昭和天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
| 昭和天皇 | |
|---|---|
| 第124代天皇 | |
昭和天皇
|
|
| 在位 | 1926年12月25日-1989年1月7日 |
| 在位中の時代 | 昭和 |
| 在位中の首都 | 東京 |
| 在位中の皇居 | 宮城・皇居 |
| 諱 | 裕仁 |
| 幼称 | 迪宮 |
| 別名 | 摂政宮 |
| 印 | 若竹 |
| 出生 | 1901年4月29日 東京府東京市(東宮御所) |
| 死去 | 1989年1月7日 東京都千代田区(吹上御所) |
| 陵墓 | 武蔵野陵 |
| 先代 | 大正天皇 |
| 次代 | 今上天皇 |
| 皇后 | 香淳皇后 |
| 子女 | 照宮成子内親王 久宮祐子内親王 孝宮和子内親王 順宮厚子内親王 継宮明仁親王 義宮正仁親王 清宮貴子内親王 |
| 父親 | 大正天皇 |
| 母親 | 貞明皇后 |
昭和天皇(しょうわてんのう、明治34年(1901年)4月29日 - 昭和64年(1989年)1月7日)は、日本の第124代天皇。諱は裕仁(ひろひと)。幼少時の御称号は迪宮(みちのみや)。お印は若竹(わかたけ)。歴代天皇の中で(神話上を除くと)在位期間が最も長く、最も長寿であった。
目次 |
略歴
明治34年(1901年)4月29日、東京府東京市赤坂区青山(現、東京都港区元赤坂)の東宮御所に於いて、明治天皇の皇太子・嘉仁親王(後に践祚して大正天皇)の第一男子として生誕。迪宮裕仁(みちのみや・ひろひと)と命名された。産まれたとき、身長は51珊知米突(cm)、体重800匁(約3kg)であったという。
生後70日で枢密顧問官の伯爵・川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育された。明治40年(1908年)、学習院初等科に入学し、学習院院長・乃木希典(陸軍大将)の厳格な教育を受けた。
明治45年(1912年)7月30日、祖父・明治天皇が崩御し、父・皇太子嘉仁親王が践祚したことに伴い、皇太子となる。元号が大正と改元された後、学習院初等科在学中に皇族身位令の定めにより陸海軍少尉に任官し、近衛歩兵第一連隊および第一艦隊附となった。
大正3年(1914年)3月、学習院初等科を卒業。大正5年(1916年)年、立太子礼を経て正式に皇太子となった。
大正7年(1918年)、久邇宮邦彦王の第一女子・良子女王が皇太子妃に内定。大正8年(1919年)、満18歳となり、成年式が執り行なわれた。大正天皇の病状悪化の中で、大正10年(1921年)3月3日から同年9月3日まで、イギリスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪。同年11月25日、20歳で摂政に就任し、摂政宮(せっしょうみや)と称された。同年12月27日には、虎ノ門付近で狙撃されるが、命中を免れ命を取り留めた(虎ノ門事件)。大正13年(1924年)に、良子女王と結婚した。
大正15年(1926年)12月25日、父・大正天皇の崩御を受け、葉山御用邸に於いて践祚して第124代天皇となり、昭和に改元[1]。
昭和3年(1928年)11月、京都御所で即位の大礼を行った。軍事・外交政策にはしばしば独自の判断を示し、後に終戦の国策決定に深く関与した。
昭和8年(1933年)12月23日、第一皇男子・継宮明仁親王が降誕(誕生)。
昭和20年(1945年)8月、ポツダム宣言受諾を決定し、同15日、戦争終結を告げるラジオ放送(玉音放送)により、歴代天皇で初めて国民に天皇の声を聞かせた。
昭和21年(1946年)1月1日の詔書(いわゆる人間宣言)により、天皇の神格性や「世界ヲ支配スベキ運命」などを否定し、新日本建設への希望を述べた。
昭和22年(1947年)に施行された日本国憲法において、天皇は国家元首から、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされ、「国政に関する権能を有しない」とされたが、占領期にはGHQ総司令官ダグラス・マッカーサーとの会見などにより、独自の政治的影響力を保持した。
昭和27年(1952年)4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効して日本が主権を回復したことに伴い、伊勢神宮と神武天皇の畝傍山陵、明治天皇の伏見桃山陵、靖国神社をそれぞれ親拝し、日本の国家主権回復を奉告した。戦後は、天皇としての公務の傍ら、生物学研究者としての業績をあげた。
昭和46年(1971年)、皇后と共にイギリス、オランダなどを歴訪。昭和50年(1975年)、皇后と共にアメリカ合衆国を訪問した。
昭和56年(1981年)、新年一般参賀にて初めて「お言葉」を述べた。昭和61年(1986年)には在位60年記念式典が挙行され、(神代を除き)歴代天皇で最長の在位期間を記録した。
昭和62年(1987年)9月22日、歴代天皇で初めて開腹手術を受けた。昭和63年(1988年)8月15日、全国戦没者追悼式に出席。これが公の場への、最後の出席となった。
昭和64年(1989年)1月7日午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)により崩御(87歳)。歴代の天皇で(神代を除き)最も長寿であった。在位中の元号である昭和より、昭和天皇と追号された。
平成元年(同年)2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行なわれ、武蔵野陵に埋葬された。
年表
- 明治34年(1901年)4月29日(22時10分)、青山の東宮御所で生まれる。称号は迪宮(みちのみや)。生後70日で枢密顧問官の伯爵川村純義に預けられ、沼津御用邸で養育される。
- 明治40年(1908年)学習院初等科に入学。学習院院長・乃木希典(陸軍大将)から厳格な教育を受ける。
- 大正元年(1912年)陸海軍少尉 近衛歩兵第一連隊・第一艦隊附となる。
- 大正3年(1914年)3月、学習院初等科を卒業。4月、陸海軍中尉任官。
- 大正5年(1916年)陸海軍大尉昇任。立太子礼を経て皇太子となる。
- 大正7年(1918年)良子女王が妃に内定する。
- 大正8年(1919年)成年式。
- 大正8年(1919年)陸海軍少佐に昇任。
- 大正10年(1921年)3月3日から同年9月3日までイギリスをはじめヨーロッパ諸国を歴訪する。ロンドンにおいて、ロバート・ベーデン・パウエル卿と謁見し、ボーイスカウトイギリス連盟の最高功労章であるシルバー・ウルフ章を贈呈される。
- 大正10年(1921年)11月25日、20歳で摂政に就任する(摂政宮と称される)。
- 大正12年(1923年)10月、陸海軍中佐昇任。12月27日、虎ノ門付近で無政府主義者の難波大助に狙撃されるが、命中を免れ命を取り留める。(虎ノ門事件)
- 大正13年(1924年)良子女王と結婚。
- 大正14年(1925年)10月、陸海軍大佐に昇任。
- 大正15年(1926年)12月25日、大正天皇の崩御を受け践祚し、昭和と改元。葉山の御用邸内において剣璽渡御の儀を行なう。
- 昭和元年(1926年)第124代天皇、陸海軍大元帥となる。
- 昭和3年(1928年)11月、京都御所にて即位の大礼を行なう。12月、御大典記念観兵式。
- 昭和4年(1929年)神島(和歌山県田辺市)への行幸の際、南方熊楠から、粘菌などに関する進講を受ける。
- 昭和8年(1933年)12月23日、第一皇男子継宮明仁親王降誕(皇族の誕生を示す用語)。
- 昭和15年(1940年)皇居前広場において皇紀2600年奉祝式典に出席。
- 昭和16年(1941年)12月8日、太平洋戦争開戦。
- 昭和20年(1945年)8月15日正午、国民に対してラジオ放送を通じて「戦争終結」を告げた(玉音放送)。歴代天皇で初めて、一般国民に天皇の肉声を聞かせる。9月2日、東京湾内・アメリカ軍艦・ミズーリ号上にて日本政府および軍代表が降伏文書に署名する。
- 昭和21年(1946年)1月1日、新日本建設に関する詔書を煥発する。
- 昭和27年(1952年)4月28日、サンフランシスコ講和条約発効。講和報告のため伊勢神宮と畝傍山陵・桃山陵、靖国神社をそれぞれ親拝。
- 昭和34年(1959年)、皇太子明仁親王と正田美智子の成婚に出席(朝見の儀において)。
- 昭和37年(1962年)南紀白浜にて、30年前に訪れた神島を眺めつつ、熊楠をしのぶ歌「雨にけふる神島を見て紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」を詠んだ。
- 昭和46年(1971年)9月27日より、香淳皇后とともにイギリス、オランダなどを歴訪する。
- 昭和50年(1975年)9月30日から同年10月14日まで、皇后とともにアメリカを訪問する。
- 昭和56年(1981年)新年一般参賀で初めて参集した国民に向かい「お言葉」を述べる。
- 昭和62年(1987年)9月22日、歴代天皇で初めての開腹手術。
- 昭和63年(1988年)8月15日、全国戦没者追悼式に御出席、これが公の場への最後の御出席となる。
- 昭和64年(1989年)1月7日・午前6時33分、十二指腸乳頭周囲腫瘍(腺がん)により崩御(死去)、87歳。
- 平成元年(1989年)2月24日、新宿御苑において大喪の礼が行われ、武蔵野陵に埋葬される。
系譜
| 昭和天皇 | 父: 大正天皇 |
祖父: 明治天皇 |
曾祖父: 孝明天皇 |
| 曾祖母: 中山慶子 |
|||
| 祖母: 柳原愛子 |
曾祖父: 柳原光愛 |
||
| 曾祖母: 柳原光愛室 |
|||
| 母: 貞明皇后 |
祖父: 九条道孝 |
曾祖父: 九条尚忠 |
|
| 曾祖母: 九条尚忠室 |
|||
| 祖母: 野間幾子 |
曾祖父: 野間幾子父 |
||
| 曾祖母: 野間幾子母 |
系図
| (122)明治天皇 |
|
(123)大正天皇 |
|
(124)昭和天皇 |
|
(125)今上天皇 |
|
皇太子徳仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
秩父宮雍仁親王 |
|
|
常陸宮正仁親王 |
|
|
秋篠宮文仁親王 |
|
悠仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
高松宮宣仁親王 |
|
|
寛仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
三笠宮崇仁親王 |
|
|
桂宮宜仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
高円宮憲仁親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
皇子女
香淳皇后との間に7人の皇子女を儲ける。以下誕生順。
- 照宮成子内親王(てるのみや しげこ、大正14年(1925年)-昭和36年(1961年)) - 盛厚王妃
- 久宮祐子内親王(ひさのみや さちこ、昭和2年(1927年)-昭和3年(1928年))
- 孝宮和子内親王(たかのみや かずこ、昭和4年(1929年)-平成元年(1989年)) - 鷹司平通夫人
- 順宮厚子内親王(よりのみや あつこ、昭和6年(1931年)-) - 池田隆政夫人
- 継宮明仁親王(つぐのみや あきひと、昭和8年(1933年)-) - 第125代天皇・今上天皇
- 義宮正仁親王(よしのみや まさひと、昭和10年(1935年)- ) - 常陸宮
- 清宮貴子内親王(すがのみや たかこ、昭和14年(1939年)- ) - 島津久永夫人
主な出来事
宮中某重大事件
詳細は「宮中某重大事件」を参照
大正7年(1918)の春、久邇宮邦彦王を父にもち、最後の薩摩藩主・島津忠義の七女・俔子を母にもつ、久邇宮家の長女・良子女王(香淳皇后)が、皇太子妃に内定し、翌大正8年(1919年)6月に正式に婚約が成立した。
しかし11月に、元老・山縣有朋が、良子女王の家系(島津家)に色盲遺伝があるとして婚約破棄を進言。 山縣は西園寺公望や原敬首相と連携して久邇宮家に婚約辞退を迫ったが、長州閥の領袖である山縣が薩摩閥の進出に危惧を抱いて起こした陰謀であるとして、民間の論客・右翼から非難されることとなった。当初は辞退やむなしの意向だった久邇宮家は態度を硬化させ、最終的には裕仁親王本人の意志が尊重され、大正10年(1921年)2月に宮内省から「婚約に変更なし」と発表された。
事件の責任を取って、中村雄次郎宮内大臣は辞任し、山縣は枢密院議長など一切の官職の辞表を提出した。しかし、同年5月に山縣の辞表は詔により却下された。この事件に関して山縣はその後一言も語らなかったという。翌大正11年(1922年)2月に山縣はひっそり世を去った。
婚礼の儀の延期と関東大震災
大正12年(1923年)の関東大震災と、地震に於ける東京の惨状を視察した皇太子裕仁親王(当時摂政であった)は大変心を痛め、自らの婚礼の儀について「民心が落ち着いたころを見定め、年を改めて行うのがふさわしい」という意向を示して、翌大正13年(1924年)1月に延期した。
