをし、週末は沼津のマンションに宿泊している。

平日は『笑っていいとも!』の生放送や『ブラタモリ』などの収録、金曜日は『ミュージックステーション』の生放送、土曜日は『タモリ倶楽部』の収録と多忙なタレント生活・活動を送っている。休日は日曜日や年末年始から正月に掛けてである。毎年夏に行われる『FNSの日』には『笑っていいとも!増刊号生スペシャル』が日曜日の朝から昼に掛けて放送されるため、1週間丸々休日がない時がある。

[編集] 各番組におけるタモリ

[編集] 長寿番組

と言った現在に至っても放送がされている代表的な数多くの長寿番組を持っている。

番組を長く続ける秘訣につき、「自分の番組を好きでいなければいけない」「一々、反省はしない」「自分が出演しているテレビ番組は一切観ない」と述べる。「自分が出演しているテレビ番組は一切観ない」という考え方に関しては、島田紳助と共通する。

レギュラー番組の司会で、マイクを使用する。タモリは「俺はいつも欠かさずマイクは何処に行くにしろ持っている」と述べる。

[編集] 冠番組

『いいとも!』が放送開始した1982年ごろからバラエティ番組の司会が増え、冠番組が続々と誕生。『いいとも!』、『タモリ倶楽部』、『ミュージックステーション』に加えて、ゴールデンタイム・プライムタイム、ラジオ番組のレギュラー番組を週に7 - 8本はこなす時期があった。『今夜は最高!』(NTV系列)、『ジャングルTV〜タモリの法則〜』(TBS系 MBS制作)、『タモリの音楽は世界だ!』(テレビ東京系列)等が開始されていった。また、博識が評価され『今夜は最高!』の「オペラ昭和任侠伝」が、同年の民間放送連盟賞のテレビ娯楽番組部門最優秀賞を受賞した。

  • 日本テレビ系列 = 『今夜は最高!』
  • テレビ東京系列 = 『タモリの音楽は世界だ!』
  • TBS系列 = 『ジャングルTV〜タモリの法則〜』(毎日放送制作)
  • フジテレビ系列 = 『タモリのボキャブラ天国』
  • フジテレビ系列 = 『タモリのネタでNIGHTフィーバー!』
  • ニッポン放送 = 『タモリの週刊ダイナマイク』(ラジオ) など多数

上記は1980 - 1990年代当時のレギュラー番組であるが、このうちNTV、TBS、CX全ての番組の視聴率が10 - 20%をマークした。その他、テレビ番組以外にも歌手としてのCD・レコードリリースとライブ活動なども行っていた。この頃により、ビートたけし明石家さんまとともに、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。

[編集] ドラマ出演

主にバラエティ番組で活躍しているタレントとして知られるが、ドラマ出演も数多くこなしている。ドラマ初出演作品はドラマ人間模様詐欺師』(NHK)であった。このドラマは連続ドラマであり、大谷直子とのベッドシーンやキスシーンもあった。

他には、月曜スター劇場なぜか、ドラキュラ』『今夜は営業中!』(日本テレビ系列)、『代議士秘書の犯罪』『不連続爆破事件』『ミセスとぼくとセニョールと!』『自主退学』(TBS系列)などで主演している。

近年でもストーリーテラーを務める『世にも奇妙な物語』(フジテレビ系列)にエキストラで出演したり、2004年に『X'smap〜虎とライオンと五人の男〜』(フジテレビ系列)[34]にてデビュー時の眼帯をつけた姿で登場、2007年に『和田アキ子殺人事件』(TBS系列)[35]に本人(森田一義)役で出演している。『HERO』劇場版では悪徳政治家を演じた。

[編集] 報道番組出演

バラエティ番組以外に、報道・情報番組に登場することもある。

FNNスーパーニュース』(フジテレビ系列)に3回程度出演しメインキャスターの安藤優子と共演。『スーパータイムスペシャル』『タモリ&安藤優子のSuperスーパーニュースSpecial』にも出演している。

1983年6月26日に実施された第13回参議院議員通常選挙では、タモリが選挙メインキャスターとなり、フジテレビ系列・FNN系列にて『いいとも!』をアレンジとした『選挙でいいとも!』が放送された。

[編集] ヒット番組

[編集] いいとも!

