後一条天皇

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後一条天皇
第68代天皇
元号 長和
寛仁
治安
万寿
長元
先代 三条天皇
次代 後朱雀天皇

誕生 1008年10月12日
土御門殿
崩御 1036年5月15日
清涼殿
陵所 菩提樹院陵
御名 敦成
父親 一条天皇
母親 藤原彰子
中宮 藤原威子
子女 章子内親王
馨子内親王
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後一条天皇(ごいちじょうてんのう、正字体:後一條天皇、寛弘5年9月11日1008年10月12日) - 長元9年4月17日1036年5月15日))は、平安時代中期の第68代天皇(在位:長和5年2月7日1016年3月18日) - 長元9年4月17日(1036年5月15日))。敦成(あつひら)。

系図[編集]

 
(60)醍醐天皇
 
(61)朱雀天皇
 
 
広平親王
 
 
 
 
 
 
 
(62)村上天皇
 
 
(63)冷泉天皇
 
(65)花山天皇
 
 
 
 
 
 
 
兼明親王
 
 
致平親王
 
 
(67)三条天皇
 
敦明親王(小一条院)
 
 
 
 
 
 
 
(源)高明
 
 
為平親王
 
 
禎子内親王
(後三条母、陽明門院)
 
 
 
 
 
(64)円融天皇
 
(66)一条天皇
 
(68)後一条天皇
 
 
 
 
 
 
昭平親王
 
 
(69)後朱雀天皇
 
(70)後冷泉天皇
 
 
 
 
 
 
具平親王
 
(源)師房
村上源氏へ〕
 
 
(71)後三条天皇
 
 
 
 
 


略歴[編集]

一条天皇の第二皇子。母は藤原道長中宮彰子。その誕生の様子は「紫式部日記」に詳しく、道長にとって待望久しい外孫皇子出生はその後の一族の栄華の初花となる。

長和5年2月7日1016年3月24日)、8歳で即位したため、道長が摂政となり権勢を振るった。道長の娘で叔母にあたる威子を中宮とし、この時代には珍しく他の妃を持たなかったが、皇子女は内親王二人のみで世継ぎの皇子にはついに恵まれぬまま、29歳の若さで崩御した。『栄花物語』によると飲水と痩身の症状の記載があり、糖尿病によるものと考えられている。突然の崩御であったため、譲位の儀式が間に合わなかった(『左経記』)。『日本紀略』や『今鏡』では遺詔により、喪を秘して敦良親王への譲位の儀を行ったとされている[1]。この件により、在位中に天皇が崩御した場合でも、喪を秘して譲位の儀を行い、その後に上皇としての葬儀が行われるようになった[2]

后妃・皇子女[編集]

在位中の元号[編集]

陵・霊廟[編集]

後一條天皇陵、第一皇女章子内親王陵

(みささぎ)は、京都府京都市左京区吉田神楽岡町にある菩提樹院陵(ぼだいじゅいんのみささぎ)に治定されている。公式形式は円丘。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

脚注[編集]

  1. ^ 小学館・新編日本古典文学全集第33巻『栄花物語・下』p.264
  2. ^ 井原今朝男『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012年、p.168