この関東大震災で裕仁親王は、後に「加藤のおかげで命拾いをした」と語っている。背景には、霞関離宮が修理中であったために箱根(大きな震災を被った)へ行く予定であったが、当時の内閣総理大臣加藤友三郎が急逝したことによる政治空白が発生していた(加藤友三郎首相逝去後は、宮中席次筆頭の内田康哉外相が内閣総理大臣臨時代理を務めていた)ため、東京の宮城(皇居)に留まったことにある[2]。
後年、昭和56年(1981年)の記者会見で、昭和天皇は関東大震災について「その惨憺たる様子に対して、まことに感慨無量でありました」と述懐している。
田中義一首相を叱責
満州某重大事件の責任者処分に関して、内閣総理大臣・田中義一は責任者を厳正に処罰すると昭和天皇に約束したが、軍や閣内の反対もあって処罰しなかった時、天皇は「それでは前の話と違うではないか」と田中の食言を激しく叱責した。その結果、田中内閣は総辞職したとされる(田中はその後間もなく死去)。
田中内閣時には、若い天皇が政治の教育係ともいえる牧野伸顕内大臣の指導の下、選挙目当てでの内務省の人事異動への注意など積極的な政治関与を見せていた。そのため、軍人や右翼・国粋主義者の間では、この事件が牧野らの「陰謀」によるもので、意志の強くない天皇がこれに引きずられたとのイメージが広がった。天皇の政治への意気込みは空回りしたばかりか、権威の揺らぎすら生じさせることとなった。
この事件で、天皇はその後の政治的関与について臆病になったという。
なお、『昭和天皇独白録』には、「辞表を出してはどうか」と天皇が田中に内閣総辞職を迫ったという記述があるが、当時の一次史料(『牧野伸顕日記』など)を照らしあわせると、そこまで踏み込んだ発言はなかった可能性もある。
昭和天皇が積極的な政治関与を行った理由について、伊藤之雄は牧野の影響の下で天皇が理想化された明治天皇のイメージ(憲政下における明治天皇の実態とは異なる)を抱き親政を志向したため、原武史は地方視察や即位後続発した直訴へ接した体験の影響によると論じている。
「天皇機関説」事件
昭和10年(1935年)、天皇機関説が排撃された天皇機関説事件について、昭和天皇は侍従武官長・本庄繁に「美濃部説の通りではないか。自分は天皇機関説で良い」と言った。昭和天皇が帝王学を受けた頃には憲法学の通説であり、昭和天皇自身、「美濃部は忠臣である」と述べていたにもかかわらず、直接・間接には何ら行動を起こすことはなかった。機関説に関しての述懐を、昭和天皇のリベラルな性格の証左としながら、同時に美濃部擁護で動かなかったことを君主の非政治性へのこだわりとする記述がしばしば見られる。
機関説は、「国家法人説」と呼ばれるドイツの学説に由来するが、この学説は国家の本質を「法人」とする点において主権および主権者の存在をあいまいにする意図をもった学説であり、当時すでに、後発資本主義国であり、外見的立憲主義の典型とされていたドイツにおいてさえ「時代遅れ」とされていた。しかし、戦前期の日本においては、天皇を国家の一機関として観念するという点において、社会科学的思考と結びつく側面をもつと同時に、吉野作造の「民本主義」と並んで護憲運動や大正デモクラシーの理論的バックボーンを演じていたことは、日本資本主義がドイツよりもさらに後発であることと、立憲主義がさらに外見的であったことを反映していた。しかし、昭和天皇がそこまでの理解を持っていたかは疑問である[要出典]。昭和天皇の理解していた機関説は、「一機関」としての性質を強調する一木-美濃部ラインのものではなく、有機体の「頭部」であることを強調する、清水澄の学説に近かったとする説もある。
二・二六事件
昭和11年(1936年)に起きた陸軍皇道派青年将校らによる二・二六事件の際、侍従武官長・本庄繁陸軍大将が青年将校たちに同情的な進言を行ったところ、昭和天皇は怒りも露に「朕が股肱の老臣を殺りくす、此の如き兇暴の将校等の精神に於て何ら恕す(許す)べきものありや(あると言うのか)」「老臣を悉く倒すは、朕の首を真綿で締むるに等しき行為」と述べ、「朕自ら近衛師団を率ゐこれが鎮圧に当らん」と発言したとされる[3]。この事は「君臨すれども統治せず」の立憲君主の立場を採っていた天皇が、政府機能の麻痺に直面して初めて自らの意思を述べたとも言える。この天皇の意向ははっきりと軍首脳に伝わり、決起部隊を反乱軍として事態を解決しようとする動きが強まり、紆余曲折を経て解決へと向かった。
この時の発言について、太平洋戦争終結のいわゆる“ご聖断”と合わせて、「立憲君主としての立場(一線)を超えた行為だった」、「あの時はまだ若かったから」と後に語ったと言われている。
なお、昭和50年(1975年)にエリザベス女王が来日した際、事件の影の首謀者と言われることもある真崎甚三郎の息子を、昭和天皇は自分の通訳に選んでいる。
太平洋戦争
開戦
昭和16年(1941年)9月6日の御前会議で、対英米蘭戦は避けられないものとして決定された。御前会議では発言しないことが通例となっていた昭和天皇はこの席で敢えて発言をし、明治天皇御製の
- 「四方の海 みなはらからと 思ふ世に など波風の 立ちさわぐらん」
- (四方の海にある国々は皆兄弟姉妹と思う世に なぜ波風が騒ぎ立てるのであろう)
という短歌を詠み上げた。
『昭和天皇独白録』などから、昭和天皇自身は開戦には消極的であったと言われている。ただし、『昭和天皇独白録』は占領軍に対する弁明としての色彩が強いとする吉田裕らの指摘もある。戦争が始まった後の昭和16年(1941年)12月25日には日本軍の勝利を確信して、「平和克復後は南洋を見たし、日本の領土となる処なれば支障なからむ」と語ったと小倉庫次の日記に記されている。
戦争指導
戦争初期のころは、文字通り世界中で日本軍が戦果をあげていた状況で、昭和天皇は各地の戦況を淡々と質問していた。この点で昭和天皇の記憶力は凄まじいものがあったと思われ、実際に幾つか指示等もしている。また、この様なやりとりのなかで答えてしまったがために、後にはひけずにオーストラリアやニュージーランドなどオセアニア付近へ戦局を広げねばならなくなってしまった経緯が存在する。
和平に向けて
昭和20年(1945年)1月6日に、連合国軍がルソン島上陸の準備をしているとの報を受けて、昭和天皇は木戸幸一に重臣の意見を聞くことを求めた。この時、木戸は陸海両総長と閣僚の召集を勧めている[4]。 準備は木戸が行い、軍部を刺激しないように秘密裏に行われた。表向きは重臣が天機を奉伺するという名目であった[5]。
詳細は「近衛上奏文」を参照
そのなかで特筆すべきものとしては、2月14日に行われた近衛文麿の上奏がある。近衛は敗戦必至であるとして、和平の妨害、敗戦に伴う共産主義革命を防ぐために、軍内の革新派の一味を粛清すべきだと提案している。昭和天皇は、近衛の言うとおりの人事ができないことを指摘しており、近衛の策は実行されなかった[6][7]
東京大空襲の戦渦を視察し、関東大震災につづく帝都の破壊に直面した昭和天皇は、これをもって終戦を決意したと後に述懐している[要出典]。8月9日に、連合国によるポツダム宣言受諾決議案について長時間議論したが結論が出なかっため、首相・鈴木貫太郎の判断により天皇の判断(御聖断)を仰ぐことになった[8]。 昭和天皇は受諾の意思を表明し、8月15日、玉音放送。終戦となった。後に昭和天皇は侍従長の藤田尚徳に対して「誰の責任にも触れず、権限も侵さないで、自由に私の意見を述べ得る機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争をやめさせたのである」「私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」と述べている[9][10]。
象徴天皇への転換
人間宣言
詳細は「人間宣言」を参照
連合国による占領下の昭和21年(1946年)1月1日に、新日本建設に関する詔書(人間宣言)が官報により発布された。戦後民主主義は日本に元からある五箇条の誓文に基づくものであることを明確にするため、詔書の冒頭において五箇条の御誓文を掲げている[11][12]。 昭和52年(1977年)8月23日の昭和天皇の会見によると、日本の民主主義は日本に元々あった五箇条の御誓文に基づいていることを示すのが、この詔書の主な目的である[11][13][14]。
この詔書は人間宣言と呼ばれている。しかし、人間宣言はわずか数行で、詔書の6分の1しかない。その数行も事実確認をするのみで、特に何かを放棄しているわけではない[15]。
この詔書は、日本国外では天皇が神から人間に歴史的な変容を遂げたとして歓迎された。退位と追訴を要求されていた昭和天皇の印象もよくなった[15]。しかし、日本人にとってあたりまえのことを述べたにすぎなかったため、日本ではこの詔書がセンセーションを巻き起こすようなことはなかった[15]。昭和21年(1946年)1月1日、この詔書について新聞各紙の第一面で報道された。しかし、日本の平和や天皇は国民とともにあるといったことを報道するのみで、人間宣言にはほとんど触れていない。天皇の神格否定はニュースとしての価値が全くなかったのである[16]。
これと前後して、天皇がGHQ本部を表敬訪問した際に撮影された、GHQ総司令官でアメリカ陸軍のダグラス・マッカーサー元帥と一緒に並んだ全身写真が公開(情報局により「不敬」を理由に発禁処分となったという[17])されている。天皇が正装のモーニングを着用し直立不動でいるのに対し、マッカーサーがラフな服装で腰に手を当てたリラックスした態度であることに、国民は改めて敗戦の重みを思い知らされた。天皇はマッカーサーに比べて身長が低かったことも衝撃を与えている。また、マッカーサーは「天皇のタバコの火を付けたとき、天皇の手が震えているのに気がついた。できるだけ天皇の気分を楽にすることにつとめたが、天皇の感じている屈辱の苦しみがいかに深いものであるかが、私には、よくわかっていた」と回想している(『マッカーサー回想記』より)。
天皇イメージの転換
戦前の天皇は一般国民との接触はほとんど無く、公開される写真、映像も大礼服や軍服姿がほとんどで、現人神、大元帥と言う立場を非常に強調していた。
ポツダム宣言には天皇や皇室に関する記述が無く、非常に微妙な立場に追い込まれた。そのため、政府や宮内省などは、天皇の大元帥としての面を打ち消し、軍国主義のイメージから脱却すると共に、巡幸と言う形で天皇と国民が触れ合う機会を作り、天皇擁護の世論を盛り上げようと苦慮した。具体的に、第1回国会の開会式、伊勢神宮への終戦報告の親拝時には、海軍の軍衣から階級章を除いたような「天皇御服」と呼ばれる服装を着用した。
さらに、連合国による占領下では、礼服としてモーニング、平服としては背広を着用してソフト路線を強く打ち出した。また、いわゆる「人間宣言」でGHQの天皇制擁護派に近づくと共に、一人称として朕を用いるのが伝統であったのを私を用いたり、巡幸時には一般の国民と積極的に言葉を交わすなど、日本の歴史上最も天皇と庶民が触れ合う期間を創出した。
外遊
皇太子として
皇太子時代の大正10年(1921年)3月3日から同年9月3日までの間、イギリスやフランス、ベルギー、イタリア、バチカンなどを公式訪問した。これは史上初の皇太子の訪欧[18]であり、国内には反対意見も根強かったが、山縣有朋や西園寺公望などの元老らの尽力により実現した。
裕仁親王の出発は新聞で大々的に報じられた。お召し艦には戦艦香取が用いられた。イギリスでは日英同盟のパートナーとして大歓迎を受け、国王ジョージ5世やロイド・ジョージ首相らと会見した。ジョージ5世はバッキンガム宮殿での最初の夜、慣れぬ外国で緊張する当時の裕仁親王に父のように接し緊張を解いたという。
イタリアではヴィットーリオ・エマヌエーレ3世国王らと会見したほか、各国で公式晩餐会に出席したり、第一次世界大戦当時の激戦地などを訪れた。後に昭和天皇は「この外遊が非常に印象的であった」と述べている。
天皇として
昭和46年(1971年)には9月27日から10月14日にかけて17日間、再度イギリスやオランダ、スイスなどヨーロッパ諸国7カ国を訪問した。訪問先には数えられていないが、このとき、経由地としてアラスカのアンカレッジに立ち寄っており、アンカレッジ国際空港内でワシントンD.C.から訪れたアメリカ合衆国大統領のリチャード・ニクソンとも会見、実質的にアメリカも訪問している。当初の訪問地であるデンマークやベルギー、フランスなどでは暖かく歓迎された。
訪問先のフランスでは、当時イギリスを追われ事実上同国に亡命していた旧知のウィンザー公と隠棲先で再会、しばし歓談している。しかし、第二次世界大戦当時に植民地支配していたビルマや、インドネシアなどにおける戦いにおいて旧日本軍の捕虜となった退役軍人が多いイギリスとオランダでは抗議運動を受けることもあった。特に、植民地とその住人に対する搾取によって多大な利益を受けていたインドネシアを戦争の末に失い、アジアにおける拠点を完全に失ったオランダにおいては、生卵や魔法瓶を投げつけられ、同行した香淳皇后が憔悴したほど抗議はひどいものであった。