  • 衣裳は、番組開始当初は、オープニングからエンディングまで同じ衣装を着ていたが、2007年4月頃からは、オープニングから「テレフォンショッキング」の終わりまではネクタイにスーツ姿、あるいはジャケットにノーネクタイ姿、ジャケットにカッターの首周りにスカーフ、ネックなどで出演し、「テレフォンショッキング」の後の各曜日コーナーからは、夏は無地のポロシャツ、他の季節ではカッターシャツの上からセーター、またはベスト姿で軽装になって、「テレフォンショッキング」が終わった次の各曜日コーナーのつなぎのCM中(2分 - 2分30秒)の間を利用して衣裳チェンジをしている。
  • 髪を短くしたゲストに対し、タモリが「髪切った?」と言うことがあり、タモリの物真似をする芸人にはこのフレーズを用いるものが多い。他にも「そうですね!」や「一旦CM入りま~す」、「盛り上がった会場を『チャッ、チャッチャッチャ』の拍手で締める」、ゲストと話す際の「んなこたーない」(「そんなことはない」の意)等。
  • 1983年から1993年までの11年間は夏に休みをとっており、司会は当時のレギュラー陣が代打を務めていた。1994年以降は夏休みは取らなくなった。
  • 明石家さんまが、1984年4月6日に『いいとも!』の金曜レギュラーに登板し、タモリとともに雑談するコーナーが始まった[36]。このコーナーは「テレフォンショッキング」及び「曜日対抗いいとも!選手権」に次ぐ『いいとも!』の名物コーナーとして親しまれた。
    • また、タモリが夏休みなどで不在の場合は代理司会も務め、最多代理司会者として表彰された。他の代理司会は1987年4月から1990年3月まで関根勤片岡鶴太郎所ジョージ笑福亭鶴瓶らとともにタモリを支える曜日リーダー(通称は『いいとも!ビッグ5』)として親しまれる。
  • 毎年、フジネットワーク系列で放送しているFNSの日の『笑っていいとも!増刊号生スペシャル』では、自身が昨夜から総合司会を続けてきたかの様に「毎年、この時間が一番眠いんだよ」と発言し、他の出演者に突っ込みを入れられるのが恒例となっている。
  • 2002年マイクロソフト会長のビル・ゲイツがオープニングコーナーに登場[37]。タモリに『Xbox日本1号機を貰える券』と引き換えに同日に発売されたXboxを手渡した。
  • 2003年、『ミュージックステーション』で、t.A.T.uが番組を途中放棄するという事件が起きる[38]。その後約1年間にわたり、『いいとも!』出演者からt.A.T.uの話が出るたびに「t.A.T.uの話はするな!」と怒っていた。今でもごく稀にジョークの種にすることがある。
  • 2004年、『FNSの日』内の『27時間テレビ』の中で行われた『笑っていいとも!増刊号生スペシャル』の「テレフォンショッキング」のコーナーではテレフォンゲスト・森田一義として登場した[39]。この時、司会は『27時間テレビ』の総合司会を務めていたナインティナイン岡村隆史が行った。
  • 『いいとも!』の放送終了後のフリートークで「疲れているときにユンケル(栄養ドリンク)はいいよね」と発言したところ、ユンケルを発売している佐藤製薬からユンケル黄帝液を大量に贈られ、これをきっかけにユンケルのCMにも出演するようになり、「ユンケルンバでガンバルンバ!」のCMコピーは当時流行語になった。
  • 2007年中山弘子新宿区長が『笑っていいとも!増刊号』に出演し[40]“『いいとも!』が新宿スタジオアルタから25年間に渡り生放送を現在でも続けて、新宿の街のイメージアップに多大な貢献をしている”と、タモリに感謝状を手渡した(実際に表彰されたのは、11月2日)。
  • 2009年、『いいとも!』のエンディング[41]で、平井理央アナウンサーがタモリが精密検査(人間ドック)を行うために翌週(2009年7月13日7月17日7月19日の増刊号)の出演を丸々休養することを発表した。その中で検査とともに白内障の手術も行うことをタモリが自ら語った。タモリが休養の期間は代役の司会者を立てず、各曜日レギュラー陣が臨時で司会を務めた。

