孝昭天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
孝昭天皇
第5代天皇
在位期間
孝昭天皇元年1月9日 - 孝昭天皇83年8月5日
先代 懿徳天皇
次代 孝安天皇

誕生 懿徳天皇5年
崩御 孝昭天皇83年8月5日 113歳
陵所 掖上博多山上陵
異称 観松彦香殖稲天皇(紀)
御真津日子訶恵志泥命(記)
父親 懿徳天皇
母親 天豊津媛命(紀)
賦登麻和訶比売命(記)
皇后 世襲足媛尊
子女 天足彦国押人命
日本足彦国押人尊(孝安天皇
皇居 掖上池心宮(葛城掖上宮)

欠史八代の1人。
テンプレートを表示

孝昭天皇(こうしょうてんのう、懿徳天皇5年 - 孝昭天皇83年8月5日)は、日本の第5代天皇(在位:孝昭天皇元年1月9日 - 孝昭天皇83年8月5日)。

和風諡号は、『日本書紀』では「観松彦香殖稲天皇(みまつひこかえしねのすめらみこと)」、『古事記』では「御真津日子訶恵志泥命」。

『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述はなく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。

名称[編集]

漢風諡号である「孝昭」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる[1]

和風諡号である「みまつひこ-かえしね」のうち、「みまつひこ」は後世に付加された美称、末尾の「ね」は神名の末尾に付く「ね」と同義と見られる[2]。このことから、孝昭天皇の原像は「かえしね(香殖稲/訶恵志泥)」という名の古い神であって、これが天皇に作り変えられたと推測されている[2]

系譜[編集]

(名称は『日本書紀』を第一とし、括弧内に『古事記』ほかを記載)

父は第4代懿徳天皇。母の記載は記紀で異なり、『日本書紀』では息石耳命の娘の天豊津媛命(あまとよつひめのみこと)、『古事記』では師木県主の祖の賦登麻和訶比売命(ふとまわかひめ)とする。

兄弟として、同母弟に武石彦奇友背命(多芸志比古命)がいる。

妻子は次の通り。

  • 皇后:世襲足媛尊(よそたらしひめのみこと、余曽多本毘売命)
    『日本書紀』本文・『古事記』による。尾張連祖の瀛津世襲(奥津余曽)の妹。
    ただし、同書第1の一書では磯城県主葉江の娘の渟名城津媛、第2の一書では倭国豊秋狭太媛の女の大井媛とする[2]
    • 第一皇子:天足彦国押人命 (あめたらしひこくにおしひとのみこと、天押帯日子命) - 和珥臣春日氏小野氏等諸氏族の祖。
    • 第二皇子:日本足彦国押人尊 (やまとたらしひこくにおしひとのみこと、大倭帯日子国押人命) - 第6代孝安天皇


事績[編集]

日本書紀』『古事記』とも事績に関する記載はない。

『日本書紀』によると、懿徳天皇22年2月12日に立太子。懿徳天皇34年9月8日の父天皇の崩御を受け、崩御の翌年(孝昭天皇元年)1月9日に即位。そして孝昭天皇元年7月に宮を掖上池心宮に遷した。

その後、孝昭天皇83年8月5日に在位83年にして崩御した。時に『日本書紀』では113歳、『古事記』では93歳という[2]。孝安天皇38年8月14日、遺骸は「掖上博多山上陵」に葬られた。

[編集]

宮(皇居)の名称は、『日本書紀』では掖上池心宮(わきのかみのいけごころのみや)、『古事記』では葛城掖上宮[3]

宮の伝説地は、現在の奈良県御所市池之内周辺と伝承される[3][2]。同地には「掖上池心宮阯」碑が建てられている(位置[4]。この説は、『日本書紀』推古天皇21年(613年)11月条に造られた「掖上池」の所在地を付近に想定したことによる[3]。実際に掖上池が「掖上池心宮」の宮名の由来であったとすれば、宮の語り出しが推古朝の造池以後になると指摘される[3]

陵・霊廟[編集]

(みささぎ)は、奈良県御所市大字三室にある掖上博多山上陵(わきのかみのはかたのやまのえのみささぎ、位置)に治定されている[5][6][7]。公式形式は山形。俗称「博多山」(山形墳)。

陵について『日本書紀』では前述のように「掖上博多山上陵」、『古事記』では「掖上博多山上」の所在とあるほか、『延喜式』諸陵寮では「掖上博多山上陵」として兆域は東西6町・南北6町、守戸5烟で遠陵としている[7]。しかし後世に所伝は失われ、元禄の探陵で現陵に治定された[7]

また皇居では、宮中三殿の1つの皇霊殿において他の歴代天皇・皇族とともに孝昭天皇の霊が祀られている。

在位年と西暦との対照[編集]

孝昭天皇の在位年について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

考証[編集]

孝昭天皇を含む綏靖天皇(第2代)から開化天皇(第9代)までの8代の天皇は、『日本書紀』『古事記』に事績の記載が極めて少ないため「欠史八代」と称される。これらの天皇は、治世の長さが不自然であること、7世紀以後に一般的になるはずの父子間の直系相続であること、宮・陵の所在地が前期古墳の分布と一致しないこと等から、極めて創作性が強いとされる。一方で宮号に関する原典の存在、年数の嵩上げに天皇代数の尊重が見られること、磯城県主や十市県主との関わりが系譜に見られること等から、全てを虚構とすることには否定する見解もある[8](詳細は「欠史八代」を参照)。

脚注[編集]

[ヘルプ]
  1. ^ 上田正昭 「諡」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。
  2. ^ a b c d e 孝昭天皇(古代氏族) 2010年.
  3. ^ a b c d 掖上池心宮(国史).
  4. ^ 掖上池心宮(陵墓探訪記<個人サイト>)。
  5. ^ 天皇陵(宮内庁)。
  6. ^ 宮内省諸陵寮編『陵墓要覧』(1934年、近代デジタルライブラリーより)8コマ。
  7. ^ a b c 掖上博多山上陵(国史).
  8. ^ 上田正昭 「欠史八代」『日本古代史大辞典』 大和書房、2006年。

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]