また、昭和50年(1975年)には、ジェラルド・R・フォード大統領(当時)の招待によって9月30日から10月14日まで14日間にわたって、アメリカ合衆国を公式訪問した。天皇の即位後の訪米は史上初の出来事である(これ以前に実現しなかった理由には、国事行為の臨時代行に関する法律が整備されていなかったという事情もあった)。これに先立つこと10余年前、皇太子明仁親王夫妻が訪米しており、この訪米は皇太子夫妻のつけた道筋を辿ってのものといえる。
なお、昭和48年(1973年)、昭和49年(1974年)にも訪米が計画されたが、調整不足もあって実現には至らなかった。訪米前には「アメリカ人は天皇の訪米にあまり関心がない」という報道がなされ、侍従長・入江相政によると、「天皇に対する激しい憎しみを露わにしたアメリカ人もいた」といい、関係者を悩ませた。
天皇はウィリアムズバーグに到着して後、2週間にわたってアメリカに滞在し、訪米前の予想を覆してワシントンD.C.やロサンゼルスなど、訪問先各地で大歓迎を受けた。10月2日フォード大統領との公式会見、10月3日のアーリントン国立墓地に眠る無名戦士の墓への献花、10月4日のニューヨークでのロックフェラー邸訪問とアメリカのマスコミは連日大々的に報道し、新聞紙面のトップは天皇の写真で埋まった(在米日本大使館の職員たちは、その写真をスクラップして壁に張り出したという)。ニューヨーク訪問時には、真珠湾攻撃の生き残りで構成されるパールハーバー生存者協会が天皇歓迎決議を行っている。訪米中は学者らしく、植物園などでのエピソードが多かった。
ホワイトハウス晩餐会でのスピーチでは、戦後アメリカが日本の再建に協力したことへの感謝の辞などが読み上げられた。ロサンゼルス滞在時にはディズニーランドを訪問し、ミッキーマウスの隣で微笑む写真も新聞の紙面を飾った。同地ではミッキーマウスの腕時計を購入したことが話題になった。昭和天皇の外遊は、この訪米が最後のものであった。
平成19年(2007年)現在で13回の海外訪問を行っている今上天皇と比較しても、回数はごく僅かである。しかし、二度の外遊はいずれも第二次世界大戦の痛手からの回復、国際社会への復帰を印象付けるに十分以上の成果を挙げたといえる。帰国の当日には二種類の記念切手が発行されており、この訪米が一大事業であったことを物語っている。
行幸
戦前、皇太子時代から盛んに国内各地に行啓、行幸を行った。特に正式に日本領として認められて日の浅い北海道、沖縄両地への行啓は大掛かりに実施され、記録に残っている。大正12年(1923年)には台湾に、大正14年(1925年)には南樺太にも行啓している。
戦後は昭和21年(1946年)2月から約9年かけて日本全国を巡幸し、各地で国民の熱烈な歓迎を受けた。三井三池炭鉱の地下1000mもの地底深くや、満州からの引揚者が入植した浅間山麓開拓地などにも赴いている。開拓地までの道路は当時整備されておらず、約2kmの道のりを徒歩で村まで赴いた。昭和22年(1947年)には原爆投下後初めて広島に行幸し、「家が建ったね」と復興に安堵する言葉を口にした。その他、行幸先でのエピソード、御製も非常に多い(天覧の大杉のエピソード参照)。
全国46都道府県を巡幸するも、沖縄巡幸だけは沖縄が第二次世帯大戦終結後長らくアメリカ軍の占領下にあったり、昭和50年(1975年)の皇太子訪沖の際にひめゆりの塔事件が発生したこともあり、ついに果たすことができず、死の床にあっても「もうだめか」と沖縄巡幸を行なえないことを悔やんでいた。
また、昭和39年(1964年)の東京オリンピック、昭和45年(1970年)の大阪万国博覧会、昭和47年(1972年)の札幌オリンピック、バブル経済前夜の昭和60年(1985年)の国際科学技術博覧会(つくば博)の開会式にも出席している。これらイベントの成功にどれほど寄与したかを正確に計ることはできないが、特に敗戦から立ち直りかけた時期のイベントである東京オリンピックの成功には、大きな影響を与えたと見られている。
病臥した昭和62年(1987年)秋にも、沖縄海邦国体への出席が予定されていた。病臥し自ら訪沖することが不可能と判明した後は、皇太子明仁親王を名代として派遣し、お言葉を伝えた。これに関して、「思はざる病となりぬ沖縄をたづね果たさむつとめありしを」との御製が伝わり、深い悔恨の念が思われる。代理として訪沖した皇太子明仁親王(今上天皇)は沖縄入りし代表者と会見した際、「確かにお預かりしてまいりました」と手にしたお言葉をおしいただき、真摯にこれを代読した。
スポーツ観戦
詳細は「天覧試合」を参照
相撲
皇太子時代から大変な好角家であり、皇太子時代には当時の角界に下賜金を与えて幕内優勝力士のために摂政賜杯を作らせている。天皇の即位に伴い、摂政賜杯は天皇賜杯と改名された。観戦することも多く、戦前戦後合わせて51回も国技館に天覧相撲に赴いている。
特に戦後は昭和30年(1955年)以降、病臥する昭和62年(1987年)までに40回、ほとんど毎年赴いており、贔屓の力士も蔵間、富士桜、霧島など複数が伝わっている。特に富士桜の取り組みには身を乗り出して観戦したと言われ、同タイプの力士であり毎回熱戦となる麒麟児との取り組みは、しばしば天覧相撲の日に組まれた。天皇は後に、少年時代に相撲をやって手を覚えたため、観戦時も手を知っているから非常に面白いと語った。
野球
昭和34年(1959年)には天覧試合として、プロ野球の巨人対阪神戦、いわゆる「伝統の一戦」を観戦している。天覧試合に際しては、当時の大映の永田雅一社長がこれを大変な栄誉としてとらえる言を残しており、相撲、野球の振興に与えた影響は計り知れないと言える。この後プロ野球において天覧試合は行われなかったが、プロ以外では昭和41年(1966年)11月8日の日米野球ドジャース戦が天覧に付されている。
靖国親拝
「靖国神社問題#天皇の親拝」も参照
昭和天皇は、終戦直後から昭和50年(1975年)まで以下のように靖国神社に親拝[19]していたが、昭和50年(1975年)を最後に靖国神社への親拝を行わなくなった。
- 昭和20年(1945年)8月20日(昭和天皇行幸)
- 昭和20年1(945年)11月・臨時大招魂祭(昭和天皇行幸)
- 昭和27年(1952年)4月10日(昭和天皇、香淳皇后行幸)
- 昭和29年(1954年)10月19日・創立八十五周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)
- 昭和32年(1957年)4月23日(昭和天皇、香淳皇后行幸)
- 昭和34年(1959年)4月8日・創立九十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)
- 昭和39年(1964年)8月15日・全国戦没者追悼式(昭和天皇、香淳皇后行幸)
- 昭和40年(1965年)10月19日・臨時大祭(昭和天皇行幸)
- 昭和44年(1969年)6月10日・創立百年記念大祭(昭和天皇、香淳皇后行幸)
- 昭和50年(1975年)11月21日・大東亜戦争終結三十周年(昭和天皇、香淳皇后行幸)
天皇が親拝を行わなくなった理由については、左翼過激派の活動の激化、宮中祭祀が憲法違反であるとする一部野党議員の攻撃など様々に推測されてきたが、近年『富田メモ』(日本経済新聞、2006年)・『卜部亮吾侍従日記』(朝日新聞、2007年4月26日)などの史料の記述から、昭和53年(1978年)に極東国際軍事裁判でのA級戦犯14名が合祀されたことへ昭和天皇が不快感をもっていたからとの説が浮上している。
ただし、例大祭に際しては勅使の発遣を行っているほか、ABC級戦犯も追悼の対象とされている全国戦没者追悼式には崩御直前の昭和63年(1988年)まで欠かさず出席していた。
歴史教科書問題の持ち上がった昭和57年(1982年)には、「わが庭のそぞろありきの楽しからず わざわひ多き今の世を思へば」、自身最後となる戦没者慰霊式典に参加した昭和63年(1988年)8月15日にも「やすらけき世を祈れどもいまだならず くやしくもあるかきざしみゆれど」との御製もある。御製に関しては、昭和天皇の大御歌も参照のこと。
「崩御」前後
昭和63年(1988年)の暮れに入って病臥すると、各地に病気平癒を願う記帳所が設けられたが、どこの記帳所でも多数の国民が記帳を行った。病臥の報道から一週間で記帳を行った国民は235万人にものぼり、最終的な記帳者の総数は900万人に達した。
- 各地の記帳所、記帳所の設置された場所
- 皇居前記帳所
- 千葉県民記帳所
- 葉山御用邸通用門記帳所
- 名古屋熱田神宮境内記帳所
- 京都御所前記帳所
- 福岡市庁舎内記帳所
- 東京都大島町 天皇陛下病気お見舞い記帳所
昭和63年(1988年)9月19日の吐血直後暫くの間、公式行事や儀式、歌舞音曲を伴う行事が自粛された。また、昭和64年(1989年)1月7日に崩御するまでの期間に、さまざまな「自粛」が行われた(以下はその例)。
- 昭和63年(1988年)の中日ドラゴンズのリーグ優勝ビールかけおよびパレードの自粛
- 昭和63年(1988年)の明治神宮野球大会中止
- 五木ひろしの結婚披露宴の中止(一般市民でも自粛・延期する人が続出)
- CM演出の「自粛」(井上陽水が出演した日産自動車セフィーロのCMで「みなさんお元気ですか?」の音声がカットされたことが有名)
- 全日本プロレス出場プロレスラー流血自粛(新日本プロレスは流血続行)
- 昭和63年(1988年)の「日本歌謡大賞」が中止
- テレビ番組(バラエティ番組の派手な演出など)の自粛
- 伝統行事の中止・縮小
この「自粛」は、同年の流行語となった。崩御直後は、以下のようなスポーツ・歌舞音曲を伴う行事などの自粛が行われた。
- 大相撲初場所の開催延期(初日を1日延期して1月9日から)
- TVCMの自粛、すべてのテレビ局(NHK教育テレビを除く)でニュースおよび追悼特番のみの特別放送体制(崩御から2日間)
- 昭和64年(1989年)の全国高校ラグビー決勝中止(大阪府・大阪工業大学高等学校と茨城県・茗溪学園高等学校の両校優勝)
- 昭和64年(1989年)の全国高校サッカー選手権大会が2日間順延
- 昭和64年(1989年)の爆風スランプの武道館ライブ順延
- 昭和64年(1989年)1月8日のラジオ体操の中止
- 昭和64年(1989年)1月8日の公演を宝塚歌劇団が中止
このほか、学校や塾で始業式を遅らせたり授業を中止するところも多数あった。また、地下鉄通路の広告の照明が落とされたり、パチンコ屋が店内で音楽を流さなかったなどの出来事も起こっている。
崩御とマスコミ報道
昭和天皇が高齢となった1980年代ごろ(特に、開腹手術の行われた昭和62年(1987年)以降)から、各マスコミは来るべき天皇崩御に備え、原稿や紙面構成、テレビ放送の計画など密かに報道体制を準備していた。そのなかで、来るべき崩御当日は「Xデー」と呼ばれるようになる。
昭和63年(1988年)9月19日の吐血直後は、すべての放送局が報道特番を放送。不測の事態に備えて日本放送協会(NHK)が終夜放送をおこなったほか、病状に変化があった際は直ちに報道特番が流され、人気番組でも放送が中止・中断されることがあった。また、一進一退を続ける病状や血圧・脈拍などが定時にテロップ表示された。9月時点で関係者の証言から癌であることが判明していたが、宮内庁・侍医団は天皇に告知していなかった[20]。そのため天皇がメディアに接することを想定し、具体的な病名は崩御までほとんど報道されなかった[21]。
昭和64年(1989年)1月7日の危篤報道(午前6時35分発表)および崩御(午前7時55分発表)から翌1月8日終日までは、NHK(総合)および民放各局が特別報道体制に入り、崩御報道を受けてのニュース、あらかじめ制作されていた昭和史を回顧する特集、昭和天皇の業績を偲ぶ番組などが放送された。7日の新聞朝刊には通常のニュースや通常のテレビ番組編成が掲載されていたが、号外および夕刊には各新聞ほとんど最大級の活字で「天皇陛下崩御」と打たれ、テレビ番組欄も通常放送を行ったNHK教育の欄以外はほとんど白紙に近いものが掲載された。NHK教育テレビ以外すべてのテレビ局が特別報道を行ったため、多くの人々がレンタルビデオ店などに殺到する事態も生じた。
特別番組では「激動の昭和」という言葉が繰り返し用いられ、以後定着した。1月8日に日付が切り替わる直前には「昭和が終わる」ことに思いを馳せた人々が町の時計塔の写真を取る、二重橋などの名所に佇み日付変更の瞬間を待つなどの姿が報道された。
昭和64年(1989年)1月7日のNHK朝の『ワイドニュース』(6時36分から3時間24分間)の平均視聴率は32.6%、大喪の礼の日(2月24日)のNHK『ニューススペシャル・昭和天皇大喪の日』(8時30分から4時間40分間)の平均視聴率は44.5%を記録した(視聴率はビデオリサーチ・関東地区調べによる)。
新元号が「平成」という報道は毎日新聞が最も早く報じ、「リベンジを果たした」と、光文事件と結びつけた報道がなされた。翌1月8日から新聞活字に「平成元年」の文字が初めて現れることになった。
関連項目
逸話
皇太子時代
- 幼少時、養育係の足立たか(後の鈴木貫太郎夫人)を敬慕し、多大な影響を受けた。学習院初等科時代、「尊敬する人は誰か?」という教師の質問に対し、生徒の全員が「明治天皇」を挙げたのに対し、裕仁親王一人だけ「源義経」を挙げた。教師が理由を聞くと、「おじじ様(明治天皇)の事はよく知らないが、義経公の事はたかがよく教えてくれたから」と答えたという。