[編集] Mステ

  • 長寿音楽番組として放送している『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)では、初代司会者の関口宏の後を受け、2代目司会を1987年から務めている。
  • 年末恒例の『ミュージックステーションスーパーライブ』のオープニングを飾る火薬の爆破を嫌がって、「今年は(花火の演出は)あるんですか?」とスタッフに聞いている。
  • 2009年に精密検査、白内障の手術の為、『いいとも!』と同じく『Mステ』の生放送[42]も休養し、普段はタモリとともに司会を務める竹内由恵アナウンサーとその日のゲストアーティストが交代しながら、リレー方式で番組が進行した。

[編集] タモリ倶楽部

  • タモリ倶楽部』は、1982年(『いいとも!』と同時期)に始まり、現在も継続する長寿番組で、「深夜番組の代表」とも称される。『いいとも!』と同時期に始まったのには、田辺エージェンシー社長である田邊昭知の並々ならぬ後押しがあったという。元来シュールな芸風であるタモリを気に入っていた田辺が、『いいとも』の司会によってその才能が鈍化するのを嫌って、シュールさを全面に出した同番組を企画したと言われている。
  • 主な企画としては、鉄道、乗り物系、アダルト、飲食、見学・技術系など、司会のタモリは聞き役となってさまざまな各分野の専門家に登場してもらい解説してもらうことが多い。

[編集] 事件・事故

[編集] ヨット事故

  • 1990年7月、ヨットの柱に額をぶつけた。この事故でタモリは髪型を真ん中分け(いいとも番組内では7:3分け)のオールバックから、現在の分け目のないオールバックへ変えた。番組には、額に消毒のテープを貼り出演していた。

[編集] 人身事故

  • 2000年5月6日、東京・目黒区で人身事故を起こした。タモリの車が左折した際、右から直進してきたオートバイと接触、オートバイは弾みで別の車にも接触した。運転していた男性と同乗女性が足に軽い打撲。タモリに怪我は無かった。
  • この他、バイクでの事故経験もある。乗っていたバイクが竿立ち状態になりコントロールできず、無関係の家の垣根を通り抜けて庭に突っ込み、食事中の一家から「どなたですか?」と言われたとトークで語っている。

[編集] ゴルフ事故

  • 2001年11月4日関東近郊のゴルフ場でプレイ中、ゴルフボールがサングラスの左目のつるに当たり、左こめかみ付近を負傷。都内の病院に検査入院。1995年の小型船舶免許取得時以来、6年ぶりの番組欠勤となった。レギュラー番組を持つ『いいとも』は当時の各曜日レギュラー陣が代役を務め、『ミュージックステーション』ではタモリとともに司会を務めていたテレビ朝日武内絵美アナウンサー(2000年4月 - 2004年3月まで担当)とゲストのKinKi Kidsが司会を務めた。

[編集] エピソード

  • 1983年、当時のTBS系列のクイズ番組が集結した単発スペシャル番組『タモリのスター対抗クイズ番組大集合』(TBS系列)[43]で司会を務めた際、問題の中に「タモリ、ヤモリ、イモリ、果たして人間は誰でしょう?」の珍問が出題された。
  • 1985年、第1回東京国際映画祭において明石家さんまとともに司会を務めた。後日、その司会ぶりが「ふざけた司会者」「ソフィー・マルソー知っとるケと言う始末」と新聞紙面上で非難される。当時の金曜レギュラーだったさんまは、『いいとも!』でトークのネタにする。タモリと一緒に「始末か! オレたちは!」と叫び、挙手をしながら「私がやりました!」と言った。
  • 芸人仲間だったたこ八郎が急逝した時、赤塚不二夫らと参列した葬儀の席で「たこが海で死んだ。何も悲しいことはない」とコメントした(この経緯についてはたこ八郎の項を参照のこと)。
  • 大地真央宝塚歌劇団に在籍した頃に、作詞・作曲を手掛けたことがある。曲名は「タモリさんが作った歌」で、編曲は小笠原寛。CD『この愛よ永遠に〜TAKARAZUKA FOREVER〜』に収録されている。
  • 旅行好きである。行ってみたい場所はイギリスアフリカカリブ海グアテマラなど。タモリ曰く、「お酒を浴びるように呑みながら旅がしたい」。
  • 「テレビの自分」と「日常生活の自分」とでは、テレビの自分は自由な自分のようであり、日常生活の自分は演技しているように思えると語っている。
  • 象印賞を受賞した経験がある。
  • EXILEから毎月、月刊EXILEの雑誌を貰っている。

