崇神天皇

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崇神天皇
第10代天皇
『大日本帝紀要略』(1894年)
在位期間
崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日
先代 開化天皇
次代 垂仁天皇

陵所 山邊道勾岡上陵
異称 御間城入彦五十瓊殖天皇・御肇國天皇・御眞木入日子印恵命・所知初國御眞木天皇・美萬貴天皇
父親 開化天皇
母親 伊香色謎命
皇后 御間城姫
子女 垂仁天皇彦五十狭茅命国方姫命千千衝倭姫命倭彦命五十日鶴彦命豊城入彦命豊鍬入姫命大入杵命八坂入彦命渟名城入媛命十市瓊入媛命
皇居 磯城瑞籬宮
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崇神天皇(すじんてんのう/すうじんてんのう、開化天皇10年 - 崇神天皇68年12月5日)は、『古事記』『日本書紀』に記される第10代天皇(在位:崇神天皇元年1月13日 - 同68年12月5日)。和風諡号は『紀』では御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)。また、御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられる。『記』では御真木入日子印恵命(みまきいりひこいにえ)である。現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。

人物[編集]

記紀に伝えられる事績の史実性、欠史八代に繋がる系譜記事等には疑問もあるが、3世紀から4世紀初めにかけて実在した大王と捉える見方が少なくない。『古事記』は崇神天皇の没年を干支により戊寅年と記載しているので(崩年干支または没年干支という)、これを信用して318年(または258年)没と推測する説も中には見られる。258年没説を採った場合、崇神天皇の治世は、中国の文献に記載されている邪馬台国の時代の後半と重なることになる。

日本史研究の立場からは崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとする説が有力である。このように崇神天皇を大和朝廷の礎を築いた存在とした場合、邪馬台国と崇神天皇のかかわりをどう考えるかが問題になってくる。邪馬台国畿内説からは、邪馬台国と大和朝廷は同一であるという認識のもと、水野正好による「崇神天皇は卑弥呼の後継の女王であった台与摂政だった」という説、西川寿勝の「崇神天皇は『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の男弟だった」という説などが提唱されている。邪馬台国九州説からは、「北九州にあった邪馬台国は大和朝廷とは別個の国であって、この邪馬台国を滅ぼしたのが大和地方を統一した崇神天皇である」とする田中卓武光誠などの説などが存在している。

『日本書紀』の記述では、神武天皇が畿内で即位後しばらくは畿内周辺の狭い領域の記述しか出てこないが、崇神天皇の代になって初めて日本の広範囲の出来事の記述が出てくる(崇神天皇による四道将軍の派遣派兵など)ことから、崇神天皇が初代天皇ではなく欠史八代が史実を反映していると見る立場から、神武天皇から開化天皇までは畿内の地方政権の域を出ず、崇神天皇の代になって初めて日本全国規模の政権になったのではと考える説もある。また、欠史八代の葛城王朝から崇神天皇に始まる三輪王朝への王朝交替説もある。いずれの説も崇神天皇を実在の人物としている点では共通している。

諡号・追号・異名[編集]

  • 御眞木入日子印恵命(みまきいりひこいにえのみこと) - 『古事記』
  • 所知初國御眞木天皇(はつくにしらししみまきのすめらみこと) - 『古事記』 
  • 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと) - 『日本書紀』
  • 御肇國天皇(はつくにしらすすめらみこと) - 『日本書紀』
  • 美萬貴天皇(みまきのすめらみこと) - 『常陸国風土記

ハツクニシラススメラミコトとの称は、神武天皇(『日本書紀』では始馭天下之天皇:はつくにしらすすめらみこと)にも贈られており、初めて天下を治めた天皇という意味であるが、初めて国を治める天皇がふたり存在することになる。

これについては、神武天皇の称号にみえる「天下」という抽象的な語は、崇神の称号にみえるという具体的な語より上位の観念であり、また、後に出来た新しい観念でもあるので、神武天皇は崇神天皇より後に「帝紀」「旧辞」の編者らによって創られたと考えられる。それ故に国(大和)を初めて治められたのは崇神天皇であると考えられる。『常陸風土記』にも「初國所知美麻貴天皇」とある。

崇神天皇の和風諡号は「ミマキイリヒコ」、次の垂仁天皇の和風諡号は「イクメイリヒコ」で、共にイリヒコが共通している。イリヒコ・イリヒメは当時の大王・王族名に現れる特定呼称である。「イリ」が後世の創作とは考えにくいことから、これらの大王・王族は実在の可能性が高まり、崇神天皇を始祖とする「イリ王朝」「三輪王朝」説なども提唱されている。 江上波夫は、この「ミマキイリヒコ」の「ミマキ」は、朝鮮半島最南部の任那(ミマナ)の「城」(シロ=キ)、すなわち「任那の城の王」を意味するとし、崇神天皇を、朝鮮半島を経て大陸から移動し日本列島を征服した騎馬民族の王だとした(騎馬民族征服王朝説)しかし「ミマ」「ミマナ」は古代日本語で「高貴な人」を意味する言葉でもあり、「ミマキ」と任那を結びつける実証性はきわめてとぼしい。現在では崇神天皇を大陸由来の人物とする江上説を信奉する人間はきわめて限られている。

崇神・垂仁の二帝の名は和風諡号ではなく実名()をそのまま記紀に記載した、とする説も存在しており、「イリ王朝」が古代日本史に於いて、如何に特殊かつ重要な存在であったかを伺わせる。

系譜[編集]

