成務天皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内検索
成務天皇
第13代天皇
在位期間
成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日
先代 景行天皇
次代 仲哀天皇

陵所 狭城盾列池後陵
異称 稚足彦尊
若帯日子天皇
父親 景行天皇
母親 八坂入媛命
子女 和謌奴気王
皇居 志賀高穴穂宮
テンプレートを表示

成務天皇(せいむてんのう、景行天皇14年 - 成務天皇60年6月11日)は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代天皇(在位:成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)。和風諡号稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらのみこと、古事記)。

「タラシヒコ」という称号は12代景行・13代成務・14代仲哀の3天皇が持ち、ずっと下がって7世紀前半に在位したことの確実な34代舒明・35代皇極(37代斉明)の両天皇も同じ称号を持つことから、タラシヒコの称号は7世紀前半のものであって、12代、13代、14代の称号は後世の造作ということになり、成務天皇の実在性には疑問が出されている。

『記・紀』に載せる成務天皇の旧辞部分の記事は、他の天皇のそれに比して極端に文量が少なく、史実性には疑いが持たれているものの、実在を仮定すればその年代は4世紀半ばに当たると考えられている。

系譜[編集]

天皇系図 8~15代

父は景行天皇、母は八坂入媛命(やさかのいりびめのみこと)。

  • 妃:弟財郎女(おとたからのいらつめ。穂積臣の祖・建忍山垂根の女)
  • 妃:吉備郎姫(きびのいらつめ。稚倭根子皇子の女。天皇の姪)

皇居[編集]

都は志賀高穴穂宮(しがのたかあなほのみや、現在の滋賀県大津市穴太)。 『古事記』に「若帯日子天皇、近つ淡海の志賀の高穴穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき」とある。成務天皇を架空と見る立場からは、天智天皇近江宮のモデルを過去に投影した創作とする。

事績[編集]

景行天皇51年8月4日に立太子、成務天皇元年正月に即位。3年に武内宿禰大臣とした。5年9月、諸国に令して、行政区画として国 郡(くにこおり)・県邑(あがたむら)を定め、それぞれに造長(くにのみやつこ)・稲置(いなぎ)等を任命して、山河を隔にして国県を分かち、阡陌(南北東西の道)に随って邑里(むら)を定め、地方行政機構の整備を図った。ここにおいて、人民は安住し、天下太平であったという。これらは『古事記』にも大同小異で、「建内宿禰を大臣として、大国・小国の国造を定めたまひ、また国々の堺、また大県小県の県主を定めたまひき」とあり、『先代旧事本紀』の「国造本紀」に載せる国造の半数がその設置時期を成務朝と伝えていることも注目される。48年3月1日に甥の足仲彦尊(後の仲哀天皇)を皇太子に立て、60年6月に崩御、107歳。『古事記』に95歳という。

陵・霊廟[編集]

(みささぎ)は、奈良県奈良市山陵町にある狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は佐紀石塚山古墳前方後円墳、全長218m)。

古事記』には「沙紀之多他那美(たたなみ)」、『日本書紀』には「狭城盾列陵」、『扶桑略記』には「池後山陵」、『百練抄』には「盾列山陵」とある。『延喜式諸陵寮には「兆域東西一町、南北三町、守戸五烟」と見える。

『扶桑略記』によれば、康平6年(1063年)3月興福寺の僧静範らが山陵を発掘して宝器を領得し、5月山陵使が遣わされて宝器は返納され、事件に座した17人は伊豆国その他に配流された。他にも勾玉などが盗掘される被害を受けている。

平安初期の承和のころには、すでに神功皇后陵とされていた。これは陵号のうち後の文字をシリと読むことを忌み、カミといって、神功皇后陵陵号とまぎれたものかという(和田英松)。のちに陵の所在を失ったが、元禄以後、多くの説が成務陵に現在の地を推し、幕末の修陵のときおおいに修治が加えられ、竣工に際しては慶応元年、広橋右衛門督が遣わされ、奉幣が行なわれた。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

在位年と西暦との対照[編集]

当天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]