[編集] 評価

当初自分の独特の芸風が壊されるという理由で師匠につかず事務所に入らずの方針で活動していたが、現在の所属事務所である田辺エージェンシー社長の田邊昭知が、芸風は自由にやらせるという条件付で自ら直々に口説き落としたという。

現在でこそビデオリサーチの企業などがおこなうタレントの好感度ランキングでは、ビートたけし明石家さんま笑福亭鶴瓶所ジョージ島田紳助らとともに現在に至っても上位にランクされることも多いが、デビューした1975年から1980年代初頭にかけては、逆に嫌いなタレントランキングの上位にいた。

笑福亭鶴瓶はかつて、タモリに「なんで人の笑いを邪魔するのか」と尋ねたことがある。これに対し、「お前やさんまは笑いを取りに行こうとする。それが当たり前になると帯番組はマンネリになる。だから一番山のところで叩く。そうすれば何かを考えるだろう。それがマンネリ解消になる」と答えた。鶴瓶はその予定調和を嫌う態度こそがタモリがトップに君臨する理由と見抜き、「テレビの師匠」として仰いでいると語った[44]。また、『いいとも!』のプロデューサーを務めた横澤彪は、タモリについて「これほど、芸人として我のないやつに会ったことない」と語っていた。

作家の小林信彦は著書「日本の喜劇人」で、トニー谷などの系譜に位置する「下半身の弱い」芸人と批評。本来異端だったのに一般人気が高まった現象を、似非インテリ受けと切り捨てている。

2010年、優れた芸術活動を表彰する伊丹十三賞を受賞。2010年4月9日に第2回贈呈式が行われ、賞金100万円が贈られた。受賞理由は「テレビというメディアに『タモリ』としか名づけようのないメディアを持ち込み、独自の話芸と存在感を発揮する稀な才能」[45]

[編集] 受賞歴

[編集] 現在の出演番組

[編集] レギュラー番組

[編集] 単発・不定期番組

[編集] 過去の出演番組

[編集] CM

[編集] 映画

[編集] レコード・CD作品

[編集] アルバム

NO. ジャケットタイトル 形態・発売日 品番・発売元 備考
1st タモリ LP:1977年03月20日 ETP-72227(東芝EMI/Alfa) 毛沢東風中国人・マッカーサー風アメリカ人・ヒトラー風ドイツ人・寺山修司風日本人のモノマネによる「四カ国親善麻雀」が収録されているが、元々は寺山修司ではなく昭和天皇のモノマネだった。発売になったのは修正版。2007年発売版では「ブラジャー・ミシン」(ブラザー工業風のパロディCM)のセリフの一部がカットされて収録されている(乳がん患者への配慮と思われる)。
LP:1980年(再発) ALR-4013(アルファ)
CD:1995年06年16日(初CD化) ALCA-9159(アルファ)
CD:2007年12年20日(CD再発)

※初回のみ紙ジャケ仕様

MHCL-1238(Sony Music Direct)
2nd タモリ2 LP:1978年12月20日 ETP-80060(東芝EMI/Alfa) 講師として中州産業大学芸術学部西洋音楽理論の森田一義助教授の音源が収録されている。
LP:1980年(再発) ALR-4007(アルファ)
CD:1995年06年16日(初CD化) ALCA-9160(アルファ)
CD:2007年12年20日(CD再発)

