やなせたかし

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やなせ たかし
本名 柳瀬 嵩(読み同じ)
生誕 1919年2月6日(92歳)
日本の旗 東京府北豊島郡滝野川町
(現・東京都北区
国籍 日本の旗 日本
職業 漫画家絵本作家イラストレーター詩人など
活動期間 1953年[1] -
ジャンル 児童漫画
代表作 アンパンマン
受賞 勲四等瑞宝章
日本漫画家協会文部大臣賞
東京国際アニメフェア2008 第4回功労賞
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やなせ たかし(本名:柳瀬 嵩(読み同じ)、1919年(大正8年)2月6日 - )は、日本の漫画家絵本作家イラストレーター歌手詩人日本漫画家協会理事長(2000年5月 - )、有限会社やなせスタジオ社長。東京府北豊島郡滝野川町(現・東京都北区)生まれ、高知県香美郡在所村(現・香美市)出身。『アンパンマン』の生みの親として知られる。

過去にはデザイナー編集者舞台美術家演出家司会者コピーライター作曲家シナリオライターなど多分野で活躍した経歴があり、作曲家としてはミシェル・カマという筆名を使う。編集者としては、サンリオから刊行されていた雑誌『詩とメルヘン』の編集長を長年務めた(1973年 - 2003年)。現在は季刊雑誌『詩とファンタジー』に責任編集という形で関わっている。

上記のように多彩な仕事を手がけているが、『アンパンマン』の人気が上がって売れっ子になった時はすでに50代後半になっており[2]、漫画家としては大変に遅咲きであった。年齢が90歳を超えて、2010年(平成22年)には引退も考えるが、翌年3月に東北地方太平洋沖地震が起こったことから思いとどまり、未だ現役で活動を続けている[3]

目次

[編集] 略歴

やなせの自伝によると、在所の実家は伊勢平氏の末裔で300年続く旧家であったという[4]。父は上海東亜同文書院を卒業後、講談社で編集者を務めていた。やなせはその時期に出生したため、生誕地は当時の家族が居住していた東京府北豊島郡滝野川町字西ヶ原である[5]。父はやなせの生まれた翌年東京朝日新聞に入社して、1923年(大正12年)に特派員として単身上海に渡る。その後、やなせも母とともに上海に移り住むも、まもなく父がアモイに転勤となり、母や弟・千尋(中国で出生。のち京都帝国大学学生から海軍予備学生となり、フィリピンで特攻隊員として戦死)とともに在所村の実家に移る。1924年(大正13年)に父がアモイで死去した。やなせは母や弟とともに高知市に暮らすようになる。弟は一足先に後免町(現・南国市)で開業医を営んでいた伯父(父の兄)に引き取られたが、その後母が再婚したため、弟と同じく伯父に引き取られて育てられる。弟は跡取りとして迎えられたのに対し、後から引き取られたやなせは書生部屋をあてがわれるなど待遇に違いがあったという。後免野田組合小学校(現・南国市立後免野田小学校)、高知県立高知城東中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)に進む。少年時代は『少年倶楽部』を愛読し、中学生の頃から絵に関心を抱いて東京高等工芸学校図案科(現・千葉大学工学部デザイン学科)に進学した。当時の同期生に風間完がいる。卒業後、田辺製薬(現・田辺三菱製薬)宣伝部に職を得る。

1941年(昭和16年)に徴兵されて、野戦重砲兵として日中戦争に出征する。乙種幹部候補生に合格して、主に高等司令部において中国人・中国兵向けのプロパガンダ宣伝ビラ伝単)の制作を担当した。紙芝居を作って、地元民向けに演じたりもした。最終階級は陸軍軍曹。従軍中は戦闘のない地域にいたため、一度も敵に向かって銃を撃つことはなかったが、従軍中に食糧不足による空腹を体験したこと、また復員後に弟の戦死を知ったことなどから反戦感情を持つこととなる。

終戦後はクズ拾いを経て高知新聞記者になり、後に夫人となる小松暢と出会う。1947年(昭和22年)に小松を追う形で上京して、三越宣伝部のグラフィックデザイナーになり、三越在社中に漫画集団に所属、副業で漫画家をしていた。三越では、包装紙「華ひらく」(図案は猪熊弦一郎)に書かれた「mitsukoshi」のレタリングを手掛ける。1953年(昭和28年)3月に三越を辞めて、34歳で専業漫画家となった[1]。漫画で得る収入が三越の給料を三倍ほど上回ったことで独立を決意したという。

独立はしたものの漫画家としてはなかなか芽が出ず、漫画やイラストの仕事よりも舞台装置の製作や放送作家作詞家としての仕事の方が多かった[6]。作詞家としては、いずみたく作曲のポピュラー・ソング『手のひらを太陽に』の仕事が有名。性教育用語「ワレメちゃん」を、『ウルトラQ』脚本家北沢杏子とともに考案した事でも知られる。

1966年(昭和41年)に山梨シルクセンター(現・サンリオ)の辻信太郎社長の薦めで出した詩集『愛する歌』で詩人としてデビューをした。以後、大人向けの詩集や絵本を次々に刊行して、1973年(昭和48年)には雑誌『詩とメルヘン』を立ち上げた。同年出版した子供向け絵本『あんぱんまん』が転機となり、現在は主に子供向けの童話や絵本で知られる。