- 初等科時代の学習院院長・乃木希典を「院長閣下」と呼び尊敬していた。ある人が「乃木大将」と乃木を呼び捨てたのに対し、「それではいけない。院長閣下と呼ぶように」と注意したという。大正元年(1912年)の乃木殉死の日、乃木の「これからは皇太子として、くれぐれも御勉学に励まれるように」との訓戒に対し、裕仁親王は「院長閣下はどこに行かれるのですか?」と質問したという。
- 司馬遼太郎の『殉死』によれば、この際乃木は山鹿素行の『中朝事実』の講義を行なったという。これを読んだ中曽根康弘が約55年の後、その事実について尋ねたところ「あったのかもしれない」とのみ述懐した。乃木の朱が入ったその稿本は、宮内庁書陵部に長く保存されていたという。
- 学習院時代、学友たちがお互いを名字で「呼び捨て」で呼び合うことを羨ましがり、御印から「竹山」という名字を作り、呼び捨てにしてもらおうとした(実際、この皇太子の提案に学友が従ったかどうかは不明)。
- 皇太子時代にイギリスを訪問したとき、ロンドンの地下鉄に初めて乗車した。このとき改札で切符を駅員に渡すことを知らず、切符を取り上げようとした駅員ともみ合いになり(駅員は、この東洋人が日本の皇太子だとは知らなかった)、とうとう切符を渡さず改札を出た。この切符は後々まで記念品として保存されたという。
- この外遊に際して、理髪師の大場秀吉が随行。大場は裕仁親王の即位後も専属理髪師として仕え続け、日本史上初の「天皇の理髪師」となった。天皇の専属の理髪師は戦前だけで五人交代している。この大場をはじめ、昭和天皇に仕えた近従は「天皇の○○」と呼ばれることが多い。
- 皇太子時代から「英明な皇太子」として喧伝され、即位への期待が高かった。北海道、沖縄、台湾はじめ各地への行啓も行なっている。北海道行啓では先住民族が丸木舟に乗って出迎えた。
天皇時代
戦前
- 大正天皇が先鞭をつけた一夫一婦制を推し進めて、「側室候補」として「未婚で住み込み勤務」とされていた女官の制度を改め「既婚で、自宅通勤」を認めた。
- 父・大正天皇について、激務に身をすり減らした消耗振りを想起して「父は天皇になるべきではなかった」と語ったことがある。長弟・秩父宮も同様の発言をしている。
- 晩餐時、御前で東條英機・杉山元の両大将が「酒は神に捧げるが、煙草は神には捧げない」「アメリカの先住民は瞑想するのに煙草を用いる」などと酒と煙草の優劣について論争したことがあるが、自身は飲酒も喫煙もしなかった。酒は一度試して悪酔いし、以後だめになったとも伝わる。
- 「天皇の料理番」秋山徳蔵が晩餐会のメインディッシュであった肉料理に、天皇の皿だけ肉をくくっていたたこ糸を抜き忘れて供し、これに気付いて辞表を提出した際には、招待客の皿について同じミスがなかったかを訊ね、秋山がなかったと答えると「以後気をつけるように」と言って許したという。孫の紀宮清子内親王にも同様のエピソードが伝わっている。
- 学習院在学中に古式泳法の小堀流を学んだ。即位後、皇族でもできる軍事訓練として寒中古式泳法大会を考案した。御所には屋外プールが存在した。
- アドルフ・ヒトラーから当時ダイムラー・ベンツ社の最高ランクだったメルセデス・ベンツの770K(通称:グロッサー・メルセデス)を贈呈され乗っていたが、非常に乗り心地が悪かったため好まなかったと伝わる。ちなみにこのグロッサーの車体はドイツ製ではなく、日本で作られたもので骨組みは竹製、外装は樹脂製であったという。このほか、菊紋をあしらったモーゼルなども贈られたと言われる。
戦時中
- 南太平洋海戦の勝利を「小成」と評し、ガダルカナル島奪回にいっそう努力するよう海軍に命じている。歴戦のパイロットたちを失ったことにも言及している。
- ミッドウェー海戦の敗北にも泰然自若たる態度を崩すことはなかったが、ガタルカナル以降は言動に余裕がなくなったという。戦時中の最も過酷な状況の折、宮中の執務室で「この懸案に対し大臣はどう思うか…」などの独り言がよく聞こえたという。
- 原爆や細菌を搭載した風船爆弾の製造を中止させたと伝わるなど、一般的には平和主義者と考えられているが、戦争開始時には国家元首として勝てるか否かを判断材料としている。戦時中は「どうやったら敵を撃滅できるのか」と質問することがあり、太平洋戦争開戦後は海軍の軍事行動を中心に多くの意見を表明し、積極的に戦争指導を行っている。陸軍の杉山参謀総長に対し戦略ミスを指弾する発言、航空攻撃を督促する発言なども知られる。
- 陸海軍の仲違いや互いの非協力には内心忸怩たる物があった。昭和18年(1943年)、第三南遣艦隊司令長官拝命の挨拶の為に参内した岡新海軍中将に対して、赴任先のフィリピン方面での陸海軍の協力体制について下問があった。「頗る順調」という意味の返答をした岡中将に対して、「陸軍は航空機運搬船(あきつ丸・神州丸など)を開発・運用しているが、海軍には搭載する艦載機のない空母がある。なぜ融通しないのか?」と更なる下問があった。 その時はそれ以上の追求はなかったものの、時期が夏場だったこともあり、返答に窮する岡中将の背中には見る見るうちに汗染みが広がっていくのが見えたという。
- ガダルカナル島の戦いでの飛行場砲撃成功の際、「初瀬・八島の例がある。待ち伏せ攻撃に気をつけろ」と日露戦争の戦訓を引いて軍令部に警告を発したが、参謀の妨害にあって(事故とも伝わる)伝わらず、結果お召し艦であった比叡を失った。
- 戦争中、昭和天皇は靖国神社や伊勢神宮などへの参拝や宮中祭祀を熱心に行い、戦勝祈願と戦果の奉告を行っていた。原武史は、昭和天皇が熱心な祈りを通じて「神力によつて時局をきりぬけやう」[22]とするようになり、戦局の悪化にも関わらず戦争継続にこだわったとしている。[23]
- 天皇として自分の意を貫いたのは、二・二六事件と終戦の時だけであったと語っている。このことを戦後徳富蘇峰は「イギリス流の立憲君主にこだわりすぎた」などと批判している。
- 昭和20年(1945年)8月15日には、事前に録音された玉音放送が流され、天皇自身の声が国民に終戦を告げた。この放送における「耐へ難きを耐へ、忍び難きを忍び」の一節は終戦を扱った報道特番などで度々紹介されており、非常に知名度が高い(しかし、その発言はさほど重要ではない。詳しくは玉音放送を参照のこと)。
- 戦争を指導した側近や将官たちに対して、どのような感情を抱いていたのかを示す史料は少ない。『昭和天皇独白録』によれば、東條英機に対して「元来、東條という人物は話せばよく判る」、「東條は一生懸命仕事をやるし、平素いっていることも思慮周密で中々良い処があった」と評していた。もっとも、追い詰められた東條の苦しい言い訳には顔をしかめることもあったと伝わる。しかしながら、後に東條の葬儀には勅使を遣わしている。また、『昭和天皇独白録』などにより松岡洋右や白鳥敏夫、宇垣一成などには好感情を持っていなかったと推察されている。また、二・二六事件で決起将校たちに同情的な態度を取った山下奉文には、その人柄や国民的な人気、優れた将器にもかかわらず、この一件を理由として良い感情を持たなかったとも伝わる。マレー作戦の成功後も、天皇は山下に拝謁の機会を与えていない(もっとも、拝謁の機会を与えなかったのは東條英機の差し金によるものとも言われる)。なお晩年、『猪木正道著作集4』を読み、「特に近衛文麿と広田弘毅については正確だ」と、当時の首相中曽根康弘に伝えたという。この本では両者とも批判的に書かれており、天皇の人物観の一端が窺える[要出典]。
戦後
GHQ占領統治期
- 昭和21年(1946年)初春、巡幸が開始された当時は、君主国ではないアメリカ人が多くを占めていたこともあり、「神ではない、ただの猫背の中年男」、「石のひとつも投げられればいい」と天皇の存在感を軽視していたものも多かったGHQは、これを見て大いに驚いた。当時のイギリス紙は「日本は敗戦し、外国軍隊に占領されているが、天皇の声望はほとんど衰えていない。各地への巡幸において、群衆は天皇に対し超人的な存在に対するように敬礼した。何もかも破壊された日本の社会では、天皇が唯一の安定点をなしている」と書き、驚嘆を表した。
- 天皇の余りの影響力に、昭和21年(1946年)12月の中国地方巡幸の兵庫県における民衆の国旗を振っての出迎えが指令違反であるとしてGHQ民生局は巡幸を中止させたが、国民からの嘆願や巡幸を求める地方議会決議が相次いだため、昭和23年(1948年)からの巡幸再開を許可した。
- 巡幸開始の直前である昭和21年(1946年)1月18日には、名古屋で洋品店を経営していた熊沢天皇(寛道)がマッカーサーに陳情を行ない、天皇の巡幸の後を追いかける格好で全国遊説を開始し、対面を要求した。当初GHQは熊沢に利用価値を認め、外電や雑誌『ライフ』に報道、遊説には護衛の将校をつけるなど篤く遇していたが、天皇への国民の敬意が深いことが知れると、GHQの熊沢への処遇はどんどん薄くなっていった。同時に19人も存在した自称天皇も姿を消していった。
- 初の日本社会党政権の片山哲に対しては、「誠に良い人物」と好感を持ちながらも、急激な改革に走ることを恐れ、側近を通じて自分の意向を伝えるなど、戦後においても政治関与を行なっていたことが記録に残っている。また片山内閣の外相であった芦田均は内奏を望む昭和天皇への違和感を日記に記している[24]。
- 昭和24年(1949年)5月22日の佐賀県基山町の因通寺への行幸では、天皇暗殺を目的として洗脳されたシベリア抑留帰還者が、天皇から直接言葉をかけられ、一瞬にして洗脳を解かれ「こんなはずじゃなかった、俺が間違っておった」と泣き出したことがある。天皇は引き揚げ者に「長い間遠い外国でいろいろ苦労して大変だったであろう」と言葉をかけ、長い年月の苦労を労った。
- 同地ではまた、満州入植者の遺児を紹介されて「お淋しい」と言い落涙した。別の遺児には「また来るよ」と再会を約する言葉を残している。
- 行幸に際しては、食事についてなど、迎える国民に多くの生活に密着した質問をした。行幸の時期も、東北地方行幸の際には近臣の反対を押し切り「東北の農業は夏にかかっている」と農繁期である夏を選ぶなど、民情を心得た選択をし、国民は敬意を新たにした。
- 巡幸での炭鉱訪問の際、労働者から握手を求められたことがある。この時にはこれを断り、「日本には日本らしい礼儀がありますから、お互いにお辞儀をしましょう」とお互いにお辞儀をするという提案をして実行した。
主権回復後
- アメリカからの使節が皇居新宮殿について感想を述べたとき、「前のはあなたたちが燃やしたからね」と皮肉を返したと伝わる。皇居新宮殿以前に起居していた御常御殿は戦災で焼失しており、吹上御所が完成する昭和36年(1961年)まで、天皇は戦時中防空壕として使用した御文庫を引き続いて住まいとしていた。
- 戦後の全国行幸で多くの説明を受けた際、「あ、そう」という無味乾燥な受け答えが話題になった。もっともこの受け答えは後の園遊会などでもよく使われており、説明に無関心だったというよりは単なる癖であったと思われる。本人も気にして「ああ、そうかい」と言い直すこともあった。寛仁親王も、「陛下は『あ、そう』ばかりで、けっして会話が上手な方ではなかった」と語っている。もっとも謁見の機会を得た細川隆元は、その「あ、そう」一つとっても、
- 「ああ、そう、そう」
- 「あ、そう」
- 「ああ、そーう」
- 「ああ、そう、そうか」
- 「あ、そう、ふーん」
- 「ああ、そう、うん」などのバリエーションがあったと書いている。細川曰く「同感の時には、体を乗り出すか、『そう』のところが『そーう』と長くなる」(『天皇陛下と語る』)とのこと。
- 一方で表情は非常に豊かで、満面の笑みを浮かべる天皇の表情のアップなども写真に残っている。ちなみにこの、「あ、そう」と独特の手の上げ方は非常に印象的で、昭和天皇の癖として小中学生果ては幼稚園児にいたるまで、国民に広く知られており、似た挨拶の仕方をする者に「陛下」との通称がつくほど親しまれていた。この所作を物真似する者も多かった。過去には、タモリが声真似をレパートリーとしていた。
- 昭和44年(1969年)1月2日に、皇居新宮殿が完成してから初の(昭和38年(1963年)以来の)皇居一般参賀で長和殿のバルコニーに立った際、パチンコ玉で狙われた(負傷せず)。これを機に長和殿のバルコニーに防弾ガラスが張られることになった。犯人は映画『ゆきゆきて、神軍』の主人公奥崎謙三で、暴行の現行犯で逮捕された。
- 皇居の畑で芋掘りをしていたとき、ヤツガシラが一羽飛来したのを発見。侍従に急ぎ双眼鏡を持ってくるように命じた。事情のわからない侍従は「芋を掘るのに双眼鏡がなぜいるのですか」と聞き返した。このときのヤツガシラは香淳皇后が日本画に描いている。
- イギリスなど王政を執る国に対しては、比較的新興国の部類に入るイラン帝国なども含めて好感と関心を抱いていたという。主権回復後ほどない昭和31年(1956年)にはエチオピア皇帝ハイレ・セラシエの来日を迎え、満州国皇帝溥儀以来の大掛かりな祝宴を張って皇帝を歓迎した。ハイレ・セラシエはその後、大阪万博にも見学に来日している。昭和50年(1975年)の沖縄国際海洋博覧会にはイラン帝国のパビリオンも出展された。強引な建国であった昭和51年(1976年)の中央アフリカ帝国建国に際しても祝電を送っている。逆に共産主義陣営には不信感をぬぐえず、ペレストロイカが進んだ晩年においても懐疑的な発言がしばしばあったとされる。
