鳥羽天皇

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鳥羽天皇
第74代天皇
鳥羽上皇画像(安楽寿院所蔵)
元号 嘉承
天仁
天永
永久
元永
保安
先代 堀河天皇
次代 崇徳天皇

誕生 1103年2月24日
崩御 1156年7月20日
陵所 安樂壽院陵
御名 宗仁
父親 堀河天皇
母親 藤原苡子
皇后 藤原泰子
藤原得子
中宮 藤原璋子
夫人 紀家子
三条局
春日局
土佐局
子女 顕仁親王(崇徳天皇
禧子内親王
通仁親王
君仁親王
統子内親王
雅仁親王(後白河天皇
覚性入道親王
叡子内親王
暲子内親王
体仁親王(近衛天皇
姝子内親王 他多数
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鳥羽天皇(とばてんのう、康和5年1月16日1103年2月24日) - 保元元年7月2日1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日1107年8月9日) - 保安4年正月28日1123年2月25日))。宗仁(むねひと)。

系譜[編集]

堀河天皇の皇子。母は贈皇太后藤原苡子。外祖父は藤原実季崇徳天皇近衛天皇後白河天皇は子。『古事談』の記述では崇徳天皇を白河天皇の実子としている。

系図[編集]

 
(71)後三条天皇
 
(72)白河天皇
 
(73)堀河天皇
 
(74)鳥羽天皇
 
(75)崇徳天皇
 
重仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
覚行法親王
 
 
最雲法親王
 
 
(77)後白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
実仁親王
 
 
覚法法親王
 
 
(76)近衛天皇
 
 
 
 
 
 
 
媞子内親王
(郁芳門院)
 
 
 
輔仁親王
 
(源)有仁
 
 
 
 
篤子内親王
 


略歴[編集]

生後間もなく母・苡子が没し、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育された。誕生から7ヶ月で立太子され、父・堀河天皇の死後、5歳で即位。政務は白河法皇が執った。永久5年(1117年)、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内、翌年に中宮とし5男2女を儲ける。保安4年(1123年)1月23日、長子・崇徳天皇に譲位、その後も実権は白河法皇が握り続けた。

白河法皇崩御の後、大治4年(1129年)より院政を敷く。白河法皇に疎んじられていた藤原忠実を呼び戻して娘の泰子(高陽院)を入内させるなど、院の要職を自己の側近で固める。さらに白河法皇の後ろ盾を失った中宮・璋子にかわり、藤原得子(美福門院)を寵愛して、所生の皇子・体仁親王(近衛天皇)を即位させた。崇徳、近衛、後白河の三代28年に亘り実権を掌握。康治元年(1142年)には東大寺戒壇院にて受戒し、法皇となった。

皇后・美福門院に動かされて崇徳上皇を疎んじ、鳥羽法皇の崩御の直後に保元の乱が勃発する原因を作った。

后妃・皇子女[編集]

諡号・追号・異名[編集]

鳥羽安楽寿院御所にて崩御し、遺諡によって、鳥羽院と追号された[1]。 明治以後、院号は廃止され、鳥羽天皇とされる。

在位中の元号[編集]

陵・霊廟[編集]

安樂壽院陵

(みささぎ)は、京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町にある安樂壽院陵(安楽寿院陵、あんらくじゅいんのみささぎ)に治定されている。公式形式は方形堂。

生前の保延5年(1139年)、鳥羽の安楽寿院境内に三重塔の寿陵を営み、崩御後、遺詔により遺骸をこの塔下に納めた。その後焼失と再建を繰り返したが、やがて所伝が混乱し、近衛天皇陵が鳥羽天皇陵と誤認される時代が元禄以後幕末まで続いた。元治元年(1864年)の修陵に際して修正され、現陵とされている。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

脚注[編集]

  1. ^ 兵範記保元元年(1156年)7月11日条裏書

関連項目[編集]