香美市立やなせたかし記念館「アンパンマンミュージアム」が1996年(平成8年)7月に、同「詩とメルヘン絵本館」が1998年(平成10年)8月に、それぞれ出身地である高知県香美市で開館された。2008年(平成20年)、東京国際アニメフェア2008 第4回功労賞を表彰受賞。最近では、高知県須崎市の新名物・鍋焼きラーメンのイメージキャラクター「なべラーマンと、かわうそのカウちゃん」を、須崎商工会議所からの「鍋焼きラーメン・Xプロジェクトに賛同してほしい」という要請を受けて制作している。

1993年(平成5年)に暢夫人が逝去して、現在は独身である。独り身に戻ってからは、誕生日などのイベントに「架空結婚式」(相手は里中満智子など)も行ったりしている。2003年(平成15年)にはCDを発売して歌手デビューを果たして、コンサートも年に数回行っている。

[編集] エピソード

  • 血液型AB型
  • 暢夫人との間に子供は無く、アンパンマンを2人の子供であるとしている[7]
  • 称号東京都新宿区名誉区民
  • 絵柄はエルジェの影響を受けている[8]
  • 高校の先輩である横山隆一から大きな影響を受けた(中学時代、横山隆一の妻の弟と席が隣同士だった)。
  • 朝食はパン食に徹している。本人曰く「御飯では胃がもたれるから必ずパンにしている」との事[9]。又、パンは自家製で、製パン機を所有している。パンと一緒にけんちん汁(本人は「けんちんスープ」と称している)も作って食べている。又、朝食の後はもう一度数時間程度睡眠を取り、それから仕事をするらしい。
  • 公の場に出る時はテンガロンハットサングラス、カウボーイブーツというファッションを愛用している。
  • 日本漫画家協会賞の選考委員長、漫画甲子園の選考委員も務めている。
  • 手塚治虫とは1960年代から手塚の晩年に至るまで親交があり、やなせは手塚が虫プロダクションで制作した劇場アニメ『千夜一夜物語』(1969年)に美術監督として参加し、キャラクターデザインも手がけた[10]。手塚はそのお礼として、やなせの原案によるアニメ映画『やさしいライオン』を制作している(大藤信郎賞を受賞)[11]2009年東京都江戸東京博物館で開催された「手塚治虫展」では、

    「ぼくが学んだのは、手塚治虫の人生に対する誠実さである。才能は努力しても、とてもかなわないが、誠実であることはいくらかその気になれば可能である。もちろん遠く及ばないにしても、いくらかは近づける。手塚治虫氏はその意味でぼくの人生の師匠である。」

    というやなせのコメントが紹介された(ちなみに、やなせは手塚より9歳年長である)。

[編集] 代表作

[編集] 童話・絵本

太字はアニメ化された作品を指す。

[編集] キャラクターデザイン

[編集] 作詞

  • 手のひらを太陽に(作曲:いずみたく日本の歌百選
  • 星の炎に(作曲:いずみたく)(テレビアニメ『宇宙エース』主題歌)
  • 勇気の歌(作曲:藤家虹二
  • しあわせよカタツムリにのって(作曲:信長貴富
  • 天使のパンツ(作曲者:天井正、編曲者:小森昭宏
  • 夕やけに拍手(第42回NHK全国学校音楽コンクール小学校の部課題曲)
  • 花と草と風と(作曲:蒔田尚昊)(第52回NHK全国学校音楽コンクール小学校の部課題曲)
  • 海と涙と私と(作曲:木下牧子泉周二
  • ひばり(作曲:木下牧子)
  • ユレル(作曲:木下牧子、泉周二)
  • ロマンチストの豚(作曲:木下牧子、泉周二)
  • さびしいカシの木(作曲:木下牧子、泉周二)
  • 新宿区立新宿養護学校校歌「ひまわりの歌」(作曲:山崎唯
  • 誰かがちいさなベルをおす
  • しろいうま(作曲・編曲:タテタカコ
  • うなぎ小唄(作曲:ミッシェル・カマ)
  • 星の木の下で(作曲:ミッシェル・カマ、編曲:タテタカコ)
  • ナマコの行進曲(マーチ)(作曲:いずみたく)

[編集] それいけ!アンパンマン

  • アンパンマンのマーチ
  • 勇気りんりん
  • 勇気の花がひらくとき
  • 生きてるパンをつくろう
  • いくぞ!ばいきんまん
  • アンパンマンたいそう

[編集] 本人歌唱

[編集] 自伝

[編集] 出演

[編集] 出典

  1. ^ a b 『人生なんて夢だけど』P122
  2. ^ 『アンパンマン』の人気は年の経過と共に少しずつ上がっていったので、人気漫画家になった年代をもっと遅く捉えることもできる。『アンパンマン』のアニメがスタートしたのも彼が69歳の時であり、本人は「僕は70歳間近になって、やっとヒットした超遅咲き」と語っている。
  3. ^ 丁野奈都子 (2011年6月17日). “心に響く世界最弱のヒーロー アンパンマンの正義 〜やなせたかしさんに聞く”. 日経トレンディ. p. 2. 2011年11月5日閲覧。
  4. ^ 『人生なんて夢だけど』P22。
  5. ^ 『人生なんて夢だけど』P37。
  6. ^ あとぴナビ / スペシャルインタビュー
  7. ^ 『アンパンマンの遺書』
  8. ^ マンガ家インタビュー | 京都国際マンガミュージアム
  9. ^ 昼食・夕食も米飯は殆ど食べないらしい。
  10. ^ 手塚治虫アニメワールド
  11. ^ 虫プロスタッフだった真佐美ジュンのブログによるやさしいライオン - 真佐美 ジュン(2006年12月7日付、2011年5月3日閲覧)。
  12. ^ やなせ本人をモチーフとしたウサギのキャラクター。

[編集] 関連項目

[編集] 外部リンク

[編集] インタビュー

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