- 第二次世界大戦を戦った経験もあってか、各国の戦争問題については特に関心が深く、時にはかなり踏み込んだ発言も行なっていたという。そうした言葉が表に出ることはないが、天皇の戦争についての考察は常に「命令権者」、即ち往年の大元帥としての視線だったと指摘する声がある。フォークランド紛争においては、英国は軍事力行使に出ないと外務省も踏んでいた中、その帰結を一人正しく予期していた節があり、北方領土問題についての進講の際も、ふと「北方四島と北海道の間にある海峡は、潜水艦は通れるのか」と官僚に尋ねるなどしている。
- 昭和48年(1973年)5月26日、認証式のため参内した増原惠吉防衛庁長官が内奏時の会話の内容を漏らすという事件があった。28日の新聞は天皇が「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いことは真似せず、いいところは取入れてしっかりやってほしい」と語ったと報じた。増原は、内奏の内容を漏らした責任を取って辞任することとなった(増原内奏問題)。
- 生真面目な性格もあり、政争絡みで政治が停滞することを好まなかったことが窺える。『入江相政日記』には、いわゆる「四十日抗争」の際、参内した大平正芳に一言も返さないという強い態度で非難の意を示したことが記録されている。
- 同じ時期、政治家たちの会食中「皇居の堤防からは都内が良く見えますが、陛下はどこをご覧になりますか」との質問が飛んだ。天皇は「言うまでもないではないか、国会議事堂だよ」と言って笑ったという。政局に明け暮れる政治家たちへのきつい皮肉に、一同は「恐れ入りました」と思わず平伏したと言う。
- 昭和54年(1979年)5月、愛知県豊田市で開かれた植樹祭に出席した際は、わざわざ不便なグリーンホテル三ヶ根に宿泊し、早朝に同地にある殉国七士(絞首刑となったいわゆるA級戦犯7人)の墓碑に向かって長い間直立不動の姿勢をとっていた。
昭和50年(1975年)
- 昭和50年(1975年)5月7日、昭和46年(1971年)の訪欧の返礼としてエリザベス2世が来日した。警備要員として5万人の警察官が動員され、77万人の観衆が沿道に詰め掛けるフィーバーとなった。しかし国鉄労組のストのため、女王は関西に向かう往路での新幹線乗車を果たせなかった。
- 9月30日からは、三年越しの計画であった訪米が二週間の日程で挙行された(昭和48年(1973年)には田中角栄内閣で計画されたが、突発的な立案であったこともあり実現せず。昭和49年(1974年)にも計画があったが、実務レベルでの調整不足により実現せずに終わっている)。
- 訪米出発まで国内では、東アジア反日武装戦線をはじめとする新左翼を中心に反対運動があり、訪米阻止のデモ行進や、9月4日には東宮御所爆破未遂事件、中核派爆弾製造アジト誤爆事件、15日には新左翼団体による葉山御用邸火炎瓶事件、原宿駅発煙筒事件と天皇を標的とした同時多発テロが発生し、都内は厳戒態勢が取られた。
- 9月15日には共産主義者同盟戦旗派による伊勢神宮放火事件、自衛隊武器補給所前爆発事件も発生し、この日だけで計4件、皇室関係だけでも3件のテロが起こっている。
- 国会において、野党・社会党の皇室の宮中祭祀への攻撃も強まり、5月29日参議院内閣委員会における秦豊議員の「侍従は国家公務員であり、天皇の名代ということも個人的な資格ということが許されないと思う。伊勢神宮は明らかに宗教法人であるありように合わせ、明らかに憲法二十条に抵触する習慣であると思う。これを習慣として見逃すことは余りにも重大であると思う」との国会質問に対して、政府委員角田礼次郎内閣法制局第一部長が賛成答弁を行う。これを受けて9月以降、宮内庁は宮中三殿での祭祀の方式を簡略化、伊勢神宮と橿原神宮に派遣される勅使を、従来の侍従から国家公務員の身分を持たない掌典に変更した。
- 訪米に出発する前の9月上旬にはNBCと、20日にはニューズウィーク誌の東京支局長バーナード・クリッシャーと単独会見を行った。帰国後の10月31日には、日本記者クラブ主催で皇居「石橋の間」で皇室初の記者会見が行われた。10月31日の会見にはグレーのスーツ姿で記者会見場に姿を現した。[25]
- アメリカ人記者から「『王子と乞食』のように一般人になりたいと思ったことはありませんか」の問いには「幼いころ『王子と乞食』を読んで、そのようになりたいと思ったが、この作品と同じ結末になったと思う」と応えた。
在位五十周年
- 在位五十年記念事業として、立川飛行場跡地に国営昭和記念公園が建設された。
- 記念硬貨として、昭和天皇御在位五十年記念百円ニッケル貨が昭和51年(1976年)12月23日から発行され、発行枚数は7000万枚に上った。
その他
- 昭和50年(1975年)10月31日の記者会見で「テレビはどのようなものをご覧になるか」という質問に対し、微笑を浮かべ身を乗り出して、「テレビは色々見ますが、放送会社の競争がはなはだ激しいので、今ここでどういう番組が好きかという事はお答えできません」と微笑みつつ冗談交じりに返した。記者達はこの思わぬ天皇の気遣いに大爆笑したという。[25]現在では、側近の日記が明らかになることによってどのような番組を見ていたかが明らかになっている[26]。
- NHK朝の連続テレビ小説を見るのが日課だった。なかでも『おしん』については「ああいう具合に国民が苦しんでいたとは、知らなかった」と感想を述べたという[27]。
- 歌番組も楽しみにしており、祭祀を行うため最後まで見られなかった紅白歌合戦の結果を近習に訊ねたり、昭和天皇時代の内廷皇族(明仁親王一家、特に当時の三皇孫)が揃って歌謡曲通であったという雑誌記事が伝わっている。
- 昭和57年(1982年)の園遊会で黒柳徹子と歓談。その際、黒柳が当時出版した自著『窓ぎわのトットちゃん』の説明をし、「国内で700万部出版し、世界35ヶ国でも翻訳されました」との言葉に対して、「大そうお売れになって」と答えた。この天皇の答えにより、黒柳がまるで天皇に自著の自慢をしてるように周囲の目に映ってしまった。周囲は大爆笑し、黒柳は照れ笑いを浮かべるほかなかった。
- このほか、柔道の山下泰裕選手が天皇の質問の中にあった「骨が折れるだろうね」との語の「骨を折る」の意味を「骨折」と取り違え、しかもそのことに気づかず「はい、2年前に骨折しましたが、今は良くなって頑張っております」と朗らかに返答するといったハプニングも記録されている。
- 晩年、足元のおぼつかない天皇を思いやって「国会の開会式には無理に出席しなくとも……」の声が上がった。ところが天皇は逆に、「むしろ楽しみにしているのだから、楽しみを奪うようなことを言わないでくれ」と訴えたという。
- 昭和63年(1988年)8月には、歩行も思うに任せぬ状態になっており、静養先から都内までの移動には、従来のお召列車ではなく陸上自衛隊のヘリコプターを使用したが、全国戦没者追悼式会場での文書の朗読の声は従前と変わらぬ朗々たるものであった。
- 崩御に際しては元軍人を中心に殉死者が出た。確認されているだけで3件の殉死事件が発生し、未遂1人を含むと11人が殉死(自刃、飛び降りなど)を遂げている。このうち一人についてはニュースで取り上げられ、方法が切腹であったこと、殉死した場所である公園と「すめらぎの…臣殉ず」の辞世が報道された。
- 大膳を務めた谷部金次郎(秋山徳蔵の後任の主厨長)は、崩御を機に退官している。ある意味、天皇に殉じたと言える。神道界の重鎮小泉太志命も、天皇と運命を共にすると公言していた。
家族・家庭に関するもの
- 3人の弟宮との関係は良好で、特に性格のほぼ正反対と言ってよい長弟秩父宮雍仁親王とは忌憚の無い議論をよく交わしていたという。秩父宮が肺結核で療養することになると、「感染を避けるため」見舞いに行くことが許されなかったことを悔やんでいた。その為、次弟高松宮宣仁親王が病気で療養するとたびたび見舞いに訪れ、臨終まで立ち会おうとした。臨終の当日も見舞いに訪れている。
- 高松宮と末弟三笠宮崇仁親王は天皇の親拝が途絶えた後も靖国神社参拝を継続している[28]。
- 皇太子明仁親王の結婚問題においては、三笠宮が皇族を代表して賛意を表明することで一件落着を助けるなど、天皇と連携しこれを補完する形で行動した。いわゆる富田メモとされる文書にも、昭和天皇が高松宮の人物評をしたとされる箇所があるが、「自分にはない軽妙に外国人と付き合い戦後一時期はこの国にも役に立った面があり評価している」などと、長所短所を述べ公平に評した記録が残っており[29]、忌憚なく意見を交わす仲であったことがうかがえる。
- また天皇と三人の弟はその妃たち同士も仲が良く、これも関係を良好に保つ大きな助けとなった。前述した皇太子明仁親王の結婚問題では香淳皇后が秩父宮妃、高松宮妃と共に天皇に反対を唱えるといった一件も起こっている。
- 原武史は、摂政就任以後から昭和初期にいたる女官制度改革や宮中祭祀における姿勢をめぐる貞明皇后との確執、貞明皇后が愛情を注ぎ陸軍から人気が高かった秩父宮との確執、太平洋戦争で早期和平を主張した高松宮との確執を指摘している。
- 香淳皇后のことは「良宮」(ながみや)と呼んでいた(彼女は久邇宮家出身の女王である)。一方、皇后は昭和天皇のことを「お上」と呼んでいた。
- 香淳皇后との夫婦仲は円満であった。結婚当初から、当時の男女として珍しく、手をつないで散歩に行くことがあった。
- 婚約中の訪欧時(大正10年、1921年)、まだ見ぬ婚約者とその妹のために、土産を買った。結婚後も、行幸先、植物採集に出かけた先では必ず「良宮のために」と土産を購入、採集した。また1971年(昭和46年)の訪欧時にも、オランダで抗議にあって憔悴した皇后を気遣ったエピソードがある。
- 天皇の手の爪を切るのは、皇后が行なっていた。侍医が拝診の際に、天皇の手の爪が長くなっていることを指摘すると「良宮が切ることになっている」と、医師に切らないよう意思表示した。
- はじめ皇女が4人続けて誕生したときには側近が側室を勧めたほどだが、これに対し「良宮でよい」と答え拒否した。側室候補として華族の娘3人の写真を見せられたときも「皆さん、なかなかよさそうな娘だから、相応のところに決まるといいね」と返答し写真を返したエピソードも残っている。また、皇后に対しては、男児が誕生しなくても、「秩父さんや高松さんがいるから大丈夫」と励ましたという。
- 第1子照宮成子内親王が誕生した際、「女の子は優しくていいね」と喜んだ。成子内親王は、両親の手元で、皇后の母乳で育てられたが、後に妹の内親王たちと共に小学校入学から呉竹寮で養育されるようになった。皇子は3歳頃から親元を離れ養育されるようになり、家族とは言え、一家が会えるのは週末のみになってしまった。しかし、会える時間が短いとは言え、天皇が厚子内親王の勉強の質問に丁寧に答えたなどの逸話がある。
- ひげを蓄えたのは、成婚後からで「成婚の記念に蓄えている」とも「男子、唯一つの特権だから」と、理由を説明している。他方、昭和61年(1986年)以降文仁親王が口ひげをたくわえはじめたときには「礼宮のひげはなんとかならんのか」と苦言を呈した。ちなみにこのときは両親である明仁親王夫妻が取り成して結局許されている。
- 成子内親王の長男・東久邇信彦に対し、結婚相手の条件として、「両親が健在な、健全な家庭の人であること」「相手の家にガン系統がないこと」等を伝え、「条件に合えば自分の好きな人で良い」とした。
人物像に関するもの
- 知的好奇心が旺盛で、天皇の質問に対しては、一切のごまかしも通用しなかったほどあらゆる出来事に精通していたといい、質問を受けた者は常に緊張していたという。その質問は予想もしないようなところから飛んでくるものも多く、しばしば相手に冷や汗をかかせた。もっとも相手を追い詰めるような質問はすることがなかったという。
- 進講などを受けるときには、両手を膝の上に置き、足をそろえてじっと相手の話に聞き入った。話が一通り終わると、メモも取っていないにも拘らず要点を適切に捉えた質問を向けたと言い、多くの人が天皇の記憶力の確かさに驚いたことを述べている。
- 学問に関しては、後述の生物学研究や御製の「おおらか」さなどから理科系人間である。秦郁彦は「さきの大戦のとき政府の要人で理科系の人物は昭和天皇だけであった(文藝春秋)」と評している。ちなみに敗戦後、皇太子明仁親王に送った手紙には「精神を重んじ科学を軽んじた」「米英を侮った」ことなどが敗退を重ねた原因であると記している。
- 一方で歴史、特に西欧の中世から近世にかけての国家の興亡史に造詣が深く、箕作元八の『仏蘭西大革命史』や『西洋史講話』はボロボロになるまで読んでいた。皇太子時代の訪欧では「わが国の歴史に十分な理解を持っている」との現地での評が残っている。独特の歴史観と言うべきものを有しており、発達した西洋文明をローマ帝国になぞらえ、その未来を憂うことがあったという。
- 主権回復後はキリスト教を好まず、独立前の常陸宮正仁親王が美智子皇太子妃とキリスト教について語らい、喜んでいたことを知った際に激怒し、皇太子妃がひれ伏して許しを乞うてもなかなか怒りが解けなかったと伝わる。もっとも敗戦直後にはキリスト教に対し容認的な姿勢をとっていた(現に皇太子の家庭教師は宣教師のヴァイニング夫人である)。