※初回のみ紙ジャケ仕様

MHCL-1239(Sony Music Direct)
3rd タモリ3

- 戦後日本歌謡史 -

LP:1981年9月10日 TAMORI-3(アルファ) 実際には『タモリ2』発売以前より録音されており、当初はこの内容が『タモリ2』になるはずだった。戦後の名曲をパロディーにしているため著作権上の疑義が指摘され、初回プレス分の3万5000枚だけを新星堂で限定発売し直ちに絶版という運命をたどる[47]。未CD化。
4th ラジカル・ヒステリー・ツアー LP:1981年05月01日 27AH-1237(CBS/SONY) サザンオールスターズ桑田佳祐、THE SQUARE(現:T-SQUARE)の安藤まさひろ(本名の安藤正容名義で)と当時メンバーだった久米大作が楽曲を提供。安藤、久米の提供曲はTHE SQUAREがバック演奏を担当している。CD化の際にシングル「タモリのワーク・ソング」AB面を追加収録。
CD:2007年12年20日(初CD化)

※初回のみ紙ジャケ仕様

MHCL-1240(Sony Music Direct)
5th HOW ABOUT THIS LP:1986年09月21日 VIH-28272(ビクター) 大マジなジャズ・アルバム。LPとCDで一部収録曲が異なる。
CD:1986年09月21日 VDR-1276(ビクター)

[編集] プロデュース

  • 大地真央宝塚歌劇団時代に、タモリが作詞・作曲家を手掛けた。「タモリさんが作った歌」編曲は小笠原寛。CD「この愛よ永遠に~TAKARAZUKA FOREVER~」の1曲に入っている。

[編集] タモリゆかりの地・愛好地

[編集] VHS・DVD

[編集] 書籍

[編集] ゲーム関連

  • 「森田一義アワー 笑っていいとも!ボードゲーム」(1985年)
  • 「森田一義アワー 笑っていいとも!タモリンピック」 スーパーファミコン専用ゲームソフト(1994年、アテナ
  • 「タモリのSuperボキャプラ天国 CARD GAME ヤングアダルト向カルタ的 豪華美麗カードゲーム」
(発売元:タカラ、販売元:セントラルホビー)