天皇系図 8~15代

開化天皇の第二子。母は伊香色謎命(いかがしこめのみこと)。異父兄に彦太忍信命磐之媛の祖)。異母弟に彦坐王神功皇后の祖)。

  • 皇后:御間城姫(みまきひめ、御真津比売命) - 大彦命孝元天皇の皇子)女
    • 皇子:活目入彦五十狭茅尊(いくめいりびこいさちのみこと、垂仁天皇
    • 皇子:彦五十狭茅命(ひこいさちのみこと) - 記の伊邪能真若命(いざのまわかのみこと)に当たるか
    • 皇女:国方姫命(くにかたひめのみこと)
    • 皇女:千千衝倭姫命(ちちつくやまとひめのみこと)
    • 皇子:倭彦命(やまとひこのみこと)
    • 皇子:五十日鶴彦命(いかつるひこのみこと) - 記には伊賀比売命(いかひめのみこと)で女性
  • 妃:遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまぐわしひめ) - 紀伊国荒河戸畔女
  • 妃:尾張大海媛(おわりのおおあまひめ、意富阿麻比売・葛木高名姫命) - 建宇那比命女(『先代旧事本紀』天孫本紀)


皇居[編集]

都は磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや、奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社が伝承地)。『古事記』には、「師木の水垣宮(みづかきのみや)に坐しまして、天の下治めらしめしき」とある。

略歴[編集]

年代は『日本書紀』の編年に従って便宜を図った。

開化天皇10年に産まれ、28年1月5日に立太子、60年4月9日の開化天皇崩御に伴い翌年即位

崇神天皇3年9月、三輪山西麓の瑞籬宮(みずかきのみや)に遷都。

崇神天皇5年、疫病が流行り、多くの人民が死に絶えた。

崇神天皇6年、疫病を鎮めるべく、従来宮中に祀られていた天照大神倭大国魂神(大和大国魂神)を皇居の外に移した。

天照大神を豊鍬入姫命に託し、笠縫邑(現在の檜原神社)に祀らせ、その後各地を移動したが、垂仁天皇25年に現在の伊勢神宮内宮に御鎮座した。(詳細記事:元伊勢)倭大国魂神を渟名城入媛命に託し、長岡岬[1]に祀らせたが(現在の大和神社の初め)、媛は身体が痩せ細って祀ることが出来なかった。

崇神天皇7年2月、大物主神倭迹迹日百襲姫命に乗り移り託宣する。11月、大田田根子(大物主神の子とも子孫ともいう)を大物主神を祭る神主とし(これは現在の大神神社に相当し、三輪山を御神体としている)、市磯長尾市(いちしのながおち)を倭大国魂神を祭る神主としたところ、疫病は終息し、五穀豊穣となる。

崇神天皇10年9月、大彦命北陸道に、武渟川別東海道に、吉備津彦西道に、丹波道主命丹波山陰道)に将軍として遣わし、従わないものを討伐させた(四道将軍)。しかし、大彦命だけは異変を察知して和珥坂(わにのさか、奈良県天理市)から引き返し、倭迹迹日百襲姫命の予言から武埴安彦(たけはにやすびこ、孝元天皇の皇子)の叛意を知ることとなる。武埴安彦は山背から、その妻吾田媛は大坂からともに都を襲撃しようとしたが、天皇は五十狭芹彦命(吉備津彦命)の軍を遣わして吾田媛勢を迎え討ち、一方の安彦勢には、大彦命と彦国葺(ひこくにぶく、和珥氏の祖)を差し向かわせ、これを打ち破った。10月、畿内は平穏となり、四道将軍が再び出発。

崇神天皇11年4月、四道将軍が地方の賊軍を平定させて帰参、その様を奏上した。

崇神天皇12年9月、戸口を調査し、課役を科す。天下平穏となり、天皇は御肇国天皇と褒め称えられる。

崇神天皇48年1月、豊城命(豊城入彦命)と活目命(垂仁天皇)を呼び、どちらを皇太子にするかについて熟慮決断した。4月、弟の活目命を皇太子とし、豊城命に東国を治めさせた。

崇神天皇60年7月、飯入根(いいいりね)が出雲の神宝を献上。兄の出雲振根が飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺される。

崇神天皇65年7月、任那国が蘇那曷叱知(そなかしち)を遣わして朝貢した。

崇神天皇68年12月、120歳で崩御(『古事記』は、戊寅年12月崩御、168歳とする)。

『古事記』には、天下を統一して、平和で人民が豊かで幸せに暮らすことが出来るようになり、その御世を称えて初めて国を治めた御真木天皇「所知初国之御真木天皇」と謂う、とある。また、依網池(よさみのいけ、大阪市住吉区)や軽(奈良県高市郡)の酒折(さかをり)池などの池溝を開いて、大いに農業の便を図ったと伝えられる。

陵・霊廟[編集]

(みささぎ)は、奈良県天理市柳本町にある山邊道勾岡上陵(山辺道勾岡上陵、やまのべのみちのまがりのおかのえのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は柳本行燈山古墳(前方後円墳、全長242m)。

『古事記』に「山邊道勾(まがり)之岡上」。

なお、それより少し前に造られた西殿塚古墳(前方後円墳、全長220m)を、その真陵とする考え方もある。また、江戸時代には渋谷向山古墳が陵墓とされていた。行燈山古墳は、形状が帆立貝形古墳(初期の前方後円墳。前方部が小さく造られている)のようになっているが、これは江戸時代の改修工事によるものとも言われている。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

在位年と西暦との対照[編集]

当天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

脚注[編集]

  1. ^ 垂仁紀に「穴磯邑の大市長岡岬に祀った」とある。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]