- 昭和58年(1983年)5月行田市の埼玉県立さきたま史跡の博物館を行幸したとき、ガラスケースの中の金錯銘鉄剣を見ようとしたとき、記者団が一斉にフラッシュをたきその様子を撮影しようとしたところ、「君たち、ライトをやめよ!」と記者団を叱った。フラッシュがガラスに反射して見えなかったのを怒ったものである。昭和天皇が公式の場で怒りをあらわにした唯一の例とされる。
- 独特の魅力を持っており、アメリカのフォード大統領も訪日の際、昭和天皇に謁見したが、「そのカリスマに終始手を震わせた」と帰国後に告白している。鄧小平も昭和53年(1978年)の訪日の際、懸案となるであろうと予想された両国の過去の問題について開口一番率直な謝罪を述べた天皇に「電気にかけられたようになって震えていた」と入江相政が語っている。国内では河野一郎が「俺には『この人には敵わない』という人が地上に二人いる、フルシチョフと天皇陛下だ」と述懐したと伝えられる。崩御の際には人種・地域を問わず、世界各国から代表者が顔を揃えたことからも、彼が世界に与えた影響を窺い知ることができる。
- 特に海外の要人に対する心遣いが深く、昭和59年(1984年)のブルネイ国王ハサナル・ボルキア一家の来日においては、挨拶の際に王女たち一人ひとりに対してまで、彼女たちの趣味などを話題にしながら会話を交わしたという。こうした真摯な態度が、多くの人々を魅了した一因でもあろう。
- 猫背、猫舌で、蕎麦と鰻茶漬が好物であった。月一回の蕎麦が大変な楽しみで、配膳されたときには御飯を残して蕎麦だけを食べたという。猫舌については、浜名湖で焼きたての鰻の蒲焼を食べて火傷をした逸話が伝わる。このほか、鴨のすき焼きも好んだと伝わる。このほか、食に関する逸話は非常に多い。
- 朝食にハムエッグを食べることを好んだという。 戦後はオートミールとドレッシング抜きのコールスローにトースト二枚の朝食を晩年まで定番とした。
- 晩年には体調が悪化したため、好物の肉料理が食事に出なくなったことを残念がっていた。
- 徳仁親王、文仁親王の留学に随行する侍従・警護官の人選など、東宮家の諸事に関して最終決定を行っていた。
- 太平洋戦争史上最大の激戦と言われたペリリュー島の戦いの折には「ペリリューはまだ頑張っているのか」と守備隊長の中川州男大佐以下の兵士を気遣う発言をした。中川部隊への嘉賞は11度に及び、感状も三度も与えている。
- 特攻には批判的であったとされる。特攻第一号の報告がもたらされた際には「馬鹿なことを…だが、よくやった」と言ったとされ、特攻した兵士の覇気を讃えた。
- 南方熊楠のことは後々まで忘れることはなく、その名を御製に詠んでいる。南方および弟子からは都合四回にわたって粘菌の標本の献呈を受けている。
- 軍艦長門に行啓の際、巡検後タバコ盆が出された甲板で、「僕は煙草はのまないからタバコ盆は煙草呑みにやろう」と、はっきり「僕」と言うのを長門勤務の士官が聞いている。
- 見学した新幹線の運転台が気に入り、侍従に時間を告げられてもしばらくそこから離れなかったこともある。訪欧時にもフランスで鯉の餌やりに熱中し、時間になってもその場を離れなかったエピソードがある。
趣味に関するもの
- 相撲好きであり、蔵間を贔屓にしていた。蔵間が大関昇進を果たせないことを大変残念がり、「蔵間、大関にならないねえ」とこぼしたこともある。このほか、「突貫おじさん」こと富士桜の取り組みも大変楽しんだとされる。なお前述のぼやきは当時の春日野理事長を恐縮させ、蔵間は日本相撲協会理事長室に呼びつけられて叱責されたという。もっとも「一視同仁」、というわけで天皇自身がこうした力士の好みを口にすることはなく、天覧相撲の際にも極力抑えた態度で観戦していた。しかしプライベートでは別で、テレビ観戦時には身を乗り出してひいきの力士の取り組みを見守る天皇の姿があったという。
- スポーツに関しては「幼いときから色々やらされたが、何一つ身に付くものはなかった。皇太子(明仁親王)がテニスが上手いのは良宮(香淳皇后)に似たのだろう」と発言している。自身は乗馬が好き(軍人として必要とされたという側面もある)で、障害飛越などの馬術を習得しており、戦前は良く行っていた。戦後でも記念写真撮影に際して騎乗することがあった。また水泳(古式泳法)も得意で、水球を楽しむ写真も残っている。青年期にはゴルフに熱中したが、自ら言うようにあまり上達はしなかったようだ。
- 映画が大の好みであった。特に『男はつらいよ』シリーズは大ファンであり、ビデオはすべて持っていたと言われる。また、ベルリン五輪記録映画『民族の祭典』やヴィリ・フォルスト監督の『未完成交響楽』(オーストリア映画)、ディアナ・ダービン主演の『オーケストラの少女』なども鑑賞されたと、戦前の海軍侍従武官であった山澄貞次郎海軍少将が回想記に綴っていた。[30]
- 富士産業と三菱からスクーターを献上された。ラビットスクーターSー12型に乗ったことがあり、東宮御所においてこれに乗っている写真が現存する。乗っているのは三菱シルバービジョンc-11型であるとも言われる。
生物に関するもの
- 海の生物が好きであり、臣下との会話で海の生物の話題が出ると喜んだという。趣味として釣りも楽しんだ。沼津において、常陸宮正仁親王を伴って磯釣りに興じたことがある。釣った魚は研究のため、全て食べる主義であった。終戦直後には「ナマコが食べられるのだから、ウミウシも食べられるはずだ」と、葉山御用邸で料理長にウミウシを調理させ食した(後に「あまり美味しい物ではなかった」と述べられた)という。採集品については食べることはなかったとも言われ、船頭が献上した大ダイをそのまま標本にしてしまい、船頭が惜しがったというエピソードも伝わる。
- 昭和34年(1959年)の伊勢湾台風の直後、被害状況を説明する農林大臣の福田赳夫に突然「時に農林大臣、桑名のシジミはどうなったか」と尋ねた。桑名と言えばハマグリなのになぜシジミなのか、と福田は疑問に思いつつ退出したが、後で調べると当時桑名ではハマグリはほとんど採れず、シジミが名産品となっていた。福田は天皇の魚介類に関する知識の豊富さに舌を巻くとともに「要するにからかわれたのだ」と気付いて苦笑したという。
- 昭和37年(1962年)の若狭行幸ではフグの蓄養を見、ハマチ釣りをして大変に喜んだという。若狭にはこの時のほかにも数回行幸しており、馴染みの宿も現存している。
- 昭和39年(1964年)に下関に行幸した際には、中毒の恐れがあるからとフグを食べられないことに真剣に憤慨し、自分たちだけフグを食べた侍従たちに「フグには毒があるのだぞ」と恨めしそうに言ったという逸話もある。その一方で同所ではイワシなど季節の魚に舌鼓を打ったという。
- 宮中にフグが献上された場合も同じ理由で食すことを止められ、時には「資格を持った調理人が捌いたフグを食べるのになんの問題があるのか」「献上した人が逆臣だとでも言うのか」と侍医を問い詰めることもあった。ついに生涯、食べることができなかった。
- シーラカンスの解剖に立ち会ったことがある。これを食したかどうかについては語られていない。
- ある年の梅雨の時期に、梅雨の晴れ間の日があったので、側近が昭和天皇に「今日は天気が良いのでお外へ出てお散歩されてみては如何でしょうか?」と勧めると、昭和天皇は「農業の者たちは雨が降らないと大変困るのだ。農作物の収穫の為には雨が降るのがいいのだよ」と言い、農作物の生育を気に掛けていたという。
- 「テツギョ」というキンギョとフナの雑種とされる魚を飼育していた。後にDNA鑑定でキンブナとリュウキンの雑種と判明。
- 天皇の日常生活をいくらか近代的なものにした。宮城内に通常の半分の9ホールからなるゴルフコースを作ってゴルフをプレイしたり、天皇として初めてレコードを聴いたという。
- 運動神経の良い香淳皇后には自分が教えたゴルフで負け通しだったが、それでも笑っていたという。
- 武蔵野の自然を愛し、ゴルフ場に整備されていた吹上御苑使用を昭和12年(1937年)に停止し、一切手を加えないようにした。その結果、現在のような森が復元された。また「雑草という植物はない」(ただしくは「雑草と言う言葉には不快感がある」)といったことでも有名。出先の畑で草花を採集する際には畑の持ち主にきちんと断ってから採集するようにと侍従に諭していたとも伝わる。
- 海洋生物学を研究する関係からか、英語よりフランス語を得意としたと伝わる。訪欧時フランスのバルビゾンのレストラン「バ・ブレオー」でエスカルゴを食べる際、その個数について「サンク(仏語で5つ)」と「3個」をかけてからかったことがある。[31]
- 後述とも関連するが、学者としても一級であった。天皇の書いた論文を読んだイスラエルの学者が「この論文を書いた学者に会いたい」と言い、署名を見て論文の作者を知って非常に驚いたというエピソードがある。
現人神としての天皇に関するもの
- 戦前「天皇は神である」ということが喧伝されており世界的にも知られていたため、戦後日本に進駐したある米兵は日本人が進化論を知らないと思い込み、日本人相手に大真面目で講義を行った。相手の日本人は「中学で習ったことをいまさら教わるとは思わなかった」との感想を述べている。
- 政治学者の太田一男は「子供のとき学校でどう教えられたかというと、天皇陛下をまともに見たら目が腐るというのですね。それだから見てはいけない、そういうことを学校の先生がまじめに教えたんですよ」(平成11年(1999年)07月16日、衆議院内閣委員会)と証言している。
- 昭和後期、欧米のテーブルトークRPGに天皇が登場したことがあり、1980年代末になって日本の富士見ドラゴンブックから発行されたTRPG関連書『クロちゃんのRPG千夜一夜』で紹介された。このときのゲーム上での設定は極めてよく研究されたものであり、「レッサー・ゴッド級の魔法を使う」など現人神としての性格が強調されていた。
- 平成9年(1997年)8月29日、朝日放送制作のドキュメンタリー番組『驚きももの木20世紀』で昭和天皇誤導事件が取り上げられたことがある。このとき再現ドラマにおいて、道を間違えた先導車の運転手である警察官はハンドルを握ったまま硬直し、泣きそうな顔、上ずった声で「ま、間違えましたー!!」と、道を間違えたことを激しく狼狽する様子を演じていた(番組CMでもこのシーンは流された)。当時、神である天皇の先導という大任を任せられながらミスをしでかしてしまった者の心情、また天皇がいかなる存在として見られていたかがよく分かる内容となっている。この運転手の上官である警部は責任をとるために自刃を図ったが、一命を取り留め天寿を全うした。
- 現人神、最高指導者としてのイメージおよび残影は戦後も長く残り続け、門田泰明の小説『特命武装検事・黒木豹介シリーズ』においてはさすがに名は伏せられていたものの、天皇が主人公・黒木豹介に事件の解決を文字通り「泣いて頼む」シーンも描かれている。崩御後には仮想戦記シリーズにも登場している。平成20年(2008年)には『太平洋戦争秘録・日本秘密兵器大全』(宝島社)内に「陸海軍にもう戦闘機はないのか」(この発言が、本土決戦用秘匿兵器の一斉出撃に直結する)との架空の天皇発言が登場したほか、この項目を描いた漫画にシルエットながら登場し、同様の台詞を喋っている。
- A級戦犯の容疑をかけられた徳富蘇峰(内務省勅任参事官などを歴任)の日記の『頑蘇夢物語』(講談社、2006 - 2007年、全4巻)では昭和天皇が敗戦の最大の責任者として批判され、また明治天皇と比較して「天皇としての御修養については頗る貧弱」、「マッカーサー進駐軍の顔色のみを見ず、今少し国民の心意気を」などと述べられている [32]。
短歌
詳細は「昭和天皇の大御歌」を参照
昭和天皇は生涯に約1万首の短歌を詠んだといわれている。公表されているものは869首。これは文学的見地からの厳選というよりは立場によるところが大きい。宮中行事や歌会始に代表される歌会、行幸やおことばに代表されるパフォーマンスに伴っての作品発表は、いずれも宮内庁の目を経ており、相聞が一首も発表されていない点をとっても、一般の短歌作者とは同列に論じられない部分もある。近代短歌成立以前の御歌所派の影響は残るものの戦後は、木俣修、岡野弘彦ら現代歌人の影響も受けた。公表された作品の約4割は字余りで、ほとんど唯一といってよい字足らずは、自然児の生物学者・南方熊楠に触発されたもののみである。このような作風は「おおらか」とも、「非文学的」ともされてきた。
- 昭和天皇の歌集
- みやまきりしま:天皇歌集(毎日新聞社編、1951年11月、毎日新聞社)
- おほうなばら:昭和天皇御製集(宮内庁侍従職編、1990年10月、読売新聞社)
- 昭和天皇御製集(宮内庁編、1991年7月、講談社)
- 昭和天皇・香淳皇后の歌集
- あけぼの集:天皇皇后両陛下御歌集(木俣修編、1974年4月、読売新聞社)
生物学研究
昭和天皇は生物学者として海洋生物や植物の研究にも力を注いでいる。大正14年(1925年)6月に赤坂離宮内に生物学御研究室が創設され、御用掛の服部廣太郎の勧めにより、変形菌類(粘菌)とヒドロ虫類(ヒドロゾア)の分類学的研究を始めた。昭和3年(1928年)9月には皇居内に生物学御研究所が建設された。昭和4年(1929年)には自ら在野の粘菌研究第一人者南方熊楠のもとを訪れて進講を受けた。南方の名は、後の御製にも詠まれて残っている。もっとも、時局の逼迫によりこれらの研究はままならず、研究成果の多くは戦後発表されている。ヒドロ虫類についての研究は裕仁(あるいは昭和天皇)の名で発表されており、『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』をはじめ、7冊が生物学御研究所から刊行されている。また、他の分野については専門の学者と共同で研究をしたり、採集品の研究を委託したりしており、その成果は生物学御研究所編図書としてこれまで20冊刊行されている。