[編集] 関連項目

[編集] 脚注・出典

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  1. ^ 『ジャングルTV 〜タモリの法則〜』における測定。
  2. ^ [1]
  3. ^ 血縁上はタモリの母のおじである。なお、祖父の妻(つまり祖母)と父は血縁上は姉弟である。
  4. ^ [2]
  5. ^ 『タモリのTOKYO坂道美学入門』(2004年、講談社)
  6. ^ a b 『読売新聞夕刊』「[人]タモリ(2)モットーは持ちたくない」(1986年11月7日)
  7. ^ 平岡正明『タモリだよ!』(CBS・ソニー出版、1981年)P.181
  8. ^ 『ザ・ヒーローズ2 宝島ロング・インタビュー集』(1983年、JICC出版局)
  9. ^ 平岡正明『タモリだよ!』(CBS・ソニー出版、1981年)P.182
  10. ^ a b c d e f 中村孝司「タモリ年譜」『クイック・ジャパン』vol.41(2002年、太田出版)
  11. ^ 早稲田大学学生部編「第800号記念 タモリ ロングインタビュー」『早稲田ウィークリー』(1997年4月17日、早稲田大学学生部)
  12. ^ 平岡正明『タモリだよ!』(CBS・ソニー出版、1981年)P.184
  13. ^ 全日本冷し中華愛好会(個人のサイト)
  14. ^ 全冷中「冷し中華祭り」秘話(個人のブログ。ヒゲタ醤油株式会社のサイトから転載)
  15. ^ 『徹子の部屋』(2008年12月26日)[出典無効]
  16. ^ “タモリ、赤塚不二夫さんへコメント「先生、ありがとうございました」”. スポーツ報知. (2008年8月2日). http://hochi.yomiuri.co.jp/entertainment/news/20080805-OHT1T00034.htm 
  17. ^ “タモリ弔辞「私もあなたの作品の一つです」”. SANSPO.COM. (2008年8月7日). http://www.sanspo.com/geino/news/080807/gnj0808071158018-n1.htm 
  18. ^ “タモリの手には白紙…あふれる感謝そのままに”. スポニチ Sponichi Annex. (2008年8月8日). http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2008/08/08/02.html 
  19. ^ “タモリに聞いた 「赤塚弔辞」白紙のワケ”. 横澤彪のチャンネルGメン69:J-CAST テレビウォッチ. (2008年8月19日). http://www.j-cast.com/tv/2008/08/19025331.html 
  20. ^ タモリ、横澤さんに感謝「私を昼に起用」
  21. ^ 1984年7月12日放送。
  22. ^ 日刊スポーツ「日曜日の男 タモリ なんとも素敵な中途半端人生」(1996年5月19日)
  23. ^朝日新聞』2007年4月
  24. ^ 映画「キッドナップブルース」など
  25. ^ [3]
  26. ^ 筒井康隆、山下洋輔、タモリ他『定本ハナモゲラの研究』講談社、1982年
  27. ^2009年の26時間テレビ』内の『笑っていいとも!増刊号』にて、22年前(1987年)に紳助がゲスト出演した際の写真が出された。
  28. ^ 1984年3月14日放送。
  29. ^ 2005年12月16日放送[出典無効]
  30. ^ 『太陽』No.409 特集・植草甚一、平凡社、1995年、P.76 タモリの談話
  31. ^ 『タモリ倶楽部』での自身の発言。なお、平面交差およびデッドセクションは福岡市内線廃止により消滅。
  32. ^ 「タモリの日本一楽しいヨットレース」22日、沼津で
  33. ^ 競っていいとも! ヨット「タモリカップ」ご本人も登場
  34. ^ 2004年12月25日放送。
  35. ^ 2007年2月12日放送。
  36. ^ タモリ・さんまのコーナー合計18タイトルの変遷は以下の通り。 (1)『タモリ・さんまの雑談コーナー』(1984年4月〜)(2)『タモリ・さんまの日本一の最低男』⇒『タモリ・さんまの日本一のサイテー男』(85〜87年頃まで)(3)『さんま・タモリの喋っちゃいまホー』(4)『さんま・タモリの笑いごっちゃおまへんで』(5)『続・笑いごっちゃおまへんで』(6)『さんま・タモリのおいしいんだかだぁ~!!』 (7)『タモリ・さんまのんなアホな!』(8)『タモリ・さんまのなんちゅうこというの!』(90年夏頃は確実にこのタイトル 初期は『タモリ・さんま・山瀬の - 』というタイトル)(9)『タモリ・さんまの2000回〜3000回にむかって』(10)『タモリ・さんまのどっちもどっち』(11)『タモリ・さんまの狼がきたぞ~!』(91年夏頃は確実にこのタイトル)(12)『タモリ・さんまの日本一のホラ吹き野郎!』(92年春〜秋) (13)『タモリ・さんまの何はともあれ』(92年秋〜93年春)(14)『タモリ・さんまの何でもしゃべれる!!(93年春〜秋)(15)『タモリ・さんまのもう大人なんだから(93年秋〜94年春)(16)『タモリ・さんまのもう大人なんだからネ』(94年春〜秋)(17)『タモリ・さんまのもっとしゃべらせてよ!!』(94年秋〜95年春)(18)『タモリ・さんまのもっともっとしゃべらせてよ!!』(95年春〜秋)
  37. ^ 2002年2月22日放送。
  38. ^ 2003年6月27日放送。
  39. ^ 2004年7月25日放送。
  40. ^ 2007年11月4日放送。
  41. ^ 2009年7月10日放送。
  42. ^ 2009年7月17日放送。
  43. ^ 1983年10月2日放送。
  44. ^週刊文春』2007年8月30日号
  45. ^ [4]
  46. ^ 2009年4月より、タモリのレギュラー番組『笑っていいとも!』(フジテレビ系列)・『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系列)の番組スポンサーとなっている。しかし、2010年3月で『笑っていいとも!』(フジテレビ系列)の番組スポンサーは終了した。
  47. ^ レコード・コレクターズ2007年9月号

[編集] 外部リンク

先代:
藤村俊二&高瀬春奈
佐藤製薬ユンケル黄帝液
4代目CMキャラクター
1984年 - 2002年
次代:
イチロー
先代:
-
佐藤製薬アセス
初代CMキャラクター
2003年 - 2008年
次代:
森泉
個人用ツール
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