昭和天皇の生物学研究については、山階芳麿や黒田長礼の研究と同じく「殿様生物学」の流れを汲むものとする見解や、「その気になれば学位を取得できた」とする評価がある。一方、昭和天皇が研究題目として自然科学分野を選んだのは、純粋な個人的興味というよりも、万葉集以来の国見の歌同様、自然界の秩序の重要な位置にいるシャーマンとしての役割が残存しているという見解もある。これについては北一輝が昭和天皇を「クラゲの研究者」と呼びひそかに軽蔑していたという渡辺京二の示すエピソードが興味深いが、数多く残されている昭和天皇自身が直接生物学に関して行った発言には、この見解を肯定するものは見当たらない。昭和天皇の学友で掌典長も務めた永積寅彦は生物学研究の上からも堅い信仰を持っていたのではないかと語っている[33]。また、詠んだ和歌の中で、干拓事業の進む有明海の固有の生物の絶滅を憂うる心情を詠いつつ、その想いを「祈る」と天皇としては禁句とされる語を使っている点に特異な点があることを、自然保護運動家の山下弘文などが指摘している。
昭和天皇の海洋生物研究の一部は今上天皇である明仁の研究とともに、新江ノ島水族館(神奈川県藤沢市)で公開されている。また海洋生物研究に用いられた御採取船「葉山丸」は、大山祇神社(愛媛県今治市)の海事博物館に保存、公開されている。
- 昭和天皇の著書
- 日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討 (1967年2月)
- 天草諸島のヒドロ虫類 (1969年9月)
- カゴメウミヒドラClathrozoon wilsoni Spencerに関する追補 (1971年9月)
- 小笠原諸島のヒドロゾア類 (1974年11月)
- 紅海アカバ湾産ヒドロ虫類5種 (1977年11月)
- 伊豆大島および新島のヒドロ虫類 (1983年6月)
- パナマ湾産の新ヒドロ虫Hydractinia bayeri n.sp.ベイヤーウミヒドラ (1984年6月)
- 相模湾産ヒドロ虫類 (1988年8月)
- 相模湾産ヒドロ虫類 2 (1995年12月)
- 昭和天皇と専門の学者の共同研究
- 昭和天皇の採集品をもとに専門の学者がまとめたもの
- 相模湾産後鰓類図譜 (馬場菊太郎) (1949年9月、岩波書店)
- 相模湾産海鞘類図譜 (時岡隆) (1953年6月、岩波書店)
- 相模湾産後鰓類図譜 補遺 (馬場菊太郎) (1955年4月、岩波書店)
- 増訂 那須産変形菌類図説 (服部廣太郎) (1964年10月、三省堂)
- 相模湾産蟹類 (酒井恒) (1965年4月、丸善)
- 相模湾産ヒドロ珊瑚類および石珊瑚類 (江口元起) (1968年4月、丸善)
- 相模湾産貝類 (黒田徳米・波部忠重・大山桂) (1971年9月、丸善)
- 相模湾産海星類 (林良二) (1973年12月、保育社)
- 相模湾産甲殻異尾類 (三宅貞祥) (1978年10月、保育社)
- 伊豆半島沿岸および新島の吸管虫エフェロタ属 (柳生亮三) (1980年10月、保育社)
- 相模湾産蛇尾類 (入村精一) (1982年3月、丸善)
- 相模湾産海胆類 (重井陸夫) (1986年4月、丸善)
- 相模湾産海蜘蛛類 (中村光一郎) (1987年3月、丸善)
- 相模湾産尋常海綿類 (谷田専治) (1989年11月、丸善)
- 昭和天皇が発表したヒドロ虫類の新種
- Clytia delicatula var. amakusana Hirohito, 1969 アマクサウミコップ
- C.multiannulata Hirohito, 1995 クルワウミコップ
- Corydendrium album Hirohito, 1988 フサクラバモドキ
- C. brevicaulis Hirohito, 1988 コフサクラバ
- Corymorpha sagamina Hirohito, 1988 サガミオオウミヒドラ
- Coryne sagamiensis Hirohito, 1988 サガミタマウミヒドラ
- Cuspidella urceolata Hirohito, 1995 ツボヒメコップ
- Dynamena ogasawarana Hirohito, 1974 オガサワラウミカビ
- Halecium perexiguum Hirohito, 1995 ミジンホソガヤ
- H. pyriforme Hirohito, 1995 ナシガタホソガヤ
- Hydractinia bayeri Hirohito, 1984 ベイヤーウミヒドラ
- H. cryptogonia Hirohito, 1988 チビウミヒドラ
- H. granulata Hirohito, 1988 アラレウミヒドラ
- Hydrodendron leloupi Hirohito, 1983 ツリガネホソトゲガヤ
- H. stechowi Hirohito, 1995 オオホソトゲガヤ
- H. violaceum Hirohito, 1995 ムラサキホソトゲガヤ
- Perarella parastichopae Hirohito, 1988 ナマコウミヒドラ
- Podocoryne hayamaensis Hirohito, 1988 ハヤマコツブクラゲ
- Pseudoclathrozoon cryptolarioides Hirohito, 1967 キセルカゴメウミヒドラ
- Rhizorhagium sagamiense Hirohito, 1988 ヒメウミヒドラ
- Rosalinda sagamina Hirohito, 1988 センナリウミヒドラモドキ
- Scandia najimaensis Hirohito, 1995 ナジマコップガヤモドキ
- Sertularia stechowi Hirohito, 1995 ステッヒョウウミシバ
- Stylactis brachyurae Hirohito, 1988 サカズキアミネウミヒドラ
- S. inabai Hirohito, 1988 イナバアミネウミヒドラ
- S. monoon Hirohito, 1988 タマゴアミネウミヒドラ
- S. reticulata Hirohito, 1988 アミネウミヒドラ
- S.(?) sagamiensis Hirohito, 1988 サガミアミネウミヒドラ
- S. spinipapillaris Hirohito, 1988 チクビアミネウミヒドラ
- Tetrapoma fasciculatum Hirohito, 1995 タバヨベンヒメコップガヤ
- Tripoma arboreum Hirohito, 1995 ミツバヒメコップガヤ
- Tubularia japonica Hirohito, 1988 ヤマトクダウミヒドラ
- Zygophylax sagamiensis Hirohito, 1983 サガミタバキセルガヤ
戦争責任
「昭和天皇の戦争責任」、「大日本帝国」、および「大日本帝国憲法」も参照
概要
明治憲法において、第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」を根拠として、軍の最高指揮権である統帥権は天皇大権とされ、また第12条「天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」を根拠に軍の編成権も天皇大権のひとつとされた。政府および帝国議会から独立した、編成権を含むこの統帥権の独立という考え方は、昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮条約の批准の際に、いわゆる統帥権干犯問題を起こす原因となった。
統帥権が、天皇の大権の一つ(明治憲法第11条)であったことを理由に、昭和6年(1931年)の満州事変から日中戦争、さらに大東亜戦争へと続く、いわゆる十五年戦争の戦争責任をめぐって、最高指揮権を持ち、宣戦講和権を持っていた天皇に戦争責任があったとする主張と、明治憲法第3条「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と規定された天皇の無答責を根拠に(あるいは軍事などについての情報が天皇に届いていなかったことを根拠に)、天皇に戦争責任を問う事は出来ないとする主張とのあいだで論争があるが、天皇に戦争責任があったとする主張は大勢とはなっていない。
また、美濃部達吉らが唱えた天皇機関説によって天皇は「君臨すれども統治せず」という立憲主義的君主であったという説が当時の憲法学界の支配的意見であったが、当時の政府は、「国体明徴声明」を発して、統治権の主体が天皇に存することを明示し、この説の教授を禁じた。
終戦後の極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)において、ソビエト連邦、オーストラリアなどは天皇を戦争犯罪人として裁くべきだと主張したが、連合国最高司令官であったマッカーサー元帥らの政治判断(昭和天皇の訴追による日本国民の反発への懸念と、円滑な占領政策のため天皇を利用すべきとの考え)によって訴追を免れた。
マッカーサーに対する発言に関して
マッカーサー元帥の回想記『マッカーサー回想記』によれば、昭和天皇が初めて彼と面会した時、
- 「私は国民が戦争遂行にあたって、政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の採決にゆだねるため、あなたをお訪ねした」
と発言したとされる。しかし、この会談内容については全ての関係者が口を噤み、否定も肯定もしない為、真偽の程は明らかではない。昭和天皇自身は、昭和50年(1975年)に行われた記者会見でこの問題に関する質問に対し、「(その際交わした外部には公開しないという)男同士の約束ですから」と肯定も否定もしなかった。翌昭和51年(1976年)の記者会見でも、「秘密で話したことだから、私の口からは言えない」としている。
しかし、現代史家・秦郁彦が、会見時の天皇発言を伝えるジョージ・アチソン連合国軍最高司令官政治顧問の国務省宛電文を発見し、現在では発言があったとする説が有力である。また、会見録に天皇発言が記録されていなかったのは、重大性故に記録から削除されたことが通訳を務めた松井明の手記で判明し、藤田尚徳侍従長の著書もこの事実の傍証とされている。
天皇自身の発言
- 昭和50年(1975年)9月8日・アメリカ・NBC放送のテレビインタビュー[34]
- [記者] 1945年の戦争終結に関する日本の決断に、陛下はどこまで関与されたのでしょうか。また陛下が乗り出された動機となった要因は何だったのですか
- [天皇] もともと、こういうことは内閣がすべきです。結果は聞いたが、最後の御前会議でまとまらない結果、私に決定を依頼してきたのです。私は終戦を自分の意志で決定しました。(中略)戦争の継続は国民に一層の悲惨さをもたらすだけだと考えたためでした。
- 昭和50年(1975年)9月20日・アメリカ・ニューズ・ウィークのインタビュー[34]
- [記者] (前略)日本を開戦に踏み切らせた政策決定過程にも陛下が加わっていたと主張する人々に対して、どうお答えになりますか?
- [天皇] (前略)開戦時には閣議決定があり、私はその決定を覆せなかった。これは帝国憲法の条項に合致すると信じています。
- 昭和50年(1975年)9月22日・外国人特派団への記者会見[34]
- [記者] 真珠湾攻撃のどのくらい前に、陛下は攻撃計画をお知りになりましたか。そしてその計画を承認なさいましたか
- [天皇] 私は軍事作戦に関する情報を事前に受けていたことは事実です。しかし、私はそれらの報告を、軍司令部首脳たちが細部まで決定したあとに受けていただけなのです。政治的性格の問題や軍司令部に関する問題については、私は憲法の規定に従って行動したと信じています。
- 昭和50年(1975年)10月31日、訪米から帰国直後の記者会見[34][35]
- [問い] 陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)
- [天皇] そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
- [問い] 戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか? (中国放送記者)
- [天皇] 原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。
- 昭和56年(1981年)4月17日・報道各社社長との記者会見[34]
- [記者] 八十年間の思い出で一番楽しかったことは?
- [天皇] 皇太子時代、英国の立憲政治を見て、以来、立憲政治を強く守らねばと感じました。しかしそれにこだわりすぎたために戦争を防止することができませんでした。私が自分で決断したのは二回(二・二六事件と第二次世界大戦の終結)でした。
本島等長崎市長の戦争責任発言
昭和63年(1988年)12月、当時の長崎市長・本島等が、昭和天皇には戦争責任があると思う、と発言したことに対し、保守陣営などからの反発と右翼からの脅迫が起こった。本島は発言の撤回をせず、右翼の構成員の銃弾を受けることとなった。天皇を巡る右翼の銃撃について嶋中事件との関連で言及する声もあった。
敗戦観
山田風太郎の著書『人間臨終図巻』内の山縣有朋の項目に、昭和天皇が終戦から間もなく、疎開中の明仁親王(のちの第125代天皇)にあてた手紙が引用されている。
それを要約すると、敗戦の責任は、第一次世界大戦の時のドイツと同様に、偏に日本の国力の限界を無視、精神主義に陥った軍部にあり、日清・日露の両戦役で陸海軍の指揮を担当した、山縣や山本権兵衛のような軍人がいたならば、ここまで国土を荒廃させるような無茶な戦争はしなかっただろうとのことである。
陵墓・霊廟・記念館
東京都八王子市長房町の上円下方墳の武蔵野陵(むさしののみささぎ)に葬られた。
昭和天皇を祀る神社はないが、すべての歴代天皇は皇居の宮中三殿の一つの皇霊殿に祀られている。なお大日本愛国党青年隊を中心に「昭和神宮」を創建しようと言う動きもある。
また、平成17年(2005年)11月27日、東京都立川市の国営昭和記念公園内の「みどりの文化ゾーン・花みどり文化センター」内に、「昭和天皇記念館」が開館した。財団法人昭和聖徳記念財団が運営を行っている。館内には、「常設展」として、昭和天皇の87年間に渡る生涯と、生物学の研究に関する資料や品々、写真などが展示されている。
財産
- 終戦時:37億5千万円。現在の金額で7912億円ほど。
- 崩御時:18億6千900万円、および美術品約5千点。美術品は1点で億単位の物も多数という。
- 皇室は不動産のみならず、莫大な有価証券を保有したが、昭和17年時点までには、日本銀行、日本興業銀行、横浜正金銀行、三井銀行、三菱銀行、住友銀行、日本郵船、大阪商船、南満州鉄道、朝鮮銀行、台湾銀行、東洋拓殖、台湾製糖、東京瓦斯、帝国ホテル、富士製紙などの大株主であった。
- 終戦後、GHQにより皇室財産のほとんどが国庫に帰したとされるが、昭和19年に参謀総長と軍令部総長から戦局が逆転し難いとの報告を受けた後、皇室が秘密裏にスイスの金融機関に移管して隠匿させた財産が存在した、という主張がある[36][37]。
昭和天皇を演じた人物
- テレビドラマ
- 市村萬次郎:『歴史の涙』(1980年、TBS)
- 中村芝雀:『天皇の料理番』(1980年、TBS)
- 六代目市川染五郎:『二百三高地 愛は死にますか』(1981年、TBS)
- 高橋昌也:『山河燃ゆ』(1984年、NHK大河ドラマ)
- 加藤剛:『そして戦争が終わった』(1985年、TBS)
- 七代目市川染五郎:『天皇陛下の野球チーム』(1990年、フジテレビ)
- 北大路欣也:『命なりけり 悲劇の外相東郷茂徳』(1995年、TBS)
- 本田博太郎:『終戦60年特別番組 ザ・決断!あの一瞬!』(2005年、テレビ東京)
- 野村萬斎:『あの戦争は何だったのか 日米開戦と東条英機』(2008年、TBS)
- 映画
- 浜口庫之助:『拝啓天皇陛下様』(1960年、松竹、野村芳太郎監督)
- 八代目松本幸四郎:『日本のいちばん長い日』(1967年、東宝、岡本喜八監督)
- 市村萬次郎:『大日本帝国』(1982年、東映、舛田利雄監督)
- 花柳錦之助:『スパイ・ゾルゲ』(2003年、東宝、篠田正浩監督)
- イッセー尾形:『太陽』(2005年、スローラーナー、アレクサンドル・ソクーロフ監督)
関連項目
脚注
- ^ (昭和とは)別の元号(光文)を予定していたが、正式発表前に外部に漏れ、東京日日新聞に発表されてしまったので昭和に変更したとの説もある(光文事件)
- ^ 1973年の記者会見より。会見記録は、高橋紘『陛下、お尋ね申し上げます』に詳しい
- ^ 『本庄繁日記』昭和11年(1936年)2月27日付。
- ^ 『木戸幸一日記』一月六日(土) 下巻 一一六四頁。一月三十日(火) 下巻 一一六七頁によれば、近衛が木戸に斡旋を求めている。上巻 三一頁の「解題」(岡義武による序文)によれば、木戸と宮内大臣の松平恒雄とが協議し、重臣が個々に拝謁することになった。
- ^ 『侍従長の回想』「天皇の終戦秘密工作」P.43-P.54。木戸が参内を制限していたため、近衛文麿が運動して重臣との会談を実現させたという説があるが、藤田はこれを信じていない。
- ^ 「時局ニ関スル重臣奉答録」『木戸幸一関係文書』 四九五頁-四九八頁
- ^ 『侍従長の回想』「陽の目を見た近衛上奏文」P.55-P.67
- ^ 議論は午前10時半からの最高戦争指導会議から2回の閣議、御前会議を経て全て終了したのが翌10日午前2時20分であった。会議により出席者は異なるが、最高戦争指導会議では受諾賛成が鈴木(首相)、東郷(外相)、米内(海相)、受諾反対が阿南(陸相)、梅津(参謀総長)、豊田(軍令部総長)であった。御前会議ではこれに平沼(枢密院議長)が加わる。鈴木が六閣僚に意見を聞くと、平沼が軍代表に質問した後に賛成に回り、3対3となった。このとき平沼も天皇に御聖断を求めている。2時間にわたる会議の末に鈴木が行動を起した。
- ^ 『大日本帝国の興亡』5巻 平和への道「七部 耐え難きを耐え 1 ポツダム宣言受諾」P.203-P.213(章題 ページ番号はハヤカワ文庫版)
- ^ 『侍従長の回想』会議の経過については「聖断下る」P.118-P.136。昭和天皇の発言は「異例、天皇の心境吐露」P.207-P.208からの引用。
- ^ a b シロニー(2003)、312頁。
- ^ Amino & Yamaguchi, `The Japanese Monarchy and Women', p.57.
- ^ Kanroji, Hirohito, p.108.
- ^ 甘露寺受長『天皇さま』日輪閣、一九六五年、207頁。
- ^ a b c シロニー(2003)、313頁。
- ^ シロニー(2003)、313-314頁。
- ^ たとえば毎日新聞社編『毎日新聞百年史』p214など。
- ^ 皇太子の外遊の初例は、明治40年(1907年)の嘉仁親王(後の大正天皇)による大韓帝国訪問である。この当時の大韓帝国は日韓協約により、事実上大日本帝国の保護国であったが、正式にはまだ併合前の「外国」であった。
- ^ 靖国神社公式サイト内神社年表、三浦朱門監修『靖国神社 正しく理解するために』(海竜社)など。
- ^ 当時はもちろん現在でも、日本では癌などの重篤な病名を告知するか否かが医療現場で問題となっている→インフォームド・コンセント等を参照
- ^ 崩御時の新聞号外にこれらの断り書きが記されている。毎日新聞ほか。
- ^ 1945年3月6日に皇太子へあてた手紙。橋本明『昭和抱擁』(日本教育新聞社、1998年)より。
- ^ 『昭和天皇』p.p.108-143
- ^ 『芦田均日記』第二巻・1947年7月18日、1947年7月22日
- ^ a b 日本記者クラブ「特記すべき記者会見」[1] の「天皇・皇后記者会見 1975年10月31日」。
- ^ 半藤一利・御厨貴・原武史『卜部日記・富田メモで読む 人間・昭和天皇』。
- ^ 「われらが遺言・五〇年目の二・二六事件」(『文藝春秋』1986年3月号)。
- ^ 2006年7月21日東京新聞朝刊、他に靖国神社内の遊就館にも展示がある
- ^ 「富田メモ抜粋」日本経済新聞2007年5月1日・同2日
- ^ 山澄中将の回想記 東京新聞 特集記事
- ^ 毎日新聞社『天皇とともに50年』
- ^ 山本武利「徳富蘇峰が『幻の日記』に記した敗戦の原因 - 右派ジャーナリズム最大のタブー「昭和天皇批判」が随所に - 」「現代」(40巻9号、2006年9月号、p248 - 254、講談社)参照。
- ^ 永積寅彦『昭和天皇と私』学習研究社、1992年
- ^ a b c d e 『陛下、お尋ね申し上げます —記者会見全記録と人間天皇の軌跡』高橋絃著、文春文庫
- ^ 『昭和天皇語録』講談社学術文庫 p332
- ^ (1989) Hirohito: The War Years. Bantam Dell Pub Group. ISBN 0553347950
- ^ (2003) Gold Warriors: America's Secret Recovery of Yamashita's Gold. Verso. ISBN 1859845428
著書
自身の著書
- 裕仁『日本産1新属1新種の記載をともなうカゴメウミヒドラ科Clathrozonidaeのヒドロ虫類の検討』(1967年、生物学御研究所)
- 裕仁『相模湾産ヒドロ虫類』(1988年、生物学御研究所)
- 宮内庁侍従職編『おほうなばら―昭和天皇御製集』(1990年、読売新聞社、ISBN 4643900954)
- 昭和天皇(山田真弓補足修正)『相模湾産ヒドロ虫類2』(1995年、生物学御研究所)
その他の著書
- 国立科学博物館『天皇陛下の生物学ご研究』(1988年、国立科学博物館)
- 田所泉『昭和天皇の短歌』(1997年、創樹社、ISBN 4794305222)
参考文献
史料・回想録
- 黒田勝弘・畑好秀編『昭和天皇語録』(講談社・講談社学術文庫、2004年、ISBN 978-4-06-159631-3)
- 藤田尚徳『侍従長の回想』(中央公論社・中公文庫、1987年,ISBN 4122014239)
- 寺崎英成・マリコ・テラサキ ミラー『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』(1991年、文藝春秋、ISBN 4163450505)
- 木戸幸一、木戸日記研究会校訂『木戸幸一日記』上巻 (東京大学出版会、1966年、ISBN 9784130300117)
- 木戸幸一、木戸日記研究会校訂『木戸幸一日記』下巻 (東京大学出版会、1966年、ISBN 9784130300124)
- 木戸日記研究会編『木戸幸一関係文書』 (東京大学出版会、1966年、ISBN 9784130300131)
- 渡辺誠「初公開 昭和天皇日々の献立」(『文藝春秋』2003年2月号)
側近の日記
研究書
- レナード・モズレー『天皇ヒロヒト(上・下)』(1966年、毎日新聞社。1983年、角川書店・角川文庫、ISBN 4043278020)
- 吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波書店・岩波新書、1992年、ISBN 4004302579)
- エドウィン・P・ホイト『世界史の中の昭和天皇 - 「ヒロヒト」のどこが偉大だったか』(1993年、クレスト社、ISBN 487712005X)
- 秦郁彦『昭和天皇五つの決断』(1994年、文藝春秋・文春文庫、ISBN 4-16-745302-9)
- 『裕仁天皇 五つの決断』 - ISBN 4062011271 の改題文庫化
- 内野 光子『短歌と天皇制』(2000年、風媒社、ISBN 4833120186)
- 出雲井晶編『昭和天皇』(2001年、扶桑社、ISBN 4531062825) - 多くの資料の勘所を集めたアンソロジー
- 秦郁彦「歪められた昭和天皇像」(『文藝春秋』2003年3月号)
- 加藤恭子『昭和天皇「謝罪詔勅草稿」の発見』(2003年、文藝春秋、ISBN 4163655301 )
- 加藤恭子・秦郁彦・吉田裕・高橋紘「大論争「昭和天皇 国民への謝罪詔書草稿」四つの謎」(『文藝春秋』2003年8月号)
- 井上清『井上清史論集4 天皇の戦争責任』(2004年、岩波書店・岩波現代文庫,ISBN 9784006001148)
- ピーター・ウエッツラー『昭和天皇と戦争―皇室の伝統と戦時下の政治・軍事戦略』(2002年、原書房、ISBN 4562035730)
- ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて--第二次大戦後の日本人(上・下)』(三浦陽一・高杉忠明・田代泰子訳、2001年・増補版2004年、岩波書店)
- ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎 (翻訳)、講談社、2003年01月。ISBN 978-4062116756。
- ハーバート・ビックス『昭和天皇』(2005年、講談社・講談社文庫、ISBN 4061597159)
- ジョン・トーランド『大日本帝国の興亡 5巻 平和への道』(毎日新聞社訳、1984年・原著1970年、早川書房・ハヤカワ文庫、ISBN 415050105X)
- 伊藤之雄『昭和天皇と立憲君主制の崩壊 - 睦仁・嘉仁から裕仁へ』(2005年、名古屋大学出版会、ISBN 4815805148)
- 原武史『昭和天皇』(岩波書店・岩波新書 新赤版 1111、2008年、ISBN 9784004311119)
外部リンク
- (昭和)天皇陛下崩御に関する件 (ウィキソース)
- 大行(昭和)天皇の陵所が定められた件 (ウィキソース)
- 大行(昭和)天皇の追号が定められた件 (ウィキソース)
- 系図でみる近現代 第41回 東本願寺・大谷家 久邇宮家 昭和天皇
- 昭和天皇の開戦と終戦の聖断
|
|
|
|
|||||||||||||||||


